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〔SE2:ラフ〕瑤子とみつき(仮)

【はじめに】
 これは小説ではなく、清書前のラフ(文章構成や表現の巧拙などを度外視し、冒頭から結末までひとまず書き切ったもの)になります。

05:39 03/12/09



 日向みつきと大地瑤子は、手を繋ぎ肩寄せ合って、何も見えない暗闇の中を歩き続けていた。
 二人が歩いているのは、東京の地下下水道。わずかな粘性を感じる汚い水が膝の高さまで来ている。鼻が曲がりそうな悪臭。みつきにとっては、買ったばかりのお気に入りのパンプスやニットのワンピースがもう二度と着られなくなったことも哀しかった。

 そして、それよりもっと哀しいのが――。

「……ひなたセンパイ、止まって下さい」

 瑤子に言われてみるきが足を止める。久しぶりに懐中電灯の明かりがつく。そこはちょうど、水路がT字に交差している場所。
 瑤子は、二人で歩いてきた方向と、新たに開けた二つの方向をそれぞれ確認する。

「瑤子、憶えた?」
「憶えました」

 そして、懐中電灯の灯が消える。

「左手は下りで、右手は上りだったと思います。センパイ、どっちに行きますか?」
「さっきは、上へ上へと行ってて行き詰まったんだっけ……」
「はい」
「下に下にって向かったら、海か川の方に行き着かないかな……」
「可能性は高いと思いますけど……」
「……保証はないもんね……」
「そうですね……」
「今、何時間くらい経ったんだっけ……」
「ええと……携帯も腕時計も水に浸かって壊れちゃいましたから、私の感覚ですけど……」
「それでいいよ、誤差ほとんどないだろうから」
「地下に入ってから十時間。そろそろ日付が変わると思います」
「もう何キロくらい歩いたっけ……」
「……言ったほうがいいですか? 相当げんなりすると思いますけど」
「やっぱいいや……黙って歩こうか……」
「そうですね、じゃあ、今見えていたところまで何とか」

 で、歩き始める。

「瑤子……。手、離さないでね……」
「大丈夫です、絶対離しませんから」

 人の温もりがありがたいなあと思いつつ、抱き締めたくなるみつきだった。


 話は、十四時間ほど前まで戻る。
 日曜日で、観たい映画があったみつきは綾に連絡を取ったのだが、

「ごめんなさい、その映画、先週彼と観に行ったばかりなの」

 綾はそう言って断ってきた。

「だいたい、当日いきなり連絡もらっても困るのよ……私、午後から彼と出かける予定があって。せめて一週間くらい前になんとかならない?」
「あんた、半月前に誘ったらドタキャンしたじゃない。彼がうちに来たからって。そのとき、どこかに遊びに出る連絡は直前にもらった方が助かるって」
「あら、そうだったかしら?」
「こんにゃろう……」
「一応、来週は空いてるのよ。見ている映画も付き合ってあげるから、そこまで待てない?」
「来週になったらもう上映作品入れ替わってんのよ」
「じゃあ、瑤子と行ってらっしゃいな。どうせ私に電話した後はあの子にも連絡するつもりだったんでしょう?」
「それはそうだけど、瑤子と二人ってのも……」
「あの子は多分、私がいるより喜ぶわよ?」

 だから困るのよ、とは、みつきもなかなか言えなかった。


 赤い水が、渦を巻いて吸い込まれていく。
 その様子を、暗い顔で見つめている瑤子。
 去年始まった大人の証。嬉しくも何ともなかった。生涯あと何度、この憂鬱な儀式を繰り返さなければならないのだろう。何故自分は女に生まれてしまったのか、いや、大地瑤子は何のために生きているのか――。
 その時、寮のルームメイトが扉を叩く。

「よーちゃん? 瑤ちゃん? どしたの、調子悪いの?」
「ああ、ごめん、すぐ出るから……」
「いや、そうじゃなくてさ。さっきからよーちゃんの携帯ずっと鳴ってるよ」
「?」
「例のセンパイじゃない?」

 憂鬱だった瑤子の顔が、いっぺんに明るくなる。


 で、待ち合わせ場所。

「……せんぱああああいっ!」

 遠くの方からみつきを見つけて手を振って、瑤子が駆け寄ってくる。
 周囲の目が、瑤子とみつきに集まってくる。

「あ、あんたねえ……もうちょっとこう目立たないように……」

 瑤子が近くに来たところでそう言うが、瑤子の耳まで届いていない。みつきに抱きついて跳ね回る。

「いいお天気ですね! 絶好のデート日和で!」
「ご、誤解を招くようなことを言うな……」
「私も今日はすっごくヒマで、センパイから連絡あったらいいのになーとか思ってたんですよ! んもう目一杯楽しみましょうね! 映画終わって二時か三時ですよね、その後も私空いてるんです! どっか行きましょう! あ、そうだ、こないだアメ横の雑貨屋さんで……」
「あ、あとのことはその時考えるから……お願いだから、離れ……」
「ああもう、休日にセンパイとあちこち遊びにいけるなんて夢のようですー!」
「……っ、あ、こら……ちょ、離れ……うあ……。ああもう……」


 数分後、駅の公衆トイレ横。
 うなだれて外で待つ瑤子、顔を赤くして脇から胸のあたりを気にしながら出てくるみつき。

「……すみません、センパイ……」
「あのね……お願いだから、今度からTPO考えてよね……」


 で、映画観る。
 最初は普通に観ていたが、それなりに緊張感のあるシーンになると、瑤子がみつきの手を握ってくる。やがて腕にしがみついてくる。
 まあ、あんまり人目は気にしなくていいので「子供なんだから……」と微笑ましく思う一方、何で女同士でこんなにくっついてなきゃいかんのかと思ったりするのも事実で。
 ちょうど、みつきと瑤子の前が男女のカップルで、同じように寄り添って観てるもんだから余計にそう思う。

