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おひさまは今夜も空を飛ぶ(5)

いろいろ大変だったけど



 払暁の時刻まで、あとわずか。

 八重洲の廃ビル街へ向け、警察や消防の緊急車両が群を成して疾駆していく。自動車の爆発や地震による出動だ。その無数の赤色灯とサイレンを横目に、綾のワーゲンがすれ違い、事件現場から去っていく。

 向かった先は、桜田門前の警視庁。
 綾のワーゲンは、その正面玄関が見える交差点の手前で停車する。

「さ、着いたわ。小さな車だから窮屈だったと思うけれど、ご免なさいね」

 言いつつ車を降りた綾に、助手席に座っていた松永泰紀が続く。彼は元々、須賀の復讐を終えたら自首するつもりだったのだ。
 そして、後部座席にいたみつきと瑤子も車を降りる。

 ここで、瑤子が持っていた携帯電話が鳴った。

「恵さんからメールです。今はタクシーで、もうすぐここに着くそうです」
「そう、じゃあ、少し待ちましょうか」

 綾はふいに、松永の方を向いて。

「顔には出ていないけれど、怯えているみたいね」

 松永は驚いた顔を見せた。
 けれど、否定はしない。

「えーと、ひょっとして私ですか? 結構無茶なことしたし、仕方ないんだけど……」

 みつきが苦笑するが、松永は慌てて首を振る。

「い、いや、さっきはともかく、今は全然……。あ、そうだ、怪我の具合は……」
「へーきです、足も額もツバつけといたし。すぐ治りますよ。あははは」
「良かった……。ごめんな、本当に」

 微笑みすら見せた松永に、綾が小首を傾げる。

「なら、何が怖いの? 犯した罪のことかしら」
「それは、覚悟はしてる。どんなに重い罪に問われても仕方がない。ちゃんと、償うよ」
「そう……。なら、他に何が?」

 松永は、綾から顔を背ける。

「……自首して、終わるのかな」

 松永の怯えが、初めて声に出た。

「俺はずっと、須賀を……殺す、つもりで」
「ええ、よく知っているわ」
「だから、邪魔されるとしたら、須賀の仲間か、警察くらいだと思ってた。でも、君らのような、俺より凄い力のある相手が出てくるなんて……」
「ああ、そんなこと」

 綾は苦笑し、腕を組む。

「心配しないで、私たちレベルの能力者が自然な状態で目覚める確率を考えたら、こんなことは生涯一度、今夜限りよ。保証してもいいわ。……ねえ、みつき?」

 急に話を振られたみつきは、頭を掻きながら照れ笑いを浮かべるだけだ。

「だいたい、君らは何で、俺を助けてくれたんだ」
「あ、それはね、根がお節介なだけ。たまたま恵さんと会って、こりゃ何とかしなきゃって。ほんとに」

 みつきが笑い飛ばすも、松永は納得できずに問い詰めようとしたのだが、それより早く綾が口を開く。

「とにかく、あなたの心配は杞憂だから。犯した罪を償うことだけ考えて、他のことは忘れていいのよ」
「無理だよ、できない」

 松永は血を吐くように言う。

「こんな……得体の知れない力を抱えてさ。街の中を猛獣が歩いてるのと同じだよ。ひょっとしたら、憎くもない誰かを傷つけることだって……」

 松永は真剣だった。これが不安の元なのだろう。
 だが、綾は小さく鼻で笑う。

「あえて、いまさら、と言わせてもらうわ。もっと早くに気付くべきだったのよ。恵さんの仇を討とうとする前に。力を振るうことに溺れる前に。……善意であなたを止めようとした女の子に、剥き出しの殺意を叩き付ける前に」
「…………」
「まあ、いいわ。そこまで反省しているのなら、おまじないをかけてあげる」

