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第3章

3-1:ほころび 1

 ガキの頃の俺は、いつも、ひとりぼっちだった。

「また沖継か……」
「邪魔なんだよな、あいつ……」
「おい、別んとこ行こうぜ」
「沖継がいたら、面白くないんだよ」

 サッカーでも、野球でも、ゲームでも、絵を描いても、プラモを作っても。俺に叶うヤツはいなかった。みんなで一緒に楽しむ、競い合う、そんな形には絶対ならない。いつも俺が一人勝ちして終わっちまう。だから、避けられて、疎まれて、嫌われて。
 しょうがないよな、だって俺は特別なんだし――そう割り切れるようになったのは、割と最近のこと。小さい頃は、眠って、夢を見て、欲しくもない才能を与えられるのが本当に怖かった。苦痛でたまらなかった。
 せめて勉強だけは真面目にやろうと思っても、授業で教えてるのはほとんど知ってることばかり。おまけに学校って、礼儀とか、団結とか、集団行動とか、そういうのを訓練する場でもあるだろ? どんなに退屈でも席に座ってろ、先生が話してる時は前を向け、黒板に書いたことはちゃんとノートを取りなさい、って強制されるんだから。

 毎日が拷問だよ。今思い出しただけでも気が狂いそう。

 二年生までは何とか我慢したんだけど、三年生からは立派な不登校児の出来上がり。いってきますと朝に家を出て、そのまま学校に行かず街をプラプラして、夕方になったら家に帰る。そんな毎日。学校もそのことを家庭に知らせていたはずだけど、父さんも母さんも何も言わなかった。あえて知らないフリをして見守っていたんだろうけど、当時の俺に親の気持ちを汲めるはずもなし。結構寂しいもんだぜ? 悪いことしてるはずなのに全然怒ってもらえないのってさ。

 それでも、周囲に当たり散らすとか、グレるとか、そういうことは一切なかった。
 テレビの向こう側で戦い続ける、大勢のヒーローたちのお陰だ。

 ほら、アニメでも特撮でも、正義の味方って基本的には孤独なものじゃないか。生身の身体を捨てたり、バケモノ扱いされてたり、大きな宿命を背負ってたりして、普通の人間とは何かしらの壁がある。感情移入なんて言葉をその頃の俺が知ってたかどうかちょっと怪しいけど、このヒーローは俺と同じなんだ、辛くて苦しい思いをしてるのは俺だけじゃないんだ、っていう気持ちは確かに持ってた。
 けれど彼らには、当時の俺と違う点がいくつもあった。

 ――どんなに辛くても、傷ついても、決してへこたれない心の強さ。
 ――何があっても正義を貫き、平和を守り、みんなを助ける優しさ。
 ――特別な力は悪と戦うためにしか使わない、という自戒。

 自分の目指すべき理想はこれだ。子供ながらにそう直感した。溢れんばかりの才能は、神様が「正義の味方たれ」と与えて下さったものなんだって。
 四年生の頃に嫌々ながら少年剣道会へ入ろうとしたのも、武道が精神力の鍛錬を重んじているという話を聞いたからだった。正義の味方はやっぱ、いざって時にブレない心の強さが一番大事だしさ。毎日学校へ通うようになったのもほぼ同じ時期のこと。正義の味方がサボりの常習犯だなんて格好つかないじゃん。
 もう、一事が万事そんな感じ。俺の言動はすべて「正義の味方たれ」の一言に集約する。もちろん最初のころは上手くいかないことだらけで、相変わらずひとりぼっちなのは変わりがなかったけど、凹んだり落ち込んだりすることだけはなくなった。ヒーローに試練はつきものだって思うだけで、どんな辛いことにも耐えられたから。

 んで、五、六年生。
 身体が一気に成長して、大人へと近付き始める。二次性徴期の始まりだ。

 普通ならここらで大人社会に疑問を抱いたりして、反抗期に入ってさ、不良とかアウトローに憧れたりするもんだけどな。俺は真逆だった。ぐんと背が伸びて力がついて、ますます正義の味方らしく振る舞えるようになったから。道に迷った人がいれば自分の知ってる限り案内してあげる。怪我をして道ばたにうずくまってる人がいれば背負ってでも病院まで連れて行く。街角で隠れて煙草吸ってる学生がいたらたとえ高校生でも臆することなく注意する。いやあ、当時の俺は熱かった。痛かったとも言うけど。

 そんな毎日を繰り返してるうちに。
 気がついたら、俺は、孤独じゃなくなっていた。

 沖継はすごいヤツだと大人たちは褒めそやし、警察から何度となく表彰され、先生たちは掌を返して「我が校始まって以来の模範的な生徒」だと絶賛。テストの点さえよければ多少のワガママは聞いてくれるようになったんで、退屈すぎる授業は多少サボっても黙認してくれるようになる。水泳大会や陸上競技会が開かれるたびに引っ張りだこ。
 そのまま中学に進学、俺の身体能力の高さに興味を持った転校生の拓海が「お前、一体どうやって鍛えてんだ?」と声をかけてきて、紆余曲折の末に意気投合。んで、教え子を強姦しようとした教師をやっつけたらコノにつきまとわれ――あ、いや、友達になってくれて、下駄箱には一通、また一通と、見知らぬ女の子たちからラブレターが舞い込むようになっていく。

 さらに、俺にとって恐怖と苦痛の対象だった夢の中にも、変化が起きた。

 理想のひとが、つまり結女が、登場し始めたんだ。

 今にして思えば、結女はもっとずっと以前から、俺の夢の中に出て来ていたような気もするんだけどさ。ガキの頃はその存在がいまいちピンとこなかったのかも。恋人とか伴侶とか考えたことなかったし。心と身体が大人になって、異性に興味が芽生えてきて、それでようやく、自分にはパートナーがいたはずだって思い出したんじゃないかな。

 つーか俺、つい最近まで、結女のことをパートナーだとは思ってなかったけどね。
 何と言うか、もっとこう、畏れ多い――女神様。
 俺のやってることが間違いじゃないんだって、お前はそれでいいんだって、俺の存在を全肯定してくれて、俺の目指す正義を応援してくれる神聖な存在。百歩譲ってもお姫様とか女王様だな、戦い疲れたヒーローを癒してくれる唯一無二の理解者。いやま、本人が目の前に出て来た以上、そんなこと絶対言わないけどな。照れ臭いし。

 そうさ、俺はずっと、正義の味方になるために生きてきたんだ。
 平和を脅かす悪と戦うヒーローになることこそ、俺の夢であり、存在理由。
 そんな俺から正義を取ったら何が残る?

 何もねえよ。カラッポだよ。

 でも高校生になって、それなりに大人社会のこととか、綺麗事だけで回ってるわけじゃない世の中の仕組みがわかるようになると、正義の味方で居続けるのはまず無理だって痛感するわけだ。ガキみたいな正義感を振り回し続けてたら遅かれ速かれ行き詰まる。だから最大限譲歩して、ご家庭の平和を守るヒーローになろうと思ってた。

 ところがどっこい。

 夢の中にしかいないはずの女神様が、結女が、現実世界に現れた。
 戦う理由と、目的と、その方法を教えてくれた。

 そりゃあ、テンション上がるよ。上がらいでか。

 俺は、ヒーローになるんだ。正義の味方になるんだ。絶対に。
 迷うことなんか何もない。みんなもそれを望んでる。魔人の脅威に怯えている全ての人たち、小さい頃から世話になってきた親戚、そして両親も――。

「いいか、沖継。これだけは忘れるな」

 脳裏に浮かんでは消えていく、大勢の人たちの顔の中で。
 父さんだけが、今の俺を見て、微笑んでくれていなかった。

「男なら、女を守れ。迷わせるな。泣かせるな」

 うっせェなそんな小さい話もうどうだっていいだろ。だいたいあんたが言ったんじゃんか、結女はとびきりのプレゼントだって。ああそうさ、あいつはとびきりのプレゼントだったよ。俺を正義のヒーローにしてくれる最高の誕生日プレゼントだ。
 戦うぜ、俺は。悪を斃すぜ。斃して斃して斃しまくるぜ。
 正義のために、平和のために、みんなのために。
 そして何より、俺自身のために。




「……凄いよね、沖継くんって」

 割と近くで、耳に馴染んだコノの声がして、俺はうっすら目を開ける。
 視界いっぱいに、木目が拡がる。

 何だこれ、机?
 俺、机に突っ伏して寝てんの? いつから?

 一限目の途中から、さっぱり記憶がない。
 周囲のざわつき具合、美味そうな弁当の匂いが漂ってること等々を鑑みて、昼休みになったばかりらしいんだけど、午前中ずっと寝てたってことか?
 最悪だ、正義の味方がやるこっちゃない。早く起きなきゃ。

 起きられない。

 意識はもう覚醒してんのに、手足が鉛のように重い。まだ眠っていたいって訴えてくる。よっぽど疲れてんのかな。くっそ、鍛え方が足りねえな。情けない。

「見て見て、これ。家から持って来たんだけど」
「何だよ滝乃、新聞か?」

 ガサガサと紙の束を拡げる音に混じって、拓海の声も聞こえてきた。

「失業率、劇的な回復……。周辺諸国との領土問題、解決のきざし……。テレビドラマ復権、高視聴率連発の背景に新たな世代の才能……。年金問題を解決する画期的な法案、提出間近……。ブラック企業の規制法案、全会一致で可決……」
「うちのお父さんとお母さんも言ってたよ。この一ヶ月くらいで日本全体が急に活気づいてきた、高度成長期の再来みたいだって。ほんと凄いよ、沖継くん」
「凄いのは沖継じゃなくて、世の中を動かしてる大人たちだよ」
「それも、沖継くんが敵をやっつけてるからだよ。世の中を良くしたいって思ってる人たちを間接的に助けてるんだよ。それなりの能力とか責任感を持ってる人が、それにふさわしい立場に就けるようになってきたんだよ。その証拠に、先月までこんな明るいニュースは一つもなかったじゃない。沖継くんのお陰だよ。間違いないよ」
「いやはや、薄気味悪いな……。現実感がないとも言うけど……」
「? どういうこと?」
「俺たちの世代って、生まれた時からずっと日本は調子悪かったろ。失われた二十年だのデフレ不況だのって。親の会社が倒産して学費払えないって、そんな理由で退学したヤツも結構居たしさ。それが当たり前だったのに」
「うーん……言われてみると、日本人が元気に笑顔で頑張るイメージって、ないかも」
「だろ? 滝乃もそう思うよな?」
「でも、むしろ今までが異常だったんだよ。日本がおかしくなり始めたのって、私たちが産まれた頃と……沖継くんが死にかけて産まれ直した頃と、完全にダブってるじゃない」
「それが薄気味悪いってこと。こんな劇的に変わるなんて」
「それだけ沖継くんの存在は大きかったんだよ。日本の屋台骨を支えてる大黒柱だったんだよ。前々から沖継くんって凄い人だと思ってたけど、ここまでとは思わなかった。尊敬し直したよ、私」
「いやー、でも高校生としちゃ完全に失格だぞコイツ。この一ヶ月、沖継が登校してきた日が何回あった? こないだのクラスマッチもドタキャンして、おかげでうちのクラスは三回戦敗退。槙田や久能あたりは結構恨んでるらしいぜ。進路指導も三者面談も延期しまくりで、今日もずっと居眠りだろ。このままじゃ留年どころか退学だ」
「そんなの些細なことじゃない。沖継くんはもっと大事なことをしてるんだから。魔人をやっつけるのに忙しいんだから。仕方ないよ」

 コノの視線が、眠り続けている俺の背中に注がれる。そういう気配がする。

「何だか急に、遠い世界の人になっちゃったみたい……。ううん、私なんて、たまたま沖継くんのご近所さんだっただけだし、しょうがないんだけど……」

 そこで、何とも言えない奇妙な沈黙があって。
 六月下旬、梅雨の真っ直中。煙るように降り続ける雨の音と、他のクラスメイトたちが談笑する声が混じり合って、ひどく遠く聞こえる。

「滝乃は、それでいいのか」

 ぽつりと、拓海が言う。
 また、しばらく沈黙。

「……いいも悪いも、ないよ。沖継くんの夢が叶ったんだから。応援するだけだよ」
「正義の味方、か」

 拓海の溜息。

「ところでさ、滝乃。その手提げ、新しく買ったのか?」
「え? あ、ううん、前からうちにあったものだよ」
「?」
「昨日の夜、沖継くんからメールもらって、今日は絶対学校に行くって言ってたから。でも、この分だと無駄になっちゃったかな……」

 む。何だ何だ。寝てちゃマズい気がしてきたぞ俺。いやいや、いくらこの二人の話だからって、聞いてないフリして盗み聞きしてる格好なのは絶対マズいけどさ。
 ガンバレ、俺の身体。起きろ。動け。

「……あ、沖継くん、起きた?」

 盛大な欠伸をぶちかましてる俺に、嬉しそうなコノの声。白を基調にした夏用の半袖セーラー服が起き抜けの目に眩しい。とはいえ俺も拓海も白の半袖開襟シャツなんだけど、こっちは別に眩しくも何ともないのは何でだろうね。

「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」

 寝ぼけ眼でコノの夏服姿を凝視してたので、変な誤解を与えてしまったらしい。別に何でもねえよ、といつもの調子で言いかけたその瞬間に「ぐぎゅるうぅ」ってとんでもない大きい音で腹の虫が鳴りやがった。俺の身体はマイペースにも程がある。

「あはは……。お腹、空いてるんだね」
「らしいな。購買に行ってくる」
「今から行ったって、めぼしいもの残ってないぞ」
「うっせえな拓海は黙ってろ菓子パンかおにぎりくらいあんだろ多分」

 よっこらせ、と椅子から立ち上がろうとして。

「あ、えと、あのね、沖継くん」

 躊躇い気味にコノが言い、足下に置いていた手提げ袋を取り上げる。いつもコノが持ってる手提げとはちょっと違うけど、一回りか二回り大きいだけで、同じメーカーの似たようなデザインだった。拓海のヤツよくこんな些細な差に気付いたな。

「良かったら、どうぞ」

 コノが手提げの中からとんでもなくデカいタッパーを取り出し、俺の方へ。

「まさか、お前……」

 コノがタッパーの蓋を開ける。弁当だ。しかも、俺の好みを完全に網羅した品揃え。

「頑張ってる沖継くんに、私がしてあげられるのって、これくらいだから」

 何だよオイ、コノのくせして頑張りやがって。

「……すまん、ありがとう。遠慮無く」
「いえいえ、お口に合えばいいんですけど」

 安心しろ、今の俺の腹具合からして三つ星シェフのフルコースにしか見えねえよ。
 合掌。精一杯の感謝をこめて、いただきます。

 でも、手に取りあげたおにぎりを頬張ろうとしたその直前。

「沖継! 沖継はいるか!!」

 見目麗しい大和撫子が――もとい結女が、大声で叫びながら教室に飛び込んできた。クラスじゅうの視線が一気に集中、そして俺は軽く戦慄。まさか魔人が攻めてきたのか。せめてメシくらいゆっくり食わせてくれよこんちくしょう。
 あ、いや、こりゃ違うか? 結女の雰囲気というか、表情というか、これから戦いに臨むって風じゃない。だいたいその格好は何だ。外見年齢は女子中学生そのもののくせに、そこまでカンペキに和服を着こなすな。似合いすぎだっちゅーねん。

「ああ、そこに居たか沖継! すまない、遅くなった!」
「……何が?」
「だいたいお前は人が悪すぎる! どうして朝起こしてくれなかった! なぜ朝食を抜いて学校に行くような真似をした!!」
「いや、一応声はかけたんだぞ。でも、客間……いやもうお前の部屋同然だけど、女の子が寝てる時に勝手に部屋に入るのは、なあ、ちょっとさすがに……」
「夫のくせに妻の閨に入るのを躊躇するんじゃない! むしろウエルカムだ!」
「でかい声で危険なことを口走るなっ! つーか、疲れてんのはお互い様なんだしさ。だから今日は征伐を休みにしようって、昨日の夜に……」
「休日だろうと何だろうと夫より遅く目を覚ます妻がどこにいる! むしろ叩き起こして叱りつけるべきだ! 妻の教育は夫の務めなんだぞ時々の気分で手を抜くな! 今後こんなことがあったら絶対に許さないぞ!!」

 この一ヶ月でいいかげん慣れてきたけど相変わらずお前の言うことは滅茶苦茶すぎる。いいから落ち着けそんな剣幕で肩を怒らせて歩み寄ってくるなよ怖いから。

 ――どっすん。

 怒りの形相のまま、結女が俺の傍らにあった空き机の上に巨大な風呂敷包みを置く。

「え、っと、結女様? あの、これ、もしかして」

 結女がてきぱきと手を動かして風呂敷包みを解いていくと、出て来たのは漆塗りの豪奢なお重。もちろん中身はお弁当。基本メニューはコノが作ってくれたものとほぼ同じだけど、完成度が桁違い。何でこんな綺麗な盛りつけしてんだ料亭の仕出しかよ。

「さあ、遠慮無く食せ。もちろん私も一緒にいただくぞ。お腹がペコペコだ」

 肩にひっかけていたステンレスの魔法瓶を手にしつつ、結女は満面の笑みで宣言。

「まさか、これ、全部結女が作ったとか言わないよな……?」
「作ったに決まっているだろう! 最近ずっと自衛隊に分けてもらった戦闘レーションや警察が用意した店屋物ばかりで! 夫にみじめな食生活を強いる妻の気持ちがお前にわかるか?! 私は毎日心の中で泣き通しだったんだ!!」
「え、あ、その、あうあう」

 俺は手に持ったままのおにぎりを見て、そして、コノがくれた弁当に目を落とす。
 あれ? コノの弁当、どこいった? さっきまで確かに机の上に――。

「ん? 沖継、何だそのおにぎりは」
「あ、いや、えっと」
「手作りのようだが、誰が作ったんだ? もしや、そこの愛人か?」

 戸惑っていると、結女が俺の手ごとおにぎりを掴んで自分の方へ引き寄せ、ぱくっと噛みついた。半分以上ごっそり囓り取られた。おま、ちょっ、何すんだオイ。もぐもぐもぐ、ごっくん。ってもう呑み込みやがった。

「……塩っ気が足りない。毎日身体を酷使して汗をかいている沖継には不適当だ。米粒も潰れて食感もいまいち。端的に言えば研ぎすぎ。水加減も良くないな。炊く時の火力も足りていない。握る時にも力の入れすぎだ」

 俺と結女から顔を背け、そっと手提げ袋を閉じようとしていたコノが硬直。この押しかけ女房は何考えてんだ無神経なこと言うんじゃねえよそもそもお前が桁外れに料理上手なだけなんだよバカっ。
 コノをフォローしてやんなきゃ、とは思うのに、寝起きでいまいち頭の回転が鈍い。いや、仮に頭が冴えてたとしても何をどう言えばいいのか思いつきそうにない。でもでも、このまま黙ってる訳にはいかない。えっと、えっと。

「……沖継がさっき、俺の弁当をかっぱらったんだよ。この食いしん坊め」

 苦々しげに拓海が言う。女友達への思いやり故か、カンペキすぎる名演技。

「そ、そうなのか。すまない、益荒男よ。夫婦ともどもとんだ失礼を……。あ、そうだ、ひとつどうだ? 口に合えばいいんだが」

 結女が自分のお重を差し出すも、拓海は軽く首を振る。

「いいよ、俺の分は、別にある」

 席を立ちながら、拓海はひょいとコノの手提げ袋を取り上げ、教室の外へ歩き出す。机の脇に置いた自分のバッグを――弁当とサプリメントの類を放置したままで。

「た、拓海くん、ちょっと……」
「俺たちは席を外すよ。二人の邪魔になるし」

 拓海は言う。首だけをこっちに向け、コノに目配せをしながら。

「益荒男よ、そんな気遣いは無用だぞ。遠慮せず一緒に……」
「いいや、固辞させてもらう。さっきの君の台詞を聞いた後じゃ、なおさらだ」

 そして、拓海はじっと、俺の顔を見つめてくる。
 こっちに来るなら今のうちだぞ、決めるのはお前なんだぞ。そう言いたげに。

 でも、俺は席を立たない。動かない。何も言わない。

 コノのことは気になるし、俺のために作ってくれた弁当も食ってやりたい。でもこの時は、そんなコノへの気遣いよりも、拓海への苛立ちが勝った。
 何様のつもりだこの野郎。偉そうに、しかも一方的に仕切りやがって。
 そんな気持ちが、俺の目に出てしまったんだろう。拓海はフンと鼻を鳴らして前を向き、そのまま歩み去っていく。コノもしばらく迷った末で席を立ち、拓海の後を追う。

「……ところで、益荒男よ」

 拓海が廊下の向こうへ姿を消す直前、結女がその背中に声を投げる。

「ここ最近、身の回りに何か異変が起きていないか? これは現実だけに限らない。幻聴、錯覚、寝ている時に見た夢なども全て含めて」
「? 何の話だか、よくわからないな」
「其方ほどの腕なら、敵に目をつけられている可能性がある。自分たちの走狗にしたいと考えていても不思議じゃない。私たちが本格的に活動を再開した今ならなおさらだ」
「俺が敵に唆されて、魔人とやらになるって?」
「人ならざる力を駆使する連中だからな、勧誘の手法はそれこそ無数にある。もし美辞麗句を並べ立てて沖継や私と敵対させようとするものが現れたら、逃げるなり戦うなり、とにかく全力で拒絶して、なるべく早く相談してくれ。もし興味半分で敵の言い分に耳を傾けたり、万が一にも受け入れてしまえば……」
「憶えておく。でも、そんな心配はいらない」

 拓海は、背中を向けたまま。

「俺は、親友の敵になんか、ならないよ」

 廊下の向こうへ、歩み去る。
 結女は続けて、コノにも声をかけた。

「今の話、愛人も憶えておいてくれ。お前が狙われるとは思えないが、念のためだ」

 声音には、いつものような棘はない。むしろ優しさすら感じるくらいだった。
 けれどコノは、拓海と同じく背を向けたまま。

「……私だって、拓海くんと同じだよ」

 無理に感情を押し殺した、抑揚のない声で呟いて。
 ぎゅっと握り締めた拳を解くことなく、コノも教室から姿を消した。

 それを見ていたクラスの連中がざわざわと騒ぎ出す。その他大勢の連中は相変わらず無責任で、他人の噂話がよっぽど好きらしい。いちいち構ってらんないから放っておこう。
 とりあえず俺は、手の中に残っていた半分のおにぎりを口の中に放り込む。

