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おひさまは今夜も空を飛ぶ(1)
花も恥じらうお年頃?
ゴールデンウィークを目前に控えた、晩春。
JR中央線を走る電車のほとんどに掲示された中吊り広告に踊った週刊誌の大見出しは、通勤や通学の途中にある都民の目を強く惹きつけていた。
[三年後の首都圏大震災/五月二日の疼痛]
都心を壊滅させた最大震度七の激震と、大規模火災を始めとする二次被害。最終的に二万を大きく超える人命を奪っていった大災害から三年が経過した今、東京という街は何を失って何を得たのか。ノンフィクション作家が綿密な取材の元に渾身の力で書き上げ、世へ問うた特集記事だった。
都民の多くが生々しい被災の記憶を留めている中、雑誌は飛ぶように売れていった。夜が更けて電車の座席がちらほら空くようになった今でも、中吊り広告に目を凝らす者、あるいはすでに購入した雑誌を真剣に読む者の姿は絶えない。
だが、立川から八王子へ向かう快速電車の中、そうした光景を溜め息混じりに見ている若い娘がいた。
「ミーナの中吊り、全部なくなっちゃってる……」
よく読むファッション誌の可愛らしい広告が撤去されて、ほんの少し寂しかったらしい。
彼女の名は、日向みつき。十八歳の予備校生。
「結構遅くなっちゃったな、早く帰ろう……」
八王子駅で電車を降り、時計を確かめる。午後九時を過ぎていた。参考書の詰まったバッグを持ち直しつつバスターミナルを通り過ぎ、大通りを北へ。浅川大橋を渡って土手沿いの遊歩道に入る。
倒壊した建物の瓦礫や廃材が河川敷に積まれていたのも、もはや過去のことだ。広々とした川辺の空間を通り抜ける穏やかな風が川辺の葦を優しく揺らし、夜露に濡れた並木から漂う瑞々しい若葉の匂いが鼻をくすぐる。都心のベッドタウンと呼ぶに相応しい心地よい静けさと自然の気配。
普通なら、ここで思わず足を止め、深呼吸の一つもするところなのだが。
「どこもかしこも変わってく……。幸せいっぱい……。私一人だけ取り残されてる……」
溜め息混じりに呟いてから、はっとなる。
「……何をブルーになってんのよ、私は」
慌てて首を振った。冬のことなどとっくに忘れたはずなのに、と、心の中で付け足して。
実は彼女、先ごろ大学受験を経験したばかり。平たく言うと浪人生なのだが、成績は決して悪くない。第一志望にも合格できると太鼓判を押されていたし、通っている予備校でもチューターから「何故この偏差値で合格できなかったのか」と不思議がられたほどだ。
他人に訊かれると、入試の当日に体調を崩したのだと説明しているのだが、実際は違う。
(失恋したからだ、なんて……言えないもんな……)
それは昨年の春。受験対策に通い始めたばかりの予備校で出会った男子学生が、国公立大を志望していると偶然知ったのが始まりだった。同じ大学に行けるよう夢見つつ淡い恋心を胸に頑張り続け、中の下程度だった成績を上の中まで引き上げたのである。
そして冬、センター試験直前のある日。これで彼と釣り合える、告白できると自信を得たみつきは、予備校の帰り道で彼を呼び止めた。しかし。
「俺に用事? あんた、誰?」
その一言で、全て終わってしまった。
「あー、えと、ごめんなさい人違いでした、あはは……あは、あはは……」
そう言って誤魔化したものの、精神的なショックは大きかった。ずっと同じ予備校で同じ講義を受けていたのに、相手は顔すら憶えてくれていなかったのだから。夜も眠れず食事も喉を通らず、著しく体調を崩したままで試験当日を迎えてしまう。
結果、浪人生活が決定、今に至るのだった。
「目立たない女だってのは、自覚してるけど」
みつきは自宅のすぐ側にあるカーブミラーの前で足を止め、そこに映る自分の姿を見つめた。髪型は柔らかいウエーブをつけた長めのボブ。服装はボーダーニットにプリーツスカート、黒のスパッツ、ヒールの低い靴。フェミニンなカジュアルで、それなりに流行を意識した年相応の可愛らしさがある。
