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第4章

4-1:追憶

 俺が拓海と初めて出会ったのは、今からちょうど五年前。
 中学一年の一学期、ある日の昼休み。

 第一印象は最悪だった。

「源沖継とか言うヤツ、このクラスにいるんだよな。どいつ? ……ああ、お前か。何だか全然凄そうに見えないな。ケンカとかめちゃくちゃ強いらしいけど、お前、どうやって鍛えてんだ? ちょっと教えろよ」
 見たことない顔だなと思ったら、この日に九州は熊本から転校してきたばかりらしい。しかも転入したのは俺と違うクラス。そんな転校生がいきなりやってきて初対面でこの図々しさと馴れ馴れしさ、いい印象なんか抱きようがない。
 鬱陶しいからその時は適当にウソついてあしらったんだけど、拓海は次の日もまたその次の日も、昼休みになる度に俺のところにやってきた。

「お前、三年の不良連中、たった一日で全員シメたんだってな」
「陸上でも水泳でも、軒並み地域のトップ取ったんだって?」
「四時間目、体育だったろ。ずっと見てたよ。凄い運動神経してるな」

 そうやって俺のことを調べ回してるだけならまだいい。問題なのはその態度。何を言っても「まあ、俺の方が凄いけどな」って付け足したいのがミエミエで。
 挙げ句の果てには。

「俺はさ、血統書付きだから」

 そんな親自慢まで始めやがった。
 曰く、父親は日本に総合格闘技ブームを巻き起こした草分け的な存在で、海外にも数多くの弟子や教え子がいるんだと。んで、自分も直々に指導を受けて修練を積んでる、大人でも俺に勝てるヤツはそうそういない、ウソだと思うなら試してみろよ、お前なんかうちの道場に来たら親父の弟子にも軽くヒネられるだろうな、ってな。
 あんまりにもムカついたんで、家に帰ってから父さんにパソコン借りてネットで検索してみたんだけど、瀬尾って名前の格闘家は見つからなかった。どうせマイナーでパッとしないまま現役を終えたショボい選手なんだろ、自分が果たせなかった夢をガキに押しつけて悦に入ってるダメ親父で、だから息子もこんなバカに育ったんだな――ってのは察しがついたんだけど、ま、それは俺の胸に秘めておくことにした。

 他人の親を悪し様に言うなんて、人として最低だ。
 でも、拓海のバカは、その一線を軽々しく越えてきやがった。

「なあ源、お前の親父さんって何やってんだ? どうせ普通のサラリーマンだろ?」

 つまんねえ親だな、そんな親元に育ったお前なんかたかが知れてる、今は凄くてもここで頭打ちだ、先がない、それに比べて俺は凄いぜ、と、こう来たもんだ。

「そういや、俺とお前、誕生日も一緒らしいな。五月二十一日。同じ年の同じ日に生まれたのに、生まれた親が違うとこうも差ができるんだな。可哀想に」

 さすがにブチ切れましたよ。
 放課後、体育館の裏に呼び出して、正々堂々ボッコボコにしてやりました。
 やれやれ清々した、もう付きまとわれなくて済むだろ、と思ったら一週間後。

「再戦を申し込みに来た。このままじゃ終われない」

 もうね、こいつはバカかと。
 俺との力量差は明白、拓海の蹴りも正拳も一発たりと俺にかすりもしなかったのに、顔面の腫れも引かないうちにリベンジなんて。返り討ちにされるのがオチだって程度の推測もできないのかと。

 案の定、その日も俺の圧勝。
 んでその次も、またその次も。

 途中から可哀想を通り越して憐れになってきて、適当に手を抜いてたんだけどさ。そうするとダメージが回復するまでの間隔が短くなって、すぐ再戦になっちまう。
 いっそ骨でも折るべきか、二度とケンカのできない身体にすりゃいいのか。そんな物騒なことを割と本気で考えてたんだけど。

 校内清掃の時間中、拓海のクラスメイト数名とたまたま一緒になって。

「なあ、源……。お願いがあるんだけどさ……」

 拓海にもっと優しくしてやってくれ、と嘆願されたんだ。

 話を聞いてると、どうも拓海はクラスメイトの間じゃ「心優しい力持ち」みたいな認識になってるらしくて。すっかり打ち解けてんの。みんな本気で心配してんの。
 いやいやそんな訳ねえだろ、あいつ俺にこんな最低なこと言いやがったんだぜ、何度ボコっても謝ろうともしねえし――とつい言ってしまった。本人がいないところでそいつを貶すなんて俺のポリシーに反するんだけど、正直言うと、転校してきて間もないのにこんなにも友達が出来てるあいつがちょっと妬ましかったんだ。その頃の俺はまだ独りぼっちも同然だったし。

 でも、それを言ったら、拓海の隣の席だってヤツが急に頭を下げてきて。

「……それ、多分、俺のせいだ」

 どうしても源沖継と手合わせしてみたい、どのくらい凄いのが知りたい、でもまともに相手もしてくれない、何かいい方法はないかって、拓海はかなり真剣に悩んでたらしい。だからそいつは軽い気持ちで「いっそ怒らせてみたら?」とアドバイスしたそうだ。自分がされたら嫌なことをやりつづけたら、源もキレて殴りかかってくるだろ、って。

 でも、そのことを拓海に問い質してみたら。

「そんなのは知らない」

 知り合って一ヶ月そこそこのクラスメイトを庇いやがった。俺が自分で考えて俺の責任でやってることだ、誰のせいでもない。親の悪口言われて憎いなら真っ直ぐ俺にぶつけてこい、最近手加減してるのはわかってるんだぞ、と。なかなか男気ありやがる。
 しょうがないんで、久々に本気でブチのめしたんだけど。

「何でだよ……。何で一発もかすりもしないんだよ……!!」

 地面に這いつくばって男泣きですよ。

 その時、ようやく察しがついた。
 こいつは真剣なだけなんだって。

 最初にウザいと思ったのは、初対面の俺に一生懸命自己紹介しようとしたのが滑ってただけで。俺に対するイヤミとか親への悪口も、自分がされたら一番嫌なことの裏返しだって言うなら、拓海が親父さんをそれだけ尊敬してるってことだ。その親に英才教育を受けて毎日鍛えてるってのが、そのままコイツの誇りなんだろう。

 それを、才能頼みで大した努力もしてない俺なんぞが、鼻先であしらい続けてる。

 そりゃ悔しいだろ。引くに引けねえよ。自分がこんだけコテンパンに負けるってことは、自分に期待を寄せてる親父さんまで敗北してるのと同じ。力量差なんか関係ない、せめて一矢報わなきゃって意地にもなるだろうさ。

 だから、俺は言ってやった。

「お前さ、一旦間合いを詰めた後、退くと見せかけて回し蹴り、ってのが得意技だろ」

 涙で汚れた拓海の顔に、何で知ってるんだ? と書いてあった。

「他の技と比べてそれだけキレが段違いだしな。嫌でも気付くっつーの。相当練習もしてるし自信もあるんだろ? でもそれって逆に言えば、退き際の回し蹴りを出すチャンスをわざとこっちが作ってやれば、お前は必ずその通りに動くってことじゃん。言ってる意味わかるか?」

 その時の拓海と言ったらもう。一言一句聞き逃すまい、みたいな顔で。

「必ず来るとわかってる技なら、防ぐなり躱すなりいくらでもできる。隙だって突き放題。お前が得意技を出す度、俺に主導権を渡してんのと同じだ。これで勝てるはずあるかよ。……お前、確かに凄いよ。同い年でお前に勝てるヤツなんかそういないと思う。そんだけ練習もしてたんだよな。つまり、それしかしてなかった」

 こんなこと言って、もしコイツが強くなったら、後々面倒なことになる。
 それはわかってたんだけど、弁が止まらなかった。

「昔の武士が碁やら将棋やらを好んでやってた理由、考えたことあるか? 人間相手の戦いってな、究極のところは騙し合いだぞ。一定のレベルを越えたら力押しだけじゃ勝てねえよ。組み立てを考えろ、先の先まで展開を読め、身体鍛える以上に頭も鍛えろ」

 んで、次の日の昼休み。
 拓海のヤツ、将棋盤と駒を抱えて俺んとこにやってきてさ。

「徹夜で将棋のルール憶えてきた。勝負しろ」

 もちろんコテンパンにしてやりましたけどね。次の日も次の日もその次の日も。

 いつだったかな、わかんないように手を抜いて時々苦戦を装ったことがあったんだ。さすがに毎日毎日、一方的に負けっ放しだと、拓海も面白くないだろうと思ってさ。
 でもそうすると、烈火のごとく怒りやがんの。

「おい沖継、今日は手を抜いてたな。ふざけるな勝負を穢すんじゃない。俺はお前に勝つため全力でやってるんだ。お前も絶対手を抜くな」

 驚いたよ。ほんと初めての経験だった。沖継は特別だ、俺たちとは違う、あいつはいつも勝つから面白くない。ガキの頃はそうやって離れていくヤツばっかだったから。
 でも、拓海だけは最後の最後まで諦めなかった。負けてるのは今だけだ、最後に勝つのは俺だって、その一線だけは絶対に譲らなかったんだ。なんという負けず嫌い。
 もちろん気概だけじゃない。筋も悪くなかった。一度は通じた定跡もすぐ通じなくなったし、もともとアタマの回転は早い方なんだろうな。ただまあ相手が悪いというか何と言うか、俺相手じゃなかなか競り合いにならなくて、いずれ将棋にも飽きてきて。気分転換に今日は碁にしようぜ、碁が飽きたらポーカーだ、それにも飽きたらUNO――あ、これ二人じゃできないよな。その頃にはもうコノが混ざるようになってたんだっけ?

 んで、三人でゲームの貸し借りとか、雑誌の回し読みもするようになって。
 気がついたら、俺たちはすっかり友達になってた。

 あーいや違うな。この頃はまだ単なるなし崩しで、拓海のことを弟分みたいに思ってたっけ。しょうがねえなお前はもう面倒臭ェけど相手してやんよ、って。ほとんどコノと同じような扱いだ。対等以上の大切なダチだとは思ってなかった。

 その認識を改めたのは、やっぱあの時か。

 一年後、中二の夏。修学旅行の最中。旅館のテラスでバカ言いながら雑談しててさ。

「なあ、沖継。お前、将来の夢とか目標みたいなの、持ってるか?」

 どういう流れでそんな話になったのかは憶えてないけど、拓海はやたら真剣だった。

「うーん、あるっちゃあるけど……他人に言うほどのことでもないし」
「何だよ、教えろよ」
「ヤだよ」

 正義の味方なんて言ったら笑われるのがオチだろって、その程度の分別は俺だって持ってるよ。意外とガキっぽいなとか思われるのもシャクだしさ。

「よしわかった。じゃあ、俺の夢を先に教えてやる」

 どうせ親の跡を継いで格闘家だろ、くらいに思ってたんだけど。

「俺はいつか、正義の味方になりたいんだ」

 ほんともう、その顔がクソ真面目。

「親父の道場で訓練してるのも、いつかお前に勝てるようになろうと思ってるのも、全部そのためだ。できれば変身ベルトやパワードアーマーが欲しいとこだけど、俺が生きてる間にそんなの発明されそうにない。だから生身で、徹底的に鍛えて、限界まで強くなりたい。身体もそうだけど精神面も人格面も。あいつにだけは敵わない、人類最強、あらゆる悪が俺の名前を聞くだけで震え上がるくらいに。……笑っていいぞ? 慣れてるし」

 笑えるかよ。笑うもんかよ。
 ほんと、ダテに同じ日に生まれてねェな。根っ子のところがまるで同じだ。

 拓海のことを、本当の意味で認めた瞬間だった。
 だとすれば、俺も、今までと同じ態度じゃいられない。

「……外に出ようぜ」
「?」
「試してやるよ、お前に、正義の味方を語る資格があるかどうか」

 ちょっと言い草が偉そうなのは勘弁して欲しい。当時の俺はそういう年頃だったんだ。ホンモノの正義の味方は俺だけだ、お前なんかその手伝いがせいぜいだって、そういう自負もちょっとだけあったしね。
 そんで、旅館の駐車場で、一年ぶりに対決をした。フルコンタクトじゃなくて寸止めの組手だけど、気持ちだけはお互いガチだったよ。結果的には俺が勝ったけど、それは三本勝負で二本取ったって意味。一本は拓海に取られた。俺の油断もあったんだけど言い訳にはならない。負けは負け。

「くそっ、まだまだこんなもんかよ……!!」

 拓海は本気で口惜しがってたけど、俺は度肝を抜かれてた。去年と全然比べものにならねえくらい成長してやがる。どうやりゃたった一年でそこまで変われるんだ、うかうかしてたらホントに俺を追い抜くんじゃないのか――本気でそう思った。

 めちゃめちゃ嬉しかった。

 いやその、我ながら変だと思うんだけどさ。本当ならもっとこう、てめえなんかに一本取られた自分が情けない、悔しい、二度と負けてなるものかって、自分の性格的にもそうなりそうなのに、この時はただひたすら、もォのっすごォく嬉しくて。

 以後、俺は拓海の前で一切隠し事をしなくなった。変な格好付けも止めた。会話の途中で冗談半分に混ぜっ返すクセがついたのもこの頃だ。

「沖継くんって最近、拓海くんと一緒の時は脳味噌と口が直結してるよね……」

 呆れ半分でコノに突っ込まれたけど、別に直すつもりもなかったな。だって拓海のヤツはいつだって必要以上に生真面目なんだもん、俺が適当にふざけて茶化さないとバランス取れねェし。
 他にも、拓海から組手を請われればいつだって快諾するようになった。できる限りのアドバイスもした。それが逆に、俺の成長を促すことも――新しい夢を見るトリガーになることもしばしばで。拓海が成長してまた俺が突き放すの繰り返し。
 けど、お互いの力量差はちょっとずつ確実に埋まりつつあったし、俺たちはいつからかそんな状況を楽しみ始めていた。いやま、当時の拓海の本心がどうかはわかんないけど、少なくとも俺はめっちゃ楽しかったよ。気がついたら俺は拓海と四六時中一緒に連みっぱなし。月に何度か、親父さんの仕事が休みになってみっちりトレーニングを受ける日以外、二人して毎日毎日ずーっと一緒に――。

 ケンカに明け暮れてました。

 だってしょうがないじゃん。正義の味方が二人だぜ? うっかり両雄並び立っちゃったんだぜ? 西にカツアゲあれば行って全額弁済させ、東に不良グループの諍いあれば力尽くでも仲裁してお説教、南に万引きあれば自主的に見張りを引き受け犯人を捕まえ、北に暴走族が出れば眠い目擦って夜更かししてでも撃退だ。そのうちに地域の不良どもが団結しはじめて、ラスボスよろしく例の鼻曲がりのリーダーが出てくるんだけど、あ、当時はまだ鼻曲がってないんだっけ。
 まあその、周辺地域のアウトロー連合と全面戦争みたいになっちゃってさ。こっちは何も悪いことしてないんだから退くに退けないでしょ。しょうがないじゃん。

 それらを結果的に、全勝無敗で切り抜けられたのは、拓海がいたからだ。
 あいつが、俺の背中側をカンペキに守ってくれてたからだ。

 今にして振り返れば、この時期が――中学二年の秋から高校一年の初冬までが、十八年ちょっとの俺の人生で一番楽しい時期だったのかもしれない。ガキの頃の辛かった記憶も単なる過去になり、すっかり風化して何の痛痒も感じなくなっていた。あれは拓海っていうダチと出会うまでに必要な通過儀礼だったんだって、そう思うだけで全て許せたから。

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 こんな楽しい日々は、永遠に続くに違いない。
 俺は根拠もなく、心の底からそう信じてた。

 いつか拓海の方が俺より強くなっても、その時は俺が拓海の背中を守ってやればいい。この先俺たちが大人になってどんなに歳を取っても、世の中がまるっきり変わってしまっても、俺たちは永遠にダチで相棒でライバルで、正義の味方であり続ける。

 俺たちの出会いはきっと、神様がかくあるべしと定めて下さった、運命なんだ。


4-2:死闘

「……お、おい沖継?! ちょっ――」

 拓海が慌てて制止しようとした時にはもう、俺はゼロコンマ数秒の神業的な速さで腰の後ろに差した携帯用小型拳銃を抜き、トリガーを引き落としていた。

 銃口が火を噴く。
 放たれた銃弾が、空気を引き裂きながら猛然と突き進んでいく。

 絶対に見えるはずのないその様子が、この時の俺の目には確かに見えていた。見えている気がした。過去に何度か経験してきた例の現象が起きてるんだ。感覚が極限まで研ぎ澄まされて、一瞬が永遠に感じるほどに意識と思考が加速していく。

 生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたから? そのくらいの強敵と対峙したから?
 それもあるだろうけど、この時、俺の潜在能力を開放させた決定的な要因は別にある。

 怒りと、殺意。

 俺はもう自分を抑えられない。抑えるつもりもない。目の前にいるあの男を八つ裂きにできるなら、バーサーカーにでも何にでもなってやる。

 堤塞師(つつみ せきかず)。

 マイナーでパッとしないまま現役を終えた格闘家? 冗談じゃねえ、超がつくほど有名人だよ。総合格闘技の本場アメリカでメジャータイトルを総ナメし、絶頂期に突如として現役引退。後進の指導と育成に情熱を注ぐ傍ら、独自に編み出した実戦的なマーシャルアーツを体系立てて理論化することに成功し著書を出版、これが国際的に高い評価を受けて――たとえばアメリカの特殊作戦軍SOCOMなんて、わざわざ堤塞師本人を講師として招き寄せ、兵の訓練に取り入れてるそうだ。俺みたいなミリオタかぶれにとっちゃ蘊蓄以前の一般常識。

 でも、そんな堤塞師の正体は。
 魔人の正体を見抜く俺の目に映ったのは。

 虫と人間を混ぜ合わせたような、醜悪な姿。

 忘れもしない。十八歳の誕生日の夜、ベイブリッジ。狙撃銃一丁だけで戦車相手に戦うハメになったあの時、爆発炎上した指揮官機から出てきたのは間違いなくコイツだった。
 そうわかった瞬間、堤塞師の歩んできた半生が透けて見えた。悪魔に魂を売ってまで超常の能力を欲した動機。体格や身体能力で大きなハンデを負った日本人が総合格闘家として世界的な名声を勝ち得た本当の理由。そして、在日米軍の非正規戦専門部隊や戦車を意のままに操って暴虐の限りを尽くすまでのプロセスも。

 そして何より、拓海についても。

 同年代じゃ突出した身体能力を持ったヤツが俺の通う中学へ転校してきて、俺を怒らせてでもガチの殴り合いに持ちこもうとしていたこと。何度となくコテンパンに負けても一向に諦めず俺の側から離れなかったこと。やがて俺は地域じゃ知らぬ者なしってくらいの有名人になり、プロスポーツのスカウトまでやってくるようになってたのに、それを敵が危険視することもなく、ただの一人も魔人が派遣されず、まるっきりノーマークのまま十八歳の誕生日を迎えたこと。
 その全てに、これ以上ないほど説明がついちまう。

 俺たちの出会いが神様の定めた運命だなんて、とんでもない。

「クソッタレが、何もかもてめえの差し金かよ! ふざけんのも大概にしやがれ!!」

 腹の底から俺は叫ぶ。銃弾がスローモーションに見えるほどの一瞬でまともに声が出せたはずはないんだけど、単に俺の錯覚か、あるいはこの時発した怒りの感情は物理法則すらねじ曲げるほど強かったのか。堤塞師に向かって飛翔する最中の銃弾に怒りの念が乗り移り、わずかに加速したように見えた。そしてそのまま堤塞師の眉間に突き刺さる――。

 そう思った次の瞬間。

 堤塞師が、ひょいと首を捻った。

 それだけで必殺の銃弾は虚しく外れ、ヤツの背後の壁へ突き刺さる。
 偶然じゃない。完全に見切った上で、余裕を持って躱しやがった。

「チッ……!!」

 舌打ちする間にも俺は銃を撃ち続ける。相手が超人的な反射神経の持ち主でも関係ない、それを見越した上で対処するまでだ。一発目はフェイント、二発目で退路を断ち体勢を崩し、残る弾をすべて急所へ叩き込む。喉へ、腹へ、心臓へ。マガジンひとつ空になるほどの連射を浴びせかける。その全てが躱せるはずはない。どれかは絶対に当たるはず。

 ところがその前に、堤塞師が人間の殻を脱ぎ捨てた。

 着ていた背広はそのまま、中身だけが昆虫人間に変貌を遂げる。見るからに強靱な外骨格に覆われた手の甲を素早く的確に動かして、俺が放った銃弾を一発残らず弾き飛ばす。
 でも、俺はさほど驚かない。これと似たような光景を俺は何度も見てるんだ。さっきからずっと、断片的な過去の映像が脳裏にフラッシュバックし続けてんだよ。

「……なるほど。今の源くんは、昔の源くんとずいぶん違うようだ」

 昆虫人間の分際で、人間の時とまったく同じ声で喋りやがる。

「二十年前の君は、もっと手強かったな」

 その見下した台詞のお陰で、完全に思い出した。

 昔の俺が危うく死にかけた原因は、昔の俺を負かした相手は。
 こいつだ。

「待ってくれ親父! 沖継もやめろ! 頼む、俺の話を聞いてくれ!」

 泡食った拓海が何か叫んでやがるが、俺の耳には言葉として聞こえない。こちとらお前に構ってるヒマなんか微塵もねェんだよ。全てはこのクソッタレ虫野郎を殺ってからだ。
 俺は小型拳銃を投げ捨て、足元に転がってるバッグを蹴り上げ素早く手に持つと、渾身の力で強引にこじ開ける。いわゆる火事場の馬鹿力状態で、合皮製の丈夫なバッグが紙袋みたいにあっけなく引き裂かれた。参考書や筆記用具と共に中から出て来たのは言わずもがなの稜威雄走。二十年前に虫野郎と戦ったときには存在しなかった武器。俺が一度敗北したことを踏まえて開発された超強力な高性能拳銃。
 いくら常識の通用しない魔人でも、それが人間大の存在である以上、付与できる装甲の性能には自ずと限界がある。稜威雄走なら虫野郎の外骨格を貫通するはずだ。もし一撃必殺といかなかった場合でも、強烈な衝撃を受けて二本の足で悠然と立ち続けられるはずがない。そこまで虫野郎の体重が重いはずがない。さっきみたいに余裕綽々で攻撃を捌くなんて絶対できっこないんだ。

 そんなことは、虫野郎もわかっているはず。
 でもヤツは、悠然と仁王立ちしたままで、何の行動も起こさない。

 銃弾を見切って躱せるほどの反射神経があるなら、それに見合う筋力や運動能力も持ってるだろう。少なくとも昔の俺と同等以上の実力があると見るべき。俺が稜威雄走を手にするまでのわずかな隙を突いて、間合いを詰めるなり攻撃するなり、いくらでも邪魔できたはず。なのに動こうとしない。待ちの姿勢を続けてる。

 ナメてやがんのか。上等だ。その傲慢をあの世で後悔させてやる。

 俺は稜威雄走のスライドを引き、初弾を装填。虫野郎に照準を合わせようとして。
 虫野郎の背後から、巨大な黒い砲弾がいきなり飛んできた。

「……んなっ?!」

 咄嗟に床を蹴って横っ飛び。紙一重のギリギリで何とか躱して即座に体勢を立て直す。
 砲弾じゃない。相手の姿が一瞬だけ見えた。四つ足の獣? 巨大な犬? 狼?
 そう認識した転瞬、狼の姿が消えた。とんでもない速度で再び俺に襲いかかってきて、俺は気配を読んで紙一重で躱すのが精一杯――って、今の俺は銃弾が飛んでいく様子すら見えるくらい集中してんだぞ?! その俺の目が捉えられないとか何の冗談だ!

 でも、三度目の攻撃を躱し損ねて、シャツの肩口を引き裂かれた瞬間に理解した。

 コイツも魔人だ。狼男。獣の瞬発力に人間の頭脳を併せ持った化物が、俺の死角に回り込み、眼球の盲点を利用して剣呑極まりない攻撃を仕掛けてきてやがる。

「上等!」

 目に頼るから惑わされるんだ。今の俺なら目をつぶっていても戦える。気配だけを頼りに視界の外から襲いかかってくる狼男の動きを読んで、必殺の蹴りをお見舞いしてやる。相手が突進してくる威力を利用した完璧なカウンターアタック!

 ぐにゃん、ぶよん。

 狼男を蹴り殺したはずの足に、弾力のある気味の悪い感触があった。そして、粘性の何かが吹き飛ばされて壁にブチ当たる「びちゃっ」という気色の悪い音がする。
 見ると、そこには一匹のぶっとい蛇――じゃねえ、タコやイカの足みたいな吸盤のついた触手がのたうち回ってやがった。んでその触手の根っ子の方へ目をやると、魚類と両生類を足し合わせたような本体がうずくまっていて、床を這い回りながら無数の触手をウネウネさせていて――コンチクショウめ一体全体何がどうなってんだよさっきまでそこには何もいなかったじゃねえかよまたいきなり魔人が一匹増えやがった!!

「糞ったれ、スリー・オン・ワンかよ……」

 避けられない苦戦を前に冷や汗をかき、唇を噛む。

 と。

「Non,nous sommes cinq personnes」

 耳元に息がかかるほど近くで、外国語で喋る大人の女の声がした。
 ぎょっとして慌てて振り返ると、そこには青みがかった灰色の瞳の美女がいて――――みるみるうちに体型が変化し、衣服が破れ、節くれ立った手足を綿毛みたいな短い白毛で覆った魔人へ変貌。不気味な青白い燐光を放つ掌を俺の方に伸ばしてくる。

 ヤバい。よくわかんねェけどコレは絶対ヤバい!

 直感がそう命ずるまま回避しようとしたんだけど、驚いて後ろを振り返った際に上体が限界近くまで捻れたまま。いくら何でも体勢にムリがありすぎた。下半身だけで強引に横っ飛びしたものの、女魔人の手が右の肩口をわずかに掠める。

 瞬間、耐えがたい激痛が走った。

「……ッが、ッ……!!」

 手にしていた稜威雄走を取り落としそうになり、受け身も取れずに勢いよくスッ転ぶ。でも、その際に激しく打ち付けた脚や腰よりも、女魔人にただ触られただけの肩口の方がはるかに痛い。激痛で気が遠のきそうなくらい。それどころか、肩の周辺がハンマーでぶん殴られたみたいに膨れあがってきやがった。
 この女魔人め、俺の肩に一体何しやがった――と思った次の瞬間に、俺が持つ健康と長寿の超能力が答えを教えてくれた。免疫系の制御システムが活性化して、異常な細胞増殖の果てに悪性腫瘍と化しつつある細胞を全力で排除し始めてる。
 俺の右肩が癌や骨肉腫に近い何かに冒されてるってことか? この女魔人、生物の細胞を好きなように操れる能力を持ってるのか? じゃあ槙田と久能を蘇生したのは――とか考える間もなく狼男が飛びかかってきて、それに合わせて無数の触手が全方位からほとんど同時に攻撃を仕掛けてきやがった。

「ちっくしょ……!!」

 肩の痛みを意思の力で強引に抑え込んで素早く床を転げ回り、机や椅子を盾にしながらどうにかこうにか全ての攻撃を紙一重で躱しきる。それから牽制射撃。わずかに稼いだ時間を利用して素早く立ち上がる。

 さあ、こっからどうする?

 って考えるまでもねェな。多勢に無勢、どう見てもこっちが不利、おまけに右肩を負傷していて利き腕も満足に動かせない。私怨に凝り固まって無理に戦い続ければ、待っているのは敗北だけ。

 三十六計逃げるに如かず!

「沖継! 沖継ッ!! 頼むから話を聞け! 聞けよッ!! 俺の話を聞いてくれ! 武器を置いて……おい待て沖継どこ行くんだ! 待っ……うわっ?!」

 ギャーギャー騒いでる拓海には一切構わず、俺は稜威雄走を連射する。虫野郎を牽制しながら狼男の移動を制限し、イカタコもどきの触手を数本ほど切り飛ばして、一番近くにある窓へ向かって猛然とダッシュ。
 地上三階の高さからガラス窓をブチ破って外に出ても、真下にある教職員駐車場のアスファルトへ真っ逆さまに落ちるだけ。完全に自殺行為。

 だからこそ、相手の意表を突ける。退路はここにしかない。

 ガラス窓をブチ破った刹那に窓枠を力一杯蹴ることができれば、駐車場の向こうにある樫の木の枝までギリギリ手が届くはず。そこで落下加速度にブレーキをかけるもよし、もし枝の上に立つことができれば、そこからもう一度跳んで外壁を越えることも――。

 待て。
 何かがおかしい。

 窓に向かって全力疾走する最中、俺の胸が妙にモヤモヤしてきた。目に映る景色がどこか変だ。パッと見は何もおかしくないんだけど、何だか間違い探しでもしてるような。
 そういやさっき、あの女魔人は何て言った? 変身前の姿からしていかにも日本人じゃなかったけど、ハリウッド映画を吹替なし字幕なしで楽しめる俺が咄嗟に意味を掴めなかったってことは、ドイツ語、ロシア語、ポルトガル語――フランス語か?

