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かくて救世への道を往く(8)

明日はきっと、もっといい日に


 小雨の降る、暗い朝だった。
 霞ヶ関の内閣府ビル、その一角にある特務分室も、夜に等しい暗闇に包まれている。

 その中で久瀬は自分の席に座り、いつまでも光の差してこない小さな窓を見つめ続けていた。

 みつきらと別れて後、久瀬は巡視艇の海上保安官に保護されたのだが、ろくな事情聴取もないまま中央官庁へ帰された。彼はその足で情報官の元を訪れて事の次第を報告しようとしたのだが。

「何があったのかは把握している。もう帰っていい、早く休め。今日は有給にしておく」

 そう言われ、執務室から退出させられた。
 だが、帰る気にはならなかった。
 守衛室の風呂を借り、シャワーを浴びてシャツを替え、特務分室に戻る。そうして自席から窓を眺めつつ、ただひたすら思考に没頭し続けていた。

「……ご都合主義の空論、だと」

 ぽつりと、呟く。綾に言い捨てられた言葉。

「俺は、間違ってない」

 これ以上左遷されるかクビになるまで、この部局にかじりついて行政官として働き続ける。そして、強力な超能力者を規制する法律なり制度なりを実現させなければならない。その決意を固めた。

 懐に入れていた退職願を、取り出す。

 そして気付く。
 取り出したその封筒に、自分のものでない文字が記されていた。

『辞めちゃダメ、まず三日! ガマン、約束!』

 久瀬がいつも内ポケットに差している万年筆を使ったものだ。丸っこい女の筆跡。
 誰が書いたのかはすぐわかったし、いつ書いたのかも察しがついた。

 久瀬はその文字ごと封筒を破って、捨てる。

 ――と、いきなり特務分室の扉が開く。

「……お、久瀬君か? 帰ってなかったのかね」

 現れたのは特務分室の主、山形祐三参事官。
 これには久瀬も驚いた。椅子を蹴って立ち上がる。

「さ、参事官? どうして」
「なにやら大変なことになったと連絡が来てな、半ば強制的に戻らされたんだ。事件そのものは、私の移動中に一区切りついたと聞いたが」

 山形は言いつつ壁のスイッチを押し、天井の蛍光灯をつける。分室の中に入り、手に提げていた大きめのバッグを自分の机の上へどんと置いた。

「戻らされた、って……クウェートからなら、飛行機を乗り継いでも」
「そこはそれ、方法はいろいろとね。音速の壁を越えるというのは凄いものだな。ヘルメットを被っていたのに耳がおかしくなるかと思った。途中で何度、空中給油とやらをやったのかなあ……いやはや、貴重な経験だったよ」

 山形が何を言っているのか推測はついた。よくもそこまでと、半ば呆れる。
 だが今、参事官が戻ってきたことは、久瀬にとって僥倖だった。

「参事官、今、お時間はありませんか」
「そう聞かれると、ない、と答えるしかないな。情報官のところへ言って書類を受け取ったら、すぐに仕事へかかるつもりなのでね」
「長くはかかりません。二つ、お訊きしたいことが」
「ふむ。なら、今聞こうか」

 山形は、手近にあったパソコン用のデスクから椅子を引っ張ってきて、腰を下ろした。

「で、何かな?」
「情報調査室は……特務分室は、一体何なんですか。どういう組織なのか教えて下さい」
「……またストレートだな」
「私は、何も知りませんでした。そのせいで……いえ、参事官の指示を忠実に実行しなかった非もありますが、少しでも知っていれば、あんな事は……」
「それは私を始め、内調全体が猛省すべきミスでもある。謝るよ。これでも事態を収拾するためにギリギリの選択をしたつもりだったんだが」
「は?」
「君の力量は上も認めている。半年ほど干して反省させた後、防災担当あたりへ戻すつもりだったらしい。いずれ部外者になることが確定している者に、特定業務……ああ、超能力関係の案件をそう呼ぶんだよ。文字通り国家機密になることを事細かに説明する訳にはいかなくてな」

 思わず、久瀬がぽかんと口を開ける。

「内調が閑職だというのは、あくまでカモフラージュだよ。ただ、うちは……この特務分室は、特定業務に関わる案件が発生しない限り、本当にヒマなんだがね。だから反省房としても利用されている」
「左遷先じゃ、なかったんですが……」
「そういうことだ。……この分室だけじゃない。一度、内調の本質に触れた者は、死ぬまで部外者にはなれん。中央官庁の人事異動制度を利用して定期的に各部局を異動しつつ、部下を確保しながら働き続けているんだ。たとえ役所を辞めても、民間にあって同じことを続けなきゃならん。実質的に内調の構成員は六千から八千……もっと多いかな。君を保護した海上保安庁の人間も、うちの息がかかった身内だよ」
「な……」
「他国の情報機関と渡り合える組織力は、充分に持っているはずだ。いや、目立つ本部を構えて必要な人員をどんどん確保し、全て自前で賄おうとする欧米の情報機関よりも優れていると言えるかな。組織の全容を外から隠蔽できるという意味ではね」
「…………」
「日本は長い間、平和ボケできるほど平和だったが、無償で手に入る平和などない。正義の味方を気取る気はさらさらないが、我々こそが平和で安全な日本を守り続けているのだという気概と誇りは持っているよ。……で、二つめの話は?」
「……あの三人についてです」

 そして久瀬は、自分が経験したことを交えながら、みつきらに問うたことを山形にもぶつけてみた。

「あんな危険な超能力者を民間に置いて放置しておくというのは、どう考えても公益に反します。諸外国と協力して何らかの手段を講じるべきです」

 参事官は、黙って久瀬の話を聞いていた。
 そして、少しの間考えて。

「その話を、あの三人にしたのかね?」
「はい」
「やれやれ。あの子らが怒るのも無理はないよ。細かいことは説明できんが……」
「何故でしょうか」

 山形は暫時、久瀬の目を見つめて。

「……聞かずにはおれない、という顔だね」
「私は知ってしまいました。見なかったフリをしろと仰られても、続けられる自信はありません」
「そうか……。では、仕方ないな」

 参事官は立ち上がって、自分のデスクへ向かう。机を探って鍵を取り出すと、開かずの資料棚を解錠して一冊のファイルを取り出した。
 そこには平成の日付がある。棚に並ぶ資料の中では新しい部類だろう。

「見てみるかね。八王子市の上恩方町にあった精神サナトリウム……旧超能力研究所の全資料だ」
「……っ」

 差し出されたファイルを、久瀬は無言で受け取った。
 そして、机上に広げる。

 まず目にしたのが、山深い中に建てられた立派なサナトリウムの全景写真だった。
 実に立派な建物だった。立派すぎた。敷地面積は二千坪を超えていると見え、国立の大病院だと言われても納得できるほどだ。
 それが八王子の、しかも交通の便が悪い山の中にあるというのは不自然極まりない。

「一応、脳神経外科と内科、外科も併設されていた。表向きは総合病院として運営されていたが、外来の患者は少なかったな。当たり前だがね。バブルが弾けてからは税金の無駄遣いだと非難を受けたこともあったが、そこまでだ。誰もこのサナトリウムの実態を暴いた者はいなかったよ。……いや、いたのかもしれんがね。誰も知らないうちに処分されただけで」