「……でも、服だけ可愛くてもなあ」
身長は高くも低くもなく、胸の大きさも標準。顔にしても、日本人女性の平均を取ればこうなるという平凡なものでしかない。
ただ一点、その顔の真ん中では可愛らしいデザインの眼鏡が存在を主張している。かけ始めたのはこの春からで、短時間で偏差値を激変させた猛勉強の後遺症だが、幸か不幸か最近はこの眼鏡のお陰で「日向……ああ、あの眼鏡のコか」と多くの人々が記憶してくれるようになった。
「でも、私の存在全部より、眼鏡一つの方が目立ってるってのはどーなのよ、実際……」
それを悔しいと思いつつ、ないよりはましだと眼鏡をかけ続けているのだった。
たった一つだけで構わない。泣きぼくろ、吊り目、垂れ目、大きい胸、長い脚。何でもいい、人の目を惹くことのできるプラスの特徴が欲しい──。
みつきにとって、それは何より深刻な悩みだった。
「ただいまーっ」
カーブミラーの側を離れ、みつきはようやく[日向]と表札のある自宅の門を潜る。築二十年ほどの建て売り、運良く震災を乗り越えた小さな一軒家。
その玄関で靴を脱いでいると、居間の扉が開いて養母が顔を出した。
「お帰りなさい、みつきちゃん。ご飯は?」
「あれ、お父さんの携帯に連絡したんだけど。オリエンテーションで遅くなるからいらないよって」
みつきが言うと、居間の奥から、
「……あー、すまん母さん、言うの忘れてた」
と、居間の奥から養父の声が聞こえてきた。みつきと養母が目を見合わせて、苦笑する。
「私の分、ラップかけて置いといて。夜食にする」
「あら、今夜は遅いの? 今から勉強?」
「うん、復習だけ。形だけでもやっとかないと、来年の受験まで学力維持できないし」
「あんまり根を詰めないで、みつきちゃんなら何も無理しなくていいんだから、気楽に」
「ん、わかってる」
「そう言えば、どうなの? 二年目の予備校は」
「どうって、何が? 講義のこと?」
「そうじゃなくて。顔ぶれも相当入れ替わったでしょ。去年みたいに素敵な男の子は見つかった?」
「……何言ってんのよ、おかーさん……」
「みつきちゃんの成績が上がったのも、受験に失敗したのも男の子絡みだもの。素敵なボーイフレンドが出来ればお茶の水や東大だって狙えるわ、絶対」
「無茶言わないでよ……」
「話したくないなら構わないわ。興味があるだけ」
「もう。居なくもないけどいつもの如し。君、誰? 以上終わり。私なんか風景の一部」
「また謙遜して。そうそう、お友達の昭月綾さんは素敵なボーイフレンドが居るんだって? あ、違う、大地瑤子さんのほうだった?」
「瑤子は恋愛になんか興味ないよ。彼氏が居るのは綾のほう。……って、よそはどうでもいいの。とにかく、予備校では何もナシ」
「そんなものかしらねぇ。みつきちゃん、もともと器量好しなのに。引く手あまただと思うけれど」
「お母さん、それ、身内の身びいきだよ……」
「違いますよ、うちの娘は自分を過小評価しすぎです。もっと自信を持ちなさい」
みつきは苦笑して、養母に背を向けた。玄関のすぐ側にある階段をトントンと上がっていく。
日向家の二階には部屋が三つある。一つはみつきの部屋で、一つが物置、そして、恭一という養父養母の実子が使っていた部屋だ。
恭一は事故で他界しており、みつきがこの家の養子になったのはそのすぐ後になる。存命ならみつきより十ほど年上になるのだそうだ。
「ただいま、恭一兄さん」
階段を上がってきたみつきが、恭一の部屋の方を向いて声をかけた。これは日向家の習慣だと言っていい。養父や養母も、用事があって二階に上がってくるときは恭一の部屋へ必ず声をかけるのだ。
ちなみに現在、日向家でもっとも多く恭一の名を呼んでいるのは二階に自室があるみつきだ。そのせいか、直に会ったことは一度もないのに、みつきは不思議と義理の兄を近しい存在だと感じている。
