見出し画像

かくて救世への道を往く(1)

エリート崩れの核弾頭


 東京都中央区、築地。
 場外市場商店街の一隅にある大衆食堂、そのカウンターで、二十代半ば過ぎの青年が遅い昼食を摂っていた。店内に客は彼だけだ。ネクタイを緩めてシャツの第一ボタンを外し、店の看板メニューである海鮮丼をほおばっている。

「美味しいかい?」

 食堂の厨房から、店番をしている店主夫人が声をかける。青年の食べっぷりが気に入ったらしい。

「……はい」

 口中のものを飲み下してから、青年は答えた。

「うちは狭くて汚い店だけど、出してるもんには自信あってね。ちょっと前、雑誌にも載ったんだよ」
「実は、それを見てここへ来ました」
「おや」
「そういうことくらいしか、趣味がなくて」
「若いのが言う台詞かい? 仕事、忙しいのかい」
「……今は、暇です」
「そうかい。ま、震災復興の特需も終わっちゃったしね。しょうがないよ」

 夫人が笑う間に、青年は再び丼を手に箸を動かす。

「昨夜の変な地震、まだ調査中なんだねえ」

 テレビのワイドショーに目を移した夫人が言う。続けて青年に話しかけているのは間違いなかった。

「うちの次男坊があの辺の現場に勤めてんだけどね。仕事できなくて困ってんのよ。役所も早く結論出して欲しいねえ。役人ってのはほんと、あたしらの都合とか考えないね。やることなすこと遅いったら」

 海鮮丼を食べ終えた青年は箸を置き、テレビの方を向く。そこでは背広姿の官僚が「震源の直上と思しき場所では道路の陥没などにより安全が確保できず、調査も困難でして」などと、突き上げるような記者団の質問に冷や汗をかきつつ答えていた。

「なるべく迅速にって、役人も思ってるはずですよ」

 ネクタイを締め直しながら、青年が言う。

「役人だって同じ人間ですから、民間が困っていたら何とかしようと思います。これだけ正式な発表が遅れている以上、それなりの理由があるはずです」
「どーだか。その理由にしたってどうせアレでしょ、お役人同士の都合とか、書類が回ってこないと何もできないとか、そんなもんじゃないの?」
「…………」
「うちの亭主もよく言うんだけどね。キャリアの官僚は東大卒のボンボンばっかだし、世の中のことなんか何も知らないんだ。そんな頭でっかちが国を動かしてたら、アレもコレもおかしくなるさね」
「……はは、そうかもしれません」
「だいたいさ、天下りや公費を使い込んだ接待だろ、極めつけが社会保険庁の年金騒動さ。あいつら、自分らが日本をダメにしてるっていう自覚すら……」
「すみません、話の途中で……。お勘定を」
「あらやだ。はいはい、ごめんなさいね」

 夫人はレジに立ち、青年もそこへ歩いていく。内ポケットを探って財布を取り出す。
 そのはずみに、何かが床に落ちた。

「ん? 何か落ちたよ。クレジットかい?」

 気付いた夫人が、落ちたカードを拾い上げる。
 そのとたん、顔色が変わる。

「こ、これっ……」
「……すみません、もっと早くに言うべきでした」

 国家公務員身分証と書かれたカードを、青年は受け取りつつ。

「ご、ごめんね、まさか官僚さんとは思わなくてさ。あの、さっきの話はあんたに言った訳じゃ」
「いいんですよ、別に」

 青年は、寂しそうな苦笑いを浮かべる。

「実際、世間知らずの若造なんです。俺は……」

 呟きつつ、彼は代金を払って店を出て行った。

 一人になった店の中、夫人は青年がもう戻ってこないことを確認する。
 そして、舌打ちを一つ。

「ふん、平日の昼間に築地の場外まで来てプチグルメ気分ってかい。官僚ってのはお気楽なもんだね、全く」

 言いつつ厨房に戻る。もちろん、ワイドショーの続きを見るためだ。

「へえ。レイプされた恋人の仇を討とうとしてたのに、その恋人に説得されて自首したってかい。最近の若いモンも捨てたもんじゃないねえ。うちの人もパチンコなんか行ってないで、少しは見習って欲しいもんだよ……ぶつぶつ……」