 綾は、松永の額に指を添える。

「今から、この指があなたの頭の中に入っていって、脳を掻き回すような嫌悪感に襲われることになるわ。でも、我慢して、受け入れて。あなたに拒絶されると、私は自分の精神に傷を残しかねないの」
「……? ごめん、意味が……」
「あなたさえ協力してくれれば大丈夫よ。これでも私はそういう作業が専門だから。すぐに終わるわ、何も怖くないから。目を閉じて、力を抜いて」
「…………」

 松永は、綾の言う通りにした。
 そして、少しの間があって。

「さ、これでいいわ。試しに、これを指で取り上げて潰してみてくれる? 安物だから気にしないで、思いっきりやっていいから」

 綾は、つけていたピアスを外して掌に載せ、松永の眼前へと持っていった。

「ああ、いいけど……っ? あ、あれ……」

 ピアスにありったけの力を込めてみたが、指先が痛むだけだ。サイコキネシスなど欠片ほども出てこない。

「成功ね。あなたの力は完全に封じられたはずよ」
「本当に? あ、有り難う……」
「ただし、数ヶ月から一年ほどね」
「たった数ヶ月?」

 狼狽する松永に、綾が微笑む。

「考えてみて。仮にあなたが事故に遭って、数ヶ月寝たきりだとして、その間一度も使われなかった足、どうなっていると思う?」
「……立つこともできないだろうけど」
「こういう力も同じなのよ。生身の人間が持つ機能の一つなのだから。衰えた力は眠りについて、使いたくても使えないようになるわ。……今度みたいな事件がまた起きて、あなた自身が心底力を欲するようになれば、話は変わってくるけれど」

 松永は、しばらく黙り込んでから、

「……起きるもんか。起こさせるもんか。絶対に、もう二度と」

 綾は、呟く松永に頷いて。

「この世にはね、潜在的な超能力者って結構多いの。でも、強力な能力者であるほど世に出てこないと言われているわ。何故だと思う? ……そう、怖いから。自分が普通の人間でなくなったことに恐怖して、力を遠ざけ、衰えて、普通の人に戻ってしまう。この過程を無意識のうちに通り過ぎる人が一番多いそうよ。あなたも元々はそうだったのかも」
「そう……なのか」
「あなたは、自分が思っているほど特別な人間ではないの。安心して」

 これを聞いた松永が、わずかに眉を顰める。

「君らは……? 普通の人間に、戻らないのか?」
「私たちは無理なの。力を使い始めたのは昨日今日のことではないし、他にもいろいろ事情があるから」
「…………」
「あ、来たみたいよ、恵さん」

 綾が指差す。タクシーを降りた松永恵は、まっすぐに松永泰紀の方へ走り寄ってきた。
 手を伸ばせば届く距離で、二人が見つめ合う。

「恵……」

 松永が名を呼ぶと、恵は無言のまま彼の頬を平手で思い切り引っ叩いた。
 ぱあん、というその音に、見ていたみつきと瑤子の方が、

「ひえっ?!」
「あ痛っ!」

 と、声を上げる。
 けれど、平手打ちを受けた松永は、無言のまま立ち尽くしていた。

「何か言ってよ……」
「……ごめん」
「……馬鹿」
「…………」
「馬鹿っ……」

 恵の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

「ごめんな、恵……」

 松永は、その恵を抱きしめ、頭を優しく撫でた。

「……良かった」

 みつきが、心底嬉しそうに微笑んで。

「んじゃあ、もう私たちは必要ないかな。あとは恵さんと二人で行けますよね、警察」
「あ……本当に、色々と有り難う……」

 みつきに言った松永が、急にはっとなる。

「そうだ、うっかりしてた。君の名前は?」
「へっ? 私?」
「いや、君には感謝してるんだ、本当に。でも、恩人の名前も知らないなんてどうかと思うし。良かったら、他の人も教えてくれないかな」

