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〔SE2〕Introduction

【注意】
 ここから始まる物語、すなわち〔サイズミック・エモーション2(以下、SE2)〕は、著者のHDDの片隅に長らく埋もれていた原稿です。
 短編集の形をとって発表する予定で作業をしていたので、部分的には完成・脱稿しておりますが、全体としては未完成です。末尾にはラフやプロットを添付して筋書きを把握できる形にいたしますのが、ご了承ください。



 タクシーの窓外に見える空は、鉛色の厚い雲に覆われていた。

「降ってきそうですねェ」

 千葉県の宮野木インターチェンジ、京葉道路から東関東道へと乗り換えながら、運転手が一人だけの乗客に向けて遠慮がちに話しかけた。

 乗客は久瀬隆平だ。

 後部座席で一人、アタッシェケースを開いて中の書類を広げ、慌ただしくノートPCを操作していた彼は、ずいぶん久しぶりに顔を上げた。

「梅雨には、まだ少し早いはずですけどね」

 運転手に応えて、パタンとノートPCを閉じる。

「ああ、すみません、お客さん。仕事の邪魔するつもりは……」
「いえ、ちょうど一区切りついたところなんです」

 久瀬は広げた書類を丁寧にまとめ直し、アタッシェケースへ収めた。

「お客さん、A型?」
「血液型ですか? そうですけど、何故」
「いや、何となく。手つきが几帳面そうだなと思って」

 雑談の好きな運転手らしい。目的地の成田空港へ着くまでもう少し時間があると見た久瀬は、苦笑しながらも彼の振ってくる話に乗ろうとした。
 が、久瀬の腰から電子音が鳴った。携帯電話の着信音だ。買い直したばかりの最新機種をベルトのホルダから取り出し、応答。

「はい、もしもし……」

 久瀬は電話の初めこそ日本語だったが、

「……Yes, Cabinet intelligence and research……Really? ……No No No, Wait, It's not decided in my arbitrary decision……」

 数分にわたる長い電話が終わるまで、ずっと英語で話し続けた。

「凄いですね、お客さん。ペラペラじゃないですか」
「いえ。とりあえず読める、話せる、という程度で」
「またまた。発音とか本格的な感じでしたよ。私は学がないから、どのくらい凄いのかわかりませんけどね。頭のいい人は顔見たらわかる」
「はは、どう言えばいいのか」
「お仕事は何を? 商社勤め?」
「いえ。その」

 官僚です、とごく普通に答えようとして、久瀬は言葉を止めた。
 そして、悪戯っぽく笑いながら。

「他国のスパイやエージェント、過激派、カルト団体。そんな連中から日本を守っている政府機関の人間です。私の守備範囲は、いわゆる超能力者の管理と対策に関する情報収集と分析、そして、各方面の連絡調整に係る事務一般」

 言葉尻に被せて、運転手が笑い出した。

「そりゃ一体何の映画ですか。年寄りをからかっちゃいけない」
「すみません。本当は冷凍食品の会社で、輸出入関係の営業を」

 そう言うと、運転手が納得顔で頷いた。それが久瀬には可笑しい。
 つい先月、大型連休前に起きたあの事件に巻き込まれるまでの久瀬もそうだったが、結局のところ人というのは、自分が信じられることしか信じないものなのだろうと思う。

「お客さん、何を笑ってるんです?」
「ああ、いえ、別に」

 じきに目的地の成田国際空港が見えてきた。広大な駐車場に巨大な建物、一目でそれとわかる管制塔。宙に浮かんだ巨大な金属の塊――着陸態勢のジャンボジェットが、遠くの滑走路へとゆっくり、ゆったり降りていく。

「いつ来ても思うんだけど、現実感のない光景ですよねェ。人間ってのは凄い。あんなの作って空に飛ばしちゃうんだから」
「そうですね。……あ、第一ターミナルの国際線出発へつけて下さい」
「はいはい。世界を股にかけて仕事って、格好いいなあ」
「それは上司です。私は見送りに来ただけで」
「ああ、そうか。荷物がアタッシェ一つで海外出張はないですな」

