![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/31467751/rectangle_large_type_2_1bb24f364542d07ef9265ce839a3529d.jpeg?width=1200)
〔SE2〕届かなかったLOVE LETTER
【はじめに】
この短編は#04にあたるエピソードです。
執筆順としては#01の次に書き上げられたもので、本作が意図していた方向性をもっとも的確に表現した一編でしたが、派手な事件を起こしたい&久瀬隆平を登場させたいという担当編集の要請で保留となっていた原稿です。
おそらくこのnoteでの発表が「初出」ということになります。
1
予備校の春期講習に通う学生には、前年度の大学入試に失敗した浪人生が少なくない。理屈で言えば彼らに遊ぶ時間などあろうはずはなく、何故不合格だったのかを猛省すると同時に、自分の学力を厳しい目で見つめ直し、一年後に控えた国公立大センター入試や私立大入試に今度こそ合格するため徹底的に基礎学力を叩き直していかねばならない。
しかし、頭も身体もそれなりに成熟した遊びたい盛りの若者を理屈だけで抑えつけるのは不可能だし、極論すればたかが受験である。友人との交誼を切り捨て、世の中に背を向け、流行り廃りに見向きもせず、方程式や英構文を無理矢理頭に押し込めて、テストの優劣ばかりを気にして悦に入り落伍者を鼻で笑う、そんな生活に身も心も染まってしまうことが絶対に正しいなどとは口が裂けても言えるものではない。
まして、予備校での生活も一ヶ月が経ち、新緑萌える季節になれば、それなりに浪人生活にも慣れてくる。少しくらいハメを外しても問題はないと考え始めるのは、ごく自然なことだろう。
「……という訳で金曜日到来! 今夜はパーッと行こう! これから一年、みんなで仲良く頑張っていくための団結式、激励会! そういうこと!」
その日の講習が終わった予備校の教室で、一人の学生が高らかに宣言する。集まってきたのは、男子三名、女子三名の計六名。予備校でたまたま席を隣り合わせて意気投合したとか、出身校が同一のよしみで声をかけられたとか、経緯は様々だが――。
「会場はどこ? 居酒屋? 酒入るの? ヤバくない?」
「別に普通でしょ。苦手ならウーロン茶でいいし」
「お世話になってる先輩が、彼氏の友達とか連れて来てくれるって」
「お前の先輩、お茶の水だっけ。その彼氏って早稲田? 青山?」
「ロハで家庭教師とかやってくんないかな」
「んなこと言って、今から彼氏候補を確保しとこうとか考えてんじゃないのー?」
――とりあえず、皆がこの時間を目一杯楽しむつもりでいることだけは確かなようだ。
そうして、予備校生たちは連れ立って教室を出て行こうとしたのだが。
「あれ? ひい、ふう……六人? 待て、一人足りてないぞ?」
幹事役の青年が、皆を呼び止める。
「足りてないって、みんないるじゃん」
「いや、たまに俺と昼メシ食ってた眼鏡の子が……あ、いた、日向さーん」
青年が、教室の隅に座った女生徒――日向みつきに声をかける。
みつきは急に声をかけられて驚いたのか、眺めていた参考書から弾かれたように顔を上げた。その拍子で鼻の辺りへずり落ちた楕円の縁無し眼鏡をそのままに、
「あ、え……えっと、私? のこと、だよね」
「そうそう。日向さん、この前ん時に飲み会の話振った時さ、行きたいって言ってなかったっけ?」
「い、言ってた……かな」
「言ってた言ってた。憶えてないの?」
みつきは傍目にもわかるほど狼狽していた。
が、一呼吸。落ち着きを取り戻すと、ずり落ちていた眼鏡を直し、小さく顔を俯ける。
「……ごめんなさい、ここんとこの復習、まだ終わってなくて。それに私、明日ちょっと予定があって、今夜は早く帰らないと」
「あ、そうなんだ」
「ごめんね、折角誘ってくれたのに」
「いーよいーよ、気にしないで」
「本当にごめんね。みんなもごめん、楽しんできて。じゃあ、また……」
予備校を出た一団は、いつからか、参加しなかったみつきの話題で盛り上がっていた。
盛り上がると言っても、良い意味ではない。