「なあ、沖継。そのおにぎり、本当にあの益荒男のものだったのか?」

 結女はもう気にすんなよ忘れろよ。俺は素っ気なく「そうだよ、だから?」と答える。コノのおにぎりが口の中に入ったままだから行儀悪いけど、まあしょうがない。

「いや、その、私はてっきり、あの愛人が……。最後に一言、一番大事なことを言い損ねてしまったんだ。しかし作った者の愛情はひしひし伝わってくる、これはいずれ相当な料理上手になるぞ、と」

 げほげほげほ。咽せた。あやうく口中の米粒を吐き出すとこだった。

「お、おまっ、そういうことは先に言え先に!」

 慌てて呑み込んで言うと、結女はジト目になって。

「やはり、あの愛人の作ったものだったのか」

 あ。しまった。

「参ったな、これはとんでもないすれ違いをしたものだ。ひょっとするともう取り返しがつかないかもしれん。……お前のせいだぞ、沖継」
「何で俺だよ。ていうか結女はもともとコノのこと嫌いなんだろが。あんだけケンカふっかけといて、いまさらすれ違いも取り返しもあるか」
「やれやれ。昔のお前は、もう少し女心の機微を汲んでくれたぞ?」

 結女はステンレスの水筒を開け、お茶を汲みつつ。

「私はな、あの愛人が嫌いなんじゃない。お前を愛しているだけだ」
「意味わかんねェよ」


3-2:ほころび 2

「……きろ、沖継。起きろ。もうじき着くぞ」

 肩を揺さぶられて、俺は閉じていた目を開く。
 目に映るのは、ほとんど金属でつくられた丸天井の無骨な空間。オレンジ色のごくわずかな明かりしか灯っていない。ゴーともキーンとも表現しがたい騒音の中で腕時計を確かめてみると、時刻はなんと深夜二時すぎ。
 どこだよここ、と疑問を持った瞬間に思い出した。航空自衛隊の輸送機C‐1だ。最大で五十人弱を収容する機内は貸し切り状態で、俺と結女の二人だけしか乗っていない。

「ああ、悪い……。俺、最近、居眠り多いな……」
「気にするな。私もさっきまでウトウトしていたんだ」

 ほとんど黒に近い濃紺の戦闘服を着込んだ結女が、邪魔になる黒髪を結い上げてパラシュートバッグを背負い始める。これでヘルメットと眼球保護用のゴーグルを被ると、立派な特殊空挺兵の出来上がりだ。
 まあ、俺もほどなく、同じような格好になるんですけどね。

「……また何か、新しく思い出したか?」

 自衛隊に貸してもらった空挺用の八九式自動小銃の動作チェックをしている最中、結女がそんなことを話しかけてきた。
 何のことか一瞬わからなかった俺は、結女の顔を見て目を瞬かせて。

「眠る時は何かしら夢を見て、過去のことを少しずつ思い出すのだろう?」

 補足した結女の口調がどことなく嬉しそうだったのは、気のせいか。

「いや、特に何も……。そういや最近、夢自体、あんま見てないな」
「そうなのか?」
「毎日連戦でわりと疲れてッから、本能的にも休息を最優先してんじゃないかな……あ、待てよ、こないだ学校で居眠りした時、すげえ久しぶりに……いや、でもありゃ、何てことはない普通の夢だったような……」

 俺は引き続き、稜威雄走を太腿のホルスターから抜いて動作チェック。いくら俺専用に作られた高性能拳銃でもしょせんは拳銃、トータルでの性能は八九式の方が上回るんで、今夜はおそらく出番ナシだろう。

「でも、別に問題ないと思うぜ。戦う上で思い出さなきゃいけないことなんて、多分もう残ってないよ」

 ここ一ヶ月強、ほとんど毎日戦い通しだもんな。自衛隊でもごく一部のエリート部隊しかできない夜間のパラシュート降下を二人だけでやろうとしてるのが、そのいい証拠。

「いや、私が言っているのは、それ以外の……」
「?」
「……何でもない」

 話を打ち切った結女の顔が、どこか寂しそうな――いや、それも気のせい?
 何だろう。最近の結女は、こんな風に微妙な表情で言葉を濁すことが多いんだ。言いたいことがあるならはっきり言ってくれればいいのに。
 だってさ、何だかんだで俺たち、最初の出会いからまだ一ヶ月足らずなんだぜ。夢の中で断片的に見ていた大人版の結女はいつも微笑んでいたイメージしかないしさ。いくら俺でも微妙な表情の差だけで気持ちの裏の裏までは読み取れねえよ。

『降下予定地点に到達しました。敵影なし、ハッチ開放』

 俺がパラシュートを背負ったところで、パイロットの自衛官が機内スピーカーを通じて知らせてくれる。輸送機の後部が独特の金属音を立てながら少しずつ開き始めた。ごうごうと凄まじい風の音が立ち、ほとんど何も聞こえなくなる。

『深夜にご苦労だった。私たちの降下後は、基地に帰投してゆっくり休んでくれ』

 結女のその声も、俺の耳につけたインカムを通じて届いたものだった。パイロットからの『お気遣い感謝します。ご武運を』という返答があって、俺も「ありがとうございます」と形ばかりの礼をする。

『いくぞ、沖継』

 結女が走り出し、ハッチから飛び出す。俺もすぐに後へ続く。ほとんど何も見えない真っ暗な空の中、バンジージャンプなんか児戯に等しい自由落下を経て、高度計が一定の数値になったところでリップコードを引きパラシュートを開く。
 風はそこそこ強いけど、慌てるほどじゃない。闇に目が慣れてきたので、迫り来る地上の地形をざっと把握。今夜の戦場、東北の山間にある過疎の農村がおぼろげに見えてきた。パラシュートに連結している左右のトグルで落下姿勢をコントロールしつつ、予定通りに山間の着地点へ――長らく耕されず放置されていた棚田の中腹へ降りる。
 パラシュートを使っていても、着地の瞬間には二階建てのベランダから飛び降りたくらいの衝撃が身体に襲いかかってくる。俺は五点着地の要領で少しだけ地面を転がって着地の衝撃を逃がす。と同時に体勢を立て直し、パラシュートが再び風をはらんで振り回されないように素早く折り畳んでいく。我ながら実に手際がいい。

『発、弓束。宛、狩人。こちらは問題なし。そちらは? 送れ』

 邪魔になるパラシュートバッグとハーネスを身体から全て切り離し、手近の物陰へ走り寄って投棄したところで、タイミングよく結女から通信が入ってきた。問題なしってことは、一キロメートルほど離れた場所にある廃校のグラウンドに降下できたんだろう。
 狩人と弓束は無線上のコールサインで、それぞれ俺と結女のこと。まるで軍隊ごっこでもやってるみたいだけど、自衛隊から半二重通信の無線機と通信バンドを借りてるもんだから、交信のお作法もちゃんと守った方が面倒ないんだってさ。

「こちら狩人。大丈夫、ほぼ予定していた場所に降りた。送れ」
『弓束、了解。敵の気配は? 送れ』
「動きは、まだ……いや、待った」

 山の稜線のほど近く、夜空に浮かんだ細い三日月を見上げて気持ちを落ち着け、感覚を研ぎ澄ませる。

 ずっと戦場に身を置いてきた昔の俺にとって、いわゆる第六感の鍛錬は必要不可欠なものだったんだろう。視界の外から飛んで来る流れ矢すら躱せるように、たとえ眠っていても敵の殺気を嗅ぎ取れるように、張り巡らされた罠の存在を事前に感じられるように。その結果が、やたら夜目が利くとか、殺気に敏感だとか、咄嗟の時は考えるより先に身体が動いて危機回避するとか、そういう能力の獲得に至る訳だ。
 で、俺と結女に備わった超能力のひとつ「敵を識別する目」も、本質的には第六感と同質のものらしい。つまり第六感を磨けば磨くほど「目」の進化も促される。

 たとえば、そう、こんな風に。

「感じるよ……人間じゃないヤツの気配がモゾモゾ動き出してる。向こうはもう、こっちの存在に気付いてると見ていいな」

 このくらいのことは、苦もなく感じ取れてしまう。
 結女も似たようなことは出来るらしいんだけど、それでも俺の感覚の方がはるかに正確で精緻なんだよな。いやはや、昔の俺はどんだけ血の滲むような努力をしてたんだろうな。我が事ながら頭の下がる思いがするよ。

「どうする? こりゃ不意打ちできそうもないぞ。送れ」

 言うと、無線の向こうで結女がフンと鼻を鳴らす。

『真正面の戦いは望むところだ。手向かう相手は容赦するな、殲滅しろ。通信終わり』
「……そう言うと思ったよ」

 一方的に切れた通信に苦笑しつつ、俺はアサルトライフルにマガジンを差し込み、コッキングレバーを引いて初弾を装填。安全装置をかける。いつでも戦える状態で物陰を飛び出し、走り始めた。

 俺たちが挟み撃ちの格好で向かう先は、とある針医の診療所。
 この針医は地元で評判の名医で、ぎっくり腰どころか盲腸でも癌でも脳卒中でも治すんだってさ。ブラックジャックじゃねえんだぞと呆れたのは地元の警察も同じで、無免許医の疑いをかけて何度か摘発しようとしたんだけど、本人は針を打っただけだと言うし、地元の人たちも庇い立てするもんだからお手上げらしくて。
 これを知った結女は「針医は魔人だ。病気も超能力の類で治しているんだろう」と即断したが、今回の情報提供者である政府高官も同じ懸念を持っていたらしい。確か所属は内閣官房の情報調査室だとか言ってたっけ。魔人が関与していそうな事件の情報をかき集めている班があるそうで。俺が思うに、盛田さんとか須賀理さんとか、そんな名前の人がせっせと謎のファイルを作ってるんだろうな。きっとそうだ。

 しかも、だ。

 この農村を中心とする周辺地域全体が、俺たちが先月国会で殺っつけた魔人化した議員を熱烈に支援してたっていうオマケもついてくるんだよ。いずれまた別の魔人を当選させて国政に送り込み、世の中を混乱させる一因を作る可能性が否定できない。
 針医として恩を売って村人を懐柔し、その見返りとして巨悪の片棒を担がせるとは、なんとまあ卑怯かつ卑劣な話だ。絶対許せん。

 俺は正義の怒りを燃やしつつ、蛍の群れが淡い光を放ちながら乱舞する小川脇の畦道を風になって走る。都市部で育った俺には物珍しい光景だけど、呑気に眺めてるヒマは――。

「……っととっ」

 嫌な予感がして急停止、身を伏せる。と同時に銃声。何匹かの蛍がコナゴナに吹き飛び、すぐ側にあった樹の幹に着弾。樹皮が点ではなく面で削り取られる。

 散弾銃か、あるいはそれに類する武器と見た。

 殺気というほど強い意思は感じないし、魔人の気配もない。でも、いきなり撃ってくるんだから間違っても味方じゃあんめえな。コンマ数秒でそう判断を下し、俺はアサルトカービンの銃口を向けて安全装置を解除、トリガーを引く。三点バーストで発射されたフルメタルジャケットの銃弾が音速を超えて飛翔・着弾。
 手応えはない、外したか。いや、でも。

「ひいいいっ?!」

 着弾地点のすぐ側から大声で悲鳴が上がる。おいおいド素人かよ。
 声の様子からして、距離は約五十メートル、すぐ近くに見える農家の玄関先にいるんだな。事前に頭の中へ叩き込んだ村の地図と重ね合わせるに、進撃予定ルートとモロ被りしてるんで避けては通れない。俺は思い切って立ち上がり再び走り始める。
 と、それに気付いたド素人が慌てて散弾銃を拾い上げようとしてたので、すかさず発砲。走りながらの牽制射撃なので当たりようがないんだけど、心底驚いたド素人はまた悲鳴を上げ、腰を抜かしてその場にへたり込んでしまった。

 ド素人との相対距離は残り十メートルもない。
 いっただき。食らえ、正義の銃弾。

 ――ん?

 トリガーを引く指が、硬直。
 俺、急停止。
 呆然、棒立ち。

 いくら夜目が利く俺でも昼間とまったく同様って訳にはいかないから、この時初めて、ド素人の姿をはっきりと見たことになる。

 すっかり腰の曲がった、どう見ても八十歳は超えてるおばあちゃん。

 まさか、このおばあちゃんが俺を狙ってたのか?

「あ、っ……あああ、っ……!!」

 玄関先にある外灯の明かりの範囲内だから、腰を抜かしてへたりこんだおばあちゃんにも俺の姿が見えたんだろう。恐怖に顔を歪め、地面に這いつくばって、それでも足下の散弾銃を手に取ろうとする。心底怯えきってるけど闘志は消えてない。

 考えてるヒマはなかった。

 俺は再びダッシュ。もう全力。おばあちゃんが散弾銃を手に取るのと、俺がおばあちゃんとの距離をほぼゼロに詰めるのはほとんど同時だった。散弾銃のトリガーが引き落とされるけど、銃口の向いてる方向に身体を晒すようなヘマを俺がするはずがなし。散弾は明後日の方角へ虚しく飛んでいく。
 その隙に、素早く散弾銃の銃身に回し蹴り。おばあちゃんの手から散弾銃が離れて飛んでいく。続けて胸ぐら掴んで体勢を崩して動きを封じ、当て身を食らわせて気絶を――って、こんなおばあちゃんをブン殴るのか? 骨は脆いし筋肉も痩せ衰えたお年寄りを? 気絶させるつもりで撲殺しちゃった、なんてことにならないか?

 農作業着らしいモンペの襟元を掴んだまま、一瞬、躊躇して。

 怯えきっていたおばあちゃんが、急に白目を剥いた。
 身体から力が抜けて、ぐにゃん。

 うっそ俺まだ何もしてないよ?! と一瞬顔が青くなるも、単に気絶しただけらしい。慌ててその場に寝かせて脈を確認。息もある。

 とりあえずホッとする――間もなく、背後に悪寒。

 咄嗟に身を翻し、気絶したおばあちゃんを抱えて家の中へ飛び込む。銃声とほぼ同時に玄関先に着弾。これも散弾銃だ。いや、鹿や猪を撃つための猟銃か?
 嫌な予感がひしひしするので、当てることを考えずに一応の牽制射撃をする。するとまたド素人同然の「ひいっ!」とか「ひええっ!」とか言う叫び声。
 どっちも男、いや、おじいちゃんの声だった。
 どうなってんだ、と困難する中、また銃声がする。でも、こいつはかなり遠い。たぶん、俺が持ってるのと同じ八九式自動小銃の――。

「お、おおおっ、おい結女、待て、ちょっと待て!」

 無線の呼び出しスイッチを連打しながら、俺は怒鳴る。

『何だうるさい! 夜戦の真っ最中に大声を出すな! こっちは交戦中なんだぞ!』
「俺だって交戦中だよ!」
『だろうな、こっちにもお前の銃声が聞こえたぞ! 遠慮することはない、殲滅しろ!』
「冗談じゃねえ殲滅できるか! どう見たってこの村の人じゃねえか!」
『だったらどうした! それが何だ!』
「老い先短いじーちゃんばーちゃんばっかりなんだぞ!」
『すでに魔人も同然だ! いつぞやの米軍と何も変わらない!』

 叩き付けるような結女の叫びが、無線機越しに俺の耳朶を震わせる。

『敵に与して私たちに襲いかかってきた時点で敵も同然だ! 魔人の仲間だ! 油断すればこっちが殺られるんだぞ!!』

 正論に聞こえた。
 たとえ一般人だろうと、武装して俺たちの前に立ちふさがっている以上、実力で排除するより他にない。だって散弾は距離が離れるほど広範囲に拡がるし、殺気を読んで避けても間に合わないかもしれな――いやいや待て待て流されるな俺!!

「あの時の黒ずくめはしょうがないだろ向こうも戦闘のプロでフル装備でやる気マンマンで組織力も戦闘力も高かったんだからこっちも殺り返す勢いで戦うしかねえよ! でも今は違うだろ! じーちゃんばーちゃん相手に本気で応戦なんてやりすぎどころの騒ぎじゃねェよ! いいか絶対に殺すな! 一発たりともタマ当てるな!」
『なっ……?! 無茶を言うな私はお前ほど格闘戦が得意な訳じゃないんだぞ!』
「格闘戦も禁止だよバカっ!! 村の人は絶対に傷つけるなって言ってんだ!」
『し、しかしそれでは、私はここから身動きできない! 防戦一方になる! 敵を無力化しないことにはこれ以上目標に近付くことすら……!!』
「ああもうわかったわかった! ならそれでいい! 村の人の注意をハデに惹いてくれりゃ充分だ! その隙に俺が何とかする!!」
『な、何だと沖継どう言うつもりだ! 待て、おい!!』

 俺は無線機を耳からむしり取り、胸元につけていた送受信機ともども投げ捨てる。ヘルメット、暗視装置、アサルトカービンとその予備弾もだ。

 最後に残った装備は、稜威雄走ただ一丁。
 結局のところ、最後に頼りになるのはコイツだけってことか。

 そうして身軽になった俺は、裏口から外へ出る。塀を跳び越え、民家の屋根の上を走り、闇から闇へ、ただ勘だけを頼りに防風林や雑木林の中を突き進む。
 案の定、じーちゃんばーちゃんは俺の動きについてこられない。よしんば気付いても何もできないだろうけどな。俺の行く手に現れるのはせいぜい蛍の光くらいだ。
 本当の敵さえ斃せばいい。それでカタはつく。村の人だってきっと正気に戻る。今はただそれだけを信じて――って、もう見えたよ敵の本丸、針医の診療所。かすかに明かりが漏れてる雨戸の向こうには間違いなく魔人の気配。

 先手必勝!

 生け垣を跳び越え、診療所の庭に置いてあった石灯籠を盾にしつつ、俺は稜威雄走を構えて連射を浴びせる。鉛の二倍違い比重と抜群の硬度を持つタングステン合金の弾頭を超音速で吐き出してるんだから、民家の雨戸や窓ガラス程度の遮蔽物じゃ威力が削がれるはずもなし。撃った五発分全てに手応えがあった。
 トドメを刺すべく、俺はガタガタになった雨戸と窓を蹴り倒して診療所の中へ踏み込む。この悪党めついに年貢の納め時だぜ覚悟しやがれ!

「……げほ、っ……」

 五発の銃弾を身体中に浴び、床に寝転がった血まみれの敵が、口から血を吐く。
 見た目は、白衣を着た総白髪の好々爺――こいつもやっぱり、おじいちゃん。

 でも、その両腕は金色に光り輝いている。

 五発も銃弾を受けてまだ生きてるし、意識もある。とっくにショック死してても不思議じゃないのに。これだけでも普通の人間じゃないことは明らかだ。

 こいつは、間違いなく、敵だ。
 斃すべき魔人だ。

 俺は稜威雄走を構え直し、魔人の眉間に狙いを定める。

「わ、たし……が、なにを、した、と、いうんだ……」

 震える身体を起こした針医が、手近の壁に背中を預ける。
 身体に空いた五つの穴から、赤い血がなおさら多く溢れ出す。

「い、しゃ、いない……こ、んな……過疎、の、むら……だ、から……びょ、うき、を……なおす、ちから……もら、って……ただ、それ……っ、だけ……」
「黙れこの悪党。お前がやったのはそれだけじゃねえだろが」

 黙れ、って。何でわざわざ言葉で言うんだよ、俺。
 トリガーを引くだけで、すぐ黙らせられるんだぞ。

 まさか俺、コイツの見かけに騙されかけてんのか。

 ええいしっかりしろ、心を強く持て、俺。

「何もしてねえヤツが村のじーちゃんばーちゃん利用して盾にすんのかよ。俺はここに来るまでに何度も猟銃で狙われた。俺の仲間も別んとこで銃撃戦やってんだ。それ全部てめえの差し金だろうが。これが卑怯や卑劣でなくて何だ!」

 叩き付けるように、ほとんど一息で言う。
 それを聞いた敵は――針医は、一瞬、驚いたような顔をして。

「し、らな……そんな、わた、しは……しらな、っ……」
「しらばっくれんな! 命乞いのつもりか!」
「ほ、んとに……な、に、も、っ……聞いて、な、っ……」

 そう喋る間に、針医の両腕が光の粒子になって、だんだんと形を失い始める。

「ま、っ……まって……し、しねな……死ね、な、っ……わ、わた……しは、死、ぬ、わけに……い、かな、っ……む、らの、ひと、の……た、めに、っ……」

 針医は、輪郭が消えつつある黄金の手を腹部にあてる。
 俺が放った弾丸が風穴をあけた場所。今もどくとくと赤い血が流れ出ている。
 血の流れが、目に見えて止まっていく。傷口がふさがってる。

「わ、たしは……し、ねな……しね、な、い、ん、だ、っ……」

 黄金の手が、次の傷に触れる。同じように傷口がふさがっていく。

 でも、間に合わない。

 光の粒子が全て飛び散り、黄金の手が消え失せて。
 それと同時に、針医は事切れた。
 残った身体も、たった数秒の間にミイラみたいに干からびていき、砂か灰の塊みたいになって、やがて自重に耐えきれず崩れ去る。血痕も同じように消えてしまった。

 残ったのは、白衣のほか、針医が着ていた衣類だけ。

 しばらく、呆然と、針医だった痕跡を見つめて。

 誰かが、俺の背後から駆け寄ってくる。そういう足音がした。

「沖継、無事か?!」

 案の定、結女だった。

「無事も何も、見ての通りだよ。……もう終わった」
「バカ! 終わったからいい、勝ったからいい、そういう問題じゃない! 一人で勝手に先走るな! 私のいないところで万が一のことがあったら……!!」

 すごい剣幕で怒鳴りつけてくる結女に「悪かったよ、次から気をつける」と素っ気なく返し、俺は診療所の外に出ようとして。

「……ちょっと待て結女。お前とやりあってた村の人は?」

 まさか俺を心配するあまり力尽くで全滅させてきたんじゃないかと思ったんだが、結女は一瞬キョトンとして、それから気を取り直す。

「数分前に突然沈黙してな。攻撃どころか人の気配までパッタリ熄んだ。何があったのかまでは……あ、おい沖継! どこに行く!」

 嫌な予感がして、俺は駆け出した。
 しんと静まり返った村の道をひた走り、邪魔になる装備を捨てていった場所に――気絶したおばあちゃんがいるはずの農家に、戻ってくる。

