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終章

 羽田空港、展望デッキ。
 ここに来るのは、父さんと母さんに連れられて家族旅行に出かけた時以来だ。もう何年前になるのかな。懐かしくも温かい、大切な思い出。
 
「お……? あれ、政府専用機じゃないか?」

 はるか彼方、着陸姿勢に入りつつ滑走路へと滑り込んでくるジャンボジェット機の小さな姿を指差しながら俺は言う。カラーリングが日本航空と同じ白と赤だから遠目じゃ勘違いし易いんだけど、間違いないや。垂直尾翼が日の丸だもん。
 
「そういや、新任の総理大臣が訪米から帰国すんの今日だっけ。今度の内閣、悪化したアメリカとの関係改善が最優先課題だっつってたもんな。確か日本のリニアモーター技術を提供して大陸横断鉄道を作る手助けをするとか。ンなこと言われたらアメリカの政治家も日本にいい顔したくなるよな、みんなが魔人の下僕ってわけでもないんだし」

 とか喋っている間に、政府専用機は着陸。滑走路を滑りながら俺の方へとみるみる近付いてくる。
 
「知ってるか? あの政府専用機、今じゃピース・エンゲージメントなんて超クールな二つ名で呼ばれてんだぜ。四年前に当時の総理が護衛もつけずにアポなし単機で中国に飛んでってな、向こうの首席と直接話つけてきて軍事衝突を回避したってんで……」
「そのくらい知っている。私をバカにしているのか、お前は」

 俺の傍らにいる三歳児が、フリルいっぱいの可愛い上着とスカートを器用に捌きながらコイン式望遠鏡の踏み台からひらりと飛び降り、つまらなそうに一言。
 
「もっともそれのお陰で、中国は民主化の機会を逃がしてしまったがな。共産党の一党独裁は今も継続中、汚職や不正や賄賂の悪しき文化も改善される兆候すらなく、国土の汚染も深刻さを増す一方、武力を背景にした隣国への威嚇と領土問題も熄む気配がない。彼の国の民にとっては、本当に日本と仲直りして良かったのかどうか……」
「……あのさあ、結女」
「何だ?」
「お願いだから、もうちょっと三歳児らしくしてくれませんかね?」

 鈴の鳴るような可愛い声でクソ真面目に政治を語る幼児がどこの世界にいるんだよ。ホラ、隣のおじいちゃんとか顎外れそうな勢いで驚いちゃってんじゃん。
 
「あのな、沖継。私は何度も何度も言ったはずだぞ。純真無垢な子供の真似というのは恐ろしく難しいんだ。無知の知という概念を地で行く素朴で率直な言動を二十四時間フルタイムで表現し続けるなど不可能だ。無茶を言うな」
「完璧な三歳児に擬態しろなんて誰も言ってないよ、少しは周囲の目を意識しろと」
「おとーしゃんおとーしゃん、あのね、ゆめね、おっきいひこーき、だいしゅき!」
「それ! それでいいんだ! できるじゃん!」
「……勘弁してくれ、こんなのとても続けられるか。お前と違って私は記憶の欠損ゼロ、正真正銘、元通りの私のままなんだぞ。気恥ずかしくて死にそうだ」

 はいはい。存じ上げておりますよ。産まれ直したお前を取り上げた助産婦さんが腰抜かして驚いてたからな。出産を終えても産声一つ上げず、生後始めて喋った言葉が、分娩室に立ち会いに入った俺の顔を見て「おきつぐ」ニコッって有様だもん。

「でもさあ、だったらさあ、せめてその中途半端な男言葉というか、昔の俺の口真似くらいは是正して頂けませんかね。もうちょっと女の子らしく……」
「断る」
「なんでよ」
「長い間続けてきてもはや癖になっている、ということもあるが、本音のところは」
「ところは?」