 これに、みつきの側にいた瑤子が、

「あれ、センパイ。予備校で松永さんとお知り合いじゃなかったんですか?」

 不思議そうな顔をして言ってくる。
 みつきは表情と目で、

「い、いらないこと言わないの!」

 と、言ったのだが、瑤子は小首を傾げただけだ。

「予備校? あ、そう言えば雑居ビルの屋上でも……そうかっ、何で今まで気付かなかったんだ! たしか、少し変わった感じの名字で……」

 頭を掻く松永に、瑤子が助け船を出す。

「ええとですね、センパイの名前は……」

 これに慌てたみつきは、とっさに瑤子の小さな身体を抱き寄せ、口元をがっちりと手で塞ぐ。

「……ふ、ふがふ、ふがふが」
「いやいや、私、雑居ビルとか言われても全然知らないし。別の人じゃないですか?」

 芝居がかった口調でみつきが言うと。

「いや、そんなことないと思うけど……」 

 松永はみつきの顔を凝視し、頭を掻きつつ考える。

「……いや、違うのかな。あのビルの屋上、結構暗かったし……いや、でも……」
「っていうか、せっかくだから、私たちのことは綺麗さっぱり忘れてくれませんか? うん、最初から最後まで赤の他人ってことで。その方が簡単だし」
「ふ、ふふふふがふがふがふがふふ!!」

 みつきの真意が理解できない瑤子は「な、何言ってるんですかセンパイっ!!」と抗議をしたのだが。

「確かに、その方がいいでしょうね」

 綾が、みつきの言葉をあっさり肯定する。

「あなたはあくまで恵さんの説得を受けて自首したの。嘘が通用する間だけで構わないわ。お願い」
「……わかった、そうするよ。それが君らへの恩の返し方かもしれないしな」

 松永が、頷いた。

「ふが……」

 もう、瑤子も了承するしかない。
 みつきは、瑤子の戒めを解く。

「じゃあ、そういうことで。いろいろ大変だと思うけど、二人とも頑張って。どうかお幸せにね」

 みつきに手を振られ、泣きやまない恵の肩を抱いた松永が歩き始めた。
 その二人の後姿が小さくなるまで、見送って。

「……さ、私たちも帰りましょうか」

 綾が運転席のドアを開ける。

「ごめん、綾。ちょっと疲れちゃって。悪いけど、先に帰ってもいいかな。明日も予備校だし、ちょっとでも早く寝ておきたいんだけど……」

 みつきが急に言ってきた。

「いいわよ、好きになさいな。お疲れ様」
「ごめんね。……それじゃあ、瑤子もまたね」

 みつきは、近くにあった地下鉄の駅――東京メトロ桜田門駅に向かっていった。始発を待つ気なのかと思いきや、地下へ降りていく階段で一旦身を隠し、充分に力を溜めてから一気に夜空へと飛び上がる。瞬きほどの間にみつきの姿は小さな点になり、闇に紛れて見えなくなった。

「……タフですよね、センパイ」
「理論的には人類最強ですからね」

 笑いながら綾は車に乗り込み、瑤子も助手席へ腰を下ろす。




 綾が、瑤子を送り届けるその車中。
 それなりに疲れた二人は互いに黙ったまま、しばらくはラジオのFM放送に耳を傾けていたのだが。

「綾さん。一つ、訊いてもいいですか」

 瑤子が、躊躇いがちに口を開く。

「なあに?」
「松永さんですけど……ひなたセンパイの記憶を消しちゃったんですか?」
「まさか。念動力のきっかけになる精神集中を妨げるような軽い暗示をかけただけよ。記憶を操作するなんて、あんなお手軽にできるものじゃないわ」
「じゃあ何で、松永さんはひなたセンパイのことを憶えてなかったんですか?」
「そんなの、いつものことよ。みつきは印象の薄い子ですからね、特に男の人には」
「それは、そうですけど……。でも、それって変じゃないですか。絶対に変ですよ」

 瑤子が、綾の方に身を乗り出してくる。

「あたし、ひなたセンパイってすごく素敵な人だと思います。お世辞抜きで。みつきセンパイくらい綺麗で整った顔のひとってそんなに居ないですよ。その上、表情も豊かって言うか、華があるって言うか……。スタイルにだって全然欠点ないし」
「ああ、そういうこと」