 そこに残っていたのは、おばあちゃんの衣類と、砂だか灰だかの山だけ。

 開けっ放しの玄関から入り込んだらしい蛍が一匹、ふらふらと周囲を漂っていた。

3-3:涙

 自宅の部屋で。
 俺はTシャツと半パン姿でベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を見上げていた。
 夜なのに明かりもつけず、眠るでもなく、考え事をするでもなく。
 ただ、ぼんやりと。

「沖継、まだ起きているか?」

 部屋の扉が開いて、パジャマ姿の結女が入ってくる。
 でも俺は、返事をするのも億劫で。

「まさか、もう寝て……ないな。どうした?」
「……いや、別に」

 呟いて、ベッドの脇へ歩み寄って来た結女の方へ首を巡らせる。
 その左腕に、開封済みの大きな封筒が抱えられていた。

「ああ、これか? ついさっき、担当の者が届けてくれたんだ。ほら、一昨日、過疎の農村へ征伐に行ったろう。その報告書だ。沖継も読んでおけ」
「……いいよ。状況は何となくわかってる」
「何となく、では意味がない。正確に把握しておくべきだ」

 結女がデスクライトをつけ、封筒に手を入れる。がさがさと中の書類を取り出す。

「あの針医を征伐したあと、農村のほとんどの住民が消滅した。実に三百六十一人。あの辺りはいわゆる無医地区でな、いちばん近い総合病院に行くにも車で一時間以上かかる。公共の交通機関も一日二本のバスだけだ。村民はあの針医を頼るしかなかったらしい」

 都市部に住んでると想像もできない、地方の事情。
 それをよく知りもせず、俺は銃を持ち、トリガーを引いた。
 それは本当に、為すべき正義だったんだろうか。

「他にも現時点で確認できる限り、全国各地で三十名強が消滅した。ほとんどが名士や資産家で、中には現政府の大臣、その秘書や妻、政府高官まで含まれている」
「……は?」

 俺は眉を顰め、勉強机の椅子に腰掛けた結女の方へ身体を向ける。

「私たちが国会で斃した魔人の口コミだろうな。中年期を過ぎると誰でも肩や腰に何かしら異常を抱えるものだが、これは薬や手術でどうにかなる類のものではない。あの針医にかかれば効果覿面、鈍痛も違和感も綺麗になくなると言われたら、金も手間も惜しむまい。山越え谷越え、遠路はるばるやってくる上客がいても、何一つ不思議はない」
「いや、理屈はわかるけど……」
「今回は、敵にまんまとしてやられた、ということだ」

 結女は溜息をつき、資料を勉強机の上に投げ出す。

「沖継が針医と今際の際に交わした言葉を含めて考えるに、針医には敵に荷担している自覚がなかったんだろう。自分が死ねば治療の効果が消え失せるどころか、治療した患者たちまで道連れになるなど、露ほども知らなかった」
「…………」
「善意ゆえに治療に励み、人を治し続け、患者の数は増える一方。やがて噂を聞きつけた私たちが現れて征伐されれば、大勢の人間が一気に消え失せ、社会全体に大ダメージを与えることになる。とんでもなく悪質な時限爆弾だ」

 結女は、机の上で、ぎゅっと拳を握り締める。

「沖継の覚醒が、もう少し早ければ……。いや、私一人でも何とかできたかもしれない。あの針医が癒しの力をここまで広く使う前に征伐できていれば、もっと被害は小さくできただろうに。悔やんでも悔やみきれない」

 それは確かに、その通りなんだろうけど。

「……待てよ、結女」

 違和感を抑えきれず、俺は身体を起こし、ベッドの上で胡座を組む。

「あの針医自体は悪人じゃなかったんだろ。どっちかって言やァ被害者じゃねえか。それを何だ、もっと早く殺しときゃ良かったみたいな言い方しやがって」
「? 沖継、何を……」
「針医のじーさんの口ぶりじゃ、村の連中を焚きつけて俺たちを殺っつけるよう仕向けたヤツが居たはずだ。針医が死ねばお前らも死ぬぞって唆されりゃ誰だって言うこと聞くしかねえ。俺たちが本当に戦うべきはソイツの方だったのに」

 結女は俺の話を聞き終え、得心がいった、という顔をして。

「沖継の言いたいことはわかるが、暗躍する魔人を見つけ出すのは不可能に近いぞ。仲間の能力や立場を把握しているのは、敵の中枢からそれだけ信任を得た強敵だという証拠だ。こうした手合いを殺るには、支配下にある魔人を片っ端から潰して引きずり出すしかない。以前も言った通り、私たちは敵とあらば区別なく斃し続けるしか……」
「思考停止してるようにしか聞こえねえよ! 他に何か方法ないのかよ!」
「思いつく限りのことは過去に何度も試した。牢に閉じ込めても、離島へ流しても、人ならざる力を得た魔人には痛くも痒くもない。それどころか、一ヶ所にまとめて徒党を組まれたらますます手に負えなくなる」
「いや、そりゃ……それはそうかもしんないけど! せめて予防策くらいはさ! そうだ、敵の存在を公にして日本人全体に注意を促すとか!」
「自分の隣人が化物かもしれない、いつ魔人になるかわからない……そんな情報が広く世間の知るところとなってみろ。魔人とまったく関係ない民草まで疑心暗鬼に陥って、かえって社会が混乱する。それこそ敵の思う壺だ」
「なら魔人を説得するとかさ! 仲間にしちまえばこっちのもんだろ?!」
「期待するだけ無駄だ。そもそも敵は絶対に裏切らないような人間を選ぶ。権力欲の肥大化した政治家、癒しの力を欲した針医……魑魅魍魎に魂を売ってでも超常の力が欲しいと欲する者は、いつの時代にも必ずいる。そうした個々人の願いと敵の目論みが一致した時、魔人が生まれるのだから」
「それが思考停止だってんだよ! 俺たちだって元を正せば裏切り者なんだろ!? 諦めずに粘り強くやっていけば、いつかきっとわかってくれて……!!」
「私たちが裏切ったからこそ、敵は二の轍を踏まないよう万全を期すようになったんだ。たとえば、私たちと同じ長寿の能力を持った魔人はこの三千年間ただの一人も現れていない。最初は従順だったとしても長い長い月日が経てば心変わりをする可能性があると学習したからだ。敵は必ず私たちの予想の上を行くと心得ろ」
「あ、っ……い、いや、でもな! それでも……!!」
「これはもう仕方のないことだ。魔人を普通の人間に戻す手段がない以上、どうにもならない。何度でも言うが、敵は区別なく殲滅するより他に……」
「あーもう何だよバカの一つ憶えみたいに殺るだの斃すだの殲滅だの軽々しく言いやがって! 三千年も戦い続けて感覚が麻痺してるだけじゃねえのか?! お前ひょっとして人間らしい心をどっかに忘れてきてんだろ! そうでなきゃこんな……!!」

 ――ガンッ。
 結女が、握り拳を机に叩き付け、俺の話を強引に打ち切る。

「……前にも、言ったはずだ」

 隠しきれない怒りに、声が震えていた。

「私たち夫婦にとって、全ての日本人は家族も同然だ。血を分けた可愛い子供たちだ。場合によっては我が子を手にかけなければならない私の気持ちがお前にわかるのか。息子や娘に銃を向ける母親の気持ちがわかるのか。いや、昔のお前はわかってくれた。同じ立場の父として、夫婦として、伴侶として、当たり前のように痛みも苦しみも分かち合ってくれた。そんな無神経なことは絶対に言わなかった。なのに……っ」

 急に結女は、ハッとして。

「……すまない、沖継」

 消え入るような声で、俺に謝る。

「お前には、何の落ち度もないんだ……。みんなのために命懸けで戦って、傷ついて、死にかけて……。記憶を無くしたのは、そのせいで……。今の発言だって、針医を助けたかった一心で……。お前は、何も……何一つ、悪くない。悪いとしたら……」

 最後の方は、もう、ほとんど聞こえなかった。
 でも、もう一度。

「本当に、すまない」

 謝った時の声は、はっきりと、俺に伝わるように。
 こんな言われ方して、頭が冷えないヤツなんて、いない。

「……ごめん。俺も、言葉が過ぎた」

 素直に、頭を下げる。
 見た目がこんなだから時々忘れてしまうけれど、目の前にいるのは、三千年もの長い間、日本を守ってきた女神様なんだ。俺なんかが考えたり悩んだりすることなんて、とっくの昔に通り過ぎてるはず。意見するときはそれを踏まえてなくちゃいけない。
 つーか結女も、何もわかってない小僧が知ったような口利くなって、その勢いで押し切ってくれりゃ良かったのに。どう考えたってありゃ俺が悪かった。結女の心を汲もうともせずに、狭い了見で酷いことを言っちまって――。

 ふと、頬に風が当たるのを感じて、項垂れていた頭を持ち上げる。

 結女が、部屋の窓を大きく開け放っていた。
 梅雨時には珍しく、夜空は綺麗に晴れている。さすがに天の川までは見えないけれど、都心からそれなりに離れた住宅街のど真ん中だから、星の光くらいは届いてくる。

「月がないな」

 長い髪を夜風になびかせながら、結女が呟く。

「ああ、新月なんだろ」

 頭の中で大雑把に月齢を計算して、俺は答える。

「……また敵が増えるな」

 憂鬱そうな顔で、結女が呟く。
 ここだけ聞くと背筋がゾワッとするほど完璧な中二病だけど、まさか結女に限って無意味かつ痛々しいカッコつけなんかするはずがない。俺は至極真面目に「どういう意味だ?」と訊き返す。

「敵がこの世界に干渉してくるのは、新月の夜だけなんだ。すでに暗躍している魔人どもに新たな指示や命令を与え、それと同時に、見込みのある者を選んで新たな魔人を誕生させる……そういったことが起きる」
「ああ、だからこないだ、拓海とコノに……。でも、何で新月だけ?」
「わからん。恐らく、地球と月の重力場が関係しているんだろうが」

 うーん。敵の命令系統を混乱させるか、新たな魔人の誕生を邪魔するか、どっちか一つでも実現すれば戦いが楽になりそうなんだけど。重力場なんて途方もないモノが関わってるんだとしたら、そこに対策を打つなんてまずムリっぽい。
 結女が何度も言ってる通り、俺たちは結局、魔人とあらば殲滅するしかない、のか。

「今後の参考までに、一応訊いとくけどさ。魔人って一回の新月でどのくらい増えるんだ? 五人とか十人? まさか百人なんてことは……」
「そうだな、最大で千人くらい」
「せっ……?! そりゃねえよいくら何でも増えすぎだろ!」
「いや、これは理論値のようなものと考えてくれ。そうだな、魔人ポイントとでも言うようなものを想定するといい。新月の時に現世へ送り込まれるポイントの最大値が一千。それを一人の人間に全部注ぎ込めば、桁外れの能力を持つ魔人が誕生する」
「てことは、それを複数の人間に分けると……」
「それだけ個々は弱くなる。雑兵がいくら増えても怖くはないが、取り急ぎ手下の数を増やしたい場合は粗製濫造される傾向にあるな。これは私の勘だが、国会で戦った魔人はどれもせいぜい二百ポイント程度。あの針医は……かなり特殊な能力だったから一概には言えないが、それでも三百を大きく超えることはない」
「俺と結女は?」
「一人につき五百と見ていい。二人合わせて一千」
「はー。敵からすりゃ上級幹部みたいなもんか」
「言い得て妙だな。連中の走狗だった頃の私たちは、確かにそういう扱いだった」
「じゃあもし仮に、今夜、一千ポイント全部注ぎ込んだ魔人が誕生したら、二人で何とか勝てるかどうかってことに……」
「そう単純にはいかない。私たちのポイントは長寿と健康に関わる能力にほとんど費やされている。戦闘的な能力に特化した魔人が出た場合、単純な力勝負ではまずこちらに勝ち目はないぞ。……いや、力が足りない分は、武器で補えばいいんだが」

 結女の目が、机の上に置いてある稜威雄走にちらと向けられて。
 それから再び、月のない夜空の方を向く。

「この一ヶ月、沖継が復活して派手に活躍していたのは、敵も把握しているはずだ。方々に潜伏している強力な魔人に指示が飛んで刺客として送られてくるか、あるいは、私たちの邪魔をするのに適した能力を持つ新しい魔人が生まれるか」
「…………」
「本格的な戦いは、おそらく明日から始まるぞ。今夜は早めに休んでおこう」

 結女は言って、窓とカーテンを閉める。

「……なあ、結女。素人考えなんだけどさ」
「んむ?」
「敵の本拠地を探し出してそこを叩く、ってのは無理なのか? 異世界だか幽霊だか知らないけど、とにかく根っ子を断ちゃあ、戦いそれ自体が終わるはずだろ」
「それは、私たち夫婦の宿願だがな。まず無理だ」
「何で」
「考えてもみろ。もし私たちが敵の大本締めだとしたら、自分たちの正体は絶対に明かさないぞ。手下にした魔人にも本拠地の情報など与えはしない。異世界から一方的な干渉を続けてさえいれば、いずれ……」

 結女は、そこで言葉を呑み込んだ。俺から目を逸らして、黙り込む。

 でも、続く言葉は想像がつく。

 仮に今すぐ全ての魔人を全滅させても、次の新月にはまた別の魔人が生まれてくる。そして、俺たちが健康と長寿の能力を持ってる以上、敵の本丸にもそれと同等以上の能力を持ってる指導者がいるに違いない。ハンデがあるどころの話じゃねえよ。永遠に終わりがない戦いの中、最終的な勝利を掴むのはどう考えても敵の方だ。

 しばらく迷った末、俺は思い切って口を開く。

「結女は、さ。今まで……」
「今まで? なんだ?」
「その……今まで、もう辞めたい、戦いたくないって、思ったことは……ないのか?」

 三千年も防戦一方なんてやってらんねえよ。相手がどんなに卑怯で卑劣な悪党で、何としても打ち倒さなきゃいけない相手でも。嫌気が差すよ、音を上げるよ。
 でも、結女は、はっきりと。

「そんな迷いは、とっくの昔に振り切ったな」

 すごく穏やかで、優しい微笑みを浮かべて。

「母親が我が子を守るのは、当たり前のことじゃないか。三千年だろうが三億年だろうが関係ない。最期の最期まで戦うとも」

 言い切った。
 それこそが結女の正義? あるいは母性? 女の子が生来持ってる強さ?
 いや、そんな言葉を頭の中で弄するだけで恥ずかしい。たかだか十八年程度しか生きてない俺に、女や母親を語る資格なんぞあるもんか。単なる言葉遊びだ。
 このコに比べたら、俺なんか全然薄っぺらい。身体はもうオトナになってるし、才能もスキルも山ほど持ってても、肝心のハートがまだまだガキだって思い知らされる。

 ――正義の味方ゴッコ、か。

 口惜しいけど、拓海のヤツの言う通りなのかもしれない。

「どうした、沖継。何を考え込んでる?」
「え……あ、いや、その……。別に……」
「水くさいぞ、夫婦じゃないか。お前の悩みは私の悩みだ、遠慮しないで話してくれ」

 夫婦――か。
 いつの間にかその言葉を聞くのに慣れて、何となく受け入れてきてしまったけれど。

「なあ、結女。その夫婦っての、もう、止めてくれないかな」

 結女の顔が凍り付く。ピキッと音を立てたのが聞こえるくらいに。

「な……んだと? お前まさか、私と離縁してあの愛人を本妻にする気か?!」

 吹いた。

「いやいやいやいやお前何言ってんだ違うそういうことじゃない」
「ええいウソをつくなこういう時の女の勘を欺けると思うのか! だいたいお前があの愛人に向ける目はいつだって優しすぎるんだずっと前からおかしいと思ってたんだ! 学校にしてももう行く必要などどこにもないのに退学届を出しもしないで!」
「いやほんと違う、全然違うから、頼むから落ち着け」

 言いながら、何だか笑ってしまう。いつも落ち着いていて時には冷徹なくらいなのに、俺が絡む話になると些細なことで取り乱すんだから。

 結女は本当に、心の底から、俺のことが好きなんだろうな。

 つくづくそう思って、それ故に決意する。やっぱ今のままじゃダメだ。曖昧な態度でなし崩し的に事実婚みたいになっていくなんて、そんなのでいいはずがない。

 一度、深呼吸してから。

「……俺さ、夫婦とか伴侶とか言われても、どうしてもピンとこないんだ。だって俺、女の子とまともに付き合ったことすら一度もないんだぜ? 途中で経験することをいろいろスッ飛ばしていきなり夫だ妻だって、不自然だよ」
「何を言うんだ。一昔前はそれで普通だぞ。ほとんどは見合い結婚で」
「いやだから、昔は、だろ? 今の俺は過去の自分のことなんて完全に思い出せてないし、もう思い出せそうもない。気持ち的には平成生まれの十八歳なんだぜ。気持ちのどっかで高校生の気分がまだ抜けきってないんだよ。この先ずっと戦い続けられる覚悟も自信も、正直言って全然ないしさ」

 何か言いたげだった結女が、言葉を呑み込む。
 俺の顔を真っ直ぐ、真剣に――いや、無表情に、じっと見つめてくる。
 俺も、その視線を真正面から受け止める。それが今の俺にできる、精一杯の誠意。

「でも、勘違いしないでくれ。それはさ、結女に夫扱いされること自体が嫌だとか、敵と戦うのをやめたいとか、そういうことじゃないんだ。……俺、結女は本当に立派だと思ってるよ。メンタル強くて、ブレなくて、やるべきことをしっかり見据えてて、その……尊敬……そう、尊敬の気持ちの方が強いというか」
「…………」
「尊敬できるひとに、ここまで好かれてて、必要とされてて、光栄だって思わないはずないだろ。できればさ、俺もその気持ちに応えたい。本当にそう思うんだ。でも、俺はまだ、結女が思ってるほど立派な男じゃない。ここんとこがさ、お前ほど鍛えられてない」

 自分の胸のど真ん中を、拳で二度、軽く叩いて。

「結女はよく、夫の言うことに従うのが妻の務めだ、みたいな言い方するよな。俺のことを尊重して、対等より少し上のところにいつも置いてくれてる。でも今の俺なんて、ぶっちゃけ結女のお手伝いがせいぜいじゃないか。男だから腕力あって、素早く動けて、より強い武器が使えるって、単にそれだけだもんな」
「…………」
「だから、まずは俺がもっと強くなってさ。フィジカルじゃなくて、メンタルの方で……ちょっとやそっとじゃブレない心の強さとか、やるべきことを見失わない意思とかさ。まずはそういうのを手に入れないと、結女が言うような関係には、とても……」

 あれ。どうなってんだ。何でだろ。
 喋ってるうちに、何だか胸の中がモヤモヤしてきた。すっげえ嫌な気分。
 緊張してんのかな、俺。こんなこと滅多にないのに。珍しい。

 ぎゅっと強く拳を握り締めて、もう一度だけ深呼吸。落ち着いたつもりになって。

「夫だからとか、妻としてとか、そうやって役割を決めるんじゃなくてさ。ちゃんと段階踏もうよ。俺たちの関係、ゼロから積み上げて行こうよ。その方が絶対いいと思うんだよ。ドンパチの時だって俺に遠慮なんかしなくていいよ。どう考えたって結女の方が戦い慣れてるし、状況だってわかってんだし。堂々と俺に指示して命令して、引っ張っていってくれ。今度からは俺も、勝手に判断したりしないで、ちゃんと結女に従うから。これから本格的に戦いが始まるってんなら、なおさらだ」
「…………」
「つまり、その……そういう、こと、なんだけど。伝わった、かな」

 結女は無表情のまま、眉一つ動かさなかった。
 言うべきことは全部言ったから、こっちは反応を待つしかない。
 結女の無表情が動く時を、じっと待ち続けて。

「……え」

 自分の目を疑った。何でそうなるのか、理解できなかった。

 結女は無表情のまま、眉一つ動かさないまま。
 瞳から、つうっ、と一筋、涙を流す。

 そして、その量がみるみるうちに増えていく。滝のように涙が流れ続ける。こみあげてくるものをこらえきれず、ひっく、ひっくと喉が鳴る。無表情が崩れていく。

 なんと立派なことを言う、さすがは沖継だ、素晴らしい――そういう類の嬉し涙なのかと自分に都合のいい解釈をしかけたんだけど、静かな嗚咽の向こうには絶望としか言い様のない感情が見え隠れしてる。どう考えてもこりゃ悲しみの涙だ。

「え、あ、その、え? 何で? あ、っと、結女? えっと……」

 両手の甲で溢れ出る涙を何度も拭い、それでも涙が止まらず、結女の綺麗な顔がぐしゃぐしゃになっていく。みんなを守って三千年も戦い続けた女神様どころか、転んだだけで泣いてしまう小さな女の子にしか見えなくなってくる。
 どうすりゃいいのよこれ。頭を撫でて慰めるか? 肩を掴んで抱き締めるか? いやいやそりゃあ何か違うぞ。ましてや夫婦とかそういうのやめようぜって言った直後だし。

 結局、俺はただ、泣いてる結女の前でオロオロ、オタオタしてるだけ。
 かける言葉を探しているうちに、結女の様子が落ち着いてきて。

「……すまない、泣いたりして……」

 泣き疲れて掠れた声で、言う。

「一晩、考えさせてくれ」

 肩を落として俯いたまま、立ち上がり、部屋を出ていく。
 扉が、閉まる。
 俺は一人、デスクライトだけがついた暗い部屋の中に、取り残された。


3-4:雨降って地固まる?