「さて、と……」
肩からバッグを下ろしつつ、みつきは恭一の部屋から自分の部屋へと向き直る。
――と、ふいにみつきの部屋の扉が開いた。
みつきは扉のノブに手を触れていない。勝手にノブが回って扉が開いたのだ。部屋に入れば電灯のスイッチが自動的に入って部屋を照らし、ほぼ同時に窓のカーテンが閉まり、しまいには、ベッドの上に放り投げたバッグがひとりでに開いて、中にあった参考書が飛び出してきて宙を漂い始めた。
「えーと、古典と現国かな」
二冊を選ぶと、他の参考書はまとめて手近の勉強机の方へ飛んでいき、するりと棚に収まった。
一般に、念動力あるいはサイコキネシスと呼ばれている超能力である。みつきはこれを自在に使うのだ。
「脱いでもこれだし……。どこが器量好しなんだか」
部屋着のジャージに着替える途中、姿見の大きな鏡に映る下着姿の自分を見て、溜め息を吐く。
「本当に、これっぽっちも特徴ないなぁ……」
そういうみつきの背後では、先ほど選んだ二冊の参考書が宙に浮いたままだが、手を触れずに物を動かす力などは自分の特徴のうちに入っていないようである。
着替えを終え、眼鏡も外した。裸眼視力は0.6程度あるから、家の中では不自由しない。ヘアゴムで髪を束ね、手近の椅子に腰を下ろそうとする。
だが、その動きが突然、止まる。
宙に浮いていた参考書は床に落ちて、視線は宙を見つめたまま凍り付いていた。
「だっ、誰? どこ? けっこう遠い? 間に合うよね?!」
叫ぶや否や、みつきは部屋を飛び出す。どたどたと大慌てで階下へ駆け下りる。
「みつきちゃん、どうかしたの?」
足音に気付いた養母がまた居間から出てきて、玄関でズックを履くみつきの背中に声をかけた。
「いつものやつ! ちょっと行ってくる!」
「待って、その格好で空を飛んだら風邪ひくわよ?」
「……あ」
「急ぐんでしょう? 貸してあげる」
養母は自分が着ていたどてらを脱いで放り投げた。サイコキネシスに導かれたそれは宙で生き物のように動き、パッとみつきの上半身を包み込む。その一瞬で腕は袖を通り、前身頃の紐もしっかりと結ばれた。
「ありがとう、お母さん。あとで返すから!」
「この前みたいに暴力団の人が居ても手加減してあげるのよ? あと、マスコミの人に見つからないでね。お父さんやお母さんが庇える範囲には限度が……」
「わかってる!」
みつきは家の外へと飛び出した。
「……気をつけてね、無事に帰るのよ」
養母が見ている前で、みつきの身体がきりもみしながら夜空へ飛び上がっていき、あっという間に見えなくなる。物凄い速さだった。
「またあれか、誰かの叫び声が聞こえたとか感じたとか言うやつか?」
玄関先から戻った養母に、養父が言う。
「でしょうね、超能力があるばっかりに、大変です」
「まったく、騒がしい子だ」
「いいえ、優しい子なんです」
「知っとるよ。……あ、母さん。お茶くれ」
「はいはい」
養父は差し出されたお茶を受け取るため、読んでいた雑誌をテーブルに置いた。電車の中吊り広告にあった例の週刊誌だ。開いたままのページに「減少する都心の凶悪犯罪」という小見出しが踊っている。
その記事によると、震災後の凶悪犯罪を抑制してきた大きな要因として「徹底された区画整理と拡大した道路により、格段に見通しがよく明るくなった街並み」と「被災によって都全域の地域住民に連帯感が生まれ、いわゆるご近所付き合いが復活した」ことが挙げられていた。また、これを裏付けるもっともらしいデータも併記されている。
「……これを書いた奴は、何もわかっとらん」
お茶を飲んだあとで、養父はその雑誌を古紙の束がある方へ放り投げた。
○
人間の精神と肉体は、時折、驚くような超常能力を示すことがある。
コンピュータ以上の記憶力や暗算能力を始め、危機に陥れば火事場の馬鹿力を見せ、縁者の死や天災の予兆を第六感で察知する。眉唾な事例も含めれば、神の奇跡や悪魔の魔術と称される記述は歴史の文献にいくらでも見つけられる。