 青年の名は久瀬隆平という。二十八歳。職業は国家公務員。いわゆるキャリア組の官僚である。

 食堂を後にした久瀬は場外市場商店街を抜け、霞ヶ関と永田町にまたがる中央官庁街へ戻るために都道へ出た。時刻は午後三時過ぎ、昼休みにしては長すぎる。なのに彼は地下鉄もタクシーも使わず、腹ごなしの散歩のつもりで徒歩を選んだ。

 言語道断、許されざるサボタージュだ。

 何故か世間では「官僚は怠惰な税金泥棒だ」と言われがちだが、これは誤解だ。特にこの時期、通常国会の会期中はほとんどの部局が山のように仕事を抱えている。残業で午前様など当たり前、平日は家に帰って眠ることすら難しい有様だった。
 現に、散歩を終えた久瀬が玄関を潜っていった真新しいビル――首相官邸のすぐ向かいになる内閣府の中も、喧噪と緊張感に満ちあふれていた。

「だから、これは総務のクリアもらってこないと話にならないんだよ! お前何年役人やってんだ!」
「趣意書、上がってきました! 解答の草案は……」
「四時から大臣のレクって、聞いてないぞ! 根回しに行った担当を連れ戻せ! 急げ!」

 こんな調子だから、激務に打ちのめされて過労で倒れるなど日常茶飯事。鬱、自殺、過労死などの騒動も毎年後を絶たなかった。
 行政の担い手たる中央官庁、その偽らざる日常は、官僚たちが命を削り続ける戦場そのものなのだ。

「みんな、大変だな……」

 脇を走り抜けていった同僚の背を眺めつつ、久瀬は腑抜けた顔で他人事のように呟くと。

「……あれ? おい、久瀬か?」

 その同僚から、ふいに声をかけられた。

「やっぱり久瀬か。久しぶりだな。一緒に防災担当でやってた頃以来だな」
「ああ、そうか。君は確か……」
「思い出したみたいだな?」
「すまない、すぐにピンと来なくて……」
「気にするなよ、部局が変わったらそんなもんだ。何だかんだで広いからな、霞ヶ関」
「何だか忙しそうだな。君は今、どこの部局に?」

 問う久瀬の目に、羨望の念があった。
 それに気付いた上で、久瀬の友人らしい職員は平静を装う。

「春まで海外だったんだが、こないだからまた内閣府の防災担当に戻ったよ。新人の教育係みたいなことをやってる。こいつだ、こいつ」

 後ろに控えている若手を指して、小声で言う。

「憶えが悪くて苦労してるよ。今日も朝から異常事態だってのに……」
「八重洲の廃ビル街で起きた地震か」
「そう、それだ。よくわかったな」
「いや……防災担当だって言うから、何となくさ」
「今朝方、調査名目で自衛隊まで出動したらしいんだが、どうした訳だかまとまった報告書が上がって来てなくてさ。大規模なテロなんじゃないかって噂も一人歩きを始めてるってのに、ふざけた話だろ。今も方々を回ってせっついてくるところだよ」
「手伝おうか、俺も。人手、要るんだろ?」

 久瀬は言ったが、その職員は軽く手を振る。、

「いいよ、新人教育も兼ねてるし。第一、今の君は部外者だ。勝手に連れていけないよ」
「…………」
「そんな顔するなよ。久瀬は今、情報調査室にいるんだよな。そんなに暇なのか?」
「……知ってたのか」
「そりゃな、噂くらいは聞くさ。お前は同期のエースなんだから」

 これに久瀬は何か言い返そうとしたが、二人の後ろにいた後輩が先に「すみません、まだ時間かかりますか? 急がないと……」と口を挟んできた。

「わかってるよ、お前も時間にだけはうるさいなァ。悪いな久瀬、また今度」
「ああ、頑張って」
「そっちもな。……俺に言えた義理じゃないが、あんまり落ち込むなよ」

 久瀬は応えて手を振りつつ、背を向ける。
 その姿が、手近にあった階段の上へ消えてから、

「誰なんですか、今の人」

 新人官僚が訊いてきた。

「久瀬か? 割と有名人だぞ。戦略核弾頭ってな」
「また凄い二つ名ですね……」
「それだけのことをやった奴なんだよ。ほれ、首都圏大震災の直後。フェニックス計画は知ってるだろ」
「あ、はい、たった三年で東京が復興できた原動力ですよね。総理が豪腕を振るって推し進めた……」
「本当にそう思うか?」