「……ひっ……!」

 とか小さな声を上げて、震えながらさらに強くしがみついてくる瑤子。
 みつき、大丈夫大丈夫、というつもりで思わず瑤子の頭を撫でて……はっと我に返る。

「な……なにやってんのよ、私は……」


 で、映画を見終わって映画館を出てくる時も、瑤子はみつきの手を離さなかった。「面白かったですねー!」とか、実に楽しそう。
 とりあえず近場のスタバでお茶でもするか、ってことになるが、席につくまで瑤子はずっとみつきの手をにぎりっぱなし。

「……ねえ、瑤子。一つ訊いていい?」
「何ですか?」
「あんたねー、私の手なんか握ってなんか面白い?」
「はい?」
「いや、何となく……こうさ、女同士でべたべたくっついてるのって変でしょフツー」
「そ……そう、ですか?」
「そうですかって、あんた……」
「うちの学校だと、仲のいい友達同士は大抵そんな感じですけど。お手洗いに行くときとか」
「それ……百合とかの類なんじゃないでしょうねぇ……」
「百合って何ですか?」
「有り体に言うと……その、レズなんだけど。女子校でしょ? そういうの多いって言うし」
「わ……私のクラスメートにそんなフケツな子いませんっ!」

 叫んで立ち上がって、周囲の視線を一身に集める瑤子。

「……ご、ごめんなさい……」

 小さな声で誤って、しおしおと席につく瑤子。

「そ、それは……ウワサくらいは、いろいろ聞きますけど……でも、あたしの周りの友達は、本当にいいコばっかりで……そ、そりゃ、みんな彼氏はいないらしいですけど……そんなこと、絶対ないです……ほ、ほんとですよ?」

 なんかもう、必死な感じで言う瑤子。

「別に、疑ってないけどさ……」

 なんか、その純粋さが逆にコワイと思うみつき……道踏み外したら本気でそっち行きそうで。


 で、みつき、ウィンドーショッピングしながら。
 よく町を見ていると、たしかに瑤子くらいの年齢のコは女同士で手を繋いでいるような集団が多い。そうでなくても肩を寄せ合ってキャッキャと楽しそうにはしゃいでいる。

「そういや私、あんまり同い年の友達っていないんだよな……」

 で、若い男同士で町を歩いている連中は、女の方と比べると明確に距離を空けて歩いている。手を繋いでいるようなのは一人もいない。
 あたりまえといえばあたりまえな気がするが、変だと言えばすごく変な現象という気がする。

「女の友情って、男の目から見ると愛情の練習に見えるって聞いたことあるけど……」

 女同士に友情なんか存在しない、という極論もテレビや何やでよく耳にする。男ができた途端、十数年と一緒だった友達がぱたりと連絡を寄越さなくなったという話も割と身近によく聞く。……綾とか。いや、綾はまだましなほうか。
 そう思うと、別に瑤子がヘンという訳でもないのかな、という気にもなる。まあ、年相応のことで一過性なんだろーな、とか。

「……あ、これ可愛い」

 ディスプレイの前で、ふと足を止めて言うみつき。

「そうですか?」
「そうですかって……そう思わないの?」
「えーと……ひなたセンパイが言うなら間違いないと思います」

 何だそりゃ。

「これなんか結構瑤子に似合いそうじゃない?」
「えーと……みつきセンパイなら……」
「私じゃちょっと歳いきすぎだって。瑤子ぐらいだったらいけるけど」
「あたし、ヒラヒラしてるの苦手だから……」
「ヒラヒラって……ただのワンピよ?」
「スカートとか苦手なんです、あたし。制服以外は一着も持ってないし」
「スカートの私服くらい持っときなさいよ……。男の子にもウケいいし、もし彼氏なんか出来たらそっちの方が絶対喜ぶもんだから」
「別に、男の子の気を惹くような格好したい訳じゃないですし……。あ、でも、みつきセンパイみたいにスパッツの上にスカート履くならいいかな」
「私のは必要に迫られてこうしてるだけだから……」
「へっ?」
「……空飛んだら、下から見えるじゃない」
「あ……」
「おかげでレパートリー限られるし、ホントはこの組み合わせも飽きてるんだけど……。スカートの方が好きなのに、気が付いたらジーンズやチノの方が断然数多いし……夏場なんてミニとか履きたいのに大抵キュロットばっかだしさ」
「あ、キュロットって言えば、センパイ、気が付きませんか?」
「何が」
「私の格好」
「あんたの格好って……パーカーとキュロット……」

 何か見覚えがある。

「……それ、去年私があげたヤツじゃ……」
「あ、やっぱ憶えてました?」やたら嬉しそうに。
「それ、私は部屋着にしなさいよってつもりで……」
「センパイからもらった服って、動きやすいし格好いいし、縫製もしっかりしてるのが多いから大好きなんです」
「昔はバイトしてなくて、お金がないから、縫製部分を引っ張って強度たしかめて長く着れそうなのを選んでただけなんだけど……」
「あたし、服とか興味なくて、いっつもクラスの友達からセンスないーとか言われてたんですけど、センパイのお下がりを時々貰うようになってから誰もそんなこと言わなくなったんです」
「……そんな嬉しそうに私のお下がりの話をしなさんなってば……」

 やっぱり、瑤子が足を踏み外さないように気をつけなきゃいかんと思う。

「あと、こういう動きやすい格好の方が、もしもって時にセンパイの手助けとかできるし」
「そんな……ねえ、いつ聞こえてくるかもわかんない叫び声のために、日々のお洒落を犠牲にすることは……」

