おひさまは今夜も空を飛ぶ(4)
ビルの谷間で修羅場になって
歌舞伎町の一角にあるホストクラブが、その夜の営業を始める準備を進めていた。若いホストが次々に出勤し、身なりを整え、店の清掃を続けている。
その内の一人に、須賀健一郎の姿があった。
松永泰紀、松永恵と共に、件の生写真に写っていた見知らぬ少年。その現在の姿である。
「須賀、ちょっといいか」
店長を務めるホストに呼ばれて、須賀が振り返る。
「はい、何スか?」
「これから外に出るんだが、お前の車貸してくれ」
「いいっスけど、俺の車、シボレーのSUVですよ? あんな図体でかいの……」
「だからいいんだ。あれ内装も凝ってるだろ。ドライブには向いてるからな」
「ひょっとして、客の送迎スか」
「ああ。遅出で同伴の奴も一緒に拾って、小一時間ほどドライブしてくる」
「うちって、そんなサービスやってましたっけ?」
「特別だよ、相手は例の三人組だからな」
「あー、あのアパレル関係のエース……」
「色恋の呼吸や遊び方もわかってる客だから、ノリ次第では途中下車で枕も考えておいてくれ。ただ、最後は店に来てボトル空けてもらえよ」
「……はあ」
「なんだよ、渋い顔して」
「いや俺、客と寝るとか寝ないとか、最近どーも。やっぱフツーの女がいいし」
「なんだおい、似合わんこと言うなよ」
「最近気付いたんスけど、遊び慣れてる女とヤってもいまいち良くないんスよ。なんつーか、豆腐にナニを突っ込んでるみたいにグズグズで」
「単に緩いかどうかの問題だろ」
「違いますよ。マスターもよく言うでしょ、接客の時にはまず心を抱いてやれって。セックスって、身体だけじゃなくて心も抱いてるんだと思うんスよ。だから、ちゃんとしてる女の方が絶対イイから」
「悟ったみたいなこと言うなぁ、お前」
「悟りましたよ、多分」
「生意気言ってろバカ。で、どうするんだ。最悪クルマだけ貸してくれりゃいいんだが」
「……まあ、行きます。最近財布が軽いんで、ちょっとでもスコア欲しいスから」
須賀も以前はごく普通の真面目な少年だった。件の生写真に残る昔日の姿からも、それは窺い知れる。
ただ、親の都合で転校を余儀なくされた中学時代。当時親友と呼び合っていた松永泰紀と別れた孤独を紛らせるために出会い系サイトやウェブチャットを利用し始め、そこで知り合った素性も知らない年上の女に誘われるまま、身体の関係を持つことになった。
これが、いけなかった。
当時の須賀は愛情や恋愛の意味すら考えたことのない子供だったし、芽生え始めた性の欲求を御する術も知らなかった。安易に手に入った快楽にあっさりと溺れ、相手の女はただ可愛らしい若い男が欲しかっただけだから、少年の無思慮な欲求を悦びこそすれ窘めることは全くなかったのである。
これ以後、須賀はただ女の身体欲しさに三十歳前後の主婦や独身OLを狙うようになる。それなりに着飾って可愛らしい年下の男を演じるだけでホテルに入って欲望を遂げられた。簡単だった。自分の容姿が中性的で女受けのいいことはすでに自覚していたし、最初の女が自分を玩具扱いしてくれたことで、年下趣味の女たちが欲する少年像のステレオタイプを学んでいたからだ。
ただ本音を言えば、相手に合わせて自分を偽るばかりの会話は退屈だった。安易に手に入る快楽にも飽いていた。
須賀の興味がごく普通の同年代の娘たちへと移っていったのは、ごく自然なことだろう。
けれど、真剣に恋愛を成就させるには思いやりと根気が不可欠だし、いくら我慢や努力を重ねてもうまくいかない時もあるという現実を受け止める度量も要る。普通の恋で身に付く当たり前のことを須賀は何一つ学んでいなかったから、これで上手くいく道理がない。一向に快楽が手に入らないというフラストレーションだけが溜まっていく。
なお悪いことに、彼は先の震災で両親を亡くしていた。道徳的な歯止めがかかることもなく夜の町の裏側へ出入りし始め、気がつけば知り合いは暴力団くずれの連中ばかり。糊口を凌ぐためにバイト感覚で始めたホストの仕事が分不相応な収入をもたらしたことも、彼の堕落を助長させた大きな要因となる。
結果、須賀は特に気の合う連中と共謀、手っ取り早く同世代の女を抱くためにレイプ紛いの真似をやり始めたのだ。その手口は巧妙かつ狡猾。被害者は相当な数に上るというのに、警察の捜査が須賀らに及んだことは一度もなかった。
そんな中、街角で偶然に昔の知り合いと再会する。昔、親友と呼び合っていた松永泰紀と、その彼といつも一緒だった松永恵。須賀の記憶では小学生のままだった恵だが、今は驚くほど可愛くなっていた。
それに、須賀はそそられた。
今も松永泰紀との友情を忘れていないふりをして、彼と携帯番号やメールアドレスを交換するついでに松永恵のものも聞き出した。そして、
「恵ちゃん、ちょっと相談があるんだけど、松永のやつ、今は予備校だよね? 勉強で忙しそうだし、声をかけ辛くて。悪いけど、時間くれないかな?」
たったそれだけで恵は簡単におびき出せた。何せ相手は〝お兄ちゃん〟の親友だし、子供の頃には彼と一緒に遊んでいた記憶も残っている。恵はまったく須賀に警戒心を抱いておらず――。
(ほんと、歴代屈指のチョロさだったな)
須賀と店長、そしてホスト仲間の男三人と女性客三人、計六名を載せた大型SUVの車中で、須賀は自分の携帯電話を弄りながら呟く。眺めているのは、昨夜に松永泰紀から来た最後のメールだった。
[恵のことで話がある、今どこだ?]