「日向みつき、ね。あの子、高校どこだっけ」
「知らない、住んでるのは八王子だって」
「何で立川まで来てんの? 八王子にも予備校あんじゃん」
「講師で選んだとかそんなのじゃない? 滅茶苦茶成績いいらしいよあの子。偏差値いくつだったかな。浪人やってんのが不思議なくらい」
「さっきも参考書ばっか見てたしさ、家に帰ってまた勉強する気かねぇ」
「いかにも勉強しかしてませーんって感じの子よねー。あたしらみたいな劣等生と一緒に遊ぶわきゃねーだろー、っての?」
「でもさ、着てる服、変にコジャレてね?」
「かけてる眼鏡もなんか普通じゃなかったよ。ここんとこの蔓に、なんか羽根みたいな彫刻がついてたし。結構高いんじゃないのかな」
「オシャレしてるつもりなんだろ。似合ってねえっつうんだよな」
「だいたいあの子、なんか馴染まないっていうか、影薄いっていうか」
「今度からもうシカトでいいんじゃね?」
おおむねこんな風だったのだが、ただ一人、幹事役の青年が顔をしかめていた。
「やめろよ、陰口叩くようなの」
「お、何だよ。お前だけ肩持つ気か? まさかホレてるとか?」
「殴んぞバカ。あんま目立たないのは確かだけど、冗談も通じるし、いいコだよ、絶対」
少なくとも、本人の居ないところで陰口を叩いて周囲に同意を求め、小さな自尊心を満足させている女たちよりましだと思う。もちろん、その女たちのご機嫌を取ろうとむやみやたらに同調する男たちも同じだ。
「ふーん、あんなのが趣味なんだ?」
急に、女の一人が近寄ってきて、耳元で囁くように言う。
「いや、趣味だとかそういうんじゃなくて」
「マジメなのがいいんだ」
「いや、だから……っ、と?」
言いかけた青年の言葉が、途中で詰まる。
その女が、何気なく青年の腕を取ってきた。
二の腕に、柔らかな胸の膨らみが押しつけられる感触と、その温み。
「あたしも、明日からマジメになろっかな。……もう遅い?」
みつきを擁護した青年が前言を撤回するまで、時間はかからなかった。
その頃、みつきは自習室に残って参考書に向かっていた。
他の予備校生も、一人、また一人と帰っていく。最後の一人になる。時計の針は午後九時を回ってしまった。見回りに来た講師にも「まだ帰ってなかったのか? そろそろ切り上げろよ」と声をかけられた。
いや、みつきは決して、勉強がしたくて今まで残っていたのではない
「……戻ってきて、くんなかった」
今にも泣き出しそうな悲哀に満ちた顔で、盛大な溜息を吐きながら呟く。
誰でもいい、遊びに出かけた学友のうち、忘れ物やら何やらで一人でも戻ってくれば、頭を下げてすがりついて混ぜてもらうつもりだったのだ。
「一日や二日休んだって、極端に学力落ちたりしないっつーの……」
シャープペンシルを持つ手が、止まる。
「だいたい、予定があんのは明後日の日曜日だし、どうせいつもの連中との定例会なのに、何でそんなこと口走ったのかなぁ……」
机に突っ伏す。
「てっきり、私は定員外で蚊帳の外だと思ってたのに……。こないだ誘われた時だって、てっきりお愛想だと思ってたのに……」
とうとう、身悶えが始まった。
「心の準備が出来てないときにいきなり言うからさぁ! 私だって男の子と遊びに行きたかったよぉ! もっと強く誘ってよぉ! そんな硬いこと言わずに一緒に行こうよーくらい言ってよぉ!! うわーん!!」
2
日曜の朝早く。渋谷区神宮前。
コイン式の無人駐車場に、ワックスの利いたルビーレッドの五十四年式旧型ワーゲンが駐車している。
言うまでもなく、この車の所有者は運転席に座った若い女──長い髪を下ろして黒のワンピースを着た昭月綾だ。助手席にはジーンズ姿のみつき、後部座席にはスウェットとショートパンツを着た大地瑤子がいて、めいめいにサンドイッチの朝食を摂っている。
三人は「定例会」と称する集まりを週一回から隔週一回必ず設けて顔を合わせているのだが、これは必要に迫られてのことだ。