 と、言いかけたところでみつきが急に足を止める。

「……センパイ?」

 瑤子の呼びかけに応えず、みつきはしばらくぼんやりと視線を宙に漂わせたあとで、切羽詰まった顔できょろきょろし始める。

「あの……まさか、今……」
「そんなに遠くない……けど……」
「だったら急いで行かなきゃ……! ど、どこですか?!」

 みつき、いきなり走り始める。
 瑤子が慌てて追いかけるが、みつきが走り込んだ先はコンビニ。

「……へ? あ、あの……センパイ?」

 戸惑う瑤子をよそに、みつきは大慌てで懐中電灯と電池を買い込んで外に出る。

「あ、あの……センパイ、何を……」
「瑤子、急いでマンホール探して!」
「へっ?」
「説明してるヒマないのよ、いいから急い……あ、あった!」

 コンビニの裏手にある細い小道で、表通りから外れているせいで人通りも少ない。

「ラッキー……!」

 みつき、マンホールに駆け寄る。で、みつきが駆け寄る間にマンホールのフタが勢い良くぱかーんと開く。

「まさか、叫び声が聞こえてきたのって……地下なんですか?」
「ええそう! 瑤子、ちょっと待ってて! すぐ片付けて戻るから!」
「あ……あたしも行きます! 何か役に立てるかもしれないし!」

 瑤子、ダッシュでみつきにすがりつく。

「って……ああもうっ……」

 振り解く労力も、ここに残れと説得する時間も惜しかった。
 みつき、瑤子の腰に手を回して抱き締める。

「ひえっ……!? せ、せんぱ……」
「喋んなさんな、舌噛むから! あと、相当飛ばすけど、気分悪かったりしたらすぐ言いなさいよ!」
「あ……は、はいっ!」

 で、瑤子を抱え上げたままでマンホールにとびこむみつき。直後、マンホールのフタが閉まるが、それに気付いた者は誰もいなかった。


 地下下水道……漆黒の地下迷宮を、瑤子を抱えたみつきが飛ぶ。

「ああもう……! 方向は解るのに、直線で飛べないから……!」

 右に左に、上に下に、みつきはがむしゃらに飛び続けた。
 その速度にしろGにしろ、ジェットコースターの何倍も激しいものだったが、瑤子の身体能力や反射神経は並みではないから何とか我慢できた。
 ただ、灯りが懐中電灯一個だけ。狭い下水道の空間が見えるだけによけい怖い。瑤子の手足が上下左右の壁にちょっとかすっただけでもぎ取られそうな感じ。
 瑤子は目を閉じ、みつきの胸に顔を埋める。センパイなら絶対に大丈夫だと信じて。

 で、そのジェットコースターが急に止まる。

「……センパイ?」
「たぶん、この向こうの、すぐ……だと、思うけど……」

 左右を見渡す。

「なーんか、どっちに行っても叫び声の根っ子から遠ざかる気がする……」

 みつき、瑤子に懐中電灯を手渡して、空いた手で壁に手をつく。

「こういうとき、綾だったらすぐ解るんだけどなぁ……。私のESPは中途半端だから……」
「……すみません、私じゃ役に立てなくて……」
「あ、ち、違う違う。そういう意味じゃないってば」

 みつき、壁に手を当てたままでしばらく考え込む。

「……仕方ない、時間ないし、壁をブチ抜くわ」
「壁って……大丈夫なんですか?」
「多分」
「それ、ESP、ですか?」
「ううん、ただの勘」
「…………」
「あー、やっぱ、マズイかな。水道管とかガス管とか走ってたら大事だし、勢い余ってビルの基礎とか傷つけたら……」
「でも、センパイが叫び声聞こえた時って、大抵は一刻を争うような時ですよね」
「そうだけど……」
「やっちゃったほうがいいと思います。ダメだったら後で謝れば」
「誰に謝るのよ、誰に……つうか謝って済む問題とは思えないんだけど」
「そんなこと言い合ってる時間も惜しいですよ、私は、大丈夫だって思ったセンパイの直感を信じてます」

 言われて、みつき、壁に向き直る。
 確かに、何となく大丈夫なような気がする。

「……よっし、やっちゃおう」

 手を前に突き出すと、コンクリに綺麗な円形の亀裂が入る。
 が、ふと思い直す。
 力任せにブチ抜けば確かに手っ取り早いが、少し手間をかければ。

「なるべく、迷惑かかんないように……と」

 コンクリに直径1mくらいの穴が空く。その向こうには土。
 その土を念動力で掻き出していく。掘削機も顔負けの速度。

「……すごいです、センパイ……」
「へっへっへーん。ダテに生まれてこのかた十数年も念動力ばっか訓練されてたわけじゃないのよーっと」

 できればこのへんで、念動力の基本に触れる? 生き物には使いづらいとか、基本的には「動け」と「動くな」の指示しか出せないことと。
 で、5mほど掘ったところでまたコンクリにぶつかった。それを砕いて穴開ける。

「うわっ、眩しい……」

 穴のむこうから、煌々と明かりが入ってくる。

「せ、センパイ、まさかどこかの地下街に穴あけちゃったんじゃ……」
「……ち、違うと思うけど……」

 おそるおそる、穴から顔を出す。

「……何、これ」

 直径5mくらいの真新しい地下空洞。コンクリにケーブルがいっぱい。人の気配はゼロ。

「あ、これ、ひょっとして共同溝じゃないですか?」
「……何、それ」
「テレビで見たことあります。東京の地下に、下水道と上水道と、電線、光ケーブルなんかをまとめるための地下トンネルを造ってるって。これができたら東京から電柱の類がなくなって、道路が広くなったり、情報ケーブルの管理がしやすくなったりで、いろいろといいことづくめとか」
「……今も工事やってんの?」
「だと思います。だって、完成してたら、東京からはとっくに電柱なんかなくなって……」
「それだ」
「へ?」
「急がなきゃ……岩盤の崩落か何かわかんないけど、きっと……」