その他にも、この一週間に渡って異口同音のメールが何通も届いていた。
(アホくせ)
続いて携帯のメモリに残っている画像データファイルの一覧を開く。口止め用と名付けられたそのデータには、須賀と数人の仲間、そして松永恵が写っているが、それがどんな写真かは述べるまでもない。
「須賀くん、何見てるの?」
同乗している女の一人が話しかけてくる。須賀は慌てず、けれど素早く携帯の画面を切り替える。
「あ、いえ、チコさん。何でもないです」
「もう、さっきから携帯いじってばっかり……」
「すみません。友達と連絡つくまで、もうちょっと待ってもらえます?」
「友達って、女の子? 彼女?」
「まさか。男ですよ、ツレです」
須賀は今朝方から、悪友たちに何度もメールを打っていた。松永泰紀がどうなったのかを確認するためにだ。けれど返事はない。
須賀は職業柄、生活のリズムが昼夜逆転している。朝眠りにつき、夕刻に目を覚まして出勤。その繰り返し。日常接している世界はあまりに狭く、世情にもまったく無関心だ。仮に歌舞伎町や芝浦埠頭の事件を耳にしても、そこで自分の悪友らが松永によって返り討ちに遭っているなどとは察しもつかなかったろう。
(いつもはソッコーで返信してくんのに、何やってんだバカどもが)
須賀は、携帯をポケットに仕舞った。
「……ウザいバイクだな、ったく」
ふいに、運転席の店長が呟いた。
「どうかしたんスか?」
「さっきからバイクが一台、煽ってきててな。しかもヘッドライトがハイビーム」
「ああ、はい、確かに居ますね」
「あんなのに苛ついてるだけ損なんだけどな……。しょうがない。ちょっと近道するぞ」
店長はハンドルを切り、主要道路を外れて脇道へ入る。立ち入り禁止の看板が立っていたが無視してすり抜けた。急に周囲が暗くなり、道も悪くなる。
「ねえマスター、ひょっとして、八重洲の廃ビル街に入ったんじゃないでしょうね?」
後部座席の女性客が言ってきた。
「そうだよ、こっちの方が早いんでね」
「大丈夫? ホームレスの溜まり場って話は……」
「そんなの、とっくに警察が追い出してるよ」
「でも、ビルや道路が崩れたりとか」
「心配性だなあ。俺は先月もここらを走……ん?」
ふいに店長が車を停止させた。震災前は主道だった片側二車線の道路だが、行く手に巨大なクレーン車があって道を塞いでいるのだ。念のため近くまで寄ってみたが、すり抜けられそうな隙間はない。
「これ、向こう側に道路がないな……大穴が空いてる。陥没か?」
正しくは地下街を含めた復旧工事の最中。瓦礫が積み上げられた更地や鉄パイプで組み上げられた工事用の足場の他、ショベルカーや大型ダンプを始めとする重機、建設会社の名が記された乗用車などがいくつも確認できた。傾いたビルの解体などは危険が伴うから、安全確保の観点から夜を徹しての作業は行われていないのだろう。
都心とは思えない静寂の中、車のエンジン音だけが不気味に反響する。人の気配もまったく感じられない。
「なんだか、幽霊でも出そうな感じ、しない?」
「確かに、震災の時に死んだ奴も多いだろうけど」
「あ、そっちに白い影が」
「キャー! 私、そういうのダメなのー!!」
「大丈夫だよ、そんなに怖がらないで……」
道に迷ったことを話の種に、後部座席のホストと女性客は随分と盛り上がっていた。
「ごめんごめん、工事してると思わなくてさ。すぐ戻るからもう少し我慢してて」
店長は車を回頭させ、今来た道を戻り始める。
「? 何だ、あいつも迷い込んだのか」
例のバイクが、道の端に停まっていた。
「何考えてんだかな、こいつ。一人で道に迷ってろ」
思いつつ、バイクの側を通り過ぎようとする。
が、脇腹を庇いつつバイクを降りたライダーが、加速しつつあったSUVの前に飛び出してきた。
「うわっ……!!」
慌ててブレーキを踏む。後部座席で小さな悲鳴が上がるものの、残り数十センチのところで何とかライダーを撥ねずに済んだ。
「この野郎っ、何してやがる!」
窓を開けて首を出し、怒鳴りつける。
と、ライダーは静かにヘルメットを取った。
それを見た須賀の顔色が、変わる。
「松永……か? ンだよ、性懲りもなく……」
「? なんだよ、須賀の知り合いなのか」
「あ、知り合いっつーか、最近付きまとわれてて」
「穏やかじゃないな、何があった?」
「いや、ほとんど言いがかりで、俺も困ってるんスよ。昨日の夜も絡まれたんスけど」
須賀は怯えた顔をして言う。縁起には違いないが、とてもホスト仲間や女性客に見抜けるものではない。誰も須賀の裏の顔を知らないのだ。
「ねえ、須賀くん、困ってるみたいだし、なんとか助けてあげられない?」
女性客の一人が、他のホストと店長に話しかける。
「そうだな……須賀、手を貸すよ」
「俺も出るよ。話つけるにしろ追い払うにしろ、こっちの人数は多い方がいい」
「マスターも先輩も、本当にすんません、助かります」
男三人が車から下りていく。頼りになるところを見せられれば客の印象も良くなるし、数の上でも三対一と有利だ。怯む理由は何もない。女らは贔屓のホストが失礼なライダーをやっつける様を期待し、勘違いも甚だしい黄色い声援を送っていた。
そして、須賀ら三人と松永泰紀が対峙する。
「悪いけど、連れがいるんだ。帰ってくれ」
二人のホスト仲間を盾にして須賀は言うが、松永は答えない。黙ったまま歩み寄る。
「……なんだ、こいつ」
店長が間に入って手を伸ばし、松永を押し止める。
「邪魔するな、須賀以外に用はない」
松永が、初めて口を開いた。
「関係のない奴を巻き込みたくない。退いてくれ」
「関係あるんだよ。須賀は身内みたいなもんだ」
「なら、力ずくでも退いてもらう」
「おいおい本気か? 三対一だぞ?」
「まだ上手く自分の力をコントロールできないんだ。あんたが大怪我することになる」
「はっ、何が力だ、笑わせんな……おっ?」
松永が、店長の腕を掴んだ。
――その瞬間、身の毛がよだつ嫌な音がする。
店長の腕の骨が、砕けたのだ。
「う……あ、うあああああっ!」
店長は腕を抱えてその場にうずくまるが、松永は目もくれず、須賀へ向かって静かに歩き始める。
「こ、こいつっ……」
女が後ろで見ている以上、もう一人のホストも後には退けない。思い切って松永に掴みかかる。
が、松永がひょいと腕を振るっただけであっけなく弾き飛ばされ、たっぷり五メートルは宙を舞った後、道路脇にあった建設会社の自家用車に叩きつけられた。ボンネットが大きく凹みフロントガラスが砕け散る。幸いにも衝撃のほとんどを壊れた車が引き受けたため、ホスト自身は大きな怪我をせずに済んだのだが、全身を打ち付けた痛みですぐには動けそうにない。
一人残された須賀の顔が凍り付く。車の中にいる女性客も狼狽えているだけだ。
「な……何が、どうなって……」
呆然とする須賀の胸ぐらを、松永が片手で掴む。
「探したよ、今日一日、あっちこっち走り回った」
須賀は松永の腕を振り解こうとしたが、びくともしない。ほんのわずかに揺れもしない。膂力の強弱とは関係なく、松永の手足が物理的な影響を拒絶しているようだった。
「居所を知ってる奴を見つけるまで苦労したよ。ついでに、お前の趣味についてもいろいろ聞いたぜ」
松永が、須賀の胸ぐらを掴む腕に力を込めた。上着のボタンが千切れて地面に落ち、シャツの布地が裂け、地面から踵が浮き上がる。
「や、やめろ、俺に何かしてみろ、あの時の写真あっちこっちにバラまいて……」
「やってみろよ、あの世からバラまけるもんならな」
松永が、拳を振り上げた。
自動車を鉄屑に変える威力がある拳だ。顔にでも叩きつければ須賀の頭骨は砕け散り、血と脳漿と肉片を撒き散らすだろう。
そうなることを、知っていて。
「死ね、ゲス野郎」
松永は拳を振り下ろす。
否、振り下ろそうとした。
──バシャアアアンッ!!!!