 朝になって、目覚ましが鳴る。
 でも、最初の「ピ」っていう音が鳴るか鳴らないかで、すぐに止めた。
 昨晩のことがあったせいか、どうも眠りが浅くてさ。結女を泣かせるようなこと言ったのかな、何かしくじったのかなって、ほとんど無意識的に反省し続けていて。

 今日はどうするんだろう。
 学校に行っていいのかな。それとも征伐なんだろうか。

 新月の後で本格的な戦いが始まるとか言ってたけど、具体的にどういう状況になるのか、どう心構えをしておけばいいのか、俺には全然わからない。

 着替えをせずに部屋を出て、階段を下り、洗面台で顔を洗いながら。

 ――結局、結女に指示してもらわなきゃ、どうしようもないんだよな。

 漠然とそう考えて、俺が昨夜言ったことは妥当かつ建設的な提案だったよな、少なくともまるっきり間違ってはいないはずだ、という思いを新たにする。
 なのに、どうして、結女は笑ってOKしてくれなかったんだろう。

「夫唱婦随、どこまでもお前についていくぞ」
「いざという時は男の出番ということか。頼もしい」
「夫婦で一緒に死ねるなら、本望だ」

 結女と初めて出逢った日、俺に笑顔を見せてくれた時の様子が、脳裏に浮かぶ。
 でもよく考えたら、結女があの笑顔を見せていたのは、俺の肩越しに過去の俺を見ていたからなんだよな。今の俺じゃなくて。

 昔の俺って、そんなに凄かったのかな。

 疑問に思うまでもなく、そりゃあもう凄かったんだろう。あの結女がベタボレだったんだし、三千年も戦い続けたタフガイにふさわしい鋼鉄の心を持ってたに決まってる。

「今の俺とは、比較にならない……か」

 顔を濡らしたまま、排水溝に呑み込まれていく水を見つめて、呆然と呟く。

「あ……おい、ちょっと待てよ」

 まさか。
 俺が昨晩言ったことって、結女にとっては軟弱の表れとしか感じられなかったのか?
 たとえば「お前が望んでる過去の俺なんか演じてらんねえよ、今の俺はそんなに強くないんだもーん」みたいに解釈されてたとしたら「何だこいつは、何を甘っちょろいことを言ってるんだ、私が期待していたのは自分をグイグイ引っ張っていく強い男だったのに、心底ガッカリしたぞ」みたいにしか受け取りようがないじゃないか。んで失望のどん底。あまりの情けなさに泣くしかなかった、と。

 ヤバい。大失態だぞコレ。なるべく早く補足なり言い訳なりして誤解を正さなきゃ。

 俺は慌てて顔を拭き、洗面所を呼び出し、廊下を走り、客間へ――結女の部屋へ向かう。そこは我が家で唯一、畳敷きの和室。廊下と部屋を隔てているのは障子戸のみ。

 その障子戸が、開けっ放し。

 部屋の中に結女はいない。布団も片付けられてる。それどころか、女の子がここで一ヶ月近く生活していた痕跡そのものが一切ない。

「こ、っ、これ……どういう……」

 ひょっとして、もしかして、まさかして。
 これが噂に聞くところの「実家に帰らせて頂きます」とか言うヤツなのか?!

「ちょちょちょちょっと待て結女ぇ! そりゃ誤解だ早まるなーッ!!」

 慌てて玄関へ。とにかく外へ出て結女を探しに行こうとして。
 靴を履いてる最中、ふと気付く。ごく近くに人の気配。

「何だ沖継。朝からうるさいぞ」

 俺が振り向くのと、割烹着を着た結女が居間から顔を出したのは、ほぼ同時だった。

「あ、あれ……? 家に居たの……か?」
「居たも何も。お前に言い置きもせずどこかに出かけるはずがない」
「いや、だって。客間……。結女の荷物、部屋に一つも……」
「? 全て押し入れの中の箪笥に片付けてあるはずだが」

 あらま。ずいぶん片付け上手なんですね。

「朝食はさっき仕込みを始めたところだ。まだ何も出来ていない。もう少し待ってくれ」

 言いつつ結女は居間に戻り、そこを通ってキッチンの方へ歩いて行く。
 拍子抜けするくらい、いつも通り。

「なぁんだ、俺はてっきり……」

 苦笑して頭を掻きつつ、俺は居間のソファにどかっと腰を下ろし、独り言。

「てっきり、何だ?」

 あら、聞こえてたのか。耳いいな。

「昨日、あんなことがあった後だからさ。俺に愛想尽かせて出てったのかと」
「はあ?」

 何を馬鹿なことを言ってるんだ、みたいなニュアンスで。

「私がここを出て、一体どこに行くというんだ」
「いや知らないけど、これまで住んでたとことか」
「そんなもの、とっくの昔に引き払ったぞ。だいたいな……」

 続く言葉は、トントントン、と、リズミカルに動く包丁の音に紛れて聞こえなくなる。
 でも、俺の聞き間違いでなければ。

「……私の帰る場所は、沖継の側だ。それ以外にあるものか」

 結女は、小さな声で確かに、そう言った。

 俺は思わず安堵の溜息。そうだよな、結女がこの家を出てってどこかに行くなんて、そんな選択肢はハナっからないんだよ。はは、何を慌ててたんだか。

 ――あれ。

 何で俺、胸の中がモヤモヤしてるんだ?

 細かいことはあんまり気にしないタチだけど、このモヤモヤはとても無視できる類のものじゃなかった。朝っぱらからすっげぇ嫌な気分。何だこれ。

 この気持ちにぴたっと当てはまる言葉を、ひとしきり考えてみて。
 劣等感?
 うん、かなりいいとこ突いてる感じがする。

 でも何で? 今の流れで俺が劣等感を抱くような部分がどこにあった?
 いや待てよ、俺、このモヤモヤと同じものを昨晩も感じてなかったか? まさか、昨晩からずっとずっとずーっと、心のどこかで劣等感を引きずってた?

「……どうした、沖継」

 結女に話しかけられて、顔を上げる。
 鰺の開き、青菜の小鉢、味噌汁、大根下ろし、自家製の漬け物。それらがダイニングのテーブルにずらっと並んでいて、結女は炊飯ジャーからおひつに移したご飯を茶碗によそっているところだった。いつの間に朝食が出来上がってたんだ?

「いや、別に何でも……」

 否定しつつソファを立ち上がって、朝食の席につく。箸を取り上げ、いただきますと手を合わせ、お茶碗を持つ。
 それから、改めて結女の顔を見て。

「……あ」

 唐突に、気付いた。
 このモヤモヤは、劣等感じゃない。
 いや、それも無関係とは言わないけど、でも。

「? どうした沖継、献立が気に入らなかったか?」

 箸を止めて結女の顔をガン見してたもんだから、結女が不思議そうに小首を傾げて訊いてきた。その仕草と表情が本当に可愛らしくて。
 もう、誤魔化していられなくなった。

「……あのさ、結女」
「ん?」

 ああもう、クソっ、まっすぐこっちに向いてる結女の顔がまともに見られない。

 その目が実は、これまで一度も今の俺を見てくれてなかったんじゃないかって、そう思ってる自分に気付いてしまったから。

 物凄い美形で、可愛くて愛嬌もあって、素直に尊敬できる女の子。そんな相手に夫扱いされて、全幅の信頼を寄せられて、頼りにされて、事実婚みたいな関係を何となく受け入れながら、俺は今まで結女の好意を無神経極まりない態度でスルーし続けてた。よく考えたらおかしな話だよ。拒絶するなら拒絶する、受け入れるなら受け入れるって、今までの俺はずっとそうしてきたのに。

 なぜ、そうしなかった?

 結女の見た目が俺の理想より幼いから? 征伐で忙しかったから? 側にいるのが当たり前で惰性になっていたから? いやいやいや、断じて違う。ンな訳がない。

 斜に構えてたんだ。

 きっと凄かったに違いない過去の俺と、その俺と長年連れ添ってきた結女。結女の好意は全てその延長線上にある。それがどーにも口惜しかったんだ。私の帰る場所は沖継の側を除いて他にないとか言われても、安堵の気持ちより劣等感に近いモノをより強く抱いてしまったのはつまりそのせい。今の俺を見て惚れてくれたんじゃない、結女が側にいたいのは昔の俺なんだって、心の底でそう思ってたんだ。

 要するに、嫉妬。

 男として明らかに劣ってる今の俺が、凄い男だったに違いない過去の俺に嫉妬してたんだ。うわあ、なんて見苦しい。
 んでも、昨日の夜はそれに気付いてすらいなかった。不思議な夢はもう見なくなったんで、俺の成長はここでストップ、もう過去の俺にはなれません、だから今の俺を見てくれよ、二人で新しい関係を築いていこうぜ――ふざけんなこんなの泣き入れてんのと何も変わらねえよ。今の俺は過去の俺に絶対勝てませんって敗北宣言したようなもんだ。
 ああもう、自分に腹が立ってきた。冗談じゃねえ。冗談じゃねえぞ畜生。

「な、何だ、沖継。そんな目で睨むな。私が何かしたか?」

 戸惑う結女に、俺は叩き付けるように。

「心配すんなお前は何もしてねえよ相変わらず最高に可愛くて綺麗なまんまだ」

 一息で言ってしまって、結女の顔が物凄い勢いで真っ赤に染まる。耳からぼふっと音を立てて蒸気が噴き出すんじゃないかってくらい。
 ああでも、それでも結女は、今の俺に照れてるんじゃない。この真っ赤な顔も、困り果てて挙動不審になってるのも、過去の俺と繋がってる俺だと思うからこそ。

 俺は覚悟を決め、居住まいを正し、真正面から結女に向き直る。
 黒くて大きな、澄んだ瞳。見てるだけで吸い込まれそう。ホントに端正な顔してる。改めて見たらほんとすげえ美人だよ――って感じること自体がもう心底惚れてる証拠なんだよ俺のバカ。ただ顔が綺麗なだけでここまで惹きつけられねえよ、昔から美人は三日で飽きるって言うだろ、普段からテレビや雑誌を見てたってそうだろ、まるで興味のないタレントやアイドルが何人出て来たところで平気でスルーしてんじゃねえか。

 俺の心の中ではとっくの昔に、結女に対して最大級の補正がかかっちまってたんだ。
 きっとコイツが夢の中に出て来てた理想のひとだって気付く前から、あの結婚式場での初対面から、もうほとんど一目惚れだったんだ。
 それなのに、ああそれなのにそれなのに。さっきまでの俺ときたら過去の俺と戦いもせずに尻尾巻いて逃げ出すような真似しやがって。アホめバカめ意気地無しめ死んでしまえ。過去の俺がどんだけ凄かろうが関係あるか。今の俺がいくら劣ってようが知ったことか。本気で惚れた女なら奪い取る気で挑め。命懸けで口説き落とせ。おうとも、俺はやるぞ、思い立ったが吉日の電撃作戦、生涯初の告白の時は今こそ来たれり!

「昨晩のことなんだけどさ。あれ、忘れていいから」
「……は?」
「百年でも千年でも億万劫でもドンと来いだ。結女と一緒に戦って戦って戦い抜くよ。学校だって今すぐ辞めて、お前の望む通りの……」

 お前の望む通りの夫になる! いやむしろ今の俺は必ず過去の俺を超えてみせる! だから俺たち改めて結婚しよう! 永遠の愛を誓うぜ!
 って、言うつもりだったのに。

「何だと?! おいこら沖継ちょっと待てそれは困る!!」

 ぎゃふん。

「昨夜お前にあんなこと言われたから私もいろいろ考えたんだ! 確かに私は性急だったし今のお前の立場も気持ちもロクに考えてなかった! 海より深く反省したんだ!」
「い、いや、しなくていいって、結女は別に何も」

 それより告白させて下さい。お願いだから。ああっ、決意がしぼんじゃう。

「だから私は今朝早く、慌てて方々に連絡をして……」

 がたがたがた。結女は俺の発言をぶった切るように椅子を蹴って立ち上がり、ほとんどむしり取るように割烹着を脱ぎ捨てる。

「ちょ、結女、おい……何だよ、その格好」

 気付かなかった。うちの学校のセーラー服じゃん。生地の質感とか見る限り間違いなく正規の夏服。ご丁寧に校章もついてる。

「今日から私も、お前と一緒に学校へ通うことにした。転入手続きも取ってある」
「……はい?」
「お前がゼロから関係をやりなおそうなんて言うからだ! 私は戸籍上では十六歳なんだぞ! 十八歳のお前と健全かつ真っ当に関係を深めようと思ったらこうするしかないじゃないか! 同じ学校へ通って机を並べて学んで一緒に昼食を摂って、放課後にはファストフード店に寄り道して買い食いして夕焼けの土手道を自転車で二人乗りして!」
「あ、あの、結女さん? えっと」
「昨晩あんなに悩んだ末やっと辿り着いた結論だったのに! それはいいかもしれないな、何だかちょっと楽しみだぞと思って少しだけワクワクしてたのに!」

 嘘つけ。少しじゃないだろお前。めちゃめちゃワクワクしてただろ。でなきゃこんな用意周到に準備するもんか。日本の公的機関は電話一本入れるだけで言うこと聞くとは言え、文科省や教育委員会までねじ伏せるのはさすがに権力の濫用じゃねえのか。

「あと、来年の春先まで、征伐は一切しないことにした」
「……え。ちょ、おま、はい?」
「少なくとも沖継が卒業するまで、高校生として清く正しい交際にいそしむ。そして絆を深めるんだ。とりあえず夕日で橙色に染まった放課後の教室で初々しい初キッス。これは一学期のうちの達成目標。そして夏休みに嬉し恥ずかし初体験。二学期には学校中の噂になろう。ねえねえ聞いたー? あの二人ってデキてるんだってー、みたいな感じで」
「それ清くも正しくもねえよすでに不純異性交遊だよ!」
「今やそのくらいごく普通なことだろうにこないだテレビでも見たぞ!」
「頭の悪い女子高生みたいなこと言うんじゃねえよもっと真面目に考えろ!」
「何を言うか一晩真面目に考えたからこうなったんだ!」
「じゃあ考え方がおかしいんだよだいたい日本の平和はどうすんだ敵は魔人は!」
「そんなもの今は二の次だ私と沖継が結ばれてから考えればいいし阿吽の呼吸で力を合わせて戦えるようにならないと遅かれ早かれ敗北に至るんだ! そのためには愛だ! 私たちの最大の武器だ! これは心と身体を組んずほぐれつして理屈でない部分で育むしかない! いいか沖継憶えておけ必ず最後に愛は勝つんだ流行歌にもある通り!」
「どこにそんな流行歌があんだよそんな小っ恥ずかしい歌聴いたこともねえよ!」
「それはお前が知らないだけだ私は伊達に三千年も生きてないぞ! それともお前は不服なのか?! 私では初体験の相手としてふさわしくないとそう言いたいのか!!」
「そういうことじゃねえよ大歓迎だよいっそ今から部屋に連れ込んで押し倒して学校サボって一日中ヤり続けてもいいくらいだよ! でも違うんだよせっかく惚れた女なんだからもっとこう大事にしたいんだよわかるかこのオトコゴコロが! 頼むから自分を安売りすんなよ綺麗で可愛くいてくれよ俺にとっちゃお前はずっと前から思い焦がれてた理想の女神様なんだかさあ! もっと真面目に考えろよおおおぉおおぉぉぉおッ!!」

 ぜーはーぜーはー。絶叫し続けたもんだから流石に息が切れた。結女の方も俺に負けじと絶叫してたからか、急に静かになっちゃって。

 息を整え、顔を上げる。

 結女は目を点にして、きょとんとしてる。

「……な、何だよ」

 急に様子が変わったから、こっちも毒気を抜かれてしまった。

「今の、もう一回……」
「は?」
「今、沖継が言ったこと……。もう一度、頼む」
「もう一度って、俺、何か変なことでも言っ……」

 ――あ。
 あ、ああ、あああっ。うあああああああっ?!

「いや、すまない……もういい」

 全身の血液が頭に上って破裂しそうになってる俺に、ほっぺたを桜色に染めた結女が微笑みかけてくる。

「大事な言葉は、二度も三度もいらない。一度だけで充分だ」

 結女は、本当に、嬉しそうで。

「沖継、お前は気を悪くするかもしれないが」
「……?」
「私は今、少しだけ、お前が一度死にかけて、産まれ直して、良かったと思ってる」
「え……」
「昔のお前は、その、昔気質というか、頑固というか……。最高に可愛いとか、惚れた女には綺麗で居て欲しいとか、そんなこと、口が裂けても言ってくれなかったから……」

 胸の前で手を組み、照れ臭そうに。

「私たちはきっと、何度この世を輪廻しても、必ずめぐり逢って恋に落ちる、そういう関係なんだな。今のお前を見ていると、そう信じられる」

 結女はただ、思い浮かんだ言葉をそのまま口にしただけなんだろうけど。
 いや、だからこそ、結女が俺のことをこの一ヶ月どう見てたのか、短い言葉の中にありありと表れていたのかもしれない。

 何のこっちゃない、俺の杞憂だったんだ。
 結女はちゃんと、今の俺を見ててくれてたんだ。
 その上で、昔の俺と同じか、ひょっとしたら、それ以上の――。

「……なあ、沖継」

 結女が、歩み寄ってくる。
 テーブルを迂回して、俺の側へ。

「自分で言うのも何だが、私は、面倒臭い女だぞ」

 話す声の息がかかるほど、互いの体温が感じられるほど、近くで。

「面倒臭いなんて、思ったことないよ」

 俺たちは、言葉を交わす。

「待っているのは、平穏とは縁遠い修羅の道だぞ」
「望むところだ。退屈しなくていい」

 結女の顔と、そのすぐ脇に垂れている艶やかな黒髪。
 その間に、俺は手を差し入れて。
 柔らかな頬を、掌でそっと撫でる。

「一人じゃさすがに、しんどそうだけどな。結女がいるなら、大丈夫だろ」

 結女は目を閉じ、俺に頬を撫でられている感触を、しばらく黙って受け止めてから。

「なあ、沖継。一つだけ、憶えていてくれ」

 頬に触れていた俺の手を、左手でそっと引き離し、右手を被せて、包み込む。

「この先何があっても、私はお前の伴侶だ。私だけは、お前の味方だ」
「……?」
「怒る事があっても、喧嘩することがあっても、傷つける事があっても、私はいつだってお前の幸せだけを願ってる。それだけは忘れないでくれ」

 ひょっとすると、これ、結女が今思いついた言葉じゃないのかな。前々から考えていたのか、詩や小説の文言なのか。すでに記憶の中にある文句をなぞったような感じがした。
 でも、その言葉に乗せられた結女の想いは、間違いなくオリジナル。

「憶えとく」

 俺は一言だけ返して、結女の両手に包み込まれた手に力を込め、引き寄せる。
 ただでさえ近かった二人の距離が、さらに近くなって。

「……私の予定では、放課後の教室で……」

 戸惑いがちに呟いた結女の唇に、俺は構わず、自分の唇を重ねる。

 十八歳と一ヶ月、初めて彼女が出来た瞬間。
 記念すべきそのキスは、ほのかに味噌汁と鰺の開きの味がした。


3-5:と思ったら地盤沈下に土石流かよ

 その三十分後。
 俺は開襟シャツの夏制服姿で、玄関先に出て。

「……なあ結女、本当にこのまま女子高生をやるつもりか?」

 霧雨煙る空を見上げつつ、開けっ放しの扉の中へ声をかける。結女はまだ靴を履いてなくて、下駄箱に備え付けの大きな鏡に向かい、セーラー服のスカーフを整えていた。

「もちろんだ。いまさら取り消すなど各方面に申し訳がなさすぎる。お前の通っている高校に魔人が潜んでいるなどと大嘘ついて押し切った手前もあるしな」

 うわあ。お前やっぱそれ権力の濫用だよどう考えても。

「それにこの一ヶ月、私たちは相当な数の魔人を一気に駆逐したからな。特に政財界の上層部はほぼ浄化されている。いったん良い方向に回り出した歯車を逆転させるのはそう簡単なことではない。一年くらい放っておいてもノープロブレムだ」
「楽観し過ぎな気もするけどなぁ……」
「お前は心配し過ぎだ。この二十年弱、お前は不在で私も刺客に追われ続けて、敵はやりたい放題だったんだぞ。それでもこの国は何とか持ちこたえてきたんだ。日本人が持つ底力は半端なものじゃない。安心しろ」

 言いつつ、結女は足元にあった二人分の弁当が入ったリュックを差し出してくる。シャレにならない重さなんで、背負って持ち運ぶのは俺の担当ってことらしい。

「でもさ、そりゃあくまで大局的な話だろ。俺らの周辺は相当ヤバいんじゃないのか」

 リュックを受け取りながら言うと、結女が「どういう意味だ?」と訊き返してくる。

「昨晩言ってたろ、新月の直後で本格的な戦いがどうのこうのって。敵が俺たち二人を本気で狙ってくるのなら……」
「殲滅するのみだ。私たちの視界に入ってきた敵まで見逃す道理はない」
「そこだよ俺が気にしてんのは。学校で銃撃戦がおっ始まって同級生や後輩が巻き込まれるとか、そんなのはさすがに願い下げだぞ?」
「だからお前は心配し過ぎだ。敵は何の関係もない民間人を巻き込むような作戦はまず取らないし、過去にそういう真似をしでかした例もない」
「はぁ? 何言ってんだよ、現に帝都ホテルやベイブリッジで……」
「あの式場には源家の親類縁者を名乗る者しか居なかったし、戦車砲は私たちの乗っていた車だけを狙い続けていたはずだぞ。運悪くそれに巻き込まれた者はいただろうが、あくまで不運なだけ。国会での戦闘においても、国会議員を人間の盾として利用して私たちの銃撃を防ぐとか、そういう戦術は採らなかったじゃないか」
「え? あ、あれ?」

 戸惑う俺をよそに、結女はスカートの裾を上品に捌いて三和土と廊下の際に腰を下ろし、真新しいローファーへ足を入れていく。念入りに履き心地を確かめながら。

「敵は慈悲も容赦も持ち合わせていない。想定外の奇手を好み、手の込んだ罠を仕掛け、嫌らしい謀略を張り巡らせる。篭に閉じ込めた虫けらを嬲り殺しにするかの如くだ。ただ、それでも奴らには奴らなりのタブーがあって……そう、毒持たず噛まぬ虫まで殺むるなかれ、とでも言えばいいのか。奴らが本気で私たちを殺しに来るなら、その時は少数精鋭で堂々と挑んでくるはずだ。賭けてもいいぞ」
「結構分別あるんだな、悪党どもの分際で」
「そこはむしろ、賢しい計略だと捉えるべきだ」

 と言ったところで、靴のチェックは終了。黒髪をふわりと舞わせつつ立ち上がる。

「もし仮に、敵の大元が無辜の人々を虐殺するような作戦を立てたとしよう。しかし、実際に行動するのはあくまで配下の魔人だ。乳飲み子やうら若い娘を一方的にくびり殺すのは最悪の気分だろうし、よしんば猟奇殺人犯のごとき悦楽に目覚めてしまったとしても、頭のイカれた殺人鬼を他の魔人たちが許容できるとは限らない。魔人たちは理不尽な命令を下すボスへ不満を募らせ、やがて命令違反や裏切りを招くことになる」
「確かに、一歩引いて見てみれば、ボスが自分で自分の首を絞めてるようなもんか……」