 山形の話を聞きつつ、久瀬はファイルを次々にめくっていく。

「そこからだ。部外者立ち入り禁止の隔離病棟。一部ではグレイブ……墓場と呼ばれていた、超能力研究所の本丸だ」

 ――グロテスクで悪趣味なスプラッタ映画。そのスナップショット。

 最初に久瀬が受けた印象が、それだった。理解が追いつかなかった。血の海に転がる無数の胎児、頭蓋骨を割られたまま巨大な瓶詰めにされた成人男性の標本。目、鼻、口、耳、顔のあらゆる場所から血を垂れ流して倒れた女性。そんな写真が書類一面に貼り付けられていたのである。

 そして、何より久瀬にとって衝撃的だったのが。

「……こ、れは……? ……まさか」

 大の大人ですら目を背ける光景を、興味深く覗き込んでいる二人の少女が写っていた。
 幼い頃のみつきと、綾。

「日向君が七歳か八歳、昭月君は十二歳だったかな。当時から二人は仲が良くてね。まあ、性格は水と油だから、喧嘩は絶えなかったようだが」

 場違いな補足だと久瀬は思う。
 そんな日常的な台詞をこの写真に重ねていいはずがない。

 別の写真では、男性職員らしき誰かにすがって泣きわめくみつきがいた。先の写真より少し成長している。十歳か、その前後。
 彼女の顔は真っ赤で、血に濡れていた。

「サイコキネシスの応用訓練中だったかな。確か、こう、空気を高速で掻き回して……」
「……かまいたち、ですか」
「そう、それだ。その技術を身につけたばかりの頃、周囲の大人たち、要するに研究員だが、凄い凄いと日向君を褒めすぎたんだな。調子に乗って本や植木を傷つけて遊ぶうち、飼っていたペットの……」
「もう、いいです。……見ればわかります」
「……それでも周囲の大人たちは日向君を褒め称えたんだ。すばらしい、とね。そして、何が素晴らしいもんかと泣きじゃくっているのがその写真だ」
「…………」
「その後、ペット類の持ち込みが禁止された。日向君の情操教育に悪い影響を与えるというのでな」

 さらにファイルの写真は続く。まるで独房のような小さな部屋が並ぶ廊下。そこに放り込まれてふさぎ込んでいる幼い子供――これは瑤子か。そして、抱えきれないほどのおもちゃを抱えて微笑みかけているのは、十四、五歳のみつきと二十歳前後の綾だ。

「ここまで来ると、三人とも今とあまり雰囲気が変わらないな。特に日向君なんて、よくもあんな立派な子に育ってくれたと思うよ」

 その台詞の直後、久瀬はファイルに綴られた最後の一枚になる資料をめくり終えた。

「文書の日付でわかると思うが、最後の写真から半年と経たずに首都圏大震災が起きて、その翌日に彼女らは脱走。研究所は壊滅、サナトリウムも閉鎖されてそれっきりだ」
「翌日? 脱走は地震の当日ではないんですか?」
「違うよ。首都圏大震災は日向君らが逃げ出すきっかけを作ったにすぎない。まあ確かに、今の日向君が前後不覚の暴走状態に陥れば、あるいは首都圏を壊滅状態に追い込む大地震を引き起こすのかもしれんがね。……そうだ。もう一つ資料があったよ、忘れていた」

 参事官は棚に戻り、薄手のファイルを取り出した。

「彼女らが脱走した際の現場写真と、その検証報告書だ。実地検証はほとんど米軍がやってしまったから、うちに回ってきた資料はわずかしかない」

 研究所――グレイブを中心にして、爆破・破壊されたサナトリウムの姿。そこから続く狭い渓谷。あちこちの山肌に地滑りを起こしたような跡が残っていた。

「日向君が桁外れの能力を示したのは、この時が最初とされている。そして、サンプルやデータ類と共に、世界の宝と言われていた博士や研究員がまとめて命を落とした。まあ、超能力者の生命を弄んできた報いだな」
「……日向が、殺したんですか」
「それが実は、よくわからんのだよ。研究所は強力な爆薬で吹き飛ばされたらしい」
「? 話が見えません」
「脱走した彼女らを捕縛するため、研究所の要請を受けた当時の政府は自衛隊の特務部隊を出動させた。これは確かだ。私も報告を受けたからね。同時に在日米軍も動いたらしい。装甲車や観測ヘリが脱走中の日向君と交戦し、サイコキネシスで破壊されたという記録もある。つまり、自衛隊機か在日米軍機が研究所を誤射したか、あるいは、日向君が念動力でミサイルなりロケット弾なりの弾道をねじ曲げて、それが研究所を直撃したか」
「さすがに、前者の可能性は皆無と考えますが」
「しかし断定はできん。客観的な証拠がないからね。いわゆる非正規戦の常で、自衛隊も在日米軍も記録を取ってなかったんだ。ついでに当事者の証言もない。日向君はショックで当時の記憶が飛んでいて、昭月君は証言を拒否し口を閉ざしたまま。大地君に至っては当時小学生だぞ。二人に連れられるまま逃げ出しただけで、今のように気丈に振る舞うこともなかった。泣き虫だったんだ。本当に」
「なら、脱走の日に何があったのかは……」
「少なくとも、私は知らん。研究所の関係者で生き残ったのはあの三人だけ、という結果以外はな」

 山形は目を閉じ、頭を掻く。

「これは私見だと前置きしておくが、研究所を壊滅させたのが日向君だとしても、彼女の責任を問うのは難しい状況だったろうと思うよ。たとえば、研究所は日向君に大して超能力を増幅するため数々の処置を施したんだが、これでおよそ三倍の力が手に入る予定だったらしい。それすら当初は上手くいかず、それで日向君自身を含む全研究データの破棄が決定した。性格的に丸くなりすぎたのが原因だとか」
「…………」
「ところが脱走時、実際の日向君は予定していた三乗を越える能力を発揮した。三倍じゃない、三乗だ。想定外どころの騒ぎじゃないよ。それは本人にとっても同じだろう。いきなり桁外れの力が湧いてきたとして、そう簡単に使いこなせるはずもない」

 話しつつも、山形は広げたファイルを一つ一つ畳み始める。

「日向君は、存在そのものが謎の塊。あらゆる意味でイレギュラー。だから誰も手が出せなかったんだ。昭月君と大地君を含めた三人の総合力は未知数。捕まえようにも、闇に葬ろうにも、策など立てようがなかったろうな」
「でも、今回は……」
「この数年で兵器の性能もずいぶん上がったし、彼女らのデータも少しは取れたろう。不確定要素を考慮しても捕獲できる自信があったのかな。ただ、残念ながら」
「……?」
「連中は、久瀬隆平の存在を計算に入れてなかった」
「いや、参事官、私は……」

 異を唱えようとした久瀬の言葉を、参事官は大声で笑い飛ばした。

「はは、まあ実際、そうだったらしいじゃないか。連中の無線を傍受していたうちの工作員も舌を巻いたそうだぞ」

 山形はファイルを棚に戻し、元通り施錠する。

「それと、もう一つ。念動力の原理原則を、昔、研究者から聞いたことがあるんだがね」

 人間は、何をするにも意志力というものが最初のキーになる。コップを手に取るのも、音楽を奏でて誰かを感動させるにも、トンネルを掘りぬいて道路を造るにも。
 つまり、人間の意識が外界に影響を与えるという意味で、これら全ての行動も広義には物理干渉能力――アクティブ・キャリバーのうちに含まれるのだという。