「……っ?!」
すぐ側、背後で大きな音がして、松永は反射的に振り返る。震災前は大企業の自社ビルだったのだろうか、そのエントランスを覆うガラスの壁面が砕け散っていた。きらめくガラスの破片が視界を埋め尽くし、流星雨のように通り過ぎていく。
転瞬、その流星雨の中からヘッドライトの閃光と共に飛び出した一台の車が、限界まで回したエンジンの爆音と滑り続けるタイヤの悲鳴を伴って猛然と走り寄ってきた。
綾のワーゲン。
廃ビルの内部をも近道の一つにして、間一髪で間に合わせたのだ。
「まーつーなーがーさーんっ! すとーっぷ、すとっぷ、すとおおお────っぷ!」
叫びながら天井のラグトップから飛び出したみつきは、慣性に任せてそのまま松永に掴みかかる。
「っ……! な――」
松永には状況を把握する暇などなかった。反射的に須賀から手を放してみつきを受け止める。二人はぶつかり、絡み合い、その場から吹き飛んでいく。これは比喩ではない。二人の身体が近くのビルの壁にぶち当たり、コンクリートが粉々に砕け散った。
そして、松永のすぐ脇をすり抜けた綾の車はブレーキをかけるが止まりきれず、そのまま数十メートル向こうへと滑っていく。
「な……。何だ、何なんだ、こりゃあ……」
状況を把握できないのは取り残された須賀も同じだ。呆然と立ち尽くすしかない。
しかし、客の女たちは若干冷静だった。SUVから下りてそれぞれ贔屓のホストの元へ駆け寄る。
「須賀君、今のうちに早く逃げよう、ね?」
「あ……そ、そうっスね……」
腕を折られた者も弾き飛ばされた者も、女性客の助けを借りて立ち上がり、這々の体で車に乗り込む。
その時、砕けたコンクリートの中から、まったく無傷のみつきが咳き込みながら立ち上がった。
「げほげほげほ……うー、コンクリの粉が……あ、あれ、眼鏡がない……って、こら! 女の敵、最低男、逃げるなーっ!」
みつきが叫んで、今まさに走り出そうとしたSUVにサイコキネシスを送り込む。
前輪が一つ吹き飛んだ。
「うしゃっ」
頓挫した車に小さくガッツポーズを取るが、
「ダメだ、こいつ壊れて……」
「は、走ろう?! 走って逃げよう!!」
須賀とホスト、そして女性客は、即座に車を捨てて自分の足で逃げ始めた。
「うわ、無駄に判断早っ」
そう呟いた時、みつきの足元で倒れていた松永が起き上がった。こちらも無傷だ。飛びついたみつきが彼をしっかりと庇っていたからだ。
「う、っ……くそっ……」
先の衝撃で瞬間的に記憶が飛んでいるらしい。しきりに頭を振りながら状況を確認しようとする。
その松永の目に、車を捨てた須賀とホスト、女性客たちの姿が映った。
どす黒い殺意の炎が瞳に蘇る。拳を握りしめ、物も言わずに走り出した。
「うわわっ……! も、もういい、もういいの! お願いだから落ち着いて、松永さん! ねっ?!」
みつきは松永の背中に飛びつき、胴に手を回し身体をくっつけて踏み留まらせる。
「ッ、ぐ……!」
脇腹の怪我に触れられた松永の顔が歪む。激痛に気が遠退いても不思議はないが、常人離れした精神力が痛みを無視させる。そして、怪我に触った相手に対し、理屈抜きの怒りと嫌悪が湧いてくる。
「何だ、お前はっ! 誰だよ! 放せ、放せっ!」
「誰って……うわ、もう忘れられてる……」
「さては須賀の客か、でなきゃオンナか?!」
松永の目には、みつきが須賀を手助けしている女性客の一人として映ったらしい。
「ど、どっちでもないってば! 私は……」
「放さないのなら、手加減しないっ!」
松永がみつきを振り解こうと身を捩り、その動きにアクティブ・キャリバーが重なって桁違いの力が発生する。サイコキネシスの源が己の意思力である以上、最も鋭敏かつ容易に作用するのは自分の肉体なのだ。
松永が初めて自分の能力に気付いたのは、ゲームセンターで複数の男たちから袋叩きにされたその時だった。肋骨を折られて尚も熄まない暴行に命の危険を感じ、恐怖し、怯え、怒り、憎み――頭が飽和して、潜在的に持っていた超能力者としての素養が偶然目を覚ましたのだった。
彼は恐怖した。他者の命を安易に奪える圧倒的な力の予感に身が竦む。抜き身の刀や銃など持ったことはなかったが、自分の手足がそれよりはるかに恐ろしいものに化けたとしか思えなかったから。その意味で彼の感覚は健全だったと言える。
だが松永は、同時にこうも考えた。
今なら須賀を殺せる、今度は何人束になってかかってきても負けはしない、と。
その確信に恐怖心は薄れ、人間離れした力を何度も振るってきった。無敵に等しかった。復讐心の他にも、自分は誰よりも強くなったと思い上がっていた一面は確かにある。
ところが。
「ま~つ~な~が……さ~んっ、落ちつ、い、てっ、お、おねが……い、だから……っ、このおぉっ!!」
自分の背中に抱きついている華奢な女が、その松永を完全に抑え込んでいるのである。
「な……っ、何なんだよ、お前……。は、放せ……放せよ! 邪魔するなっ!」
驚愕しつつも、松永は懸命に手足をばたつかせる。
一見すると何の変哲もない取っ組み合いだが、二人が足を踏み鳴らす度に地面のアスファルトにはヒビが走り続けている。それだけの力が働いているのだ。みつきは松永を抑え込むのに手一杯。当然、須賀とホストたちに逃げ延びる時間を与えることになる。
「あ、ああっ……最低男が逃げてっちゃう……」
全ての事情を知ってしまった以上、みつきだって本音では須賀の横っ面をぶん殴ってやりたい。ただ、それは二の次。松永を人殺しにする訳にはいかない。彼を待っている人のところへ、無事に帰してあげなくてはならないのだから。
「あ、んな奴の、ために……人生、棒に、振っ……そんな、つまんない……こと、しないでっ!」
しかし、そのみつきの訴えは、誤解される。
「……つまらない、だと……」
松永の脳裏をよぎったのは一週間前の記憶だ。恵の家族からかかってきた相談の電話。娘が部屋に閉じこもって学校にも行っていないのだが心当たりはないかと。心配になって恵の家へ行くが帰ってくれと拒絶され、やむなく鍵のかけられた扉をこじ開ける。恵は当初、混乱していた。気が触れたのかと思うような言動も見せた。けれど彼は、根気よく話し続けて落ち着かせ、何があったのかと優しく訊いた。
恵は、何もかも話してくれた。
そして、泣き崩れた。
その涙は『この世で一番大事な女の涙』だった。
それを『つまらない』と言う奴が邪魔をする。
「邪魔をするなら……お前も、殺してやるっ!!」
これでも松永は手加減をしていたのだ。ゲームセンターや芝浦埠頭で強姦の共犯者らを相手にしてもなお、涙ながらに命乞いをする連中に決定的な一撃を加えなかった。彼が生来持つ優しさ故に。
だが今、その優しさを怒りが上回った。本気で暴れ始めた松永、渾身の一撃。背中に向かって突き出した肘が背後にみつきの頬に直撃する。
刹那、凄まじい衝突音が響き渡る。みつきに向けられたアクティブ・キャリバーの余剰分が空間に干渉しながら突風となって四方に広がり、周囲の廃ビルを襲う。サッシが軋んで窓ガラスにヒビが走った。
それだけの威力がある肘鉄の直撃を受けてなお、無傷でいられる訳がない。
「い、いちち……もうっ……」
口の中が少し切れたのか、みつきの唇に血が滲む。
たったそれだけか、と思うなかれ。彼を抑えているのが同じ極過型のサイコキネシス能力者であるみつきでなければ、首から上が吹き飛んでいるのだから。