 居並ぶシャトルバスのすぐ側に停車し、久瀬は運賃を払う。運転手の「お仕事頑張って」という挨拶に愛想笑いを返しつつタクシーを後にし、第一ターミナルビルの出入り口を潜った。成田空港の道路は高架による立体交差になっているから、そこはすでにビルの四階、搭乗手続きカウンターのすぐ側だ。

「人、多いな……」

 ここで上司を捜さなければならないのかと憂鬱になりかけたが、

「おおい、久瀬君。こっちだ、待ってたよ」

 間の抜けた中年男の声が耳に届いてきた。
 上司の山形祐三内閣参事官の方が先に久瀬を見つけたようだ。禿げ上がった頭を隠すために伸ばした側頭部の髪は汗で乱れており、太り気味の身体を揺すりつつスーツケースとキャリーバッグを引きずってこちらへ近付いてくる。

(この風体で、世界中に名前を轟かせてるスペシャリストなんだからな)

 それは超能力が絡む事件の処理にとどまらず、山形参事官の出身省である外務省のデマケ、すなわち、国際的な交渉事や紛争の調停においても同じらしい。ヤマガタ、という名前をタフネゴシエーターにおける日本人の代名詞と理解している者すらいるという。この一ヶ月ずっと山形に付き従ってきた今でさえ、久瀬は時折不思議な心持ちになる。

「久瀬君も忙しい身の上なのに、迷惑をかけてすまないね。本当はもっと余裕を持って、今日の中東出発を迎えているはずだったんだが……」
「いえ。そもそも参事官の出発がここまで遅れたこと自体、私の不手際です」
「それは違うよ。君は本当にこの一ヶ月よくやってくれた。……いや、そんな話は後でいいな。早速だが、例の件を処理してしまおうか」
「はい。文書類の整理もぎりぎりで間に合いましたので」

 携えてきたアタッシュを持ち上げる。

「流石だな、頼もしいよ」

 山形が手近のベンチへ歩き始め、久瀬がその後に続く。

 実はこの二人、今日の明け方まで霞が関の内閣府ビル六階、内閣情報調査室の特定業務総括班に詰めて仕事を続けていたのだ。春先の大型連休前に起きた事件の処理が今の今まで終わらなかったためで、山形は出国前に必要な身支度をするためやむなく一旦帰宅、その間に総まとめの残務処理を久瀬が引き受け、成田空港で落ち合わせて最終確認を行うことにしたのだった。
 最大の懸案事項は、およそ一ヶ月前に日向みつきが撃墜した在日米軍所属の戦闘用ヘリ・アパッチの処置に関する事柄だった。東京湾に残骸を沈めたまま放置はできないので引き上げねばならないのだが、誰が、どうやって引き上げるか、それで延々と揉め続けていたのである。

 発端はアメリカ政府と在日米軍――正確に言えば中央情報局CIAの極過型能力者対策部が最後の最後まで自分たちが引き上げると主張してきたことにあった。何せ沈んだアパッチはロングボウ型の最新式であるblock-Ⅲ。同盟国の日本が相手とはいえ詳細を知られることに抵抗はあったろうし、特に試作段階で持ち込まれた非致死性兵器には国防総省の思惑も絡んでいたのかもしれない。また仮に、久瀬やみつきを狙い続けた三十ミリ機関砲に劣化ウラン弾が装填されていた疑念もあって、表沙汰にできない部分でさらに問題が拡大することを防ぐ狙いもありそうだった。
 まったく身勝手で迷惑きわまりない話だが、しかし彼らが引き上げの作業をすべて受け持つというなら、日本政府は作業費用を一円も負担せずに済む。これはこれで歓迎すべきなのだけれども、東京湾上で在日米軍あるいは米国籍のサルベージ船が長期にわたって行動し続けるのは不自然な上に目立つことこの上ない。質の悪いジャーナリストにでも嗅ぎ付けられたら一巻の終わりである。だから、日本の法律内できちんと読めるような説得力のある言い訳が用意できない限り、彼らの要求に対して首を縦に振れなかった。