 結女は、足元から俺を見上げて。
 この年頃の女の子でなければ絶対にできない、天使のようなスマイルを浮かべる。
 
「男言葉でサバサバ喋るのは、実に気持ちがいい」
「…………」
「三千年近くも女をやっていると、さすがに飽きていたんだろうな。それに私は、どこか男っぽいところが元々あったというか、強情っぱりで我が強いから」
「存じ上げておりますよ、ええ、嫌ってほどね」
「そうだ、沖継も今日から女言葉を喋ってみてはどうだ? お前だって長いこと男を続けて飽きも来ているだろう。新しい世界が開けるかもしれんぞ?」
「そんなもん開きたくありません。お前だってヤだろ、オカマみたいな俺なんて」
「いや、別に嫌では……」
「中身が俺なら何でもいいからまずは受け入れようっていう基本姿勢はそろそろ改めなさいよ。誰が困るって俺が一番困るんだぞ、うっかり生き方を見誤るだろが」
「しかしな、沖継をベッドで女のように可愛く泣かせてみたいという私の欲求は昨今増していく一方だぞ。知っているか? 男というのは身体の奥に女とほぼ同等の性感帯を隠し持っているらしくてな、割と最近発見されてすでに立証もされたらしい。菊座から指を入れて前立腺の周辺を優しく撫で回すと、女のように甘く絶え間なく続く底なしに深い絶頂を味わえるという。ほら、ほらほら、これを見ろ」
「摩周湖の水よりも透き通った黒くて大きい瞳をキラキラさせながら大人でもドン引きするような話を真っ昼間から平然と繰り広げるんじゃない。いいからそのスマホ型新型端末を早くバッグに仕舞え。国の税金で開発して通信費も賄ってる代物でいかがわしいサイトを躊躇無く閲覧するな」

 あと、周囲の皆様もこっち見ないで下さい。我々は怪しい者ではございません。というか、ハンサムな若いお父さんと可愛い幼女のツーショットについつい目が釘付けになっちゃうだけですよね? お願いだからそうだと言って下さい。俺の精神衛生のためにも。

「……? この音、沖継の端末が鳴ってるんじゃないか?」

 言われなくても気付いてますよ。俺は懐に手を差し入れ、俺専用に開発してもらった携帯端末を取り出す。結女のものよりスペックは落ちるけど、稜威雄走のフレーム用に開発された特殊合金を外殻に使用してるんで、水の中に沈めようが鉛玉を食らおうが全然平気。思い切りブン投げれば魔人の頭もカチ割れるぞ。実際やったことあるし。

「お、コノが今やっと空港前の駅に着いたってよ。ぼちぼち行くか」
「うむ」

 展望デッキを離れ、俺たちは空港の構内を歩き始める。
 俺はズボンのポケットに手の指をひっかけてのんびりと、結女は俺の二倍速くらいでちょこちょこと小走りをするように歩いて隣をついてくる。

 ――と。

 途中、俺たちの脇を通り過ぎようとしたビジネスマンらしき中年男性が、何でもないところでつまづいてコケそうになり、抱えていた書類の束や雑誌類をリノリウム製の床の上にバアッと派手にばらまいた。結女を見ていて足元がお留守だったんだろうな。気持ちはわかるよ。歩くお人形さんかと見紛うくらいに可愛いからな。見た目だけは。
 手伝いますよと男性に一声かけてから、俺は散らばった書類をかき集め始める。搭乗時間が迫っているのか相当慌ててるっぽかったし、そもそも正義の味方たるこの俺が、困った人を見過ごしていくという選択肢は有り得ないのですよ。
 それと、どことなく父さんに雰囲気が似てたんだ。親孝行の代わりみたいなもんだ。
 
「……こんなもんかな。全部あります?」
「あ、す、すまないね、ありがとう」

 拾った書類を手渡し、一区切り。
 いや待てよ、そういや雑誌もあったはずだよな。どこいった?