続けて、松永の拳や肘が何度も何度もみつきを打つ。その度に凄まじい衝突音が響き渡り、衝撃波が巻き起こる。しかし。
「あいだっ、いだっ……ひぐっ、あううぅ……」
痛いとは感じているらしいが、みつきはなんとか耐えていた。そこに。
「みつき、大丈夫なの?!」
「ひなたせんぱーいっ!」
ワーゲンを降りた綾と瑤子が駆けつけるも、二人の側には近付けない。突風の風圧に歩が止まり、身体を骨の髄から揺さぶる衝撃波の不快感が本能的に足を竦ませる。立っているだけでも精一杯なのだ。
「ショベルカーとブルドーザーが喧嘩をしても、もう少しおしとやかでしょうに……」
「そんな綾さん、呑気なこと言ってる場合じゃ」
戸惑う二人に、みつきが大声を張り上げる。
「あ……あや、よーこっ! こっちは……あ痛ッ! わ、私一人で何とかするよっ、逃げてった連中を、早く……きゃあっ! ……ああもうっ、あの最低男、往復ビンタして土下座させて裸にひん剥いて都内を引きずり回して泣きべそかかせてやんなきゃっ!!」
「で、でも、センパイ一人じゃ……」
瑤子は渋るが、
「みつきの言う通りにしましょう」
綾は納得し、瑤子の方を向く。
「大丈夫、みつきはまだ余裕があるわ。松永さんの精神力も無限ではないのだし、疲れてくれば少しは聞く耳も持つだろうから」
「あ……はい……」
納得しきれない瑤子の背を押しつつ、綾は須賀を追って走り始める。
(みつき、任せたわよ。しっかりね)
テレパシーに乗せてそう伝えると、
「言われなくてもっ!」
みつきから、衝撃波が立てる轟音に負けない元気な声が返ってきた。
須賀と同僚のホスト、それに女性客らは、必死になって暗い廃ビル街を逃げ続ける。
「ちょ、ちょっと、向こうのほう、何か爆発してるみたいな音してる……」
「何なの?! ねえ、何なのよ、あれ!!」
「手を握られただけで骨が折れて、腕一本でぶっ飛ばされて、ビルの壁は砕けて、車はぶっ壊れて……」
「ゆ、夢でも見てるのかな……」
「ち……畜生、腕が……クソっ……」
「と、とにかく、表通りで助けを呼んで……」
口々に喚きながらも、この男女六人の足は驚くほど速かった。腕を折られた店長すら走ることを止めず、女性客らもヒールのある靴を脱いで素足同然の足元でアスファルトを蹴り続ける。それだけの恐怖と危機感を彼ら全員が共有しているのだろう。
一方、綾と瑤子は、曲がり角を二つ三つ遅れてその六人を追いかけている。
「このままでは追いつけないわね……」
舌打ち混じりに綾が呟く。どんなに引き離されてもESPがある限り見失うことはないが、その能力故に、自分の脚力では絶対に追いつけないとわかってしまう。今からでは車を取りに戻る時間もない。
綾は急に、走るのを止めた。
「瑤子、悪いけれど一人で先に行って」
言われた瑤子も、怪訝な顔で足を止める。
「えっ? でも、綾さんがいないと、どっちに行けばいいか」
「二区画先の、壁面が崩れた古いビルのある曲がり角を右。あとは道なり。連中が交番にでも駆け込まれたら面倒だし、時間をかけたくないの。私が追いつくまでに全員気絶させてくれれば最良だけど、最悪、あの最低男だけでも足を止めして」
無茶な要求である。先に行く六人に追いつくだけならまだしも、小柄な女子中学生一人に男女合わせて六人の大人を叩きのめせと言うのだから。
しかし瑤子は、気負いもせず静かに頷いてみせた。
「いつも御免なさいね、お願い」
「はいっ」
瑤子が前を向き、全力で走り出した。
これがまた、速かった。速すぎる。中学女子の全国一位はおろか、オリンピックの短距離走でもメダルが取れるかもしれない。神懸かり的な脚力だった。
「……見つけたっ!」
本当にあっという間だった。瑤子は汗一つかかず息一つ乱さず、須賀ら六人に追いつき追い越す。鮮やかにステップを切りながら彼らの前に回り込み、両手を広げて仁王立ち。とおせんぼの姿勢を取る。
「ここは通しません! 特にその、須賀って人!」
瑤子が睨み付けて言い放つ。須賀やホスト、女性客らは思わず足を止めた。
が、彼らと瑤子はこの時が初対面。戸惑うか腹を立てる以外に反応のしようがない。
「何よこの子、何言ってんの?」
「ほっとけ、こんなのに構ってる暇は……」
ホストの一人が瑤子の脇を通り抜けようとした。
が、瑤子が手を伸ばた直後、彼はあっという間にアスファルトに寝転がされていた。
「……あ、あれ?」
彼には怪我もなく、身体のどこにも痛みはなかった。瑤子は柔道の有段者も舌を巻くほどの鮮やかさでホストを背負い投げにして、かつ、地面に叩きつけて怪我をしないよう手加減までしてのけたのだ。
しかし、仲間に乱暴をされたと見たホスト仲間や女性客は、これで一気に殺気立った。
「こいつっ、あの変なヤツの仲間か?!」
「け、怪我人がいるのよ! 骨を折られたのよ?! 私たちは警察呼びに行くんだからっ! あ、あんたも警察に掴まりたいの?!」
ヒステリックに叫ぶ連中に、瑤子は堂々と言う。
「警察に行くんならあたしも手伝います。ただその時は、この須賀って人が汚らわしい犯罪者だってことを認めた後です。……松永泰紀さんが怒ってる理由、松永恵さんのこと、記憶にないとは言わせませんからね!」
驚いたホスト仲間や女性客は、一斉に須賀を見た。
「し、知りませんよ、言いがかりだ!」
その須賀の言葉を信じたのかどうか。
須賀を贔屓にしていた女性客の一人が、瑤子に掴みかかる。
「須賀君、早く警察に! 他のみんなも、誰でもいいから表通りで助けを呼んで!」
「や、やめて下さい! さっき言ったことは……」
「嘘つかないで! 須賀君、優しいんだからっ!」
「え……っ、うわ……い、いたたっ……!!」
女性客の剣幕に圧された瑤子は体制を崩し、髪の毛を掴まれてしまう。アスファルトへ寝転がされていたホストもこれを手助けしようと立ち上がった。瑤子の背後へ回り込んで羽交い締めにする。
「あ、ああっ! やめて下さいっ! 放して!」
瑤子の身長は百四十センチ、体重は四十キロ弱。大人二人との体格差はいかんともし難い。足が地面から離れて身動きが取れなくなり、その隙に何としても捕らえるべき須賀が走り出した。後には片腕を折られたホストと女性客二人が続く。
「しょうがないなあ、もうっ! ちょっと痛くしますからね、恨まないで下さいねっ!」
瑤子は自由な足を持ち上げ大きく捻り、体操選手が鞍馬や平行棒の演技をする要領で勢いよく振り回した。その動きがまた、とてつもなく速く、激しい。
「う、うわっ……」
「きゃっ!」
これほどの大きな動きを容易に抑え込めるものではない。羽交い締めにしていたホストの腕が緩み、女性客の身体は弾かれてよろめく。あっさりと拘束が解け、瑤子の足が地面に着いた。
直後、瑤子は旋風のような神速で身を翻し、ホストの鳩尾辺りにぽんっと軽く拳を突き入れる。続けて、瞬きほどの時間も置かずに地を蹴って跳躍。
「……ちょ、うそ……」
小さな身体が、女性客の頭上を軽々と越えていく。凄まじい脚力に呆然とする彼女の頭上で、瑤子は鮮やかな宙返りを決めた。その間に、目にも留まらぬ速さで女性客の首筋へ手刀が繰り出された。
「あ……制服だった」
鮮やかに着地した瑤子が、派手に翻ったスカートを慌てて整える。慌てると言っても、元より人目のない場所だ。羞恥を感じてのことではないらしい。
「センパイが見てたら、きっと怒ったろうな……」
