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おひさまは今夜も空を飛ぶ(2)

持つべきものは友達だよね


 翌朝早く、愛用の縁なし眼鏡にジャケット、ブラウス、ジーンズにズックという格好のみつきが、杉並区にある高級マンションを訪れていた。
 出入り口は指紋の認証とパスワードを併用した電子ロックだが、みつきはそれらをあっさり通過、広いロビーでも迷うことなくエレベーターに乗り込み最上階へ上がる。そして[昭月]と表札のある角部屋の玄関先でインターホンのスイッチを押した。

 だが、いくら待っても応答がない。

「……絶対居る。居ない訳がない」

 五秒待って押す。応答なし。次は三秒待ち、二秒待ち、一秒。とうとう切れ目のない連打になった。
 と、ドアチェーンが外されて、扉が開いた。

「朝早くからごめんね、綾。用事が……」

 言いかけたが、現れた部屋の主を見て絶句する。
 その二十代半ばの女は艶やかな黒い髪を長く伸ばし、切れ長の目、高い鼻。胸は大きく誇らしげに上を向き、手足も細く長い。掛け値無しの美人だが、黒のガータベルトにシースルーのスリップという下着姿で、胸元や脇腹に残る幾つものキスマークを隠そうともしないのだ。妖艶なことこの上ない。

「もう少し静かになさいな……。昨夜はあまり寝ていないのよ、私……」

 気怠げに言うその声がまた、ひどく艶めかしい。
 彼女が、かれこれ十年近い付き合いになるみつきの古い友人、昭月綾だった。

「なんて格好で出てくんのよ、あんた……」
「みつきの方こそ、その眼鏡。似合わないからやめなさいって何度も言ったのに」
「私には私の深刻な事情があんの。つーか、せめてガウンの一つも羽織んなさいな。もしも大家さんや宅配便の人だったらどうする気だったのよ」
「来たのがみつきでなければ居留守を使ったわよ。こういう時だけは自分の能力が恨めしいわ……」
「……ねえ、部屋にまだあんたの彼氏、居るの?」
「あら、そういう風に見える?」

 見えるわいこんちくしょう、ちっとも羨ましくなんかないやい、と、みつきは心で呟いてから、

「ごめん、出直す。昼頃にまた来るよ」
「どうして遠慮するの? お入りなさいな。みつきさえよければ、一緒に……ね」
「へ? 一緒に?」
「そう。三人で、一緒に」

 綾は潤んだ目で、誘うように微笑む。

「……帰る。空飛んで帰る。今すぐ帰る」
「ああもう、冗談よ、上段。うちの彼は常識人だもの、そんなの嫌だって言うに決まっているから」
「なら、まかり間違って彼氏がOKしたら?」
「…………」
「考え込むな。想像するな。にやけるな」
「ねえ、みつき。いっそ私と二人なら……」
「やっぱ帰る。絶対帰る。意地でも帰る」
「だから、もう。冗談よ、冗談」
「ええい、しなだれかかるな、耳元に息を吹きかけるな。愛情と友情はちゃんと区別しなさい、こら、放せ、とにかく彼氏が居るんなら帰るってば」
「大丈夫よ、本当はね、今は私一人。彼は少し前に仕事で出て行ってしまったから」
「……本当なんでしょうね」
「中に入ればわかることよ?」
「ま、信じるけどさ……」
「さ、早く入って。あなたが昨夜会った背が高くて髪は短めの笑顔が似合う素敵な彼の話は、シャワーを浴びて着替えた後でゆっくり聞くから」
「…………」
「あら、当たったの? みつきが好きなひとのタイプを適当に並べてからかってみただけなのに。本当よ、頭の中を覗き込んだ訳ではないわ」

 部屋の中へみつきを迎え入れつつ、綾は心底楽しそうに笑っていた。
 彼女もやはり超能力者で、先に述べた超能力研究所を壊滅させた三人のうちの一人だ。アクティブ・キャリバーはそう強くなくサイコキネシスもごくわずかしか使えないが、物質の状態やエネルギーの流れ、感情の変化を読みとるパッシブ・キャリバーを得意とし、これを応用することでESPを発動、予知や過去視、透視、遠視、テレパシーなどを可能にする。その上、世事に長けており洞察力もあった。みつきが最も信頼を寄せる親友である。
 ただし、みつき本人は〝親友〟の前に〝条件付きで〟と付け加えるのが常なのだが。