「おい結女、そこらに雑誌が……」

 言いかけて、俺、ギョッとなる。
 いち早く雑誌を拾い上げた結女が、それを堂々と広げて読んでいやがる。しかもヌードグラビアのページを集中的に、実に興味深そうに。

「……いたっ! こら沖継、何をする!」

 結女の頭をひっぱたいて雑誌を取り上げ、男性に返却。すいませんうちの娘がどうも失礼を、と、ペコペコと頭を下げて謝っておいたのは言うまでもない。その男性は実に気まずそうな苦笑いを浮かべながら去っていった。

「しかし、今時まだあんな雑誌を好んで買う人がいるのだな……。とっくの昔にインターネットに駆逐されたと思ったぞ。ちょっと検索すれば無修正のエロ画像やエロ動画など手に入れ放題だというのに」
「だからお前は例の端末をそういう方向に悪用するな。通信費は国民の血税だという自覚を少しは持て。開発元に頼んでペアレンタルコントロールを実装しちまうぞこんにゃろう」
「全く、小さな事をいつまでもネチネチと……。ネットでエロ検索くらい誰でもやるだろうに。男女問わず」
「……いや、ま、そりゃそうなんだけど」
「? どうした、ずいぶんと含みのある声だな」
「んー……。以前な、情報通信機器の進歩は敵が主導してるんだって話を聞いたことがあって。それが世界秩序に貢献してるとか何とか、ちょっと思い出したんだよ」
「馬鹿馬鹿しい」

 三歳児、鼻で笑う。

「現在稼働中のインターネットのサーバーは世界中で何基あると思う? その消費電力は原発換算で十数基、エネルギー規模で言えば毎日のように戦争をやっているのに等しい。それほど莫大なコストをかけながら、ネットを駆け巡るトラフィックの実に八割はエロ画像とエロ動画だと言うじゃないか。これのどこが世界秩序に貢献していると?」
「いやいやお前いくら何でも八割は盛りすぎだろ。せいぜい二割か三割だろ」
「私の独自調べだ。多少の誤差は多めに見ろ」

 多少じゃねえよ、水増しにも程があるわ。

 つっても、本当に二割から三割だとして、それでも相当な量だよな。それに加えて五割くらいがノンエロの動画配信、つまり映画その他のエンタテイメントだったはず。
 そんなもんが、果たしてどれほど人類の進歩に貢献しているのやら。

「敵が絶対悪でないことは、私も認める。私たちが絶対的な善でないのと同じように」

 しれっとした顔で話しながら、結女が一人で歩き出した。こら俺を置いていくな。

「だが所詮はそこ止まり。敵の大元は未来人だと解釈しうる件はお前も知っているだろうが、本当にそうだとすれば、所詮は奴らも我々と同じ人間だ。やることなすこと欠陥だらけで当然。そんな相手を崇め奉って指示通りに動いてやる必要がどこにある? もちろん、奴らが我々人類の親に等しい存在なのは確かだがな、しかし親の過干渉は子供をグレさせる最大の悪手だぞ。失敗して痛い目を見るのも子供の人生の一部。たとえ取り返しのつかない過ちを犯す可能性が高かろうと、それが本人の意思で選択したことなら親は最大限に決断を尊重すべき。目を塞がれ手を縛られ足を折られ、誰かに敷かれたレールをただ滑っていくだけの人生に何の価値があるというんだ。少なくとも私はそう思う」

 言葉を締めてから、結女は同意を求めて俺の顔を窺う。

「……何だ沖継、反論でもありそうだな」
「いーや、論旨には全面的に賛成ですよ?」
「だったら何故、そんな微妙な顔をしている」
「お前のその言葉、もーちょっとだけ早く聞きたかったな、と」

 ま、いいや。もう終わったことだ。

「あっ。沖継くーん、こっちこっち」

 耳に馴染んだ幼馴染の声が、遠くから聞こえてくる。
 空港ロビーの一角に、スーツケースを椅子代わりにして腰掛けているコノがいた。

「悪い、結女と一緒にその辺うろうろしてた」
「あらら、夫婦仲良くデート中でしたか」

 何がデートだ。こんなロマンチックさのかけらもないデートがあってたまるか。

「じゃあ、これ、予約券。それと、この大きいのが、受付で預けちゃう荷物ね」
「お前の代わりにチケット取ってきて、お前の代わりに荷物を預ければいいんだよな?」
「はい、その通り。よろしくお願いします」
「……お前、そんなんで、向こうに行って大丈夫なのか?」
「何が?」