呑気に呟く瑤子はこの時、ホストと女性客に無防備な背中を晒していた。相手がもう気絶しているという確信があったからだ。現に二人は瑤子の背後で白目を剥いて気絶、折り重なって倒れてしまう。
実のところ、通常の人間は肉体が本来持っている膂力を五分の一ほどしか引き出せない。骨や腱が損傷しないよう無意識に抑制しているからで、これが何らかの拍子に解き放たれるといわゆる火事場の馬鹿力が発揮される。瑤子はこの潜在的な膂力を自由に解き放つことができ、かつ、並外れた力を完全に使いこなす卓抜した運動神経と集中力をも持ち合わせているのだった。
つまり、瑤子の身体能力は同年代の中学生女子を五倍したものに等しい。その気になれば短距離走の世界記録を易々と打ち立てられるし、鍛えに鍛えた格闘技の達人よりも強力な一撃を繰り出せる。常人を気絶させるなど造作もないことだろう。
加えて言うと、これは瑤子の特殊能力とは関係がなく、数多く持つ平常的な能力の一つに過ぎない。
EXの発動は、ここからだ。
「そ、そうだ、携帯があった」
逃げる四人の先頭にいる須賀は、何故今まで気付かなかったのかと自分を罵りながら携帯を取り出した。コールは110番。走っているせいで上手くボタンが押せないのがもどかしい。
その様子が、瑤子の視界にも飛び込んでくる。
「……あっ」
いくら瑤子の俊足でも、彼の通報は邪魔できない。それだけの距離があったし、須賀の後ろへ続く三人も今以上に激しい抵抗をしてくるに決まっている。
そんなことは瑤子も承知していた。しかし。
「やらせないっ!」
一切の精神的な抑制から身体を解き放ち、瑤子は全力で走り出した。常人離れした集中力が彼女の雑念を振り払い──そして。
忽然と、瑤子の姿が消えた。
いや、逃げる四人の先頭を行く須賀の目の前に現れた。
その移動に要した時間は全くのゼロ。
「相手があたしだったことを感謝しなさいっ。これがひなたセンパイだったら、もっとこっぴどくガツンってやられてたんですからねっ」
瑤子は詰めていた息を吐き、もう終わったと言わんばかりに胸を張る。
そう、もう終わっていた。
あとは通話ボタンを押すだけだった携帯が須賀の手を離れて地面に落ち、須賀とホスト、そして女性客らは全員同時にその場へ倒れ伏したのである。
時間を止めて移動し、全員に当て身を食らわせたのか。あるいは瞬間移動か。どちらなのかは誰にもわからない。そして、どちらでも同じことだ。第三者にはその一瞬を全く観測できないのだから。
「すごく集中してると、誰でも時間の感覚があやふやになりますよね。ほんの一瞬がすごく長く感じたりして。あたしにとっては、それと同じことなんです」
瑤子の言葉を借りるなら、そういうことらしい。
これが、彼女の持つEXである。
「……お疲れ様、瑤子」
ようやく今になって、息を弾ませた綾が瑤子のところに追い付いてきた。
「さすがね、相変わらず鮮やかだこと」
「いえ……」
「須賀以外の人には、可哀想なことをしたけれど。巡り合わせが悪かったと諦めてもらいましょうか」
これに、瑤子が小首を傾げる。
「そんな、みんな盲目的に須賀って人を庇ってたし、この男の人たちってみんなホストなんでしょう? 女の人を食い物にするのが仕事で」
「別に、ホストという職業自体に罪はないのよ? 彼らと好んで遊ぶ女性もそう」
「好んで、って……。騙された訳じゃないのなら余計に放っておけませんよ。今度のことを天罰と思って反省して欲しいです」
「相変わらず潔癖性ね」
綾は、自分の胸を抱くように腕を組み、苦笑する。
「じゃあ、この須賀って人はどうします? こっちは絶対、もっと酷い目に遭ってもいいはずです」
「裸にして引きずり回すとか、みつきも言っていたわよね。時代劇じゃあるまいし」
「本当にやるんですか?」
その瑤子の疑問はむしろ、やると言うなら手伝います、という風に聞こえた。
「まさか。恵さんの件を認めさせたあとは、警察にでも引き渡せばいいでしょう」
これに、瑤子が真剣な顔で異を唱える。
「それじゃ足りませんよ絶対。恵さんの話を思い出して下さい。この須賀って人、初犯にしてはやることなすことソツがなさすぎです。他にもたくさん、酷い目に遭わされた女性がいるはずです」
これには、綾も顔色が変わった。
須賀の傍らに屈み込み、頭部へ掌をかざす。パッシブ・キャリバーを開いてESPを発動、彼が背負った他者の残留思念──怨念を、過去視として再構築する。
「……瑤子の推測通りみたいね」
ざっと確認を終えた綾が、唇を噛む。
「でも、最初の女があんな風でなければ、両親が健在なら……。いえ、今の彼がどうしようもないクズであることに変わりはない、か」
「?」
「気にしないで。独り言」
綾は、少しの間考えて。
「私も少し、リスク覚悟で本気を出しましょうか。……泣かされた女たちの怨念晴らし」
言うや、綾は殺意すら感じる凄まじい形相で須賀の頭をむんずと掴み、手に力を込めてぎりぎりと締め付け始めた。途端、須賀の身体が熱病にでも冒されたように痙攣し始める。
しばらくして、その痙攣が唐突に終わる。と、今度は逆に、綾の身体がふらふらと揺らぎ始めた。
「あっ……綾さん? 大丈夫ですか?! しっかり!」
瑤子は慌てて綾の身体を支え、腰を下ろさせる。顔は真っ青、大量の脂汗が滲む。微熱もあった。
精神的な消耗のせいだ。今の一瞬でここまで体調を崩すほどの何かが、綾と須賀の間に起きたらしい。
だが、それでも綾は、瑤子に向かって微笑む。
「大丈夫……少し、疲れただけ……。ああ、ごめんなさい、瑤子。手が震えて……胸元のピルケース、開けてくれるかしら。薬、あるだけ全部頂戴……」
「あ、はい……。あの、一体何をしたんですか?」
綾は瑤子の手から錠剤を受け取り呑み下すと、一息ついて。
「ちょっと、ね……頭の中に、深いところに、強い暗示を……。解けるのは数年後か、数十年後……この男次第では、一生駄目かしら……? まあ、男性機能を失うくらいが、今回の罰としては妥当なところ……よね」
「だんせい、きのう? ……あ」
「意味、解る……? やりすぎたと、思う?」
瑤子は頬を赤らめつつも、静かに須賀を見下ろす。
「いえ、全然。いい気味です」
その返事を聞いて、綾がまた、微笑む。
「こっちは、これで……終わり、かしらね。あとは、みつきの方……」
その時だった。
耳を劈くような金属質の轟音と爆発音が響き渡り、皮膚が痺れるほどのビリビリとした震えが空を疾る。その根源──みつきと松永がいるはずの方角を見ると、炎に照らされた巨大な黒煙が、ビルの谷間から天に向かってゆっくりと立ち上っていた。
「あ、綾さん、あれ……」
呆然と言う瑤子に、綾が舌打ちを一つ。
「彼を……抑え、きれなかっ……の、かしらね。早く、みつきの手助けに……」
綾は歯を食いしばり、立ち上がって歩き出そうとした。
が、足がもつれる。意識が遠退き、倒れ込む。側にいる瑤子が咄嗟に手を伸ばさなければ、顔からアスファルトに落ちるところだった。
「む、無理ですよ! しばらくじっとしてなきゃ!」
「そう、らしいわね……ごめんなさい」
「ここで休んでいて下さい、センパイのお手伝いはあたしだけでも」
「あなただけじゃ、かえって足手まといよ……。アクティブ・キャリバーが渦巻く中じゃ……EXを使っても、二人に近付くことすら……」
「で、でもっ」
「それより、人が路上に六人も倒れたままじゃ……。一応、この場の始末を……」
そう言いつつも、みつきの元に駆けつけたい気持ちは綾も同じだった。
(みつき、一人で大丈夫……?)