 綾は平然としている。解りきったことをわざわざ言わなくても、という風に。
 が、瑤子は、その綾の態度に気付かない。

「見た目のことだけじゃないです。すごく優しいし……あたし、センパイみたいになれたらってずっと思ってます。女のあたしでもそうなのに、男の人がセンパイのことを気に留めないはずがないと思うんです。むしろ、近寄りがたい綾さんより……」
「近寄りがたい、ね」

 素直な物言いに、綾が苦笑する。

「あ、す、すみません……」
「いいのよ。あなたに悪意がないのは解っているから。ええ、みつきは掛け値なしで素敵な子よ。本当に。嫉妬するくらいに……」
「えっ?」
「ごめんなさい。羨ましいの間違い。そうね、みつきが目立たない理由、いくつか想像はつくけれど」
「何ですか?」
「……いえ、勝手な推測はやめておくわ。でも、昔からよく言うわよ。本当にいい女ほど男には縁がないとか嫁き遅れるとか」
「縁ってそんな、ただ運と巡り合わせの問題なんですか?」
「人間関係って、最後は結局、運と縁のあるなしでしかないものよ」
「納得いかないです……」
「なら、見方を変えてましょうか。美人のタイプもいろいろあるのだから、派手か地味かで言えば、みつきは間違いなく地味な方になるでしょう?」
「まあ……そうですけど」
「みつきはいい子よ。でも、他人がそう気付くまで時間がかかるタイプなのよ。きっと」
「納得できるような、できないような……」

 瑤子は、シートの背もたれに身体を預け、顔を俯かせる。考え込んでいる風だった。

「仮に、センパイが男の人と縁が薄いだけだとして、今度のことって大切な縁にならないんですか?」
「はい?」
「センパイが素敵な人だってわかるまで時間がかかるとして、それまで何か手伝えないんでしょうか」
「……ごめんなさい、あなたが何を言っているのか、今一つわかりかねるのだけれど」
「あたし、男の人はよくわからないけど、でも、ひなたセンパイとお似合いだと思うんです。きっと」
「みつきとお似合い? 誰が?」
「もちろん、松永さんですよ」
「…………」
「センパイの力のことだって理解してくれると思うし、妹さん思いのすごく優しい人だと思うし。二人が嫌でなければ、改めて話ができる機会を作って……」

 瑤子の言葉を聞く途中で、綾はさも可笑しそうにクスクスと笑い始めた。

「何が可笑しいんですか?」
「ごめんなさい、つい……。瑤子はそんなに、みつきに彼氏が出来た方がいいの?」
「当たり前ですっ! センパイの幸せを願って何が悪いんですかっ!」
「ちっとも悪くないわ」

 綾は苦笑して、

「でもね、あの二人が付き合うなんてまず有り得ないわ。みつきにだって、彼女がいるひとを無理にでも奪うような趣味はないでしょうし」
「……?」
「名字が同じだからって、あの二人が肉親とは限らないのよ。赤の他人を〟お兄ちゃん〝と呼ぶことだってあるのだし」
「へっ……? あ……え? ええっ?!」
「あの二人が実の兄妹だとして、本当にそれだけだったとしたら、恵さんの心配は度が過ぎているわ。それに、松永さんもあれほど怒り狂ったかしらね。あの二人は親戚筋なの、多分ね。家族公認で子供の頃から温めてきた純愛だったんでしょう。それを、親友だと思っていた最低男に踏みにじられたのだから、怒りで我を見失うのも道理よね」
「そ、そんな……。じゃあ、ひなたセンパイはずっと知らないままで……」
「みつきは知ってたわよ、とっくの昔に」
「えっ……?」
「もしかしたら、怪我をした松永さんと最初に出会った時から、薄々勘付いていたのかも。そうでなければ、きっと……」
「?」
「……いえ、何でもないわ」