「一人の人間が持つ意志力そのものは、実はそう容量が変わらんのだそうだ。一生のうちに個人が成せることには限界がある、ということかな。その意味で言えば、あの三人の持つ力はあまりに度が過ぎる。特に日向君は……」

 自分の椅子に腰を下ろした山形は、腕を組む。

「……日向君は、あまりに強力で、あまりに回復が早く、あまりに安定しすぎている。昭月君のように精神崩壊すれすれのところで向精神薬を飲みながら保たせることもないし、大地君のように根本的に身体と精神のつくりが違っていて、その結果として特殊な能力がある訳でもない。ある機関の仮説によると、日向君は寿命そのものを削って力を振るっている、ということらしい」
「寿命……ですか?」
「もしこの話が正しければ、彼女はそう長く生きられない。いわゆる医学的な見知からは、日向君の命が蝕まれている兆候は一切見つかっていないんだがね。本人も健康には自信があるようだし、知っての通り湯水のように力を使い続けているよ。しかし……」
「いつ死んでもおかしくないから、存命のうちに何とか取り返したいと。日向の力の源泉を究明したいと。そう考える連中もいる、ということでしょうか」
「そうだな。そして、私はちょうど逆の立場だ。だったらせめて短い間だけでも、あの子に平穏な暮らしをさせてやりたい、とね。……とりあえず、ここまで理解できたかね?」

 言いつつ、久瀬の顔を覗き込む。

「理解は、できましたが……できません」
「どういうことかな」
「言葉は悪いですが、参事官の結論は浪花節に過ぎません。私的な感情の領域を一歩も出ていない。あれだけの資料を見せられた今だからこそ、私は」
「彼女らを国家の従属物にすべきだと、墓場のような生活に戻すべきだと?」
「政府の方針にもよりますが、そう信じます」
「では、政府の方針として彼女らを管理するからその担当をやれ、と言われたら、君は喜んで従うか?」
「…………」
「全く、君は正直だな。そして馬鹿だ」

 いきなり面と向かって馬鹿と言われ、久瀬は少なからず面食らった。
 冗談半分かと思ったが、参事官の顔は全く笑っていない。

「そもそも、超能力は人類に眠っていた普遍的な力だ。それを掘り起こして利用したいという気持ちはわからんでもない。だがな、人類の長い進化の過程において、それが封じられ眠った状態になったということには、それなりの意味があるはずなんだ」
「……たとえば」
「超能力が当たり前になった世の中を想像してみたまえ。誰でもあの三人と同じような力が持てる可能性があると世界に知られてみたまえ。誰もが超能力を求めるようになるだろう。そうなれば既存の社会体制は根こそぎひっくり返るぞ。能力に目覚めなかった者、または目覚めたとしてもごく弱い力しかない者は一方的に虐げられるしかなくなる。肉体的にも精神的にも自分を守る術が何一つない、混沌とした弱肉強食の世の到来だ」

 久瀬、息を呑む。
 そこまでは考えもしなかった。

「だから、超能力者が民間から出てこないように封じていくしかない。そう判断したのが冷戦時代を経た後の世界だったんだ。結局は超能力研究などやってもやらなくても同じだったということだよ。そのくせデータを破棄もせず抱え続け、非人道的な実験をこそこそ行い、あまつさえあんな年頃の娘たちの人生を奪って山の中へ閉じこめた。その企みが事実上破綻したあとも、彼女らを取り戻そうという野望をいまだに捨てきれず、チャンスと見れば手段を選ばず実行だ。全く、エゴに取り憑かれた愚かな所業そのものだ」

 山形は、太り気味の身体をよっこいしょと揺すりながら、椅子から立ち上がる。

「少なくとも私は、彼女らが国家権力と強く結びつくのは良い結果を生まないと考える。だってそうだろう、彼女らが持つ強大なサイコキネシスやEXに刃向かえる通常戦力はどこにもないのだし、スパイやマスコミもESPの前に屈するしかない。一つ間違えば、誰にも手出しできない最悪の独裁者の誕生に繋がりかねないんだ。むしろ今まで、そのために利用されなかったのが奇跡だよ」

 こつ、こつ、こつ――。
 靴底を鳴らしながら、参事官が久瀬に歩み寄る。

「簡単に言えば二択だ。彼女らの自由を保障しながらつかず離れずの関係を維持し、天寿を全うするまで見守って、そこですっぱりと超能力研究という負の遺産を捨て去るか。あるいは、彼女らに自由を与えず国家の管理下に置き、史上最悪の独裁者が誕生する危険に晒されながら、今後も呪われた研究を続けていくか」
「…………」
「君は、どちらを望むのかね?」
「その設問は、卑怯です。答えは拒否します」
「はは、卑怯ときたか。その理由は?」
「将来的な危険性と、差し迫った現実の危険を天秤にかけるべきではない。そんなことを言い始めたら、超能力研究が将来的に人類の明るい未来に貢献する時がやってくる可能性だって、ないわけじゃない」
「つまり、将来的にもたらされるかもしれない利益のために、世界が弱肉強食の論理に支配されかねないパラダイムシフトを起こしても構わないのだな? あるいは超能力の独占によって史上最悪の独裁者が誕生しても構わないと? いや、この両者は同時に起きうるんだが、それでも人類の明るい未来とやらのために甘受するかね?」
「し、しかし、わずか三人と数千万の都民の安全を天秤にはかけられません」
「本当に、彼女らが都民にとって危険な存在か?」

 参事官が腰に手を当て、ふん、と鼻を鳴らす。

「確かに形式上、彼女らは東京都民を人質にしているという側面はある。これは否定できん。しかし、普段の彼女らは社会体制に反旗を翻すどころか、純粋な善意で人助けをしているんだぞ。下手に力を使えば自分たちの立場が危うくなると知った上でだ。時々失敗はするが、それを差し引いてもトータルではプラスになっている。経済効果としても相当なものだ。具体的な数字も出せるが、必要かな?」
「…………」
「本当に、君が言う危険は差し迫った現実なのか? 力を持っているだけで信じられないというなら、人類を何回も絶滅させてなお釣りのくる核を抱えたアメリカやロシアをどう考える? 彼らが今後も弾道ミサイルを撃たないという保証がどこにある?」

 完全に言い負けている。論客としての久瀬が、これは良くない、反撃しなければ言いくるめられる、参事官に負けてしまうと頭の片隅で危険を訴える。
 しかし、参事官の言葉はなおも止まらない。

「この世の中は最終的に、他人の善意に依った信頼関係の上に成立せざるを得ないんだ。人間の善意を否定した上で作られる法律や、身内すら疑うのが仕事の検事や警察の存在すらも実は、官憲はきっと悪を罰してくれる、己に課せられた任を全うしてくれる、という大前提を抜きにはしておらん。他人を利用して甘い汁を啜るような人種こそが実は、誰よりも他人の善意に甘えているという矛盾がある。何も知らぬ君を己の利のため殺そうとした裏世界、情報機関同士の暗闘だって例外ではない。それを利用して昨夜の君も生き延びたのではないか?」