『いいえ、私たちは五人いるわ(Non,nous sommes cinq personnes)』

 ちょっと自信ないけど多分合ってるはず。俺が直前にスリー・オン・ワンとか呟いた部分だけ聞き取って言い返してきたんだろうけど、五人って何だ? 虫野郎、狼男、イカタコもどき、女魔人で計四匹だろ? これに拓海を入れれば計算は合うんだが、コイツらはきっと、俺と同等以上の魔人ポイントを注ぎ込まれた幹部クラスの実力者だ。そんな連中がスパイ役に過ぎない生身の高校生を戦力として数えるか?
 そういやコイツら、俺に近寄ってくる気配すら掴ませず、誰もいなかったはずの場所へ次から次に湧いて出てきたよな? あれはこいつらに共通の能力なのか?

 違う、違う違う違う、絶対に違う。

 そのことに思いが至り、窓に向かって跳躍する直前も直前、本当にギリギリのところで間違い探しの答えに気がついた。目の前の景色の何がおかしいのか。
 西の空から差し込んでいたはずの夕日が、今は北側から差し込んできてやがる!

「……っ、く……!!」

 寸前で気付いて急ブレーキをかけたけど止まりきれず、手近にあった椅子に向かって渾身の回し蹴りを食らわせる。と、力学的エネルギー保存の法則そのまま、俺は椅子のあった位置へほとんど倒れ込むようにして尻餅をつき、椅子の方は俺の代わりに勢いよくスッ跳んで、ガラス窓を突き破り外へと飛び出していった。

 俺は尻餅をついたまま、不自然な窓の外へ目をやり耳を澄ませる。

 蹴り出した椅子はすぐに真下のアスファルトへ落っこちるはずなのに、一秒、二秒、三秒経ってもまだその気配がない。そのうちに窓の外の様子が元に戻る。空の表情、雲の様子がガラリと変わって、西日が差し込む方角も元通りになる。

「……惜しかったネ。確実にハメたと思ったんだけどナ」

 教室の中にいる魔人の気配が、もう一つ増えていた。
 その五匹目は――内臓剥き出しの人体標本みたいな姿の魔人は、身体中に蒸気だか煙だかをうっすら身に纏い、虫野郎の斜め後ろでニヤニヤと笑いながら。

「それにしても、ミスター堤の言う通りだったネ。勝ち目がないってわかった途端、一番ありえない場所から逃げだそうとしたヨ、あいつ」

 いかにもガイジンが使う日本語っぽい発声で、人体標本が喋り続けるその最中。
 さっき俺が蹴り出した椅子が、数百メートル上空から落っこちてきたみたいに物凄い勢いで窓の外を通過していった。直後に響いてきた凄まじい破壊音に身体の芯が揺さぶられ、凍り付き、手足の感覚が遠のいていく。

 冗談じゃねえ、冗談じゃねえ、冗談じゃねえぞ。
 もし異変に気付かなければ、あのまま窓の外に飛び出してたら――。

「ねェ、グシャッと潰れてたのは、キミの方だったはずなのに」

 にひひ、と、人体模型が嗤う。

 これまでにないほど、潜在能力を絞り出してるはずなのに。
 手加減も、躊躇も、一切していないはずなのに。
 紙一重のところで命拾いするのが精一杯。
 子供扱い同然で、いいようにあしらわれて、嗤われる。

 そんなこと、有り得ない。
 そんなの、ウソだ。
 そんなはずあるか。
 あってたまるかっ!

「うあああああああっ――――――――――――!!」

 稜威雄走を人体模型に向ける。

 その瞬間、人体模型が俺そっくりの姿に化けた。

 いや違う、そうじゃない。あいつは化けたんじゃない。
 でも、そう気付いたのは、トリガーを引いてしまった後だった。

「……ひっ」

 銃弾が俺の顔の左横、数十センチ離れた場所を通過して、背後の壁に突き刺さる。
 まともに狙いもつけず闇雲に撃ったからだ。ただ単純に外したんだ。
 そう理解できたのは、一呼吸も二呼吸も経ってから。

 恐怖に怯えて。
 震え上がって。
 頭の中は真っ白で、意識も思考も完全に止まっていて。

 俺は、そのことに気付いてもいなかった。

「ひょっとして、おしっこチビった? キミ、今、そんな顔してるよォ?」

 銃口の先にいた俺が消えて、人体模型の姿が戻ってくる。
 白い霞に包まれて表情は見えなかったけれど、完全に俺をバカにした喋り方で。

「ボクの能力、さすがに察しがついたでショ。ボクがココに居る限り、キミが手に持ったその物騒なモノはなーんの意味もないんだヨ。それこそオモチャ以下……」
「少し黙れ。お前はあれこれ喋りすぎだ」

 虫野郎がぴしゃりと話を遮り、人体模型は肩をすくめて一歩下がる。

「さて、どうする。まだやるか?」

 額に生えた長い触覚が揺れる。でもそれだけだ。虫野郎はそこに突っ立ったまま。
 代わりに、狼男、イカタコもどき、女魔人が、じりっと半歩だけ間合いを詰める。

 完全に取り囲まれた。

 空間を自在にねじ曲げる人体模型がいる限り、撃った弾丸はあらぬ方向へねじ曲げられ、下手をすると俺自身に向かって飛んで来ちまう。かといって素手ではイカタコもどきに通用しない。あの触手に絡め取られて動きを封じられれば、あっという間に狼男に喉笛を噛み切られる。どうにかこうにか善戦して一匹くらい斃せたとしても、別のヤツと戦ってる間に女魔人が生き返らせて振り出しに逆戻り。
 どんなに考えても策はない。勝ち目もない。逃げ場もない。

 ――殺される。

 歯の根が噛み合わず、カタカタとみっともない音を立て始めた。
 でも、それでも。

「……クソッタレがっ!!」

 立ち上がる。突進する。
 破れかぶれ。虫野郎にせめて一太刀。残ったのはそんな意地だけ。

 けれど、そんな小さな意地すらも。

「っあ……?! がは、っ!!」

 投げ飛ばされ、床に這いつくばらされ、腕をキめられて。
 完全に抑え込まれる。

 拓海だった。


4-3:Justice

「く、くそ、っ……放せ、放せよこの野郎!」
「いい加減にしろッ!! 正義の味方気取りのまま死ぬつもりか!!」
「うるせえ黙れ悪党の手先がホザくんじゃねえ!!」
「悪党はお前の方なんだよ!! もう気付いてるはずだろ! 目を覚ませッ!!」

 思わず息を呑む。

「親父、すまない、俺はその、どう喋れば沖継にわかってもらえるかって迷ってて、だから、沖継にちゃんと話ができなくて……ッ、動くな沖継! ジタバタすんな! ……頼むよ、親父、沖継にちゃんと話してやってくれ、俺にしてくれた話をそのまま……それだけで、沖継は絶対わかってくれるから、俺が保証するから……!!」

 クソッタレ、動くなっつっても、てめえが俺の腕を捻り上げてる限り動きようがねえんだよ――いだだだ、いだっ、いてェんだよこの野郎少しは加減しやがれ!

「……なるほど」

 虫野郎が手を上げる――ハンドサインか? それを受けた配下の魔人どもが虫野郎の周囲に集まっていく。ヒソヒソ話で相談を始める。
 でも、拓海に組み敷かれたまま身動きできない俺の方から決して視線を離さない。変身も解かない。魔人の本性を剥き出しにしたまま。油断は全くしていない。

「拓海。源くんを椅子に座らせろ。出来るな?」

 拓海は虫野郎の指示通り、俺の腕をガッチリ固めたまま強引に椅子へ座らせる。
 と、女魔人が近寄ってきて、俺の身体を妙に艶めかしく撫で回しやがる。

「きっ、気色悪い触り方すんな、止めろっ」

 拓海に極められているのは腕だけなので、女魔人の向こう臑を蹴ってやろうかと思ったんだが、まるで力が入らない。神経をどうにかしやがったのか?
 自分の意志で動かせるのは首から上だけになり、拓海が稜威雄走を取り上げて離れていく。もう完全に抵抗不能。安全を確信した魔人どもはようやく臨戦体勢を解き、中でも虫野郎は堂々と俺の真正面に回り込んできやがった。

「正直言って私は、源くんのことを全く信用していないのだがね。出来ることならこのまま首を掻き切りたいところだが……私も人の親ということかな、息子からあれほど真剣に訴えられると嫌とは言いづらくてね。だから、君に最後のチャンスをあげよう」

 偉そうにぬかしてんじゃねえ何様のつもりだクソボケが今すぐ死ね! と目一杯怒鳴りたかったんだけど、腹に力が入らず呼吸がつっかえて変な咳に化けちまった。
 つか、何であの虫野郎は教壇に上がってんだよ。単に俺の真正面に位置取りしたらそうなっただけかもしんないけど、これじゃあまるで、俺は教師に説教食らってる不良みたいじゃねぇか。身体の自由が利かないから椅子の上にふんぞり返ってガン飛ばしてるような格好にならざるを得ないしさ。

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「さて、何から話したものかな。源くんは過去の記憶をかなりの割合で失っているんだったね。我々のことをどう理解しているのかな?」
「……魔人ごときと話す舌なんか、持ち合わせてねェんだけどな」

 普通に喋る程度なら問題なさそうだったんで、とりあえず悪態をつく。
 と、居並ぶ魔人ども――日本語が苦手らしい女魔人を除く――が呆れたように鼻で笑いやがった。

「なるほど、魔人か。そういえば二十年前の君も、そんな風に私を呼んでいた気がするな。私個人の心象で言えば、我々はむしろ天使に近しい存在だと思っているが」

 虫野郎の戯れ言。今度は俺が鼻で笑ってやる番だ。

「何が天使だっつーの寝言は寝て言え。てめえらの今の姿を鏡に写してよーく見てみろ、醜悪な化物そのものじゃねえか。天使っつーのはもっとこう……」
「人間、ライオン、雄牛、鷲。それぞれ違う四つの頭と六枚の翼を持ち、二枚の翼で顔を、二枚の翼で足をそれぞれ隠し、残る二枚で空を飛ぶ。そして、全身はくまなく無数の目に覆われている。神の座を守護する最上位の熾天使は、ある種禍々しい、畏怖すべき存在なのだそうだよ」
「神の座ときやがったか。てめえらの飼い主のどこが神だ。自分の手を汚しもせずに安全なところに隠れて、好き勝手に世の中をねじ曲げてる魔王そのものじゃねェか。その手先っつーなら、てめえらなんぞ悪魔がせいぜい……」
「悪魔、すなわちサタンとは、天界を追われた天使のことだ。神の作りたもうた神の僕であることには変わりがない。彼らは無知あるいは傲慢ゆえに自らの欲得のため行動するが、神はそれすらも見通した上で、人の成長を促すための試練とする」
「ざけんな。米軍そそのかして丸腰の民間人に銃を向けさせるのが試練だっつーのか」
「あれは君たちへの神罰だ。神の意に背き世界を混沌へ導く絶対悪に対してのね」
「なんかバカバカしくなってきた……。悪いけど宗教の勧誘はマニアッテンノヨネ」
「現存するあらゆる宗教は一切関係ない。君が魔人などというから、こちらも同じレベルの喩え話で返したまでだ。我らの主とその意に従う私たちの関係は唯一無二。この世に人が誕生して以後、連綿と続いているものなのだから」
「だーかーらー、そういう物言いが余計に宗教臭いんだよ。だいたい俺は日本人だぞ、神道と仏教をベースにして無信教スレスレんとこで超アバウトにゆるーく生きてんだ。つーかあんた、俺自身が伊弉諾で国産みの神様なの知らねェのか?」
「自らこそが神だと語るかね。それこそ悪魔の所行だとは思わないか?」
「あんた言葉遊びと揚げ足取りがホント得意だな。一人でやってろよもう」
「では、客観的な事実のみを伝えよう」

 天使を自称する詐欺師が、教卓を椅子代わりにして悠然と足を組む。

「私たちがこうした醜い姿をしているのは、はっきり言えば君のせいだ」
「……は?」
「有史以前、君は連れ合いの女とともに仕えるべき主に反旗を翻した。主が与えたもうた特別な力を最大の武器として、自分勝手に濫用し続けた。だから主は、君らの後追いが出るのを防ぐため、以後産み落とした全ての御使いに二つの制限をかけるようになった」
「…………」
「その制限の一つが、我々の醜い姿だ。主に与えられた特別な能力を十全に発揮するためには人ならざる姿になる必要がある。そして、より高いレベルで能力を発揮するほど、人としてのカタチが崩れてますます醜悪になる。……ここだけの話、私は虫というものが心底嫌いでね。自分が変身した姿を想像するだけでも背筋に怖気が走るくらいだ」

 自分の額に生えた長い触覚を、穢らわしいものを扱うように手で払う。

「おまけに、もし主のご意思に背くような力の使い方をすれば、次に訪れる新月の夜に主の手によって罪を裁かれ、罰が与えられる。これが二つ目の制限だ。罰の内容は様々だが、私たちにとって最も恐ろしいのは無期追放だろうな」
「無期追放?」
「与えられていた特殊な能力の剥奪、精神力や知性の低下などの処置を施された上で、人間の姿に戻れなくなるんだ。そうなったら人里離れたところで涙に暮れて死を待つより他にない。たとえばイエティ、ビッグフット、チュパカブラ……世界中で目撃されている未確認生物UMAの大半は、主に背いた御使いの慣れの果てだとか」
「…………」
「だから私たちは、可能な限り普通の人として生きようとする。超常の力を使う時は、それが主のご意思に添うものであるかどうかを厳しく自問する。どれほど英雄的で誇らしい仕事を成したとしても、それをひけらかしたりせず己の胸一つに仕舞い込む。それが故に、私たちは進む道を誤ることがない。君と違ってね」

 虫野郎の話は、それなりに筋が通っていた。
 だからつい、一方的な聞き役に回ってしまったんだけど。

「……話になんねェ」

 吐き捨てるように、俺は言う。

「要するにお前ら全員、主とかいう元締めに首根っこ掴まれて利用されてる奴隷ってことだろよ。そいつが悪党だったとしたら、お前らも右ならえ右で悪事に荷担するしかなくなっちまう。こないだ東北で戦ったあの鍼医者がいい例じゃねえか」
「君が罪を犯さなければ、彼や村人は今も幸せな日々を送っていたはずだが?」
「……っ、そりゃ結果論だろ! 罠をしかけたのはてめえらの方じゃねえか!」
「君と連れ合いが主の意に反する行動を取らなければ、彼は鍼灸医としての仕事を細々と続けたろうし、彼の患者たちも無病息災で天寿を全うできた。彼らを殺したのは他でもない、主の意に背いて暴力を振るった君だ」
「責任転嫁の詭弁はやめろ! だったらあの政治家魔人はどう説明するんだよ腐りきったマスコミは! あいつら全員寄って集ってこの国を、日本そのものを潰そうとしてやがったんだぞ!」
「それは当然だ。主の意思によれば、この国はとうの昔に滅んでいるはずなのだから」
「はっはっは、とうとう馬脚を露わしやがったなこの野郎! てめえらの目的は結局のとこソコじゃねえかよ! この国がホントに滅んだらどうなると思ってんだ! どれだけ多くの日本人が路頭に迷って野垂れ死ぬと思ってんだ! そんな当たり前のことが想像もつかねェとは言わせな――――」
「国を守ることが、絶対の正義だとでも言う気かね?」

 俺の言葉を遮って、強い口調で。

「国家というのは所詮、人の持つエゴと欲望を拡大するシステムでしかない。今以上に豊かで便利な暮らしがしたい、他の国がどうなろうと知ったことではない、自分さえ良ければそれでいい……いささか極論ではあるが、そういう価値観に立脚しなければ国家というものは存在意義を失ってしまう。だからこそ国家は、兵器、お金、食料、娯楽、思想、あらゆるものを武器として他国を侵略する。より弱い者を支配あるいは従属させ、自らの文化圏に取り込み、経済圏を拡大させ、新たな領地を得ようとする」
「言葉遊びはいらねえっつってんだろ何度も言わせんな! エゴや欲望をまるっきり抜いた人間なんている訳ねえしいたらいたで気色悪いだけだっつーの! 理想論だけで世の中回ってたまるか!」
「その通り。人が群れるのは、組織を作るのは、国家が興るのは、いわば必要悪だ。だからこそ興亡を繰り返す。建国の理念が風化し、統治機構が制度疲労で無力化すると、その苦境を味わった人々が今度こそはと新たな国を作り出す。その時代の価値観や認識に合わせて常に形を変えていく。そこで初めて文明の飛躍が、人の叡智そのものが一段上のステージへと登っていくんだ。……なのに、この国はどうだ?」

 語り口は、あくまで静か。
 けれど、それは上辺だけ。

「先進国、経済大国、民主主義国家。他の強国を真似て表面だけはそれらしく取り繕いながら、肝心な部分は千年以上の昔から何ひとつ変わらない。内にこもって馴れ合いに終始し、守るべきでないものを守り続け、変えるべきものをいつまでも変えようとしない。目の前の不条理から目を逸らし、いつか自分以外の誰かが何とかしてくれると臆面も無く考えている。何故か? 甘えているからだよ。伊弉諾と伊弉冉が、国産みの神が、両親が、いつまで経っても存命で、自らの力で乗り越えるべき艱難辛苦を事前に排除してもらっているからだ。だからその子供らは、いつまで経っても自分の足で立とうとせず、揺りかごの中に居て良しとして惰眠を貪り続ける。そこに人としての進歩などあるはずが……」

 自分の弁が止まらなくなっていたことに、はたと気付いたんだろう。
 虫野郎は――堤塞師は、そこで一度話を打ち切る。
 少しの間、黙り込む。

「……すまないな、これは私の主観に近い。客観的な事実から外れていた」

 ネクタイを少し緩めて。

「神だの何だのと喩え話をし過ぎたかな。いち個人に過ぎない私が人の世の何たるかを語ってみても、君の耳には胡散臭く聞こえるだけだろう。ここからはあえて、主のことを未来人と言い換えることにする。特に差し支えもない」
「いやいやいやいや、差し支えありまくりだろ。全然違うじゃん」
「君がそう感じるというなら、それこそ、主に対する認識がズレている証拠だ。我々よりはるかに進んだ叡智を持ち、現代人には魔法のようにも感じる超科学によって我ら御使いを生み出し、最終的には人間そのものがより良く成長していくことを望んでいる。我らの主はつまりそういう存在だ。未来人と表現して何が違う?」
「……は。なるほどね」

 ここですんなり納得してみせたのは、堤塞師の話が呑み込めたってことじゃない。
 事前に聞いていた結女の話と整合性が取れてきたからだ。

『もし私たちが敵の大本締めだとしたら、自分たちの正体は絶対に明かさないぞ。手下にした魔人にも本拠地の情報など与えはしない』

 結女は確か、そう言っていた。
 つまり堤塞師は、自分の飼い主を概念の上でしか知らないんだ。個人的には神にも等しい存在だと思ってるけど、俺みたく懐疑的な相手にそういう主観的な話をしてもまず通じない。だから、もうちょい現実的な未来人って言葉に言い換えた。表現は間違ってはいないが正解でもない、その間のゆらぎをどう解釈するかは受け手次第だと。

 ――あれ、ちょっと待てよ?

 結女が言うところの「敵」って概念も、とどのつまりは解釈だよな?
 概念の先にある本質とは一切関係なく、受け手の側が決めたことだよな?

「……未来人にとって」

 俺が考え事をしてる間にも、堤塞師の話は先に進んでいく。

「未来人にとって、我々が過ごすことになる明日という時は、はるか過去の出来事でしかない。これを大前提として憶えておいて欲しい。以後の話を理解する助けにもなる」

 理解、ね。

「彼らが言うには、人類の未来は決して明るいものではないらしい。すでに現在、化石燃料などエネルギー資源の枯渇、人口増加による食糧問題、工業用水や飲料水不足による水源利権の奪い合いなどが近い将来必ず起きると指摘されているが、知っているかな」
「……話程度には」
「このあたりを皮切りに、資本主義陣営を中心とする先進国は例外なく政情不安に陥る。大量生産と大量消費を前提とする従来型の経済社会は破綻し、今世紀末から二十二世紀初頭にかけて世界中で治安が悪化。これは事実上、近代文明の崩壊と同義だ。数十億の民が飢えや渇きに苦しみながら為す術もなく死んでいくことになる……何度も言うが、これは悲観論による推測などではない。未来人から見ればすでに起きた過去の現実だ」
「だったら何とかしろよ、何もかもご存じの未来人ならどうとでも出来るだろ」
「すでに幾多の行動を起こしているよ。身近な例で言えば……これだ」

 堤塞師が、背広の懐からスマホを取り出した。

「私が子供の頃は、掌サイズの通信機やテレビ電話なんてSF映画の中にしか存在しなかったんだがね。それが実現するどころか、当時の想像をはるかに超える超高性能な代物が誰でも手に入れられるなど、夢にも思っていなかった」
「おっ、おいおいちょっと待て、まさか未来人がスマホ作ったとでも言うつもりか?!」
「さあ、私個人はジョブスと直接会ったことがないからな。ただ、アメリカのシリコンバレーは現在、御使いからの指揮がなければ何もできない状態になっているそうだよ。特にネットワーク通信技術と集積回路の設計製造については、現代人がゼロから作り出したものはほぼ無に等しいとか」

 ウソこけ、いくら何でもフカシだろそりゃ。
 と、言いたかったんだけど。

「ムーアの法則、というものがある。知っているかな? インテルの創業者ゴードン・ムーアが提唱したもので、半導体の性能はおよそ二年ごとに倍増すると予見し、現実にほぼその通りになっているんだが……これが発表されたのはいつだと思うかね? なんと1965年だ。相次ぐ技術革新によって想像を絶する進歩を遂げたはずの最先端テクノロジーが、実際には半世紀前に予想された範疇を一歩も越えていない。とんでもない矛盾だと思わないか」
「…………」
「これがどれほど異様なことか、他の分野の科学技術と比較してみよう。まずはレシプロエンジン。基礎技術は第二次大戦の前後にほぼ完成したんだが、その頃に作られた大衆向け自動車……ワーゲンビートル、ローバーミニ、シトロエン2CV、フィアット500あたりは、程度の良い個体なら今も実用に足る性能を持っている。次に有人宇宙機。戦後からわずか二十年強で月に行くほど進歩したが、八十年代初頭にNASAがスペースシャトルを開発して以降は長く足踏みが続いた。ジェット機も似たようなものだな、一時は超音速旅客機が当たり前になると信じられていたんだがね。医学、薬学、素材工学も……あらゆる科学技術の発展はみな同じ。人の為すことには発展期、円熟期、停滞期というものが必ずあって、右肩上がりで無制限に進歩していくことは有り得ないんだよ。しかしだ」

 手に持ったスマホを、堤塞師が左右に小さく振る。

「情報通信機器だけは例外だ。わずか四、五年前の旧型が全く使い物にならない。技術上の問題による進化の足踏みもなく、答えを知っている誰かに導かれるようにして延々と進歩を続けている。そして、停滞しがちだった他の分野の科学技術も、この分野の驚異的な発達に引っ張られる形で再び進歩を加速させ始めた」
「……それが未来人の意思だってのか。それで不幸な未来が救われるってのか」
「それだけでは無理だろう。しかし、不幸な未来が現実になるまでのタイムリミットが伸びていることは確かだろうね」

 そりゃそうだ。コンピューターの発達が俺たちの生活をどれだけ効率的にしてくれてるかなんて考えるまでもないし、それはエコとか省エネ化とほとんど同じ意味を持ってる。本来なら枯渇したはずの資源が遠い未来に僅かでも残る可能性が出てくるなら、未来人の利益にも直結してくるだろう。
 互いに手を取り合って、互いの利益を最大化するために努力する。それがつまり、主と、御使いと、現代人の関係――ってこと、なんだろうけど。

「我々がこの世界のために尽力している例はまだある。いくつか挙げてみよう」

 スマホを懐に仕舞いながら、堤塞師が言う。

「先の大戦末期。他国に先んじて原子爆弾の開発に成功したアメリカは当時、その特異性を全く把握していなかった。強力な新型爆弾の開発に成功したとしか認識していなかったんだ。それ故、敗戦を悟った日本が終戦交渉を模索していることを知っていながら無視し、戦後処理や台頭する共産主義勢力への牽制を視野に入れた上で、実証試験を兼ねた示威目的の爆撃を断行したんだが……この時に用意されていた原子爆弾は全部で四発。それぞれ広島、長崎、京都、横浜に投下される予定だった」
「途中で日本が無条件降伏して終戦したんだろ。それくらい知ってる」
「知っている? 誰かに教わったことを鵜呑みにしているだけではないのか? 少し想像力を働かせてみたまえ。君がアメリカの指導者だとしたら、間隔を空けて一発ずつ原爆を投下するような命令を出すかね? 原爆を搭載した爆撃機が日本軍によって撃墜される可能性はゼロではないのだぞ? わざわざ相手を警戒させ、危機感を煽り、迎撃態勢を整えかねない時間を与えることに何の意味がある?」
「……っ、あ……」
「少しでも戦術や戦略を知る者なら、戦力の逐次投入は絶対に避ける。使用可能な爆弾が複数あるなら、可能な限り複数同時に使用する。しかし実際にはそうしなかった。我々がさせなかったんだ。いくら我々が日本という国の消滅を望んでいるとは言え、核の炎による民間人の虐殺と環境汚染を良しとする道理はないのでね。……いや、そもそも我々は、原爆が使用される前、1945年の初旬に日本を無条件降伏させる予定だった。戦火に乗じて暴れ回っていたどこかの誰かのせいで思惑通りに事が運ばなかったんだが」
「な……? お、おいちょっと待て……!!」

 俺のせいで日本に原爆が落とされたと言わんばかりだったから、さすがに黙っていられずに口を挟もうとしたんだけど。

 思い出しちまった。

 十八歳の誕生日の夜、米軍の特殊部隊や戦車と戦った後。俺は和服姿でダブルクラッチ必須の旧型自動車を乗り回しながら戦う夢を見た。時系列が入り乱れてメチャクチャだったが、その中には戦前から戦後にかけての記憶と思しきものも含まれていた。だって俺は、旧軍の三八式小銃を使ってバケモノの群れを撃ち殺しまくっていたんだから。
 あの中に、日本を早期に降伏させて原爆の投下を防ごうとした魔人がいた? 当時の俺はそれを知らずにトリガーを引いちまったってのか?

 いや、たとえ知っていたとしても。

 過去の俺の戦い方を踏襲してる結女が、あの通りなんだから。
 その頃の俺は、魔人を殲滅することに何の躊躇もしなかったんじゃないのか?

「……その顔、何か心当たりがあるのかな」

 堤塞師の話は、淡々と続く。

「もしまだわずかでも疑念があるなら、日本以外のケースを考えてみるといい。君の邪魔がない場面において、我々は核の使用をことごとく防いでいる。ナチスドイツの崩壊とヨーロッパ戦線の終結、朝鮮戦争、そしてキューバ危機。世界が疑心暗鬼に囚われていた冷戦期、世界を何度も壊滅させうる核を抱えながら、人類は破滅に至る一歩を踏み出すことなく今に至っている。全ては未来人の意思と、我ら御使いの働きがあってのこと」
「…………」
「他にも、致命的な原発事故の被害局限、人口密集地に落下するはずだった巨大隕石の無力化、バイオテクノロジーの濫用抑制、伝染病の拡大防止。危険すぎる化学物質の研究を潰し、アラブ諸国における民主化運動を支援して……いちいち挙げていくとキリがないな。ただ、我々の立場は常に一貫している。すなわち、世界の秩序を守る側だということだ」

 世界の秩序を守る側。
 その言葉が、俺の心に重くのしかかる。
 そいつらに喧嘩を売るってことは、つまり――。

 いや待て、まだだ。こいつらの言うことを全部呑むには早すぎる。

「……百歩譲って、いや、千歩譲って、その話が正しいとして」
「ほう。つまり、私の話を信じてくれたのかな?」
「だから千歩譲ってっつってんだろ勝手に決めんな! 結局な、あんたが言ってる話は矛盾だらけなんだよ!」
「矛盾? どこが?」
「お前らさっきから日本を潰そうとしてること自体は一切否定してねぇだろがよ! 世界のため人類のためみたいなことヌカしといて何で日本だけ除外すんだよこの国だって世界の一部だっつーんだよコノヤロー!! 何で俺らだけなんだよ! 日本だけ目の敵にされる意味がさっぱりわかんねぇよ!!」
「……本当に、わからないのかね」

 堤塞師の顔色が、変わる。
 顔色――って、あれ?