 2LDKの綾の部屋は、アンティーク調で趣味良く統一されていた。高価な一品物の工芸品や絵画も多く、本棚にはオカルティストが垂涎の眼差しを向ける呪術儀式に関する古書がずらりと並ぶ。古来、巫女やシャーマン、預言者として扱われてきたESP能力者の一人として、スピリチュアルな方面へ向きがちな彼女の嗜好が反映された結果だった。
 ただ、何よりみつきの興味を引くのは、これだけの蒐集にどれほどの金銭が必要なのか、である。

「いつも来る度に思うけど、二十代半ばの女が一人で住む部屋じゃないよ、これ……」

 リビングで座り心地のいいソファに身を沈めつつ呟く。朝のワイドショーにチャンネルを合わせたままのテレビまでもが木目調で、しかも三次元音響を備えた最新のSED型だ。他の家電製品も安価な普及品は一つも見当たらなかった。

「あら、これで案外お金はかかってないのよ。大抵は蚤の市で探してきたものだし。ついでに言うと、電化製品は彼が勝手に買い換えちゃうのよ」

 コーヒーを淹れつつ綾が言う。シャワーを浴びて着替えを済ませた彼女は、白の長袖シャツに黒のジャンパースカートという控え目な服装で、長い黒髪も結い上げてバレッタでまとめてある。その上、表情や仕草までもが楚々としたものに変わっていた。
 良家の令嬢と言われても、疑う者はまずいない。娼婦と見紛う先の雰囲気が嘘のようだ。

「どっちが本当の……ううん、どっちも本当の綾なんだけどさ」

 みつきにとって、綾は単に幼馴染の友人というだけでなく、自分の理想像を体現した存在でもあった。

「なあに、みつき。聞こえなかったわ」

 コーヒーを運んできた綾が、みつきの向かいに腰を下ろしつつ言う。

「ううん、別に。いろんな意味でリッチだなーって」
「リッチだなんて……でも、そうね。私個人の資産も結構増えたのは事実よ。持ち株の配当だけで食べていける程度には利益も出始めたしね」
「ESP能力者が株買うの? なんか反則ぅ……」
「堅いことは言いっこなし」

 綾は人差し指を唇に当て、悪戯っぽく微笑む。

「それよりみつき、さっきの話。続けてくれる?」
「あ、昨夜の件ね。どこまで話したっけ」
「例の松永さんがもう帰らないって呟いて、その後」
「じゃあ、話は終わり」
「……は?」
「そのあと別れちゃったんだもん。松永さん、雑居ビルの近くに自分のバイクを停めてたんだけど、病院も一人で行けるからほっといてくれって。私はバイクが見えなくなるまで見送って、それっきり」
「あきれた。そこは追いすがるところでしょうに。少し厚かましいくらいにお節介を続けて自分を売り込むの。遠慮していても恋は実らないのだから」
「勝手に恋愛事まで話を広げるなってば。それに、その時の松永さんの目、すごい怖かったし……」
「しおらしいこと。ガラの悪い連中は叩きのめしたくせに」
「……うっさいなぁ」
「まあ、おおよそは解ったわ。それで? 話を聞かせるためだけに来た訳ではないでしょう?」
「あ、うん、何となく気になって。昨夜のことって、本当にただの喧嘩だったのかなー、とか。ほら、私が誰かの叫び声を聞いたときって、いつもはもっと酷いことが起きてるでしょ。連続幼女誘拐殺人とか、結婚詐欺女の保険金殺人現場、新興宗教の拉致監禁事件、医者がヤクザに薬物を横流ししてたとか」
「あらためて聞くと壮絶ね……」
「だからさ、今度もそのくらい大変なことだったんじゃないかなって。でも、確認したくても、私一人じゃもうどうしようもないし」
「私に、手伝えって言うのね?」
「……駄目かな」

 綾は、深い溜め息を吐く。

「ねえ、みつき。何度か同じことを言ってきたけれど、例の叫び声はもう無視なさいな。あなたがこんな事件を解決しなければならない義務はどこにもないのよ?」
「私が解決するって言うか、適当に暴れて騒ぎを大きくしたら警察が来て、それで解決っていうパターンが一番多いけど……」
「同じことよ。いくらあなたに特別な力があっても、無防備な時に不意をつかれたらどうしようもないのだし。大怪我をしてからでは遅すぎるわ」
「それは、まあ、そうなんだけど……」
「何なら、パッシブ・キャリバーを閉じる方法、教えましょうか? みつきも少し訓練すれば、意図せずに入り込むイメージを閉め出せるはずだから」
「あ……うん……。でも、その……」