彼女らは一見普通の年頃の娘に見えるけれども、先進諸国共同で設置された研究所が巨費を投じて育て上げた極過型超能力者でもある。三年前にその研究所を完膚無きまでに叩き潰して自由を得た故に、本来なら世界中を敵に回していても不思議ではない。日本への居住権や国籍にしても各国政府や情報機関を向こうに回しての司法取引の末に得たものだから、世界情勢の変化によっていつどんな組織が彼女らの敵に回るかわからなかった。
つまり、彼女らが最後に頼れるのは、身内であるこの三人だけ。
互いの結束を強めると同時に、近況について報告し、相談し合う、そういう時間が彼女らには不可欠だった。それが定例会の趣旨である。
が、実際には定例会でそんな深刻な話が繰り広げられたことなど一度もない。映画を観たり、美味しいものを食べに出かけたり、いつもそんなことに時間を費やして終わっている。今日にしても東郷神社の境内で催される蚤の市が目当てで、これはアンティーク好きの綾が「梅雨入り前にみんなで一度行きましょう」と提案したからだった。
だから、金曜日に予備校で起きたことが話題になったりもする。
「ぷっ……くく、くくっ……」
一通り話を聞いた後、運転席の綾が堪えきれず笑い始めた。
当然、みつきは面白くない。
「笑うな、綾」
助手席のみつきが、ペットボトルのお茶の飲み口に唇を押し当てたまま、綾を睨む。
「ああ、ごめんなさい。みつきらしいと言えばみつきらしいけれど、つくづく不器用なんだから……っ、くくっ……」
「うるさい黙れ」
「そうですよ、笑うことないですよ、綾さん」
後部座席の瑤子が、頬張ったサンドイッチを呑み込みつつ、ひどく真面目な顔で。
「そもそもみんな未成年じゃないですか。保護者もなしに夜遊びしてる時点でおかしいし、一緒に勉強しようって言うならまだしも、予備校生が連れ立って居酒屋だ何だって。そのお金だって、どうせご両親のくれたお小遣いで……」
「瑤子」
「あ、はい? 何ですか、ひなたセンパイ」
「私の肩を持ってくれるのは嬉しいけど、ピントがずれまくってる。PTAや先生の小言じゃないんだから」
「そ、そう……ですか? すみません」
瑤子は謝って黙り込むが、尖らせ気味の口元を見る限り、自分の言い分は正しいはずだという信念は曲げていないらしい。
それを見て、綾がまた笑う。
「だーかーらー、綾は笑いすぎだっつの。私にとっては笑い事じゃないんだってば」
呟きつつ、みつきは行儀悪くズルズルと音を立ててお茶を啜りながらペットボトルを持つ手を離し、背を反って首の後ろで両手を組んだ。
「ちょっと、みつき」
急に綾の声音が変わる。咎めるように。
「あによう」
「行儀の悪さは百歩譲るけれど、こんなところで能力を使うのは止めなさい。いくら朝早いからって不用心よ」
「うわ、ごめん、ついうっかり」
みつきは慌てて、アクティブ・キャリバーで宙に固定していたペットボトルを両手で掴んだ。
「いやはや、見知った顔ばっかだと気が緩むね……って、言い訳になってないか」
「ただでさえあなたの力は目立つんだから、もっと気を付けなさい。もっとも、あなた本人はもう少し目立ってもいいのだけれども」
「ええい、うるさい」
「さ、お喋りはここまでにして。そろそろ市に行きましょう。早くしないとめぼしいものがなくなってしまうから」
「なくなるって、まだ八時ちょっと過ぎよ?」
「もう八時過ぎ。蚤の市は夜明けと同時に始まっているのだから。これでも遅いくらい」
「へー。世の中、綾みたいな物好きって結構いるもんなんだね」
「……憶えておくわよ、その言葉」
そして、みつきと綾は車を降りる。
「ひなたセンパイ。サンドイッチの入ってたタッパーは」
瑤子が言うと、みつきは振り返って、
「後部座席の裏にバッグがあるでしょ、そこに入れておいて」
「はい……ってセンパイ、バッグの中に別のタッパー入ってますけど、これ何ですか?」
「お昼ご飯のお弁当。定例会のたびに外食だったら高くついてしょうがないもん。どうせ綾も食べるでしょ?」
すると、綾が眉を顰めて。
「あなた、どれだけ早起きして用意してきたの……?」
「別に、一時間くらいでチャッチャと。あ、お義母さんがちょっと手伝ってくれたけどね、さっきのサンドイッチと昼のおべんと詰めるのだけ」
「主婦顔負けね、あなた……」