 だから、山形や久瀬は、

『引き上げは日本でやる。水質調査でも何でも理由はつけられる』

 という線で要求を突っぱねてきた。アパッチの残骸を調べるような真似はしない、引き揚げれば即コンテナに放り込んで米国へ直送するから、と。
 しかしこれが通れば通ったで、中央官庁の内部でデマケの消極的な譲り合いや押し付けが始まってしまう。引き上げ作業を海上保安庁の予算枠でやるのか、それとも国土交通省か、あるいは防衛庁か。内閣官房の機密費だけでは賄いきれないのでどこかが損をしなければならないが、事なかれ主義が横行する役所の中で担当部局がそう簡単に書類へ判を捺す訳がない。今度は内向きの言い訳と嘘を組み立てて説得に当たらねばならず――。

 これ以上は煩雑になるだけなので、省略しておこう。

 言うまでもないが、実際に山形と久瀬が処理してきた案件はもっと多岐にわたる。滅茶滅茶になってしまった恵比寿のコーヒーショップもそうだし、幹線道路を封鎖するため意図的に起こされたトレーラーの横転事故もそうだ。本来ならとうてい一ヶ月で片付くような問題ではない。

 山形と久瀬は、それだけの仕事をたった二人でこなしてきたのだ。

「……そうした訳で、最終的には参事官のC案、つまり、船や機材は日本側で用意して全体を監督し、実際に捜索とサルベージを行うのはアメリカ側から派遣されたスタッフに任せる、ということでまとまりました。つい先程、在日アメリカ領事館から確認の電話もありましたので、これが最終決定で間違いありません。調整に関しては国際部と防衛庁外事局へ一任、あとは情報官のクリアを得れば、こちらの……特務分室の仕事は終了です」

 久瀬が長い説明を終え、要点をまとめたわずか三枚の書類のみを山形へ手渡す。

「了解だ。いやはや、一時はお手上げかと思ったが」
「ここ一ヶ月の参事官の判断は鮮やかでした。参考になりました」
「私を褒めても何も出んぞ?」
「正直に言っているつもりです。明日からはもう参事官は日本にいないのだと思うと不安でたまりません。私一人で本当に留守居が務まるかどうか」
「謙遜だな。君の働きぶりはしかと見させてもらったが、私は君ほど有能な若手を私は他に知らんよ。一部で戦略核弾頭の異名を轟かせていたのは伊達じゃなかったんだな」
「核弾頭って……何ですか、それ」
「おや、本人の耳には届いてなかったのか。忘れてくれ」

 山形は笑って、久瀬の肩を軽く叩く。

「私はしばらく中東の空の下だが、そこからでも出来る限りのサポートはするよ。即時対応という訳にはいかんが、レスポンスが三日四日と遅れるようなことはないはずだ」
「心強いです」
「次の帰国は、おそらく八月ごろかな。それまでよろしく頼む」
「はい。何とか持ち堪えます。……ところで参事官」
「ん?」
「ご家族は大丈夫でしたか。庁舎を出る前、ずいぶん気にしていらっしゃいましたが」
「家内も娘も総スカンだよ。一ヶ月前に日本へ戻ってきたことも知らせていなかったし、早朝いきなり帰ってきてたたき起こされたと思ったら〝これから海外出張だから用意を手伝え〟だものな」
「……その、どう言えばいいのか」
「久瀬君が気にすることじゃないさ、私はもう諦めてる。宮仕えを続ける限りはずっとこんなものだ。君も結婚するときは気をつけたまえ。私より酷いことはないだろうが」

 本当に朗らかに、場違いなほど明るく笑いながら、山形が立ち上がる。

「さ、て……。搭乗手続きをしてこようか」

 航空会社のカウンターへ向けて、歩き出す。
 その足元に自分のスーツケースがあることに、気付かなかったらしい。

「あ、参事官」

 久瀬は注意を促そうとしたが、もう遅かった。片足を引っかけた山形が反射的に身を捩り、その勢いのまま横転。踏ん張ろうとした足が言うことを利かなかったようだ。その拍子にスーツケースの留め金も外れ、下着類を中心とした中身を派手にまき散らしてしまう。

「大丈夫ですか、参事官」

 久瀬は慌てて駆け寄り、散らばった下着類をかき集める。周囲の視線が集まり、時には失笑すら向けられるが、気にしても仕方がない。

「す、すまんな久瀬君。やれやれ、私もどうかしている」
「この一ヶ月、満足に寝ていないんですから。きっとお疲れなんですよ。機内ではゆっくりお休み下さい」
「そうさせてもらうよ……。しかし、君は疲れが見えんな」
「学生時代から、体力には多少、自信があります」
「若さなのかね、羨ましいよ」