 俺の呟きに、結女は「うむ」と頷いて。

「だから奴らは、短絡的な作戦を避け、慎重かつ綿密に策を練るんだ。回りくどすぎて意味不明なこともしばしばあるが、有史以前から歴史の影で暗躍してきた連中だしな、配下を掌握する采配の機微はわきまえているんだろう。よって、未成年者が大勢いる学校を戦場にするような愚を犯すなど、まず考えられない」
「はー、なるほどね」

 むしろ結女がそこまで踏まえて判断してることに驚くよ。視野が広いというか、読みが深いというか。問題なのはその卓抜した能力を女子高生ごっこのために濫用してるということなんだけど、そこは目をつぶっておくべきか。

「とは言え、何事にも例外はつきものだ。いつ何時、何があっても大丈夫なよう、備えだけは怠らないようにな。……武器はちゃんと持っているか?」
「ああ、そりゃ当然」

 稜威雄走は普段から持ち歩くにゃ少々デカすぎるんでバッグの中だけど、代わりに掌サイズの携帯用小型拳銃を身につけている。専用のホルスターを使って腰の後ろ側へ、しかもズボンとパンツの間に差し込むようにしてるんで、シャツの裾を出しときゃ銃を隠し持ってるなんてまずバレない。体育の授業に参加するときも、着替えの時にちょっと気をつけておけば同じ要領で対処できる。
 唯一問題があるとすりゃ、こんな物騒なシロモノを持ち歩くことにすっかり慣れちまった自分自身の精神面かな。慣れって恐ろしいね。

「結女も当然、銃は持ってんだよな? やっぱスカートの中か?」
「いや、最近は便利なものがあってな。ブラと一体化したホルスターを使っている。そら、女の身体はどうしても胸元が盛り上がってその下に空間が出来るから」
「……お前、そこまで大きくないだろ、今は」
「何を言うか馬鹿者。これを小さいと感じるのはお前の判断基準がおかしいんだ。そこらにいる十四、五歳の女子を何人か捕まえてきて比較してみろ、すでに平均以上はあるぞ」
「……そんなムキに反論されましても」
「だいたいな、本来の私はこのくらいあるんだ。よく憶えておけ、このくらいだ。あと半年か一年ほどの間であっという間に膨れあがって肩凝りに悩まされるようになるんだ。ああ、憂鬱だ。想像するだけで鬱陶しい。こうだぞ、こんなになるんだぞ、こんなにも」

 わかった、わかったから。もう充分わかりましたから。自分の胸の前で何度も何度も架空のおっぱいラインを再現してみせるんじゃない。健全な男子が見てたら不健全な妄想に浸っちゃうだろ。もちろん俺自身もその健全な男子に含まれるんだぞ。

 脳裏に湧き上がってきたけしからん妄想を打ち消すべく、俺は結女から視線を外す。下駄箱にしまってあった傘を取り出し、バッグを肩に引っ掛けて軒下に出る。
 んで、結女も俺の後に続く。女物の傘を手にして。

「……あ。しまった」

 傘を開こうとしたところで気付いた。これ父さんのじゃん。俺のは色も柄の形も違うのに何で間違ったんだ。きっとおっぱいラインのせいだな。おのれ魔性の二次曲線め。
 取り替えなきゃと思って背後を振り返ったが、すでに結女は玄関の扉を施錠し終えていて、スカートの隠しポケットに鍵を入れているところだった。

「どうした、何か忘れ物か?」

 結女が仕舞った鍵をまた取り出そうとしたので、俺は慌てて首を振る。

「いや、いい。結女の持ってるその傘だって、母さんのだしさ」
「ん? あ……ああ、なるほど、そういうことか……」

 どうせ二人とも旅行中だ。勝手に使ったからって迷惑なんてかかりゃしない。
 俺たちはほぼ同時に傘を開き、雨の降る道に踏み出す。

「しっかしあの二人、今頃どこで何やってんだか……。義理でも何でも十八年親子やってたのにさ。いくらバカンス中っつったって、連絡一本寄越さないとか有り得ねェよ」
「……旅先で、仲良くやっているだろう。夫婦水入らずでな」
「ま、そうなんだろうけどさ」

 雨の中、二人で並んで歩く。

 しとしと、しとしと。ちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷ。

 柔らかな雨音と、水たまりを踏む俺と結女の足音だけが、しばらく続く。
 その間、俺は別段、何も考えていなかったんだけど。

 無意識の領域では、そうじゃなかった。

 結女がさっき言ったことが、頭の片隅にひっかかっていて。
 敵は無差別攻撃をしない。それは分別というより計略なのだと。その上で思い出す。あの結婚式の夜に起きた騒動。結女が語ってくれた伊弉諾と伊弉冉の話、国会議事堂での銃撃戦、寒村の針医にまつわる後味の悪い記憶。

 ――何かが、おかしい。
 結女の話には矛盾がある。しかも、かなり深刻で致命的な類の。

 でも、その疑問が明確な形を得て、表層意識へ上がってくるその寸前に。

「そういえば、沖継。あの愛人のことなのだが」

 隣を歩いていた結女がくるりと傘を回して、久しぶりに顔を見せる。

「コノのことか? 何だよ、突然」
「私の記憶違いかもしれないが、以前、あの愛人の家はこの近くだと聞いた気がしてな。登校の途中でばったり会ったりすると何かと面倒だな、と」
「……あ」

 頭の中で形になりかけていた疑問、パーッと霧散。
 ヤバい。マズい。超デンジャラス。何で今まで気がつかなかったんだ。

「あ、あのさ、結女。今朝はその、別々で登校しないか?」
「……何だ突然」
「い、いや、ちょっとその、照れ臭いというか」
「何を馬鹿な。自分の妻……もとい、カノジョと一緒に登校するのが照れ臭いだと?」
「あ、は、ははは、ま、まあその、えっと」

 畜生、昨晩からいろいろありすぎたせいだ。結女との関係をどうするかって方がはるかに優先度高かったから、正直言ってコノのことなんて――自分にとって日常に属する部分のことなんて、これっぽっちも考えちゃいなかった。

 目の前の角を曲がったら、コノの家が見えちまう。

 慌てて左手首に撒いた腕時計を確かめると、いつも何となく待ち合わせしてる時間にピッタリ。そりゃそうだ、いつも通りに起きて飯食って身支度して出て来たんだから。俺もコノも学校を休む時はメールなり電話なりで連絡するのが常なので、今日も変わらず玄関先で俺が来るのを待ってるはず。
 結女と付き合うことになったってのを報告するのは、まあ、別にいい。俺はコノに対して特別な感情は抱いてないぞ、ってのは前々から言ってたんだし。でもでも、事前に説明もしないでいきなりこの状況を見せつける訳にはいきませんよさすがに。いくらコノでも傷つくぞ。下手すりゃ泣くよ。いやいや、泣く程度で済むのか?

「おい沖継、なぜいきなり立ち止まる?」
「え、えっと、いやその、あうあう」
「…………」

 結女はしばらく俺の顔をじっと見つめて、突然、差していた傘をたたみ始めた。

「? 結女、急に何して……」

 戸惑う俺の左手からバッグをひったくって、そして。

「せっかくだ、相合い傘で行こう」

 とんでもないことを宣言して、俺の左腕へ身体ごと絡みつく。

「お、おま、え、あ、ちょっ」

 俺の二の腕が、結女の胸の谷間へ挟み込まれる。
 まだ成長途中だからなのか、その膨らみは意外と張りがあって固かった。そういや女の子の乳房がふよふよふにゃんって感じで柔らかくなるのって第二次性徴が終わってからなんだっけ。けれど、その谷間は限りなく優しくて温かくて心地よくて、今この時しか味わえない貴重な感触だと思えば――――っておいこらそんなこと冷静に考えてる場合か俺!

「こら止せ、ふにふにさせるな擦りつけるな、放せ、やめなさい、離れろ」
「離れたら、私が濡れてしまうじゃないか」
「自分の傘を使やぁいいだろがよ!」
「ほう。私とこうしているのはそんなにイヤか」

 結女は上目遣いに、俺の顔をじっと見て。

「私はお前のカノジョだというのに、触れ合うのを拒むというのか。相合い傘を嫌がるというのか。手をつないで学校に行くなど御免こうむると」

 いやいや何を仰いますやら。年相応の健全な男子である俺の心と身体は、女子特有の柔らかな身体に一次接触してるその事実を問答無用で大喜びしてやがりますよ。そもそも男子高校生の脳味噌の九割五分はエロとスケベで出来てるわけでして、こんなシチュエーションになりゃ「うひょひょ、こりゃたまんねえ」てな感じでお祭り騒ぎになっちまうに決まってる。でも、でもな、何事にも時と場合ってのがな。

「ひ、人目があんだろ! 節度っつーか何つーかそういうのを気にしろよ!」
「人目だと? お前が気にしているのは愛人の目ではないのか」

 んがっふっふ。

「そ、そんなもん……気になんか、して、ませ、んよ?」
「そうか。ならば」

 悪戯っぽく笑って――あっ、指まで絡めてきた。あああっ。

「このままで問題ないな?」

 世界中の幸せを独り占めしたみたいな笑顔に、なすがまま引っ張られていく。

 身体中が溶岩みたいに熱くなってきた。
 もうちょい正確には、下半身のごく一部が特にHOT。
 朝っぱらから深夜放送みたいな話でほんと恐縮するしかないんだけど、男の子の本能は基本的に制御不能なんでどうしようもないんです。それにここ最近、エロい夢見て自然発散するとか、自分の手で処理するとか、そんなことした憶えが全然ないんだもん。征伐の連続でンなこと考えるヒマもないほど忙しかったんだもん。銃よりはるかに危険なキャノン砲はもはや暴発寸前。このままじゃ大惨事になっちゃうどうしよどうしよ。

「……あ」

 下の方よりも、上の方が耐えられませんでした。
 はなぢ、でた。

「? こら沖継、急に止ま……うわっ、どどどどうした?!」

 どうもこうもないよご覧の通りだ。俺の頭はオーバーヒートしてろくに動いちゃいなかったんで、もう何もかも結女にお任せ。右手には俺の傘、左手には結女の傘と二人分のバッグを持って、軽く膝を曲げ、背を丸めて、だばだばと血が流れる鼻面を突き出す。結女はスカートの隠しポケットから慌ててハンカチとポケットティッシュを取り出し、綺麗に血を拭いて、俺の鼻に栓をしてくれて。
 ふと、誰かの視線を感じる。

「わー!! おにいちゃんとおねえちゃんが傘に隠れてちゅっちゅしてるー!!」

 集団登校中らしい小学生のガキどもが大声ではしゃぎながら走り去っていきやがった。端から見たらそうとしか見えねえんだろうけど生憎とてめえらが思ってるような嬉し恥ずかしキャッキャウフフな状況じゃねえんだよ。

「す、すまない、沖継。さすがに悪ノリし過ぎた」
「ひや、ひにひはふへひいはや」
「あっ、シャツにも血が……」

 言われて見ると、胸元あたりにぽつ、ぽつと赤い斑点。

「これはいかん、シミになる。待っていろ」
「ほ、ほいふめ、ほほひふんはよ」
「どうせ家はすぐそこだ。濡れタオルとシミ抜きの洗剤を持ってくる」

 俺の手から自分の傘を取り、差す間も惜しんで雨の中を駆け出していく。
 その背中が小さくなって見えなくなったところで、俺も一緒に帰れば良かったんじゃないのかと気が付いた。結女もかなり慌ててたんだろうか。

 いやでも、こりゃラッキーだ。俺たちは結局、コノの家の門構えが見えてくる曲がり角のかなり手前で歩を止めていたので。対処するなら今のうち。
 どうせ出血量は大したことないし、鼻に詰めたティッシュを取る。傘は肩にひっかけ、ポケットを探ってスマホを取り出す。アドレス帳からコノの項目を呼び出して新規メールを作成。今日はちょっと遅くなるから先に学校行っててくれ、と。
 はい、送信。これで一安心。

 ――ぴろりろりん、ぽろん、ぴろりろりん。

 送信とほぼ同時に、割と近くで聞き覚えのある電子音が鳴り出した。俺の記憶違いでなきゃ、コノの持ってるスマホの着信音と同じ――え、うそ、まさか。
 肩にひっかけた傘の柄を握り直して、ゆっくり持ち上げる。防水加工された黒い布地に遮られていた景色が、俺の視界に映り込む。

画像1

「……おはよう、沖継くん」

 片手に傘を、逆の手に自分のスマホを持ったコノが、そこに居た。

「え、あ、お前、いつから」

 傘を持った方の手で、コノが自分の斜め後ろを指し示す。
 そこは、コノの家の玄関が見えてくる曲がり角の少し上。民家の生け垣越しに、コノの家と二階の窓が見えている。

「あそこ、私の部屋だから。……ずっと、見てた」

 顔から血の気が引いていく時って、ホントに「サーッ」みたいな音が耳の奥でするんだなと、俺はこの時初めて知った。できれば永遠に知りたくなかったよ。

「沖継くんがあんなに慌ててるの、初めて見たよ。去年の初詣だったかな、お屠蘇で酔ったフリして、私も似たようなことした時あるけど、その時の沖継くんは眉一つ動かさなくて、面倒臭そうに押し退けられたっけ」
「え、あ……そ、んなこと、あ、った、っけ」

 いや待て俺、この状況でその切り返しはダメだろオイ。どうでもいいことだからとっくに忘れましたって言ったも同然じゃねえか。ああっでもどういう風に答えたらいいのかまるでわからん。さっきまで頭に血が上って破裂しそうだったのに今度は血が全然足りてねえ。思考回路が働いてないのはどっちも同じだけどさ!

 で、実に気まずい沈黙が訪れた後に。
 コノが手に持ったスマホを胸ポケットに仕舞いながら、花咲くような微笑みを見せる。

「おめでとう」
「……へ?」
「いくら鈍い私でも、あんなの見たらわかるよ。二人の関係、きっと前に進んだんだろうな、って。……ううん、違うね。元に戻っただけ、なのかな」

 ぴしゃ、ぴしゃ、ぴしゃ。水音を立てながら、コノの足音が近付いてくる。
 お互いが差した傘の縁が触れ合うくらい、距離が縮まる。

「良かったね、沖継くん」

 笑顔だけじゃなく、その声音も、本当に優しくて。
 どこをどう見ても、コノは祝福してくれてる――としか思えなかった。

「え、っと……あ、りが、とう」

 正直、ホッとした。こんな展開は想像もしてなかったから。

「で、でも、ごめんな、その、機会見て、ちゃんと説明しようとは思ってて……」

 言いかけたところで。
 言葉を遮るように、急に、コノが手を伸ばす。
 傘の柄を持ったままの俺の手を、その手首を、掴む。

「……でもね、沖継くん。忘れないで」

 さっきまで笑顔だったのに、急に冷たい無表情になる。

「結女ちゃんはね、沖継くんが帰る場所にいるひとじゃ、ないよ」
「な……?」
「沖継くんが帰る場所は、沖継くんの日常は、安心できる場所は……」

 ――ぎりっ。コノの手に力が籠もる。俺の手首を握りしめる。
 めちゃめちゃ痛いんだけど、でも、痛いなんて言える雰囲気じゃない。

「ずっと……考えてたの。結女ちゃんはいつも、私のこと、愛人だって言うでしょ?」

 コノが笑う。怖ぇよお前、チビりそうなほど怖ぇよその笑い方。

「最初の頃は腹も立ったけど、今はね、結女ちゃんに感謝してる。お陰で私がやるべきことに気付いたんだもん。だって愛人って、本妻じゃ満足できなくなった男の人が逃げてくる隠れ家みたいなものじゃない。私にぴったりだよ。疲れ果ててボロボロになった沖継くんを癒してあげるのは、沖継くんが帰る場所を作れるのは、私だけなんだから」
「お、おま、っ、何言って……」
「あれしろ、これしろ、勝て、戦え、私の夫はかくあるべしだ、なんて……そんなの、保たないよ。疲れちゃうよ。今だけだよ。じきに辛くなるよ」
「こ……コノ、おい……」
「私は、沖継くんに、何も求めないよ」
「…………」
「側でずっと沖継くんを見てたのは、私だよ。ありのままの沖継くんを受け止められるのは、私だけだよ。……沖継くんが最後に選ぶのは、戻ってくるのは、私のところだよ」

 俺の手首を握り締めていた手の力が急に緩んで、離れる。

「今、言いたいのは、それだけ」

 コノが半歩下がって俺から距離を取るのと、俺が背後から駆け寄ってくる結女の気配を感じるのと、どっちか先だったんだろう。

「おいこらそこの愛人! 私の夫に……もといカレシにそれ以上近付くな!」

 血相変えて凄い勢いで走ってくる。こっちも別の意味で怖ぇ。ほとんど飛びつくようにして俺の腕を掴み、コノとの距離を強引に拡げさせられる。

「おい沖継、お前は一体この愛人と何を話してたんだ! どこをどう見てもただならぬ雰囲気だったぞ! 私がいない間に何をしていた! あらいざらい吐け!」
「い、いや別に、何も……」

 としか言い様がない。だいたい俺はホントに何もしてねえもん。

「そんなに慌てなくても、取って食べちゃったりしませんよーだ」

 んべっ、と舌を出して冗談半分で言うコノ。さっきまでとまるで違って、ノリが完全に普段通りになってる。もうね、その余裕な態度がなおさら怖ぇわ。

「でも、カレシって? 何で夫から言い換えたの?」

 コノの素朴な疑問は、強いて言えば俺に向けて発せられたものだった。んが、結女が何やら勝ち誇ったような顔になってしゃしゃり出てきた。

「夫だ妻だとお仕着せの関係ではなく今の私たちにふさわしい関係をゼロから作り直していこうという沖継の建設的かつ現実的な意見を全面的に採用しただけだ。故に私は今日から女子高生になる。お前や沖継の通っている高校に転入する手はずを整えた。つまり沖継と私はいつでも一緒だ。登下校も昼休みも家に帰ってからも休日も! お前のような愛人風情が入り込む余地など微塵もないぞ!」

 結女がものっすごい早口で一気にまくし立てる。お前やっぱコノのこと嫌いだろ、言葉の意味を度外視してもその物言いはどう考えてもケンカ売ってるよ。
 でも、コノは涼しい顔を崩さない。

「ふうん、そうなんだ。でも、カノジョと愛人だったら、愛人の方が格上みたいな気がするんだけど。結女ちゃんはそれでいいの?」

 うわ、珍しい。結女が目ぇひん剥いて絶句してる。
 そのうち、結女の顔がだんだんと、活動限界間近のカラータイマーみたいになって。

「お、っ……お前など、現時刻をもってドロボウ猫に格下げだ!」

 おいこらそれが三千年も生きてる生き神様の言うことか。

「別にいいよ、それで結女ちゃんの気が済むのなら。でも、そうやってレッテル貼りしないと安心できないのって、カレシとの関係に自信がない証拠だよね」

 子供をあしらう大人そのものって感じの態度のコノに、またしても結女が絶句。さっきよりもさらに大きく目ぇひん剥いてる。必死で言い返そうと口をパクパクさせてんだけど、感情ばかり先立って声が出てこないらしい。口喧嘩で言い負かされた幼児そのものだ。

「いけない。もうこんな時間」

 何かを言い返そうとした結女をガン無視して、コノは胸ポケットの携帯を取り出し時刻を確認。軽やかに踵を返しながら――。

「あ、沖継くん、いつも通り一緒に学校行こうね。別に結女ちゃんが一緒でもいいよ」

 ニコッと微笑んで堂々と言い放ち、家の方に向かって駆けていった。
 いやあ、これにはもう、結女だけじゃなく俺も呆然ですよ。

「お、おのれ、あのドロボウ猫め、一体何があったんだ……。少し前までは尻の青い小娘だったのに、いきなり大人の女の顔になってるじゃないか。まるで別人だぞ」

 コノが走り去った先の空間を睨み付けたまま結女が言う。んなこと訊かれても、コノの内心で何があったのかなんて知るもんかい。

「あの女、何と言うんだったか。フルネームで」
「へ? ……滝乃コノ、だけど」
「わかった、憶えておくぞ。相手にとって不足はない」

 とうとうライバルとして認定したのか。瞳の奥がメラメラ燃えてやがる。

「ええい沖継、何だその顔は。まるで他人事みたいに」

 うわっ、こっちに火の粉が飛んできた。

「いいかよく聞け。女はな、物心つく前からすでに女なんだ。三歳児ですら胸の内に魔性を秘めているものなんだ。本気で惚れた男をモノにするためなら、親しい女友達でも平気で出し抜き容赦なく蹴落としギロチン台にかけることくらい朝飯前でやってのける。凛としながら淫らに媚び、清純そのものの笑顔で妖艶に身体を擦りつけ誘惑してくるんだ。迂闊に鼻の下を伸ばしていたら火傷するどころじゃすまないぞ」

 はあ、左様でございますか。

「全く、お前ときたら昔からいつもいつも……。お陰で私は気の休まるヒマがない」

 ぶつくさ言う結女を見て、俺の気分は梅雨時の曇天のようにどんよりし始める。

 ひょっとして、今後はこんな修羅場がずっと続くんでしょうかね。

 両手に花? ハーレム状態? ふざけんなそんなもんリアルで成立する訳ねえだろ。女はみんな鬼だよ夜叉だよ、それをこの朝だけでイヤってほど思い知ったよ。二人の女を同時に相手にするくらいなら、千の魔人と戦ってる方がまだ気が楽だ。

3-6:決裂

 いや、でも、それはモノの喩えでありまして。
 実際に千の魔人と戦いたいなんて、微塵も思っちゃいなかったよ?

「な、っ……何だ、これは」

 学校の校門へと続く路上で、結女が愕然として呟く。俺もその隣で絶句。

「? 二人とも、どうしたの?」

 ここまで一緒に登校してきたコノが、俺たちの異変に気付いてキョトンとしてる。コイツには何も見えないし何も感じないんだもんな。

 まだ遠くにある校舎全体から、魔人の気配が発散してやがる。

 気配だけじゃない。目を凝らしてみれば、魔人の証である不思議な幻もはっきり見える。後者の窓際に立つ事務員さんや用務員さん、職員室で朝礼中らしい教師、今まさに登校してきて正門の中へ吸い込まれていく生徒。それら全員、一人たりと例外なく、百円ライターを数倍大きくしたような直方体が頭にブッスリ突き刺さってんの。

 ひょっとして、学校の関係者全員が敵の手に落ちた?