「なら言おう。我々が何故、この日本という国の解体を望むのか」

 いつの間にか変身を解き、人の姿に戻っていた堤塞師が、己の信ずる『正義』を語り始めた。


4-4:それだけは確かだから

「……沖継」

 話しかけられて、俺ははたと我に返る。
 すぐ隣に、見慣れた親友の顔があった。

「青だぞ」

 拓海が顎で指した先を見ても、それが何を意味しているのか一瞬理解ができなかった。すっかり陽の落ちた夜の街。外灯の光。ネオンサイン。飲食店の看板。交差点。周囲を行き交う帰宅途中のサラリーマン。四角くて緑がかった青い光。歩行者用の信号機。

 ああ、青って、そういうことか。
 渡らなきゃ。

 歩き出す。拓海も俺の後についてくる。
 鉄筋コンクリートのビルやマンション。並木通り。生まれ育った街の景色。通学路。これまで何度行き来したのかわからない。目を閉じていても歩けそうな場所のはずなのに、異世界に迷い込んだような錯覚に陥る。

 そのうちに、自分がどこを歩いているのか、本当にわからなくなってきた。

 ふと目に入ったのは、道路の標識。左に行けば芳沢市役所、真っ直ぐ行けば大井武蔵野とあるんだが――武蔵野? ここが? 冗談だろ? 俺の知ってる武蔵野は、秋枯れの荻が地平線の彼方まで延々と続き、はるか彼方に富士山の白い頂が見える原野のはずなんだけど。いつの間にこうも変わってしまったんだ?

「……おい、沖継」

 急に腕を掴まれ、引き留められる。
 すぐ隣に、見慣れた親友の顔があった。

「信号、赤だぞ」
「え……? ああ……」

 目の前を行き交う自動車の群れに、一瞬、慄然とする。

 ああ、こりゃまずい。
 俺、疲れてるんだ。

 ようやくそのことを自覚した。頭の中がもんじゃ焼きのタネのごとくグチャグチャになってる。とりあえずこめかみの辺りを揉みほぐし、意識の芯に活を入れてみたけど、シャッキリしたとは到底言い難い。

 さすがに今日は、色々なことがありすぎた。
 本当に、色々と、ありすぎた。

 でも、今日という日はまだ終わらない。半ば無意識のうちに懐からスマホを取り出して時刻を確認。午後七時半過ぎ。もう一波乱起きるには充分すぎる時間が残ってる。

 疲れたなんて言ってられない。早く家に帰らなきゃ。
 今日一番の修羅場はむしろ、家に帰ってから始まるんだ。

「……面倒臭い星の下に生まれたもんだよな、お互い」

 赤信号を見つめたままの拓海が、独り言を呟くように。

「俺たち、どこで何を間違って、こんな風になっちまったのか……」
「初っ端からだろ、何言ってんだ」

 俺の方も、赤信号を見つめたままで。

「そもそもお前が親父さんのスパイとして送り込まれてなけりゃ、俺たち出会ってすらいねェんだぜ」
「スパイ、か」

 拓海はそう呟いたきり、黙り込む。
 信号が青になり、向こう側の歩道へ渡りきる頃になって、ようやく。

「お前からすれば、そうとしか見えないよな」

 ぽつりと言う。寂しそうに。
 やがて繁華街を離れ、河川敷の近くまで来ると、周囲に人の気配がなくなった。男二人で土手の上を歩きつつ、遠くに横たわる大きな廃工場の敷地を眺める。
 そういや誕生日の前日だったかな。ちょうど今くらいの時間帯に、麻薬の取引に手を染めたマフィア崩れの不良どもと大立ち回りをやらかしたんだっけ。もう何年も前の出来事みたいな気がするよ――と、感慨に耽っていたら。

「……こっち方面に来ると、嫌でも思い出すな。あの時の大喧嘩」

 拓海が急に言う。あの時って拓海も参加してたんだっけ?
 疲れてるせいで思い出せないのか、とか一瞬考え込んでしまったけど、拓海の方を見てみたらすぐに納得。視線が廃工場の方を向いていない。

 拓海は、河川敷の遥か上流に架けられた大きな橋を見つめていた。

「俺にとっちゃこの辺は通学路だぞ。親友に殺されかけたトラウマ級の出来事を毎日思い出してたら、今頃とっくに発狂しちまってる」

 冗談めかして言うと、拓海も肩をすくめ、わざとらしく笑う。

「おかしいな、あの時に殺されかけたのは、俺の方だとばかり思ってた」
「抜かせタコ。……拓海、ひょっとしてお前、この辺に来たのって」
「あの時が最後だ。こっちの方に来る用とか、別になかったしな。二年ぶりか?」
「正確には一年七ヶ月と三日前だ。今ざっと計算した」
「相ッ変わらず細かいな沖継は。誰がそこまで求めたんだよ」
「性分なんだ、ほっとけ」

 普段なら拳か蹴りを軽く交わしているところだけど、お互いに苦笑しただけで終わった。当時のことを思い出しながら殴り合うなんて、たとえ冗談半分でも願い下げだ。

 一年七ヶ月と三日前。高校一年の初冬。この河川敷の先にある橋の下で。
 俺たちは一度だけ、本気も本気で殴り合ったことがある。

 当時、正義の味方を気取ってご町内の厄介事に首を突っ込みまくった俺たちは、地域のチンピラ連中を大方締め上げていた。だがそれで街が平和になったかと言えばそうは問屋が卸さない。荒くれどものトップを腕力で一時的に抑え込んだだけだし、一種の恐怖政治みたいなもんだから、反発心からクーデターを起こそうとする不届き者は次から次に湧いてくる。揉め事は延々と起き続けた。

 心底面倒臭いけど、でも、俺たちはそこから逃げるわけにはいかなかった。

 正しいことは正しい、悪いことは悪い。弱い者をいじめて強い者に媚びるようなことを決して許さない。他人に迷惑をかけないのが最低限で、何かする時は出来るだけみんなのためになるよう心がける――って、ほんともう幼稚園児の躾みたいな話だけど、そういう人として当たり前の精神をチンピラ連中に浸透させ、そいつらが後輩を自然と正しく導けるようになるまで、俺たちは身体を張ってお手本を見せ続けなきゃいけない。
 喩えるなら、そう、仮面ライダーのシリーズだ。毎年のように新しいライダーと悪の組織が現れて死闘を繰り広げるが、それは正義の味方かくあるべしと最初にお手本を示した一号と二号あればこそ。たとえ姿を見かけなくなっても二人は現役の正義の味方として世界のどこかで戦い続けていて、後輩たちのピンチにはどこからともなく現れて手助けする。やがて未熟だった後輩も強く逞しくなり、そいつがまた次の後輩を導き、その後輩がまたまた次の後輩を育て、最終的には先輩たち抜きでも成立する平成シリーズ全盛期へと続いていく訳だ。それと一緒。わかりやすいだろ?

 そこまで貫徹してこそ正義の味方ってもんだし、俺は最初からそのつもりだった。
 当然、拓海も同じ気持ちでいるもんだと思ってた。

 でも拓海は、その使命から抜けると言い出した。
 もう喧嘩は卒業だ、この身体は自分よりはるかに弱い奴らを殴り続けるために鍛えてきたわけじゃない、これからの俺が本当に目指すべきは総合格闘技の頂点なんだ、って。

 正直、俺は意味がわからなかった。それが拓海の本心だとは思えなかった。だから訊いた。お前が目指してるのは総合格闘技の頂点じゃなくて正義の味方だったはずだろ、手段と目的がすっかり入れ替わってるじゃねえか、おかしいだろ、って。

 ところが拓海は、俺の問いに半笑いを浮かべて。

『いつまでガキみたいなこと言ってんだ。お前もいい加減、大人になれ』

 裏切られたと思った。その物言いが許せなかった。
 親友だと思っていたからこそ。

 で、俺は無言のまま拓海の横っ面をブン殴り、拓海もすぐに殴り返してきて、手加減ゼロのガチバトルが幕を開ける。当時の俺と拓海の実力はほぼ互角。もしギャラリーがいたら三代先まで街の伝説として語り継がれたんだろうが、そのリングになったのが何を隠そう、この河川敷の先にある橋の下だったんだ。

「……よく考えたら、あの時に気付いてても良かったんだよな」

 思わず呟くと、拓海が「何が?」と訊いてくる。

「自分が普通じゃないってことに。拓海にしこたま殴られてグラグラだった俺の奥歯、いつの間にか元通りに治ってたんだ。長寿と健康の超能力でカバーしちまったんだろな」

 当時を思い出してたら左の頬が疼いてきやがったので、手で軽くさする。
 そんな俺を見て、拓海も自分の口元に指を這わせる。

「羨ましい話だな。こっちはあの時、前歯を二本なくしてそれっきりだ」
「それこそ羨ましいね。今はセラミック製の超クールなサイバーパーツがインプラントされてるって訳だ。007の好敵手として映画に出られる日も近いぜ」
「……言葉の意味はよくわからんが、何故かバカにされてるような気がする」
「気にするな。プロの格闘家なんかやってりゃ、遅かれ早かれ入れ歯になるよ」
「勝ったのは俺の方だってのに、傷が残ってるのはこっちだけか……」
「おいおいおいおい。俺は負けたつもりなんかないぞ。ありゃ百歩譲ってドローだろ」
「何言ってんだ。最後に音を上げたのは沖継の方じゃないか」

 俺は笑って誤魔化し、知らんぷりを決め込む。

 実のところ拓海の言う通り。敗北宣言だと受け取られても仕方のない態度を見せて喧嘩を切り上げたのは、間違いなく俺の方だったから。

 自分の名誉のために言っておくと、やろうと思えばまだやれた。
 でも、最後の方はもう、殴り合うのが虚しくなってたんだ。

 拓海の物言いにムカついたから先に手を出し殴りつけた。それはまあいい。いや冷静に考えればよくないけどここでは見逃してくれ。問題なのは、正義の味方を辞めると宣言して別の道を歩き出した拓海を力尽くで否定する、その権利が俺にあるのかどうかだ。

 あるわきゃあ、ない。

 お前はこれまで通りに正義の味方を目指し続けるべきだ、なんてさ、そんなバカなこと口が裂けても言えやしない。拓海の選択は現実的で何も間違ってないんだ。

 つまり俺の方には、戦い続けるための正義がない。どこにもない。

 一方の拓海はどうか。あの時の拓海の心は、俺を殴るために握り締めた拳より遥かに硬かった。痛い思いをして地べたを舐めて前歯を二本も叩き折られ、それでもまだ立ち上がってくる。身体はとっくに悲鳴を上げてたはずなのに心が折れない。中途半端な覚悟で俺と殴り合ってる訳じゃなかったからだ。
 きっと拓海なりに色々考えて、悩み抜いて、その結果ようやく導き出した答えだったんだ。ガキの頃から引きずってきた荒唐無稽な夢を捨てて現実的な目標を選び取る、そこにはコイツなりの正義があった。何としても俺を否定して自分の意思を通さなきゃいけなかった。だから絶対に負けを認めなかった。

 今にして思えばだが、俺も拓海も薄々感じてたはずなんだ。正義の味方になんかなれっこないし、いつかは現実と折り合いをつけなきゃいけないって。でも俺は、その課題から目を背け、一方の拓海は逃げずに答えを出した。それが悔しくて、一足先に大人になっちまった親友が妬ましくて、つい殴りつけてしまった――のかも、しれない。当時はそこまで考えちゃいなかったけど。
 そして、あの時にガキのままでいることを選んだ俺は、あれから一年八ヶ月と三日経った今、見事に行き詰まった。一方、あの時に歯を食いしばって大人になろうと足掻き始めた拓海は確実に成長を重ねて――。

「……っ」

 俺は思わず、足を止める。
 考え事しながら歩いてるうちに、コノの家の前まで戻ってたんだ。
 何年か前にリフォームした築三十年超の一軒家。その二階の一室がコノの部屋。
 カーテンは閉まっていない。電気もついていない。

「……しばらくは病院だろ。肩の手術をしたばっかりだしな」

 俺と同じ方角を見ながら、拓海が言う。

「そういや昼間、見舞いに行った時、滝乃の親御さんにも会ったよ。自分の娘より沖継のことを心配してたぜ。いつもいつも助けてくれて本当に有り難うってさ。娘の嫁ぎ先はもう決まったようなものだって冗談めかして言ってたけど、あれは多分本気で……」
「なあ、拓海」
「? 何だよ」
「実際の所、お前はいつから知ってたんだ。俺の正体とか、魔人のこととか」
「……具体的に知ったのは、十八歳の誕生日の翌日かな。沖継と一緒に国会へ行ったあの時だよ。もっとも、お前が普通の人間じゃないってことはもっとずっと前、うちの親父からそれとなく聞かされてたけどな。それがどうした?」
「単なる興味だ。気にするな」
「ったく、滝乃の話になるとすぐそうやってはぐらかす……」
「あとは一人で帰れる。ここでいいよ、見送りサンキュ。ああ、親父さんから見張りの任務を言い渡されてるなら話は別だけど」
「勘ぐり過ぎだよ。麻痺から抜けきってなくてフラフラしてるお前が危なっかしいから、念のためについてきただけだ」
「お節介に痛み入るよ」

 手をヒラヒラさせて別れの挨拶代わりにして、拓海に背を向ける。

「おい待て。忘れ物」

 振り向いた俺に、拓海は手にした荷物を差し出してきた。紳士物の傘と、ガムテープやビニールテープがベタベタ張られたみっともないバッグ――って俺のじゃねえかこれ。

「まさか、今まで気付いてなかったのか」
「……さっぱり。バッグの応急修理もお前か?」
「学校でお前が親父と話し込んでた間にな。ヒマだったし。俺が取り上げた例の銃も入れてある。沖継の見よう見まねで安全装置はかけてみたが、念のため確かめてくれ」

 合皮の裂け目から手を突っ込む。確かに安全装置のかかった稜威雄走が入っていた。
 持ち歩くのにすっかり慣れたはずの鉄の塊が、何故かやたらと重く感じる。

「お前がそれを使うことは、もう、ないんだろうけどさ」
「さあな、まだわかんねェよ」

 弾倉を外し、チャンバーに入ったままだった実包も取り出して、バッグの中に銃を戻す。

「全ては結女の話を聞いてからだ。あいつにも言い分はあるだろ。なくちゃ困る」
「それでやっぱあのコの方が正しいってことになったら、また殺し合いか?」
「…………」
「正義の反対は悪じゃない、もう一つ別の正義だって、よく言うけどさ……」
「そんなもん、ただのロジックだ」

 何で拓海の言葉を途中で遮ったのか、自分でもよくわからなかった。
 でも、俺の口は勝手に動き続ける。

「誰だって人それぞれ、嫌いなこと、許せないことが必ずある。それと同じだ。誰に何と言われようと貫き通すべき正義ってのは絶対にある。そいつを見極めるのが面倒臭い、何となく空気に流されてる自分を肯定したい、そういう手合いが悟ったフリして正義に背を向けて屁理屈を捏ね回すんだよ。正義の反対はまた別の正義でしかない、正義を語ることに意味はない、だから、正義を見極めようとしない俺にも罪はない……逃げてるだけじゃねえか、そんなの」
「じゃあ、今のお前の正義は何だよ。うちの親父を力尽くで否定するのが正義だって、今でも思ってんのか」
「…………」

 俺は、拓海から目を背けて。

「だから、結女の話を聞かなきゃいけないんだろが」

 歩き出す。

「結果が出たら連絡する。早けりゃ今夜中、遅くても二、三日だ。待ってろ」

 そのまま、十歩かそこら進んだところで。

「……沖継」

 拓海が声を投げてきた。
 俺は足を止め、背中を向けたまま、耳を澄ませる。

「お前は二つ、誤解してる。それだけでも訂正させてくれ」

 こっちから返事はしなかったが、拓海は言葉を続ける。

「二年前……一年七ヶ月と三日前だったか? 俺はお前との正義の味方ゴッコをやめて、総合格闘技の頂点を目指すことにした。そのための用意を今も少しずつ進めてる。でも、それはゴールラインじゃない。俺には、その先に見据えてる夢がある」
「そこについては誤解してない。察しはついてる」

 息を呑む気配。俺の言葉に拓海は軽く驚いたようだ。やれやれ、説明してやった方がいいのかね。首だけ捻って背後の拓海の方を振り返る。

「ガチの大喧嘩をやらかした後も、俺たち、学校に居る間だけは曲がりなりにも友達付き合いを続けただろ。後になってお前が謝りに来たからだ。本当の本当にヤバいと思った時には必ず加勢に駆けつけるから新しい夢を追いかけることを許してくれって。俺はその言葉を聞いて、お前はやっぱ俺のダチだと思い直した。現実とナシをつけて大人になったフリをしてるが、正義の味方への憧れは捨ててない。ただ選んだ道が違うだけだって」
「いや、だから、それが」
「新しい夢、ってところがウソだったんだろ? 親父さんみたく格闘家になって、親父さん以上の成績を残して、親父さんと同じ特別な力を授かって、正真正銘、ホンモノの正義の味方になりたいんだよな?」
「…………」
「実際のところ、お前の親父さんは凄い人なんだろうさ。人格的にも能力的にも。だからこそ魔人に……御使いに選ばれて、強大な力と、権限と、多くの情報をボスから託されて、この世界の秩序を脅かしかねない悪を排除する任に就いた。その辺の事情は当然伏せてたんだろうけど、お前はニブチンって訳じゃない。何となく気付いてたんだろ。そもそもお前が正義の味方になりたいって思い始めたのも、大好きな親父さんの背中を追いかけようとしてただけ、だったりしてな」
「…………」
「でも、偉大な親父さんも歳を取る。加齢による身体能力の低下にブレーキをかける程度の能力は持ってるかもしれないけど、長寿の能力は絶対に与えられてない。いずれ御使いとして働けなくなる時が来る。そうなったら代替わりだ。親父さんと同等の能力を持った御使いが必要になるだろうからな。……親父さんを本気で尊敬してる息子としちゃあ、その跡取りは世界でただ一人、堤塞師の血を引く俺の他にはいないって、そう考えるのが自然だろ」
「…………」
「つまりお前は、今も昔も、一時たりとも、ガキの頃からの夢を捨ててなかったんだ。一心不乱に正義の味方を目指し続けてるんだ」

 俺は拓海から目を逸らし、前を向く。いい加減に首が疲れた。

「もっとも、御使いを選定するのは、神様だか未来人だかよくわからん正体不明の存在だ。総合格闘技で結果を残して親父さんと同等以上の格闘家になれても、そのまますんなり御使いになれるとは限らない。三千年前に俺みたいなロクデナシの本性を見抜けなかったヤツなんだぞ、御使いの選定基準があるのかどうかすら甚だ疑問だ。……でもま、お前にはもう、親父さんのスパイとして主のために働いた実績がある。夢が叶う可能性は高いと思うよ。頑張れ」

 歩き出す。

「……もう一つ。お前はやっぱり誤解したままだ」

 拓海の声に俺は再び足を止め、振り返る。

「俺はスパイなんかじゃない。そんなつもりはこれっぽっちもなかった」

 語りかけてくる目は、真剣そのもの。

「折に触れて、親父から指示っていうか、命令みたいなものがあったのは否定しない。中学に上がったばっかなのに転校しろとか、高校に上がってからはお前との付き合いをセーブしろとか、他にも……いろいろと。このクソ親父め俺の人生何だと思ってんだよって、反発した時期もあった。結果的には親父の言う通りにしてきたけど、俺はお前を騙そうなんて思ったことは一度もない」
「素晴らしいな。スパイとしちゃ理想的だ」
「だからそういう言い方やめろってんだよ!」

 血相を変えて言いやがる。
 激昂しかけた自分に気付いたのか、拓海は一度、深呼吸。

「これまで、俺たちはガキだった。何も知らない無知な子供だった」
「…………」
「子供には自分の意思で決められることなんか一つもない。生まれ、育ち、住む場所、行く学校、塾、習い事、転校、将来の目標、小遣いの金額や誕生日プレゼントの中身もだ。何から何まで大人の都合で翻弄される。大人の掌の上からは決して出られない。でも、俺たちはもう十八歳だ。色んなことを知った。大人としてのスタートラインには間違いなく立ってる。お前が産まれ直す前にやらかしたことなんかどうでもいい。俺の家の都合だってそうだ。俺とお前の人生はここからが本番だ。そうだろ?」
「…………」
「よく言うよな。十代の頃の友達は一生ものだ、って」
「…………」
「俺にとって、お前は、源沖継は、今も昔も、きっと未来も、一番信頼できる友達だ」
「…………」
「生まれる前から込み入った事情を引きずってて、たまたま誕生日が同じで、似たような悩みを抱えて、全く同じ夢を持ってる、かけがえのない貴重な友達だ。もし俺の夢が叶って親父の跡を継いで御使いになって、本当の正義の味方になれたとしたら、俺の相棒を務められるのはお前だけだ。俺の背中を完璧に守ってくれるのは世界中探しても源沖継の他に誰もいない。いや、それが許されるかどうかはまた別の話だろうけど……とにかく、俺は今でもそう信じてる。心の底から」
「……そっか」

 今度こそ俺は、家に向かって歩き出す。
 でも、最後に一言だけ。

「結局、誤解なんか一つもねェな。お前はやっぱ、たった一人の俺のダチだ」


4-5:愛の果て

 玄関を開け、家に入る。
 傘を片付けて靴を脱いでいる最中に、家のどこかで扉が開く音がした。浴室の方向だった。スリッパを履いて廊下を歩くパタパタという足音が近付いてくる。

「……お帰り、沖継」

 パジャマを着て、肩にバスタオルを引っ掛けた結女が言う。

「帰りが遅かったのでな、風呂だけ先に入らせてもらった。今ならいい湯だぞ」

 俺は返事をせず、リビングに向かう。

「……食事が先、か。いいぞ、すぐ用意する」

 結女も後ろをついてくる。

「ん? そのバッグ、どうしたんだ?」

 俺は答えず、ズダボロのバッグを置いてソファに腰を下ろし、テレビをつける。いつもなら芸人たちが雛壇に雁首を並べてくだらない話に終始する低俗なバラエティ番組をやってる最高に楽しい時間のはずだが、どの局もニュースしかやっていない。

 東シナ海で、民間の航空機が消息を絶ったらしい。

 現政権の官房長官は名言を避けて調査中だとしか言ってないけど、中国の軍用機に撃墜された可能性が極めて濃厚。在中邦人に帰還命令が出たとか、中国大使が本国へ戻されたとか騒いでる。日本と中国の関係はいよいよ本格的に悪化、もはや修復不能。
 世界の警察を自認するアメリカが極東の秩序を守るために動くとするなら今をおいて他にないが、先月のベイブリッジでの一件が足を引っ張ってるらしい。事件直後から公式な謝罪と事実関係の調査を求めてきた日本側と、あくまでシラを切るアメリカ側。両者の間に深刻な溝が生まれていて、日米安保が効力を発揮するかは果てしなく不透明。頼れるのは我が国の自衛隊だけなんだが、政府と国会が経済再建を最優先してきたせいで有事法制の改正が追いついてなくて、このままでは満足に動けないときた。

 なるほど、こりゃ大変だ。報道特集も組むわな。

 それに加えて東京都心でバイオテロとおぼしき異臭騒ぎ、都心の水瓶である利根川水系ダムへの毒物投入予告、都立芳沢高等学校で過激派による銃撃事件。日本はまさに内憂外患のオンパレード。戦後最大の危機と言っても過言じゃない――。

「……おい、沖継。何してる」
「見りゃわかんだろ」
「そうじゃない。だから、食事の用意が……」

 結女とは視線を合わさず、ダイニングテーブルの方をちらと見る。ホットプレートの脇の大皿に野菜の類が山と盛られ、その脇には肉類と魚介類がスタンバイ完了。鉄板焼きでもするつもりだったのかね。

「悪いけど、今は呑気にメシを食える気分じゃない」

 テレビの方に向き直る。

「……怒っているのか、沖継」
「そう見えるか? 顔に出してるつもりはないけどな」
「…………」

 しばらく沈黙が続いた後、結女が俺の隣に座る。

「昼間の件だが、報告は受けた。すまなかった」
「何で謝るんだよ。そいつはお前にゃ無関係だ」
「いいや、結果的には沖継が正しかった。私が間違っていた。千人の魔人と戦う必要はなかった。もし私がお前に従って協力していれば、二人の学生が命を落とすことも、滝乃コノが傷つくことも防げたかもしれない。本当に……本当に、すまなかっ……」
「お前が俺に謝らなきゃなんないとしたら、そっちじゃねェ」
「……? 何の話だ?」

 どこか近くで、携帯電話が鳴り始めた。
 結女の端末だ。政府機関と直結してるアレだ。
 でも、結女はそのコールを無視して、他所を向いたままの俺の顔を覗き込もうとする。

「沖継、頼むから私の方を向いてくれ。私の目を見てくれ。一体何が言いたいんだ? 回りくどいことをしないでくれ、謝れというならいくらでも謝るから……」
「電話、出たらどうだ? 向こうからかかってくるってことは急ぎのはずだろ」
「…………」

 コールは続く。結女は少し迷った後、ソファを立ってリビングを出ていった。
 テレビの音声に紛れてほとんど聞き取れなかったが、結女が電話に出て何事か話してる雰囲気は感じられた。そして電話が終わる。ドスドスドスと廊下を乱暴に踏みしめながら、結女がリビングに戻ってきた。

「おい沖継! これは一体どういうことだ!!」
「何だよ、さっきと態度が真逆だぞ?」
「芳沢高校を封鎖して警備に当たっていた警官や自衛隊の部隊が一人残らず原因不明の昏睡状態! 三年五組の教室にも戦闘が行われた形跡があって稜威雄走の特殊弾らしき銃痕がいくつもあると言ってる! 一体何があっ――――」
「堤塞師と話してた」

 結女、絶句。

「堤塞師だ。知ってるだろ。お仲間を連れて俺のところへ会いに来たんだ」
「そ、っ……そんな馬鹿な有り得ない!! あの男の動向は日本の公安関係者が陰に陽にマークし続けているんだ! ずいぶん前にアメリカの永住権を取得してからは数えるほどしか来日していないし特に今年はニュージャージー州から一歩も出ていない!」
「じゃあ、その公安関係者が丸め込まれたか、役立たずのボンクラかのどっちかだ」
「それ以前に! お前はヤツが誰だかわかっているのか?! 二十年前に――――」
「昔の俺に勝った当代最強の魔人。んで、瀬尾拓海の実の父親だ」

 結女、二度目の絶句。
 そりゃそうだろな、今までの拓海への態度を考えたら知ってるはずがない。

「うちの国のボンクラ調査官どもをケムに巻くための方策だろ。拓海には戸籍上の父親が別にいるんだとさ。実の母親も堤塞師とは直接の接点がない。あんま詳しくは訊いてないけど、不妊治療がどうの渡米がこうの言ってたから、その時に色々あったんだろな。俺も今日まで知らなかった」

 ぱくぱくぱく。結女の口が酸欠の金魚みたいに開閉する。頭の中がよほど混乱してるんだろう。無理もないけど。

「さ、今度は結女の番だぞ。そろそろ本当のことを話してくれ」

 テレビは一応消したけど、俺の視線はまだ、暗くなった画面の方を向いたまま。

「は、なし……? 私からお前に話すようなことは、別に何も……」
「お前は、俺を、ずっと騙し続けてただろ」

 結女、三度目の絶句。

「な……何を言ってる。私がお前を騙す? そんなこと……」
「何かの本で読んだことがある。ホンモノの詐欺師は一切ウソをつかないんだってな。徹頭徹尾真実しか語らない。例えばこうだ。あなたは持病の癪に長年苦しんでいるが私はそれを治す薬を持っている、すでに製造は終わっていて貴重なものなんだが特別に五万円で売りましょう。患者は喜んで五万円を支払い病気を治し、あの人は私の恩人だと詐欺師に感謝すらする。でも実際には、薬局に行けば同様の効果を持つジェネリック医薬品がたった五百円でいつでも手に入ったんだ。患者に売ったのは特許が切れる前の先発品で……」
「回りくどい話はやめてくれ! 一体何が言いたい!」
「お前、自分に都合の悪いことは一切合切伏せてきただろ? 何も知らない俺が喜び勇んで銃を持ち、魔人どもをブッ殺しまくるように誘導してきたよな?」