 みつき、ふたたび瑤子を抱え上げて、共同溝の中を飛び始める。
 今度は明るいし広いしで怖くない。瑤子も余裕があるせいで、なんとなくみつきの顔を覗き見る。
 みつきの顔は真剣で、一生懸命で、凛々しくて……でも、男性に対してそういう言葉を用いるのと、根本的に違う。男をそう表現するときは、大抵の場合、闘争心などの攻撃的なものの発露として見えてくる。それはそれで格好良いと思えるけれど、みつきの今の表情は「助けたい」という優しさが一番の根元にある。
 優しいから凛々しい、というのは矛盾している気もするが、瑤子はこういう顔をしている時のみつきはすごく素敵だと素直に思う。

 そして、同じ女として、自分はこんな顔ができるのだろうかとふと思う。
 できないような気がする。

 だから、瑤子はみつきに憧れる。
 その、憧れのセンパイに抱きかかえられて飛んでいるということに、胸が熱くなる。

 が、そのみつきの顔が、急に変わる。悲嘆、落胆。
 と思ったら、飛んでいく速度が急に落ちる。

「……? センパイ、どうかした……ん、ですか……?」

 みつきの顔から目を逸らして、正面を見る。
 瑤子、息を呑む。
 いつからか共同溝は傾斜角45度くらいの下り坂になっていたが、進行方向が茶色く濁った水で満たされている。満たされているどころか、水は噴き上がるように激しく動いて、少しずつ水位を上げている。で、共同溝のカベの一部が崩れているのが解る。
 周囲は、いかにもまだ建設中といった感じ。足場が組まれていたり、不要な重機が置いてあったりする。何となく、この辺を人が行き来していた気配がある。
 が、今ここには誰もいない。

「せ、センパイ……叫び声が聞こえてきたのって……」
「……多分、この水の中……だと思う、けど……」
「えっ……」

 みつきと瑤子、水際に下りる。

「まさか、工事中に崩落して……地下水脈か暗渠にした川から一気に流れ込んで……」
「……瑤子」
「あ、はい」
「地下に入ってから何分くらい経ったと思う?」
「えっ? あ……えっと、まだ十分も経ってないくらい……」
「事故が起きた直後に叫び声が聞こえたとして、この通路に水がたまって溺れるまで……うん、少しくらいは時間があったはず。今ならまだ間に合うかも……」

 みつき、ばしゃばしゃと水の中に入っていく。

「せ、センパイ! まさか潜っていく気なんですか?!」
「…………」
「ムチャですよ! 水の中なんて見えないし、水圧だって……!」

 慌ててみつきを止めようとした瑤子が、水際でひっくり返ってずぶ濡れになる。

「や、やめてください! センパイまで溺れちゃったら……!」
「……誰が、んなことするもんですか」

 みつき、膝まで水に入ったところで水面を見つめる。

「……どれだけの人を、呑み込んだんだか知らないけど……」

 みつきの周囲の水が、ばしゃばしゃと激しく動き始める。

「いいから、ちょっと……退いときなさい、このおっ……!」

 で、モーゼの十戒を見るように、みつきを中心にして地下水が真っ二つに割れていく。
 あっという間に、共同溝の突き当たりになる50m先まで水が引いてしまった。
 瑤子、ぽかーん。

「ふんぎぎぎぎぎ……っ、この……さすがに、水……重っ……」
「あ……せ、センパイ! そこのところに一人います! 向こうにも……あっちにも!」
「解って……る、わよ、こんちくしょおおおっ……」

 3~5人ずつ、みつきが念動力を使って、溺れて気を失っている土木作業員を自分の背後に運んでくる。

「瑤子……ちょっと、奥まで行って調べてきて……大丈夫、水は意地でも支えとくから……」
「は、はいっ!」

 で、空をふわふわ浮いて回収されていく土木作業員と入れ違いに、瑤子が奥に入っていく。
 五十メートルは長さのあった、直径5mほどの円形の洞窟に満たされていた水を完全に押し退ける。1立方メートルの水で百キロと計算して、単純計算で百トンを越える水をみつき一人で排して、しかも水に溺れた人々を引きずり出していく。

「十戒の軌跡を起こした人も、みつきセンパイみたいな超能力者だったのかな……」

 とか何とか思いながら、瑤子は被災者を捜し続けた。

「少しでもセンパイの役に立たなきゃ……」

 瑤子も気合いを入れる。
 で、みつきの視界から隠れていた5人を、泥の中から引きずり出す。
 総勢、十一人の作業員を助け出した。

「……大丈夫です、もう誰もいないはずです!」

 最後の一人を背負った瑤子が、みつきの背後に走ってくる。

「ん、と……どおおおおっ……うりゃさあっ……!」

 重量挙げの選手が、持ち上げていたダンベルを床に落とすような息遣い。
 で、みつきが脱力すると同時に、目の前の通路に津波のごとく地下水が押し寄せてきて、あっという間に元の有様に戻った。

「ぜーは、ぜーは……さ、さすがにちょっとしんどかった……」

 で、助け出した作業員のほうを振り返る。
 みんな、死んでいるように見えた。土毛色の顔。間に合わなかったんだと胸が痛むみつきだったが、遺体がないよりは……と自分を慰める。
 と、視界の片隅で、瑤子が遺体の服を片っ端から脱がせていた。

「ちょ……ちょっと瑤子、あんた何して……」

 おっちゃんから若いのからいろいろいるが、みんな男ばっかり。レズの心配した後はこれかと、みつきは若干めまいを憶える。

「センパイも早く、みんなの上着脱がせてベルト外してあげて下さい!」
「……はい?」
「心臓、動いてる人もいるんです……救急車なんか間に合わないし、あたしたちで何とかしましょう! 脈が止まってる人も、適切に処置したら蘇生できるかも……!」