 冷たく問い返す先輩に、新人の彼は眉を顰める。

「総理や大臣はあくまで責任者だ。極論すれば〝復興計画を作れ、責任は俺が取る〟の二言で仕事は終わる。具体的な計画を作るのは俺たち官僚の職分。つまり、フェニックス計画の原案を出した奴は永田町じゃなく、この霞ヶ関にいるってこと」
「……まさか」

 その先輩官僚は、鷹揚に頷いて見せた。

「あの地震直後、ほとんどの連中が被災前の生活を取り戻すことを最優先に考えてた。総理もだよ。ただ、防災担当から当時の対策室に駆り出されたヒヨッ子……当時の久瀬だけが違ったんだ。それじゃ失った財も人命も浮かばれない、また大地震が来たら同じように甚大な被害が出ることになる、東京はこれを機に前以上の繁栄を約束する新しい姿に生まれ変わるべきだ、ってな。正論だろ?」
「いや、理想論に聞こえますけど……。被災者にとっては、十年後百年後より明日のことですよ」
「甘いよ、お前。久瀬もその現実とやらは見据えてたんだよ。若手を中心に必要なスタッフを集めてまとめあげて、ライフラインを迅速に修復するついでに大規模な区画整理と道路整備、共同溝の大規模な施工や地下空間再生の布石も打つっていう画期的な案をブチ上げたんだ。最後にゃ、お前みたいに理想論だ夢物語だと決めつけて取り合わなかった大臣や次官に胸の透く啖呵まで切ってみせた」
「?」
「官僚が夢を語るのがそんなにおかしいか! 理想を実現するために努力するのが罪なのか! より多くの人々の幸せを行政が必死で考えてなぜいけない! 防災担当の見知からも、経済復興の展望からも、この案は絶対に譲れない! ってな」
「……平成の後藤新平ですか」
「後藤と違って、久瀬の案はほとんど丸ごと通っちまったんだがな。通した総理も英断だったが、それ以前に久瀬案がなきゃ今も東京はズタズタだったろう。俺はそう思うよ。ま、世間的な評価は、総理と内閣の支持率に化けちまったけどな」
「それで、戦略核弾頭……」
「ああ。久瀬が本気で動き出したら、ショボい前案は十中八九、跡形もなく吹き飛ばされてたんでね。で、首都機能再生推進室の発足と同時に上の階へ出向だ。入省五年も経ってないのにだぞ?」
「上の階って……このビルの? 内閣官房? そりゃあ凄い」

 その後輩が、感嘆の息をつく。

「まあ、そうだな。凄すぎたな」

 これは、鼻で笑うように。

「可哀想だが、久瀬は終わりだよ。下手に才能のある奴は、その才能に潰されるんだ」
「は?」
「お前もいずれわかるよ。……さ、急ごうぜ、呑気にしてたら今夜も家に帰れないぞ!」




 久瀬は階段を上がり続け、やがて内閣官房へ入る。

 その名が示す通り、ここは内閣および内閣総理大臣が行うべき仕事を直接的に受け持つ行政機関だ。内部部局として行政改革推進室、拉致問題連絡調整室、首都機能再生推進室などを擁し、総じて中央官庁の頂点、あるいは国家の中枢と呼んでも差し支えない。任に就くのは中央官庁から選りすぐられたトップエリートのみで、彼らの日常もまた、一般からは信じがたいほどに多忙なものだった。

 その内閣官房の一角、ビルの六階に、内閣情報調査室という部局がある。

 久瀬が現在所属しているのは、ここだ。

 略称を情報調査室、または内調ともいう。戦後間もない昭和二十七年、時の吉田茂内閣がアメリカ中央情報局をモデルとして内閣総理大臣官房調査室の名で発足させ、以後何度かの改名や組織再編を経て現在の形を整えてきた。構成職員はプロパーや各省庁からの出向者ら計百五十名ほど。半世紀以上に渡って国家機密とそれに類する事由の情報収集・分析を任されてきた内閣直属の情報機関である。