これらの事例のいくつか、特に普通の人間が日常的に用いている能力の延長線上にあるもの関しては科学的な説明がなされたものも多い。つまり、文明社会という安全な環境で退化した能力が何かのきっかけで発現したか、何らかの外的要因によって平常な能力が超常の領域まで肥大したということらしい。
逆に言うと、よほどの危機的状況が存在しない限り人間の超常能力は目覚めることがなく、また仮に目覚めたとしても、あくまで環境に応じたレベルに留まるだろうという推論が成り立つ。
ならば、それなりの環境下であれば、超常能力が目覚める可能性は高まるはずだし、全く別次元の方向へ進化することも有り得るのではないか。
その証拠に――思い出してみて欲しい。六十年代から七十年代を主とする東西の冷戦期。核戦争勃発の危機により、人類はおろか地球上の全生命が存亡の岐路にあった未曾有の時代を。
それは同時に[超能力]が世界的に流行した時代でもあった。魔術や霊能力など、人間が引き起こす超常現象の概念は古くから存在したにも関わらず、何故かあの時代には超能力のみがもてはやされたのだ。曰く、複雑怪奇な人間の脳には多くの未知の力が眠っているから、訓練次第で誰でもサイコキネシスや予知、テレパシーなどが使えるようになるのだと。多くの人々がそれを信じ、自分は超能力者だと名乗る人々が次々に現れ、当時の二大大国である米ソが超能力を真剣に研究しているなどとまことしやかに囁かれてもいた。
冷静に振り返ると、実に奇妙なことだ。
いや、これらの真偽を疑うのは当然だし、当時のマスメディアが商業的利益を上げるためにヤラセを仕組んでいたことも事実である。しかし。
日向みつきは、ここにいる。
超能力にまつわる裏の歴史の生き証人であり、先進諸国が冷戦期より連綿と続けてきた実験の全データを受け継いだ超能力研究所の出身で、また、その研究所を完膚無きまでに叩き潰して自由を手にした三人の超能力者のうちの一人。理論的に人類史上最も強力だと評されているサイコキネシス能力者である。
ただそれは、当のみつきに言わせると、
「へっ? ああ、うーん、どうでもいいよ、そんなの。だってもう三年も前のことだし」
という程度のことらしいのだが。
○
一千メートル弱の高度を取って夜空を飛び続けたみつきは、やがて都心上空へ到達する。
夜景を見下ろすだけでも、東京が震災からの奇跡的な復興と発展を成し遂げた様子は見て取れた。解体された旧東京タワーの跡地には地上波デジタル放送の規格に則した新東京タワーがそびえ、高輝度発光ダイオードによる鮮やかなイルミネーションを輝かせている。皇居を中心に八方へ伸びる主要道路は片側四車線以上の広さを獲得、環状線や首都高速の再整備と相まって機能的に生まれ変わっていた。目を凝らせば、ところどころに震災の傷跡――撤去されずに残った廃ビル群が黒い染みとなってはいるが、それらは言わば小さな痂だ。やがて癒え、光の中に呑み込まれるのも時間の問題だろう。
震災以前と同じようで、しかし確実に進歩を遂げたメトロポリス。命を持った無数の光が乱舞する様は、意図せずに作り上げられた一つの芸術である。
しかし、今のみつきにはそうした光景に目を奪われている暇はない。ただ真っ直ぐに、己の感覚が導くままに、高空から新宿副都心へと急降下。
「近付いてる……。絶対、この辺だ……」
副都心の超高層ビル群は、充分な耐震対策が施されていた故にほぼ無傷で震災を乗り越えていた。みつきは東京都庁をタテにしつつ付近を飛んでいたヘリを避け、ビルの谷間を縫うように東へ進む。
そこは、世界有数の歓楽街・歌舞伎町。
国の援助も再開発もなしに自らの力で立ち直り、むしろ震災後の混沌を味方につけ、前にも増して活気づいていた。ごったがえす人の群れ、その熱気が上空まで伝わってくる。明滅するけばけばしい色遣いのネオンサインが目に染みた。