 みつきが、下を向いて言い淀む。

「……お人好しなんだから」

 綾が苦笑する。が、その目は優しかった。

「まあ、今回だけは、あなたの恋人候補の松永さんも気になることだし」
「だから、恋愛話にするなってば、もう」
「はいはい了解。とにかく手伝ってあげる。報酬は中華街の龍輝園で手を打ちましょう」
「……はい?」
「だって、みつきに付き合うと絶対に一日は潰れるもの。それなりの報酬がないと」
「私だって今日は予備校休んで……って言うか、自分の方が金持ちなのに、コンビニで細々とバイトしてる私にたかるつもり? この守銭奴!」
「あらそう。ならいいわ、さよなら。また今度ね」
「……わかったわよ、こんちくしょう」
「何せ、もう少し手がかりが欲しいわ。まずはあなたが松永さんと出会った雑居ビルのすぐ近く……傷害事件があったゲームセンターへ行きましょうか」
「ゲーセンって? 何それ、予知とか透視?」
「いいえ、違うわ」

 綾は、つけっぱなしのテレビを指差した。

『……ご覧下さい、店内は酷い有様です。何台ものゲーム機が破損し、ところどころに被害者らの血痕が飛び散っています。犯人と思われる青年が一人で暴れ回ったとのことで、当時ここを訪れた客の多くがその被害に遭い、複雑骨折や内臓の損傷などの重傷を負わされました。なお、犯人の情報は極めて少なく、警察では目撃情報を求めて……』




 綾の所有する小型自動車で新宿に出かけた二人は、件のゲームセンターから少し離れた路上に車を停めた。行き交う車や人々が垣になっているものの、辛うじて事件現場の様子を窺うことはできる。今も警察の関係者が入り口を封鎖していて、周囲に群がる野次馬の数も多かった。

「多分、松永さんがやったんだと思うけど……」

 みつきが靴を脱いで助手席の上に立ち、車のラグトップ(ビニールレザー製のサンルーフ)から顔を出した。

「でも、これだけの規模の事件なら、みつきが叫び声を感じ取ったのも納得できるわね」

 綾もみつきと同じに、運転席に立って現場を見る。

「松永さん、鉄パイプでも振り回したのかなあ。そんなことする人には見えなかったんだけど……」
「みつき、悪いけど、しばらく話しかけないで」
「あ、今度こそESP使ってるの?」
「ええ、ステージ2相当」
「早く言ってよ……。はいはい、頑張ってね」

 みつきはラグトップから頭を引っ込め、シートに身体を預けた。特にすることもなく、ルビーレッドに塗られた車の外装をぼんやり眺めて時間を潰す。
 車種はフォルクスワーゲンのタイプ1、いわゆる旧型のビートルで、新車同様にレストアされた五十四年式のビンテージ。綾の趣味は車にも徹底している。走行性能に関わる部分は可能な限り近代化が施されているが、エアコンやカーナビは未搭載。かろうじてレトロな押しボタン式ラジオがあるのみだ。
 何気なく外に目をやる。ワーゲンの周囲にも何人か事件現場を眺める野次馬がいて、その視線が時折みつきたちの方に向けられていた。丸いフォルムの可愛らしい車の天井からとびきりの美人――綾が顔を出しているせいだろう。ナンパ目的の若い男が「変わったクルマだね、これ外車?」と声をかけてきたが、当然ながら綾は無視。みつきにとっても鬱陶しいだけなので、窓から首を出して適当にあしらい追い返した。