 うちの高校の生徒数は、確か八百かそこいらだったか。教師や用務員などの関係者を含めても千人のうちに収まるはず。結女が言ってた魔人ポイントをそれぞれ一ポイントずつ割り振ったとすれば、わずか一夜でこんなになっちまった説明はつくんだけど――。

「ふ、ふふっ、ふふふふっ」

 結女がいきなり不敵に笑い始めた。その目からは闘志と殺意がダダ漏れ。
 おいおいちょっと待て、まさかコイツ。

「嘘から出た誠という訳か、望むところだ!!」

 おもむろにセーラー服の前身頃をまくり上げ、剥き出しにしたヘソの上付近にある拳銃に手をかけようとしやがった。俺はゾッとしながら、ほとんど抱きつくようにして力尽くで結女の動きを封じ込める。

「ばばばっバカ! 何してんだオイ!!」
「ええい沖継なぜ止める?! お前にだってこの有様が見えているはずだ!」
「いやいや見えてるけど! 見えてますけどね!」
「だったら私たちのやるべきことはただ一つ! 行くぞ沖継、魔人どもを血祭りに上げるぞ! 一人も逃すな殲滅だ!!」
「落ち着け、落ち着けってば! やめろ早まるな!」
「戦いにおいては私の指示に従うんじゃないのか! 昨晩言った舌の根も乾かぬうちに前言撤回か! 男に二言はないはずだろう! 恥を知れ!!」
「ああもう何でもいいからちょっと黙れッ!!」

 鼓膜を突き破らんばかりに叫んで、やっと結女は少しだけ正気を取り戻す。
 ただ、周囲を歩いていた連中が一斉にこっちを見つめてきて嫌な感じになっちまったんで、俺は手近の脇道へ強引に結女を引っ張っていく。

「な、何をする、沖継っ……」
「あ、悪い、コノ。そこの入り口んとこでちょっと見張りしてて」

 コノは何が何だかわかんない風だけど、それでも脇道の入り口、電柱の影に隠れるようにして見張りについてくれた。
 んで、十メートルくらい先に進んだ袋小路、コンクリの壁に囲まれたどん詰まりで結女と向き合う。ここなら衆目を気にする必要もない。

「なあ、結女。頭冷やしてよく考えろよ。俺たちが今持ってる弾薬、全部で何発ある? ワンショット・ワンキルで片付けても殲滅なんてできっこないんだぞ」
「……っ」
「それにさ、今、俺たちの側を通り過ぎていった生徒が何人もいたろ。その中に殺気を向けてきてたヤツがいたか? いないよな? 一晩でこれだけ大勢にポイントをバラ撒いたんなら、どいつもこいつも大した能力を持ってないはずだろ? 要するに一般人とほとんど同じ。慌てて斃す必要はないよ。ひとまず様子を見よう」
「ちょ、っ……ちょっと待てっ!」

 一度は冷静になりかけていた結女の目が、また血走って正気を失いかける。

「私たちの生活圏にわざわざ送り込まれた魔人だぞ?! 刺客に違いないんだぞ?! もし四方八方を囲まれてみろ、大した能力がなくても人海戦術で押し潰されることだって有り得る! いいや、ひょっとすると大勢が寄り集まって強力な超能力を生み出す仕組みかもしれない! だとすれば一千ポイントに迫る強力な魔人を相手にするのと同じだ! 先手必勝で少しでも多く戦力を削るべきだ!」
「……それが、過去の俺と結女の戦い方なんだな?」
「そうだ! 結局のところそれしかないんだ! それが最善の対処法で……!!」
「今の俺の目には、それを踏まえた上で、敵が罠を張ってきたとしか思えないんだけど」

 結女がウッとなって、言葉に詰まる。

「断言してもいい。こりゃ例の針医の時と同じ卑怯技だ。先にトリガーを引いた方がバカを見るぞ。だから落ち着け。敵の狙いをまず掴もう。な?」

 でも、その言葉で結女が逡巡したのは、ごく一瞬。

「自分の知り合いを殺したくない……そういう甘さから出た言葉じゃないのか」

 今度は、俺が息を呑む番だった。

「私も断言しておく。敵はそういう甘さを容赦なく突いてくるぞ。私たちが進む道は修羅の道だ。魔人に対して戦うことを躊躇すれば、即、命取りになる」
「…………」
「お前のその提案、本当に、戦う覚悟があってのものなのか。もし戦いを避けるための方便だとしたら、私は絶対に従わない。……どうなんだ」

 俺は、結女の視線を真っ正面から受け止める。
 正直なところ、結女の言う甘さが全くないとは、さすがに言い切れないんだけど。

「戦う覚悟なんか、とっくに済ませてる。だから、俺の言うことを聞いてくれ」

 演技半分で、それでも強く言い切る。
 結女はその俺の顔を、しばらく見つめてから。

「……そうか、わかった」

 手から力を抜き、まくり上げていたセーラー服の前身頃を元に戻す。
 何とか踏み留まってくれたのか――と思った刹那、いきなり踵を返して、袋小路を出て行く方向へ歩き出した。

「お、おい、どこ行くんだよ」

 問いかけると、結女の歩みは止まる。
 ただ、俺の方を振り向くことはせずに。

「女子高生になる話は棚上げする。どのみち今のままでは万一の時に対処できない。それなりの準備を整えて出直さなければ」
「じゃあ、俺はどうすりゃいい?」
「私と一緒に来い。昼前までには二人分の機関銃と数千発の弾薬を調達できる。そうなれば敵の狙いなどもはや関係なくなる。不意打ち、先制、そして殲滅あるのみだ」
「こらこらこら話が元に戻ってるぞ! お前ときたらどんだけ血の気が多いんだよ!!」

 結女が、やおら振り返る。
 その顔は、さっきまでと違って、落ち着いていて、冷静で。

 いや、違う。

 冷徹なくらい、何の表情もない。

「猿芝居が見抜けない私だと思うのか」

 今度は俺がウッとなって、言葉に詰まる番。

「これがもし、何の関係もない企業のビルや工場なら、お前はここまで反対したか? 昨晩の新月で生まれた魔人をほぼ完全に殲滅、敵戦力の増加をゼロにできるまたとないチャンスだぞ。そこに疑問を挟む余地はない。違うか」
「い、いや、そりゃ、その……」

 結女が、大きく溜息をつく、
 それはもう、誰が見ても、失望の溜息。

「結局、今のお前には、戦う覚悟などまるでないんだな。よくわかった」
「…………」
「いいや、お前の気持ちはわかる。いくら魔人になったとは言え、昨日までの知り合いに銃口を向けるのを躊躇うのは当然だ。だがな、それを乗り越えなくてはお前はこの先確実に死ぬぞ。お前だけじゃない、私だってそうだ。臆病者が戦いたくない一心で捻り出した屁理屈に巻き込まれて窮地に陥るなんて、まっぴらごめんだ」
「な……んだよ、それ……俺はちょっと様子を見ようって言っただけで……!!」
「これだけの数の魔人を前にして、私たち二人が意見を違えていること自体、もう致命的なことなんだ」

 聞き分けのない子供に言い聞かせるような、その口調。

「切羽詰まった状況ほど、意思決定と行動の間に遅滞は許されない。いつもこんな風に相談できるヒマがあると思っているなら、もはや覚悟を云々する以前の問題だ」

 結女の言うことは、正論だと感じた。
 でも、だからって――。

「その上で、改めて指示をする」

 俺の迷いを強引に断ち切るように、結女が話し始めた。

「沖継はこれから、普段通りに登校しろ」
「は……?」
「こちらから攻撃を仕掛ければバカを見る、そういう罠だと見極めたのだろう。なら、こちらから攻撃を仕掛けなければ何も起きない、それが道理のはずだ。その上で魔人に肉薄して敵の意図を探り、戦う必要なしと判断できるなら、お前にとっては最良じゃないか」
「そりゃ、まあ……そう、だけど」
「だが、そんなおめでたい結果になるはずがない。私の経験則からしてもな。だから、私は私の判断に基づいて準備をする。最悪、一人でも魔人の群れを掃討できるように」
「別行動を取るってのか? そりゃまずいだろ、もし万が一……」
「私は、お前がいなかった十八年間、一人きりで生き延びてきたんだ」
「……っ」
「覚悟というのは結局、それなりの代償を払わなければ得られないものなんだろう。お前の命を危険に晒すような真似はしたくないが、今は苦渋の選択をすべき時と見た。これも戦いだと思って挑め。一人で怖い目にでも痛い目にでも遭ってこい。でなければ、私たちは永遠に、同じ目の高さで語り合うことはできない。そうは思わないか?」
「…………」
「ではな、健闘を祈る」

 そうした結女は、再度背を向け、歩き出す。
 その足が、四、五歩進んだところで、不意に止まって。

「ただ、我を見失いかけた私を止めてくれたことは、感謝する」

 独り言を呟くように。

「今の装備で魔人の群れに飛び込むなど、確かに無謀だ。その意味では、お前の方が冷静に状況を見ている部分があるんだろう。……実際、私にはどうしても肝心なところで感情的になってしまう悪癖がある。それを女のサガだとは思いたくないが、男の前に立ってあれこれ指図するのは正直言って私には向いていないし、出来る自信もない」
「…………」
「最良なのは、お前が戦う覚悟をしてくれて、その上で、私を引っ張っていってくれることだ。今でもそう思っている。そこだけでも昔のお前を取り戻してくれれば、きっと、私も生涯の伴侶として、迷うことなくこの命をお前に預けて、夫唱婦随で……」
「それって、結局さ」

 思わず、結女の話に割り込んだ。

「今の俺じゃ、お前にふさわしくない、昔の俺の方が良かった……ってことだよな」

 結女の答えは、なかった。

 俺に背中を向けたまま歩き出す。電柱の影で見張りを続けるコノにも一瞥もくれず、脇道を出て雨の中を歩み去っていった。

「え、っと……沖継くん? 結女ちゃん行っちゃったけど、いいの?」

 コノが駆け寄ってきて、不安そうな顔で訊いてくる。

「気にしなくていい。ちょっと別行動を取ることになったんだ」
「でも、魔人がどうのこうのって……。近くにいるなら、沖継くん一人じゃ……」
「大丈夫だ、何かあったらちゃんと助けてやる。ただ、ちょっとだけ周囲には気をつけてな。何が起きるかわかんないから」

 今んとこはこう言うのが精一杯。コノは顔を少しだけ緊張で強ばらせたけれど、必要以上に怯えたりはしなかった。俺が「助けてやる」って言った以上は大丈夫だって、全面的に信じてくれているんだろう。

 こういうの、いつもなら「ウザい」とか「やれやれ」とか思うところなんだけどさ。
 何でだろう、今は――今だけは、いつも通りのコイツのお陰で、ホッとする。

「じゃあ、このまま普通に学校行ってもいいんだよね?」
「おう」

 力強く応じて、俺とコノは改めて学校へ向かって歩き出す。

 安全を期すって観点からすると、コノにちゃんと説明して家に帰した方がいいのかもしれないけど、これまでの俺の経験上、幻の見た目ってそのまま魔人の超能力に直結してたんだよな。俺の前や後ろを歩いてる生徒兼魔人どもはみんな「ただ頭の上に変な直方体が刺さってるだけ」で、しょーもない仮装行列と同レベルにしか思えなくて。
 だとすりゃ、コノに真実を告げたところで無意味にビビらせる以上の効果はない。実際、みんな今んとこ俺の方をただチラチラ見ているだけだしな。自分で言うのも何だが、俺は学校じゃ知らないヤツがいないくらいの有名人だ。不特定多数の視線はいつも通りの日常の一部。別にどこも変じゃない。気にする必要は全くない。

 とは言っても。

 敵が真性のバカでない限り、千人の仮装行列を作ってみただけ、なんて無駄極まりない真似をするはずがない。俺なり結女なりに対する何らかの対抗手段なのは確実だ。ここは千人の魔人が巣くう敵地のど真ん中なんだぞって、その緊張感は常に持っておかないと。

 そう、千単位の魔人。
 五でも、十でも、百でもなく、千人。

 改めて考えたら、それって超おかしくねェか?

 だいたい魔人って、超能力を与える交換条件みたいな形で敵に勧誘されて誕生するんだよな? こんだけ大勢が魔人ポイント一点ぶんごときのしょっぱい能力を欲しがるとは思えんし、あまつさえたった一晩で敵のことをまるっと信頼して軍門に降るのか?
 さっきまでは漠然とした疑問でしかなかったけど、今なら結女に反論できる自信がある。戦いを避けたいと思ったのは臆病心からじゃない。こんな異常事態が単純な力押しで解決できるはずがない。

「……ねえ、沖継くん。さっきから何を考え込んでるの?」
「ええい、考え事してるとわかってるなら邪魔すんなっ」
「あ、そ、そっか。ごめん」
「わかればよろしい。……って、あ、待った」
「ん? なに?」
「コノはさ、昨日の夜、変わったことなかったか? 変なヤツに会ったりとか」
「敵の勧誘がどうのこうのって話? 別に何もなかったよ?」
「……そっか」

 つまり敵は、学校関係者全員を魔人にしようとした訳じゃないんだな。少なくともコノは最初から勧誘リストから外されてたと。

 ん? てことはひょっとして、コノもターゲットにされてんのか?

 普通の人間とほとんど変わりがない魔人でも、コノにとっては充分な脅威だ。んで、コノを人質に取ってしまえば俺も身動きが制限されるし――あー待て、これだと千人ものザコ魔人はいらんな。せいぜい四、五人程度で充分だ。

 ひょっとして前提条件がおかしいのか? たとえば他に強力な魔人がいて、そいつの能力を活かして戦い易くするための布石だったりとか? いや待てよ、そもそも結女が教えてくれた魔人に対する情報自体、どこまで信用できるものなんだ? 敵は無関係の人間を巻き込んだりしないなんて言ってたけど、今の状況それ自体が無差別攻撃に等しい暴挙じゃないのか? だとしたらこっちも自衛のためには手段なんか選んでいられない――。

 いかん。やめやめ、思考停止。

 マイナス方向に考え始めると疑念は際限なく増すばかりだし、最後は「めんどくせぇから魔人は問答無用で片っ端から殺っちまえ」っていう短絡思考に行き着いちまう。

 こういう時は、直感に従って動くに限る。
 この魔人の群れそのものには何の危険もない。最初にそう感じた自分に自信を持て。誰が何と言おうともだ。んで、きっと俺のクラスメイトにも魔人になったのがいるだろうから、その中でそこそこ話のできるヤツを捕まえて、昨晩何があったのか問い質せばいい。それで大方の疑問は解消するはず。後のことはそれから考えよう。

 と、結論が出た頃には、俺は下駄箱の前に立っていた。


3-7:罪と罰

「……あれ。今日はゼロだ」

 上履きを手にしたコノが不思議そうに言う。いつもなら呪いの手紙がバサバサ落ちてくるはずなのに、一通も来ていないらしい。

 ついでに俺の下駄箱にも、ラブレターの類が一つも入ってない。

 最近は学校を休みがちだったんで、同級生や後輩から予想外のところで惚れられるシチュエーションは発生しようがなかったんだけど、でも俺、もらった手紙にはマメに返事書いてたんで――手間暇かけて手紙を送ってくる相手には相応の礼をすべきだし、女は泣かすなっていう親の教育もあって――不定期で文通してる格好の常連が何人かいてさ。その子たちからも全く来てないってのは、ちょっと不自然。

「どうしたのかな……。何だか気味が悪いね」

 お前はむしろ喜べよ。

 んで、上履きに履き替えて、二人して学校の構内を歩く。

 その間、俺はたくさんの生徒たちとすれ違った。たとえば廊下では、他愛ないお喋りに興じる下級生。体育館の前では朝練を終えたバスケ部やバレー部の連中と。中庭脇の通路では、咲き誇る紫陽花を手入れしてる園芸クラブ所属の女子たちの集団がいた。
 そいつら全員、俺の姿に気付くと、必ずこっちに視線を向けてくるんだけど。

 おかしいぞ、これ。

 いくら俺が普段から注目されてるからって、ただ登校してきただけでこんなにジロジロ見続けられるのは異常すぎる。それに、こっちを見てる連中の態度は何だ。俺には決して聞こえないよう声を潜め、知り合い同士でヒソヒソ、ボソボソ。

「ね、ねえ、沖継くん、なんだかみんな変だよ……?」

 コノが戸惑いながら訊いてくるのも当然だ。俺だってめちゃめちゃ不安だったから。

 いや、違う。

 コノの戸惑いと、俺の不安は、根ざすところがまったく別なはず。
 だって、これってさ、なんだか、まるで。

 ――避けられて、疎まれて、嫌われて。

 俺がまだガキだった頃と、ひとりぼっちだった頃と、そっくりで。

「沖継くん? どうしたの?」
「えっ? あ……いや、別に」
「別に、って、そんな顔してないんだけど……」
「…………」

 コノに構わず黙って階段を上がり、三年生の教室が並ぶフロアに足を踏み入れる。
 いつもならここでコノと別れて、それぞれのクラスに向かうところだ。

「? 何だよ」

 急に、コノが俺の手を掴んできた。

「一緒に行く」

 その目が、やたらと真剣だった。

「一緒って、コノのクラスはあっち側……」
「始業のチャイムが鳴るまで、ギリギリまで側にいる」
「いや、だから、さっきも言ったろ、そんなビビらなくていいから、いつも通り……」
「そうじゃなくて」

 俺の手を掴んでいたコノの手が、動く。
 互いの指が、しっかりと絡み合う。

「そんな顔してる沖継くん、ほっとけないもん」

 妙に力強い、その言葉。
 ほっとけないも何も、もしもの事があったとしてお前に何ができるんだよ、いつだって俺が全面的にお前を守る側だったろうがこのスットコドッコイ――と、俺の意識の上っ面、脳味噌の上澄み三ミリくらいで反射的に思ったんだけどさ。

 胸の真ん中、心の奥深いところでは。
 何故だか、コノのことがすごく頼もしく感じていて。

 ただ、このままコノと手ぇ繋いだまんまでいられるかっつーと答えは否だ。たまたま近くに人の気配がなくて助かったよ。こんなとこ誰かに見られたらあらぬ誤解を招いちゃうじゃん。ほれコノ、いいから手を離せ――っ、こんにゃろ無駄に力を入れるな、離せ、離せっちゅーに。離せ離せ離せ食い下がるな手を握り締めるな痛い痛い痛い。
 仕方なくコノの脳天にチョップ一発。はきゅっ、とか無駄に可愛い声を出して怯んでる隙に無理矢理手を引き剥がして。

「しょうがないヤツだな、ったく……。勝手にしろ」

 内心とは裏腹に、呆れ気味の突き放したような言葉が勝手に出てしまった。涙目で頭をさするコノにぷいっと背を向け一人で先に歩き出す。その理由のうち半分くらいは照れ臭さ故だけど、コノは文句を言うでもなく俺の後ろを黙ってついてくる。

 ――ふと。
 自分が完全に、平常心を取り戻していることに気がついた。

 隣に結女がいない状態で千の魔人と向き合う心細さとか、敵の思惑や作戦が読み切れずにいる焦りとか、学校関係者の異様な態度に不安や怯えを感じていたこととか、アレやコレやが綺麗さっぱり霧散霧消。矢でも鉄砲でも持ってこいや、何が起きてもいつも通り適当に何とかしてやンよ! ってくらい、ふてぶてしく自信たっぷりに開き直ってる。

 我ながら自分の心の中で何が起きたのか、さっぱりわからん。
 いや、わかるような気もするけど、わからないことにしておく。今は。

「うーっす、おはよー」

 本当に普段通り、何の屈託もなく爽やかに挨拶しながら、三年五組の引戸をくぐる。
 教室の光景は、ここまでの間に想像できた通り。教室の其処此処で固まって雑談に興じていた複数の仲良しグループが一斉にお喋りを止めて、俺の方に何とも言えない嫌な視線を向けてくる。もちろん、その頭の上には例外なく例の直方体がブッスリ。

「何だよ、俺の顔になんか付いてるか?」

 半分くらい拗ねるような声音を作って、誰ともなくそう言ってみたんだけどさ。
 結果、日本一有名なガキ大将の剛田君が子分どもに睨みを利かせたみたいになって、みんな俺から視線を逸らして俯き加減に黙り込んじまった。さっきまでの喧噪がウソみたいにシーンと教室が静まり返る。なんというバツの悪さ。

「あれ……拓海くん、今日はお休み? またお父さんの都合とかかな……」

 俺からわずかに遅れてクラスに入ってきたコノが呟く。これは本当に独り言だったんだろうけど、みんなが黙ってるもんだからまァ声が響くのなんの。
 とりあえずコノと二人で俺の席まで歩いていって、バッグを置く。その間もみんな物音ひとつ立てようとしない。居心地悪いなんてもんじゃねェ。

 意を決して、俺はみんなの方を振り返る。

「あのさ、何なんだよみんなのその変な態度。まさかガキ使ごっこ? 笑ってはいけない学校二十四時? 俺はオチ担当? 今んとこ誰が何回ケツバット受けてんの?」

 本当ならごくごく真面目に「お前ら一体どういうつもりだ説明しろ!!」って訊くべきだったのかもしれないけど、それじゃ今以上にシリアスな空気になりそうだったんで、適当にフザけて混ぜっ返してみました。若干滑り気味で反省してます。
 でも、一定の効果はあったらしい。ほんの僅かな沈黙のあと、クラス全体がザワつき始めたんだ。「……どうなってんだよ」とか「いつもの源君だよね……?」って感じで。

「俺からすりゃ、どうにかなってていつも通りじゃないのはみんなの方だっつーの。はい、その原因を説明してくれる人、挙手!」

 ここぞとばかりに、ノリ良く畳みかけてみる。
 この時、俺が返答を期待していたのは、普段からそれなりに交流のある連中――美術部の部長で特撮ヒーローやアニメのDVDを貸し借りしてるオタク友達の宮坂君とか、学年でも常に成績上位で時々ラブレター兼お悩み相談を送ってくるファニーフェイスの由紀ちゃんとか、体重百キロを越える巨漢で拓海ともけっこう仲のいい柔道部所属のナイスガイ隆一とかだったんだけどさ。それぞれに視線を送って反応を促してみたのに、みんな俺と目が合うと慌てて視線を逸らし、背中を向け、場合によっちゃ「ちょっとトイレ……」とかわざとらしい言い訳してまでクラスを出て行く有様。いやはや地味に傷つくわァ。