 結女、四度目の絶句。

「そ、んな……そんなことはしていない! そんな……!!」
「へえ? 騙すつもりはなかったのに俺はここまで見事に騙されてたのか。凄いな。詐欺の世界にノーベル賞があれば間違いなく受賞確実だ」

 俺は初めて、結女の方を向く。
 いや、ただ顔の向きを変えただけじゃない。

 結女を、睨み付ける。本気で。

「ヨタも大概にしろよ。無自覚でここまで俺が騙される訳あるか」

 殺気に近いものを込めた俺の視線に気圧されて、結女は半歩、後退る。

「だ、っ……だから、私は、本当に……」
「まあ、まんまと騙されちまった俺も、底なしのバカだったんだけどな」

 自分のふがいなさに、思わず舌打ちが出る。

「誕生日の夜、米軍の特殊部隊が俺たちに襲いかかってきた。俺はあいつらが魔人の超能力で狂わされたと勝手に思い込んでたが、洗脳やマインドコントロールは万能って訳じゃない。脳味噌に箸を突っ込んでいじくり回すようなもんで、人間の思考力や正常な判断力をダメにしちまう。数十人の部隊が戦況を把握しながら互いに協力して柔軟に戦い続けるなんてまずムリだ。もし仮に、それが可能だとしたら……記憶や人格を自在に書き換えて一切の破綻を起こさせない超能力を持った魔人が存在するとしたら、誰よりもまず真っ先に、俺と結女が人格書き換え作戦の標的になってるよ」

 結女は、黙って俺の話を聞いている。
 異を唱えてこない。

「いいや、以前の俺はまだ敵と魔人についてよく知らなかったし、気付かなくても仕方なかった面もある。でも……でもな」

 ああ、畜生。だんだん腹が立ってきた。自分に。

「憶えてるか、結女。お前は今朝こう言ったよな。敵は無関係の民間人を攻撃するような作戦は採らない。それは配下の魔人が離叛するのを防ぐため。いくら魔人でも、無辜な市民の虐殺を命じられて笑顔でイエッサーとは言えないだろってな。……そこで気付いてなきゃいけなかったんだ。いや、気付いてたのにスルーしちまった」

 あの時の俺は、鼻の下を伸ばして、恋愛ゴッコしてたせいで。
 こんな単純なことを、見逃してしまった。

「敵の側にも、正義があるんだ」
「…………」
「しかも、中途半端な正義じゃねェ。米軍の精鋭たちが自分の意思で魔人に協力し、それを知ったホワイトハウスが堂々と庇ってくれるような、どこに出しても恥ずかしくない正真正銘の大義名分だ」
「…………」
「お前は、それを知ってる。なのに黙ってた。俺に話そうともしなかった。違うか?」

 結女の表情は、硬かった。

「……誤解だ」

 明後日の方向へ目を泳がせながら、しどろもどろに。

「お前に……話すべきことは、全て……。他は、些細なことで……意味なんか……」

 何だよこのリアクション。これで誤魔化してるつもりなのかよ。

「本当に意味がないのか? 本当にどうでもいい話か?」

 ふと、リビングの片隅にある地球儀が目に入った。父さんが何年か前に衝動買いして置きっぱなしになってるヤツ。俺はそこへ歩いていき、無造作に回転させ、適当なところでパンと軽く叩いて停止。日本列島の周辺を正面に据える。

「この日本って国が神代の昔から存在し続けてるのは、俺たちが魔人と戦い続けることで敵の影響下に入ることを拒み、奴らが意図するグランドデザインを否定してきたからなんだよな? 実際、義務教育で習うレベルの常識的な歴史の中でさえ、日本は何度となく消滅しかけてる。鎌倉時代の元寇、安土桃山期の南蛮人渡来、幕末の黒船来航、日清戦争、日露戦争……そして、言わずもがなの太平洋戦争とその戦後処理」
「…………」
「もしも、このどこかで俺たちや日本人が踏ん張りきれずにこの国が消滅してたら、今頃どうなってたのか。……問題はここだ」

 家族の連絡用に備え付けてあったホワイトボード。そこにあるペンを手に取り、地球儀の上にある日本列島をざざっと塗り潰す。

「堤塞師の話じゃあ、敵はかなり以前から日本列島をアメリカの領土として組み込むつもりだったらしい。明治維新の最中から工作が進んでいて、第二次大戦の中期には実現する予定だったんだと。人類が核の炎を手に入れるかなり前だ。そうすると……」

 今度は、アメリカとロシア――当時はソビエト連邦だったが、その上に赤いペンで円形のマークをつける。

「資本主義陣営最大の国家と、共産主義陣営の本家本元が直に対峙することになる。冷戦構造の前倒しだよ。でも、そもそも冷戦が冷戦たりえたのは、メガトン級の水素爆弾と大陸間弾道ミサイルがあったからだよな。もし全面核戦争に突入すれば人類そのものが絶滅しかねないんで、絶対に戦いの火蓋を切る訳にはいかなかった。いわゆる核抑止力ってヤツだ。もしこの前提が覆った場合……」

 アメリカとロシアの国境線、ベーリング海のあたりを拳で小突きながら。

「世界の覇権を狙う両国が戦争状態に陥るのは避けられない。第三次世界大戦の開幕だ。人類史上最大、空前絶後の規模で繰り広げられる大戦争になる。勝利を目指す両陣営は国力の全てを兵器開発に注ぎ込み、やがては現実にもそうなった通り原子爆弾が完成、使用される。つまり……」

 アメリカとロシアの上に、大きな爆弾の絵をささっと落書き。

「核を生み出したご当人の頭の上に、核の炎が降り注ぐんだな。まさに天罰」
「…………」
「とは言え、この頃の核はウランやプルトニウムを用いたキロトン級。水爆に比べりゃ威力は三千分の一程度。報復戦になって十発やそこら撃ち合ったところで、世界そのものが滅ぶことはない。どちらの国も領土は広いしな。ただ……」

 今度は、アメリカとロシアを繋げるように、まとめて二重線で囲んでいく。

「二十世紀を代表し、世界を左右する力を持った二つの大国を根本から生まれ変わらせるには、充分すぎる威力だよ。両国の世論が沸騰し、二度とこんな悲劇を起こさないため、人類史に残る三つの大きな教訓を導き出すことになる。一つめ、イデオロギーに関わらずこの世界には軍事大国なんて不要だということ。二つめ、ごく一握りの先進国が富と知識を独占する社会構造は変えなければならないということ。三つめ、核関連技術は封印し捨て去るべきであるということ」

 俺はマジックを置いて、もう一度、地球儀を勢いよく回す。

「結果、世界のありようを左右してきた巨大財閥や軍産複合体は力を失う。どの国も富の集中と過剰な軍備を避けるようになるんだから当然の帰結だな。もちろん核兵器も全廃。現実では半世紀かけて少しずつ進んだ第三世界の植民地解放と民主化も一気に進む。人種差別も綺麗さっぱり解消だ。そして、大量生産と大量消費に頼らない新たな経済概念が生まれ、人類の文明は一段階上へと確実にレベルアップする……。そうして迎えた二十一世紀は、現実の二十一世紀よりも百年先へ進んだ価値観を持っていただろうな」

 回り続けていた地球儀が、だんだんと勢いを失っていく。

「……言い方を変えれば」

 地球儀が、止まる。
 真っ正面に、黒く塗り潰された日本列島が戻ってきた。偶然だけど。

「日本という国は……魔人の干渉を受けずに成立している世界の特異点は、ただ存在するだけで世界の進歩を邪魔してるわけだ。人類そのものに填められた足枷も同然だよ」
「…………」
「なあ結女、これって本当に意味がなくてどうでもいい話なのか? 少なくとも俺はそうは思わない。もしこれを事前に知ってたら、魔人と戦うのを躊躇ったよ」

 マジックを置き、結女の方を見る。
 結女は膝の上で手を組み、俯いたままだ。何も話そうとしない。
 ここまでの話がウソじゃなく、結女自身もそれを知っていたという、何よりの証拠。

「……でもな、結女」

 俺は、結女の側へと歩いていって。

「俺はまだ、この話を完全に呑んだ訳じゃない」

 組んだままの結女の手が、ぴくりと動く。

「ここまでの話を当然知ってるはずなのに、お前は魔人を征伐し敵と戦い続けることを決して辞めたりしなかった。それどころか情け容赦なし問答無用。何故だ?」
「…………」
「日本の政府が俺たちを支援するのは、まだ理解できる。政治家にしろ役人にしろ、国を存続させるために働いてるという点では同じ立場だ。もし真実を知って敵に協力すべきだと考えても、国を滅ぼすような決断なり行動なりをした時点で統治システムから排除されちまう。魔人の方から接触してきて協力を頼まれるか、あるいは自分自身が魔人として選ばれない限り、何もできないんだ」
「…………」
「でも、俺とお前は違う。所属してる組織のしがらみから魔人と戦うことを強制されてる訳じゃない。自分の行動にわずかでも疑問を抱いていたら、三千年も命懸けで戦い続けるなんてできっこない。重荷を背負う時間が延びるだけで得することは何もないしさ」
「…………」
「必ずあるはずだ。俺を騙してでも魔人との戦いに導こうとした動機。お前が心の底から信じてる正義だ。それを聞かせてくれ。もう隠し事はナシだ。……頼む」

 俺は、結女の向かいにあるソファに腰を下ろす。
 結女はなかなか顔を上げない。口を開かない。沈黙が続く。でも待つ。俺からの話はもう残ってない。あとは結女が何を語るか。俺の知らない事実がそこにあるのかどうかだ。
 長いような、短いような、何とも言えない時間が流れる。

 そして。

 結女が深く息を吸い、吐き、顔を上げた。

「私が心の底から信じている正義、と言ったな」

 真剣な顔だった。
 ようやく結女の本心が聞ける。俺が驚くような真実がその口から飛び出してくる。堤塞師の語った正義をひっくり返すほどの力強い話が始まるはず。

 だが結女は、たった一言。

「そんなものはない」

 今度は、俺が絶句。

「ない……? 何も? 嘘だろ?」
「私はこれまで一度たりとも、魔人と戦うことそれ自体を正義だと思ったことはない。そもそも正義というのは、あらゆることに単純明快な答えを欲しがる男たちが生み出したもの。男同士でしか通用しない男の論理だ。それを女の私に求められても、正直、困る」

 頬にかかった長い黒髪を、鬱陶しそうに指先で弾いて。

「もちろん、それが男たちにとって大事なことだというのはわかる。最大限に尊重したいと思う。だがそれだけだ。お前がこれまで延々と繰り広げた政治向きの長い話と同様、右の耳から左の耳へ抜けていってピンとこない。もし正義とは何ぞやという答えがどこかにあるとしたら、それは男であるお前の胸の中だけだろうな」
「ちょ……ちょっと待て! お前は理由もなしに三千年近く戦い続けて、本当は正しいかもしれない魔人を片っ端から殺っつけてきたってのか?! 冗談だろそんな訳あるか!」

 その言葉は、結女を信じればこそ。
 なのに。

「私が戦う理由なんて、とっくの昔に話したぞ」

 溜息。

「あいつらは、私たちと、この国と、日本人が嫌いなんだ。だからあらゆる手を使って嫌がらせを仕掛けてくる。抵抗して何が悪い。私の目から見ればそれが全てだ」
「それじゃ単なる感情論だ! あいつら嫌いだしムカつくからブッ殺してやるって言ってんのと何も変わらねェよ! そんなので戦い続けるなんて間違ってる!!」
「だというなら、お前だって間違っている」

 意味がわからず、俺の眉がひん曲がる。

「この世で起きる大抵の出来事には、それなりに理屈の通った説得力のある説明ができるものだ。それだけで物事を判断すると十中八九、間違った方向にひたすら突っ走って、誰も望んでいなかった結果に至る。結局のところ、人間にとって一番大切なものは、理屈抜きで善し悪しを感じる部分にしか存在しないんだ」
「理屈抜きでも明らかにお前の方が間違ってるだろが!」
「さあ、どうかな?」

 結女は足を組み、ソファの背もたれに背中を預けてふんぞり返る。

「お前はさっき、私を詐欺師呼ばわりしたな。肝心なことを隠すことで上手に騙してきたんだと。だというなら、今のお前も詐欺師ではないのか?」
「……は?」
「学校で一体何があったんだと私が訊いた時、お前は、堤塞師と話していた、としか言わなかった。本当に話していただけなのか?」

 結女が何を言おうとしているのか一瞬理解できなくて、俺は言葉に詰まる。
 でも、その俺を見た結女は。

「……案の定だ。顔に書いてある」

 溜息。呆れるように。

「お前は堤塞師と戦った。そして完膚なきまでに敗北した。ヤツに傷一つ負わせられずに、お前は縛り上げられるなり何なりして身動きできない状態にされた。ヤツと話をしたのはおそらくその後だ。何故そこのところを伏せて話をする?」
「そ、っ……それは、俺の話に関係ないから省略しただけで……!!」
「ふむ。自分でも気付いていないのか。いいだろう。なら私が、お前の本当の心を代弁してやることにしよう」

 組んでいた足を元に戻し、結女は俺の方に身を乗り出すようにして。

「魔人に完敗したお前は、心底怯えてすくみ上がった。こんな強いヤツらと戦うなんて二度とごめんだ、次は絶対に殺される。そこでヤツらはこう言う。正しいの我々だ、お前は間違っている。絶好の逃げ道を用意されたお前はその話に飛びついた。ヤツらと戦わないことこそ正義であると思い込み、私を屁理屈で言いくるめ……」

 俺はドンと思い切り床を踏みしめ大きな音を立て、結女の話を遮って立ち上がる。

「おいちょっと待て勝手に決めんな俺はそんなことこれっぽっちも思ってねェ!!」

 大声で。
 けれど結女は、眉一つ動かさない。

「なるほどな……。つまり、それがヤツらの作戦か。高校の関係者千人を魔人に仕立て上げたのも、このための布石だったんだ。お前に恐怖心と罪悪感を植え付け籠絡、その上で私の元へ帰し、私の戦意をも同時に奪おうとした。お前からの説得なら私の心も揺らぐかもしれんと考えたんだろう。相変わらず狡猾なことだ」

 結女がソファから立ち上がる。

「目を覚ませ、沖継。お前は奴らに利用されているんだ」

 俺たちは無言のまま、しばらく睨み合う。
 かちこち、かちこち。壁にかかった時計の針の音だけが響く。

「……それこそ、結論ありきの屁理屈じゃねェか」

 結女から目を逸らし、背を向け、数歩離れて距離を取る。

「俺たちが邪魔だというなら、殺したいのなら、こんな回りくどいことをする必要はない。あいつらはあの時に俺を殺すことができた。俺がいなくなれば、あとは俺と同等かそれ以下の力しかない結女だけだ。あっという間にカタがつく」
「私はあんな卑怯な連中に負けはしない。絶対に」
「何の根拠もなしに偉そうに言い切るんじゃねェ!! 堤塞師の他にも手練れの魔人が四匹いるんだぞ! ヤツらの特殊能力は互いの欠点を補い合っててどこにも隙がねェ!! 俺たち二人がかりで挑んでも勝ち目なんかゼロだ!」
「……そんなことはない」

 結女が歩み寄って来て、俺の手を握る。

「お前の言い分が正しければ、私の方から先に襲われていたはずだ。だがそうしなかった。何故だと思う? 私を先に殺してしまえば、どんなにもっともらしい理屈を捏ね回しても、お前は聞く耳など持たなくなる。往時の力を取り戻したお前が本気で牙を剥けば、どんなに強力な魔人を束にして差し向けても勝てないかもしれないと、奴らは本気で思っているからだ。敵はお前を恐れているんだ。お前のことが心底怖いんだ。だから策を弄するんだ。外堀を一つ一つ埋めて、お前の動きを封じ、戦意を奪おうとするんだ」
「…………」
「二十年前、お前は確かに負けた。でも紙一重だった。今度は違う。今のお前には、義則が心血注いで作り上げた最高の武器があって、そして私がいる。負けるはずがない。次は勝てる。……絶対にだ」

 訴えかけてくる。懸命に。

 でも俺は、結女の手を、やんわりと振りほどく。

「お前が思ってるほど、俺は強くねェよ」
「…………」
「あいつらは、自分たちこそ正義だと思ってる。本気で信じてる。だから、自分たちの正義が根本から揺らぐような卑怯な真似をしない。弱い者を一方的に嬲り殺したりしない。俺を殺さなかったのも、お前を襲わなかったのも、結局のところはそういうことだ」
「違う。断じて違う。あいつらは……」
「それに、俺が戦いたくないのは、あいつらにビビってるからじゃねェ」
「……?」

 俺は、リビングの壁に目をやる。
 額に入れて飾ってある大きな写真がある。俺が中学に上がる時、家族で箱根へ旅行に行った時のもの。父さんと母さんに肩を抱かれた俺が無邪気に笑ってる。

「ホント、もっと早くに気付くべきだったよ。自分は普通の人間じゃないんだって」
「何の……ことだ?」
「魔人を見分ける目。普通のヤツには見えないものが見える。それを自覚したのは最近だけどさ、別に俺、その時に初めて魔人を見た訳じゃない」
「ひょっとして……私のことか? それは唯一無二の例外だぞ。この能力は本来、同士討ちを防ぐために与えられたもの。全く同じ時に全く同じ能力を与えられ、互いに協力することを前提としている私たちは、そもそも互いの正体を識別する必要がない。言わば自分の半身のようなもので……」
「父さんも母さんも、指輪をしてないんだ」

 家族写真に、手を触れる。
 そこに映った父さんと母さんの手には、指輪がない。

「俺の目には、二人はずっと、指輪をしているように見えてた。指輪が映ってない写真を見つけても、その時だけたまたま外してたのかと思うくらいでさ。でも……結婚指輪にしちゃあ変なデザインなんだよ。禍々しいというか何と言うか、死神が作った呪いの指輪みたいだった。ガキの頃にそれを直接訊いたこともあるんだけどさ、こういうのが父さんと母さんの趣味なんだカッコいいだろ、とか何とか言われて、ずっと誤魔化されてた」

 結女の方を、振り向く。
 眉一つ動かさず、俺の顔を見てる。

「やっぱ、結女も知ってたんだな」
「…………」
「そりゃそうだよな。敵が俺のことをそんなに怖がってるなら、拓海がスパイとして送り込まれるよりもずっと前、ガキの頃に何とかしようと思うだろ。またとないチャンスだもんな。実際、お前には刺客を差し向けて俺と接触できないようにしてたんだし。俺にもちょっかい出してなきゃおかしいよ。例えば……俺が昔のことを思い出しそうになったら、何も変なことはないぞ、あなたは普通の子供よ、ちょっと才能に恵まれただけだ、って繰り返し言い聞かせるとかな」
「…………」
「もし俺が何もかも忘れちまってたら、魔人のターゲットにはなりようがない。年端もいかないガキを一方的にくびり殺すことになっちまう。この世界の守護者だっていう奴らの正義から外れてしまう。それで父さんと母さんは、お前を裏切って……いや、裏切ったフリをして、敵の正義につけこんだ。沖継は私たちの子供だ、ごく普通の男の子として育てたい、戦いと無縁の場所で幸せになって欲しいって」
「…………」
「でも、その言葉はきっと、まるっきり嘘じゃなかった。その頃には俺の記憶が戻る保証なんてどこにもなかったろうしな。だから敵は、父さんと母さんを信じてその願いを聞き入れた。俺を監視し、俺の完全復活を妨げる任を負った魔人になったんだ。でも、もし裏切れば、次の新月の夜には……」
「……私が指示した」

 結女は唇を噛んで、血でも吐くように言う。

「それしか、なかったんだ」
「…………」

 俺は、家族写真の方にもう一度向き直る。
 もう二度と会えない両親の笑顔を、見つめる。

 全く実感がない。涙の一つも出てこない。

 そんな俺の背中に、結女が語りかけてくる。

「ここでもし、沖継が戦うことを辞めたら、二人は無駄死にだ」

 弱々しい声だった。

「無駄死にって言うなら、勝ち目のない戦いに挑んで死ぬのもそうだろ」
「違う、勝ち目はある。今度こそきっと……」
「俺には理由がないんだよ。命を捨てる覚悟で戦わなきゃいけない理由が、何も」
「…………」
「お前さえ、俺の前に戻ってこなきゃ……そう思っちまうよ。どうしても。そうすりゃ、今も父さんと母さんはこの家にいて、これまで通り、元気にやってたんだ」
「…………」
「お前にとっちゃ、こんなのは初めてのことじゃないんだろうな。三千年の間に何度か似たようなことが起きてたはずだ。いちいち心動かされてたらまともに戦っていられない。でも、俺にとってはこれが最初だ。この先何十年、何百年、何千年も似たようなことが続くなんて願い下げだ。お前みたいに考えるのを止めて感情論に逃げ続けることもできない。背負いきれねェよ、重すぎて」
「…………」
「俺を戦わせたいんなら、せめて理由をくれ。絶対に揺るがない正義。それを貫くためなら自分の命も惜しくない、そう思い込めるだけのモノ。それがないと、もう無理だ」

 振り向いて、結女の方に向き直る。
 でも結女は、俺から顔を逸らしていた。

「さっきも言っただろう。正義なんてものがあるとしたら、お前の胸の中だけだ」

 最前の言葉を繰り返して、結女はリビングを出て行こうとする。逃げるように。

 でも、発した言葉そのものは、真摯なものに聞こえた。

「……ひょっとして、結女が戦い続ける本当の理由は、俺の存在そのものなのか」

 ふと思いついたことが、そのまま言葉になった。
 リビングの扉に手をかけていた結女の身体が、硬直した。

「昔の俺がどんな正義を持ってたのかなんて、今の俺は知らないし想像もつかない。わかるのは、今のお前以上に情け容赦なし問答無用だったんだろうってことくらいだ。そしてお前は、夫の方針に従い続けた。少しくらい間違っていると思っても、夫唱婦随、異を唱えることはなかった。俺のことを心底愛して、信じていたから」
「……だから何だ」
「堤塞師はこう言ってた。昔の俺と今の俺は完全に同一人物とは言い難い。昔の俺が三千年近くの長きに渡って重ねてきた罪は、二十年前に一度死んだことによって消却されたと考えるのが妥当だってさ。だとしたら、今の俺が負っているのはここ一ヶ月ほどの過ちだけ。しかもそれは、事情をよく知らない十八歳の高校生が……未成年者が犯した罪だと考えていいんだと。要は無罪も同然ってことだ」
「…………」
「結女についてもそうだ。お前が犯してきた罪の大半は、お前を唆してきた伴侶、つまり昔の俺が負うべきもの。最終的には向こうのボスの判断次第らしいけど、もし結女が今の俺に従うのなら……金輪際魔人と敵対しないと約束するなら、俺と一緒に赦される可能性も……」
「ヤツらに命乞いをしろというのか?!」

 血相を変えて、俺の方を振り返る。

「ふざけるな! 妻である私が夫に全ての罪をなすりつけてたった一人のうのうと生きられるか! それなら力尽くで首を刎ねられた方がまだマシだ!!」
「そうだな。お前にとっては、大好きだった夫を殺した憎い相手だもんな」
「私は絶対に奴らを許さない! 戦うことを諦めない! 絶対に――――」
「一から十まで怨念じゃねェか」

 結女が言葉を詰まらせる。

「その怨念に、これからも他人を巻き込み続けるのか。お前を信じて支援した人が、父さんや母さんみたいな人たちが、大勢の日本人が死んでも構わないってのか」
「…………」
「そんなの、間違ってる。絶対に」

 見つめ合ったまま、暫時。

 そして結局、結女はリビングを出ていった。
 歯を食いしばって怒りを押し殺しているような、そういう顔で。

 でも、その怒りは、俺に向けられたものじゃない。

「……どこまで卑怯なんだ、あいつらは」

 扉が閉まる直前、そんな呟きが確かに聞こえた。


4-6:ただ彷徨うしかなくて

 朝の光が窓から差し込んでいることに気付き、俺は自室で目を覚ます。
 外はいい天気だ。今日は梅雨も中休みらしい。
 喉が渇いた。水が飲みたい。Tシャツに半パン姿のまま部屋を出て階段を降りていく。

 すると、階下の扉が開いて。

『あら沖継、おはよう。今朝は大丈夫だった?』

 悪戯っぽく笑いながら、母さんが出てくる――ことは、ない。

 二度と、ない。

 母さんの幻を振り払い、俺はキッチンへ入る。
 備え付けの浄水器でコップに水を汲む。

『おい沖継、待て待て待て。それはお前のじゃないぞ?』

 背中からの声に驚いて、慌てて手元を見る。確かに父さんのコップだった。
 ごめん、うっかりしてた、と、父さんの方を振り向いて謝ろうとして。

 誰もいない。いるはずがないんだ。

 俺の視界に映るのは、カーテンを閉め切った薄暗いリビングだけ。細く小さく削り取られた帯状の朝日が、テレビの隣に置いてある大きめの棚へと伸びている。

 その棚には、大量のDVDやブルーレイがぎっしりと詰まっている。

 アニメ、特撮、西部劇、時代劇。ジャンルは様々だけど、その全てが強くて格好いいヒーローの活躍する活劇作品だってのは共通してる。不登校児だった小学生の頃、立ち直るきっかけを与えてくれた正義の味方たち。
 だけど、このうち、俺が自分で買ったものは、そう多くない。
 たとえば棚の最上段、初代ウルトラマンのリマスター版と、黒澤明監督の椿三十郎。こんな古いタイトルを平成生まれが自分から観ようとはなかなか思わない。ほとんどは父さんが「おい沖継、これ面白いぞ、観てみろ」って感じで揃えてくれたんだ。
 そして、そのための予算を嫌な顔一つ見せずに捻出し続けたのは、家計を預かる母さんだった。その証拠に、俺が当時テレビの前にかじりついて同じDVDを何度も何度も繰り返し見ていても、母さんは決して俺を叱ろうとはしなかった。

 父さんも母さんも、息子の俺が不安になるくらい放任主義だった。

 でも、俺は本当の意味で放ったらかしにされてた訳じゃない。

 ガキの頃の俺を叱って無理矢理学校に行かせたりはしなかったけど、その逆に、学校なんか行かなくていいぞと甘く優しく許されもしなかった。あの二人は俺のことをよく見ていて、俺が抱えている苦しさや辛さをちゃんと理解した上で、俺が立ち直るきっかけを掴むまで辛抱強く見守ってくれてたんだ。

 あの二人が親でなければ、俺は、正義の味方に憧れたりしなかった。
 今の俺がいるのは、あの二人がいればこそ。

 でも、そんなこと、これまで特に意識したことはなかった。親なんてものはいつも側に居るのが当然だと思ってたから。俺のために世話を焼いてくれて、時には鬱陶しいくらいで、たまに邪魔だと感じて文句を言ってみたりもして、距離を取ったフリだけして、やっぱりそれとなく俺を見守っていて、そのくらい当たり前の存在だと思ってたから。

 それが、もう二度と、会えないなんて。

 この家は、父さんと母さんが元気だった頃と何一つ変わっていない。間取りも、家具も、何もかも変わってない。そのせいで、欠けてしまった大事なピースの形が否応なく浮かび上がってくる。ここにいるはずの両親がいない、もう戻ってこない。何度も何度も目の前に突きつけられる。
 家族と過ごす退屈な時間。俺が生まれて育ってきた日々。それは絶対に変わらない、無くならない。心のどこかでそう信じていたんだと、今更のように気付く。幸せな日常は永遠に続くものだと錯覚していたんだ。人はいつか必ず死ぬ、親が子供より先に逝くのは当たり前だと、理屈ではそうわかっていても、実感なんてなかった。あるはずがない。
 永遠の別れが、家族の終わりが、こんなにも早く訪れるなんて。しかも、二人の命日に気付きもせず、いつの間にか通り過ぎていたなんて。俺の父さんなのに。俺の母さんなのに。これじゃあ、何の関わりもない赤の他人が俺の知らないところで死んだのと何も変わらない。せめて霊感とか、虫の報せとか、そんなものがあるべきなのに。