 みつき、アホなことを考えた自分をちょっと責める。
 で、とりあえず念動力でとっとと上着の前身頃を外してベルトを緩めて。

「え、と……これでいい?」
「わかんないですけど、いいはずです!」
「いいはずって……」
「私も以前、保健体育で習っただけだし……」
「……あ、そうか」

 みつきも、誰かが溺れたとか倒れた時の処置など、学校で一通り習った記憶がある。が、まるっきりさっぱり忘れている。

著者注:最初期にはみつきも学校に行ってた設定だった?おそらくただの勘違いか筆が滑っただけだと思われます。

「脈を確認して、瞳孔を見て……反応がある、生きてる……それから、たしか……」

 一度見聞きしたことを絶対に忘れない瑤子は、教科書通りの処置をてきぱきとこなしていく。みつきもそれを見ながら、見よう見まねで処置を追っていく。

「ええと……胸に手を当てて、心臓の上から強く押して……」

 ふむふむ。

「それから、気道を確保して、人工呼吸……」

 ふむふむ。
 ……って、へっ?

「よ、瑤子、ちょっと……」

 瑤子、躊躇いもせずに、四十代くらいのお父さん世代の作業員の鼻をつまんで顎をおさえて、マウス・トゥ・マウスで息を吹き込む。
 みつき、呆然。

「三回、息を吹き込んで……ダメだったもう一回心臓マッサージ……で、もう一回息を……」

 で、みつきが見てるうちに「げほっ……げほ、げほっ……!」と、一人蘇生した。

「良かった……!」

 で、瑤子、喜んだのもつかの間、すぐに二人目にとりかかる。
 みつき、念動力で代用できないかと一瞬考えた。できるできないで言えば、たぶんできる。が、肺に空気のカタマリを送り込むとしても、内臓に影響することだけに、もしちょっとでも力加減を誤ったら、ただでさえ死にかけている人を棺桶に突き落とすようなことになったら、と思うとヘタなことはできなかった。

「……ああもう、やるっきゃないのね……とほほ……」

 みつきも覚悟を決めて、目の前のおじさんに人工呼吸。

「……かはっ……!」

 蘇生した。うああ、できるものなんだ、学校の勉強って案外役に立つなあと感心しきり。

「う、ぐ……っ、な、にが……何が、どうなって……」
「あの、大丈夫ですか? 意識はしっかりしてます?」
「? 君は……」
「あの、私たち、とりあえず十一人だけ助け出したんですけど、ここの工事してた人はこれで全部なんですかね?」
「ああ、工事というか、工事再開のための点検で……ああ、十一人で全部のはずだが……」
「良かった、じゃあおじさん、息を吹き返したばっかりで申し訳ないんですけど、そっちの倒れてる人に心臓マッサージと人工呼吸よろしく!」
「え……な?」
「ほら、瑤子が……そこの子がやってるでしょ? あれよ、あれ」
「そ、そんな、俺はあんなのやったこと……」
「私だってなかったわよっ!!」

 私のファーストキス返せ! とついでに言いたかったが、ぐっと堪える。
 んが、その、心の裡に押し込めた悲哀が伝わったのか、おっさんはやむなく近くにいた同僚に見よう見まねで心臓マッサージと人工呼吸を施し始めた。
 で、瑤子が三人蘇生させて四人目の準備を始め、みつきが二人目を蘇生させた直後。

「それにしても、瑤子も度胸あるって言うか、思い切りがいいって言うか……」
「……? 何のことですか?」

 言いつつ、瑤子は心臓マッサージの手を止めない。

「いや、躊躇いもせずによく出来たなあって。正直、すごい。感心した」
「いえ、学校で習った通りにやってるだけで……」
「いや、そうじゃなくて。マウス・トゥ・マウス」
「……へ?」
「こんなねー、どこの誰ともわかんない男の人に……いや、うん、やらなきゃいけないんだから、瑤子は立派だよ、ほんとに。人の命がかかってるときだから当然だけど、それでもさ……って、あれ、瑤子?」

 瑤子、顔を真っ赤にして、泣き出しそうな顔で硬直中。

「……あんた、まさか……」
「せ……っ、せんぱ……センパイ、あ、あたし……」

 唇を手で押さえて、震え始めた。

「……夢中、だったのね、今まで……」

 呆れつつ、瑤子らしい反応だと思いつつ。
 で、今まで瑤子が蘇生させた三人は、

「俺たち、どうして……」
「たしか、水がどばって……」
「げほっ、ごほっ……う、ぐ……うう……」

 とか何とか、まだ朦朧とした意識で事態を把握していない。

「あ……あああ、あんたらーっ! ぼけーっとしてないで自分の同僚くらい自分で助けなさいよーっ! 命がかかってんのよ、命がーっ!」

 初恋もまだの女の子にキスしてもらって蘇生したくせにボサボサしてんじゃないっ! と言いたい気持ちをぐっと堪えてみつきが怒鳴る。で、そのみつきの怒鳴り声で正気に戻ったのか、その三人も慌てて見よう見まねで応急処置を取り始めた。

「ひ……ひなた、センパ……っ、あたしっ……」
「……いいよ、瑤子はもう充分頑張ったから、うん」

 で、みつきは、瑤子が蘇生させようとしていた男の人工呼吸を引き継いだ。もう半ばヤケクソで。


 結局、みつきが五人、瑤子が三人、男たちが三人蘇生させて全員息を吹き返した。
 男たちは濁流に呑まれた際に打ち身や脱臼、骨折、脳震盪など起こしていて、未だに意識が混濁している者もいるが、とりあえず命に別状はないようだった。
 で。
 男たちから少し離れたところで、みつきと瑤子が呆けていた。

「……センパイ……」
「んー……?」
「すみません……途中で、あたし……」
「あー……いいよ、別に……。瑤子がいなくて私一人だったら、この人たちみんな見殺しにしてたかもしれないし……うん、瑤子はよくやってくれたと思うよ……」
「自分でも、不思議なんです……」
「……何が?」
「好きなひととか、全然いないのに……なんでこんなショックなんだろうって……」
「誰だってそんなもんでしょ。私だってヤケクソだっただけだし……」
「…………」
「これ、二人だけのナイショにしとこーね、瑤子……」
「……はい」