 その代わりに、明確なリアクションを返してきたのは。

「どいつもこいつもビビりやがって、だっせェ」
「例の夢がそんなに怖かったンかよ。バッカじゃね?」

 教卓にもたれるようにして立ってる、二人の男子生徒。
 槙田と、久能。

 多分、どこの学校にもいるんじゃないかな。不良だのロクデナシだのってほどでもない、ちょっとワルぶってるくらいの立ち位置のヤツ。この二人が正にそれ。生活指導から目をつけられない程度に制服を着崩して、赤点取らない程度に勉強してて。運動神経は割とあるのに努力や練習が性に合わなくて部活に入らず、クラスマッチや体育祭になると異様な執念を燃やして大活躍するっていう。
 二人ともそんなにルックス悪くないし、普通だったらムードメーカー的な感じでそこそこ人気もあるんだろうけど、俺みたいな規格外と同学年だったせいかいまいちパッとしない二軍以下の扱いを受けがちで。運悪く同じクラスになっちまった今年は特にそうらしく、陰に回ると俺の事を「ヒーロー気取りのチンカス野郎」だの「種馬スケコマシ」だのってヒガミ根性丸出しにしてこき下ろしてるんだとか。
 や、こりゃ人伝に聞いた話だから、ホントかどうかは知らないよ。もし本当だとしても表立ってケンカ売ってきた訳でなし、俺自身は話半分で受け止めてる。クラスメイトとして当たり障りのない付き合いはしてるしな。お互いに。

「……おい。例の夢、って何だ?」

 その言葉が妙に気になって、槙田と久能がいる教卓の側へ歩み寄る。二人は普段通りに――いや、普段にも増して不貞不貞しく、俺と向き合う。

「いやさ、昨日の晩、寝てる時にな」
「変な夢を見たんだよ。なんつーかこう……神様っぽいっつーのかな、顔とか身体とかがピカピカ光ってる変なヤツが出てきて」
「妙にリアルだったけど、どうせただの夢だと思ってたんだよな。でも……」
「今朝ガッコ来て槙田に訊いてみたら、俺と全く同じ夢を見てたらしいんだよ。俺らだけじゃなくて、樋口も豊岡も浅山も、一組の安田や三組の浜本まで」
「ヘタすっとクラスじゅう、いや、このガッコの奴ら全員そうかもしんねェな」

 久能が誰ともなく、クラス全員に声を投げる。俺がちらりと目をやった範囲にいた全員が、久能の話に同意を示しているように見えた。
 つまりそれが敵の勧誘だったってことか。ひでえ、あいつら人の夢の中にまで出てくんのかよ。そんなの未然に防ぎようがないじゃん。

「それがさ、源、ケッサクなんだぜ。その変なヤツがさ、お前のことを……」
「三千年くらい生きてきた、血に飢えた人殺しのバケモンだって言いやがんの」

 一瞬、俺の思考が止まった。

「源沖継を知っているか。あいつは変だ、普通じゃないと思ったことはないか」
「その正体を知りたくはないか。最近頻繁に学校を休んで何をしているのか」
「お前が欲するなら、源沖継の本性を教えてやろう……って、はは、ホントに同じ夢を見てたんだな俺ら。台詞回しまでほとんど同じじゃねェか」

 真っ白になった頭に、半笑いで話し続ける槙田と久能の声が響く。
 と、突然、背後から。

「ね、ねえ、源くん、そんなのウソだよね……?」

 由紀ちゃんが、ファニーフェイスを切なげに歪ませて。

「帝都ホテルやベイブリッジで楽しそうに笑いながら人を殺してたとか、国会議事堂で政治家を何人も撃ち殺したとか、東北の小さな村を叩き潰したとか……」

 その言葉尻へ被せるように、美術部の宮坂君も。

「ぼ、僕らも殺すのか? 君の正体を知ったヤツは魔人とかって扱いになるのか?! 僕ら全員ゴミみたいに撃ち殺すのか?!」

 静かだった教室がざわめき始める頃には、さすがに俺も我を取り戻していた。

 なるほど、みんなの身に何が起きたのか、おおよそ見当ついたよ。

 俺は学校じゃ有名人だ。好意でも悪意でも何かしら俺に興味を持ってるヤツなら、俺にまつわる情報が欲しいかと問われりゃイエスと答えるだろ。仮にさほど興味はなかったとしても、人ならざる化物がお前の学校に紛れ込んでるぞと言われたら、誰だよそれ教えろよ、って感じで知りたがるに決まってる。
 ってことは、みんなの頭に刺さってる変な幻影は、ハードディスクとかUSBメモリとか、記憶媒体みたいなものだったのか。
 その中に詰まってんのは、魔人ポイント一点程度で手に入る情報だけ。しかもそいつは客観的なものであるはずがない。敵に都合よく印象操作されてるんだろう。宮坂君の怯えっぷりからしても、戦闘の記録ばかりを強調・編集して、さぞかしグロくてエグくて残忍で醜悪でスプラッタな感じに脚色してんだろな。

 なあ結女、こりゃどうも、戦わないって選択で大正解だぞ。みんな百パーセント敵に利用されてるだけだ。ヘタしたら俺たちゃ学校で大虐殺をやらかした重犯罪者になってたかもしれない。

 ああ、そうか。敵の狙いもおおかたそこらへんだな。

 夢の中で変な情報を刷り込まれた程度なら、魔人の死体が光や塵になって消え失せる証拠隠滅機能なんて省略されてるだろう。いくら役所や警察が俺たちの味方とは言え、学校で銃を乱射して未成年の死体を山ほどこさえりゃ隠蔽しきれない。で、俺と結女に対する信用の失墜。有形無形のバックアップも滞り、それによる行動制限が発生。今後の戦いが一気に不利になる、と。

 ようし、これで敵の思惑は読み切った! 多分な!

 とすると、この状況への対処法だって簡単に導き出せる。夢の中にちょこっと出てきた敵の幻影と、同じ学校で席を並べて仲良く勉学に励んできた俺。現時点でどっちの発言が信用度高いかって、考えるまでもなく俺の方に決まってるじゃん。
 みんな落ち着け、そんな夢はウソ八百だ、俺はみんなと同じ普通の人間だよ、俺が化物なんかであるはずがない。こう言うだけで場の収集には充分。ある意味では俺の方もウソをついてることになるけど、こりゃ方便ってことで勘弁してもらいたい。実は俺が伊弉諾で、神代の昔から魔人との戦いを続けてきたなんて、普通の生活を送ってるみんなが知る必要はどこにもないんだし。
 まずは、みんなに植え付けられた悪い印象をわかりやすいワンフレーズでひっくり返す。それでも疑問や異論を拭いきれない奴らにだけ、粘り強く個別で細かいことを説明していけばいいんだ。

 以上、思いっきり思考を加速させて、事態の推測・検証・対策までを一気に導き出した俺は、つとめて平静を装いながら説得力のある否定の言葉を紡ぎ出そうとして。

「ちっ、ちがうよ、みんな、悪い魔人に騙されてるんだよ、誤解だよ!」

 感情任せの脊髄反射で喋り始めたコノの大声に邪魔された。

「沖継くんは、沖継くんはね、日本とみんなのために危険を顧みずに……!! ほら、日本神話、みんな知ってるよね、国産みの神様の伊弉諾って実は沖継くんのことで……すぐには信じられないかもしれないけど、あの、だから、だから……!!」

 ギャアァアァアァアッ!! おいこらコノちょっと待て待ってくれ! 俺を庇いたい一心なのはわかるし表情からも痛いほど伝わってきますけどね! そりゃ考え得る限り最悪の弁明だぞおおぉおぉおぉおッ!!

「……う、そ……じゃあ、やっぱりあの夢って、全部……」
「本当、だった……んだ……」

 廊下の方、教室の外で聞き耳を立てていたらしい他所のクラスの連中から、そんな呟きが漏れ聞こえてきた。そのうち何人かは血相を変えてどこかへと走り出す。親しい連中にこの情報を持ち帰って教えてやろうって魂胆なんだろう。

 こりゃまずい、と思っても、もう止めようがない。

「ベイブリッジの事件だけでも無関係なヤツが相当死んでんだぞ……」
「うちの叔父さん、マスコミ関係に勤めてんだけどさ。こないだ職場で……」
「こないだ急に選挙あったじゃん、人気無かった政党が圧勝して政権取って……」
「調子に乗って憲法まで変えようとしてんだろ? あれ結構ヤバいんじゃ……」
「公職選挙法だっけ? 献金とか裏金とかニュースになってて……」
「消費税だって結局上がっちゃったし、親の給料は上がる気配もないし……」
「中国ともすげェ仲悪くなってンよな、いつ戦争起きても不思議じゃないって……」
「最近、失踪だの夜逃げだのって話がやたら多い気はしてたんだけどさ……」
「警察とか役所がグルで隠蔽してるってのかよ……」
「冗談じゃねぇぜ、じゃあ、うちの部の砥部がずっと休学してんのは……」
「あれ全部、要するに源のせいで……」

 あちこちで起きるヒソヒソ話。いやそれは俺と関係ないだろって突っ込みたくなる話もかなりあるけど、敵が事実と織り交ぜて意図的にそういう誤解を招くウソを仕込んでたらどうにもならない。当事者の俺が弁明すればするほど泥沼にハマっていく。
 正に、人の口に戸は立てられぬというコトワザそのまま。この光景はあっという間に学校全体へ広がって、失意、誤解、偏見、恐怖、その他もろもろのマイナス感情を止め処なく膨らませていく。そして、いち個人にすぎない俺がそれをひっくり返すことなんて出来るはずがない。

 だめだこりゃ。詰んだ。

「おっ、落ち着いてよ、みんな、違うの、そうじゃなくて! 沖継くんは……!!」

 周囲の雰囲気が決定的に悪い方向へ傾き始めたことに焦ったコノが、何とか誤解を解こうと必死で言葉を紡ぐ。自分に対する嫉妬やデマや中傷には口を噤んでビクともしないのに、俺が悪く言われてることには一秒だって耐えられないんだ。

 お前のその優しさ、すっげぇ嬉しいよ、うん、ほんとに嬉しいんだけどな。
 ああもう、頭ごなしに「止めろバカ逆効果だ!」とも言いづれええぇえぇえぇ!!

「沖継くんはね、世の中を混乱させてる魔人っていう悪役をやっつけてるだけで、みんなのためになることをしてるんだから、これ本当だよ、だから……ひゃっ?!」

 いきなり。
 コノに向かって、誰かの鞄が飛んできた。
 幸いにも狙いは外れて、空席になってる拓海の机にブチ当たっただけで済んだ。その音が結構派手だったせいでクラスのみんなも俺もビックリ。鞄をブン投げた主の姿を慌てて探してしまう。

「……何が、悪役よ」

 いつの間に教室へ入ってきていたのか、出入口の引戸近くに下級生の女子がいた。
 長かった髪をバッサリ切って雰囲気が変わってたけど、俺はその顔をよく知っている。
 彼女と親しくなったのは、去年の文化祭。そして先月、俺が十八歳になる誕生日の前日に、勇気を振り絞って直接告白しに来てくれた――堀江響。

「よくもそんな、お兄ちゃんを殺しといて、よくも……!!」

 響ちゃんのその台詞は何故だか、コノに向かって叩き付けられていて。

「ま、待ってよ、あなた誰? っていうか、私? お兄ちゃん? えっ?」

 コノが戸惑うのも当然だろう。響ちゃんとはほとんど面識ないはずだし。つかお兄ちゃんって? 俺の記憶が確かなら、五つか六つ上に翻訳関係の仕事をしてるお姉さんがいるだけで、兄貴なんか居なかったような?
 いや待て、いつだったか雑談混じりに、今度身内が国際結婚するんだとか、立派な教会で挙式するとか、ブーケトスは絶対私が取るんだとか、今好きな人と結ばれたらいいなーとか、雑談混じりに言ってたような。んでたしか、お姉さんの勤め先っつーか旦那さんと出会った場所が、ええっと。

 ――あ。

「あんたが、蹴っ飛ばしたのよ。源先輩と一緒に」

 みるみるうちに。
 響ちゃんの目に、涙が浮かんできて。

「お兄ちゃんは寸前で気付いて、やめようとしたのに……その隙に、あんたが……あんたら二人が、お兄ちゃん蹴っ飛ばして、お兄ちゃんはそのまま、投げるの止めようとした手榴弾を持ったまま……転んで、倒れて……」

 そうだ。そうだよ。ああ、畜生。彼女のお姉さんが働いてるのは、神奈川の――もしそれが横須賀方面、在日米軍の基地だとしたら、そこで知り合って国際結婚したって言うのなら、お相手は米軍の関係者だったのかもしれなくて。
 つまり、あの時にやりあった黒ずくめどもの中に――。

「この一ヶ月、うちのお姉ちゃんが何回自殺未遂したか知ってんの?! ほとんど原形留めてない死体にすがりついて何日も何日も泣いて暮らしてたのよ! 今だって廃人同然で立ち直る気配すらないのに! あんたその間、源先輩と一緒にヘラヘラ笑いながら毎日楽しくやってたんでしょ! ……もっかい言ってみなさいよ、誰が悪役ですって? ふざけないでよ何にも知らないくせにッ!!」

 コノも遅ればせながら、響ちゃんが言ってることの意味に気付いたらしい。
 言葉もなく、膝から床に崩れ落ちる。

 いや、俺だって。
 近くにあった机がたまたま足に当たらなかったら、コノと同じように。

「……源先輩」

 気がついたら、響ちゃんが俺の目の前に立っていた。
 俺の胸元に無言で押しつけてきた小さな包みを、ほとんど反射的に受け取る。

「誕生日プレゼント。あの時の放課後にも持ってたんです。もしOKって言ってくれたら……ううん、どうせフラれるだろうとは思ってたけど……何があってもちゃんと渡そうって思ってたんですけど。ずっと渡しそびれて。お兄ちゃんのお葬式とかで大変だったし」

 ぐしゃぐしゃになって、あちこち破れた包みの中から。
 万年筆が一本滑り出して、床に落ち、カツンと乾いた音を立てる。

「ラブレターの返事書くのに、ちょうどいいでしょ。……でも、もう誰も、先輩なんかに心のこもった手紙なんか送らないと思いますけど」

 涙目で。
 唇を噛み締めて。

「……年下の私なんかに、ここまで言われて」

 憎しみに満ちた厳しい顔が、一転。
 ただただ悲しい泣き顔に、変わる。

「言い訳のひとつも、ないんですか」

 ――言い訳。

 しようと思えば、できた。

 あの時の黒ずくめは全員、敵意や殺気を隠そうともしなかった。そもそも丸腰の俺たち相手にフル装備で一方的に攻撃してきたのは向こうだし、相手が高校生だと気付いたところで攻撃を躊躇うはずがない。手榴弾のピンも完全に抜いてたしな。
 敵はそこらを都合良く隠して、俺に対する誤解や憎悪を煽るよう情報操作してやがるんだ。響ちゃんは騙されてるんだ。

 でも、それを今言ったところで、何になる?

 あそこで斃した黒ずくめが身近な人の身内かもしれないなんて、俺は想像もしてなくて。
 事前に気付いたとしても、甘んじて手榴弾を受けたはずもなくて。
 俺とコノが彼女の義理のお兄さんを蹴り飛ばし、死に至らしめたという事実は、もう。
 覆りはしない。

「……ウソでも、いいから」

 響ちゃんの、黒くて大きな瞳から。
 ぽろぽろ、ぽろぽろ、涙がこぼれて落ちていく。

「何か、言って下さいよ……」

 本当は、嫌いになりたくない、恨みたくない。
 そういう気持ちは、充分すぎるほど伝わってくる。
 そんな彼女の顔を間近に見ながら、ウソなんかつけない。

「……ごめん」

 何とかその一言を絞り出した途端、俺の横っ面に平手打ちが飛んできて。
 響ちゃんは背を向けて、そのまま走り去った。

「すっげ。ドラマみてぇ」
「修羅場だな、修羅場」

 無責任な他人事そのものの呟きが、俺のすぐ側から聞こえてくる。
 槙田と久能。
 瞬間的に頭へ血が上った俺は、二人を怒鳴りつけてやろうとして。

「でもさ、源。俺たちはお前の味方だぜ?」

 意外な言葉に、出鼻をくじかれる。

「だってよ、胡散臭ェじゃん。寝てる時に夢の中へ出てきてさ」
「気味悪ィとしか思わねェし。あんなもんホイホイ信じられるかよ。なぁ?」
「お前の方にだって、それなりに事情とか言い分とかあるんだろ?」

 いかにも親しげに、俺の肩を抱いてくる。

「あ、っ……ああ、そりゃ、まあ……」

 思わず同意して、ふと気付く。
 槙田と久能の表情が、どうにも薄気味悪い。俺の立場を思いやって味方になろうとか、そんな殊勝なことを考えている顔じゃない。

「なァ、源。お前さ、今も拳銃とか持ってんだよな?」

 絶句。

「俺さ、銃とかめっちゃ興味あんだよ。だいぶ前からガスガンとか集めててさ」
「たまに公園でサバゲやってんだけどさ、一度でいいから実銃撃ってみてェなって」

 何言ってんだコイツらは。脳味噌腐ってんのか?
 ガスガンの類は本来、十八歳未満には購入できない。高校生がコレクションなんかできる訳ないし、しちゃいけないんだ。まして、小さな子供やお年寄りが通りかかるかもしれない普通の公園でサバイバルゲームをやるなんて言語道断。俺自身がミリオタの端くれだから断言するけど、コイツらのやってることは犯罪者予備軍と思われても仕方のない悪事そのもの。それを自慢げに語るとか正気の沙汰じゃない。

 でも、普通の高校生なんて。
 ろくに世間も知らず、現実をナメてるようなガキなんて。
 このくらい危ないことをやらかしてても、何の不思議もなくて。

 かく言う俺だって、ついさっきまで、響ちゃんの件で心底思い知るまで、自分がやってきたことの本当の意味なんか、全然理解してなくて。

「えーと、稜威雄走だっけ? 日本の最先端技術で作ったお前専用の拳銃」
「ちょっとだけ、ちょっとでいいんだよ、触らしてくんね?」

 もう、言葉も出なかった。
 敵はどこまで俺たちの情報を押さえてんだ。どこまでみんなに垂れ流した?

「俺、射撃とかめっちゃ才能あんだぜ? お前より上手いかも」
「な、見せてくれよ。稜威雄走。……バッグの中か?」

 完全に気が動転していたせいで気付かなかった。槙田と久能に「稜威雄走」と言われる度、俺は自分の席に置いたバッグへ目をやっていた。コイツらにあれを渡す訳にはいかないって、その考えがそのまま行動に出ちまってた。

「お、おい、やめろバカ! 止せ!」

 俺の席に向かって歩き出した久能を止めようと、手を伸ばして。
 がら空きになった背中側で、槙田が何かをやった。
 その意味に気付いてハッと振り向いた時には、もう遅い。

「うっわ、スッゲェ……!! マジモンだぜ、見ろよホラ!」

 槙田の手の中に握られていたのは、俺の携帯用小型拳銃。

「かっ、返せ! オモチャじゃないんだぞ!」

 慌てて振り向き槙田に掴みかかろうとしたら、今度は久能に背中側から羽交い締めにされた。ああもう気が動転してるにも程があんだろ俺! いつもならこんなバカどもにここまで好き勝手されやしないのに!

「オモチャじゃないことくらいわかってるっつの、バカにすんなって」
「最近のガスガンって超リアルだし、実銃と基本的な扱い方は一緒だし」
「あれ、セフティついてねェんか。ロックかかってんの? スライド堅ってェ」

 本当にこいつら、心底バカだ。
 銃なんてのはとどのつまり機械の一種。弾丸を発射する部分の基本構造は同じでも、実際の扱い方は規格や種類ごとにみんな違う。そもそも、いくらリアルに作ってあってもお前らが扱ってんのは所詮おもちゃだろが。実銃と完全に同じなはずがあるか。
 そこに気付きもせず、槙田は銃口を向く先をフラフラ漂わせながら、指先をトリガーにひっかけたまま、力尽くで無理矢理スライド引いて実弾を装填しようとしている。
 そんなことして、もし、ちょっとでも指が滑ったら。

 ――ぱぁん。

 閃光と共に響く乾いた破裂音。教室に漂い始める硝煙のにおい。

 クソッタレ、案の定暴発させやがった。
 驚いて硬直してる槙田には一切構わず、俺は大急ぎで弾の行方を探す。どこに飛んでいった? どこに当たった? 黒板? 弾丸は砕けたのか? それとも跳弾して明後日の方向に跳ね返った? いくら小型拳銃の小口径弾でも、対魔人戦を想定してカスタムされたモノには違いない。ギリギリまで炸薬を増やした強装仕様だ。そんなもんが万一にでも生身に当たってみろ、怪我するどころじゃ済まな――。

 どさっ。

 視界の隅で、誰かが倒れた。
 女子だ。
 白い夏用セーラー服の肩口に、じんわりと血の跡が広がっていく。

 おい待て。
 冗談だろ。

 ブッ倒れてんの、コノじゃねえかよ!

「ち、ちが……俺じゃない、俺のせいじゃ……」

 カス野郎のテンプレそのものの台詞を吐いて、銃を握ったままの槙田が首を振る。
 それを見た瞬間、俺の堪忍袋の緒が四、五本まとめてブチ切れた。
 後の一瞬で何をどうやったのかはさっぱり憶えてないけど、多分、手加減なしで思い切りブン殴るくらいのことはしたんだろう。気付いた時には槙田と久能は足元に倒れていて、携帯用小型拳銃を手の中に取り戻していた。
 スライドに引っかかった空薬莢をとりあえず排出、安全装置を掛け直して腰の後ろのホルスターに仕舞う。発砲直後だから銃口やチャンバーが火傷しそうなほど熱いんだけど、そんなもんに構ってるヒマなんかない。

「おい、おいコノ、おいっ!」

 倒れたまま動かないコノを抱き起こす。セーラーの襟元に手をかけて一気に引き裂き、銃創を直接確かめる。傷そのものはさほど大きくない。銃弾がモロに当たった訳じゃないのか。最初に黒板に当たった弾がそこで砕けて飛び散って、破片の一部が運悪くコノの肩に突き刺さった、ってとこか。だったら命には別状ないだろうけど――ったくお前はどんだけ不運な星の下に生まれてんだよ!