 言葉が、出てこない。
 参事官の論理を覆すだけのものが、何もない。

「自慢するつもりはないが、私はこの数年であの子らと確かな信頼関係を築き上げてきた。彼女らは私に敬意を払ってくれているし、大半のお願いは喜んで聞いてくれるよ。そして、私は内調の一員として、常に総理や官房長官の意を汲んで動いている。彼女らはすでに、これ以上ない形で日本政府の管轄下にあると言い切れるだろう。担当官として、私にはその自信もあるよ。……さ、もう一度聞こう。それでも君は彼女らを拘束すべきと思うか? これでもなお、一切の自由を奪い去るべきだと、その考えは変わらんのかね?」

 久瀬は必死で頭を働かせた。
 論旨に矛盾点はないか、反論できる手がかりはないか。

 けれど、それが虚しいことだと気付くまで、さほど時間はかからなかった。

「君は本当に、あの三人を不幸にしたいのか」

 参事官の駄目押し。
 特に感情の籠もっていない、冷静な言葉だった。

 それで久瀬は、素直になれた。

「……思いません。参事官」

 参事官は満足げに頷き、ぽんと久瀬の肩を叩く。

「なら、もう話は終わりだな」

 山形は再び、特務分室の外へと歩き出す。
 その背中に。

「あと一つだけ、訊きたいことが」

 久瀬が言って、参事官が振り返る。

「私は、どうなるんでしょうか。……本来、知ってはいけないことを知ってしまいました。以前と同じようにはいられないはずです」

 これに、参事官は頭を掻きつつ、

「そうだな。一つには、世捨て人にでもなってもらうかな。飛騨の山奥、あるいは小笠原あたりの離島もいいぞ。地方役場の職はどこにでもある」
「……もう一つは」
「私や他の同僚のように、死ぬまで内調と縁を切らずに働き続けるか、だな」
「…………」
「教育次第だが、君はもともと仕事は出来る。昨夜の一件にしても多少問題はあったが大したものだ。特定業務のコツはすぐ呑み込めるだろう。実のところ、私は折を見て君をこの仕事に引き込める機会を探していたんだ。……こういうと君は嫌な顔をするかもしれんが、君とあの三人を会わせることにしたのは、そういう下心もあったんだな」

 山形は、申し訳なさそうに頭を掻く。

「私宛の書類を見てしまった段階で、君はどのみち当分の間監視下に置く必要があったんだ。すでにこの世界に片足を突っ込んでいた訳だな。だったら、彼女たちとの相性というか、そういう部分だけでも確認してみて今後の検討材料にしようか、とね。まさか、たった一夜で片足どころか頭のてっぺんまで、どっぷり浸るとは思っていなかったが」
「…………」
「まあ、これは上との相談も必要なことだ。君だって今後の人生に関わる話だし、即答は難しいだろう。しばらくゆっくり考えるといい」
「……いえ、考えるまでもないです」

 久瀬は、山形の顔を真っ直ぐに見つめる。

 恐らくは今後も、軍事大国の情報機関を中心とした超能力研究の復活を目論む行動は続くだろう。みつきたちを取り戻そうとする動きもまた再燃するかもしれない。また松永泰紀のように、何らかきっかけで超能力に目覚め、そのせいで平穏な人生を失ってしまう人々が出てくるかもしれない。

 つまり、特定業務総括班の仕事というのは、それらを未然に食い止めるということだ。
 これは、世のため人のためになる、大きな仕事に違いない。

「特定業務の総括に関わらせて下さい。こなしてみせます。二度と、失敗はしません」

 はっきり言った久瀬に、山形は顔をほころばせる。

「そうか、では少し待っていてくれ。情報官と話をつけてくる。そして早速、一昨日から昨日にかけての事件の後片づけを手伝ってもらおう。関係省庁への根回し、情報操作、各国情報機関への牽制……幸いにも、特定業務の仕事内容は一通り揃っているんだ。新人教育にはもってこいだからな」
「あ……参事官、その前に」
「?」
「今日一日、いえ、今日の日中だけでも構いません。なんとか時間を頂けませんか」



 久瀬は、あの三人が普段どういう生活をしているのか、自分の目で確かめておきたかったのだ。
 特定業務総括班についての概要を知った今、その仕事の多くが極過型能力者の彼女らに絡むことになるだろうとは察しはつく。なのに、普段の彼女らを知らないままでは片手落ちだと思えたから。

 だが、三人すべての日常を確認することは不可能だ。
 綾の監視や尾行などは無理に決まっているし、全寮制の女子高に通っているという瑤子も同様だろう。
 唯一、日向みつきなら何とかなると思えた。そしてまた、久瀬が一番確認したかったのも、みつきの日常であり人間性だった。

 核兵器も同然の、危険な存在――。

 自分の経験を通してそう認識した相手なのだ。山形は自由にさせておくのが最良と言ったし、久瀬も頭では理解できたのだが、正直、腑に落ちていない部分が残っている。
 それを埋めるものが、欲しかった。

「予備校の一限は午前九時半から……ということは、もうそろそろ出てくる頃だが……」

 みつきの家の近くにレンタカーを停めて、待つ。

 早朝からの雨は、今も降り続けている。
 雨足は弱いが、ワイパーを間欠で作動させ続けなければ日向家の玄関先を確認することは難しかった。

 やがてそこに、みつきの養父と養母が姿を現した。
 出勤時間だから、その見送りだろう。

 久瀬の目的はみつきであって、養父母ではない。

 しかし。

 意を決し、久瀬は車を降りた。
 折りたたみ傘を広げ、日向夫妻へ向かっていく。

 山形参事官の知り合いで、情報調査室が世話をしたという養父母。様々な事情や山形参事官の方針を鑑みたとしても、みつきを野放しにはできないだろうし、日常的な監視はあった方がいい。そういう外部スタッフと位置づけていいはずだが、日向夫妻がみつきと同等以上の超能力者であるはずはない。寝食を共にすることの不安はないのか。恐怖を感じたことはないのか。どうしても問うてみたかった。

 そうして、至極真剣な顔で近寄ってくる久瀬に、日向夫妻も気が付いた。

「どちらさまかな。セールスには見えないが」

 いかにも頑固そうな、昔気質の養父が発した一言だった。
 久瀬は一応、彼に身分証を提示する。

「申し遅れました、内閣情報調査室、特定業務総括班の久瀬隆平と申します」
「あら、山形さんの部下の方?」

 養母の気安い、明るい声。

「あ……はい、そういうことに、なる……予定です」
「はっきりせんな。最近の若い奴はいつもこれだ」

 久瀬は内心、この養父はどうも好きになれないなと舌打ちをしつつ。

「失礼しました。自分の立場がまだ確定していないもので。ただ、山形の部下であることには変わりありません。それで、一言ご挨拶にと」
「こんな早朝に、電話の一本もよこさずか。見ての通り、私は今から仕事なんだが。話の一つもできんではないか。全く常識のない」