「やだなあ……。ガラの悪さが感染りそう……」
偏見だらけの一言を思わず呟くが、復興時に流入したアジア圏からの出稼ぎ労働者の一部がマフィア化して、彼らを絶好の顧客とみなした指定暴力団がここぞとばかりに薬物売買や風俗店営業に乗り出しているのは事実だから仕方がない。少なくとも普段のみつきは、靖国通りを跨いで歌舞伎町の方面へ足を踏み入れることは皆無に等しかった。
そして、それ故に。
「……間違いないや、ここら辺から届いたんだ」
先刻伝わってきた気配や雰囲気、そういう曖昧な感覚と目の前の光景が重なって、確信に変わる。
みつきは遠視やテレパシーといったESPの元になる思念体による潜在感知能力〔パッシブ・キャリバー〕を備えているが、それはサイコキネシスを支える思念波による物理干渉能力〔アクティブ・キャリバー〕のおまけでしかない。常人より勘は鋭いが、あくまでその程度だ。
ただ、例外なのが、
(誰かの叫び声が聞こえた)
(苦しい、痛い、助けて……そんな感じ)
(多分、この方角のあの辺だと思う)
という偶発的にやってくるイメージなのだけれども、その力は意図的に使えないし、どういう条件が重なれば〝叫び声〟が聞こえてくるのかもはっきりしない。
だから普段は、自分の目と耳が頼りだった。
「おかしいな、なんか遠くがよく見えな……あっ、眼鏡忘れてきちゃったんだ」
宙に静止して周囲を見渡した際、初めて気付く。仕方なく眉間に皺を寄せて目を細め、ぼやけた視界を補正する。
と、ほぼ一区画先で赤い光が明滅しているのがわかった。警察の車両が装備する回転灯だろう。
「聞こえてきた叫び声、あそこからだったのかな」
とにかく足元を落ち着けようと、側にあった古い雑居ビルの屋上へ向かう。ほとんど闇に包まれた、地上からは決して見えない完全な死角である。
給水タンクの上にふわりと舞い降りたその瞬間、はたと気付いた。
自分が今立っている給水タンクの斜め下隣、非常階段へ繋がる扉があるのだが、これが大きく開け放たれている。ノブが壊れているのだ。金槌か何かを叩きつけたようだった。
さらに、その扉から少し離れた壁の側。
誰かが、居た。
「うわっ!!」
みつきは慌ててその場で膝をつき身を小さくして、下から見えないよう身を隠す。誰もこちらを見ていない、という自信があったのに。空から人が降ってきたとか騒がれたら、後々面倒なことになる。アテにならない自分のパッシブ・キャリバーを恨みつつ頭を抱えた。
しかし。
「……あれ?」
様子がおかしい。今なおその誰かがいる方向に何の気配も感じない。
恐る恐るその場に立ち上がる。
最初は暗くて判然としなかったが、その誰かは倒れているようだ。仰向けのままぴくりとも動かない。やがて目が闇に慣れてくると、それが若い男であること、着ている服が薄汚れていること、頬に殴られたような痕があることなども識別できるようになる。
「喧嘩して、ボコボコにやられちゃった……のかな」
気絶しているらしい。空を飛んできた自分の姿を見られていなかったことに安堵しつつ、給水タンクを飛び降りて近付いていく。素性の知れない相手だが、さすがに放置はできなかった。
「ほんっとにもう、男ってなんでこう血の気が多いんだか……。あの、もしもーし。無事ですか?」
倒れた彼のすぐ側へ、屈み込んだ。
よく見ると、彼は彫りの深い顔に似合う短めの髪で、背は高く、肩幅も広い。なのに大きい人だという威圧感がないのは、きっと、笑うと愛嬌のありそうな雰囲気がそうさせていて──。
一言で言えば、みつきの好みのタイプだった。
そう気付いたとき、みつきはほとんど条件反射的に髪を撫でつけ、服装をチェックしようとして、
「うわ、ジャージにどてらだし」
がっくりと肩を落とす。第一印象は最悪だ。
「じゃなくてっ」
口元に手を当て、みつきは彼の顔を凝視する。
「見覚えあるような……。誰だっけ」