「……面白いわね、これ」

 ずっと事件現場を見ていた綾が、ぽつりと言う。

「なになに、どゆこと? 何か見えたの?」
「ええ、残留思念を追いかけて過去視を試したのだけれど……あの店、暴力団予備軍のたまり場なのね。援助交際の斡旋や薬物の取り引きもやっているみたい。店長がもともと、そういう世界の人なのよ」
「へー。相変わらず、防犯カメラも真っ青だ」
「それは言い過ぎ。あくまで私の感じ方に過ぎないし、ESPで捉えた情報を自分なりに置き換えただけなのよ。一つの石を目で見るのと、指先の感触で確かめるのと……同じように石だと判断できても、情報の質は違うでしょう? この差は大きいわ」
「そりゃまあ、そうなんだろうけどさ」
「どのみち、あの店の防犯カメラは一台もまともに動いていないようだけれどもね。警察もアテにしていた情報が取れなくて困っているみたいだし」
「やっぱり、防犯カメラも真っ青じゃない」
「だから、もう。あくまで向き不向きの問題なのよ。……それで、昨夜の九時頃だけど」
「うん」
「十人、十五人……店の外に見張りもいるわ。不良グループの会合みたいね。そこに誰か一人……部外者がやってくるの。すごく怒っている。男の人よ」
「それ、松永さんかな?」
「可能性は高そうだけれど、私は彼に会ったことがないから断言はできないわ」
「そうだ、忘れてた。昨日の夜ね、雑居ビルの屋上で松永さんの落とし物を見つけてて」

 みつきは言って、後部座席に置いてあったバッグから茶色の定期入れを取り出した。

「小さい写真も何枚か入ってるよ、定期券の裏に」
「そんなものがあるなら早く見せなさいな……。持ち物には人の念が宿るものだし、それを感じ取れたらESPの精度は格段に上がるのよ?」
「ごめん、責めないでよ……。それで、どう?」

 すると綾は、定期入れをただ受け取っただけで、

「……ええ、間違いないわ。さっき言った優しい感じの人は松永さんでしょう」

 断言した。みつきも「やっぱり」と我が意を得る。

「そして、松永さんはグループのリーダーに掴みかかった。でも、多勢に無勢、返り討ち。取り囲まれて一方的にね。容赦がないわ。無関心なリーダーは指示もせずに早々に居なくなって……あら?」
「綾? どうしたの?」
「急にイメージがぼやけて……ごめんなさい。今いる野次馬の思念波がノイズになっているのかも。ただ、結果はわかるわ。不良は全員倒れて血みどろ、最後に立っているのは松永さん一人だけ。すぐに外から三人、見張りの連中が駆けつけたけれど、訳がわからなくて戸惑っているだけね」
「何よそれ、形勢逆転ってことよね? 松永さんって実はすごく喧嘩強かったとか?」
「わからないわ。その後、松永さんは逃げ出して、見張りの三人が血相を変えて追いかけて……。あとは……これは警察官ね、そう、警察が来たわ」
「そこから先は、私が知ってる時間帯?」
「そういうことに……なる、かしらね」

 綾はPCを閉じて吐息を一つ、眉間の下を指で揉み解しながらシートに座り直そうとする。
 その時、綾の身体が揺らぎ、がくっと膝が折れた。

「綾、大丈夫?」
「……大丈夫よ、立ち眩み。何でもないわ」

 しかし、顔色を変えたみつきは慌てて綾の肩を抱き脚に手を添え、座り直すのを介助する。

「ちょっと、みつき……いいのよ、そんな」

 言われてもみつきは構わず、綾の胸元に手を伸ばす。シャツのボタンを外して胸元を大きく開き、豊かな胸の谷間にあったペンダントを引っ張り出した。それは小さなピルケースになっている。

「そんな、トランキライザなんて必要ないから……」
「いいから一粒だけでも飲んどきなさい。私と違ってあんたの力はデリケートなんだから。ね、頭痛は? 吐き気は? はい、これ指何本?」
「五本のうち薬指と小指を曲げて三本。この程度で変になるほどやわではないわ」

 ペンダントを仕舞いつつ、苦笑。綾の言葉に嘘はないが、みつきの心配が大袈裟だとも言い切れない。
 実のところ、パッシブ・キャリバーはほとんどの人間が[第六感]として日常的に接している能力なのだが、故に綾のように先鋭化したESPは一種病的な肥大だと解釈し得る。もちろん訓練次第で精神力は増していくし、過去視のような魔法じみた応用も可能になってくるけれども、一歩間違えば脳神経組織の許容量を超えて精神を病み発狂、下手をすれば脳死すら引き起こしかねないのだった。

「まあ、無事ならいいんだけど……。ほんと気をつけてよ、私だって無理してまで綾に頑張って欲しいだなんて、これっぽっちも思ってないんだから」

 みつきが口を尖らせて言う。

「本当に、無理はしていないのよ。……さて、今度は少しステージを上げて再挑戦してみるわ」
「こら、もう、無理しなさんなって」
「さっきね、途中でイメージがぼやけたって言ったでしょう? 妙に気になるのよ。確かにノイズは多いけれど、普段なら昨日の夜に起きたことを見通すくらいで手こずる訳がないもの。だから……」
「ちょ……いいから、やめなさい、言うこと聞けっ」