「料理って単純に面白いよ? 手間かけたぶん味で跳ね返ってくるからやり甲斐あるし。綾もたまには彼氏に手料理作ってあげなさいよ。今度教えてあげよっか?」
笑顔で言うみつきを、綾は暗い目で見つめる。
「本当に、いつまで経ってもそれが必要な状況に至らないのに、これでもかと言うほど無駄にスキル伸ばしてるのね。哀れだこと……」
「哀れって何よこんにゃろう!」
ちなみに、みつきと綾が言い合っている間、瑤子は昼食の弁当をつまみ食いして「……美味しい」と一人で笑み崩れていたが、これには誰も気付かなかった。
綾の言う通り、日曜の朝早くにも関わらず東郷神社の境内は活気に溢れていた。
都内の骨董店や一般の骨董ファン、不要品を持ち込んだ主婦等々、大小合わせて百以上の売り手がビニールシートを広げて品物を並べている。正に玉石混合と言う他ない様相で、それを眺める客もまた、みつきら若い層から総白髪の老人まで幅が広い。
「薄汚いゴミみたいなものばっかりなのに……。みんな物好きだなあ」
呆れるのを通り越して感心しながら、みつきは一人呟く。
その声は、傍らの綾の耳に入っていたのだが、
「ゴミなんてとんでもない。宝の山よ」
綾の目は、少女のようにきらきらと輝いている。
「薄汚れて見えるのは、みつきに見る目がないだけ。大量生産された商品が並ぶ、表面だけ取り繕った華美なショーウィンドウのイメージに毒されてるのよ。よく見て、向こうの椅子やあっちのランプ。あんな柔らかくて優しい曲線でデザインされたものなんて、今買おうと思ってもどこにも売ってないわよ?」
「……まあ、そう言われると、そうかも」
「買った後に少し磨けばいいだけなのよ、そういう手間を惜しまないこと。いい、蚤の市を楽しむための基本は三つ。決して衝動買いをしないこと、これはいいものだと思った自分の直感を信じること、そして、払ったお金について後悔しないこと」
「そりゃまあ、ESPの得意な綾なら、間違いのない買い物もできるんだろうけど。私らみたいなただの素人じゃ……」
「そういう考え方をしている時点で大きな間違いなのよ。私がいちいち売り物を手にとって透視して品物の素性を確かめるような疲れる真似をすると思う? こういうのは骨董のプロも素人も関係ないのよ。身銭を切って少しずつ勘を磨いて勉強して」
「あ、すごーい、和服とか反物まで売りに出てるんだあ」
「……みつき、聞いてる? 大事なのはね、その品物との一期一会なの。思い入れがあって捨てられなかった大切な品々とその気持ちが、巡り巡ってこうして」
「へー、古着屋さんも出店してるんだ。え、違う、この近くのリサイクルショップ? 古着はあんまり扱ってない? ふーん。あ、この服のお値段は? うわっ、安っ! 買います、買いまくります!!」
結局、綾は力なく溜息を吐くだけだった。
「あら、そう言えば瑤子は」
ふと思い出し、綾は周囲を見渡す。
後ろを振り返ると、
「ひなたセンパイ、楽しそうですね」
と、瑤子の声で喋るクマがそこに居た。
否、幼児の背丈ほどもある巨大なクマのぬいぐるみを肩車している瑤子だった。
「……瑤子、何なの、それ」
「さっき、そこのおばさんのお店で買いました。最初は客引きみたいな感じで呼び止められたんですけど、あたしは奨学生だしそんなにお小遣いないから買えないって言ったら、急にタダ同然まで値引きしてくれて。それで、つい」
瑤子は背も低く童顔なので、もしや小学生だと勘違いでもされたのだろうか。
ちなみに普段の瑤子は、年齢を低めに見られると明らかに機嫌が悪くなるのだが。
「子供の頃から欲しかったんです、こんな大きなぬいぐるみ。四国の両親はこんなの絶対買ってくれなかったし……。綾さん、蚤の市って結構楽しいですね」
瑤子の笑顔に、綾は何も言えなくなった。
「なんかこれ、古着の割にデザインが今風だなあ……ほんとに古着ですか? ブランド物じゃないのかな、生地も全然くたびれてないし。サイズも全部九号? うわ、私にぴったり……。あ、はいはい、そこら全部まとめて買います。綾、綾ってば、あぁーやぁー。悪いけどちょっとお金貸して」
みつきは、この世の幸せを独り占めにしているような笑顔を見せつつ、綾を手招きする。
「ちょっとみつき、あなた一体、何着買うつもりなのよ……」