 久瀬が言葉に詰まっていると、

「またもうお父さんは、そういう物言いだから出世しないんですよ。少しお黙りなさい」

 物腰の柔らかい女性だと思ったら、この養母は自分の夫をバッサリ切り捨てた。

「ねえ、内調がずいぶんお忙しいってことは、山形さんからもよく窺ってますよ。きっと、今くらいしか時間がないんでしょう?」
「あ、はい。実は、その通りでして」
「まだ若いのに大変ね、無理はしないでね」
「お気遣い、恐縮です」
「みつきちゃん、呼びましょうか。まだ寝てるんです、昨晩も帰りが遅かったみたいで」
「いえ、今回はご挨拶に窺っただけですから」
「でも、せっかくいらしたのに」
「少なくとも今は、お二人と少しお話がしたかっただけなんです」
「私たちと?」
「職務上、ひな……みつきさんと、少なからず関わることになりますから。それで」

 養母が感心して、微笑む。
 が、養父はムスッと黙ったままだ。
 それを見た久瀬は、この養父は嫌いになってもいいなと決めた。

「……いけない、お父さん。時間が」

 養母に手渡された黒い傘を広げ、養父が歩き出す。
 久瀬は一応、すれ違いざまに会釈をして。

「たしか、久瀬君と言ったか?」

 急に足を止めて、養父が振り返った。

「山形君とはそう深いつきあいはないが、人となりは知っている。いい上司を持ったと思って仕事に励みなさい。あと、うちの娘が何かと迷惑をかけると思うが、よろしく頼む。あれでも話せばわかる子だ」
「……はい」

 去っていく養父の背中を見て、好きになるよう努力しようと思い直した。

「さ、久瀬さん……だったわよね。立ち話も何ですから、どうぞ中へ」
「いえ、結構です。ただ、一つお伺いしても?」
「はいはい?」
「みつきさんの素性は、当然ご存じですよね。不躾ですが、彼女が怖いと思ったことはありませんか」
「あらもう。何を訊かれるのかと思ったら。挨拶じゃなくてそっちが目的だったのね?」

 養母は楽しそうに笑いながら、答える。

「怖い訳、ありませんよ。優しい子ですもの」

 ――と、その時。
 開けっ放しの玄関から、どたどたどたと誰かが階段を駆け下りる音が聞こえてきた。

「おおおおおお、おかーさんおかーさんおかーさん! ちち、遅刻、遅刻!」

 サイコキネシスをフルに活用しつつ、階段を駆け下りながらパジャマを脱ぎ捨て、ニットのワンピースと黒のショートスパッツ姿へ着替えていく。参考書の入った大きなバッグも携えていて、眼鏡もしっかりかけていた。ただ、昨夜壊れたものとは色も形も異なる。服の色と合わせた赤いフレームだ。

「あらみつきちゃん、おはよう」
「おはようじゃないでしょ、何で起こしてくんなかったのよ! 昨日も予備校ズル休みしたのに! 学費が無駄になっちゃうよ!」
「朝からお金の話はしないの。金運逃げるわよ?」
「とと、とととっ、とにかく行ってきます!」
「朝ご飯は? お味噌汁くらい飲んでいかない?」
「ごめん、抜かす!」

 チェックの傘を広げて、みつきが玄関から走り出していく。

「いってらっしゃ~い」

 と、走り去るみつきを見送った後で。

「……何も隠れなくても」

 養母は、傘を畳んで狭い庭の植え込みに屈み込んでいた久瀬に声をかけた。

「いえ、その、いろいろと事情がありまして……」
「よくわからないけれど……ま、いいでしょう。もし余裕があったら、今度は夕刻にでもおいでなさい。お夕飯、ごちそうしますから。山形さんにもそう伝えておいて下さいな」
「恐縮です」

 そして久瀬は、日向家を後にする。

 正直、久瀬が欲した〝腑に落ちない何かを埋めるもの〟は、すでに得ていたのだが。

 しばし考えた末、久瀬は車に戻ってJR八王子へ向かった。
 簡単な賭けだ。先回りしてみつきを待ち、そこで予備校へ向かう彼女を見つけられれば、予定通りにしばらく尾行をして、彼女がどんな生活を送っているのかを見届ける。見つけられなければそれでいい。霞ヶ関に戻って仕事をするだけだ。

 そして、八王子駅側のコインパーキングに車を入れる。
 駅の構内に入り、上り線のプラットホーム片隅にて待つこと暫し。
 定刻通りに滑り込んできた十五両編成の電車と時を同じくして、階段を駆け上がってきたみつきの姿が目に入ってきた。講義の時間が迫っているのか、腕時計をしきりに確認している。そして、ホームに入ってきたばかりの電車へ飛び乗る。
 よほど慌てていたのだろう。ほんの少し周囲に気を配るだけでかなり近くにいた久瀬の姿は目に入ったはずなのだが、まるで気付いた様子がなかった。

「駆け込み乗車は良くないぞ、日向……」

 半ば呆れつつ、久瀬は尾行を始める。
 みつきの乗った一両隣の電車に乗り、八王子から立川へ。

「何だ、まだ走るのか?」

 一番に電車を降りたみつきは、立川駅の構内を駆け抜けていく。本当に一生懸命走り続けている。走って立ち止まり、息を整えてまた走る。

「体力ないのか、あいつ……。本気で空を飛んだらヘリより早いくせに……」

 荷物を何ももっていないということもあるし、男の足と女の足の差もあるが、久瀬が少しばかり早歩きをしただけで充分みつきに追いつけた。

 そして、みつきは予備校のビルに入っていった。

「向かいのビルから見えるかな」

 ビルの管理人に身分を明かした上で頼んでみると、すぐに屋上へ上がらせてくれた。のみならず、黙って小さな双眼鏡まで貸してくれた。
 このビルの管理人にも、情報調査室の息がかかっているのだろう。

「雨風を凌げる庇もあるな……」

 政府としても、みつきを野放図にしている訳ではないのだろう。そう知れただけでも安堵できる。

 そして、物陰に腰を下ろす。

 ただただ、時間が過ぎていく。

「やっぱり、やめとけば良かったか……」

 女学生に張り付く質の悪いストーカーと、何も変わらないような気がしてきたのだ。
 みつきは他の生徒と一緒に講義を受けているだけだし――居眠りしては机に頭をぶつけて講師に注意されているようだったが――そんな女学生を何時間も監視し続ける意味を見いだせなくなってきた。

 ちなみに久瀬も、昨夜は全く寝ていない。
 みつきと同じく眠りこけた。熟睡である。

「たしか予備校の講義って、日によっては六時くらいまで続くんだよな……」

 目を覚まして腕時計を確かめる。午後四時を回っている。
 もう帰ろうか、と思い始めたところで。

「……? いや、待て。終わったのか?」

 一部の学生が、予備校から出て来始めた。スケジュールによっては早く終わる者もいるらしい。その中にみつきもいた。

 久瀬は再びみつきの後を追う。

 みつきは真っ直ぐ家に帰らなかった。一人で駅近くにある百貨店に向かい、婦人服や雑貨を扱うフロアに入る。ディスプレイを眺め、時には店員に声をかけ、試着なども試してみる。