 みつきは、立ち上がろうとする綾にしがみつく。

「本当に大丈夫なのよ? もう」

 仕方なく、綾は言うとおりに感覚を閉じた。
 と、それを見たみつきが露骨に嫌そうな顔をした。

「みつき? どうかした?」
「ん、いや……その、別に、何でも」
「そういう顔ではなかったわよ?」
「……あのね、綾。はっきり言っとくけど」
「なあに?」
「私がちょっと優しくしただけで心底嬉しそうな顔しないで。しかも今は素だったでしょ。お願いだから勘弁して、ある意味すっごく気持ち悪いから」
「私、今、そんな顔してたの?」

 みつきの真剣な顔に少し驚いて、綾は慌ててクルマのバックミラーを覗き込む。

「みつき、私も一応はっきり言っておくけれど」
「何よ」
「私、性根はノーマルですからね? ……多分」
「そこは自信を持って断言してよ……」
「とにかく今一つだけ言えるのは、昨夜、みつきが松永さんに追いすがらなかったのは最大級の失敗だったということね。それこそ色々な意味で」
「……うぐ」
「まあ、最初は一対多数で一方的な暴力を振るわれていたのだから、過剰防衛だとしても情状酌量の余地はあるわ。起訴猶予や執行猶予で済ませるためにも、警察の先回りをして何とか松永さんを探し出して、自首を勧めるのが良策でしょうね」
「綾、探し出せる? 松永さんの気配を感じ取るとか、残留思惟を追いかけるとか」
「現状では無理ね。松永さん本人の手がかりが足りなさすぎて彼の存在をトレースできないわ。最低限、肉親縁者から彼について話をいろいろと聞くとか、住み暮らしている場所に入るかしない限り」
「じゃあ、予備校に行って事務で松永さんの住所を訊いてこようか? ほら、友達だって言えばさ」
「わざわざ家に訊ねてくる友達が、息子さんはどんな性格ですかとか訊くものかしら? それとも、彼の部屋へ忍び込むか力ずくで上がり込む?」
「……怪しい人だと思われるかな」
「思われるわよ、確実に」

 嘆息しつつ、綾は松永の定期入れから写真を取り出してみた。台紙の質からして、デジタルカメラで撮影した画像を個人で印刷したものだろう。

「せめて、ネガから起こした生写真ならね……」

 常人にとっては画質さえ良ければ同じことだが、綾にとっては大きな差があった。
 生写真であれば、撮影対象から反射した光がフィルムに届き、ネガを経て写真になるという物理的な連続性が存在するから、撮影の前後で被写体が発した思念波の残滓まで写真に届いている可能性が高い。いわゆるサイコメトリーの手がかりになるのだ。
 だが、デジタル機器で撮影された映像は、データ化された際に物理的な連続性が寸断されてしまう。これをプリンタで出力しても、所詮はプログラムに基づいて精巧に描画されたただの絵でしかない。

「これだから、ハイテク機器は嫌いなのよ」

 ぼやきつつ、綾は複数枚ある写真すべてに目を通す。街で偶然見かけた芸能人をこっそり撮影したものや、何気なくシャッターを切った夕暮れ時の風景、男友達と峠にツーリングへ出た時のひとコマ。

「最後の一枚は、家族の写真かしら」

 松永泰紀本人と、その後ろにいる中年の男女──おそらく両親だろう。そして、松永の隣ではにかむ制服姿の女子高生は妹と言うところか。

「……? この写真……」

 常人離れした綾の勘に、何かがひっかかった。
 が、そこでみつきが何度も肩を叩いてくる。

「ちょちょちょ、あああ、綾ってば」
「何よ、そんなに慌てて」
「あれ見て、ほら、野次馬の中に居る女の子」

 みつきの示す先、道路を挟んで五十メートルほど向こうに、不安げに事件現場を見つめる娘がいた。

「私服だけど、あれ、その写真の女の子じゃない?」
「……ええ、間違いなさそうね。でも、どうして平日のこんな時間にこんな所で」
「私たちも人のことは言えないけどね」
「混ぜっ返さないでよ、みつき。……まさか彼女、お兄さんが犯人だって知っているのかしら。それとも、偶然通りかかっただけかしら」
「そういうのも直に訊こうよ。道端で偶然会って立ち話なら別に、怪しい人だと思われないでしょ?」
「……それもそうね」