 こうした背景を知れば、ほとんどの者はこう想像するだろう。情報調査室にはトップクラスの情報マンやスパイ、エージェントが集められていて、日本社会の裏側で世論操作や防諜活動、テロの未然防止などを始めとした活動を行っているに違いないと。

 大きな間違いである。

 情報調査室の使用するこの階、この区画だけが、何故か不自然なほど静かなのだ。薄暗い廊下に並ぶ開けっ放しのドア、そこから覗く各班のデスクには空席が目立ち、席についた職員も机の上の新聞や雑誌を眺めつつ切り抜きとホチキスを続けるのみ。
 こんなものが、国家機密やそれに類する重大な事由の情報収集・分析であるはずがない。

「給料泥棒だよ、どいつも、こいつも……俺も」

 自嘲しながら廊下を進み、久瀬は突き当たりにほど近い小さな部屋の前に立つ。素っ気ない白い扉に掲げられたプレートには[総務部分室・特定業務総括班]と書かれていた。
 扉を開け、中に入る。狭い部屋あるのは、申し訳程度の小さな窓と壁一面の資料棚、机が三つ。その内の一つは色焼けした旧式のパソコンが占拠していて、残り二つがスタッフのデスクになる。片方はこの班の責任者である山形祐三参事官のものだが今は不在のようで、もう片方が久瀬のものだ。

 早い話、久瀬以外に誰もいないのだ。

 これは今日だけの話ではない。
 もう十日以上、ずっとこの有様が続いていた。

 久瀬は席に着き、椅子の背もたれに身体を預ける。

「あのハゲオヤジ、どこで何やってるんだか……」

 上司の机を睨みつつ、溜め息を吐く。
 そうして、そのまま静かに時間が過ぎる。狭いオフィスが夕刻の赤い光に染まっていく。
 本当に何もなく、時間だけが無為に過ぎていった。




 何故、情報調査室はこうも閑職然としているのか。
 その答えはきわめて単純。内閣直属の情報機関など、日本には必要なかったからだ。

 先述の通り、情報調査室は戦後間もない混乱期に米国中央情報局をモデルとして発足したが、高度経済成長期を経た日本はやがて平和ボケと評されるほど安全な国になってしまう。
 たいていの問題は他省庁の守備範囲内で解決できたし、特に日本の警察庁がどれほど優秀であったかはここで述べるまでもない。圧倒的な権限を持つ政府直属の情報機関が活躍すべき場面など皆無に等しかったのだ。

 そもそも情報調査室の組織的な規模からして、国家機密に関わる能力が備わっているはずがないのだ。
 これは他の先進国情報機関を例に取れば明らかだが、米中央情報局(CIA)、英秘密情報庁(SIS)、独連邦情報庁(BND)、仏対外治安総局(DGSE)、露対外情報庁(SVR/旧ソ連KGB)などは例外なく自前で立派なビルを持ち、数千あるいは万を超える規模の事務官・諜報員・エージェントらを抱えている。
 一方、情報調査室は内閣府ビル内にある内閣官房の一角を間借りして、たかだか百五十名ほどの人員を集めたのみ。
 ウサギ小屋と謗られて当然の惨めさだ。

 ただし、そんな閑職にも存在する価値はあった。

 まず、官僚たちの安息所としての機能がある。
 激務に疲弊した者を異動させ、そこで一年ないし二年ほど休ませるのだ。中でも管理職のポストにはご褒美としての価値が強い。これらは職員の意欲を向上させ、定年まで勤続可能な環境を作る一助となっている。

 また、これと逆に、何らかの問題を起こした職員の反省房や左遷先、あるいは依願退職を促すための拷問部屋としての一面も併せ持っている。
 内閣官房が国家の中枢と呼べる重要な機関であることは既に述べたが、そこでの失敗はすなわち国政を左右する損失である可能性が高い。役人の人事は原則として情報開示の対象だから、安易な左遷や懲戒免職は必ずマスコミが嗅ぎ付ける。場合によっては痛くもない腹を探られることになるだろう。故に、内閣官房での懲罰人事は内閣官房の中で密かに行われる必要が生まれてくるという訳だ。
 そう。トップエリート集団である内閣官房だからこそ、その内部に閑職が必要不可欠なのである。