 何も、なかった。
 なかったんだ。

「……悪い冗談だ」

 俺は、ただ、呟く。
 しんと静まり返ったリビングに、俺の声だけが虚しく響く。

 ただ一人、立ち尽くす。

 泣いてもいいんだけどな、と、まるで他人事のように思う。自分の胸を右手で掴んでみる。悲しさと苦しさと辛さが目一杯に詰め込まれて、物理的な痛みと錯覚するほどで、今にも張り裂けそうなんだけど、不思議と涙が出て来ない。我慢してる訳でもないのに。

 結局俺は、いつも通りに洗面台へ行き、顔を洗い、部屋に戻って着替えを始める。毎日の習慣って恐ろしいな、考える前に手足が動いちまう。

 と、机の上に置いたままのスマホがインスタントメッセージの着信を報せていることに気付いた。取り上げて差出人を確かめる。

 拓海だ。

 着信時刻は午前七時八分――って、ほんの数分前じゃねェか。連絡をくれ、という簡素な内容。一度は返信しようとしたんだけど、途中でフリック入力が面倒臭くなって、通話機能を起動させて呼び出しをかけた。すぐに応答。

『……もしもし、沖継?』
「メッセ見た。何か用か」
『親父に急かされてな。あれから三日も経ってるから』
「わかってる」
『わかってるって、お前、結果はすぐに出るって言ったろ?』
「…………」
『やっぱり、お前は結局、これまで通りに……』
「それはない。こないだ言ったろ。ダチと殺り合うなんて願い下げだ」
『……そうか、良かった』

 本当に、心底安堵したって感じの声だった。

『じゃあ、彼女の……結女って子の方も、説得できたのか』

 俺は言葉に詰まる。

 今、結女はこの家にいない。一昨日の朝、何もかも洗いざらい話し合ったあの夜の翌日、一人で出ていったんだ。しばらく留守にすると言い残して。
 私怨を捨てて三千年来の方針を変えるなんて生半可なことじゃないし、邪魔の入らない静かな場所でじっくり考えたいのか。そう思った俺は特に引き留めもせずに送り出したんだけど、夜になっても戻って来ない。何度か携帯に電話をかけ続けて、ようやく応答があったと思えば『しばらく留守にすると言ったはずだぞ。今夜は外泊する。明日以降はまだわからないが、心配も連絡も一切無用だ』とバッサリ。それっきり端末の電源を落としたのか連絡がつかなくなって、今日まで無為な時間が過ぎてしまった。

 その間、俺は何もしていなかった訳じゃない。ずっと考えてたんだ。どう言えば結女を説得できるのか、戦うことを諦めさせられるのか。
 あいつを戦いに駆り立てている原因は昔の俺に集約するんだから、そこから開放できるのは今の俺しかいない。これは自惚れとか抜きにして単なる事実だろうし、堤塞師だってそう考えたからこそ俺を自由にしてるはずなんだ。

 でも、これならいける、っていう言葉は、未だに見つけられていない。
 今まで拓海と連絡を取らなかったのは、要するに、何の進展もなかったからで――。

『……沖継、おい、沖継。聞こえてるのか?』
「聞こえてるよ」

 俺は溜息を一つ、腹を決める。

「結女の説得に時間がかかってるんだ。もうちょっと待ってくれ。手応えはある。絶対に戦うことを諦めさせて、それから連絡する。だから……頼む」

 もちろん嘘だが、それは現時点での話だ。近いうちに真実にすればいい。

『……わかった、親父にもそう伝える。でも、待てるのは今日いっぱいだ。本当は今すぐでも遅いくらいなんだぞ。早く結論を出せ。これはお前のために言ってる』

 俺は思わず眉を顰める。

「意味わからん。俺は別に明日でも明後日でも困んねェぞ」
『あのな、学校の関係者全員がお前を殺人鬼だと思い込んだままなんだぞ?』
「勝手に思わせとけよ。知ったこっちゃない」
『役所や警察がいくら情報を操作して証拠隠滅をしても、真実を知ってる連中の恐怖や不信感までは拭い去れないんだぞ。人殺しがいる学校に通いたがる生徒はいないし、事情を聞かされた親だって子供の肩を持つ。昨日だか一昨日だかの時点でも百を超える生徒が転校届けを出してて、その後もどんどん増え続けてるらしい』
「いやはや、先生方の困った顔が目に浮かぶな」
『他人事みたいに言いやがって。俺の家にも担任から連絡が来たよ、このままじゃ廃校になりかねないから迅速に対処するって。明日には文科省の役人や教育委員会が集まって話し合いの場が持たれるそうだ。……沖継には絶対話すなって念押しされてるんだが、校長が自分のクビを賭けてでも絶対お前を退学処分にするって息巻いてるんだとさ』
「ああ……それで、今日いっぱいがタイムリミットだってのかよ」

 学歴なんぞどーでもいい、いっそ自分から学校辞めてもいいし、高卒認定試験の制度を使えばいくらでも挽回できる――とか軽く考えてたんだけど。

『退学になって、それで終わると思ってるのか』

 俺の気持ちが言外に伝わったらしい。拓海の口調が急に変わる。

『お前は普通の高校生じゃないんだぞ。もし退学が本決まりしたら、テレビ局やプロスポーツのスカウトが黙ってない。何があったか知りたがるに決まってる。マスコミ関係者があれこれ嗅ぎ回り始めるんだ。もしもそいつらに、お前の正体とか、日常的に銃を持ち歩いてたとか、同級生を一度は殴り殺したとか……そんな情報がちょっとでも漏れてみろ。人殺しだの化物だのって噂話が一生付きまとうぞ。ワイドショーも喜んで食いついてくる。せっかく普通の人生に戻るって決めてもムダになっちまう』
「おいちょっと待て、そりゃ学校の連中を巻き込んだそっちの責任……」
『だから早く結論を出せって言ってんだ。学校のみんなに植え付けた記憶にはあらかじめ安全装置みたいなものがついてて、そいつを使えばここ一週間ぶんくらいの記憶をまとめてゴソッと消せるらしいんだよ。うちの親父が指示を出せば一発だ』

 なるほど、外付けデバイスで与えた記憶データだから、引っこ抜きゃ綺麗さっぱりか。

「じゃあ、その記憶消去を先にやってくれって親父さんに頼んでくれよ。俺はもう結論出してんだから別にいいだろ」
『親父はまだお前のことを疑ってる。口約束だけじゃ信じられやしないってさ。結女って子と一緒に投降するとか、具体的な証拠を示すまでは絶対に手をつけないそうだ』

 ええい、堤塞師め。どんだけ用心深いんだ。

『だいたいな、これも因果応報なんだぞ。以前なら都合の悪い情報なんかいくらでも握り潰せたらしいけど、一ヶ月前、どこかの誰かがマスコミ業界に入り込んだ御使いを残らず駆逐しちまったろ。取れる手段が限られてるんだよ』
「……クソッタレ、そうくるか」

 口ではいかにも悔しそうに言っといた。
 けど、退学になるとか、殺人鬼だって噂が消せなくなるとか、そういう話は無視していいと即断してもいた。罪を犯した俺が負うべき罰だと考えれば諦めもつくし、世界秩序に徒なすつもりのない俺を魔人どもが襲撃しに来る可能性はゼロに等しい。命を脅かされるようなことはまずないだろう。

 今、崖っぷちに立たされてるのは、どう考えても結女の方だ。

 もしタイムリミットまで結女が戻って来なかったら、さすがにもう嘘はつけない。俺が不利益を被ってまで結論を先送りにしようとする理由を問い詰められるに決まってるんで、さっき誤魔化した件を話すしかなくなる。あいつは俺の説得を聞き入れず、ここ数日姿を消してるんだって。
 そうなのか、じゃあ仕方がない、もうちょっと待とう――とか言ってくれりゃいいんだけど、日本を取り巻く世界情勢が堤塞師の予言通りに推移していけば、そんなにダラダラ待ってる余裕はないはずだ。もはや俺と結女は夫唱婦随の関係ではなく、説得は不可能、世界の秩序を維持するためにも不穏分子である結女を早急に排除すべし。敵の側からすればそう判断しなきゃいけなくなる。
 とすると、本気の俺をねじ伏せたあの魔人チームが結女の抹殺へ動くことになる。当然ながら結女は応戦、敗北。けれどその戦いの子細はおろか結果すらも俺の耳には届かない。だって一市民に戻った後だもんな。堤塞師に問い質してもしらばっくれるのが関の山。結女は行方不明のまま二度と戻りませんでしたって事実だけが残る、と。

 以上はあくまで最悪の場合なんだけど、このままだと現実になりそうな予感がひしひしと。囲碁や将棋で言えば三手先には確実に詰んじまう状態だ。正に大ピンチ。

『今日いっぱいだ、沖継。何もかも丸く収めようと思ったら、そこが限界だ』

 その拓海の言葉は真実を言い当てている、そう感じる。

「了解した、なるはやでカタつけるわ」

 俺はスマホを操作し、通話を切断しようとして。

『それと、最後にもう一つ』
「?」
『滝乃のことだけど』
「何だよ、また何か厄介事にでも巻き込まれたのか?」
『今日の夕方に検査があって、それで問題なければ、夜には退院できるって』
「え……あ、そうか。そりゃ、良かった」
『お前、入院中にメールの一通も送ってないだろ』
「…………」
『滝乃は今、精神的に相当キツいはずだぞ。同じ高校に通ってる下級生から人殺し呼ばわりされてさ。俺が見舞いに行った時も相当ヘコんでたし』
「そう……か。そうだろうな……」
『俺だってもう無関係じゃない。御使いの側に居るようなもんだからな。滝乃に心の傷を負わせた片棒を担いでる。だから今後も、なるべくフォローはする。でも、俺は所詮、滝乃にとっちゃただの友達なんだよ。お前と違って』
「…………」
『お前だって余裕ないのはわかってる。だから滝乃も一人で我慢してるんだ。でも、滝乃は普通の女の子なんだ。せめてさ、退院する時くらいは迎えに行ってやれ。これまでみたいにはぐらかしたり、誤魔化したりするなよ。大事にしてやれ。普通の人生に戻るんなら、お前が戻る場所は滝乃のところだけなんだから』
「……お節介あんがとさん」

 今度こそ、通話を切断。
 確かにコノは大事だし、ずっと放っといてすまないと思う。けど、状況的にどうしても後回しにするしかない。気心の知れた相手だからって甘えてるのは重々承知の上だ。

 今はとにかく、結女を見つけるのが最優先。

 あいつにとって一番重要なのは俺との関係だろうし、そこが曖昧なまま遠出をするなんて筋が通らない。まだ近所にいるはずだ。そう見当をつけた俺は、まだ途中だった着替えを済ませ、ジャケットの懐にスマホと財布を放り込む。出かける用意はこれで終了。

 ――いや待て。何かを忘れてる気がする。

 無意識のうちに、腰元と脇の下へ手が伸びていた。
 稜威雄走を持ってない。
 部屋の片隅に置いたズダボロの通学用バッグ。あれの中に入れっぱなしだ。バックを手に取り、中に手を突っ込む。冷たい鉄の感触が指先に触れる。取り出す。

 黒光りする銃を目にして、少しの間、考えて。

「……使わねェよ、こんなの」

 声に出して呟いたのは、自分に言い聞かせるためだったのか。
 俺は机の上に稜威雄走を置き、部屋を出た。


 MTBモドキ号に跨がった俺は、結女が行きそうな場所を思いついた端から当たっていった。あいつが俺のところに転がり込んでから懇意にしてきた洋品店、食事の買い出しに付き合わされたスーパーや商店街、自宅を中心にした半径二キロメートル内にある全てのコンビニ、駅前にある宿泊施設やネットカフェ。
 でも、ここ数日に限ると、結女はどこにも立ち寄っていなかった。手がかりナシ。

 だんだん不安になってきた。

 もしかして結女の奴、征伐に出たのか? 俺に見切りをつけて、戦後最大のピンチを迎えてるこの国を救うべく一人で行動を起こしたとか?
 もしそうなら、チャリで移動できる範囲には居やしないんだが。
 心を落ち着けて、その可能性を考え直す。

 ないな。絶対に。どう考えても征伐には行ってない。

 日本の政界や財界、マスコミ各社に潜り込んでいた魔人はおおむね駆逐しちまったんだから、今は戦う相手を探すだけでも一苦労。もし重要な任務を帯びた影響力の高い魔人が国内に残ってるとしても、そいつに異変があれば堤塞師の耳に届く。拓海の奴が連絡を寄越してきて、今日一日待ってるから、なんて言うワケがない。
 そもそも今、日本を苦境へ追い込んでいるのはアメリカや中国などの諸外国だ。その裏にはそれなりの数の魔人がいて有形無形の工作を仕掛けてるんだろうけど、日本政府のフォローが利かない場所で魔人に戦いを挑むのはさすがに無茶だろ。俺がこれまでに見た夢の中でも、海外を舞台にしたシーンは一度も出てきたことなかったしな。
 それに結女は、俺が相談もなしに一人で鍼医者と戦った後、烈火の如く怒ってた。その本人が俺に黙って海外まで足を伸ばして征伐を行うはずがない。

 じゃあ、あいつは今どこに? しかも二泊できる場所って?

 ダメだ、ちょっとやそっと考えたって全然わからん。

 気がつけば、もう正午を過ぎていやがる。

「……クソッタレ、午前中をムダにしちまった」

 道路脇に停めたMTBモドキ号に跨がったまま、苛立ち紛れにハンドルを叩く。頭を抱える。気ばかりが焦る。

 こりゃもうダメだ。俺一人じゃどうにもならん。人手がいる。

 警察や探偵に頼むか? いや、事情を説明したり書類を書いたりしてる間に一日が終わっちまうのが関の山だ。かといってダチの拓海は頼れないし、コノはまだ病院だし――。

「あン? 沖継さン? ……そこに居るの、沖継さンッスよネ?」

 急に、誰かが声をかけてきた。

 顔を上げる。声のした方を見る。

 車道を挟んだ向こう側に、バイクショップのロゴが貼られた軽トラック。そこに故障車らしき原チャリを積み込もうとしているのは、ツナギを着た店員らしき男性。こっちをじっと見てるってことは、さっきの声の主はこの人か?

「ああっ、やっぱ沖継さンじゃねッすか! 俺ッスよ、俺、俺!!」

 店員さんがずいぶん親しげに笑いながら、軽トラの荷台に飛び乗りぶんぶん手を振ってアピールしてくるんだけど、いやあの、俺はお兄さんのことなんか知りませんけど。おたくの店でバイクとか買ったこともありませんし。

 いや待てよ。
 お兄さんの顔、というか、微妙に歪んでるその鼻、見覚えがあるぞ?

「ちッス! こないだの廃工場以来ッスね!」

 車の切れ目を見極めて車道を渡ってきたお兄さん、もとい、鼻曲がりのリーダーが、被っていた帽子を脱いで俺に深々と頭を下げる。

「お前……どーしたんだよ、その頭」

 先月は面白ユカイな髪の色と髪型だったのに、今は真っ黒の五分刈りなんだよ。どこから見たってバイク屋さんの真面目な店員だ。

「就職したんスよ。つッても試用期間中で、まだバイトみたいなもんスけどね。ほら、ここ最近、急に景気よくなったじゃねッスか。俺みたいにろくずっぽガッコ行ってないボンクラでも雇ってくれたンスよ。だせェ頭とか言わないで下さいヨ?」
「言わねーっつの。むしろ今まで見た中で一番カッコいいよ。いやー、まさかお前がカタギになってるなんて夢にも思わなかっ――――」
「? 沖継さン? どーかしたンスか?」
「なあ、リーダー」
「はい?」

 俺は、鼻曲がりのリーダーの前に両膝をつく。土下座の構え。

「ちょ、ちょっ?! 沖継さン何してンすか?! 頭上げて下さい!」
「無茶を承知で頼む! お前の知り合い、友達、後輩、誰でもいい! ヒマしてて今すぐ動けそうな奴に片っ端から声かけて一人でも多くかき集めてくれ! この通り!!」




 国道沿いにある、そこそこ立派なバイクショップ。
 店長さんの計らいで特別に店の中へ入れてもらった俺は、厚かましくも本革張りの接客席に腰を下ろし、机上に置いてあったチラシの余白にひたすらボールペンを走らせていた。

「沖継さンって、すッげー絵ぇ美味いンスね……。将来は画家にでもなるンスか?」

 店内の自販機からコーヒーを買ってきたリーダーが、俺の手元を覗き込む。

「世辞にもなんねェよ。これくらい、ちょっと訓練すりゃ誰でも描ける」

 デッサン取れてて正確なだけの面白くも何ともない似顔絵を描き上げ、コーヒーを受け取る代わりにリーダーへ手渡す。

「名前は結女。俺の妹みたいなもんだと思ってくれ。身長は百五十センチにちょっと届かないくらい。多分、市内かその近辺にいると思うんだけど」
「すっげェ美人じゃないスか。こんな可愛い妹さンが居るとか羨ましいッスワ」

 リーダーが携帯電話を取り出し、カメラ機能で絵を撮影。画像データをメールに添付して不良仲間に一斉送信。

「んンー……。すぐ動けるって返事あったのは、四……いや、五人くらいス」
「そっか、そのくらいか……いや、それだけでも充分……」
「あ、四、五人っつッっても、コイツら元幹部の取りまとめ役なンで。その下に最低でも十人や二十人はぶら下がってッスから。まァ百人くらいは動くはずッス」
「そんなにかよ! ありえねェだろ! 平日の真っ昼間だぞ?!」
「平日とか休日とかカンケーねッスよ、ニートとかフリーター崩れのロクデナシばッかなんスから。お前らも俺を見習ってマトモな仕事探せッつッてんスけどね」
「まだ試用期間のくせによく言うよな……。まあでも、助かる。心強いよ」
「人捜しなんかやったことない素人のバカばっかだから、お役に立てるかどうかは謎ッスよ。ただ、どいつもこいつもヤル気パネェんで、ひょっとしたらひょっとすッかも。なんせカイザー直々の頼みだから」
「……何だよカイザーって」
「沖継さンのことッスよ。ちょっと前はキングとかレジェンドだったンスけど、それじゃ足りねェだろって。俺らの間じゃそれくらい偉大な人ッスから」
「勝手に恥ずかしい名前つけんなよ……」

 ここで店長さんらしき人が声をかけてきて、リーダーとやりとり。仕事がつかえてるっぽいな。邪魔になんないうちに早めに退散しよう、とか思いながら、もらったコーヒー缶のタブを開けて口をつける。

「でも、ホント、嬉しかったッスよ」

 俺の方を向き直ったリーダーが、笑顔で言う。

「? 何が」
「沖継さンが俺らを頼ってくれるなんて。みんないつか恩返ししたかったンすヨ」
「お礼参りの間違いだろ?」

 冗談交じりに返すと、リーダーは真面目な顔をする。

「沖継さンが居なかったら、俺ら全員、ロクな死に方してねェスよ。マジで感謝してるンスから。あンたは俺よかだいぶ年下スけど、俺は親父みたいなモンだと思ってッス」
「無茶苦茶言うなよオイ。本当の親御さんが泣くぞ?」
「実の親とは高校中退した時に縁切れてッスよ。てめェなんざ息子でもなんでもねェって、死ねクソが面汚しだッつッて、面と向かって言われてッスから」
「…………」
「これでも中坊ンときまでは真面目だったンスけどね。サッカー小僧で。弱小チーム引っ張って全国まで行ったこともあンスよ。今ンとこ唯一マトモに自慢できるコトっスわ。高校もソレで入って。私立の強豪に特待生。でも、そこで」

 照れ臭そうに、リーダーが頭を掻く。

「いじめに遭ったンスよ。三年生は神、一年坊は奴隷みたいな。どこにでもあることだし、ある程度覚悟はしてたんスけどね、心底ろくでもねェのが二、三人いて。中坊までお山の大将だったから我慢できなくて、部のヤツ全員ボコって何人か死にかけて」
「全員って、おい」
「見て見ぬフリしてるヤツも許せなかったンスよ。ガキみたいな正義感だけは人一倍で」

 簡単に笑い飛ばせるのは、もう、遠い過去のことだからか。

「サッカー業界って、幼稚園のガキどものお遊戯みたいな弱小クラブでも、地域のプロやユースの育成組織とかとガッチリ繋がってンすヨ。暴力事件起こして鑑別所行ったようなヤツに戻る場所なンてどこにもねェ。完全にドロップアウト。けど、俺は全然後悔してなくて……今思えばイキがってただけッスけどネ。イイ子ぶってガッコでヌクヌクしてる連中とか大人とか全部クソクラエって。ソイツら見返してやンよ、本当は俺ってスゲェんだぜって見せつけてやンヨって。ンで、コレっス」

 リーダーが器用に足を使う。格闘技のキックのようでもあり、サッカーのフェイントのようにも見えた。いや、リーダーにとってはどっちも大差ないのか。

「気に入らねェヤツを片っ端から蹴ってッたンスヨ。テッペン取ってやるとかゼッテェ負けねェ気持ちとか、喧嘩もサッカーも必要なモノは一緒ッスからネ。身体一つで這い上がって、何十人ってチームつくって、そいつら連れて別のチームと殺り合って。そのうちに武勇伝が一人歩きして、街歩いててもイカツいB系のヤツとか俺にビビって頭下げてくンすよ。ライブハウスやクラブの揉め事カタしてカネ巻き上げて、わりかし羽振りも良かったし。気持ちいいッすわ正直、ここまで行けンのはそうそういねェだろって。俺の中で第二次黄金期が来たと思ってたッスもん」
「暗黒期の間違いだっつーの。ろくでもねェにも程があるわ」
「ハハハ、確かに。でも、それを教えてくれたのは、沖継さんだけッスよ」

 ニコッ、って。子供みたいに無邪気な顔。

「実の親は捨て台詞一つ吐いただけ、何もしてくンなかった。でもあんたは、俺をブン殴ってでも止めに来た。お前ら間違ってンよって。喧嘩に負けるだけならまだしも、その後に正座させられて説教食らったのは、後にも先にもあれっきりッス」

 当時のことを思い出したのか、微妙に歪んだ鼻を指先で撫でながら。

「それでやっと、俺、目ェ覚めたんスよ。サッカーだったら、国立行って、プロになって、ひょっとしたら世界まで。足を使えば使うほど、上へ、上へ。うまく登って行けりゃア最後は神様にもなれる。でも、そこらでバカ相手に喧嘩やってても何もねェんスよ。足を使えば使うほど、下へ、下へ、底なし沼に落ちてって、最高に上手く行ってもヤのつく自由業。下手すりゃ一生消えない十字架背負って地獄行き。ほンと間違ってる」
「…………」
「ンでも現実問題、じゃあ喧嘩やめてチーム解散ってワケにもいかねンスよネ。サクッとガッコ戻ったり就職したりできるなら、俺らそもそもドロップアウトしてねェンスから。行く場所なンかどこにもねェ。まとめてねェと何しでかすか。ンで、みンなが興味のありそうなこと考えて……ちょうど去年くらいスかね、試しにバイクのチーム作ってみて」
「おいおいおいおい、喧嘩が暴走族に変わっただけかよ」
「ンにゃ、メインは月イチペースで行くサーキット。俺は正直全然ダメなんスけどね、後輩にセンスあるヤツがいて。バカみたいに早いんスよ、今度紹介します。あいつなら多分プロいけますワ。そいつ中心に体制組んで、みんなで応援してやろうゼって。バイトやったり整備習ったり。俺が就職できたのも、ここの店長と知り合いになれたのが縁で」
「そんなことになってたのか……。全然知らなかった」
「ホント、何もかも沖継さンのお陰ッスよ。あンたがいたから、身体張って止めてくれたから、俺もみンなも目ェ覚めたんスから。マジで感謝してンスよ?」
「…………」

 胸の中が、もやもやする。
 俺にとっては、正義の味方ゴッコの延長線上。今にして思えば恥ずかしい過去。
 でも、このリーダーは、そのお陰でみんな救われたなんて言うんだから。

「……感謝なんか、要らねェよ」
「?」
「俺もガキだったんだ。バカだったんだよ。狭い世界しか知らなくて、自分は正しいと思い込んでて、好き勝手やってただけだ。リーダーとちょっとベクトル違うだけで」

 思わず呟くと、リーダーは豪快に笑い飛ばして。

「何言ってンスか、その『ちょっと』が大事なンすよ。男なんてみんなガキみたいなもンなンスから。いくら歳取ったって根っ子ンとこは何にも変わりゃしねェスよ。俺なンかもう諦めてッス。チーム作ってみンなでテッペン取ろうゼって、結局ンところは昔ッからなンも変わンねェ。多分死ぬまでずっとこの調子ッスよ」
「…………」
「ガキでなくなったら、つまンねェスよ。俺はガキじゃねェなんてヤツがもし居たら、ソイツ絶対、胸ン中の大事なもの無くしてッスわ」

 リーダーは、本当に、軽い気持ちで言ったんだろうけど。
 一瞬、俺の息が止まった。
 でも、何にショックを受けたのか、わからなくて。

 考えようとしたんだけど、店の奥が急に騒がしくなった。

「おい、大変なことになってるぞ」

 店長さんが他の店員を連れてやってきて、接客スペースの一角に置いてあった大型液晶テレビのスイッチを入れる。ニュースの速報。中国の有名な指導者の一人が暗殺されたらしい。彼は日本との関係改善に尽力していて、暗殺された時も日本の大使館に極秘で向かっている最中だったとか。中国側はこの暗殺劇が日本側の陰謀だと主張していて、宣戦布告も同然だの、近々大規模な軍事的報復を行うだのと息巻いているようだ。

「……政治とかよくわかンねンすけど、これ、やッぱ戦争になるンスか」

 リーダーが呟くと、店長さんが「さすがに今度はヤバそうだな」と返す。
 でも、俺は知っている。こんなのヤバくも何ともない。

 堤塞師の予言通りだ。

 あのおっさんは言っていた。近日中に日本と中国は戦争状態に陥ることになるだろうって。けれどこれはシナリオありきの八百長試合。犠牲者なんてほとんど出ない。予定されている大規模な武力衝突は多くて三回、長引いても一ヶ月程度。中国には民主化を望む勢力や弾圧されてきた少数民族がたくさんいるんで、これが開戦後間もなく魔人たちのバックアップを受けて武装蜂起するんだとさ。中国国内は内紛状態に陥り、一党独裁体制が終焉、アメリカやロシアが介入して強制的に停戦だ。
 これは日本側から見れば不戦勝も同然だけど、勝てば万事OKというほど今の世界は単純に出来ていない。現政府は開戦に至る決定的な原因を作ったとされて内外から非難囂々、内閣総辞職、現在の与党は記録的な大敗を喫する。その代わりに政権の座に着くのは、今のところ影も形も存在していない新政党だ。その代表はもちろん魔人、ないし、魔人の息がかかった人物。そしてこの国は、以前の日本とは全く違う別の国に変貌する。一世紀ほど時間をかけて、日本という国そのものをゆっくり消滅させていくんだ。
 敵のボスと魔人たちが望むのは、あくまで世界秩序の維持と人類全体の進歩。世界有数の経済大国になっちまった日本がいきなりブッ倒れたら世界中が大混乱に陥っちまう。ンなこたァ奴らも望んじゃいない。変化は少しずつ、当たり前のように進んでいく。

 一市民にとっては、何もかもが、与り知らぬ雲の上での出来事。
 だから、店長さんも、リーダーも、心配しなくていいんだ。

 それでも、強いて気がかりな点を挙げるのなら――魔人たちの活動を邪魔する不穏分子によって、周到に用意されたシナリオ運びが破綻してしまうこと。その一点のみ。

 だから、堤塞師は結論を急いでる。
 同じように、俺も焦る。
 早く結女を見つけないと、説得しないと、取り返しのつかないことになりかねない。

「……このままだと、鈴鹿の四耐も中止になるンすかね」

 急に、リーダーが俺に話を振ってきた。

「鈴鹿サーキットの四時間耐久レースっスヨ。今年は参加しようと思って年明けから用意してンす。どいつもこいつもコレに人生賭ける勢いで頑張ってンのに……」

 いや、そんなこと俺に訊かれても。

「せっかく上がり始めた株価も、また一気に下がり始めたしな」

 今度は店長さん。

「昔と違って、今は戦争が起きても特需なんて起きないらしい。今朝の朝刊に書いてあったよ。バイクなんて趣味の乗り物だし、これ以上景気が悪くなると、業界そのものの息の根が止まりかねん。うちの店どころかメーカー自体が倒産するかもな。どれだけ大勢の人生が狂うやら……」

 俺は何も言えず、黙り込む。

 雲の上の出来事も、地上に影響を与えるんだ。雨が降り、雷が落ちて、地を這う虫や名も知れぬ草を根こそぎ焼き払うこともある。

 そんなの、当たり前なのかもしれないけれど。

「つーかさ、リーダー、お前の携帯鳴ってないか?」
「へ? あ、ホントだ、ちょっとすンません」

 ツナギのポケットから携帯を取り出しつつ、リーダーが場を離れようとする。
 でも、携帯を開いて応答した直後に足を止めて、俺の方を振り向いてきた。

「えっと……沖継さン。妹さん、見つかったらしいス」

 思わず俺は目を丸くして「はやっ!!」と叫んでしまっていた。


4-7:それを奇跡と俺は言う

 こんなに早く結女が見つかったカラクリは、大雑把に言うとこんな感じ。

 一ヶ月前に俺とリーダーが廃工場で大立ち回りをやらかした際、一緒に奮闘していた下っ端の一人が棒きれで殴られて二の腕を骨折したらしいんだ。そいつのギプスはまだ取れてなくて、昨日、検診で総合病院を訪れたんだとか。
 その時、廊下で、花束を携えた物凄い美少女とすれ違った。
 下っ端は「うわっなんじゃこの可愛いコ」とほとんど反射的に呟いてしまい、それが美少女の耳にも届く。彼女は優雅に振り返ると、輝くような笑顔を見せて。

「有り難う。君もなかなかハンサムだ。しかしその口の軽さは玉に瑕だな」

 こう言い放ったそうな。
 自分よりはるかに年下とおぼしき少女から鮮やかに切り返されたものだから、下っ端の脳味噌に彼女の姿が焼き付いたのは当然の帰結。んで翌日、自分が所属してる不良チームのまとめ役からその美少女ソックリの似顔絵が送られてきてビックリ仰天。慌てて病院に飛んでいき、受付嬢や看護師に訊いてみたら、彼女は今日も病院に来ていることが判明した――とまあこういう訳だ。
 間違いない、こりゃ絶対に結女だ。あいつ以外に誰がいる。

 でも、どうして病院に?