 何が、じゃねェだろ。

 コノの残念っぷりは二十二歳になった今も健在のまま。バスを利用しようとすれば乗り遅れ、電車ではうっかり乗り過ごすなんて日常茶飯事。特に今回は遠方への旅立ちなので、行き先を間違ったり荷物を紛失したりすると洒落にならない。よって、目的の飛行機にちゃんと乗って飛び立つまで、俺がきっちり見送ることになったんだ。
 てな所まで説明すると、じゃあ空港までの道のりも一緒に来れば良かったじゃんって思うよな。もちろん一緒に来てましたよ。電車に乗って三人でガタンゴトン。途中でコノが車椅子の人の下車を手伝って、お礼を言われて恐縮しているうちに無情にも自動扉が閉まり、やむなく一人で俺たちの後を追ってたはずが、三十分後に何故か埼玉県から「乗り間違えちゃった、テヘ☆」とか連絡してこなけりゃね。今頃とっくに問題なく空港に着いてましたとも。この展開を見越して一時間以上早く出発していた俺の判断は大正解。

 そもそも今回、コノが旅立つことになった理由も、実は残念極まりなくてだな。

 結女を妊娠して出産するまでおよそ一年、無力な乳児の世話を見る母親役として育児に専念して一年、合わせて二年を棒に振りつつも、やっぱり大学だけは出ておきたいと一念発起したまでは良かった。もう残念な私とはおさらばだよ女は出産すると厄落としができるって言うしね! とか宣いつつ猛勉強して受験に挑み、難関と名高い都内の某国公立大学に見事合格。ついに残念女を返上か、本当に運が向いてきたのかと俺も思ってたのよ。

 ところがだ。

 師事した教授が高齢による体調不良でやむなく引退。ゼミは当然ながら閉鎖。同じテーマで勉強を続けようと思ったら、その老教授の愛弟子がいる九州は熊本の某私立大に転入学する他なくなっちまった。引退後も手紙のやりとりが続くほど老教授に可愛がられ、熱心に勉強していたコノにとっては、熊本行き以外に選択の余地はなかったらしい。

 でもさあ。だったらさあ。最初から熊本の私立大を受けとけば良かったのよね。受験の時にあれほど苦労したのは何のためだったのかと。まあ無駄になりましたねアハハハハ、としか言い様がない。
 そんなコノがたった一人で九州なんかに行ってみろ。ただでさえ修羅の国だの火の国だの言われるような土地柄なのにどんな厄介事に巻き込まれるか知れたもんじゃない。ヤクザの抗争に巻き込まれて気が付けば情婦にされてたとか、泡の国のお風呂に沈められてたとか――そういや最近、阿蘇山と桜島の火山活動が活発化してなかったっけ?

「嗚呼、コノが残念すぎるせいで、とうとう九州が海の底に沈むのか……」
「沖継くん。意味わかんない」
「きっと、沖継なりに心配しているんだろう」

 結女が話に割って入る。

「そう言えばノッコ、大学卒業後の予定は? 聞いた憶えがないのだが」
「そんなのないよ、まだ考えたこともないし」
「なら、数年後に無事卒業すれば戻ってくると思っていいな?」

 コノは、ちょっとだけ、わざとらしく、考えるフリをして。

「ううん。多分、戻ってこないと思う」

 だろうな。俺も結女も、何となくそんな気はしてたよ。
 だいたい大学に進学するとか言い出したのも、俺たちとやんわり距離を取るためだったんだろうしさ。そういうのって何も言わなくても空気で伝わってくるものだから。