 そして久瀬は、問題を起こした側の人間だった。

 それは二ヶ月ほど前、大抜擢を経て配属された内閣官房・首都機能再生本部事務局でのこと。

「何でもかんでもヨソに責任転嫁すればいいってもんじゃない!! 俺らが背負ってみせるって気概もなくて何の仕事だよ、この能なしのクソタヌキ!!」

 言い放ち、当時の上役だった内閣審議官を殴りつけてしまったのである。
 彼はただ、自分の仕事に対して真剣であっただけなのだが、それも度が過ぎた。これでは閑職に飛ばされても文句など言える訳がない。

 結果、この春から情報調査室の特定業務総括班――通称、特務分室へ転属になった。
 その当時は、特務分室の責任者である山形祐三参事官もちゃんとデスクに座っていて、

「しょげ返ることはないよ。ここでの仕事も、慣れれば結構、面白い」

 と、落胆していた久瀬を励ましたものだ。
 ちなみにこの山形参事官、小太りで頭髪も薄く、表情にはまるで険がない。人は良さそうだが、間違ってもトップエリートの一人には見えなかった。

「こんな閑職でなければ、参事官の肩書きがついたかどうか怪しいな、このハゲ……」

 久瀬はそう嘲っていたが、それでも、励ましの言葉に多少なりと慰めを覚えたのは事実だった。
 何の得にもならない愚痴をこぼす前に、給料泥棒にならない程度の仕事はするべきだろう、と。

 しかし、その後の久瀬がやっていたことと言えば、情報調査室の内部規約を記した薄っぺらいマニュアルを眺めていただけだった。
 そしてその間、山形参事官は趣味の釣り雑誌を黙々と読み続けていた。

 久瀬はこの無為な時間に耐えきれず、

「あの、参事官。何か仕事はないのでしょうか」

 何度となくそう言ったのだが、

「まあ、慌てないことだよ。いずれ仕事は向こうからやってくるから」

 山形参事官の答えは、いつも同じだった。 

 しかし、本当にこの分室へ回ってくる仕事があるのだろうか。
 分室にたった一台きりのパソコンは時代遅れのオンボロ、相性問題のせいか官庁内のLANネットワークに繋ぐことすらままならない有様だ。資料棚にぎっしり詰まったファイルの背表紙には昭和四十年代から五十年代の日付が記されているから、二十一世紀の今からすれば紙屑同然の代物だろう。そもそも棚の扉はずっと施錠されたままなのだ。

 そうして久瀬がこの分室の存在意義を疑い始めた頃、山形参事官が突然姿を消した。
 病欠かと思った久瀬は同僚たちに訊いてみたのだが、特に連絡は受けていないという。やむなく情報調査室の責任者である内閣情報官の執務室を訪ねてみると、

「ああ、山形君なら私が特別休暇を出した。しばらく戻って来ないだろう」

 である。

「リストラの一歩手前、ってところか……」

 意味もなく長期休暇を出されるような原因を、久瀬は他に知らなかった。あるいは、円満退職という形を取って第三セクターにでも天下りか。
 ただでさえ閑職の情報調査室にあって、参事官がいなくなった班に未来などあろうはずもない。室長の解雇と同時に解散となるのがオチだ。ならば、その際には自分の身がどうなるかも知れている。

「上は本気で、俺を依願退職に追い込む気か……」

 たしかに自分はやりすぎた。だから左遷された。
 しかし、この仕打ちはあまりに酷すぎる――。

「冗談じゃない、このまま終わってたまるか……」

 そう思うから、退職願だけは出さずにいた。が、まだ桜が咲いていた時期からもう半月近く、久瀬は仕事らしい仕事を何もしていないのだった。

 しかし、それもこの日、この時までのことだ。

 彼はこれから、国家の存亡に関わる重大事に巻き込まれていく。

 ――日向みつき、昭月綾、大地瑤子。

 三人の極過型超能力者と久瀬隆平が出会うまで、あと、二時間。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?