口元に手を当て考える。が、それは誰かが階段を駆け上がってくる音に邪魔された。一人ではない。二人か三人はいる。耳を澄ますと「クソッタレ」だの「こんなところに逃げ込んで」だの「逃がしゃしねぇ」だの、穏やかではない言葉も聞こえてくる。
「……喧嘩の相手かな」
みつきは眉を顰めつつ立ち上がり、非常階段の出入り口の方へ向き直った。
姿を現したのは、白くなるまで髪を脱色した男と、頭にバンダナを巻いた男、長髪の男の計三人。全員が二十歳台で、過剰にシルバーのピアスや指輪をつけ、胸元や二の腕にタトゥーを施していた。ワイルドと言えば聞こえはいいが、この場合は粗野粗暴の方が正しい。本来なら避けて通りたい手合いである。
その、粗野な連中のうちの一人、白い頭の男が、闇の中に立つみつきの影に気付いた。
「……ちっ」
舌打ちを一つ、手首のスナップを利かせて持っていたナイフの刃を煌めかせる。
それを見たみつきは。
「ぼっ、暴力反対っ!」
即座に両手を挙げた。
「……? 何だ、女かよ……」
白い頭の男は、すぐにナイフを仕舞ってくれた。みつきは女に生まれたことをほん少しだけ天に感謝したが、敵対的な雰囲気までは変わらない。彼は刺々しい敵意を漂わせたままで近付いてくる。
「な、何か用……ですか」
本能的に半歩、後ずさりつつ言うと。
「お前さ、こっちに逃げてきたショボいのがいたっつーんだけどよ、知らね?」
鼻にかかった独特の声と喋り方で、初対面のみつきを〝お前〟扱いにして訊いてきた。
(こう言うタイプの人、ほんとにパターン一緒……。どっかの工場で量産してんのかな)
それ故に、彼らの意図もおよそ察しがつく。
平和主義者のみつきの答えはただ一つ。
「知りません、そんな人」
ところがこの連中、目端だけは利くようだ。
「じゃあ、向こうに倒れてンのは、どこのどいつ?」
バンダナを巻いた男が言ってきた。
「し、知らないけど……あ、はは、誰、なのかな……」
冷や汗をかきつつ、そう言うしかなかった。
男たちはみつきを突き飛ばすように押し退け、倒れている青年の方に向かおうとする。
「ちょ、ちょっと待って」
思わず、男の一人の袖を掴んで引き留める。
「っせえな、犯すぞ」
「死にてェのか、引っ込め」
「ッせえんだよ、ボケ」
拒絶が三倍になって返ってきたが、みつきは怯まず、けれども彼らを刺激しないよう下手に出る。
「あの、気絶してるみたいだし、もうほっといてあげませんか? 何があったか知らないけど、酷いことする気だったら警察呼んじゃうよ、私」
配慮したつもりだったが、警察、という言葉を出したのがいけなかった。
長髪の男が振り返った。鬱陶しげに首を傾げてみつきを睨み付け、息がかかるほど近くに歩み寄る。
「な……」
何よ、と言うより早く、長髪の男はみつきの襟首を掴んで力任せに引き寄せてから、
「ウゼェんだよ、失せろ」
吐き捨てて、力一杯みつきを突き飛ばした。
「あ痛っ!!」
床に倒れ、腰を強かに打ち付ける。彼らはそれに構わず、倒れたままの青年を取り囲む。
この連中に、話し合いなどする気は全くない。いや、そんなことは最初からわかっていたのだが。
「にゃろう、あったま来たっ……」
怒りの顔で、そう、呟くと。
風もないのに、みつきの髪がざわりと揺れる。
「いーかげんにしろっ、このバカ! あんたらみたいなの虫酸が走んのよ! 野獣は山に帰れっ!」
腰をさすりつつ立ち上がって言い放ち、みつきは大股で男たちに向かっていく。
元より、女に挑発されて黙っているような連中ではない。白い頭の男がみつきの方に無言で振り返った転瞬、手首を揺らしてナイフの刃を伸ばし、みつきの顔に向かって躊躇いもせずに一閃。
「あっ……?!」
擦過音と共に切っ先が皮膚の上を滑り抜け、みつきは反射的に手で頬を覆う。顔を傷つけられた上、そこから滴る血を見て怯えない者はいない。大の男でも尻尾を巻いて逃げ出すところだ。──が。