 そんな話をしている間にも、久瀬はてきぱきと荷物を片付け、スーツケースを元通りに閉じ直した。そして、すぐ側の山形に差し出す。
 が、山形はそれを受け取ろうとしない。

「参事官?」

 何かを考えている風の上司に話しかけると、

「……問題なのは、体力より精神力なんだ」

 ぽつりと呟いた。
 何のことだか、久瀬にはわからない。

「久瀬君、これは、今の君に言うべきではないのかもしれんが」
「?」
「特定業務総括班は現状、SSS級の機密を扱いすぎている。私はここ二十年の中で少しずつ仕事を増やして結果的に専従者となったが、君はそうはいかん。いきなりあの三人と各国の情報機関を相手にやっていくんだ。本質的にはあくまで私の留守番だし、責任を持って判断を下すのは私であり情報官であり官房長官だが、もし何かあったとき、現場を仕切るのは君一人だ」
「覚悟はしています」

 これに、参事官は真剣な顔でかぶりを振る。

「そうじゃない、そうじゃないんだ」
「?」
「特に君は仕事に対して生真面目すぎる。それがいいところでもあるが、脆さにもなりかねん。いいかね、よく憶えておいてくれ。仕事などというのは所詮、世渡りの道具にすぎんのだ。天下国家のために粉骨砕身働かねばならん我々の世界でもそれは同じこと。己の人生を仕事に従属させていたら、やがては仕事に殺されるぞ」
「……はあ」

 生返事しか出てこない。
 そんなことを言う参事官本人が、自分の人生と家族と過ごす時間を誰よりも犠牲にしているはずだ。いや、山形参事官だけではない。中央官庁の官僚は誰しも私生活を犠牲にしながら働いている。独身の久瀬にとっては覚悟以前の話だし、特に三十代が見えてきている今、寝食を忘れて没頭すべきは何よりもまず仕事だと考えて当然ではないのか。

「いいかね、これだけは本当に……」

 参事官はなおも話を続けようとしたが、久瀬はそれを手で制する。

「すみません、参事官。僭越ですが、お時間は大丈夫ですか」
「む?」
「いえ、搭乗手続きが」
「なに? あ、いかん、いつの間に」

 久瀬は苦笑する。山形は本当に疲れていて、判断力も低下しているのだろう。

「とにかく、私の判断を仰がねばならん時は、本当に、いつでも連絡をしてきなさい。悩んだときも相談に乗るよ。上司として、君ほど有能な部下を失いたくはない」
「褒めすぎです、参事官。ですが、お気遣い有り難うございます」
「では行ってくる。ああ、いかん、最後に」

 歩き出したと思ったら、すぐにまた山形が振り返る。

「まさか君のような若手にまで声をかけてくるとも思えんが、越戸さんには注意しておきなさい。取り込まれて自分を見失わないように」

 特定業務の関係者にそんな名前の人間がいただろうかと考えるが、思いつくのはただ一人だけだった。

「念のため確認させて頂きますが、官房副長官のことでしょうか?」

 久瀬は念のため、問い質してみた。

 越戸忍、五十九歳。事務の内閣官房副長官。

 内閣官房副長は官房長官を補佐する特別職の国家公務員で、情報調査室の長である内閣情報官直属の上司にあたる。キャリア官僚に用意された出世コースの頂点に位置する役職であり、現在の中央官庁で彼に頭が上がる役人は一人としていない。
 彼が白と言えば黒くても白と言わなければならないのが、久瀬のような下っ端官僚の立場だった。が、官房副長官の執務室は総理官邸にあるし、ここへ報告を上げるのは内閣情報官の仕事だ。まさに雲上人。久瀬自身も越戸副長官と直に話した経験はないし、注意するしない以前の問題である。

「……いや、これも、内調の事務官として君の勉強になるのかもしれんな。今はピンと来ないかもしれんが、越戸さんについては自分で時間を見つけて調べてみるといい。方法はもうわかっているはずだ」
「それは、参事官の指示と受け取ってもよろしいのでしょうか」
「指示ではない。あくまで忠告だよ。個人的な、ね」
「了解しました」