「……そうか。正直、寂しいな。これがママとの別れだとは」
「ちょっと、そのママってのほんとやめて。私そんな歳じゃないし」
「歳は関係ない。お腹を痛めて自分を産んでくれた女性のことを、子供たちはおしなべてママないしお母さんあるいは母君などと呼称するのがこの国の習わしだ。勉強になって良かったな、向こうで新しい友達が出来たら自慢げに教えてやるといいぞ」
「沖継くん。この三歳児ひっぱたいてもいい?」
「許可できない。幼児に対する母親の家庭内暴力には断固反対である」
「何でそういう時だけ全面的に結女ちゃんの味方するかな! イライラするなあもう!」
「そうだママ、これが今生の別れかもしれないと言うなら、私には一つ心残りがあってな。私を孕んだまま臨月で出席したという高校の卒業式、今も見てみたくてたまらないんだ。本当に誰も撮影していなかったのか? 写真は? 動画は?」
「やーめーてー。死ぬほど恥ずかしかったんだから本当にもうわーすーれーてー」
「……冗談は、さておいて」

 おろ、結女の雰囲気がガラッと変わったな。

「あなたがいなければ、私は今、ここに立っていることもできなかったでしょう。いくら感謝しても足りることはありません。この御恩は決して忘れません。そして、いつか必ずお返し致します、必ず」

 真面目になると途端に昔の結女になるんだよな。もうパターン化してるっぽい。

「私は、困ってた友達におなかを貸してあげただけだよ?」

 コノが自分の子宮を電車賃か何かみたいに言いやがる。いくら医学の進んだ現代でも、出産が命懸けの一大チャレンジであることには変わりないっつーのに。

 それにさ。

 当時のコノは、年頃の女の子だった訳で。
 理屈じゃ計りきれない大きな傷が、心と身体の両方に刻まれたはずなんだ。

 世間じゃそれを、大人になったとか何とか、簡単に表現してしまうんだろうけど。
 でも、それは、他でもないこの俺が、刻みつけた傷なんだ。

「……あのさ、コノ。今までちょっと、言い出し辛かったんだけどさ」
「そんな改まっちゃって、何?」
「ほら、俺、何でも一つだけお前の言うことを聞くって言っただろ。憶えてるよな?」
「一応。でも、今日、空港まで見送ってくれただけで充分だけど」
「そんな安いもんじゃねェよ。ありゃ俺の命すら含めて何でもくれてやるっつーレベルで言ったんだ。正義の味方は約束を守ってナンボなんだからいい加減ケリつけさせろ」
「じゃあね、えっとね、結女ちゃんと離婚して、沖継くんのハートを私に……」
「願いが二つになってんじゃんか。却下」

 俺はいつもの調子で、バカを言ってたつもりだったんだが。
 コノは急に、寂しそうな目をして。

「だから、最初から、お願いは一つだけなんでしょ?」
「…………」
「結女ちゃんと別れさせるだけならただの嫌がらせだし、心だけ貰ったら私ホントに沖継くんの愛人になっちゃうじゃない。それに、どうせ私の方が沖継くんより先に死んじゃうんだもん。そうしたら結女ちゃんとモトサヤだよね。ヤだよ、そんなの」

 そう言うだろうな、とは、思ってた。

 思っていたから、コノに頼んだんだ。

 咄嗟の判断ではあったけど、俺が打算を働かせて、コノを利用したのは間違いない。
 その罪悪感を濯ぐ機会は、あれから四年も経った今でさえ、与えられていない。

「だから、貸しにしといて」

 コノは人差し指を一本立てて、俺の胸を突きつつ。

「気が向いたら、返してもらうから。それまでは、永遠に、ね」

 ――罪悪感を背負っておけ、と。
 全く、俺の周囲の女たちと来たら。しおらしさの欠片もありゃしねェや。

「ほら、もう搭乗者の受付始まってるじゃない。チケット取ってきて、荷物預けてきて。搭乗ゲートもちゃんと教えてね、間違えないでよね!」
「へいへい……」

 俺は荷物を預かって、航空会社の受付カウンターへ向かう。

 その場に残ったのは、女同士、二人だけ。
 手続きをする俺を遠目に見ながら、何かを話していた。

 多分、二人とも、自分たちの話は聞こえてないと思ってるんだろう。距離もあるし、空港の中って何かとうるさいもんな。案内音声、行き交う人の声や足音、遠くで響くジェットエンジン。ホントに雑音だらけだもん。