「長い……」

 遠巻きに見ていた久瀬が呟く。もう一時間は優に経っていた。

「えっ? あ……彼女の誕生日プレゼントで……ええ、よくわからないんです」

 と、店員に嘘を吐くのも辛くなってきた。成り行き上仕方なく、高価な女物のペンダントを一つ買わされてしまう。もう血の涙が出そうだ。
 しかも、当のみつきは結局何も買わずにフロアを後にして、意味もなくファンシーショップを覗き、ブランド品を扱うブースにも顔を出す。そんな高級品を買える小遣いを浪人生が持っているはずがないし、どう見ても冷やかしだ。

 イライラするばかりの久瀬をよそに、ようやくみつきが百貨店を出た時には、すっかり雨も上がっていた。
 途切れ始めた雲の切れ間から橙色の光が差してきて、景色が夕暮れに染まっていく。

 そして、八王子に向かう電車に乗る。

「やっと家に帰るのか……」

 そう思ったが、甘かった。
 みつきは途中で下車し、本屋に寄る。参考書を買ったらしいが、続けてファッション誌の立ち読みを初めてしまう。百貨店でどんなものがあるのかを確認した上で、今の流行にチェックを入れているらしい。

「年頃の女の子なんて、こんなものか……」

 もはやイラつくだけ虚しい。久瀬は悟りの境地である。
 本屋を出たみつきは、そのまま徒歩で帰ることにしたらしい。河原の土手に出て、ようやく自宅の方向へ歩き始めた。

 たっぷり距離を取って、その後ろに久瀬が続く。

 河川敷に目をやると、犬を散歩させたり、キャッチボールをしたりと、日の沈むまでのわずかな間を楽しんでいる人々が目に入る。

 ふいに、悲鳴のようなものが聞こえてきた。

 幼い子供が増水した川に落ちたらしい。母親らしい中年の女性が金切り声を上げながら、濁流に流される我が子を必死で追いかけている。

「っ、まずいな」

 駆けつけようと身構える。が、前方を歩いていたみつきもこれに気付いたようだ。流されている子供から見ると、久瀬よりみつきの方がずっと近い。バッグを放り投げ、川の方へ走り始める。

 それを見て、久瀬は走り出すのを止めた。

「あいつなら、どうとでもするだろう」

 サイコキネシスで子供を引き寄せるだけでいいのだ。みつきにとっては易しいことだろう。

 ところが、みつきは身一つで川面へ飛び降りた。

「……は?」

 呆気にとられる久瀬の目の前で、みつきは水を掻き分け川の中を歩き、子供の方へ近付いていく。だんだん水深が増していく。ほとんど肩まで川に浸かったころ、ようやく流されていた子供に手が届いた。
 だが、子供を捕まえたその瞬間にバランスを崩したのか、みつきも一緒に流され始めた。小さな頭が何度となく水面に沈む。

「何をやってるんだ、あいつはっ!!」

 久瀬は慌てて走り出した。背広を脱ぎ捨て、川に飛び降りる。

「……なんだ、浅いじゃないか」

 溺れているみつきと子供の側まで行ってみても、ようやく胸元に水面が届く程度。下流の側から近付いて、余裕を持ってみつきと子供を受け止める。

「しっかりしろ、こら」

 久瀬の腕の中、ずぶ濡れのみつきが咳き込みながら懸命に息を継ぐ。

「なな、なんであんたがこんなとこに?!」
「話は後だ。ちゃんと捕まってろよ」

 そして、子供ともども岸まで連れて行く。
 そこに半狂乱の母親が駆け寄ってきた。

「結構、水飲んでるみたいです。一応、病院に連れて行った方が」

 そう行った久瀬に、母親が「は、はい!」と返事をして子供を抱え上げて――。

「しっかり、しっかりして、まーくん……」

 そのまま、一目散に走り去った。
 後には、全身ずぶ濡れのみつきと、半身を濡らした久瀬の二人がぽつんと取り残された。

「おいおい、お礼の一言もなしか」

 思わず呟いた久瀬に、みつきは「バカじゃないの」と吐き捨てて。

「子供が目の前でおぼれて死にかかったのよ、慌てちゃってお礼の一つ二つ忘れても仕方ないっつの。だいたいこっちが好きで飛び込んだのに。それともあんた、ありがとうございます命の恩人様、って言って欲しかったの?」

 ムッとして、久瀬はみつきを睨み返す。
 みつきは真正面から、その久瀬の視線を受け止め睨み返した。が。

「……ごめん、ちょっと嫌みが過ぎた。ホントは私も結構ムカついてたんだけどね」

 目を逸らして、苦笑い。

「あ、あんたさ、ちょっと訊いていい?」
「何だよ」
「ひょっとして、今朝からずっと私のこと尾行してなかった? 変な視線がずっとつきまとってんなあ、って思ってたんだけど」
「…………」
「ふーん、図星。あんたそういう人なの。ぶっちゃけキモッ。最低。寄るな、しっしっ」
「ところで日向、さっき何でサイコキネシスを使わなかったんだ」
「あーやだ。あーサブイボ立つわー。あーあーあーあー、やだやだやだやだやだやだ」
「話をはぐらかすな。質問に答えてないぞ」

 みつきのペースに付き合わず、答えを促す。
 と、目を逸らし、俯いて。

「……昨晩、化物だって言われたばっかだし」
「聞こえるように言えよ。何だって?」
「ああもう。サイコキネシスって目立つんだから、真っ昼間から使えないでしょうが」
「川の水の流れをひっくり返せと言ってるんじゃない。子供をそっと岸の方に誘導するとか、足下を少し支えるだけで充分だろうが」

 みつきが目を瞬かせる。

「まさか、とは思うが、思いつかなかったのか?」
「う、うるさいなっ、うっかりしてただけよっ」

 なんとも間の抜けた話だ。

「そんなので、よく世界中の情報機関を向こうに回してられるな……」
「そりゃ、私一人だったらアレだろうけど、綾も瑤子もいるし、山形さんだって」
「人任せかよ、おい」

 さすがに呆れた。
 呆れたのだが。

(まあ、その方がいいのか……)

 有り余る力を持った狡猾な超能力者というのも、正直、ぞっとしないと思う。

「あ、そういやお礼言ったっけ?」
「なんだよ、またあの失礼な母親の話か?」
「そうじゃなくて。ありがとう、助けてくれて」

 みつきが、まっすぐ久瀬の顔を見て言う。
 言葉の意味が理解できなかった。

「だから、あん……久瀬さんが来てくんなかったら、本気で溺れてたかもだし」
「あ、ああ、そういうことか。礼を言われるなんて思ってなかった」

 みつきは、クスッと笑う。

「頭でっかちのいけすかない奴だと思ってたけど、案外お人好しなんだね」
「誰が頭でっかちだ。いけすかなくて悪かったな。あと、君にお人好しとか言われる筋合いもない」

 久瀬は背を向け、河原に脱ぎ捨てた背広を拾うと、そのまま歩き出そうとする。

「あ、ちょ……どこ行くの」
「帰るんだよ」
「とりあえず向かう方向、どっち? 私と一緒?」
「……何が言いたい」
「あ、いや……別に」

 久瀬は再び背を向け、歩き出す。
 と、背後で、

「ぎゃふん」

 と、声がした。久瀬が振り向くと、みつきが河原の地面に這いつくばっていた。

「な、なんでもない、ちょっと躓いたの」

 久瀬は、じっとみつきの顔を見つめる。

「何よ、さっさと帰んなさいよ」
「俺のことは気にするな。いいから早く立て、ほら」

 促しても、みつきは立ち上がらない。
 いや、立ち上がれない。

「松永さんを助けた夜、足挫いてて……。軽かったからすっかり忘れてたんだけど、朝にどたどた走ったせいで、ちょっと腫れてきてて」

 とんび座りのまま、足首をさする。

「そんな状態で、あっちにフラフラこっちにフラフラ道草食ってたのか……」
「さっき水の中で変な捻り方しなきゃ全然大丈夫だったの!」
「だったら尚のこと、強がってないで早く言え。他に怪我は?」