 綾は、溜め息をひとつ。

「あら、ハンドルにガタが出ているのね。ブレーキの利きも怪しいし……。ショップに行って見て貰わないとまずいかしら」

 意図的に、話題を変えた。




 その頃、みつきは──。
 まだ、家に帰っていない。
 東京上空、高度にして約六百メートル。街の灯をぼんやりと眺めながらふわふわと漂い続けていた。

「ほんと、派手にやりすぎちゃったなぁ……」

 眼下には、松永と一悶着を繰り広げた八重洲の廃ビル街。無数の赤色灯が火事の炎と見間違うほどたくさん集まって大騒ぎになっている。
 みつきはこれが心配で、別行動を取ったのだ。

「地震か何かってことで片付いてくれると思うけど、問題なのは内調の人だからなぁ。私がやったんだってバレバレだし……。また山形さんからお説教かなあ……」

 あの騒ぎでの人的な被害が皆無であることは、綾にもESPで確かめてもらったので心配はしていない。だがそれが、破壊した自動車や重機、ビルの壁面、道路などの多大な被害を無視してよいという理由にはならないのだ。
 たとえば廃ビル一つとっても、勝手に壊していいというものではない。ビルが変に傾けばそれだけ解体も難しくなる。陥没した地面や旧地下街も元通りに戻せなくなる。それらはどこかの誰かに必ず迷惑をかけ、無駄な汗を流させることになる。

「建築会社とか、大迷惑だよね……。私のバイト代で弁償できる範囲じゃないし……。倒産しちゃったりしないよね。お金なくなったり、一家離散で自殺しちゃったり……」

 そんなことは、考えても無駄だとはわかっている。
 わかっていても、つい考える。
 不安で胸が痛くなってきて、みつきは両膝を抱え込み、身体を丸くする。

「ほんとに、ごめんなさい……。許して下さい……」

 勝手だとは思うが、最後はそう願うしかなかった。
 暴れたくて暴れた訳ではない。自分にはこうするしかなかった。少なくとも最悪の事態になる前には止められた。そう言い聞かせ、罪悪感から懸命に目を背ける。
 けれどそれでも、どうした訳か、やりきれない切なさと寂しさがこみ上げてくる。

「……独り者の妬み、なのかな」

 最後に見た二人の姿、松永泰紀と松永恵の顔が、脳裏をよぎる。
 失恋のショックに似ていると感じはするが、松永に一目惚れをした、ということは断じてない。正真正銘、何となく気になって調べていくうちに放っておけなくなったのだ。それは綾や瑤子だって同じだろう。

「あや、と……ようこ、か」

 二人を巻き込んだのは、決してこれが初めてではない。二人は度々、何だかんだと言いながら結局最後は協力してくれるのだ。

「甘えないように、気をつけよう……」

 そう言う言葉が出てくるのは、本当に、あの二人を大切に思っているからだ。
 そう。何より大切な、友達。

「なのに……何でなのかな……」

 自分の力を知った上で受け入れてくれて、実の娘以上に可愛がってくれる養父養母がいて、少々難はあるけれども理解のある友達もいる。人間関係には恵まれていると思う。
 なのに、今の自分が感じている寂しさは何なのだろう。自分が助けた余所のカップルを羨ましく思い、こんなに切ない思いを抱えなければならないのだろう。