 でも、困ったことに、俺の耳は特別製。
 だいたい、聞こえちまった。

 内容については全面的に秘するよ。別に聞きたかった訳じゃないし、俺自身のためにも二人のためにも、忘れておくのが一番いいだろうから。

 ただ、一言だけ、言わせてもらうなら。

 俺はホントに幸せ者だと思う。いい女たちとめぐり逢ったよ。有り難いことです。


 空港を後にしつつ。
 俺はついつい、遠い南の空へ消えていった機影を、目で追いかけていた。
 ふと、結女の視線を感じて、首をすくめて誤魔化して。

「何を勘違いしている。咎めるつもりはないぞ。私もお前と同じ気持ちだ」
「へ?」
「久々に感じているよ。巣立っていく子供を見送る親の気分を……」

 いや、俺のはちょっと違うから。ていうかコノからすればお前の方が子供だろ。

「ノッコに心配は無用だ。あの子は確かに小さな不運をよく引き当てるが、総じて見ると何故かとてつもない幸運を掴んでいるようにしか見えない不思議な縁に守られてもいる。たとえば、そう、お前のご近所さんとして幼少期を過ごしたことも」
「それがそもそも不運の始まりだと思うけどね、俺は」
「それに、今度の行き先。九州は熊本だぞ」

 にやにや笑って言うんだけど、意味がわからん。

「あんなことがあったんだ、さすがに顔を見せることも憚られたんだろうな。私たちに何も言わず姿を消してしまって久しいが、生憎と私は地獄耳なんだ」
「?」
「寄る辺がなくて育ての親のところへ戻り、今もそこに居るらしい。血の繋がったどこぞの最低な親と違って、ごく平凡な家族だそうだから、そろそろ心の傷も癒えただろう。……さて、そこでもし、奇跡的な再会が起きたとしたら?」

 本当に、結女のヤツは、心底楽しそうで。
 何をワクワクしてやがんだ、という違和感ばかりが先に立って。

 察しがつくまで、随分、時間がかかってしまった。

「あ……あぁ? ああああぁああぁぁああぁ?!」
「沖継が側にいなくても何ら問題はない、最強のナイトが自発的にあらゆる困難からノッコを守ってくれるという訳だ。どうだ、私はあの娘が奇跡を起こす方に賭けるぞ?」
「え、えと、えっと……じゃあ俺は、不運に不運が重なって何かいろいろこじれてヤバいことになって大ピンチになっちゃう方に」
「素直じゃないなお前は、少しは我が子らの幸せを素直に願ったらどうだ」
「男はな、それでも何とかしてみせて、これと決めた大事なものを守ってこそなの」

 もし本当に、縁結びの神様が気を利かせてくれたとしたら。
 もう、他人のせいにはできねェぞ。
 お前を邪魔するヤツは、誰もいないんだ。

 うまくやれ。二度と譲るな。今度こそ。

「……まあ、他所様のことより、まず考えるべきは私たちの方か」
「ん?」
「ここ最近、征伐に出た回数を憶えているか。特に今年になってから」
「ゼロ」
「……厳密には十二回、うち八回が誤情報、三回が私あるいは沖継の判断でスルー、一件はお前の顔を見た魔人が恐怖のあまり卒倒してそのまま死んでしまったんだ。征伐イコール生死の境をかいくぐる戦闘という訳ではない。もう少し正確に把握しろ、これも敵の動向を察知する重要なデータなんだぞ?」

 はーい、すんませーん。反省してまーす。

「ま、要は、魔人の行動がめっちゃ鈍いって言いたいんだろ?」
「はるか昔から、奴らの行動には周期的なものがあるんだ。敵は世界を見ているから、そうそう日本ばかりに構ってはいられないのだろう。今は停滞期と見ていいな」
「俺にビビってちょっかい出せねェだけじゃないのか。堤塞師と同等以上の逸材は、向こうにとっても超がつくほど貴重なはずだろうし」