 で、呆けてる二人のところに、みつきが最初に蘇生させたおっさんが近付いてくる。

「本当に、君たちのお陰で助かったらしい……。いや、何とお礼を言ったら……」
「いへいへ、別に……困ったときは何とやらで……」

 ここで、この共同溝の工事がビジネス街の直下で行われていることを知る。ここの工事が一旦中止したのは確実にみつきのせいで、となると、この日に工事再開の検査に来たのも間接的にはみつきのせいで、さらに、地盤がもろくなって崩れて地下水が流れ込んできたのも実はみつきのせいだという可能性がある。真っ青になって、心の中で土下座して謝るみつき。

著者注:言わずもがなかとは思いますが、#01でみつきが松永青年とやりあった事件のことです。

「ところで、君らは……一体、誰なんだ?」
「はい?」
「関係者でもなさそうだし、どこから入ってきたんだ? ここは関係者以外立入禁止で……いや、助けてもらった以上、そんなことで君たちを責める気など毛頭ないが……岩盤の崩落と、その直後に大量の地下水が入ってきたのは本当に一瞬だった。地上に助けを呼ぶ間もなかったし」

 そういう男の背後で、同僚が何やら壁際に設置された非常用の電話を使っているのが見えた。そして、そちら側から「課長、地上では何も知らないと言ってます」と声が飛んでくる。

「こっそり忍び込んだ……のか? それとも……」
「あー、えーと、その……離せば長くなるんですけど」

 と言いながら、みつきが立ち上がる。
 みつきは瑤子の手を握っていて、瑤子は戸惑いながらみつきに引っ張られて立ち上がる。
 で。

「……瑤子、逃げるよ」
「えっ? あ……」

 瑤子の手を握ったまま、みつきは一目散に逃げ始めた。

「あ、お……おい、君たち! おおいっ!」

 んが、振り返らない。この共同溝に入ってきた場所へ向かってとにかく走る走る。とりあえず作業員たちの姿が見えなくなったところで、みつきは瑤子を抱きかかえて飛び上がった。

「ひなたセンパイ、なんで逃げるんですか?」
「んなの決まってんでしょ、このままだったら超能力のこととか説明しなくちゃなんなくなるじゃない」
「あ、そうか……」
「逃げるしかないでしょ……さっきはそこまで考えてなかったけどさ」
「あ」
「? どうしたの」
「なんか、音……しません? 車の音……」
「車?」

 みつき、空中でブレーキ。
 自分たちの前方から、車が走ってくるような音がする。

「さっき、地上に電話してたから……その関係かな」
「は、はさみうちですよ、センパイ」
「とりあえず、私たちが入ってきたのってこのへんだったはず……」

 きょろきょろ見渡す。と、壁に直径1mの穴。
 飛び込んで、元通りにフタして、土も元に戻して。

「……やりすごせるよね、多分」
「それはまあ、生身の人間じゃ到底届かないところに空いてる穴ですし」
「まあ、あとは野となれ山となれでしょ……とりあえず帰ろうか」
「そうですね」

 で、二人は懐中電灯をつけて。

「…………」
「…………」
「あのさ……瑤子」
「はい?」
「私たち、どっちから来たんだっけ」
「えっ? いえ、全然解らないですけど……ひなたセンパイの飛び方、すごく怖くて目をつぶってたし、どのくらいの速さでどんな風に下水道を飛んできたのか全然解らないし」
「…………」
「まさか、センパイ……来た道わかんないんですか?」
「あは、あははは、あははは……その通り」
「……どうします?」
「うーん、どうしよう……」


 で、それから半日ほど経ちまして。

「……あの場から動くべきじゃなかったのかなぁ……」

 みつき、溜息をつく。
 とりあえず立って歩けるくらいの下水道だったから、少し移動すればどこか上に上がれる場所があるんじゃないかと思ったのが運の尽きだった。

「一応、今からでも、スタート地点に戻ろうと思えば戻れますけど……」

 瑤子が言う。
 渡り鳥並みの方向感覚と、正確無比な計算能力、そして完璧な記憶力を元に、瑤子は今まで歩いてきたルートを全部把握していた。最初の頃はみつきの念動力でふわふわ浮いていたのだが、みつき任せだと同じルートをぐるぐる回っているだけになる。それで、瑤子が歩数を計算しながら頭の中でマッピングしつつ歩いていく方法に変えた……のがもう六時間近く前。

「でも、今から戻ったら……ヤバくないかなあ。あれだけの事故があった現場だし」
「警察とかマスコミさんとか、いっぱい来てたら困りますよね」
「だよねえ……」
「やっぱり、どこか出られる場所を探し続けるしか……」
「とか何とか言い始めて、もう……」
「十時間以上です」

 がっくし。

「ニューヨークの地下下水道が、増設やら改修やらで大迷宮になってるって話は聞いたことありますけど、東京も似たようなものなんですかね」
「住んでる側には自覚ないけど、世界に名だたる大都市だしねぇ……」
「そういえば、ニューヨークの地下水道ってバケモノとか棲んでるっていいますよね。巨大な白いアリゲータとか」
「まさか、東京にそんなのいないでしょ」
「ですよね」

 嫌なフラグを立てつつ、ちょっと広い空間に出た。

「これ……暗渠になってる川でしょうか……」
「だとしたら、外に出られる可能性も……」
「川だったら、ですけど。下水が川に直結してるとも思えないし……」
「……そりゃそうか」

 幸い、ちょっとは臭気がマシになる。濡れずに歩けるスペースもある。
 二人、歩き疲れてちょっと休憩。

(何が哀しくて、この歳のうら若い女が汚水まみれにならなきゃならんのかと……)