 いやま、結女がそこで何をしていたのかについては、いちいち説明するのもバカらしいくらい自明なんだけどさ。花束を持って病院に行く理由なんて二つも三つもあるわきゃないんだし。でも、だからこそわからない。結女は何故そうしようと思ったのか。どうして俺に黙って行ったのか。

 ひょっとして、俺、行かない方がいいのかな。

 根拠なんか全くない唐突な直感がふと脳裏をかすめたんだけど、理屈で考えても行くだけムダなんだ。あんまりにも早く見つかったんで結女を説得する方法とか全然考えてないんだから。でも、結女が病院を出て行方不明になったら今度こそ手詰まりだし――。




 結局、ノープランのまま来てしまいました。
 芳沢市中央総合病院。
 入口付近に掲げてあった院内の見取り図をざっと確認、十階建ての鉄筋コンクリが二棟も連なる大病院の敷地内を歩き回って、外科の入院患者がいる八階の一般病床に入る。

 と、すぐ目の前にナースステーション。

「あの、すみませ……」

 受付用の小さな窓越しに声をかけようとした途端。

「あっ、あなた、源くんでしょ? 源沖継って、そうよね?」

 書類の整理をしていた看護師のおばさんが即座にリアクション。
 えっと、何で俺の名前を知ってんですか?

「ああー、なるほどねぇ、こういう感じの男の子かぁ。これは納得」

 何をどういう感じに納得したんですか?

「あ、ごめんなさいね勝手にお喋りしちゃって。お見舞いに来たのよね? えっとね、そっちの通路を右に行って突き当たりを左、三つ目にある808号室よ」
「……どうも」

 この病院で一体、何が起きてるんだ。
 知りたいような知りたくないような複雑な気持ちで、とりあえず看護師さんに言われた通り歩き始める。目指す808号室が見えてきた。二人部屋みたいだけど、入り口の脇に掲げられたネームプレートには「滝乃コノ様」と一人分の名前しか書き込まれていない。
 そして結女は、一昨日、昨日、そして今日、三日連続でここへ見舞いに来てるという。

 有り得ない話だ。疑問だらけで全く腑に落ちない。

 とにかく自分の目で確かめよう。病室の出入口に近付いていく。こういう場所の扉は原則開けっぱなしだから、廊下からも中の様子が丸見えだった。

 どうなってんだ、こりゃ。

 コノがいる。結女もいる。中にいるのは間違いなくあの二人だ。そのはずなんだ。
 でも、でもさ、でもでもでもでもでもでもでも、何なのコレ。

 俺は目の前の風景が現実だと信じられず、暫し呆然と立ち尽くす。

「あれっ、沖継くんだよね? 来てくれたの?」

 俺の存在に気付いたのは、コノの方が先だった。入院患者らしく病衣を着て、ベッドの縁に座ったまま声をかけてくる。
 んで、そのコノの向かいにあるパイプ椅子に、襟ぐり広めのTシャツにジーンズ姿の結女が背中を向けて座ってるんだけど。

「沖継……? 何だ、お前まで来たのか」

 首だけを捻って振り向いた結女の表情は、拍子抜けするほどフツーな感じ。
 いやもう、それが信じられん。んな馬鹿な。有り得んわ。

「……お前ら、何してんだ」

 極めてシンプルな質問を投げかける俺。

「えっ? 何って?」
「見ての通りだが。わからないのか?」

 二人の返答も超シンプル。
 ええ、そりゃ見ればわかりますよ。コノがヘアブラシを手に持って、結女の長い髪を梳いてあげてたんでしょ。そんでもって二人仲良く他愛のないお話で談笑なんかしちゃって。ほんと綺麗だねー天使の輪がくっきりだよーどうやってお手入れしてるのー、大したことはしていないぞここ百年ほどは椿油を使っているくらいだな、あっそれ名前は知ってるよー今度私も使ってみよっかなー、みたいな。
 これが仲睦まじい姉妹や女友達なら俺も驚かねェよ。でもな、結女とコノだぞ。視線が合えば火花が散って暗雲立ちこめ迅雷疾り竜虎相搏つ感じになっちゃう不倶戴天の敵同士だったろうが。おかしいだろこんなのお前らいつの間にそこまで仲良くなったんだ?!

「っていうか何だよコノ! 何でお前はそんなに笑顔で元気そうなんだよ!」
「……何で怒ってるの沖継くん。そこはむしろ、良かったなー順調に回復してるみたいで安心したぞー、とか言うとこじゃないの?」
「ついこないだシャレにならん事件があったばっかなんだぞ?! もっとこうどよーんとして落ち込んでナーバスでブルーな感じじゃなかったのかよ?!」
「ああ、うん、入院した最初の日の夜は、そんな感じだったけど」

 ヘアブラシを、手の中で弄びながら。

「寝ようと思っても寝付けなくて、頭から湯気が出るほど必死で考えてたの。あの下級生の子に……私を人殺しだって言ったあの子に、どうやって謝ったら許してもらえるかなって。でもね、何度考えても、私、あの時に何も悪いことしてないんだ」

 悟ったような顔で、苦笑して。

「一歩間違ったら死んでたのは私たちの方だよ、あの時は考えたり迷ったりするヒマなんかなかったもん。沖継くんはあの時、一番いい選択をしたと思う。邪魔にならないように必死でついていった私も、よく頑張ったって自分を褒めてあげたいくらい。同じような状況になったら、私たちはきっと、何度でも同じことをすると思う。……私、何か間違ったこと言ってるかな?」
「い、いや、何も、間違って、ません、ケド」
「だよね? だったらもう、考えるだけムダじゃない。堂々としてるしかないよ。どんなに恨まれても、誰に何と言われようと」

 言い切りやがったよ。一時は罪悪感で死にかけてた奴の台詞とは思えん。

「どうせ向こうから近付いてくることはないだろうし、何か嫌がらせしてくるとしてもどんと来いだよ。私、女子からの逆恨みやいじめや陰口なんて日常茶飯事だしね!」
「え、えっと……。何ともコメントし辛いデス」
「それにね、私たちの高校生活、あとどれだけ残ってると思う? 三年生は来年一月から受験や就職の準備で自主学習、登校の必要なし。ここから夏休みと冬休みを差し引いたらせいぜい五ヶ月くらいじゃない。誰に疎まれようが学校が渋ろうが、ド厚かましく開き直って居続けてやるんだ。卒業証書を一枚ぶんどるくらい楽勝だよ!」

 唖然。何なんだコイツの意味不明なパワフルさは。

「コノ、お前……いつの間にそんな逞しくなった……?」
「元からヤワじゃないつもりです。でなきゃ沖継くんの友達なんかやってられないもん。それとも、ウジウジ引きずってベソかいてるべきだった? そっちの方が女の子らしくて可愛かったかな? 何なら今からでも改めるよ?」

 だからコメントし辛いんだっつーの。苦笑しながら頭掻くしかねェじゃん。

「ふ……ふふっ、はは、はははっ」

 急に結女が笑い出した。

「なるほど、そうか、なるほどな……ははっ、まさに腐れ縁か……ふふっ、なるほど、よくわかった、いいぞ、これは面白い。沖継、お前はつくづく人の縁に恵まれているようだ。うむ、仲良きことは美しきかな、だ」
 えっ? 何だよそれ、そんなとこで笑ってたの? 今まで俺とコノがちょっとでも仲良さそうな気配見せたらプリプリして怒りまくってたのに。ひょっとしてお前、結女に似てるだけの別人じゃねェよな?
「ただな、沖継。私は一つだけ、どうしても言いたい」
「? 何だよ」
「お前、それがガールフレンドを見舞う態度なのか?」
「へ……?」
「やれやれ、まるで気付いていないのか……。なあノッコ、男というのはつくづく気が利かない生き物だな」

 ジト目で俺を睨みながら結女が口を尖らせる。ノッコって何だ?

「どしたの結女ちゃん、何言ってるの?」

 コノが平然と受けてるんだけど、まさかノッコってコノの愛称なのかよ?!

「沖継をよく見てみろ。よりによって手ぶらだ。花束のひとつも持ってない」
「あららら? ほんとだー。えーちょっと沖継くーん、それはないんじゃない?」

 はっ。完全に失念してた。常識的に考えてもちょっとどうかと思うぞ俺。しかしこっちにだっていろいろ事情があったわけでして、しどろもどろになりつつも「いやその、そこまで頭が回らなくて」と弁明しようとしたんだけど。

「心がけが足りんぞ、沖継。男として恥を知れ」

 結女様にバッサリ一刀両断されました。はい、すみません。いやその前に頼むから俺の話を聞いてくれませんか。今は本当にそれどころじゃなくて。

「大丈夫だよ沖継くん、私はそんなのぜんっぜん気にしないから! あ、でもね、この病院のすぐ近くにお菓子屋さんがあったような気がするなー、ベリー類をてんこ盛りにしたタルトとかすっごく美味しそうだったなー」

 俺が口を開こうとする度に、脳天気なコノの声に邪魔されまくり。

「聞こえたか沖継、ノッコは甘味をご所望だ。ああそうだ、ついでに私にも。モンブランでもシュークリームでも何でも構わないぞ。理想を言えばプリンがいい」

 結女まで悪ノリしてきやがった。何か頭痛がしてきたぞ。何でだろ。あ、こめかみに青筋が浮いてるせいだな。納得。

「あっ、あのなあ! おまっ、このっ、おっ、俺がどんな思いで……!! 朝から必死こいてそこら走り回ってなあ!! 人に頼んで捜索まで……!!」
「はいはいわかったわかった、そういう込み入った話は後で聞くから沖継は早くケーキを買いに行……いや待て。ノッコ、お前は今日の夕方に退院だったな?」
「うん、そうだけど」
「ならケーキはその時まで取っておくか。ついでにオードブルやら何やらずらりと揃えて、夕飯ついでの全快祝いパーティにしてはどうだ?」
「何で結女はそこまで徹底的に通常運転なんだよ少しは俺の話を聞け!」
「ああっ、それいい! この三日ずっと味気ない病院食でうんざりしてたの!」
「コノはちょっと黙っててくれっつーかそんな簡単に結女の話にノるなよ頼むから!」
「そう言えば先月、沖継くんの誕生日パーティもウヤムヤで流れちゃってるよね? あの時のフォローもついでにしちゃえばいいんじゃない?」
「うむ、いいアイデアだぞノッコ。思い立ったが吉日、善は急げだ」
「お前の辞書には拙速とか早合点って言葉は載ってねェのかよ! 二人だけで勝手に話進めんな! 今の俺はパーティなんか呑気にやっていられる気分じゃねえっつーの!!」
「だからこそだ」

 急に、結女が真面目な顔をする。

「今日は何が何でも宴席にするぞ。心の底から楽しもう」

 結女が椅子から立ち上がる。コノの向かいにある空のベッドへすたすた歩いていき、そこに置いてあった荷物をまとめて――ってお前まさか昨晩ここに泊まってたのか?!

「行くぞ沖継、買い出しだ。手伝え。仕込みの手間を考えるともう時間がない。可能な限り豪華な料理を一品でも多く作ってみせる。腕が鳴るな」
「お、おいちょっ、結女、おい!」
「ノッコ、家に戻って落ち着いてから源家に来るといい。七時の約束で」
「うん、大丈夫だと思う。もうじき先生が抜糸に来るはずだし」
「抜糸っておいちょっと待てどういうことだよコノお前もうそんなに治ってんの?! 手術してからまだ三日くらいしか経ってないだろ?!」
「帝王切開も三日で抜糸するらしいよ?」
「そんな女体の神秘っぽいトリビアなんか別に聞いてねえよ! だいたいお前の場合は動脈までイッちまってたろうが血がピューッって出てた上に一度は心臓まで止まってたんだぞあれが三日で完治するワケあるか!!」
「手術しようとした時にはもう動脈の傷は塞がりかけてたんだって。沖継くんが適切に止血してくれたお陰じゃないかな。結局、埋もれてた銃弾の破片を取って、二針か三針くらい縫っておしまい。傷そのものは笑っちゃうくらいちっちゃいの。何なら見る?」
「前ボタンを外すなバカタレ見えちゃいけないものがいろいろ見えるだろうがいや今は見えてないけどいいから早く仕舞え! つーかたった三針とかそんなん手術が終われば日帰りコースじゃねェかよ何で今まで入院なんかしてたんだはた迷惑で大袈裟な!!」
「よくわかんないけど、お医者様は判断が難しい傷だって言ってたよ。癒着しかけてた動脈の内側に血栓が出来てたら、それが剥がれて血流に乗って、身体のどこかで梗塞が起きるかもしれないし、とか。もし後で内出血したら切開して血管縫合しなきゃいけないし、とか。経過を観察しながら万一に備えて……とか話してる間に結女ちゃん一人で行っちゃったみたいだけど大丈夫?」
「なにいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ?!」

 言われて慌てて周囲を見渡すと、確かに病室の中から結女の姿が消えていた。ああもうあいつはどんだけ俺のことを振り回せば気が済むんだよコンチクショウめ!

「私のことは気にしないで、結女ちゃんの方に行ってあげて」

 コノが苦笑しながら促してくる。そのお陰で、地団駄を踏みながら同じ場所をぐるぐる回っていた俺は冷静さを取り戻した。

「すっ、すまん、今来たばっかなのに……」
「どうせ私のお見舞いはついでなんでしょ? 結女ちゃん探しに来ただけで」

 ぎくっ。

「いや、その、本当は夕方に……結女と関係なしに、退院前には来るつもりで」
「はいはい、わかってます。来てくれただけで充分だよ」

 早く行ってと言わんばかりに片手をひらひら。物わかりのいいヤツで助かる。
 俺はコノに背を向け、病室を飛び出す。

 その時、唐突に。

「私とは、いつでも会えるんだしね」

 病室に残ったコノが、ぽつりと言った。

 何でもない言葉みたいだけど、何故か物凄い違和感があった。俺は病室の方を振り返る。でもコノは「ん? どうかした?」みたいな顔でこっちを見ているだけ。

「おい沖継! 何をしている! 時間がないと言っただろう!」

 廊下の彼方から結女に呼ばれた。ああもう病院で大声出すなよ何考えてんだっ。




 家の近くのスーパーで。

「……あのさあ、結女」

 精肉売り場で鶏手羽を吟味している結女に話しかけてみたが、返事はない。俺が押しているカートに手羽を放り込むと、調味料が並んでいる棚の方へ無言のまま歩き始めた。
 俺は仕方なく、カートと一緒にその後ろをついていく。

「なあ、おい、結女ってば……」
「後にしてくれ。今は会話に割く労力も惜しい」

 ミル付きの黒胡椒と鷹の爪を取ってカートに放り込み、結女はまた別の売り場へ歩き出す。料理の準備に全神経を傾けてるのは見りゃわかるけど、そもそも今はこんなことやってる場合じゃないんだってば。
 いっそ大声で「いいから俺の話を聞け!」とか叫びたいのは山々だが、そうなったら否応なく結女を説得するターンに突入しちまう。今の俺には相変わらず結女を翻意させられる自信がなく、こないだの夜と同様、平行線の堂々巡りに陥る可能性がアリアリなので、途中で結女に嫌気が差して「その話はもう終わったはずだ、二度と聞きたくない」とか拒絶モードに入られたらその時点でバッドエンド確定。かといって、このまま黙って買い物に付き合っていても何の進展もないし――。

 ああもう、どうすりゃいいんだよぉ。

 食材満載のカートにもたれかかるようにして、頭を抱える。
 んで、ふと妙な気配を感じて顔を上げると。

「…………」

 結女が無言で、じっと俺の方を見つめていた。

「そんなに気になるのか? 私が何故ノッコのところにいて、何を話していたのか」

 明後日の方向に勘違いされたらしい。

「いやいや、俺は……」

 待てよ。ここで下手に話したら、なし崩し的に本題へ進んじゃうな。

「……あー、うん。そりゃ、まあ」

 結女が溜息をつく。やれやれ仕方がないな、という態で。

「この前の夜、瀬尾拓海のことを聞かされただろう。彼が魔人の眷属だとは予想もしていなかったのでな。もしやノッコもそうなのかと」
「へ……?」
「沖継の周りにいる者は……今のお前が大切している人たちには、ことごとく敵の息がかかっているんじゃないかと思ったんだ。親代わりだった義則と富美子、親友である瀬尾拓海。これでノッコだけが敵と何の関わりもないなど、むしろ不自然だろう」

 なるほど。理屈はわかる。けど。

「コノ自身は見ての通りのヤツだぞ? お人好しというか、とっても残念というか、陰謀だの策略だのと真逆のとこでしか生きられんっつーか……」
「だからこそだ。そんな娘をお前の側に置き、お前と仲良くさせる、それ自体が罠だったとしたら。日々の何気ない会話の中で沖継の考え方が縛られ、価値観が歪められて、心根が不必要に優しくなって、争い事を忌避するようになったとしたら」
「あのー、結女様? さすがに考えすぎだと思いますよ? それともまさか、俺がコノに洗脳されたとでも仰りたいのでしょうか?」
「それほど大仰でなくとも、少なからず影響は受けるだろう。ずっと一緒にいたなら」
「まっさかぁ、俺があいつから影響なんて……何してんだお前」

 急に結女が目玉をクワッと見開いて、驚いたような顔をしたんだけど。

「ノッコの顔真似だ。心底驚いた時によくやる」
「ああ、言われてみりゃ、はは、上手いな、うん、似てる似てる」
「ちなみに沖継も、時々、似たような顔をする」
「…………」
「昔のお前はこんな顔はしなかったから、ノッコの方がオリジナルだ。沖継が無意識に真似たんだ。心理学でミラーリングと言うのだったか、人は仲間だと感じている者にだんだん似てしまうものらしい。仕草だけじゃなく、使う言葉、考え方なども」

 マジかよ畜生、今まで全然気付いてなかった。ナンテコッタ。

「私たちの反りが合わなくなった原因は、これくらいしか思いつかなかった」

 結女は、大きな溜息を吐きながら。

「ノッコまでもが敵の側にいるとすれば、そのことを証明できれば……沖継が自分の置かれた環境を見つめ直し、自分の考えに疑問を持ってくれれば……私たちの仲を修復して、沖継を心変わりさせて、敵に対する闘志を取り戻せるかも、と、そう考えた」

 何だそりゃ、結女の方でも俺を説得する手がかりを探してたってのか。

「でもなあ、結女、いくら何でも……」
「無理筋だと言いたいんだろう。私もそう思う。でも、それでも」

 言葉はそこで途切れた。不自然だった。言いかけて呑み込んだのか。
 そっと結女の表情を伺うが、眉一つ動いていない。無表情。
 でも、続けるはずだった言葉が、結女の心の声が、俺には聞こえた気がした。

 それでもすがりたかった、と。

 考えてみれば、俺たちはこの一ヶ月、ずっと衝突し続けてきた。いや、お互い初対面なら順調すぎるほどだろうけど、結女からしたら歯痒いことこの上なかったろう。昔の夫なら何も言わなくても目と目で通じ合い、どんな時も固い絆で結ばれていたはずなのに。ようやく夫が復活した、これから反転攻勢、辛酸を舐めさせられた奴らに復讐してやる、目に物見せてくれる――そう思っていたはずなのに。肝心な時になればなるほど歯車が噛み合わず、闘志を燃やせば冷や水を浴びせられ、挙げ句の果てには「この戦いに正義はない、やめよう」と来るんだから。

 こんなはずじゃなかった。どうしてこうなった。何が悪かったのか。

 その思いに駆られて現状を見つめ直してみた時、結女の視界に不自然な異物として映ってきたのが、他でもないコノだったのか。お人好しを絵に描いたようなその娘は、夫の側をうろちょろと付いて回って離れない。それどころか夫に多大な影響を与えているように見える。ただの女友達だと説明されても鵜呑みにはできず、嫉妬に駆られて取り乱しかけたこともある。結女にとっては本当に、この上なく邪魔な存在だったはずだ。

 そんなコノが、もし、敵の一員だとしたら。
 結女にとって、話は極めてシンプルになる。

 沖継は間違っている、正しいのは私の方だと、胸を張って堂々と言える。目を覚ませ沖継、お前は騙されている、今の自分を疑え、自分を取り巻く者たちを疑え、全ては敵のせいだ、何もかもヤツらが悪いんだ、お前の味方は私だけなんだ。だから――。

 私が愛していた昔の夫に、戻ってくれ。

「……無理筋だな。本当に」

 わずかな沈黙の後、結女は、自嘲するように。

「きっと、あの時の私は、思い詰めていたんだろうな。アポも取らずにノッコのいる病院へ押しかけた。運が良かったのか悪かったのか、ちょうど滝乃家一同がノッコの見舞いに来ていてな。ご両親は元より、祖父母、叔父夫婦、歳の離れた従兄弟もいた。皆、いい人だったよ。もちろん魔人などではなかった」
「ま、そうだろうな」

 俺はコノの親御さんしか会ったことないけど、滝乃家の親戚一同ならだいたい想像はつく。平凡で、優しくて、温かくて。いかにもコノの一族だぞっていう感じの人たち。

「それでも疑念は拭いきれなくて、ノッコと直接、二人きりで話す機会を伺っていた。ノッコもこちらの気持ちを察したのか、いろいろと口裏を合わせてくれてな。最終的には私が病室に泊まり込んで、夜通し語り明かす準備が整っていて」

 流れで自然とそうなりました、って言い草だけど、どうせまた結女が政府とか厚労省経由で病院の院長をねじ伏せたんだろ。話が逸れると面倒だから突っ込まないけど。

「そこで、お互い心の底に押し込めていた事をここぞとばかりにぶつけ合った。最初のうちは本当に酷かったぞ。罵詈雑言が乱れ飛ぶ時間無制限のデスマッチ状態で……」
「あー、いいです、そこは全省略で。聞くだけで胃が痛くなりそう」
「お前が聞きたいと言ったんだろうに。ここからが正に話の要だぞ?」
「いや、そうだけど、そうですけど。じゃあ、なるべくまとめて、要点だけ」
「全く、お前ときたら、いつもそれだ……」

 結女は目を閉じ、額を押さえ、天井を仰いで。
 少しの間、考えて。

「……沖継」
「ん?」
「お前、ノッコがいつ、お前のことを好きになったか、知っているか」
「何だよ突然。中学ん時だよ、俺があいつを助けたことがあって、その後……」
「やはり勘違いしていたか。ノッコが言っていた通りだ」
「は?」
「まあ、好きという言葉の定義にもよるだろうがな。お前のことが気になって仕方なくて、毎日のようにお前のことを考え始めたのは、もっと前のことらしい」
「もっと前って……」

 そりゃまあ、コノの家はご近所さんだし、小学校も一緒だったんだから。可能性としてはゼロじゃないよ。うん、完全にゼロとは言い切れないんだけど。

 でも、限りなくゼロだぞ、それ。

 なにせ当時の俺は不登校児。友達なんて皆無。少なくとも俺の側には、ガキンチョだったコノと遊んだ記憶なんか全くない。まともに話をしたかどうかも怪しいよ。

「その場の勢いでウソでもついたんだろ。結女に負けてたまるかって、対抗してさ」
「……ずっと、見ていたんだそうだ」

 結女の視線が、俺から外れて。
 お菓子売り場でじゃれあっている、小さな男の子と女の子の姿を、見つめる。

「ノッコの家と沖継の家の間に小さい公園があって、お前はそこでいつも一人で遊んでいた、と、そう言っていた。すぐ近くにもう一つ別の公園があって、そっちにはジャングルジムやブランコや滑車付きの遊具とかいろいろ置いてあって、もうちょっと足を伸ばせば広い河川敷だってある。近所の男の子たちはそこでサッカーやドッヂボールなどに興じるのが常だったと。だが、お前はいつも独りぼっちで、小さい公園で時間を潰していた。学校で何か流行る度に沖継が遊ぶものは変わっていたが、仲間は誰もいなくて、たまに近所の子が通りかかって何人かで遊び始めても、三日と経たずに独りぼっちに逆戻り。何をやらせても一番上手で誰よりも強かったが、そのせいで誰も近寄らない」
「え……おい、ちょ……」

 それはウソでも捏造でもない。混じりっけなしの真実。俺自身が忘れかけてた細かなディテールまで網羅されてたものだから、疑う余地は全くない。
 でも、どうしてコノが、そんなことを?