「十着そこらでガタガタ言いなさんなこんなに安いんだから。わー、このジャケットもすっごく可愛い……」
言いつつ、そのジャケットに袖を通す。
――と。
ジャケットの内ポケットから、何かがはらりと落ちた。
3
「ん? 何これ」
みつきは、ジャケットから落ちたものを拾い上げる。
封筒だった。封はしていなかったので、中の便箋を取り出して広げてみる。
徐々に、みつきの顔色が変わっていく。
「みつき、どうしたの?」
綾の問いに答えず、みつきは古着の売り手に歩み寄る。
「すみません、この古着の前の持ち主って誰かわかりますか?」
この古着の売り手は、近くでリサイクルショップを営んでいるらしい。曰く、みつきが買い込んだ十数点の品々はすべて数日前にまとめて持ち込まれたものらしい。
「一見のお客さんだったから、詳しいことは解らないです。何か問題でも?」
「あ、いえ、そういう訳じゃ……」
言い淀むみつきの背後に、綾が忍び寄る。
そして、ひょい、とみつきの手元から便箋を取り上げた。
「あ、こら! 何すんのよ!」
「あら、手紙じゃない。女の子の字みたいね。前略、突然こんな手紙を差し上げてご迷惑だとは思いますが、どうか不愉快に思わないで下さい。どうしてもあなたにお伝えしたいことが……って、何なの、これ」
綴られているのは切実な想い。そして、震える文字で記された「好きです」の一言。
「ひょっとして……ラブレターですか? あたし、こういうの初めて見ました……」
クマのぬいぐるみと一緒に、瑤子も綾の手元を覗き込んで手紙の全文を目にしていた。口元を手で押さえて気恥ずかしそうにしつつも、便箋から目が離せない。
「こ、こら、返せ! ちょ……このっ! 見せ物じゃないんだからっ!」
みつきは、綾の手から慌てて便箋をひったくって、丁寧にシワを伸ばしてから封筒の中へ収め直した。
「みつきが書いた訳でもないでしょうに、そんな必死にならなくても」
綾は苦笑するが、みつきは顔を真っ赤にして綾を睨み付けて、
「少しはこれ書いた子の気持ちも察してやんなさいよ、この冷血無神経女!」
「よくもそこまで言えたこと。だいいち、内ポケットに入れたまま忘れて売りに出すような手紙なのよ? 気持ちも何も……」
「何かの手違いかもしんないでしょうがちゃんと出すつもりだったのにうっかり古着に紛れ込んだとかさ!」
「ひ、ひなたセンパイ、落ち着いて」
瑤子が周囲を気にしながらみつきをなだめる。大声を張り上げたせいで、周囲の耳目を引いているのは明らかだった。
三人は笑って誤魔化しつつ、人の気配がない場所を探して境内の片隅へと移動する。
「とにかく……」
綾は軽く咳払いして、声を落とす。
「この手紙を書いた子のことを思いやるなら、放っておくのが一番よ。赤の他人の手に渡っただけでも恥ずかしいでしょうし、どうせ出す気も無かったに違いないんだから」
だが、みつきは封筒をじっと見つめて。
「そうは思わない。出す気もない手紙をジャケットの内ポケットに入れたりする?」
「あのねえ、みつき……」
「そんなに言うなら確認してよ」
みつきは、綾の胸元に封筒を押しつける。
「まさか、ESPを使えって言うの?」
「手紙の残留思念でも何でもいいから読みとってよ、ほら、早く」
「全くもう……」
綾は手紙を受け取り、目を閉じる。パッシブ・キャリバーを開いていく。
試みたのはいわゆる物質透視――サイコメトリーなのだが、それはもう、綾の方が気恥ずかしくなるほど純な想いが手紙には焼き付けられていた。
(初恋だったのかしらね、この子)
綾自身、甘酸っぱい記憶を思い出してしまって苦笑する。
「そうね、確かにみつきの言う通り、出すつもりではあったようだけれど。手紙の主は瑤子と同い年くらいかしら。書いたのもごく最近。残留思念が褪せてないし」
「それみたことか。じゃ次。手紙を書いた本人、どこにいるかわかる?」
「そうね、これだけ強い残留思念ならトレースできると思……ってちょっとみつき、手紙の主を特定してどうするつもり?」
「こっそり返してあげればいいでしょ、誰かに見られて恥ずかしいって言うならそれが最良じゃない」