 言いたいが、自分が瑤子をつきあわせたせいなのだからと口を噤む。
 弱音でも何でも言いたいのだが、自分のせいなんだしとガマン。

「あ……そういえば瑤子、明日学校だよね?」
「それを言ったら、センパイだって予備校……」
「予備校は一日二日休んだからってどうってことないけどさ……って、寮の門限は大丈夫?」
「多分、ルームメイトがうまくやってくれてます。見つかっても言い訳のしようはいくらでもあるし。これでも学校では優等生で通ってますから」
「優等生で通ってるからヤバいんじゃないの?」
「素行がしっかりしてる子だったら、先生も見逃してくれるんです。そんなもんですよ」
「でも……」
「本当に大丈夫です、センパイ。お願いですから、気を使わないで下さい」

 互いの顔も見えない暗闇の中、繋いだ手の温もりとその優しい声に、みつきは安堵する。んが、だからこそ、これ以上自分のことに瑤子を付き合わせちゃいかんとも思う。

「……決めた」
「? 何がですか?」
「迷惑かかってもいいから、地上まで一直線に出よう」
「へっ……?」

 みつきが深呼吸して、周囲のコンクリがビリビリと震え始める。

「せ……せせせセンパイ? な、なにする気なんですか?!」
「目一杯本気出せば、地上まで穴ブチ開けられるかもしんないから」
「そ……そんな! 地上に何があるかわかんないのに! もしも都市ガスの貯蔵タンクとかあったら大災害の大惨事で大ピンチですよ?!」
「……そこまで言うか……」
「ほ、本当に、私はいいんです、大丈夫ですから。それに……」

 瑤子、みつきの手をちょっと強く握る。

「……いえ、何でもないです」

 今、結構楽しいんです、と言いかけてやめる。
 みつきと二人だけでこんな風に長い間いたことは、あまりないから。
 んが、みつきはぽつりと、

「綾の奴、とっとと気付いてくれたらいいのに……」

 溜息混じりに言う。

「……綾さん、ですか?」

 問い返した瑤子の声音に微妙な響きがあることに、みつきは気付かない。

「んー、実はね、綾ってどんなにESPを絞ってる時でも、私と瑤子に対してのチャンネルだけは維持してるんだって。危険な目に遭ってないかとか、誰かが私たちを狙ってないかとか……命に関わるような部分だけだって言うけど。もう無意識のうちに出来るようになったって」
「…………」
「あーそうか、別に今、危険って訳じゃないから気付かないのかなぁ……。でも、気が向いたら、私たちが何やってるのか確認するときもあるって言ってた。なーんか監視されてるみたいでヤだなーとか思ったことあるけど、私らある意味家族みたいなもんだし、綾にしてみたら純粋に心配だからやってくれてるんだから……っていうか、こーいう時に役に立ってくんなきゃ意味ないんだけどなぁ……」
「そう……なんですか」
「ん。気が付いたら、テレパスでも何でも送ってくれると思うんだけど……あいつもねー、肝心なときにこう、微妙にアテになんないのよね……ったく、今頃彼氏とイチャイチャしてたらぶんなぐるぞ、こんちくしょう……」
「……本当に、仲いいですよね。センパイと綾さん」
「んー、まあ、つきあい長いだけだけど。……って、瑤子ともいいかげん長いか」
「そう……ですね。研究所で二年、出てから三年、合わせて五年です」
「あー、もう出てからの方が長いんだね」
「……綾さんとは」
「研究所で十年ちょっと、出てから三年。さすがにまだひっくり返らないね」
「…………」

 少しの間、沈黙があって。

「とにかく、歩こうか。止まってたって仕方ないし」
「……はい」

 で、立ち上がって歩こうとして。
 ばしゃ、ばしゃ……とか、水の音がする。

「……何の音?」
「さあ……」

 懐中電灯すいっちおん。下水の水面が揺れている。

「サカナかな」
「かなり水の音、大きかったですよ。こんな汚い川にそんなの……っ?」

 瑤子、緊張して目をこらす。

「瑤子? どう……したの?」
「……何かいます。近付いてくる」
「な、なにが……? こんなところで……」
「……っ?! あいたっ……!」

 瑤子、突然うずくまる。
 みつき、驚いて瑤子の足元に懐中電灯を照らす。靴下が避けて、くるぶしのあたりに血が滲んでいる。

「な、なによこれ……何にやられたの?!」
「い、いえ……なにか尖ったものが……」
「こんな汚い中で怪我したら、何の病気になるかわかんないよ……! 座って、靴下脱いで!」
 みつき、念動力で瑤子の肌から汚れだけ取り除けないかと思ったが、いまいちうまくいかない。懐をばたばた探す。ハンカチがないかと思ったが、工事員に人工呼吸してる際に泥でよごれ尽くしていた。
「……しょうがないなぁ……」