「ずっと、見ていたそうだ」

 繰り返す。さっきと同じ言葉。

「だが、ただ見ていただけだった。近寄ろうともしなかった。みんながお前を避けていたから、ノッコも一緒になって避けていたらしい。独りぼっちで可哀想だと思うだけで」
「…………」
「だいたいノッコは器量良しだ。女子ならそれだけで人気者になれる。実際、子供の頃のノッコには友達がたくさん居たらしい。黙っていても寄ってきて、何となく話を合わせて、愛想笑いをしているだけで、男の子も、女の子も、すごく大事にしてくれた。人気者だったんだと」
「…………」
「黙っていれば可愛いんだから、その気になれば彼氏なんかいくらでもできるだろうと、お前はいつもノッコをからかっていたらしいな。ノッコはどうリアクションすべきか困っていたそうだが、そんなことは本人が一番わかっていたんだ。実際に経験してきたんだ。ノッコはずっと、みんなから好かれるために、ずっとずっと、沖継を見殺しにしてきたんだ。独りぼっちの沖継に気付いていながら、見て見ぬフリをし続けて……」

 ――何なんだ。どうなってんだ。

 今、俺の目の前で話しているのは、結女だ。結女なんだけどさ。
 結女の話の向こうには、間違いなくコノがいて、同じ話をしたはずで。
 コノは一体、何のつもりで、どういう気持ちで、結女にこんなことを話したのか、そこのところがわからなくて、知りたくて。

「でも、中学に上がって、私が先生に襲われそうになった時に、ね」

 無意識のうちに、頭の中で、結女の声をコノの声に置き換えていた。
 実際に俺の目の前で話している結女は淡々と喋っていて、別にコノの口真似をしている訳ではないんだけど。途中からはもう、コノの声にしか聞こえなくなって。

「たくさんいたはずの友達は、誰も、誰一人、私を助けてくれなかったんだ」

 目の前で、コノ本人が喋ってるような、そんな気分になる。

「ほんとはね、そうなりそうな予感は、もっとずっと前からあったんだ。女子の間ではセクハラ教師って有名だったし、私、ずっと怯えてた。でも、コワモテで有名な先生だったから。男子は知らぬが仏って感じで、女子は私が標的になってる間は安全でいられる。みんな見て見ぬフリ。今度は私が見殺しにされちゃって。あは、はは……」

 俺の心の中に響くコノの声が、過去を笑い飛ばす。
 思い出すだけでも辛すぎるから、無理をして笑ったのか。

「でも、沖継くんは、ね」

 俺の名前を口にした途端。
 コノの笑顔が、自然になる。

「沖継くんは、私を助けに来てくれた。私は見殺しにしてたのに、沖継くんはたった一人で、助けに来てくれたんだよ」

 引き出しの奥に仕舞った大切な宝物を、そっと取り出して。
 ちょっとだけ見せてあげる、内緒だよ、誰にも言わないでねって、そんな感じで。

「いつか絶対恩返しするんだ、沖継くんのためなら何でもするんだ、どんなに辛くても苦しくても絶対沖継くんの側にいるんだ、二度と沖継くんを一人にしないんだって決めたの。二度と自分の心に嘘つかないって決めたの。それで友達がいなくなってもいい、誰が敵になってもいい。沖継くんが本当に好きなのは結女ちゃんだっていうならそれでもいい、私が一番じゃなくたって構わない。でも……でもね、でも、私は……」

 コノが一度、目を伏せて。
 改めて、俺の顔を見つめ直して。

 その目の色はコノのものじゃないと、ふと気付く。

 目の前にいるのは結女なんだと、思い直す。

「……最初は、単なる哀れみだったんだろう」

 ずいぶん久しぶりに、結女の声が結女自身の言葉を紡いだ。

「独りぼっちのお前が可哀想だ、何とかしてあげたい、と。性根の優しい子なんだろうな。ただ、どうすればいいのかまでは考えが及ばなかった。友人を裏切る勇気も持てなかった。当時はまだ小さい子供だったから仕方がないが、今は違う。ノッコはずっと、お前のために何が出来るのかを考え続けていた。あの子は、本当に、純粋に……」

 結女はそこで言葉を切り、しばらくの間、言い澱んで。

「……純粋に、お前の幸せしか考えていなかった。私と同じように」

 苦笑い。

「お前とノッコを巡り合わせた者がいるとしたら、本物の神様だけだろうな。奇跡的な運命の出会いだったんだ。良かったな、あんなに出来た幼馴染はそうそう居ないぞ?」

 うわあ信じられん、結女が素でコノのこと褒めてやがる。ていうか幼馴染って。そんな甘酸っぱい響きのする青春ドリーム的ゆるふわカテゴリワードであの残念娘を括らないでくれませんか。すっげェ違和感あるわ。むしろ違和感しかないわ。

 でも、お陰で腑に落ちた。いろいろと。

 少なくとも、コノが敵じゃないことだけは、結女も納得できたろうしな。

「その他にもノッコとはいろいろ話したが、これは教えてやらん。女同士の話だからな。ガールズトークと言った方が今風で通じやすいか?」
「はん。どうせ俺の悪口で盛り上がってたんだろ」

 ぽつりと呟くと、結女が「何で知ってるんだ」みたいな顔をする。んなもん予想の範囲内だっつーの。

「溜め込んできた本音をぶちまけてスッキリ爽やか、互いの共通点なんかもいろいろ見つけちゃって、美しき友情っぽいものも生まれてさ、猪突猛進正直娘と超がつくほどのお人好し残念娘の名コンビが爆誕しちまったワケだろ。初日に。最初の晩に」
「……それが何だ」
「でもお前、もう一泊してるだろ。病院に。仲良し女子がそんだけ一緒にいてお喋りしてりゃあ、遅かれ早かれ共通の友人知人をダシにした悪口大会が始まるに決まってる。んで、その生贄にもっとも相応しいのは他でもないこの俺だ。あいつはいつも一言多いとか、大雑把な時と神経質な時の差が激しくて色々めんどくさいとか、ときどき猫背気味なのがみっともないとか言い合って、そうそうわかるわかるマジウケルーって感じで」
「……む……」
「んで途中から、その楽しそうな雰囲気に惹かれてきた夜勤の看護師さんも合流。あることないことネタにして大盛り上がり。いやー、その光景が目に浮かぶね。さぞ楽しかったことでしょうて」

 結女が苦虫を噛みつぶしたような顔をする。俺も似たような顔してんだけどな。

「勘がいいのも困りものだな。男はニブチンくらいがちょうどいいんだぞ」
「へいへい」
「念のために言っておくがな、沖継、その悪口大会はちゃんとオチがあるんだぞ? その、つまり……私たちは、そんなお前がどうしようもなく好きなんだ、と……だっ、だから、何もかもお見通しみたいな顔で決めつけるんじゃない。こら、聞いているのか」

 聞いてるよ。わかってるよ。そういう流れになってなきゃ、看護師のおばさんが俺の顔見てあんなニヤニヤしてねえよ。つうか顔真っ赤にして大声で恥ずかしい台詞を並べ立てんな。周囲の皆さんが見てるだろ。

 ――どんがらがっしゃん。

 予想もしてなかった方向から大きな音がした。山のように積み上げた缶詰か何かが一気に崩れたような感じ。
 殺気もないし、危機的な予感もなかったから、別段驚いたりはしなかったんだけど、なにせスーパーの店舗全体に響き渡るほどの大音量。背筋が反射的にビクッとなっちまった。

「何事だ……?」

 結女が音のした方へ首を巡らせ、俺の視線もその後を追う。
 俺とそう変わらない年頃の女の子が、新発売で特売中だったビールの山に突っ込んでいた。ありゃりゃ大丈夫かな怪我してないかね、と心配したのは一瞬で、その女の子が発している異様な雰囲気にすぐ気付く。

 彼女の視線が、俺と結女の方を真っ直ぐに見据えていた。

 そしてその顔が、超弩級の恐怖に引き攣っている。ホラー映画とかで今まさに殺されようとしてる哀れな犠牲者みたいに。ジェイソンやレクター教授やジグソウみたいなデンジャラス極まりない危険人物が側にいるとも思えないんだけど――あ。

 女の子の頭の上に、外付けHDDみたいな幻が見える。
 うちの学校の生徒?
 じゃあ、彼女にとっての危険人物って、俺と結女?

「い……いや、やだ、っ……やすけ……やだっ……!!」

 恐怖が転じてぐしゃぐしゃの涙顔へ。気の毒なほど怯えきった彼女は、腰が抜けて満足に立てもしないのにそれでも這うようにして必死で逃げ始める。途中でじゃがいもやタマネギの詰まった段ボール箱をいくつもひっくり返したけどお構いなし。
 側にいた店員さんが「ごめんなさいの一言もなしかよ……」と苦々しげにごちり、周囲のパートさんに声をかけて商品陳列の復旧に向かう。それをただ見ていることしか出来ない俺と結女。何とも居心地が悪い。

「……もういい、沖継。買い物は終わりにしよう」

 結女がレジの方に歩き出す。会計を済ませ、大量の食材を片っ端から袋に詰め込み、スーパーを出て、MTBモドキ号のハンドルやフレームに買い物袋をぶら下げていく。

 一区切りついたところで、側にいる結女の顔を覗く。
 どこか遠くを見ながら、何かを探しているようだった。

「さっきの女の子でも探してるのか?」

 返事はなかったが、逆にそれが肯定の意を示していた。

「さすがにもう、目の届く範囲には居ないだろ。……失敗したな。もうちょい家から離れたところで買い出しすべきだったか。うちの高校を中心に千人もいるんだから、近場をウロウロしてたら一人や二人くらい……」
「一から十まで怨念、か」
「?」
「お前が以前言ったんだぞ。私の戦う動機は、怨念だけだと」
「え……ああ……」
「全くもってその通りだ、お前が正しい」
「……へ?」
「あんなに近くに居たのに、私は魔人の存在に気付かなかった。気配すら感じなかった。あの娘一人だけなら所詮その程度なんだ。なのに私は、あの娘を……あの娘と同じ境遇にある者を、文字通り虐殺するつもりでいた。銃を向けて一方的にな。敵ばかりを卑怯だと罵っても始まらない。これも一種の天罰なんだろう」
「天罰って、未遂じゃんかよあれ。罰もへったくれも……」
「お前がいなければ、私は間違いなくトリガーを引いていたんだぞ」
「…………」
「しかも私は、止めようとしたお前に嘘をついてまで、虐殺の片棒を担がせようとした」
「嘘って、それは昔の俺の方針……」
「昔のお前は、あきらかな雑魚など歯牙にもかけなかった」

 予想外の言葉に思わず眉を顰めた俺を見て、結女が寂しそうに笑う。

「昔のお前は、強い覚悟と揺るがぬ自信が服を着て歩いているようなものだったからな。どんな卑怯な罠だとしても関係ない、必ず見抜いて完膚なきまで打ち砕いてみせると、いつもそう言っていたよ」
「…………」
「日本の昔話に出てくる妖怪には、愛嬌のある変な奴が多いだろう。あれはな、お前が見逃してきた雑魚どもとほぼイコールだ。日本の民草が稀に遭遇する魔人は、せいぜいその程度だったと考えていい。逆に、西洋や中東の伝承に出てくるような……国家を一薙ぎで破壊し尽くす悪魔とか、剣呑な食人鬼などの類は、自ら積極的に戦いを挑んで潰して回ったんだ。勇猛果敢にな」

 その頃の光景が瞼の裏に浮かんだんだろうか。結女は一度、目を閉じる。

「昔のお前には、そういう分別があった。あの頃のお前がここに居たとしたら……ひょっとしたら、今のお前が納得できる正義を語ってくれたのかもしれない。でも、私は何も知らない。命懸けの戦いに挑むお前の背中を、いつも見ているだけだったから」
「え……? 俺たちは二人でずっと戦ってたんだろ?」
「後れ居て、恋ひば苦しも朝猟の、君が弓にもならましものを」
「?」
「ああ、やはり憶えていないか……。長く生きた分だけ多少なりと武の心得はあったが、私は基本的に支援役だよ。お前が意思決定と軍事の担当だとしたら、私は外交や内政担当とでも言えばいいのかな。時の政府や軍と情報を共有して、魔人との戦いを可能な限りバックアップする。だから今も、私だけがこういうものを持っている」

 いつの間にか、結女は政府機関に直結している専用端末を手にしていた。

「もちろん、成り行きで戦場に出たことは何度かあった。自分で言うのも何だが、そこらの小童よりは何倍も上手に戦っていたと思う。だが、その度にお前に怒鳴られた。女が戦場に出しゃばるな、ここは男の領分だと」

 俯いて、笑う。
 寂しそうに。

「それに比べたら、最近の私は、何だろうな」
「…………」
「ずっと我が子のように面倒を見てきた義則や富美子を……今のお前の育ての親を捨て石にして、何も知らなかったお前を強引に戦場へ引き込み、敵の策略も見抜けぬまま一般人に等しい脆弱な魔人を虐殺しようとして、お前にとって大切な幼馴染であるノッコまでも敵ではないかと疑って……。最近の私は、本当に、一から十まで怨念で動いていたんだろう。自覚していなかった。それほど我を忘れていたのかもな。愛する夫を奪った敵が憎い、仇は必ず取ってみせる、すべての魔人をこの国から殲滅し、奴らに底なしの恐怖を味わわせてやる……。だが、こんなものでは誰も救えない。何も護れない。ただ不幸な人間が増えていくだけだ。さっきの娘子のように」

 俺は聞き役に回ってしまって、結女の話を聞く一方。
 こんなに大事な話をしてくれてるんだから、何かしら応じてやらないと。さっきからそう思ってるんだけど、何の言葉も出てこない。

「自信を持て、沖継」

 結女は急に、笑顔を見せて。

「今のお前と昔のお前は、確かに、全く同じ人間とは言い難い。でもな、今のお前が昔のお前より劣っているなんて、私は全く思わない。それはここ何日かで確信に変わった。今も昔も、お前は物事の本質をきちんと見極めている。戦うべき相手とは命を賭して戦い、戦うべからざる者とは絶対に戦わない、その信念を貫いている。本当に凄いと思うよ、私が心から尊敬できるたった一人のひとだ。そのお前が全てを知った上で、今後は敵と戦うべきではないと言うのなら、きっと、その判断は正しいのだろう」
「お、おい、ちょ……ちょっと待て、結女」

 これって、俺が今朝からずっと結女と話したかったことに触れてないか?

「つまり、その、怨念はもう忘れるって……もう戦わないって、そういうことか?」

 結女は、微笑みを浮かべたままで。

「私が望むのは、今も昔も、皆の幸せだけだ。この国に生きる全ての者が、心豊かで平穏な日々を永久に営んでくれればそれでいい。怨念に取り憑かれたまま戦い続けても、不幸をばら撒くだけでろくなことはない。そんなのは御免被る」
「…………」
「おい沖継、一体何だその顔は。私は何かおかしいことを言ったか?」
「い……いやいや、いやいやいやいや!! 何もおかしくないないないない!」

 うおおおおっ九回裏に逆転満塁ホームランだ! みんなが幸せになれそうなハッピーエンドに至る道が見えてきやがりましたよ?! いやっほおおおおぅ!!

「しかし、さっきの娘は大丈夫なのか……。単に怯えていたという感じじゃなかったぞ。心に酷い傷を負っているとしか思えん。いつか癒えればいいんだが……」
「大丈夫! それは近々解決するから!」
「……そうなのか?」
「任せろ! いや対処するのは俺じゃないけどな! あはははは、何だか急に俺も宴会したい気分になってきた! さあ結女、帰ろうぜ! 我が家にGOだ!」


4-8:慟哭

 キッチンで料理を始めた結女を家の中に残し、俺はスマホを手にして一人で車庫へ。
 その目的は言わずもがな、拓海に連絡するためだ。
 んで、これまでの経緯を一通り説明して。

『……それ、本当なんだな?』

 拓海の野郎、まだ性懲りもなく疑っていやがる。

「この期に及んで嘘なんぞつくか。三千年に渡るめんどくせェ戦いがようやく終わるんだから少しは喜べ。あと、学校の関係者に植え付けた記憶も今すぐ消せって親父さんに伝えろよ。振り返ってみりゃ必要な作戦だったってのは理解してやらんでもないけど、何の関係もない奴らにPTSD植え付けたままにしとくのが正義だなんて言わせねェからな」
『いや、まあ、それは俺も同じことを思ってたけど……はは……』
「おいこら、何をクスクス笑ってやがる」
『ああ、悪い、すっかり元の沖継だと思ってな。朝はゾンビみたいな声してたのに』
「うっせェな、あんときゃ寝起きで機嫌悪かったんだよ。とにかくこっちからの用件はこれで終わりだ。もう切るぞ……あ、いや待った」
『何だ?』
「お前さ、今からうちに来いよ」
『はぁ?』
「コノの退院祝いをやるんだ。七時から。もう一時間くらいしかないな。んで結女と直に会って、俺の話が嘘じゃないって思い知りやがれ」
『……………………いや、遠慮する』
「何だよそのクソ長い間は。悪かったよ変な言い方して、ウラなんか何もねェから普通に遊びに来てくれ。もう敵味方関係ないんだから、俺とお前は単なるダチ同士だろ?」
『滝乃の退院祝いってことは、滝乃も来るんだろ?』
「当たり前じゃねェか、それがどうした」
『お前と滝乃の邪魔はしたくない……あれ、これ先月も言ったか』
「いらん気を回すなお節介野郎め。だいたい結女だっているんだぞ?」
『女二人で沖継一人を取り合いか。はは、鉄火場になるのが目に見えてる』
「心配しなくてもンなこと起きねェよ、あの二人は今やすっかり仲良しだ」
『? どういうことだよ、それ』
「簡単には説明できねェよ。とにかくそうなってんだ。なぁ拓海、頼むから来てくれって。女二人で盛り上がられたら俺の居場所がねェんだよ。映画でも観ながらダベろうぜ? 今から近所のレンタル屋で借りてくるから、リクエストあったら教えてくれ。巨大ロボットと大怪獣がガチで殴り合うアレとかどうよ? マントで空飛ぶ鋼鉄の男の最新作はもう観たか? いやー、お前と映画観ながらダベるなんてえっらい久しぶり……」
『拓海は参加できない』

 四十を越えたおっさんの声が、いきなり割り込んできた。
 言わずもがな、堤塞師。

『我々の仕事はこれで終わりではない。むしろこれから始まるんだ。大変な難局を迎える。歴史の舵取り役として猫の手も借りたいくらいに忙しくてね、拓海にも色々と手伝ってもらわなければならない。悪く思わないでくれ』
「……あのさ、あんたに一つ訊いていいか」
『? 何かな』
「ひょっとして朝も、俺と拓海が話してた時、そうやって横から聞いてたのか」
『もちろんだ。君に関することは把握しておかなければならない立場だからね。そのくらいは君も、当然のように承知していると思っていたが』
「…………」

 もう敵でもなんでもないんだし、気にするまいとは思うんだけど、このおっさんの存在そのものに理屈抜きでイラッと来る自分がいる。親友の親御さんなのにさ、良くねェな。

『すまない、沖継。そういうことだから……』

 こっちは拓海。本当に申し訳なさそうな声だった。

「いや、気にすんな。謝るようなことじゃねェよ。親父さんの手伝い頑張ってな」

 通話終了。

 これで正真正銘、何もかも片付いた。

 ここ数日、ずっと肩に乗っかっていた重たい何かがなくなった。意識せず張り詰めていた精神が緩んでいくのがわかる。身体から力が抜ける。大きな溜息が出る。

 ただ、いまいち気分が晴れないのは、何でだろ。
 何かすげェ大問題が、何一つ解決されずに残ったままだって、そんな感じで。

 車庫を出て、空を見上げる。
 まだ明るい時刻のはずなのに、鉛色の雲が厚く垂れ込めてほとんど夜みたいになってる。空気のにおいも湿っぽくなってきてるし、また雨が降り始めるのか。いい加減に梅雨明けしろよ全くもう。

「やれやれ、空模様まで、俺の……」

 心の中そのものじゃねェか、と言いかけて。

 俺って今、こんなに重くて、暗くて、モヤモヤしてんのか?

 自分の手元に視線を落とし、ただ無心に、掌をじっと見つめる。

 本当に、これで良かったのか。
 そんな漠然とした思いが心の中に浮かんできた、んだけど。

 その瞬間に。

「……いや、良かっただろ」

 セルフツッコミ。

 だってそうだろ。俺はこの数日の間、死にかけたコノを助けて、拓海とより深い友情で結ばれて、結女を怨念から開放し、学校関係者およそ千人が負った心の傷を帳消しにしたんだぜ。どこも間違ってない。間違ってるはずがない。
 そりゃ、迷いみたいなものはあるよ。俺と結女が魔人と戦うのを辞めるってことは、日本が世界最古の国家として存続してきた大きな理由を失うってこと。一億数千万の日本人を見捨てるも同然の、身勝手で最悪な選択をしちまったんじゃないのか、ってさ。
 でも、俺個人の双肩に一億以上の命がかかってるなんて、気負いすぎを通り越して思い上がりもいいとこだ。このまま魔人と戦い続けても日本人を救うことに直結するワケじゃない。仮に何かの偶然で堤塞師が率いる魔人軍団をやっつけて、この国のみんなが一時的に救われたとしても、そのせいで世界秩序を維持するシナリオが狂えば、さらに大勢の人が死ぬことになる。わかりきったことだ。今更蒸し返しても意味はない。

 出来ることは、もう、やりつくした。
 これでいいんだ。俺はベストを尽くしたよ。

 そう自分に言い聞かせ、胸の中のモヤモヤをねじ伏せて。
 玄関の扉を開ける。

「……うっわ、すっげェいい匂い」

 そんなに長い間外にいた訳じゃないと思うけど、家の中にはすでに結女お手製の美味そうな料理の匂いが充満していた。何だろこれ、唐揚げ? エビチリ? ローストビーフ? グラタン? 甘酢餡? って、そんな一度にたくさん作れるはずないか。
 でも確かに、数え切れないほど多数の料理が出来上がりつつあるような、そういう匂いに感じるんだけど。

「おーい結女、俺も何か手伝お……う、っ……」

 キッチンの方に顔を突っ込もうとして、絶句。

 千手観音が降臨しておられる。

 そこに居るのは間違いなく結女だし、あいつには二本しか腕がついてないんだけど、これは千手観音としか言い様がない。五個口のガスコンロには鍋やフライパンがずらりと並んで最大火力を発揮し続けていて、魚焼きグリル、足元のオーブン、棚の上の電子レンジもフル稼働。肉、魚、野菜とそれぞれ使い分けている三枚のまな板の上では次から次に食材が切り刻まれ、流しのザルに茹で上がったうずら卵、流水迸る蛇口の下では役目を終えたボウルやバットがササッと洗われて食器乾燥機に立てかけられていく。その全てがリアルタイムで同時進行しながら処理されてんだよ。足捌きにも手付きにもムダらしいものは微塵もねェ。武道の達人が最小限の動きで相手を倒す様にちょっと似てるな。

 手伝い、出来んわ。俺なんか邪魔になるだけだ。

 言っとくけど、俺、料理は苦手じゃないぞ。そこらの店屋物なら一度食えば味を憶えておおむね再現できる自信もある。でも、結女の手伝いだけは無理。今から本気で料理に取り組んで百年修行しても隣に立てる自信がない。他でもないこの俺がそう感じているという一点をもって、今の結女の凄さは充分に伝わると思いたい。

「ああ、沖継か。どこに行ってたんだ?」

 俺が覗き込んでいることに気付いた結女が話しかけてきた。神懸かり的な凄まじい料理を進行させてる最中だというのに、微塵も慌てず騒がず、ごく普通に平然と。

「そっちに置いたものはもう出来上がりだから、ダイニングに置いてある大皿やサークルトレイに盛りつけていってくれ。仕切りや飾りはレタスなり大根のツマなり、用意してあるものを好きに使え。センス良く綺麗に頼むぞ、見た目だって味のうちだ」
「ふぁい」

 いやもう、マジで信じられん。こんなに忙しくしてんのにちゃんと会話してんだもん。もし俺が結女と同レベルの腕前を持ってたとしても「ああもう今忙しいんだよ邪魔だからどっか行け!」とか絶対に言うわ。
 性別によって脳の構造が少し違うとか、女は物事を同時並行で処理する能力に長けてるとか、そういう話をどこかで聞いたことがある。俺が真似すら出来そうにないと感じてる理由はひょっとしたらここにあるのか。つまり、女の子が三千年に渡って研鑽を積めば千手観音へと進化と遂げるのであろう。うん。きっとそうだ。

「よし、まあ、こんなところだろう」

 結女の声に続いてガスコンロのつまみがオフになる音がした。五つすべてがほぼ同時に。それから間髪容れず、オーブンやら電子レンジやらが動作終了の電子音で大合唱を奏で始めて――ってお前そこまで完全に料理の進行をコントロールしてたのかよ?!

「盛りつけはどうだ、沖継。……ああ、いい感じだ。パーティらしくなってきた」

 キッチンを離れた結女が、エプロンを外しながら笑顔を見せ、俺のいるダイニングの方にやってきた。で、今し方盛りつけたばかりのペンネ・アラビアータ結女風アレンジを指先でつまんでひょいと口の中へ放り込む。

「……及第点。しかし、手間を省いて大急ぎで作った感は否めないな」

 えっそうなの? と思いつつ俺も同じペンネをつまみ食い。うわめっちゃ美味ェ! ガーリックとレッドペッパーがガッツリ利いててかなりパンチあるのに繊細なトマトの風味を微塵も損なってねェよ! これのどこが今ひとつなんだよ?!

「ここ数日、お前がろくなものを食べていないせいだ」

 顔色から俺の心を読んだらしい。結女が苦笑いして言う。

「顔色を見れば丸わかりだ。どうせ水すらまともに飲まなかったんだろう」

 あ。言われて見ればそうかも。

「それだけ悩んでいろいろと考えていたんだろうが、人並み外れた集中力というのも困ったものだな。……そうそう、憶えているか? たしか寛永の頃だったか、私はあの時、お前が餓死するんじゃないかと」

 話の途中で、結女が急にハッとして。

「……すまない。今のお前には関係のない話だった」
「え? あ、いや、その」

 何の話かさっぱりわかんなくて目をぱちくりさせてたら、結女が急に悲しそうな顔をして――いや、気のせいか? 急に壁掛け時計の方を振り向いて、俺の方に背中を向けたもんだから、表情の変化がよくわからなかった。

「六時半か。そろそろノッコが来る頃だ」

 うん、やっぱ気のせいかも。結女の声音はいつも通りだ。

「あ……しまった、私としたことが。飲み物の類を買い忘れていた」
「? 買い置きのコーラとかがいくらでもあるだろ」
「そんな飲み物で宴席が盛り上がるものか。シャンパンかワインは欲しいところだ」
「俺もコノも未成年だよ。お前なんて見た目は中学生じゃん」
「堅いことを言うな、どうせ私たち二人は、望めばいつでも即座に素面になれる」
「あ、そういやそっか……って、いやいやいやいや、俺たちはよくても、コノは正真正銘の未成年だろ。あいつだけ除け者ってのも……」
「若い娘ほど早くに酒の味を知っておくべきなんだ。心から信頼できる者の導きで、自分の限界を確かめておかなければ。特にノッコは器量良しな上にお人好しだからな、紳士の顔をした野獣にどこで騙されるか知れたものではない」
「あー、うー、そりゃまあ、正論、ですけどね、いやでも、そういう問題じゃ……」
「だったらどういう問題だ? 私は別に、ノッコをへべれけにしようと言っている訳ではないんだぞ。ほろ酔い程度で止めてやればいい。宴席に酒はつきもの、栓を抜いてグラスに注いで口をつけること自体が大切なイベント。正月や雛祭りや端午の節句を考えてみろ、屠蘇や神酒や甘酒を子供が口にして怒る者がどこにいる?」

 相変わらず弁が達者でいらっしゃる。さすが三千年も内政担当やってただけあるわ。

「まあ、こんだけ本格的な料理がずらーっと並んでるのに、ソフトドリンクで乾杯っつーのもな……違和感あるっちゃあるんだけど」
「うむ。せっかくの機会だ、ノッコと二人で大人の階段を上るがいい。という訳で話は決まりだ。買ってくる。最低限ドンペリ、できればロマネコンティを」
「おいこらちょっと待てそんな金がどこにあんだよ!」
「心配するな、私の持っているクレジットカードに使用限度額などない。なにせ引き落とし先は日本の国庫、使途不明でも一切追求されない官房機密費扱いだ」
「よけい心配するわ大問題だろそれ! お前まさかこの料理の買い出しにもそのヤバいカード使ってたのかよ?! っていうか間違いなく使ってたよな?!」
「何を今更。私が今着ている服も下着を含めて上から下まで、一つ残らず国の金だぞ?」

 衝撃の事実が発覚。開いた口がふさがらん。いや待てよ、それともこれは国のために働いてきた結女に対する正当な報酬と考えるべきなのか?
 規格外すぎる相手に一般常識ベースで言い争うのも馬鹿馬鹿しくなってきたんだけど、酒の買い出しに向かう結女の背中が視界から消える直前、俺はハッと気が付いた。

「おい待て、結女」
「何だ、まだ不毛な議論を続けるつもりか?」
「議論っつーか、お前が行っても酒屋は酒なんか絶対売ってくんないから」
「何を言い出すかと思ったら……。今の私の姿を見て私自身が酒を飲むと思う馬鹿な酒屋があるものか。親の使いで来たと言えば済む」
「それ、通用しないぞ。法律で禁止されてる」
「……何だと? いつからだ」
「詳しくは憶えてないけど、俺が小学生の頃にはもうアウトだったよ。父さんに頼まれて小遣いもらって買いに行ったら、馴染みの酒屋の店長に断られたもんな」
「とすると、私が松前大島にいた頃か……。ああ、なるほどな……」

 納得してくれたのはいいんだけど、松前大島ってどこだよそれ。俺の記憶が確かなら、北海道にある小さな島がそんな名前だったような? 未成年者飲酒禁止法改正のニュースすら届かない無人島で一体何をしてたん――あっ、ひょっとして、次から次に差し向けられる刺客の魔人と戦うために無人島へ籠もってたとか?