 これは雑談だ、忘れてもいい、と久瀬は即断する。早めに割り切っていくことも仕事上のテクニックだ。そうでなければ思い煩うことばかり増えて、頭が混乱するだけになる。

 そうして、山形は中東へ旅立っていった。

 久瀬は空港で昼食を済ませ、飛び行くジャンボジェットを見送ってから、東京・霞が関の内閣官房へ戻っていく。
 その口元には始終、何故か、笑みが浮かんでいた。



 東京都中央区霞が関、内閣府本府庁舎ビル六階、内閣情報調査室。
 その片隅にあるわずか十畳ほどの小さな部屋、元は物置だったらしい空間に構えられた事務室が特定業務総括班、通称[特務分室]である。

 ここに居るのは、弱冠二十八歳の青年官僚、久瀬隆平ただ一人のみ。
 朝も、昼も、夜も。ずっと彼一人だけ。

 そこに、ひどく久しぶりに外部の人間が訪れた。内閣府の防災担当に所属し、三年前は久瀬と共に首都圏大震災の復興計画策定に尽力した若手官僚。久瀬と同期の友人である。

「……何やってんだ、久瀬」
「ん? ああ、君か。久しぶりだな、元気か?」
「まだ常会の会期中だしな。残業続きで疲れちゃいるが」
「俺は元気だ」
「見りゃわかるよ」

 久瀬は、天井へ向けて両手を広げ、また戻し――ラジオ体操の深呼吸にも似た動作を何度も何度も繰り返しているのだった。しかも笑顔で。

「デスクワークは運動不足になって仕方ない。君もやるか?」
「結構だ」
「そうか、残念だ」

 久瀬は手近にあった自分の椅子に腰を下ろす。

「で、うちの分室に何か用か?」
「いや、ちょっと噂を聞いたんだよ。ここ最近、お前がずっとこのビルに泊まり込んでて、真剣な顔してあちこち走り回ってるとか何とか」
「それ、先月の話だろ。もう六月だぞ?」
「それで、まあその、何か仕事でも貰ったのかと思ってな。同期のエースが復活したとなれば、そりゃ、気にもなるし」
「何だ、単なる覗きか。君も暇だな」
「俺は忙しいよ! 最近小笠原諸島で群発地震が起きてるせいで大変なことになってるんだぞ! 隙を見て噂を確かめに来ただけだ!」
「声がでかいよ。情報調査室の連中は部外者がいるといい顔しないんだ。気をつけた方がいい。閑職だって言いふらされたくないんだろうな」
「……で、何やってたんだ。先月」
「は?」
「だから、何の仕事で泊まり込んでたんだ?」
「ああ、うちの国際部の手伝いだよ。突発の仕事が入ったとかで、NYポストやザ・サンとか、新聞の切り抜き手が足りなかったらしい。ほら、俺、英語出来るし、うちの山形参事官も外務省出身だから」
「…………」
「インテリジェンスの九十五パーセントは公開情報から、ってよく言うだろ。新聞や雑誌の切り抜きだって立派な仕事だよ」
「タブロイド誌のどこにインテリジェンスがあるってんだよ。日本で言やぁ東スポや夕刊フジだろ? いや、そりゃまあ、情報調査室の惨状については噂程度に聞いてたけど」
「ご明察。どうせだったら残業手当をもらった方がいいから、なるべく仕事を引き延ばして夜までいたんだ。で、時々うっかり終電逃がしちゃってさ。タクシー券もなかったんで……あ、これ、ここだけの話にしてくれよ」