 これは褒めたんじゃないぞ。皮肉だ。あれだけの能力と立場を持ちながら、人として大事なものを片っ端から切り捨て、飼い主の方針に一切疑問を抱かず盲目的に忠義を尽くす、正真正銘本物のクソバカ野郎。あんなタチの悪いヤツがゴロゴロ居てたまるか。

「粗製濫造した魔人はどうせ使い物にならんし、手駒を育成する時間は欲しいはずだろ。今頃はきっと、地球の裏側でそれっぽいヤツを漁ってんだろな」

 と言うと、結女は深い溜息をついて。

「どうしてお前はいつもそうやって結論だけは正確なんだ……。私と一緒に細かいデータを積み上げて何日もかけて分析した調査機関の子らは、今頃きっと泣いているぞ」
「知らんがな。直接会ったこともないし」
「とにかく、当分は休暇も同然ということだ。数年ほどバカンスを取ってもバチは当たらないぞ。たとえばパラオ、ハワイ、バリ島、国内なら小笠原や沖縄なんてどうだ?」
「だぁーかぁーらぁー、何でお前は日本の血税を無駄遣いする方向にばっか提案してくんだよ。我が家の財布は国の金庫と直結してんだぞ? もうちょっとこう、みんなに迷惑かけないようにだな、庶民的かつスモールに行こうぜ」
「私たちの戦いは未来永劫続く持久戦だ。休めるときには堂々と、躊躇うことなく、贅沢かつ優雅に休まなければ、心も身体もとても保たな……」
「アーアー聞こえない聞こえなーい。結女の屁理屈なんか聞こえなーい」

 耳を塞いで喚いていたら、尻をぺちんと叩かれた。

「全く、以前はすぐに丸め込まれてくれたのに。最近は話を聞きもしない……」
「これでもちゃんと聞いてるつもりなんですけどね。つーかな、俺にとっては家にいるのが一番バカンスなの。最高に美味いカミさんの料理をつつきながら晩酌するだけでじゅーぶん生き返るの。それが一番幸せなの。わかる?」

 とか、冗談めかして言ってみたら。
 あれま。結女ったら顔を真っ赤にしてモジモジしてやんの。

「しょ……しょうが、ないな。全く、その程度のことをバカンスなどと……」

 料理を褒められたのがそんなに嬉しかったのか、うちの妻は安上がりで助かるね。そして俺は妻の喜ぶ顔見たさにますます褒め、妻は夫の喜ぶ顔見たさにますます料理の腕を磨く。そして家の中は笑顔で満たされるワケよ。名付けて千手観音育成計画。どうぞお宅でも導入をご検討下さい。効果抜群でございます。

「……? 何だ、あれ……」

 ふと、目に入る。
 平和な空港に似つかわしくない、戦場の光景。

 技術革新でコストが下がったせいか、人が集まるところには大抵設置されてるよな。宣伝用の超大型モニター。そこにニュース映像がたまたま映し出されていたんだ。

「中東、アラブ、アフリカ……か。最近はテロの類が増える一方だな」

 俺の傍らで、結女もニュース映像に見入っていた。

「なあ、結女。あれもやっぱ、敵が絡んでるのか」
「この目で現地を見てきた訳ではないから断言はしないが、絡んでいない方が不自然だ。あれこそ不可解で理不尽な現象の最たるものだからな」
「…………」
「治安が乱れ、社会が不安定になると、絵空事じみた思想を押しつけてくる過激派や、排他的な主義者の類が台頭する。彼等に共通するのは、話し合いが全く通用しない了見の狭さと、暴力による他者の否定を躊躇わない異常なまでの攻撃性だ」
「やれやれ、魔人の素体にはうってつけだな……」
「若かりし頃の堤塞師も、行きすぎた革命思想に傾倒していたらしいからな。自分の見ている世界の外で、自分たちとは全く違う考え方で、それでも平和に愛情豊かに暮らしている者がいる。そのことを理解も許容もできない輩は、残念ながら何時の世にも一定数存在するんだろう。彼等の目には平凡な幸せなど欺瞞に満ちた偽物としか映らない。理想実現のために打ち砕くべき障害だと錯覚してしまうんだ。そういう連中とは――」
「こっちも戦う覚悟を決めるしかない、か」