「仕方ない、沖継、酒はお前が買ってきてくれ」
「だから俺はまだ未成年だと何度言えばわかってくれますか」
「見た目的には十八歳も二十歳も大差ない。適当にごまかせ」
「身分証出してくれって言われたらアウトだよ、そんな危険犯せるか」
「むう……。だがしかし、酒もなしでは……。むう……」

 結女の酒への執着っぷりは尋常じゃない。何でそんなに酒にこだわるんだよ。
 と、一瞬思いはしたけれど。

 コイツの中身は完全に大人なんだ。絶海の孤島でたった一人きりの禁欲的な生活を長年強いられていたなら、いつか一息ついた時に美味い料理をつつきながら気心の知れた相手と一献傾けたいという欲求を抱いていても何ら不思議はない。内地で何不自由なくヌクヌクと過ごしていた俺がそのささやかな夢にケチをつけるような真似は厳として慎むべきだし、むしろ結女の願いを叶えるために尽力してやるべきなんではなかろうか。
 
 ま、ちょいと気を回しすぎな感は否めないけどさ。結女の表情がだんだんと「仕方ない、諦めよう」って感じの暗い方へ傾いていく様子を見てると、どうもダメだ。胸の奥の大事な部分が真綿で締め付けられるような感じがしてきて、諦めるな俺、出来る限りのことはしてやらにゃ、という気分になってくるのよね。これがアレか、世に言うところの惚れた弱みってヤツか。畜生なんて厄介な。

「あ……そうだ。なあ結女、酒なら何でもいいんだよな?」
「何でもいいとは言わないぞ、さすがに料理酒では困る」
「いや、ちゃんとしたヤツがある、はず」

 言うや否や、結女の表情が少し明るくなった。俺の胸中もちょっと晴れた。

 とりあえずリビングを出て、廊下へ。結女も後ろについてくる。

 今や結女専用の個室になってる客間、風呂場、洗面台、縁側をスルーしてさらに奥へ。突き当たりは父さんと母さんの寝室なんだけど、その手前にもう一つ別の扉がある。

 これを開けて、中に入る。

 広さにして三畳弱。左右の壁は作り付けの棚になっていて、専門書やファイルの類がギッシリ。正面の壁の上半分は円形の飾り窓、そのすぐ下には大きな机がある。

「義則の書斎か?」
「そう。俺は立ち入り禁止なんだけど……」

 とりあえず机の周囲を探り始める。散らかり放題の書類や作りかけの模型を少し片付けて、椅子を退かして、机の下にあったキャビネットの中を確かめてみた。

 発見。

 こっちはウイスキー、これはブランデー、もう一つは焼酎。どれも半分くらい減ってるけど、栓の周囲にテープを巻いて劣化防止の封がきちんと施されていた。ラベルを見た結女も「山崎、ヘネシーXO、三岳か。悪くないな」と納得のご様子。

「あと、確かこの奥に、小さい冷蔵庫みたいなのが……ほら、あった」
「ビールと日本酒もあるのか。どれも聞いたことのない銘柄ばかりだが……」
「知る人ぞ知る地方の銘酒とかそんなのだろ、多分」
「そんな貴重な酒をこんな書斎に……? 沖継に盗られないよう隠していたのか?」

 おいおい、正義の味方が親の酒盗んで飲むかっつーの。

「父さんの趣味みたいなもんだよ。酒は何よりも質が第一って主義だから、風味がどうの保存方法がこうのって何かと口うるさくて。母さんも呆れ気味に言ってたっけな、飲んべえの中でも相当タチの悪い部類よねーって。それで新婚当初に大喧嘩して、結局、飲む本人が全部自分で管理することになったんだとさ」
「……なるほど、どこかの誰かに変なところばかり似た訳か」
「え?」
「いや、何でもない。……とりあえず全部持ち出そう」
「これ全部か? どれか一つで充分だろ、たった三人なのに」
「しかし、ここに置いていても……」
「?」
「……もう、管理する者はいないのだから」

 俺は一瞬、結女が何を言ったのか、わからなかった。
 いや、結女の声は、はっきりと聞こえてたんだけど。

「今日はお前の誕生日のやり直しも兼ねているんだ。あの二人が居れば当然のように同席していただろう。だから、その分の杯も用意したい。弔いと言うと大袈裟かもしれんが、今後こうした席を設ける機会があるかどうか……。ちゃんとした葬式ができるかどうかもわからない。だからせめて、気持ちだけでも区切りをつけられたら」

 結女の言わんとしていることは、理解できる。
 頭では、理屈では、よくわかる。

 でも、俺の心の深いところが、拒絶する。

 だって――だって、さ。
 気持ちに区切りをつけるってことは、つまり、父さんも母さんもこの世にいないんだって、二度と会えないんだって、絶対に戻ってこないんだって、そのことを認めて、認めた上で忘れて、二人が居ないことを前提にまだ生きてる俺たちの生活を始めていこうって、そういうことだろ、弔いだの葬式だのってそういう儀式だろ。ふざけんなよ。冗談じゃねえよ。今日一日、何のためにあちこち走り回って、苦労してきたと思ってんだ。俺が犯した罪をチャラにするためだろ? コノは助けたし、拓海と仲直りもしたし、結女が死ぬこともない。何故だ? 俺の犯した罪が全部チャラになったからだよ。そうさ、何もかもチャラになったんだ。だったら父さんと母さんも戻ってくるはずだろ?

 心のどこかに、そんな風に考えてる自分がいやがる。

 驚いた。滅茶苦茶だ。
 我ながら、支離滅裂もいいとこだ。

 でも、これは俺の心の深いところだから、俺の感情の部分だから、もっともらしい理屈なんか絶対に受け付けてくれない。諦めるなよ、何か方法あるだろ、考えろよ、だって俺は特別なんだぜ、源沖継なんだぜ、何とかできるだろ、できるはずだろ、やれよ、今すぐに、考えろ、考えろ、考えろ。そうやって騒いで、わめいて、何度も何度も訴えかけてくる。必死で。一生懸命に。

 ああ、そうか。
 俺はこの数日、そうやって。

 ずっと、逃げてたのか。

 他にやることあるんだから、今忙しいんだから、切羽詰まってるんだから、ピンチなんだから、急がなきゃいけないんだから、余裕無いんだから、全部片付いたら何もかも元通りになるはずだから、そうでなきゃおかしいんだから。そう自分に言い聞かせて。
 事実を、認めようとしないで。
 涙すら流そうとしないで。

 でも、もう、全て、終わってしまった。

 一番大事なことに納得できない自分から、逃げられない。

 その俺の感情が、頭の中に、いつか見た光景をプレイバックさせる。何でもないある日の夜。俺がまだ小さかった頃だ。たまたま深夜に目が覚めて、書斎で晩酌中の父さんを見かけたことがある。父さんは本当に上機嫌で、楽しそうに杯を重ねていた。だから俺は何の気なしに訊いてみたんだ。ねえ父さん、お酒ってそんなに美味しいの? 僕にもちょっと飲ませてよ、って。
 そしたら、父さんは冗談めかしてこう言った。ふははは、残念だがお前には一滴たりともくれてやらん、これは大人が汗と涙を流して一人前に働いて初めて手に入れられる魔法の飲み物なのだ、いわば父さんの血液であり命であり魂も同然、悔しかったら一刻も早く大人になれ、そうしたら浴びるほど飲ませてやろう。

 その古い記憶に。
 ごく最近の、新しい記憶が割り込んでくる。

『録音、一件です。五月二十一日、午後十時四十八分』

 およそ一ヶ月前、誕生日の夜に記録された留守電音声の音声。

『……近いうちに父子で一杯やろう。お前が一人前になった記念に』

 そして今、目の前に、幾つもの酒の瓶がある。
 この中に、父さんが俺と一緒に飲むつもりだったものが、入ってるのかも。
 どれだ? どれだよ? どれだ?
 ダメだ、わかんねェや。父さんに訊いてみよう。
 俺の手が、ポケットの中にあるスマホに伸びかけて。

「沖継、何をぼけっとしている。お前も持ってくれ。私一人じゃ運びきれない」

 結女の声。現実に引き戻される。

「……あ、ああ……」

 差し出されている酒瓶に、手を伸ばす。

 受け取り損ねた。
 手が滑った。

 床に落ちた酒瓶が割れる。コナゴナに砕ける。
 中に詰まっていた酒が、床に散る。

 父さんは言った。これは自分の血だと。命だと。魂だと。

 それを、俺が割った。
 台無しにした。

 もう、二度と。
 元には戻らない。
 取り返しなんか、つかない。

「おいこら沖継、何を……ん? 沖継?」

 結女が俺の顔を覗き込む。最初は手を滑らせた俺を咎めようとして。でもその直後には、俺のことを心配して不安げな色を見せる。

 自分で認識できたのは、そこまでだった。

 後はもう、全てが涙に歪んだ。

 俺はその場に膝を折り、撒き散らかされた酒の中に手をついて。結女が見てる前で大声を上げて泣き出した。こんなの格好悪いだろ、今更過ぎるだろ。頭のどこかでそう思ってブレーキをかけようとしてるんだけど、それすらも涙に歪まされていく。溢れ出てくるものをどうしても止められない。

 いつからか、泣き続ける俺の顔は、結女の胸の中に埋もれていた。

 結女が抱き締めてくれたのか、自分からしがみついたのか。俺の腕は、その小さくて華奢な身体にしがみついて。結女の腕は俺の頭を硬く抱き締めてくれていて。その温もりのせいで、涙の量がまた増える。増え続ける。

「……すまなかった」

 自分の泣き声に紛れて、結女の声が聞こえてくる。

「何もかも、私が悪いんだ」




「……?」

 はたと気付いた時、俺の視界に映っていたのは、リビングの天井だった。

 どうやら俺は、二人掛けのソファで寝ていたらしい。

 少しだけ首を傾ける。すぐ隣にある別のソファに結女が――あ、いや違った、コノだ。顔まで見えないから一瞬勘違いしちまった。結女はこんな短めのスカートは穿かないし、プリント柄のパーカーとカットソーも持ってないはず。
 んで、そのコノは俺の視線に気付いてなくて、ほとんど聞こえないレベルまで音量を下げたテレビをぼんやり眺めている。俺が寝てたせいで気を使ってるのかも。

 少しばかり上半身を起こす。ソファがギシッと音を立て、コノもそれに気付いた。

「あっ、沖継くん、大丈夫……?」

 大丈夫、って何だ? ちょっと寝てただけだろ?
 つーか、俺、寝る前は何してたんだっけ?

「あっ、待って待って、ダメ、無理しないで」

 身体を起こしてソファに座り直そうとしたら、コノが慌てて制止してきた。

「ひょっとして、何も憶えてない?」
「……?」
「その、結女ちゃんが……記憶が飛んでるかもって、言ってたんだけど」
「記憶が飛ぶ? 何だそれ?」
「詳しいことは、知らない、けど、転んで頭を打った、とか」
「俺が? 転んだ? どこで? 何してたんだ?」
「だから、私は、その、詳しいことは……。本当に、憶えてないんだよね?」
「いや、さっぱり」

 階段で足でも滑らせたのかと思ったけど、脛や膝に痣のようなものは見当たらない。受け身はきっちり取ったってことか。うむ、さすが俺。
 続けて、頭をあちこち触りまくってみたんだけど、変だな、たんこぶなんか一つも出来てないじゃん。気絶するほどなら相当ガツンとやっちまったんじゃないのか?

「なあコノ、結女は?」

 とりあえず訊いてみっか、くらいの軽い気持ちで言ってみる。
 でも、コノの返事がない。やたらと長い奇妙な間があった。

「コノ? どうした?」
「あ、うん。えっとね、結女ちゃん、さっき出かけたの」
「どこに?」
「……コンビニ。調味料か何かを切らしたって、言ってた……かな、たしか」
「そっか」

 よっこいしょ、と、腹筋のバネで一息に飛び起きる。

「ちょ、ちょちょちょ、沖継くん何してるの!」
「もう大丈夫だって、ノープロブレム」
「頭打ったんだよ?! 気絶するくらいなんだよ?! 安静にしてなきゃダメだよ!」
「そりゃま、普通のヤツなら、そうだろうけど」
「えっ? ……あっ」
「大抵の怪我や病気は自力で治るし、もし命に関わるほどヤバい状態だったらはっきりわかるんだ。そういうのが無いってことは、もう健康だってことだろ」
「そ、っか……そうなんだよね、うん……ごめん」

 いや、別にお前が謝ることは何もないぞ。

「ところでさ、コノ。全然話変わるんだけど」

 話の流れをぶった切って声をかけると、コノの背中がビクッとなって「はえっ? ななな、何?」とか言いやがる。何を狼狽してんだか。

「パーティ用の料理、どこいったんだ?」

 リビングとダイニングの様子を何となく眺めているうちに、気絶する前の記憶を少しずつ取り戻してきた。キッチンに降臨していた千手観音と、その言いつけで大皿に料理を盛りつけていた俺。そもそもコノがここに居るのだって、退院祝いを派手にやろうって約束してたからだろ。なのにその様子が微塵もないのはどうした訳だ?

「沖継くん、お腹空いてるの?」

 おいこらコノ、質問に質問で返すな。つーか俺が訊いたのはそういうことじゃない。
 と、言おうと思って口を開いたら、一瞬先に腹がグーッと鳴りやがった。

「ちょっと待ってて」

 急に笑顔を見せたと思ったら、コノがキッチンの方に飛んでいく。リビングとの間を何度か往復して、ラップをかけた大皿やタッパーの類を運んでくる。

「ひょっとして、これ、お前が片付けたのか?」
「だって、さすがにもう、パーティって感じじゃないかなって」

 だから俺が訊いたのはそういうことじゃなくてな。お前は曲がりなりにもゲストだし主賓だし、片付けなんてのは俺か結女の役回りではないのかなと。まあいいけど。

「私も結女ちゃんも、もう食べちゃったんだ。あとは沖継くんだけだから」
「なぬ?」

 慌ててリビングの壁掛け時計を見る。ただいまの時刻は九時五十二分――っておいおいおいおいもうすぐ十時だと?! どんだけ長い間気絶してたんだよ俺は!

「大丈夫、私もちょっとお腹が空いてきてるし。つきあうよ」

 ニコッと笑ったコノが、俺の前に箸と小皿を置いてくれた。

 えーっと、ここまでの情報をまとめると。

 俺が何かヘマやらかしてブッ倒れて、パーティなんぞやる空気じゃなくなって、女二人で先に空腹だけ満たし、結女は明日の朝食のことを考え始めてコンビニにお出かけ、本来ゲストであるはずのコノは俺の側で気を使って静かにしてた、と。そういうこと?
 なんてこったい。最悪じゃんか俺。急に罪悪感が湧いてきた。

「すまん。俺のせいで……。パーティ台無しにしちまって」

 全然実感ねェし腑にも落ちないけど、ここは素直に謝るべきでしょうて。

「謝らないでよ! 沖継くんは何も悪くないよ!」
「……へ?」

 コノが急に血相変えて大声出すもんだから面食らっちまった。何だよ突然。

「あ、っ……その、だから……別に、誰も……誰も悪くないよ、誰も……」

 しどろもどろって感じで、意味不明なことを尻つぼみに言う。
 挙動不審にも程がある。突っ込んであれこれ問い質すべきかね。
 でも、俺のせいでパーティ台無しになって楽しめなかった上に尋問紛いの質問攻めとか、コノの立場からしたらジョウダンジャネエフザケンナって言いたくなるだろうし。

「まあいいや。取りあえず、いっただっきまーす」
「あ……う、うん、どれもすっごい美味しかったんだ。ほんとに結女ちゃん凄いよね」
「作った本人はいまいち不満そうだったけどな。急いで作った感が否めないとか何とか」
「えっ? これで?!」
「結女にしかわからん微妙な領域かもしんないけどな。だいたい、こんな冷え切った状態で食ってもしっかり美味い揚げ物とかさ、どうやって作ったんだか」
「あっ、それ私も思ってた! 実際に作ってるところ見たかったなぁ」
「本人に言ってみろよ、見せるどころか手取り足取り教えてくれるぞ、多分」
「えっ? ……あ、うん。そう……だね……」

 あれ? 何でそこでテンション下がるんだ?

「あっ、いっけない、飲み物とか全然出してなかったね。何か飲む?」

 妙な空気になったのを察したのか、コノが無理に笑顔を作ってそんなことを言い、席を立とうとする。

「ああ、いいよ。お前は座ってろ。俺が取ってくる。冷蔵庫に買い置きのコーラかオレンジジュースがあったはず……」

 そこまで言って。
 ハッとなって。

 俺の手から、皿の上に置きかけた箸が落ちた。

「? 沖継くん?」
「…………」
「沖継くんってば、どうしたの?」
「……コノ、結女はどこに行ったんだ?」
「えっ? だから……」

 俺はソファを蹴るようにして立ち上がり、リビングを飛び出す。

「ちょ、ちょっと沖継くん?!」

 慌ててコノが追ってくるのに構わず、俺は廊下を走る。ブチ破るくらいの勢いで父さんの書斎のドアを開ける。

 床には何もない。綺麗に片付けられてる。
 でも、派手にぶちまけた酒のにおいまでは、簡単に消えやしない。

 そう、俺は確かにこの場所で、父さんの大切な酒の瓶を割ってしまった。結女の胸にすがりついてみっともなく泣きじゃくったんだ。
 でも、どうしてそこで記憶が飛んだ? 何が起きたんだ?

 いや、違う。そうじゃない。

 俺は、結女に、何をされたんだ?

 ええと、ええっと――そうだ。あの時、結女はたしかこう言った。すまなかった、何もかも私が悪いんだ、と。あれは泣きじゃくる俺を受け止めてなだめるような雰囲気じゃなかった。むしろ結女の方が、俺の身体にすがりついていたような。

 そう、そうなんだ。

 俺よりも、結女の方が、よっぽど。
 泣いているみたいで。

 そのことに気付いて俺はふと顔を上げた。目に映ったのは、血が滲むほど強く噛み締められた結女の唇。それから、それから――それから、どうなった?

 考えながら、俺の手が無意識のうちに動く。
 後頭部、盆の窪あたりを軽く撫でる。

 当て落とされた、のか?

 泣きじゃくっていた俺に、全く無防備な首筋に、結女が手刀か何かを叩き込んだ。そうして俺の意識を断ち切った。そういうことか? いや、状況から考えてもそれしかない。
 でもどうして? 何で結女がそんなことを? おかしいだろ?

 ああ、そうだな。

 おかしい。

 おかしいよ。おかしいんだ。ホントに今更だけどさ。
 結女も、コノも、今日はずっと、何もかもがおかしかった。

「お、っ、沖継くん、待って、ダメだってばっ!!」

 どたどたどたと足音を響かせて、コノが俺の背中に追いついてくる。

「……なあ、コノ」

 コノの方は見ない。背中を向けたまま。

「何でお前、さっき、嘘ついたんだ」

 でも、コノが息を呑む気配ははっきり感じられた。

「う、嘘って……別に私、何も……」
「わかった、じゃあ言い方を変える。俺に何を隠してんだ」
「だから、別に……」

 ああ、ダメだ。
 もう抑えきれねェ。

「病院で結女に何を言われたんだ!! それだけでいいから言えッ!!」

 振り向きざま、コノの胸ぐらを掴んで怒鳴る。
 よく考えたら、俺、コノを本気で怒鳴ったことなんて一度もなかったはずだ。あっという間にコノの目に涙が溜まってきて、かたかたと口元が震え始めて。

「な、っ……何も、言われてない……知らないっ……」

 問い詰めてもムダだと悟った俺は、コノを半ば突き飛ばすように押し退け、廊下を戻る。まずは客間に――結女が自室として使っていた部屋に入る。押し入れを開ける。
 来客用の布団があるだけで、結女の私物が一つもない。

「沖継く……っ、沖継くん! 沖継くんってばっ!」

 まとわりつくコノの声を無視して階段を駆け上がる。俺の部屋に入る。結女の後を追わなきゃいけない、今すぐに。そのために必要なのは、何よりも必要なものは――。

 ない。

 稜威雄走が、ない。
 机の上に置いてあったはずなのに、どこにもない。

 代わりに、一通の封筒が置いてある。取り上げて封を引き裂く。
 中には紙切れが二枚。うち一枚は手紙だ。達筆すぎてところどころ読み取れないのがイライラするんだけど、それよりも内容の方にもっとイライラ。色々と迷惑をかけた、私たちは出会うべきではなかった、私の事は忘れてくれ、お前が大切にすべき女は他にいる、もう邪魔はしたくない、とかとかとか、好き勝手なことばっか一方的に書いてやがる。

 そして、残るもう一枚の紙切れ。

 は、はは、はははは。
 初めてだよ、直に見るのは。

 離婚届。

 妻の欄はきっちり記入済み。印鑑も押してある。

「ああ、そうかい、そうかいそうかい……」

 あんなにパーティをやりたがったのは、盛大なお別れ会をやるつもりで。
 あんなに酒を飲ませることにこだわってたのは、場が素面じゃ何かと面倒だからで。
 あんなに嫌ってたコノと和解したのも、その後の始末を押しつけるためで。
 最後はこうするつもりで、準備を着々と整えてやがったんだ。

「そういうことかよ! あぁンのバカタレがっ!!」

 怒りにまかせて手紙と離婚届を握り潰し、床に叩き付け、俺は身を翻す。
 けれど、部屋の出入口にはコノがいて。
 ここは通さないと言わんばかりに、足を踏ん張り、両手を広げていた。

「何してんだお前、そこ退け!」

 コノは涙目で、口をきつく引き結び、小さく首を振る。

「お前とじゃれてるヒマはねェんだよっ!! どうせお前は何もわかってねェだろうからはっきり言ってやる! このままほっときゃ結女は死ぬんだ! ひょっとしたらもう手遅れかもしんねェんだぞ!」
「結女ちゃんは、話し合いに行っただけだよ」

 コノは、俺の目を真っ直ぐ見据えて、意味のわかんねェことを言いやがる。

「もう二度と、武器を手にして戦ったりしないって。その代わり、この国と私たちにちょっかい出すのは金輪際辞めてくれって。そう頼みに行っただけだよ」

 ああもう案の定だ、コイツは何もわかってねェ。

「こンのバカタレがっ!! 結女に言われたまんまリピートしてねェでちったぁ自分の頭で考えろ! 向こうがちょっかい出してくるのを辞める訳ねェんだよっ!! こっちの選択はハナっから完全降伏か徹底抗戦の二択しかねェんだ! 話し合いに行ったところで決裂すんのは目に見えてんだ! その時点で結女の命は終わったも同然なんだよ!」
「そんなの、やってみないとわかんないよ」
「やってみなくてもわかりきってんだよそんなことすらわかんねェのか! 俺と結女はもともと裏切り者なんだよ! 罪を裁く側と裁かれる側に交渉する余地なんぞあるわきゃねェ!! 問答無用でブッ殺されても文句が言えない身の上なんだ!!」
「……わかってるよ」

 コノの表情は、まるで変わらない。

「そんなの、覚悟の上だよ。私だって、結女ちゃんだって、わかってるよ」
「だったらそこ退けよ!! このまま結女が死んでも構わないってのかっ!!」

 力尽くでコノを退かせようとしたんだけど、コノの方も俺にしがみついてきて、力尽くでも行かせまいとしてやがる。

「ちょ、このっ……いい加減にしろよっ……!! お前なんぞに俺を止められる訳ないだろがっ! ああもう鬱陶しい! しまいにゃ殴るぞこんにゃろう! 相手がお前だからって手加減なんかしねェからな! 結女の命がかかってんだっ!!」
「沖継くんの命だってかかってるよっ!!」

 コノの絶叫。

「結女ちゃんが魔人と殺し合いしてるとこに割って入ってどうするの! 絶対に結女ちゃんを助けられる保証なんてないんだよ?! 結女ちゃんを助けようとしたら沖継くんだって殺されるんだよ?! そんなの沖継くんが一番よくわかってるんじゃないの?!」
「だからってみすみす見殺しにできるかっ!!」
「沖継くんは正義の味方じゃなかったの?! これっぽっちも正しいと思ってない戦いに首を突っ込んで結女ちゃんと一緒に死ぬ気なの?! 残された私はどうすればいいのよ!! あの時沖継くんを止められなかったって、沖継くんを殺したのは私だって、そうやって一生悔やんで生きて行けって言うの?!」

 コノを引き剥がそうとしていた俺の手が、一瞬、止まる。
 ほんとに一瞬なんだけど、その隙に俺はコノに押し倒されて、床に倒れ込む。

「あだっ……!! ちっ、ちっくしょっ……」

 俺の胸元にしがみついたまま動こうとしないコノを、何とか引き剥がそうと悪戦苦闘。
 いや別に、手段を選ばなきゃ一瞬でどうとでもできるんだけど――。

「……? おい、コノ……」

 様子が、変だ。
 泣いてんのか?

「もう……やだよ……」

 俺の胸にしがみついて、顔を押しつけて。

「この一ヶ月、ずっと怖かったんだよ……鉄砲持って毎日魔人と戦って学校にも来なくて、いくら沖継くんが強いからって、結女ちゃんが側にいるからって、一歩間違えたら死んじゃうかもしれないのに……。でも我慢してたよ、ずっと我慢してた、正義の味方になりたいなんていつも大真面目に言ってたからこのくらい耐えなきゃって……沖継くんならきっとみんなのために命懸けで働く仕事に就くんだろうなってずっと思ってたし、もし沖継くんが警官とか消防官とか自衛官になってもこういう不安はどうせ同じなんだって、しょうがないんだって、無事を信じて待つのが私の役目なんだって、近所の神社に毎晩出かけて何度も何度も神様にお願いしてた、どうか沖継くんが無事で買ってきますようにってずっと祈ってた……でももう違うんでしょ? 勝ち目ないんでしょ? 戦ったら死んじゃうんでしょ? 正義の戦いなんかじゃないんでしょ? 沖継くんの夢でも何でもないんでしょ?! やだよそんなの、絶対やだ、私は絶対にそんなのやだ……!!」

 喋り続ける。
 堰を切ったように。
 俺の胸元を、小さな握り拳で、何度も何度も叩きながら。

 打ちのめされた俺は、何も言えずに。
 コノの心から溢れ出す濁流に、呑まれていく一方で。

「何だよ、お前……。何で……」

 理解が、追いつかない。
 どうしてコイツは、ここまで必死になれるんだ。

 コノはついこの間まで、どこにでもいる普通の女の子だった。たまたま俺の家の近くにいて、小、中、高と同じ学校に通ってきただけ。それ以上でもそれ以下でもない。コノが抱えてる俺への恋心も、普通の女の子の範疇から一歩も出ていなかった。少なくとも俺はそう感じていた。恋した自分に恋してる、みたいな部分が間違いなくあった。
 だから、何度も繰り返し好きだとか言われても、全く心に響かなかった。
 学校を卒業して、俺が側からいなくなれば、俺への想いは青春の一ページとしてあっという間に風化して、別の男を好きになっただろう。それが普通の女の子ってもんだ、

 でも、目の前にいるコノは、どう考えても普通じゃない。

 俺にくっついてきたせいで何度も死にかけて、とっくに逃げ出してなきゃおかしいのに、それをことごとく乗り越えて、今なお俺の側から離れようとしない。

「何なんだよ、お前……」

 戸惑うばかりの俺は、バカみたいにその一言を繰り返す。
 理解できない。単に俺が好きってだけで、ここまで出来るはずがない。
 出来る、はずが、ない、のに。

「今の沖継くんは、結女ちゃんの昔の旦那さんなんかじゃないんだからっ……。誰に何を言われたって私はこれだけは絶対に譲らない、沖継くんは沖継くんだよ、私の一番大切な人で、一度死んで生まれ変わって、今はもう別の人生を生きてるんだよ、いろいろ才能に恵まれてるだけで、それ以外は私たちと何も変わらない、伊弉諾とか伊弉冉とか神様の時代に起きたことなんて関係ない、魔人との因縁なんて今の沖継くんには何の関係もなかったんだからっ……。そうでなきゃおかしいよ、そうじゃなきゃダメだよ……私たちが生まれる前の因縁に巻き込まれて沖継くんが死んじゃうなんて、そんなの変だよ、間違ってるよ、絶対に絶対におかしいよっ……!!」

 俺は、もう。
 何も言えなかった。

 あれやこれや言う資格なんて、なかった。

 いつも適当にあしらって、後回しにして、それでも何となく気心が通じてるからわかってくれるだろって、実際コノもわかってくれて、笑顔でいてくれて。

 その笑顔の裏に、こんな気持ちを抱えてたなんて、知らなかった。
 想像しようとすら、してこなかった。

 好き、という言葉の裏を。
 本当の意味を。

「……ごめん、コノ」

 しがみついたまま、泣きじゃくるコノの頭を、そっと撫でて。

 こんなに近くに、こんなにも俺のことを想ってくれてる女の子がいたのに。
 守ろうともせず、迷わせ続けて、ずっと泣かせてたんだ。

「ほんとに……ごめん」


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