 単なる嫉み嫉みの類なのか。
 違う気がする。そこまで心が狭いとは思いたくない。
 だから、得体の知れない胸の疼きの理由を考える。

 ただし、ほんの三秒ほど。

「駄目だ、もう眠いや……。そもそも眠いからこんな気分になるのかも。うん、きっとそう……」

 顔を上げると、明けの明星の輝きと、少しずつ白み始めている東の空が目に入った。

「ほとんど徹夜だし……。帰って寝よう……」

 だが。そう決めた場所から少しも進まないうちに、みつきの動きがぴたりと止まる。

「誰? ……どこ? こっち?」

 言うや、みつきは自宅とは反対方角、東京湾の方へと全速力で飛び去っていった。



 その日の夕方。日向家の食卓。
 みつきの養父と養母が向かい合っていた。

「……母さん、みつきは? 予備校か?」
「いいえ、今日はお休みしてます。戻ったのもお昼頃で、木更津から電車を乗り継いできたとか何とか。今も熟睡中ですよ、きっと」
「まさか、ずっと遊び歩いて……」
「違いますよ、随分疲れてましたし、服もあちこち裂けてボロボロ。額のちょっと上に怪我もしてましたよ。いろいろ大変だったんでしょうね」
「怪我だと……?」
「安心して下さい、皮膚の表面が切れていただけですよ。一週間もしたら傷も残らずに治ると思います」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題です。お父さんは心配しすぎ」
「……ふん。ああ、夜中に目を覚ましてのっそり起きてきても、食事はちゃんと食わせてやってくれよ」
「ええ、わかってます」
「全く、仕方のない子だ……」

 養父が夕刊を広げる。

 そこには、この一両日でみつきが絡んだ事件の記事が幾つも出ていた。

 一つは、連続傷害事件の容疑者が自首し、本日未明に逮捕されたというものだ。事件の詳細、特に物的被害に関しては不明瞭な部分が多くなおも捜査中とされ、代わりに事件に至るまでの経緯が大きく取り上げられている。容疑者の交際相手が被害者側から性的暴行や脅迫を受けたことが犯行の動機であり、当初は容疑者も被害者から口封じとして一方的な暴力を振るわれていたという。なお、重体だった被害者らも命に別状はなく全員意識を取り戻しており、警察は今後、被害者らの容疑も厳しく追及していくそうだ。

 この事件は、別面でも論説の題材として取り上げられていた。報復行為そのものは絶対に容認できないという前提で「犯行に及んだ心情は理解できる」とあり、おおむね容疑者に対して同情的である。また、容疑者の供述が事実なら裁判官や裁判員の心証は良くなるだろうし、結果的には死者もなく犯人も自首しているから、検事側の求刑もさほど重いものにはならないだろうという司法関係者の見通しも併記されていた。

 もう一つの記事は、深夜に八重洲を中心として発生した謎の局地地震についてのレポートだ。最大震度は四、震源およびマグニチュードは不明。活断層やプレートによる地震にしては揺れた範囲が狭すぎるため、地下水脈が枯渇して出来た空洞が崩落した際の振動ではないかと推測されるものの、地盤沈下は起きていないという。なお、地震発生前に現場の周辺で爆発音や強烈な閃光を確認した者が多数いるらしいのだが、政府筋の公式発表では「爆発物等の痕跡は一切ない」と否定されていた。

 加えて、この記事には廃ビルの解体工事を受け持つ建築会社へのインタビューもある。破壊された車両や重機はほとんどが任意保険で補償されるし、予備機で追いつかない場合は同業他社からのレンタルによって凌ぐ予定だそうで、国交省からの許可が下り次第工事は再開できるのだという。むしろ、都からの大規模な追加発注が見込めるために「当分は仕事に困りません」とホクホク顔だとか。

 最後は地方欄。本日未明に釣り船二隻が富津岬の沖合で接触し転覆、十人ほどが海に投げ出された。が、なぜか事故後まもなく全員が岸辺に漂着。助かった乗員の何名かは「ぼろぼろの服を着た美人の幽霊に助けられた」などと話しているらしい。不思議なことに転覆した船は二隻とも大貫中央海水浴場付近に打ち上げられていて、海上保安庁は「当事者の報告を信じない訳ではないが、事故そのものが実は岸辺で発生していたと考えるのが自然ではないか」と推測しているそうだ。ちなみにその船二隻は少し修理をすれば充分使えるようで、船主は不幸中の幸いだと胸を撫で下ろしたそうである。

「……なるほど、な」

 養父は呟き、読み終わった新聞を畳んで古紙の束の方へ放り投げた。


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