 だが直後、その少女は哀しそうに俯いたまま歩き始めた。その姿が街の雑踏に紛れて消えていく。

「あ、やばっ。追いかけなきゃ!」

 みつきは、車のラグトップから飛び出そうとして、

「ちょっと待ってみつき! こんな昼間に空飛んで人垣越えていくつもりなの?!」
「……あ、そ、そっか、ごめん」

 結局、その少女の姿は見えなくなってしまった。道路の信号を待って野次馬をかき分けていかなければならないのだから、まず追いつけないだろう。

「あー……。ねえ綾、あの子をESPで追跡できない? 顔も直に見たし、何とか」
「無茶言わないで。あなたに言われてからずっと、パッシブ・キャリバーは閉じっぱなしなのよ」

 綾は言って、肩を落とす。

「参ったわね、これから先は、なかなか……」
「……ねえ、綾。あんまり言いたくなかったんだけど、もう一つ手がかりがあるの。ほら、その写真の女の子が着てる制服、なんか見覚えない?」
「制服って……」
「瑤子の女子校でしょ。聖メリッサの高等部」

 綾の表情が途端に明るくなった。
 一方、みつきの表情には影が差す。

「……行かなきゃ駄目かなあ、やっぱり」
「駄目も何も、神様の導きと思って感謝すべきね」

 綾はエンジンをかけ、車をスタートさせた。




 世田谷の私立校、聖メリッサ女子学院。欧州の女子修道会を母体とする中高一貫教育の全寮制私立校で、設立後間もない真新しい校舎はゴシック様式を取り入れてデザインされている。
 ここを訪れたみつきと綾は、業務の受付を通して在校生の一人を校内放送で呼び出してもらった。ちょうど昼休みの時間帯だったからか、対応は早かった。校内放送が学内に響き渡る。

 そして、来客用のホールで待つこと暫し。

「ひなたせんぱああああああいっ!!」

 二人に呼び出された女子中学生は、廊下のはるか向こうから脇目も憚らず大声でみつきの名を呼び、駆け寄り、そのままの勢いで抱きついてきた。

「こ、こら……ちょっと、瑤子……」
「お久しぶりですっ!! 何ですか、あたしに用ですか?! 何でもしますから遠慮せず言って下さい!! ひなたセンパイのためならたとえ火の中水の中っ!!」

 その小柄な少女は抱きついたまま、少し目尻が垂れた愛嬌のある可愛い顔をみつきの胸に押しつけ、ショートカットの髪を振り乱し一人問答を繰り返す。みつきはげんなりして「久しぶりって、先週会ったばっかでしょうが……」と呟き、綾はその様子をけらけらと笑いながら見ているだけだった。
 少女の名前は、大地瑤子。十三歳の中学二年生。みつきと綾、そして彼女を含めた三人が、件の超能力研究所を壊滅させた超能力者なのだった。

「あ……っ、お……お願いだから、瑤子、離れ……」
「あ、すみませんセンパイ、痛かったですか?」
「別に、痛くはないけど……」

 顔を赤くしたみつきは瑤子の手を退け、周囲の目を気にしながら胸の周りへしきりに手をやる。

「あ、まさか……。すみません、直します」
「ああもう、自分でやるってば……。ごめん綾、瑤子に説明してやって。私、ちょっとお手洗い……」

 みつきが言うと、綾は心底楽しそうに、

「あら、恥ずかしがることはないわ。どうせ女子校だし、通りかかるのも女の子ばかりよ。ここで堂々と上を脱いでずれたブラを直しなさいな」
「は、はっきり言うなっ!」
「はいはい、いいから行ってらっしゃい」

 綾はみつきを見送って、瑤子に向き直る。

「……実はね、瑤子」
「何ですか? 綾さん」

 つい今までの浮かれた調子が嘘のように、瑤子はごく普通に応じる。綾のことは名前で呼び、しかも先輩ではなくさん付けだが、別に失礼ではないし、綾も「いつものこと」なので気にはしない。

「この学校の高等部に、松永という子が居ると思うのだけれど、瑤子、知らないかしら?」

 綾がそう訊くと、

「名前とクラスだけでいいですか? 一人は情報科の三年十組、あとの二人は一年の普通科で二組と五組。名前はそれぞれ、松永恵、松長ひびき、松永妙子。以前見た生徒の名簿に間違いがなければ」