「……本当にお節介なんだから」
綾はこめかみに手を当てて、さらにパッシブ・キャリバーを大きく開いていく。この手紙の残り香と似通った思念波の持ち主を感じ取ろうとする。
だが。
「あら……? おかしいわね」
似通った年頃で、初恋の最中にあると思われるような思念波を発している少女は、渋谷の周辺だけでも無数に感じ取れる。が、手紙に焼き付いた思念波の感触に合致するものは見つけられない。範囲を首都圏や関東全域まで広げてみても結果は同じだった。
「ちょっと、綾。何分かかってんのよ」
みつきがせっついてきて、綾は初めて、時間の感覚が失せてしまうほどパッシブ・キャリバーに没入していた自分に気付いた。
「ごめんなさい、見つけられないの。変ね、こんなはずないのに」
「この役立たず」
「……あなたねえ」
綾はとりあえず、みつきに封筒を返して。
「ひょっとして、残留思念が偏っているせいかしら。恋愛事が絡むと別人みたいになる人、結構いるものね。もう少し何か手がかりがあれば」
「手がかり、手がかりって、あんたってばいつもそれね」
「パッシブ・キャリバーの性質上、仕方ないのよ……」
「じゃあ、はい。次の手がかり」
綾が集中している間に、古着を売っていた店に戻って清算を済ませてきたらしい。みつきは大量の古着が入った紙袋を差し出した。
「ああ、そうね。その古着、手紙の主の持ち物だったのは確実ですものね」
綾は、古着に手をかざす。
「? 変ね、残留思念が希薄すぎて何も感じられない。新品か新古品なのかしら」
「どういうこと? こんなに何着もあってろくに袖も通してないってこと?」
「ええ、そうなるわね。何だか気にはなるけど」
すると、瑤子がみつきの袖を引いて、
「あの、あたしに考えがあるんですけど」
「何?」
「ちょっと待ってて下さい」
瑤子はクマのぬいぐるみを肩車したまま、蚤の市の会場をしばらく走り回り、百円もかけずに鉛筆と一冊のノートを調達した。
そして、みつきが古着を購入した店の売り手に少し時間をもらって、
「あの古着をお店に持って来た人、どんな感じの人でしたか? 輪郭は? 目は? 鼻は? 髪型は? ……こんな感じですか?」
と訊きながらノートに似顔絵を描きつけていくが、これがまた、
「そうそう、こんな人だったよ。すごいな、本当にそっくりだ」
古着店のお墨付きを頂くほど上手かった。
瑤子はこの似顔絵を持って、みつきと綾の元へ戻ってくる。
「やるじゃない、瑤子! 機転の利かせ方といい手先の器用さといい冴えまくってて怖いくらい! さすが才能のバーゲンセール!!」
「ひなたセンパイ、それ、褒めてるように聞こえません……」
「とにかく、この似顔絵の人が持ち主だった訳ね。どれどれ?」
みつきは、瑤子の描いた似顔絵を見る。
が、そこにあったのは、人の善さそうな老翁の顔だった。
「……まさか、このおじいちゃんが……?」
みつきは似顔絵とラブレターを交互に見ながら呆然と呟く。
傍らの綾、苦笑。
「いくら何でもそれはないわ。私の感じ方と格差がありすぎるもの」
「でもなァ、今日の綾は信用ならないしィ」
綾の頬が怒りで痙攣しかけたのを見て、瑤子が慌てて口を開く。
「あたし、蚤の市に来てる人たちに聞き込みしてきます。リサイクルショップの他にも、このおじいさんを見知っている人がいるかもしれないですし。こういう時は労力を惜しまずいきましょう」
「OK、じゃあ私も行くよ。……ていうか瑤子、ずいぶん乗り気じゃない?」
「だって、どんな気持ちでこの手紙を書いたのかなあって思ったら、やっぱり放っておけないじゃないですか」
「偉いっ! 素晴らしい! なんてピュア! どっかのやさぐれ女とは雲泥の差ね!」
そして、みつきと瑤子は仲良く駆け出した。
「ちょ、ちょっと待ちなさい、二人とも」
正直、綾は止めて欲しかった。みつきは大量の古着を、瑤子はクマのぬいぐるみを買った後だから、ラブレターの主を捜し出すことに熱中するのも構わないだろうが、一番この蚤の市を楽しみにしていた綾はまだ何も購入していないのである。