 久瀬は屈み込んで、みつきの身体を確認する。
 その際に気付いた。濡れて絡まり、捌けた髪。頭皮が見えた。そこに傷跡がある。

「日向、頭に傷があるぞ。ここのところ」
「へっ? 川ん中で頭ぶつけた覚えは……」

 久瀬に言われたとおり、みつきが傷跡を指で探る。

「何だ……これ、古傷だよ。反対側にもあるし、盆の窪って言うんだっけ、そこも」
「ああ、確かにあるが」

 事故でついたような傷ではない。傷跡は正円を描いており、その位置もまったく左右対称。あきらかに人為的なものだった。

「脳味噌の中をいじくられた跡なの。アクティブ・キャリバーの強化手術らしいんだけど」
「…………」
「そんな、同情するような目で見ないでよ。もう済んだことだし、気にしてないし」
「とにかく、怪我は片足だけなんだな? ほら、肩貸してやる」
「いいよ、別に。暗くなったら空飛んで帰る」
「風邪ひくぞ、ずぶ濡れなのに。ああ、俺の助けなんか願い下げって言うなら」
「ちょ、ちょっと、何もそこまで言わないよ」
「だったら、ほら」
「じゃあ、甘えちゃおっかな……ごめん、ありがと」

 みつきが、久瀬の肩に手を伸ばす。

「ねえ、久瀬さん。身長いくつ?」
「百八十五センチ。君は?」
「……百五十八」

 肩など貸せるものではない。


 結局、みつきは久瀬に背負われた。
 通り過ぎる人々の視線が痛い。

「誤解されたらヤだなぁ……」
「こっちだっていい迷惑だ……」
「……あのさ、重くない? 私」
「重くはない。軽くもないが」
「何よそれ、地味に傷つくんだけど……。何ならサイコキネシス使おうか?」
「いい。辛くなったら言うよ」
「そう。……あの、どうでもいいけどさ、久瀬さんって」
「ん?」
「あ……ううん、別に、何でもない」

 何となく、会話が途切れた。
 いつの間にか、みつきの家の近所に着く。

「ここでいいよ、後は歩いて行く。足を引きずってても歩けるし」
「そうか」

 久瀬は、みつきを下ろす。

「タオル、貸そうか? 家から持ってくるけど」
「いいよ。歩いてる間に、少しは乾いた」
「なるべく早く着替えてよね。風邪ひいちゃうし」
「わかってる。……それと、一応言っておくよ」
「? 何さ」
「俺は今後、特定業務に……超能力関係の案件に関わっていくことにした。本当の意味で山形参事官の部下になったんだ。君らとのつきあいも続くことになる」
「…………」
「そんなに嫌そうな顔するか、君も」
「顔に出るのよ、本心が」
「まあ、本音で当たってくれる方がある意味楽だよ。だから、俺も正直に言っておく」

 久瀬の目は、真剣だった。

「昨夜、俺が言ったことだ。撤回する。悪かった。山形参事官からいろいろ聞いたんだよ。君らの事情を知らずにひどいことを言い過ぎた。許してくれ」
「別にいいよ、そんなの」
「良くない。いずれ昭月や大地にも直接会ってきちんと謝罪するが、良かったら君からも伝えておいてくれ。本当にすまなかった。この通りだ」

 久瀬が、頭を下げる。
 だが、みつきは黙ったままだった。

 久瀬は、恐る恐る顔を上げる。

「……駄目、か。今更、虫が良すぎるか」
「あ、えと、ううん、そうじゃない。久瀬さんって、そういう人なんだと思って」

 微笑んで。

「ちゃんと、言っとくね。……絶対」
「そうか。ありがとう、日向。よろしく頼む」
「……うん」
「でもな、やっぱり、俺の結論は同じなんだ」
「? どういう意味よ」
「君の、いや、君らの力は、もっとまともなことに使えると思う。そうすべきだ」

 みつきの顔が、途端に険しくなる。

「あのねえ……。そんなの私らが決めることでしょ。あんたそういう押し付けほんっとに好きね」
「怒るな、怒らないで聞いてくれ」
「聞きたくない、早く帰れ、二度と来るな」
「そもそも内閣官房ってのは政府の中枢だ。大きな事件が起これば必ず対策室が立つし、情報はリアルタイムでどんどん入ってくる」
「だから何よ、私に関係ないよ、そんなの」
「大災害の情報だって、どこよりも早くキャッチできる。事故や災害がどれくらいで片付くのか、被害はどれくらいになるか、人的損失はどのくらいか、そういう専門家の見通しもすぐに手に入れられる。だいたい君は他人が困ってるのをほっとけるような性格してないだろ。自分からニュースを見ようとしないのも、そういうことなんじゃないのか」
「見たって面白くないだけよ、知ったようなこと言うな」
「だから、君らの力がどうしても必要だと思った時は、頭を下げて頼みに来る。打つ手が尽きて、このままじゃ犠牲者が増えるばかりで、誰も、何もできない……君たち以外には。本当にそんな時だけだ。そういう体制を作るよう、山形参事官にも提案してみようと思ってる。これは君自身も望むところなんじゃないのか?」
「…………」
「こちらも最大限配慮する。君らの今の生活を壊さないと約束する。無理もさせない。俺の方でも出来る限りバックアップする。その上で、君らの気が向いて、都合がついたらで構わない。個人的に善意で手伝ってくれれば、それでいいんだ。駄目か?」
「ふーん。あなたも私たちを国の都合で利用したいと思う人なんだ。最低」
「そうじゃない。そういうことじゃない」
「そういう意味にしか聞こえないんだけど」

 二人が、睨み合う。

「もういい、訊いた俺が馬鹿だった」

 久瀬は背を向け、つかつかと歩き始めた。
 すると。

「……あだっ。な……??」

 何かに顔をぶつけた気がした。
 が、目の前には何もない。

「絶対、あなたの都合じゃ動きませんからね」

 みつきが、立ち止まった久瀬の背中に声を投げる。

「絶対、どうしても、何がなんでもって時だけだからね。話を聞くだけだからね」

 久瀬は思わず振り返った。

「日向、ありが……」
「あと、もひとつ」
「……?」
「二度とストーカーすんな。気持ち悪いから」



 久瀬は夜道を急ぎ、内閣官房へと戻る。手に持った大きなバッグに、着替えと洗面用具、ブロックタイプのバランス栄養食などをぎっしり詰めて。
 どれも必須の仕事道具と言える品々だが、自宅から持ち出すのは久しぶりのことだった。