「か、顔に向かってナイフ振ったなっ……」
怒りに震えつつ、頬を覆っていた手を退ける。
出血はおろか、擦り傷一つなかった。
「な……?」
白い頭の男は驚くが、紙一重で外しただけかと思い直し、再度みつきの顔に向かってナイフを振るう。
が、振り抜いてみると、ナイフが手の中にない。
「っ? ンな……」
ナイフは、すぐに見つかった。
みつきの顔の、すぐ脇。
それは、どう見ても宙に浮いている。
「こんなもん振り回して、脅かそうったって……」
みつきがナイフを指先でつまむ。それだけで金属製の刀身が飴細工のようにねじ曲がり、床に落ちる。
「な、何なんだ、おま……えっ?」
白い頭の男が、何かに吊り上げられるように宙へと浮いていく。彼だけではない。バンダナの男も長髪の男も同時にだ。
「う、うわ、おい、やめろ、このッ!」
「な……んだコレ?! 下ろせッ!」
「う、うわ、うわわッ、こいつっ……」
何がなんだか訳がわからなくても、とりあえずみつきの仕業らしいと思っているのだろう。男たちは口々にわめき散らす。
が、みつきは彼らに一言も答えず、目を閉じて精神を集中。サイコキネシスを送り込むと、三人の身体が宙の一点へ向かって動き始めて──。
「ぎゃあっ!」
「うが……」
「ふぎゃっ」
相当な勢いを持ったまま空中で衝突。互いに頭や顔を激しくぶつけ合って、彼らはあっけなく気絶してしまった。
「ふふふん、だ。ざまあみなさい」
得意げに胸を反るみつきだったが、
「……? あ……ああっ?!」
狼狽のあまり顔が青ざめてきた。宙に浮いたまま白目を剥いている白い頭の男、その鼻の穴から、ぽたぽたと血が滴り落ちているのだ。
「ま、まさか、鼻の骨……う、うわわ、やりすぎちゃった……。ご、ごめんね、ほんとにごめん……」
恐る恐るその男の顔に手を伸ばし、ぺたぺたと鼻筋に手を当てて確認してみた。
「……あ、良かった、ただの鼻血だ」
安堵の息を吐く。出血量も些細なものだ。
幸いにも、養母から借りたどてらにポケットティッシュが入っていた。それを千切ってなるべく優しく男の鼻に押し込むと、三人の身体を高く持ち上げ給水タンクの上に隠す。
「後で一応、救急車でも呼んであげるから……。少しだけ、そこで寝ててよね」
気を取り直し、物陰に倒れている青年の傍らへ歩み寄って、揺り起こそうと手を伸ばす。
その時。
「あ、そっか、そうだ」
思い出した。この青年をどこで見たのかを。
彼を助けて本当に良かった。一度か二度話した程度だが、曲がりなりにも知り合いだ。
「え、っと……松永さん、起きて。こんなところで寝てたら風邪ひきますよ?」
言いつつ、みつきは彼の身体を軽く揺する。
彼は、すぐに目覚めたのだが。
「……っ! うぐ……ッ」
いきなりみつきの手を払い除けると、胸の辺りを押さえて身体をくの字に折り曲げる。
「あ、ごご、ごめんなさいっ、傷に障ったのかな」
そうだとしても、痛がり方が尋常ではない。肋骨が折れているのか、ヒビでも入ったのか。
「? 誰だ、お前……」
心配そうに見つめるみつきに、彼がようやく気付いた。白い頭の男と同じ〝お前〟呼ばわりだが、今は少しも不快に思わない。いかにも男の人っぽいなあと好ましくすら思う。
「えと、日向みつきですよ。そっちは二浪……もとい、私よりひとつ年上でしたっけ。えーと、松永泰紀さん」
「お前、なんで、俺の名前まで……」
「いや、ちょっとかっこいい人なら名前くら……うわわ、そうじゃなくて。私のこと憶えてません? ほら、一緒の予備校で。この春から一緒の」
しかし、松永の反応はない。無言のままだ。
ふと思い立ち、みつきはヘアゴムを外して髪を整え、両手の指で輪を二つ作り、眼鏡の代わりにした。
「あ、そうか。あのやたら偏差値の高いコ」
みつきの顔の筋肉が思わずピクリと痙攣するが、松永は気付かない。
「ごめん、雰囲気違うから気付かなくて」
「あ、あはは、いいですよ、別に」