思いつつ、奮闘している親友の顔が思い浮かぶ。
何故か不思議と、綾の口元に微笑みがこぼれた。
(……大丈夫、よね。あなたなら)
綾が心中で呟いた言葉が届いたなら、みつきはきっと「勝手に一人で納得すんな! 大丈夫な訳ないでしょ、バカあっ!」と絶叫していたことだろう。
そのくらい、みつきは苦戦を強いられていた。
「あだっ! ぐえ! ぎゃあ! げふう! ぎゃうんっ! うあうぅ……うぎゃあっ!」
松永は背中側から自分を拘束するみつきに向かって拳や肘を繰り出し続けていたが、いつからかその一撃一撃が耐え難い痛みを生み始めていたのだ。
体力的にも精神的にも、みつきの消耗は軽いものではない。それは、汗だくになっている彼女の顔を見るだけでも瞭然だろう。
「ち、っ……力が、だんだん強くなってるっ……」
確かに松永の力は増幅を続けていた。それは激しくなる一方の突風と衝撃波からも明らかだ。しかし、それだけが苦痛の原因ではない。
実は、松永とは逆に、みつきの力は弱まってきているのだ。
松永が恵の仇を討つべく怒りに身を任せる一方、みつきには松永に対する敵意など無に等しい。気構えからして差がありすぎる。人の意思がそのまま具体的な力になるのがサイコキネシスだから、これだけでも大きなハンデになりうるのだ。
そして、とうとう。
「げふっ……あだっ! ……あ、やばっ」
脇の下を強打された痛みにみつきの身体が萎縮、腕から力が抜け汗が滑る。松永はその隙を逃さず、思い切り身を捻って背後を振り向いた。
二人が、至近距離で向かい合う。
「ま……つ、なが、さ……」
恐怖したみつきが息を呑む。物言わずとも内心の優しさを滲ませていた彼の面影はもうどこにもなかった。殺気と憤怒に憑かれた鬼の形相。
これはある意味、超能力者も人間に過ぎないという面からくる弊害だ。サイコキネシスを発動させる際には膨大な集中力を要するが、その度が過ぎると周囲の状況が判別できなくなる。つまりは無我夢中。そこにあるのはただ、自分の内的世界のみ。
今の松永にとっては、純粋な怒りと殺意だけだ。
「うおああああああああっ!!!!」
松永はみつきの姿を目視して、大きく腕を振るって横薙ぎに叩きつける。
「う、うわわっ……」
みつきは反射的に首をすくめ両腕で顔を覆う。そこに松永の腕が直撃。鼓膜を破らんばかりの凄まじい衝突音が響き渡る。みつきの上着が強烈な衝撃波と突風によってあちこち裂けて、足元のアスファルトが割れ、ビルのガラスは砕け散り、コンクリート壁に無数の細かいヒビが走る。側にあった自動車もこれに煽られ横転した。
もう、これまでの取っ組み合いとは次元が違う。正面から向き合ったことで松永のアクティブ・キャリバーが一点に集中し、みつきへと襲いかかるのだ。
これが、理論上誰もが持ちうるという超能力の真実。ヒトという種に秘められた無限の可能性、その驚異。旧大戦の前後に端を発し、冷戦期を経て現代に至るまで、各国政府があらゆる手を使って圧殺してきた極過型超能力者の姿だった。
「こんなの、何度も受けっぱなしなんてっ……」
身体も精神力も保ちそうにない。慌てたみつきはサイコキネシスを応用して跳躍、松永から距離を置こうと十メートルほど飛び退る。が、松永はそのみつきに向かって、手近にあった自分のバイクを掴んで振り回し、勢いよく投げつけた。
「……ああもう!」
みつきはそれを横に弾き飛ばす。受け止める余裕はなかった。バイクはビルの壁に当たって砕け散り、燃料タンクの破裂に伴って急激に拡散・気化した大量のガソリンへ電気系統の火花が飛ぶ。爆発。飛び散った細かい部品や金属片が周囲の建造物に当たって不規則に跳ね返る。生身の人間に直撃すれば命を落としかねないほどの勢いを持って。
その破片の一つが、みつきの頭に直撃する。
「あだっ! い、いたたたっ……」
思いもしなかった方向から飛んできたせいで、無意識的に身体の防御へ振り向けられるサイコキネシスが間に合わなかった。完全には弾き返せなかった。
「うー、目から火花出るかと思……っ、げげっ!」
破片の当たった辺り、髪の生え際より少し上を押さえていた掌へ、はっきり血とわかる赤い染みがついていた。それが汗と一緒になって伝い落ちる。
「ちょ、ちょっと、こんな時に勘弁してよぉ……」
左の目に汗と血が入った。慌てて目を擦っても悪くなる一方。視界の半分が霞んでいく。
その間に、松永はみつきへもう一撃を加えようと、次の車に手をかけていた。
「おっ、お願いだから、もう止めてよっ!! そんなことしたって誰も喜ばないよ?! 私だって、松永さんを止めてくれって恵さんに頼まれたんだから!!」
思わず、みつきが口走る。
「……恵」
今の松永に、唯一届く声。
一瞬、松永の動きが止まった。
「あ……よ、良かった、やっとわかってくれた……」
いや、激情の炎に油を注いだだけだ。
「め……ぐみ、恵っ……恵、恵っ……」
松永が奥歯を噛みしめる。涙が吹きこぼれる。
何もできなかった。須賀の本性を見抜けなかった。恵は自分のせいで傷ついた。胸を押し潰す悔恨。情けない自分への詰責。そして、須賀への憎悪と殺意。
自分はもう、どうなろうと構いはしない。
あの男さえ、この手で殺せるなら。
「……ふーッ、ふーッ、ふーッ……!!」
激情に震える呼吸を繰り返すたび、集中力が高まり意志力が蓄積されていく。その膨大なエネルギーはアクティブ・キャリバーとして外部へ発振されなくても外界に影響を与え始めた。一種の共振現象だ。地面のアスファルトや周囲のビルが微かに震えている。
「殺すっ! 殺してやる!! 邪魔をするなら誰だろうと殺してやるっ!!!!」
敵意がみつきに襲いかかる。突き出した腕から発振された極大のサイコキネシスが空間に干渉しながら地を疾る。それはもはや衝撃波を越えて、触れた物を切り裂き粉々に砕く凶悪な破砕波と化していた。
「ひえ……?! うわ……うわあっ!!」
今度はみつきも支えきれない。派手に弾き飛ばされた。その勢いは背後にあったビルの壁に衝突するまで収まらず、またもみつきは砕け散ったコンクリートの破片を頭から被ることになった。
「こ、これ、下手したら即死どころか、骨一つ……ッ、あ痛ッ?!」
起きあがろうとした瞬間、片方の足首に鋭い痛みが走った。
捻挫だろうか。立てなくはない。怪我としては軽い方だが、そのことに安堵はできない。松永に力負けしている証拠なのだから。完全に圧されているのだから。