 言いつつ、久瀬は机の上に積み上げていた本を手に取る。
 そのタイトルは[ワークショップ/演劇初心者のために]とある。
 どう見ても仕事ではない。趣味の本だ。

「……何やってるんだよ、お前は」
「終業までの時間つぶしかな。ははは」
「ははは、じゃないだろ!」

 同僚は思わず、久瀬の机に平手を叩きつけた。

「左遷されて何ヶ月も経って腐る気持ちはわからなくもないよ、ないけど、このままじゃお前ほんとに腐るだけだぞ?! 出世の望みがなくなったってやれることはいくらでもある! 行政官として一つでも多くの法律を頭に入れておくとか新しい法案を考えるとか興味のある行政事業について調べておくとか政治経済の論文に目を通しておくとか!」
「そんなことして、どうするんだよ」
「どうするも何も専門知識がいつ必要になるかわからんのが俺らの仕事だろうが! だいたいこの特務分室って……」
「正確には、特定業務総括班だ」
「……って、何かの業務を総括してるんだろ?! 総括って言うくらいなんだから、仕事の守備範囲はそれなりに広いはずだろ!」
「そんなこと言われてもな。知らないよ」
「知らないって、お前……。自分の所属してる部局だろ、ここ」
「本当に知らないんだよ、参事官は何も言わずにすぐフケちまうし。ここしばらくは出勤すらしてこないんだぜ。有給あったら俺も休みたいよ」

 久瀬は机に脚を投げ出し、椅子で船をこぐ。

「別に、することないんだよ。何も」

 態度も、声も、無気力極まりない。

「もういい。邪魔して悪かったな」

 溜息をついて背を向けた同僚は、そのまま特務分室を出て行った。

「無惨なもんだ。こうはなりたくない」

 捨て台詞を残して。

 部屋に、静寂が戻る。

 そうして、久瀬は机から足を下ろし、演劇の本を畳む。
 この本によると、そもそも演技の基本は役になりきって没入することではなく、動作によって生まれる感情を次の動作へ繋げていくことにあるらしい。たとえば、拳を強く握るだけで怒りや闘争心に似た何かが心中に生じるので、その感情に合わせて次の動作や言葉に繋げていく、という風に。これを自覚して利用できるようになれば、素人でも一定の説得力を持つ演技が可能になるのだとか。
 先ほど、久瀬がわざと机の上に足を上げてみせた理由がこれだった。
 情報調査室は閑職だと思わせておいた方が対外的に都合がいいので、意図的に怠惰な演技を続ける職員は数多い。演技の本も国内部門の資料棚から借りてきたものだ。犯罪捜査や張り込みの経験がある警察官僚出向組がもたらした知恵の一つなのだとか。

「まさか、山形参事官の風体もそれか……?」

 あれは生来のものだろうが、もし“うだつの上がらない中間管理職”をわざと演じているのだとしたら、日本アカデミー賞を飛び越してオスカー級の実力だろう。

「おっ……と」

 ふいに、腰のホルダに入っている携帯電話が振動し始めた。すぐに取り出し、送信者と内容を確認する。
 途端に、久瀬の目の色が変わった。

「独り立ち後の初仕事、か」

 椅子を蹴るように立ち上がり、分室の扉を閉めて空調の強度を上げる。型遅れに偽装した高性能パソコンを立ち上げて素早くパスワードを放り込み、TRONベースの独自規格OSを起動。それだけで世界中の情報機関が同盟国へ向けてのみ公開している機密情報へのアクセスが可能になるばかりか、この班と関わりのある中央官庁の全ての部署へ警戒や待機を促すメッセージが一瞬で配信される。
 そして、ログオン中の関係者一覧が流れてくる。これを元にして、ログオフになっている重要スタッフを割り出し、スケジュールを確かめる。

「参事官はまだ機上の人だよな……。情報官は昨日から総理に意見を求められて官邸に入ってる。会議が終了する今夜九時まで、よほどでなければ情報官に連絡は入れられない。咄嗟の場合、俺が自分の責任で判断を下さなきゃいけない……」

 初仕事にしては厳しい条件だ。自分以外に誰も頼れない。
 しかし久瀬は、楽しそうに笑う。

「仕事ってのは、こうでないとな」

 自分の机に戻り、引き出しの鍵を開け、一冊のファイルを取り出す。
 そこに綴られているのは、履歴書風の書類をコピーしたものが三枚のみ。日向みつき、昭月綾、大地瑤子それぞれの連絡先などが記されている。

「何をやらかしたのかは知らないが、大事にはしないでくれよ」

 呟くが、しかしそれは、久瀬の本音ではない。
 上司の山形から教わったことをどれだけ実行できるか、単に留守居を越えた仕事をやってのけられるのか。自分はこの特定業務という仕事をどこまでこなしきれるのか。
 自信はあった。あとは試すだけ。だから笑みがこぼれる。
 増長と紙一重とはわかっていても、止められない。
 山形は久瀬を褒めすぎていたし、久瀬も上手にこなしすぎていた。

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