 瑤子は即座に、躊躇なく言い切った。
 実は彼女、一度見聞きしたことは絶対に忘れない瞬間記憶能力の持ち主なのだ。その他にも絶対音感や類い希な運動神経、米粒に絵が描けるほどの器用さ、桁外れの暗算能力などなど、誰もが素晴らしいと賞賛する才能をほとんど全て兼ね備えている。
 ただ、これらは所詮、平常的な能力の延長でしかない。瑤子が超能力者と呼ばれる理由は他にある。

 特殊能力〔EX〕。

 ほとんどの超能力は論理的な原理原則、すなわち思念波の働きに添って解明できるのだが、ごくわずかながら例外が存在する。瑤子が、それだ。
 詳細はここでは伏せる。いや、誤解が生じるのを承知でならわずか一言二言で表現できるのだが、瑤子が実際にその力を行使するまで待ちたい。

「なら、この写真で絞り込める? この女子校に該当者はいるかしら、彼女の手がかりが欲しいの」

 綾は、件の家族写真を瑤子に見せた。

「ええと、体育祭で陣営対抗リレーの選手だった人かな。私の記憶とは髪型が変わってますけど、三年生の松永恵さんで間違いないはずです」
「そう。やはり松永泰紀さんの身内だったのね」
「松永、恵……メグミ? ……あっ」
「どうしたの? 他に何か心当たりでも?」
「あの、寮の食堂でたまたま耳にした噂話なんですけど……。高等部の誰かが失踪したらしい、って。この件絡みで最近、学校に警察の人も来てたそうで。この最中にメグミって名前が出てたんです」
「失踪……ね。他には?」
「あたしが憶えてるのはそれだけです」
「そう、じゃあ、松永恵さんに関係するものを可能な限り見てみたいわ。教室や机の中、部活動や部室、ロッカーの中、美術の授業で描いた絵、寮で彼女が使っている部屋……何でもいいの」

 高校生以下の学生というのは、両親と住み暮らす自宅より学校の方を生活の場だと意識している場合が多い。まして全寮制の女子校なら尚更だ。しかも、授業の時間割や学校行事が否応なしに日々の変化をもたらすから、残留思念を拾うだけで超感覚の精度を上げる有益な手がかりが揃う可能性が高い。
 これは綾にとって、この上ない僥倖である。

「え、と……さすがに今は無理ですよ。せめて放課後にならないと」
「ああ、そうね。仕方ないわ、どこか近くのファミレスで時間を潰しながら待ちましょうか」
「あの、綾さん。これって、ひなたセンパイのいつものやつが絡んでるんですか?」
「ええ、そうよ」
「でもたしか、ひなたセンパイが変な事件に首を突っ込むのって、綾さんは反対してるはずじゃ……」
「そうね、実は今、私たちが助けようとしている人がいて、その松永恵さんのお兄さんらしいの。みつきの通ってる予備校の知り合いでね。……彼、割と素敵な人らしいのよ」
「えっ? それって……」
「まあ、みつきは色々否定しているのだけれど、ね」
「…………」

 その時、ちょうどみつきが戻ってきた。

「どう? もう話は済んだ?」
「ひなたせんぱああああいっ!」

 またしても瑤子がみつきに抱きつく。

「こ、こら瑤子、さっきの今で……」
「水臭いですよ! あたしも手伝います!」
「……へっ?」
「困ってる人は助けなきゃ! それがセンパイの彼氏候補なら尚更です! 一緒に連れていって下さい! 絶対、足手まといにはなりませんから!」
「か、彼氏候補って、ちょっと」

 抱きつかれたままのみつきが綾に目をやると、綾は笑って肩をすくめてみせた。

「だから……。何で常にそーいう話にすんのよ、あんたは……」
「それよりみつき、瑤子はどうするの?」
「どうって、瑤子まで巻き込んだら……」
「いろいろと面倒臭い話みたいなのよ。私は手伝ってもらった方がいいと思うわ」

 みつきは、力無く苦笑して、

「……じゃあ、瑤子。お願いしてもいい?」
「はいっ! 精一杯がんばりますっ!」

 瑤子は笑顔で、さらに強く抱きついてきた。

「あ……あう、瑤子、ちょ……もう……」
「あら、またズレたの?」
「……綾、うるさい」

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