「おお、お帰り、久瀬君」

 特務分室に入ると、山形参事官がいた。久瀬がいない間も仕事を続けていたらしい。
 灯された灯りはデスクライトだけという薄暗い中、資料棚は大きく開き、あちこちにファイルや書類が積み上げられている。古いパソコンにも電源が入っていた。
 何気なく、久瀬はディスプレイを覗き込む。

「……? これ……」
「北大西洋条約機構――NATOのネットワークだ。もともと西側世界の超能力研究をリードしていたところだからな。少し探りを入れてみた」

 山形参事官が、ディスプレイを覗き込んでいる久瀬のところに近付いてくる。

「ここから同盟国や友好国の間で共有されているデータにアクセスできる。国内に関しては、中央官庁のネットワーク内なら閲覧できない領域はないよ」
「こんな、オンボロが……」
「古いのは外見だけだ。起動時にちょっとしたコマンドを入れればTRONベースの特殊なOSが立ち上がるようになっている。君の場合、一通り仕事を憶えるまでは操作制限をさせてもらうがね。言うまでもないが、将来的にそれだけの重責を担うことになる、という覚悟だけはしてくれよ」
「……はい」
「それでな、さっき、独立回線でCIAが面白いことを言って来たんだ」
「伺います」
「何でも、在日米軍の兵の一部に戦闘ヘリを私物化した大馬鹿者がいたとかでな、幸いにも操縦系統の故障やガス欠で東京湾に墜落したようだから、もし日本がパイロットや機体を確保しているなら引き渡してくれ、国際問題にならないよう内々で処理したい、ということらしい」

 開いた口が塞がらないとは、このことだ。

「英SISや仏DGSEも似たり寄ったり。辻褄の合わない屁理屈を並べ立てて、逃げ遅れた狙撃手や病院送りの工作員を返して欲しいと暗に要請してきたよ。独BNDは私個人に直電だ。三十年前の些細な事件で貸しがあるから今返してくれとね。ただ、ロシアのSVRだけは知らぬ存ぜぬを通すつもりらしいが」
「どこの連中も、面の皮が厚いというか、何と言うか……」
「とは言え、強いて突っぱねる理由もないんだ。末端の連中をちょっとやそっと尋問したところで、こちらの益になる情報が出てくるとは思えん」
「事を荒立てるのは得策ではない、と」
「宮仕えの連中なんて、世界中どこに行っても同じだよ。実利が取れない時は、せめて顔くらい立ててやらんとな。丸く収めた方が無難だ」
「わかる話ですが、どうも釈然としません」

 久瀬は、腕を組んで考える。

「素人考えですが、この件、利用できませんか」
「ん?」
「彼らが日本国内で非常識な手段を用いたことは間違いありません。向こうの言い分を表面的には呑むとしても、昨夜のことは絶対に忘れないぞ、という意志くらいはちらつかせておくべきです。今後、同じような事件を安易に起こさせないためにも」
「……ふむ」
「それと、参事官。あの三人の抹殺を視野に入れた捕獲計画、事前にご存じでしたか」
「いや、残念ながら知らなかったよ」
「なら、知っていたことにしましょう。筋書きはこうです。日本政府の意図を理解せずに利己的な判断をし、妙なちょっかいを出そうとしている連中の噂を聞きつけた。それが誰なのか炙り出すため意図的に情報を漏らしたら案の定事件が発生。首謀者の特定は困難を極めているので、心当たりがあれば聞かせてくれないかと。ついでに、我々と彼女らの関係が強固であることもアピールしたいですね。今後もし類似の動きを嗅ぎつけたら、その情報は彼女らとも共有する。その上で、騒動が起きる前にどんどん先手を打って潰していくぞ……と、そんな感じで脅してやりたいところですが」
「なるほど、いい案だ。しかし、君はつくづくこの仕事に向いているな」
「?」
「褒めたんだよ。これで特定業務界隈での内調の株はまた上がる。良いことづくしだ」

 山形が、自分の席に戻る。

「ああ、そうだ。情報官や広報室とも話はつけた。君をこの特務分室に置き続けることも了承してくれたよ。ただ、一つ条件がついた」
「何でしょうか?」
「促成栽培でも何でもいい、君に留守居が出来る程度のことを教え込んで独り立ちさせて、私には中東へ戻れということらしい。向こうも大変なんだな」
「了解しました」
「いいのかね? 軽く見積もっても、ひと月かふた月は家に帰れんぞ」
「ここの仕事を一通り覚えるまで、初めからそのつもりでした。お気遣いなく」
「いい気概だ、期待しているよ」

 山形は机上の仕事に戻る。久瀬も背広を脱ぎ、シャツの袖をまくり上げた。

「ああ、そうだ……忘れるところだった」

 久瀬は、席の足元に置いた屑入れへ手を入れる。

「どうした?」
「いえ、ペンを落としただけです」

 上司から見えないように屑入れから取り上げたのは、破り捨てた退職願。
 中身は捨て、走り書きの文字が残る封筒だけを、久瀬はそっと机の中に戻しておいた。



 同時刻、日向家。
 みつきと養父母の三人、家族揃って、居間でテレビドラマを眺めていた。

「……ひえっくしゅん!」

 みつきのくしゃみである。

「あら、みつきちゃん、風邪?」

 養母が心配げに言う。

「かもしんない……寒気も少し。ちょっと早いけど、もう寝るね」

 みつきが座布団から腰を上げる。
 その時、みつきの着ていたパジャマの胸元が少しはだけた。

「あら、みつきちゃん。それは?」
「ん? 風呂上がりにつけてみたんだけど。外すの忘れてた。知り合いにもらったの。一日つけ回したお詫びだとかで」
「まあ素敵。可愛いペンダント。綾さんにお礼しなくっちゃ」
「へ……? いや、違う違う、これは、その……あー、うん、そうだね」
「次に行く時、菓子折りでも持っていきなさい」
「そうする。おやすみなさい、お母さん。お父さんも」

 みつきが、二階へ上がっていく。

「昨夜はべそかきながら帰ってきたのに、ずいぶん笑顔ね。何かあったのかしら」

 首を傾げつつ、テレビの方に視線を戻す。
 ドラマは終わり、ニュースの時間。

「あら、またUFOの話?」
「朝からずっとだ。いい加減飽きてきた」

 昨夜、東京湾上で多数の市民が確認したという未確認飛行物体。これと自衛隊のヘリが交戦したというトンデモ話だが、円盤状の発光物体がヘリの威嚇射撃を躱して姿を消すという放送局の定点カメラが撮影した映像は真に迫っていて、話題を呼んでいた。

「どうせ、みつきだろう」

 養父がつまらなそうに言う。養母も無反応。夫妻は早々にチャンネルを変えた。
 今度はケーブルテレビ局の八王子ローカル番組。視聴者のメールによる投降をパーソナリティが読み上げていた。

「あら? お父さん、これ、うちの近所ですよ。子供が川で流されるところだったって」
「みつきか? なら、さっきずぶ濡れで帰ってきたのも」
「それかもしれませんね。親御さんがお礼をしたいから、心当たりのある人は情報を寄せて……? ええと、若い男女のカップルですって」
「いつ出来たんだ。みつきにボーイフレンドなんか」
「知りませんよ、私は」
「……人違いか」
「でしょうね」

 二人揃って頷くと、二階からみつきのくしゃみが聞こえてきた。


[了]

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