「ううぅ、なんとか、なんとかしなきゃ、ホントにやられちゃ………………はい?」
起き上がろうとしたみつきの目に、信じがたい光景が飛び込んできた。
須賀の大型SUV。巨大なクレーン。コンクリートの塊を満載したダンプカー。ショベルカーにブルドーザーも。それら全てが松永の背後に浮かんで、少しずつ確実に上空へと持ち上げられていくのだ。
「ちょっと、冗談でしょ……?」
思わず笑ったその顔が引きつった。
先に述べた通り、極過型超能力者の絶対数は極めて少ない。実はみつき、過去に極過型のサイコキネシス能力者を敵に回したことが一度もなかったのだ。作戦などまったく考えておらず、そもそも松永がここまでやってのけるとは夢にも思わなかったのである。
自分の迂闊さを、海より深く悔やむしかなかった。
「い、一旦逃げよっと、体勢立て直しっ」
が、もう遅い。
「──がああああああッ!!」
松永が吠え、みつきに向けて車と大型重機四台を一斉に投げつけた。総計数十トンに及ぶ鉄の塊が隕石のように降り注ぐ中、車を押し出した極大のサイコキネシスはその威力を保ったままみつきに向かって収束していき、先のような破砕波と化す。
「ひ、ひえ……?! うあああああああっ!!」
降ってくる鋼鉄の塊に怯え、本能的に目を閉じ頭を庇うみつき。その小さな身体が巨大な重機の群れに一瞬で押し潰された。そこへ間髪容れずに他の車両が突き刺さり叩きつけられ、追い打ちとばかりに破砕波が襲いかかる。
――大爆発を、引き起こす。
「はあっ、はあっ……はあっ、はあっ……」
立ち上る巨大な炎が、夜空を焦がす。
後に残ったのは、道路の真ん中で荒い息を繰り返しつつ炎を見つめる松永だけだった。
「……っ、う……ぐっ……」
松永が頭を抱えてうずくまる。頭が割れそうなほどの頭痛。能力の使いすぎだ。
「か、はっ……うあ、あが……っ……」
意識が朦朧とする。嘔吐を繰り返し胃液を周囲にぶちまける。しかしそれでも、松永の闘争本能が彼に休息を許さない。
まだ、終わっていない。気配を感じる。
それは、自分に向けられた誰かの意識。彼はついにパッシブ・キャリバーにも覚醒を始めていた。
「ぐ、う……ギッ……」
滴る涎になど構いもせず、ぎりぎりと音が鳴るほど強く歯を食いしばって顔を上げる。歪んだ視界を気力で一つにまとめ、燃えさかる炎を睨み付ける。
そこは、みつきが潰された場所。
生きていたとしても、彼女は今頃、炎に焼かれているはずだ。
松永がいくら見つめても、変化は起きなかった。ただ炎が燃え盛るのみ。
気のせいか、と思い始めたその時。
彼の背後で、いきなり小さな爆発が起きた。
慌てて背後を振り返る。ほんの数歩後方、漂う土煙の中にマンホールほどの大きさの穴が空いていた。直後、そこから空へ向かって何かの塊が勢いよく飛び出していく。その塊は地上十メートルほどの高さで静止し、手足を広げる。
「げほげほっ! うええっ、ぶえっくょい!」
咳き込むその正体は、言うまでもない。みつきだ。
「さ、さすがに死んだと思った……。ヤエチカに大感謝っ、ほんと助かったぁ……」
本当に偶然だった。たまたまみつきが立っていた場所は地盤の液状化が激しかったようで、アスファルトの下に大きな空洞が出来ていたのだ。須賀の大型SUVを受け止めた衝撃でこれが陥没、さらにその直後の大型重機の落下によって八重洲の地下街だった場所の天井までもが抜けた。つまり、みつきはあの一瞬で地下街まで落ち込んでいたのだ。
直後に襲ってきた破砕波からは、折り重なる車両と土砂が守ってくれた。爆発も熱風も防いでくれた。結果としてほぼ無傷で戻ってこられたのだった。
みつきは泥にまみれた自分の身体をしきりに叩くが、汚れが広がるだけだと思って諦めた。そして、眼下の光景に視線を向ける。
「……ひどいよ、こんなの」
自分が酷い目に遭ったことではない。松永が暴れた結果、復旧中のビジネス街の一角が滅茶苦茶になっていることを言っている。
炎、黒煙、破壊の痕。陰惨な戦場にも似た光景が、視界いっぱいに広がる。
「憎いのは、わかるけど……。力に目覚めたばっかで、振り回されて、加減できないのもわかるけど……」
みつきの眉間に、皺が寄る。
「こっちの気も知らないで……。恵さんがどれだけ心配してるか、考えもしないで……」
そう。ようやく――ついに。
みつきの心に、怒りの炎が灯った。
一方、地上の松永は。
「はあっ、はあっ……ぐ、う……うおおおっ……!!」
もう彼には、状況を冷静に考える余力など残っていない。殺意のみで駆動する野獣に等しい。みつきが身体一つで空に浮いている姿を初めて目撃しても、その意味が理解できない。ただひたすら、邪魔な奴がいる、まだ生きている、だから殺す、としか考えない。暴力的なほど単純な殺意を拠り所にしてアクティブ・キャリバーを絞り出す。
「がああっ!」
咆哮。空にいるみつきに向けて拳を突き出す。その動きに合わせてサイコキネシスが収束、疲弊の極みにあるとは思えない強力な破砕波が三度繰り出される。
みつきは微動だにしなかった。ただ、掌をすっと前に出しただけ。
そこへ、直撃。
確実に直撃した。したはずだった。
なのに何も起きない。ろくな音すら立たなかった。
みつきが破砕波を握り潰し、消失させたから。
「……な」
松永が驚く。今の彼でも、これは異常なことだと気付いたのだろう。
しかしもう遅い。彼は噴火寸前の活火山に砲撃を叩き込んでしまったのだ。
そして、みつきは。
――キレた。
「……ぅぬぁああああああアッ!! あーもうこのわからずやーッ!!!! もう怒った! 心底怒った!! もう手加減しない! めいっぱい本気出すーっ!!!!」
そう叫んだ瞬間。
どおん、という骨の髄まで揺さぶられるような重低音と共にみつきの身体から爆風にも似た極大の物理的な圧力が放出され、これと同時に地震が起きた。少しずつ確実に揺れが大きくなっていく。
「な、なっ……うわっ……」
揺れに足元をすくわれた松永が膝をつく。自然の地震ではない。揺れているのはみつきを中心とした直径数キロメートルほどの狭い範囲だけ。
みつきの意志力に地脈が刺激され、街そのものが揺れ始めたのだ。松永が先に引き起こした共振現象と理屈は同じだが、その規模は正に桁違い。
さらに、目に見えて松永と違う点がもう一つ。