 自分の服で、胸元あたりの布が汚れていない。念動力で大きく切り裂く。

「せ……センパイ、そんな……」
「いいから」
 汚れを拭って、瑤子の傷口に口をつける。
「……センパイ……」
「出血、けっこうあるなぁ、包帯いるかな……」

 結局、みつきの左肩から胸の近くまで白い肌が露出することに。

「……すみません」
「いいんだって。でも、何にやられて……」

 足元をよく見る。
 骨が散乱している。多分、ネコや犬。
 で、瑤子はこのうちの尖ったものをふんづけたらしい。

「な、なにここ……ネコの墓場?」

 と思ったが、なんか違う。血みどろの死体もある。
 ふと、さっきのニューヨークの話を思い出す。バケモノとかワニとか。

「……まさかね……」
「せ……せせ、センパイ……」
「ん?」
「あ、あれ……あれ、あれっ……」

 瑤子の指す方を見る。
 いつの間に集まったのか、みつきたちの周囲に何百匹というネズミが集結し始めている。しかも、一匹一匹が小型のネコくらい大きい。

「……ちょっと、勘弁してよ……」
「ま、まさか、こっちをエサだとか思ってるんじゃ……」

 とか言いかけたところで、ネズミの群がどわーっと襲いかかってきた。
 瑤子は反射的に、みつきを庇おうと前に出るが。

「……瑤子、下がって!」

 みつきの念動力で後ろに……というか、空中に引っ張り上げられた。

「せ……センパイっ?! うあ……」

 で、みつきが一気にネズミの群に呑み込まれる。ネズミがもじゃもじゃ動いてみつきに食らいつく。

「ひ……ひなた、センパ……っ、いや……やだああっ!」

 瑤子、絶叫。
 んが、よく考えると、自分を宙ぶらりんにしているみつきの念動力がいつまで経っても弱まらない。

「あ……あれ……?」

 やがて、ネズミの山が持ち上がる。みつきが立ち上がった。

「ったく……人間様をネズミがエサにしようだなんて考えるのがバカなのよ」

 どいつもこいつも、みつきの肌に歯が立たない。
 念動力は、みつき自身の肉体に対して用いる時が一番効果が高い。皮膚にしろ髪の毛にしろ、「動くな」と指示を与えてやれば、念動力が途絶えない限りは鉄板よりはるかに硬くなる。
(このへんが、みつきが亜音速で空飛んできりもみ飛行とかやっても全然へっちゃらな理由)

「こちとら、マシンガンで蜂の巣にされかけたこともあんのよ。鉛玉すら貫けないこの乙女の肉体が、あんたらなんかの歯に負けるかっつーの……ほれ、どけこのドブネズミ」

 頭に群がってるネズミを引き剥がしたり、そこらへんを適当にけっとばしたり。おもいっきり噛みついた飢えたネズミは、自分の歯を根こそぎ折られて血まみれになって、這々の体で逃げ出していく。やがて、群を統率している奴が逃げ出すと、そのまま全部が逃げ出していく。

「やれやれ……瑤子、大丈夫?」
「あ、あたしは大丈夫ですけど……センパイ……」
「んー、全然大丈夫。ただまあ……」

 着ている服がぼろ雑巾。みつき、ほとんど半裸状態。

「……ひえっくしゅい。うー、さぶ……。風が身にしみる……」
「かぜ……ですか?」
「そう。風が……あ」

 すでに出口が近い証拠。
 ってなわけで、ようやく地下空間脱出。周囲はすっかり夜。

「やれやれ、まったくもう……。ここ、どこなのかな」
「汚水処理施設の敷地内ですかね……」

 とか言ってたら、いきなり二人に明かりが当たる。

「ひええっ!」

 みつきが半裸の身体を隠してしゃがみ込む……が。

「お帰りなさい、二人とも大丈夫かしら?」

 二人を迎えたのは綾。

「あ、あんた……」
「はいはい、文句なら後で聞くから。警備員に軽い催眠暗示かけてこっそり入り込んでるのよ、とりあえずここだけ早く出ましょう」


 帰りの車中で。
 運転席に綾、後部差席にみつきと瑤子。

「それにしても、二人ともひどい臭いね……」

 ラグトップはあけっぱなしだが、それでも臭い。

「つーかね綾、あんたね、気付いてたんだったらとっとと助けに来なさいよ!」
「無茶言わないで、私の足で下水道に潜り込んであなたたちの後を追って追い付くわけないでしょう? それに、私が気付いた時って、みつきが地上までブチ抜こうとして本気出そうとした瞬間なのよ。何でそんな全力出すようなことしてるのかしらって。それから遠視を始めて、位置を特定して、あなたたちが出てこられそうな場所を予知して出発して……それでようやく今の時間だったのよ」
「ああもう、こう言えばああ言う! だいたいね、私が最初に誘った時に予知の一つや二つしておいてくれたら対処の方法はいくらでもあったのよ! 気遣い足りないんじゃないのあんた!」
「だからね、私のESPを万能だと思ってるから腹が立つのよ、あなたも。いちいち細かく予知してたら、こっちの精神が保たないわよ。だいたいね、こっちだって彼といい感じになってたところでジャマされたのよ? 文句を言いたいのはこっち。迎えに来てあげただけまだマシだと思いなさいな」
「だああっ! 今度はオトコ絡みでノロケかあああっ! は~ら~た~つ~わ~ね~っ!!」

 ……で。
 そんな二人の口げんかを、羨ましそうに見ている瑤子。

「……本当に、仲いいですよね。ひなたセンパイと綾さん」

 とか呟くと、

「ただの腐れ縁よ!」
「ただの腐れ縁ね」

 と、二人同時に言ってくる。

「腐れ縁とは何よ、もうちょい言葉選べ!」
「腐れ縁だなんて、あなたが言う言葉?」

 と、更に口げんかが続く。
 で、瑤子、溜息混じりにちょっと笑う。可笑しくて。

「……いたっ……」

 地下で傷つけた足が痛んで、手で押さえる。
 一応消毒して、朝一番で病院に行って抗生物質を注射してもらうつもりだが、綾に言わせると放っておいても問題ないはずだと。


 それより、この傷口にみつきが躊躇いもせずにしてくれたことを思い出す。その傷口を押さえた手は、何時間も繋いだままだったみつきの手の温もりを憶えている。

 センパイを見ている限り、女に生まれた自分に絶望しなくて済んだ。
 ――同じ、なら。
 あたしだって、いつかは、あんな風に。

「まったく、ひどい一日だったっ! ねえ、瑤子っ」

 ぷんすかしながらみつきが言う。

「あ……はい。でも……」

 少し、言い淀んで。

「でも、楽しかったです」
「……はい?」
「あ……いえ、何でもないです」

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