「119番、救急車! 誰でもいいから早く呼んで!」

 叫ぶ間にコノの制服のタイを解いて抜き取り、俺の持ってるハンカチと合わせて急場凌ぎの止血帯を作る。傷口は小さくても貫通してないんで、今も弾丸の破片がコノの身体の中に残ってるに違いない。確か鎖骨下のここらへんには結構大きな動脈が通ってるはずだから、何かの拍子に突き刺さったらドバッと一気に出血が増えるかも。
 つーかこれ、動脈は掠めてないにしても、いくら何でも出血が少なすぎないか?

「お、おい、おいおいおいおいっ……!!」

 コノの口元に耳を近づけ、同時に手首を握りしめる。
 呼吸してない。心臓も止まってる。

「ばっ、ばっかやろっ……!!」

 襟元を引き裂いて露わになったままだったコノの胸元に両手を重ね、大慌てで心臓マッサージ。それからマウス・トゥ・マウスで人工呼吸。
 でも、コノの心肺はまだ動き出さない。

「おいコノ勘違いすんな! お前は死んでないんだ! 死ぬような傷じゃないんだよ!」

 叫んだ後、またすぐに心臓マッサージと人工呼吸を繰り返す。
 人間って不思議なもんで、一種の極限状態に置かれて興奮してる時にはほとんど痛みを感じないものらしい。顔が腫れ上がるほど殴られても試合を続行するプロボクサーとか、全身に矢を受けても死ぬまで立ち続けた武蔵坊弁慶とかがその典型。
 でも、平常時に予想外の激痛を受けると、脳が致命傷を受けたと勘違いして仮死状態に陥ることがある。こういうケースは結構多いらしくて、いつだったか救急救命の課外授業を受けた時も、慌てず騒がず適切に処置できれば助けられるって習った記憶がある。
 だからコノも、本当の意味で死んだ訳じゃない。適切に処理すればすぐ息を吹き返す。
 そのはず、なのに。

「な、っ……何でだよ、何で、っ……」

 どんなに胸元を強く押し込んでも、気道に息を送り込んでも、変化がない。

「……まさか、コノ、お前っ」

 生き返りたくない、とか思ってんじゃないだろうな?!
 図らずも犯した罪を自分の命で贖おうとか、人殺しとして生きていくのに耐えられないとか、無意識下で強烈にそう思い込んでて、いっそこのまま死んでしまいたいとか――うああっコノの性格だったらマジで有り得るっていうかそれしか考えられん!

「あのなあ! お前はなんにも悪いことしてねェだろ! 勘違いすんなバカっ!」

 汗みずくになって心臓マッサージを繰り返しながら、ありったけの声で。

「お前は単に巻き込まれただけだろが! 被害者の側なんだよ! 筋違いの罪悪感に浸りきって私なんか死んだ方がいいとか意味わかんねえっつーの! あんなんで、あんな程度でお前が死ななきゃいけないなら、俺なんて、俺なんてっ……」

 何千年も昔から、ずっと魔人と戦い続けてて。
 その過程で、今回みたいに、何度も何度も、何十回も何百回も。
 何の罪もない無関係の人を、大勢、巻き込んできたはずで。
 そして、これから先も、何十年、何百年、何千年、同じことをずっと、ずっとずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと。

「……ざっけんなッ……!!」

 もう何度目かわからない心臓マッサージを施そうとして、伸ばした手が。
 コノの身体へすがりつくような格好になって。

「俺が最後に選ぶのはお前なんじゃなかったのかよ!! 戻るところはお前のとこしかないんじゃなかったのかよ!! 勢いだけで適当なウソぶっこきやがって! このまま俺より先に勝手に死ぬ気かよっ! ふざけんなっ……!!」

 握り締めて振り上げた、両の拳を。
 コノの胸元へ、思い切り叩き付ける。

 ――と。

「けほ、っ」

 ずっと動かなかったコノの胸が動いて、軽く咳をした。
 それから、ヒュー、と音を立てて、大きく、大きく、息を吸い込む。

「かは、っ……げほっ、げほげほげほっ、げほっ……!!」

 やった、コノが生き返った――と喜ぼうとした途端、コノの肩口からピューッと噴水みたいに血が噴き上がって俺はまた半狂乱に逆戻り。

「いっ……いたい……沖継くん……死ぬほど痛いよぅ……」
「しゃしゃしゃ喋るな血が出るから! ああもう本当にお前ってヤツは……!!」

 心臓が動き出した途端にコレってことはやっぱ肩の動脈がやられてるんだろう。作りかけの即席止血帯を慌てて手に取り傷口にあてがって少しでも出血を抑え込む。と、校庭の方角からピーポーピーポーと救急車特有のサイレンが聞こえてきた。
 俺、ようやくちょっとだけ安堵。この数分で寿命が二十年くらい縮んだ気がする。

「……死んでる」

 俺でもコノでもない、クラスメイトの誰かの声。

 意味がわからなかった。本当に。

 でも、声のした方を振り向いてみたら。

「ま、っ……槙田君と、久能君がっ……!!」

 絶叫に近い悲鳴が上がって、他の音を一切掻き消していく。



 後になって、よく考えてみたら。
 俺が身につけてる格闘術はほぼ百パーセント、昔の俺から受け継いだものだ。
 それは本能に近いレベルで深く深く刻み込まれていて、ノックダウンさせる程度で留めるとか、隙を突いて絞め落とすとか、そんなことはいつでも完璧に、何度でも同じように間違いなく瞬時にこなすことができた。

 だから、普通の人間を手加減せずに殴りつけたらどうなるか、なんて。
 自分自身の拳が、下手すると銃より危険な凶器かもしれない、なんて。
 この時まで、正直、想像したこともなかったんだ。


3-8:死神

 目に映る全てのものが、赤と黒の二色に染まっていた。
 まるで、大量の血をぶちまけたように。
 光の届かぬ地の底へ堕とされたように。
 そこに身を置く俺は、つまり、血の池地獄に沈められた罪人か。

「……バカバカしい」

 くだらないことを考えている自分に気付いて心底呆れ果て、俺は思わず溜息をつく。
 ついさっき、ずっと降り続いていた小雨が熄んで晴れてきたと思ったら、辺りの景色を真っ赤に染め上げる物凄い夕焼け空になったんだ。それが赤色の原因。黒の方は夕闇。どちらもただの自然現象。俺が今いる三年五組の窓から西日が横殴りに差し込んできて、椅子やら机やらの影を大きく引き延ばしている。ただそれだけ。

 だいたい、ここが本当に地獄だとして、それが何だってんだ。
 血の池に沈められた程度で、俺の罪が赦されるとでも?

 今までこの手で罪のない連中を何人くらい殺ってきたのか、俺のこの手がどのくらい血まみれなのか、それすら憶えちゃいねえのに。何をどうすりゃ償えるって言うんだよ。地獄に堕ちた妄想に浸って気分だけでも楽になりたいってか?

 ふざけんな。笑わせんな。
 やっちまったことは取り返しなんかつかねえよ。

 大事なのは、今、そして未来。
 これからどうするか。とりあえず何をすべきか。

「…………」

 どうした訳か、頭の回転が止まる。
 何の答えも出てこない。

 さっきから、ずっと、こうだ。

 脚を投げ出すようにして、自分の席に座ったまま。
 この教室から出ることも、指一本動かすことすらできなくて。

 ――ふと。
 誰かの気配がする。

 それが誰なのかは、廊下の方から近付いてくる足音のクセで気が付いた。
 引戸が開いて、よく見知ったそいつが、教室の中に入ってくる。
 視線だけ上げて、そいつの――拓海の顔を見て。

「……何だよ、今頃」

 本当は「今頃ご登校か、記録的な大遅刻だな」まで言うつもりだったんだけど、作り笑いを浮かべる前に気力が尽きて、声を出すことすら億劫になり、途中で止めてしまった。
 拓海の方も出入口の側に突っ立ったまま、一度何かを言いかけて黙り込む。

 しばらく、重苦しい沈黙が続く。

 結局、俺の方が耐えきれなくなって。

「なあ、拓海」

 重い口を開いて、声を絞り出す。

「お前、今日のこと、どこまで知ってんだ」

 今朝、ここで何があったのか。俺が何をやったのか。

「一通りは」

 やっと返ってきた拓海の言葉は、何の抑揚もない。

「しばらく休校だって、昼過ぎに担任から連絡があった。さっき滝乃の見舞いにも行ってきたよ。まだ麻酔が残ってるみたいで、ちょっと辛そうだったけど」
「……そっか」

 手術、無事に終わったのか。

 でも、喜ぶ気にはなれない。

 これから先、コノはあと何回、こんな目に遭い続けるんだろうか。
 決まってる。俺の側にいる限り、何度でも。
 そして、いつかきっと、取り返しのつかないことに――。

「しかし、意外だな」
「?」
「いや、お前だよ。もっとこう、意気揚々としてると思ってた。今日も大活躍だったんだろ? 本当だったら今頃、生徒も教師もみんなまとめて学校ごとフッ飛んでたって」

 結女から連絡でもあったのか。一通りどころか全部知ってんじゃねえか。

 あの事件が起きた直後、救急車の到着と時をほぼ同じくして、何台もの警察車輛やヘリが駆けつけてきた。あまりにタイミング良すぎて何事かと思ったら、結女から報告を受けてたんだと。万一の時はすぐ対応できるようにスタンバってたんだ。
 でも実際のところ、政府はこの難局をどう処理すべきか頭を抱えてたそうだ。なにせ敵の数は一千。もし交戦状態に入れば自衛隊を投入して戦闘を支援してもいいくらいだけど、フル装備の大部隊を都内の人口密集地へ秘密裏に展開するなんて不可能。最悪の場合は爆装した戦闘機をわざと墜落させて、この学校の周囲数百メートル四方を丸ごと焼き尽くすとか、そんな物騒な作戦まで大真面目に検討されてたとか。
 ところがどっこい、一千の魔人は社会に害を与えるような意図も能力も持っておらず、放置しても何の問題もないことが俺の活躍であっさり証明されてしまった。しかも、その過程で出た犠牲者はわずか二人。

 まさに奇跡! これぞ文字通りの神業だ! 沖継様ばんざーいッ!!
 客観的に見ると、俺が今日やったことは、そういう評価になるんだとよ。

 そんな訳で、学校関係者もとい一千の魔人は「運悪く戦闘に巻き込まれた被害者」として処理されることが決定。昼前には全校生徒が体育館に集められて、公安関係の偉い人から簡単な事情説明と他言無用の念押し。しばらく校区外への外出禁止、スマートフォンや携帯電話の一時的な没収と通信記録の監視等々の制限をつけた上で解散、強制下校、来週まで休校、そして今に至るんだけど。

「……証拠を消す作業も、昼過ぎには全部終わったんだろ?」

 拓海が教壇に上がり、黒板に手を触れる。
 銃弾が当たった場所は、きっちり均して綺麗に塗装し直された。砕けて飛び散った弾丸の欠片も一つ残らず回収されて、コノの血が滴った床も綺麗に掃除済み。

 もちろん、教卓の側も。
 槙田と久能が、倒れていた場所にも。
 何一つ、痕跡は、残っていない。

「そういうのを専門でやる班みたいなのが、公安だか内閣情報調査室だかの関連機関にあるんだってな。至れり尽くせりというか、何もそこまでと言うか……」
「…………」
「少しくらいミスして巻き込まれた一般人が怪我して死んでも、魔人さえ斃せば、敵の計画を邪魔出来さえすれば、結果オーライ。そんなのでいいのかね、この国は。……いや、沖継にとっては願ったり叶ったり、やりたい放題なのかもしれないけどな」
「…………」
「なあ、沖継」
「…………」
「お前、ここで何やってんだ?」
「…………」
「警察も政府の連中も全部追い払って、もう何時間も一人でここに残ってさ」
「…………」
「胸張って帰ればいいだろ。家に」
「…………」
「今頃きっと、可愛い連れ合いが夕飯作ってお前の帰りを待ってるぞ。どうやってお前に詫びようかって、謝罪の言葉とかさ、一生懸命考えてんじゃないか?」
「……ッせぇ……」
「私の夫はやはり凄かった、尊敬し直した、これからもこの調子で頼む、私は夫唱婦随でついていくぞ、とか何とか……」
「ッせぇよお前は!! 知ったようなクチ利くなッ!!」

 手近にあった机を蹴り飛ばす。思いっきり。
 錐揉みしながらフッ飛んだそれは、他の机や椅子を巻き込み、弾き飛ばし、派手な音を立ててブッ壊れた。この教室にバイクか何かでも突っ込んできたような有様になる。

 これに驚いたのは、俺自身の方。
 そこまでやるつもりは、なかったのに。

「……つくづく凄いよな、お前」

 驚き半分、呆れ半分に、拓海が言う。

「理性のリミッター外れた途端コレか。八つ当たりってレベルじゃないぞ。ただ蹴っ飛ばしただけでここまで出来るヤツ、この世界に十人もいないぜ、多分」
「…………」
「ここ最近、派手に活躍してたもんな。もともとお前が持ってた能力みたいなものを、いよいよ本格的に取り戻してるんだろ」
「…………」
「三千年の時を生き続けて、連戦連勝を重ねた伝説の魔人、いよいよ復活か」
「…………」
「そんな自分が、怖くてたまらない……か?」

 これ以上、無責任な外野の言葉を聞いている気になれなかった。
 俺は自分のバッグを引っつかんで、教室を出ようと歩き出す。

「待てよ、沖継」

 廊下に出る前に、拓海の声が引き留めようとする。
 もちろん俺は、そんなの無視して――。

「槙田と久能、死んでないぞ」

 ――足が止まる。

「いや、正確には死んでたんだけどな。蘇生が間に合ったらしい。ウソじゃない。あの二人が息を吹き返したのをこの目でちゃんと見てきた。ピンピンしてるよ。今頃は親御さんのところに帰った頃じゃないか?」

 拓海の方を振り向いた俺は、その時、どんな顔をしてたんだろう。
 手近の壁に背中を預け、深い深い安堵の息をつき、掌で顔を覆って天を仰ぐ。持ってたバッグはいつの間にか床に落ちていた。
 良かった、良かった、本当に良かった。ああ畜生、気を緩めたら泣いちまいそうだ。

「……そんなに嬉しいのか、沖継」

 何故だか拓海の方も、嬉しそうな声音で。

「いや、俺の知ってるお前なら……。あんなバカでも巻き込みたくない、知り合いは助けたい、傷つけたくない、何も知らない親御さんを泣かせたくない、って。きっとそう思ってたんだよな。心の底から。……そうだろ?」

 だったら何だよ。悪いか。って、胸が詰まって声が出ねえ。

「やっぱさ、沖継、お前はさ、根っ子のところがどうしようもなく優しいんだよ。伊弉諾でもなけりゃ三千年生きた魔人でもない、源沖継っていう十八歳の高校生で……本当に、骨の髄まで、正義の味方なんだよ。それだけは俺が保証する」

 だから拓海は知ったようなクチ利くんじゃねえっつーの。お前に保証されたからって何の価値もねえじゃん。いや正直言うと結構嬉しいけど。最近、お前との仲が微妙に険悪だったし。それでも深いところではお互い理解し合ってたのかもな。やっぱ持つべきモノは親友だよな、うんうん。

 ――ん?

 いやいやいや、ちょっと待て、待て待て待て。

「お……おい、拓海……」

 問いかけようとしたら酷い鼻声だったので、治すまで少し手間取って。
 その隙に、拓海の話がまた始まる。

「なあ、沖継。お前はさ、やっぱ、幸せな家庭を築くべきだよ」

 笑顔。わざとらしいくらいの。

「なるべくいい大学に行って、しばらくサラリーマンやった後に自営業で独立して、結婚して子供作って、貧しいながらも悠々自適の老後を送るんだっけ? それがいいよ、そうしろよ。滝乃も喜ぶよ。口にはしなくても、それが一番いいって思ってる。絶対。お前だってそうだろ?」
「お前……何言って……」
「でも、このままじゃムリだよ。真実を知った千人を何とかしなきゃ。人の口に戸は立てられぬってヤツさ、お前についての悪い噂はいつまでもついて回っちまうし……」
「…………」

 一方的に喋り続ける拓海の声はもう、俺の耳に入らない。

 この野郎、急に上辺だけで喋り出しやがった。

 ウソをついてるとまでは言わないけど、少なくとも本心から出てる言葉じゃない。心が全然こもってない。何かを誤魔化そう、隠そうとしてる。

 だいたい、槙田と久能が蘇生したって?
 そんなはずあるか。

 あの時、俺は完全に気が動転してた。コノがどうやって救急車に乗って病院へ向かったのかとか、槙田と久能の遺体がこの教室からいつどうやって運び出されたのかとか、この目で見ていたはずなのに記憶が飛び飛びで細かいディテールが全く思い出せない。だから一瞬、拓海の言うことを信じかけてしまったんだけど。
 逆に言うと、俺には、それほどのショックを受ける理由があったんだ。
 この手で槙田と久能を殺してしまった、そういう確信があったんだ。
 クラスの女子が悲鳴を上げた直後、教卓の足元に倒れていた二人の姿。瞼の裏に焼き付いてるよ。槙田は頸骨が折れてたし、久能はおそらく内臓破裂のショック死。そんなのどうやりゃ蘇生できる? しかも今頃は親元に帰ってるって? んなバカな。

 それに、拓海のヤツは事件の詳細を誰から聞いたんだ?

 どうせ結女が絡んでるんだろとか、俺の様子を見てきてくれって頼まれたのかなとか、そんな感じで短絡的に考えてたけどさ。絶対違う。俺は今度の事件を自分の中で消化できなくてずっと悩んでて、だから政府機関の連中に「しばらく一人でいさせてくれ」って頼んだわけで――その件は結女の耳にも届いてるはずだし、事実、結女は今に至るまで俺のスマホに電話一本メール一通寄越してきてない。察しのいいあいつのこと、俺の意を汲んで自重してるんだろう。それに、拓海がいくら俺の親友だからって、魔人がらみの事件においてはあくまで部外者だ。下手すりゃ自衛隊がこの学校そのものを吹き飛ばしてたかもとか、そんなことまで教えるはずがない。

 となると、拓海がこの学校の敷地内に入ってきたことまで謎になってくる。今日の事件が表向きにどう処理されるのか詳しくは聞いてないんだけど、事故、殺人、テロ、あるいはそれに類する重大事件ってあたりが妥当だろう。当分の間休校になったのもこの辺りの隠蔽工作と無関係じゃないだろうし、その証拠に今、校内のあちこちはKEEP OUTのバリケードテープだらけ。正門も裏門も通用門も周辺の道路に至るまで完全に封鎖されてるはずで、拓海がこれらを簡単にスルーできるはずがない。

 全く筋が通らない。何もかもがおかしい。

 つーかさ、もうそれ以前に、拓海のヤツは何で今日、都合良く学校を休んでたんだ? いつも通り親父さんのスケジュールが突発的に空いて、マンツーマンでみっちり特訓してたのか? 単なる偶然? でもコノの見舞いには行ってきたんだよな?

「……でな、沖継」

 聞き手だった俺の雰囲気が変わったからか、単に話の区切りだったのか。
 拓海は一度大きく息を吸い、吐き、妙に真面目な顔をする。

「うちの親父が、お前に会いたいって」

 俺、きょとん。

「いや、だから、お前が普通の日常を取り戻すためには、もう、それしか方法がないんだ。うちの親父なら上手く取りはからって……」
「おいこら意味わかんねーぞ、話が飛びすぎだろ」
「飛んでないよ、俺の話聞いてなかったのか? つまりな……」

 拓海のズボンのポケット辺りから、突然、アラームらしき電子音がする。

「……ああ、クソッ、もう時間か」
「時間? 何の時間だ?」
「いや、こっちにも色々段取りが……とにかく、今からうちの親父が来るから。ここに」
「はぁ?」
「びっくりするとは思うけど、本当に俺の親父だから。俺のことを信じてくれてるなら、俺の親父も同じように信じてくれ。絶対にお前の味方だから。他でもない俺が言うんだから無条件で信じろ。な? 絶対に変な気は起こすなよ?」
「変な気ってどういう気だよ。つーかお前の親父さんって元格闘家なんだろ、この件に何の関係もねえじゃん――――」

 言いかけて。

 背筋が凍る。
 俺の第六感が、危機を叫ぶ。
 血液が逆流するほどの戦慄が走る。

 今すぐにでも命のやりとりが始まりかねない、そんな緊張感が背筋を突き抜け――って、いくら何でも急すぎるし気配が近すぎるぞオイ何で今まで気付かなかったんだよ?! 一体全体どこからどうやって湧いて出たんだ!!

「大丈夫だよ、沖継、落ち着け。……親父もそんな構えなくていいから。中に入って。沖継にはちゃんと話してるよ」

 拓海が俺に背を向け、危険な気配がプンプンしてる廊下の方に声を投げる。
 革靴の足音が一歩、二歩。すぐに教室の引戸を潜る。
 白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、口髭をたくわえた背広姿の紳士。うちの父さんと同年代なんだろうけど、拓海と同じかそれ以上に体格が良くて見るからに格好がいい。よっぽど鍛えてるんだろう、今でもプロの格闘家として現役で通用しそうな雰囲気がある。

 でも、それはあくまで仮の姿だ。俺にはわかる。

 この男の正体は。俺の目に映っている姿は。

「紹介するよ。俺の親父、堤塞師(つつみ せきかず)。お前なら名前くらい聞いたことあるだろ。俺とは姓が違うんだけど、まあ、いろいろ事情があってさ」

 愕然とする俺に、拓海の親父さんが、いや、堤塞師が話しかけてくる。

「さて、源くんに私の紹介が必要かどうか。問題はそこだがね」

 その声。その仕草。
 初対面のはずなのに憶えがある。
 いや、俺はこの男と初対面じゃない。つい先月にも会ったし、それより前にも――。

 俺の脳裏に、強烈なフラッシュバックが起きる。
 夢の中じゃないのに、過去の記憶が蘇る。

 ああ、そうか。ようやく、何もかも腑に落ちた。
 クソッタレが、何もかもてめえの差し金かよ! ふざけんのも大概にしやがれ!!

「……お、おい沖継?! ちょっ――」

 拓海が慌てて制止しようとした時にはもう、俺はゼロコンマ数秒の神業的な速さで腰の後ろに差した携帯用小型拳銃を抜き、堤塞師に向けて――人間と昆虫を混ぜ合わせたような化物に向けて、トリガーを引き落としていた。


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