みつきの全身が、直視できないほど強烈な輝きを放ち始めたのだ。
実際の光ではない。周囲の街並みは暗いままで、光源になるみつきだけが眩いばかりに輝いている。人間の目にはそう見える不思議な光。
気、後光、波動、オーラ、プラーナ。研究所の関係者はアクティブ・キャリバーと呼んできたが、つまりは人の生命力を根源にして放たれる不可視の波動。それが眩いばかりに迸っているのだ。それも、超能力者でない一般の人間ですら可視光線と見紛うほど強力に、強烈に、圧倒的な量と密度で。
「ちったぁ、頭ぁ、冷やせええええっ!!」
宙に浮いたみつきが怒鳴る。と、一層大きくなった光が廃ビル街に疾った。その光につれて周囲のビルの窓ガラスが一斉に砕けて飛び散り、ビルのコンクリート壁表面は粉砕されて爆発したように粉塵を巻き上げ、道路のアスファルトが波打って地割れを起こす。しかも、それらガラスの破片が、コンクリートの欠片が、アスファルトの塊が、まるで生き物のようにのたうちながら松永の周囲へと殺到する。
「……ッ?! な……」
一瞬にして逃げ場を失った松永の目に、さらに度肝を抜く光景が飛び込んでくる。
二人から少し離れたところに停められている綾の車だけをちゃんと残して、周囲に停まっていた自動車やら重機やらが手当たり次第に数十台、あちらこちらから空に浮き上がってみつきの周りに集まってきた。そこには力みも溜めもない。ひょいひょいと豆粒をつまみあげるように、事も無げにあっさりと、巨大な鉄の塊が宙に浮かんでいく。
「う……あ、ああっ……」
松永の顔が、恐怖のあまりに引きつり始めた。
彼は思い知る。もともと自分とみつきの間にはこれだけの力の差があったのだ。そんな相手に向かって、彼は何度となく殺意を向け続けた。
やり返される。自分が彼女にしてきたように。
今度は、自分が、殺される。
「うわあああっ!!」
怯えきった松永は、みつきに向かってありったけの力を込め、破砕波を放つ。
「うわああっ、あああっ! ああああッ!!」
一回、二回、三回、四回、五回。それぞれ自動車一台程度なら苦もなく破壊する威力があった。
だが、みつきは。
「ていっ、ていっ。ふん、この、ほりゃっ」
無造作に手を左右に振るだけで、すべて左右に逸らせてしまう。松永渾身の破砕波は、一つ残らず夜空の彼方へ消えていった。
松永、絶句。
もう彼に打つ手はない。
「ん、それで終わり? なのかな?」
みつきの笑顔。
本当に、底抜けに、明るい笑顔。
「そんじゃあ、こっちの番ねっ! せーのっ……」
笑顔が一転、般若に変わり──。
「っおんどおおりゃあああああっ!! ひゃくばいがえしいいいいいいいいいッ!!!!」
自動車と重機、鋼鉄の塊が一斉に投げつけられた。しかも、松永の放った衝撃波が豆鉄砲に見えるほどのとてつもなく巨大な破砕波を伴って。
「う……うわああっ……ひいっ……!!」
松永は目を閉じ、頭を抱えて縮こまる。そこに雨か霰のごとく鉄の塊が降り注ぐ。地面に叩きつけられたそれらが粉微塵に砕け散る。
轟音。地鳴り。爆炎。爆風。
間髪を容れず、それらを一息で吹き飛ばし掻き消す破砕波が襲いかかる。地面を抉り、ビルが傾き、地割れが疾り、道路が崩れ、大規模な陥没を引き起こす。凄まじい勢いで土煙が立ち上り、何もかも呑み込んでいった。
――静寂が、訪れた。
土煙によって視界は閉ざされた。いつからか、共振による地面の揺れも熄んでいた。動くものの気配も皆無。上下左右の感覚すら確かではない。
時が凍り付いたような、空白の時間が続く。
やがて、少しずつ、少しずつ、土煙が晴れていく。
まるでクレーターのような、直径数十メートルに及ぶ道路の陥没の跡が見えてくる。
その中心にいたはずの、松永は。
「……? な、何だ、これ……」
傷一つ負っていなかった。
彼の身体は陥没する前に地面があった場所に留まっていた。周囲の空気がクッションのように固まっていて、手で探るとふわふわと弾力を感じる。
それが、ゆっくりと消え失せていく。数メートル下にある地面、元は地下街だった場所へ、ずるずると滑り落ちていく。
地に足をつけて周囲を見る。コンクリートやアスファルトの巨大な塊が散乱し、ズタズタに引きちぎられている車両が横たわる。自分の身がこうなっていた可能性もあると思えば、息を呑み、ただただ慄然とするしかない。
その彼の眼前に、みつきが舞い降りてくる。
燐光を身にまとい、口をへの字に曲げ、肩を怒らせ、腰に手を当て、仁王立ちの姿勢で。
「あ……うあああっ……」
腰を抜かした松永は、這いつくばって慌てて逃げ出した。けれど、彼の周りは自分の背丈ほどもある大きな瓦礫に囲まれている。どんなに足掻いても無駄だ。震えながらみつきを見上げるしかない。
「まだやんの?」
みつきの一言。
「う……あ、ああっ……うあ……」
松永は何度も何度も首を横に振る。
そして、暫時の後に。
ふっ、と、みつきの肩から力が抜けた。
「……ほんっとに、しょうがないんだから」
みつきは苦笑し、地面に降り立つ。光も消えた。
松永へ歩み寄ると、ゆっくりと手を差し伸べる。
「え……っ? あ……」
松永が、何度も何度も目を瞬かせる。
敵だったはずの目の前の女からは、殺気も、敵意も、憎しみも、何も感じられない。
いや──ずっと、そうだった。ような、気がする。
毒気を抜かれた松永が、みつきを改めて見つめ直す。ひどく優しく微笑むその顔を。
「疲れたでしょ? 目の下、クマができてますよ。あ、脇腹の怪我とか痛みません? 気が緩んだら一気に来るかなあ、酷くなければいいんですけど」
「…………」
「いろいろ、事情は聞いたんですけど……。ここが痛いとか、調子悪いとか、そんなの気にしてる場合じゃなかったのは、充分わかってるんですけど……」
「…………」
「もう、帰りましょうよ。ううん、帰ってあげて」
「…………」
「恵さん、待ってますから。……ね」
松永の視線が、みつきの顔から、差し出された手へと移っていく。
華奢な手だった。
それを、長い間、見つめ続ける。
そして、恐る恐る手を伸ばす。
みつきの手を、握り返す。
温かくて、柔らかい、優しい手だった。
「……あ……」
松永は、何かを言おうとした。
が、声にならない。
やがて、静かな嗚咽が漏れ始めた。
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