笑って言うみつきの背中は泣いていた。
「でも、なんで……その、君が、ここに……」
「あ、えーと、ものすごい叫び声が聞こえた……ような気がしたもので、何なのかなーと思って駆けつけてみたら、怪我したあなたがここに居て」
「駆けつけて、って、どこから」
この雑居ビルは地上十五階建てだ。周囲は繁華街で、通りは今も人でごったがえしている。屋上から一度や二度叫んだところで誰が気付くだろうか。
「え、えっと、私、このビルでバイトしてて」
「バイト……」
松永は何とか立ち上がって、転落防止用の手摺りの方へと歩いていく。そこから雑居ビルの側面が見え、各テナントの掲げている看板が目に入った。
「パブ、スナック……。いわゆる水商売?」
「や、やだなあ、違いますよ、他です、他」
「他って、おい……」
看板には、セクシーキャバクラやファッションヘルスまでもが名前を連ねている。
「……まさか」
「ち、ちちち、違う! ちがーう!」
「ああ、そうか。どうせ偏差値高いもんな、来年の受験まで遊ぶ金でも稼ごうって」
「だから違うっつってんでしょが! 勝手に決めんなこらーっ! 第一そんなとこで働いてる女の格好じゃないでしょ! ジャージにどてらよ、ジャージにどてら! ほんとに偶然通りかかったの!」
「そんな格好で、歌舞伎町を歩いてたのか」
「へっ? あ……いやその、あう」
「ああ、なるほどな。風俗嬢って言っても、控え室に居る時はラフで構わないもんな」
みつき、ぐうの音もなし。
「図星か。やっぱり。なんか説教臭いけど、もっと自分を大事にしろよ」
「だあああああああああっ!! 喧嘩してボコボコにされてひっくり返ってた野蛮人が他人のことをどうのこうの言うなーっ! ……あ、あれ、これじゃ私が風俗嬢って認めてる? い、いや違う、違うんです! 本当に違うんだってば!!」
「ちょ……ちょっと待てよ、それ……」
「待ったも何もないの! 違うの!」
「何で、知ってるんだ。喧嘩だの何だの」
「……あ」
みつきは一瞬、給水タンクの方を見てから、
「そ、その格好見たら誰だって想像つくってば!」
半分は本当だが、半分は苦しい嘘だ。
しかし、松永は納得してくれた。
「え……? あ、そうか……」
彼はこの時初めて、薄汚れた自分の姿に気付く。
「余裕無くて、ずっと夢中で……」
その時、雑居ビルの方に向かってパトカーのものらしい大音量のサイレンが近付いてきた。すると、松永は身体を固くして、サイレンの聞こえてくる方向を見つめたまま口を噤んでしまう。
「……あれ。松永さん?」
みつきが話しかけても、松永は応えない。
が、サイレンが通り過ぎると、松永は安堵の息をついてみつきの方に向き直った。
それを見たみつき、苦笑して。
「警察沙汰になるくらい、派手に喧嘩したんですか? 負けちゃって、逃げ出して、たまたま逃げ込んだのがこのビルで……ああ、そっか、もしかして、向こうでパトカーとか集まってたのは」
「うるさい」
「……そう、なんだ」
みつきは、自分が感じ取った叫び声の正体は、その喧嘩だったのだろうと直感した。
「自分から、ふっかけたんですか。喧嘩。そういうこと、しょっちゅうしてる?」
「……人を殴ったのなんか、初めてだったよ」
唇を噛み、辛そうに言う。
その言葉は、嘘ではないと感じた。
「とにかく、病院に行かなくちゃ。怪我も診てもらわないと。家の人も心配してますよ」
「余計なお世話だ」
「いや、でも、ちょっと」
「いいから放っといてくれ。早く店に戻って客のオヤジにでも愛想振りまいてろ」
「だ、だから、それは違うって……」
訂正するみつきに構わず、松永は彼女を押し退けて、非常階段へ向かおうとする。
「だいいち、俺はもう……」
「?」
「……帰らないって、そう決めたんだ」
そう呟いた彼の横顔に、表情は無かった。
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