 結女も小さく頷いて。

「彼らが幸せを感じていないことと、私たちが幸せなことの間には、何も関係はないのだがな。他人の幸せを壊して自分が幸せになった例など、有史以来一つたりともありはしないのに」
「…………」
「ところで、沖継。まさかとは思うが」
「ん?」
「いや、いくらお前でも、そんなことは考えて……」

 苦笑しながら俺の目を覗き込んだ結女が、急に真顔になる。

「……やめておけ、危険すぎる。私たちが戦えるのはこの国の中だからこそ。三千年の長きに渡って積み重ねてきた地の利と人の利なくしては、とても奴らと対等以上に戦えん。ましてや地球の裏側などアウェーもいいところだぞ」
「いや、ま、そりゃ、わかってんだけどさ」

 いたずらに戦線を拡大しても自滅するだけ。俺たちが戦うのは、これ以上は一歩も譲れない場所を、この国とそこに住む人々を守るためだ。自宅を留守にしてまで他所様の修羅場へちょっかい出しに行く気は毛頭ない。

 ただ、ね。

「当分ヒマなんだろ? 俺たち」
「…………」
「観光旅行のついでに幸せの種を撒く程度ならバチも当たらんだろ。それが芽吹いて木になり森になるかは、現地の人が決めることだしさ」

 言って、大型モニターへ視線を戻す。
 いつの間にかニュース映像は終わって、新作映画のプロモーションが始まっていた。

「おっ、久しぶりにレジェンダリの新作が来んのか。要チェックだなコレ」

 話を変えた俺の横で、結女が盛大な溜息を吐く。

「お前がそのつもりなら仕方ない、私も調査を始めよう。どこに行くか、何をするか、その検討も含めてな。しばらく時間をくれ」
「そんな急がなくてもいいぞ? せめてお前がもうちょい成長して、赤飯炊いてお祝いするくらいになんなきゃさ。俺だけだといざって時に対処しきれねェんだから」
「何を言う。すでにこの姿でも大抵のことはできるぞ。例えば夜伽とか」
「残念ですけど俺の方がどうやったって勃ちません。今のお前と致すなんてロリどころかペドじゃねェかよ完全に。生理的かつ本能的なレベルで絶対無理だっつーの」
「お前はそれでも男か! 冒険心のかけらもないのか! この軟弱者め、ああ嘆かわしい! 誰にも迷惑をかけずに禁断の青い蜜を啜れる大チャンスだというのに!」

 ホントもうウチのカミさんときたら無茶ばかり言いなさる。そもそも成熟した女の最高に官能的なボディラインを隅々まで舐め回す楽しさを俺に教えてくれたのはお前だろうが。つーか青い密って何だよソレ。今のお前から蜜なんか出てくんのかよ。果実どころかもはや種だろまだ芽も出てねェよそんな歳だろ肉体的には。

「頼むから、これ以上俺に変な性的嗜好を植え付けようとすんな、間に合ってっから。それでもちょっかい出してくるっつーなら、俺もお前に変な趣味を植え付け返すからな?」

 シッシッ、と手払いしながら、この話はもう終わりだと強調してみたんだが。
 結女は、躊躇いつつ、恥ずかしそうに、けれども目を爛々とさせて。

「その……例えば、どんな?」
「はい?」
「お前の、することなら、その、私は、何であろうと、悦びに変える自信は、ある」
「…………」
「だから、その、つまり、私はだな、沖継にどこまででも付いていくぞ?」

 さすがに冗談だと思いますよ、思いますけどね。
 何だか頭痛くなってきた。とっとと帰って酒飲んで寝よ。

「こら、沖継。人混みの中に行くなら少しは気を遣え。私の身長は今いくつだと思ってるんだ。迷子になったらどうしてくれる」
「へいへい。んじゃ、これでよろしいですかね?」

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 俺たちは、手を繋いで歩き続ける。
 この先も、ずっと、ずっと、ずーっと。



〔了〕

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