しかし、ほどなくしてみつきと瑤子は似顔絵の老人と十年来の付き合いがあるという古美術商を見つけ出し、住所まで聞き出した。探偵も顔負けの手並みだが、かたや古着で一杯の紙袋を抱え、かたや巨大なぬいぐるみを肩の上に載せた若い娘の二人組である。これでは何を訊ねられても警戒心など抱きようがない。
結局、綾は何も買わないまま。
「よおし、まずはこのおじいさんの身元を確認しに行きましょうか! さあ綾、車を出して! レッツゴー!!」
みつきに付き合わされて、泣く泣く蚤の市の会場を後にした。
4
港区白金台。
首都圏大震災の以前から高級住宅地として有名だったが、復興時に再開発の手が入って以後はさらにその傾向が強くなっている。特に坂の上、高台の方には今も資産家たちの大きな屋敷が立ち並んでいた。
そして、みつきらが突き止めた似顔絵の老人の住居は、高台にある大きな屋敷だった。
「私の家が五つくらい入りそう……」
屋敷の門前に立ったみつきが、気後れした風にぼそぼそと呟く。
「そうですね、こんな立派なお家だとは思いませんでした」
瑤子は言うが、みつきほどには物怖じしていない。
「それで、みつき。どうする気?」
綾が問いかける。
「さ、さあ、どうしたらいいかな」
「どうして私に訊くの。自分で決めなさい」
「……何を怒ってんのよ、綾」
「別に」
などと話していると。
「私の家に、何かご用でも?」
ふいに、背後から声をかけられた。
振り向くと、帽子に背広、杖を手にした老紳士がそこに居た。散歩の帰りといった風情で、その顔は瑤子の似顔絵と瓜二つだった。
「あ、ああああの、えと、その……」
虚を突かれて慌てるみつきの代わりに、瑤子が一歩前に出て、
「あの、あたしたち、おじいさんを捜してここまで来たんです」
「私を?」
「はい、お訊きしたいことがあって。この服に見覚えはありませんか?」
瑤子は蚤の市の会場から今までずっと、みつきが着たままのジャケットを指差す。
「ああ……見誤りでなければ、以前、私が買ったものだよ。先日、他の何着かと一緒に古着として売ったんだ。ああ、そこのお嬢さんのものになったのかね。それは良かった、大事に着てやって下さい」
ここでようやく、みつきが我を取り戻す。
「おじいさんが買った、って……。これ、おじいさんのだったんですか?」
これはもちろん、みつきの心の中では、あのラブレターが老人の書いたものなのかという問いかけと等価である。
「まさか」
老紳士は苦笑して。
「私の娘のものです。あれからもう二ヶ月は経ったのかな。病で他界しました」
三人は、思わず顔を見合わせた。
みつきら三人は、老紳士の家の中へと招き入れられていた。
広い座敷に立派な床の間と掛け軸。大きな座卓に香り高いお茶が差し出され、老紳士とその妻である着物姿の老婦人も同座している。
「私ら夫婦には子供ができなくてね。それを悔やんだことはないが……もう何年前だったかな、親戚筋から紹介されてね。両親を亡くして身寄りのない子がいると」
老紳士が言うと、みつきが、
「養女、ってことですよね? あ、私もなんです。実の親は誰だかわからなくて。三年前まで墓場……じゃなくって、施設で育てられて」
「そう、それは大変だったでしょう」
老婦人の言葉に、みつきは首を振る。
「今のお義父さんもお義母さんも、とってもいい人ですから。幸せにやってます」
この言葉に、老夫婦は目を細める。
「うちの子も、そうだったと思いたいのだけれどね……。幼い頃から身体が弱くて、入退院を繰り返していて。結局、ひどく短い人生で終わってしまいました。親として、何もしてやれないままだった」
「そう、ですか……。じゃあ、この服は」
「ああ、お嬢さん、勘違いしないで。娘の遺品と思っているかもしれないが、死者が生前に着ていた服を何も知らずに買うなんて、あまり気持ちのいい話ではないでしょう」
これを聞いて、綾が頷く。
「人の念は、常日頃身につけている物に強く宿るものです。死の間際まで用いていたとなれば尚更。それを譲り受けたのが死者の親族であれば、その念がお守りとして働くこともしばしばですが、見も知らぬ他人に対しては、最悪、呪詛にも成り得ます」
「お若いのに、信心深いのだね」
老紳士は感心する。
ただ、綾の言葉は信仰の面から出たものではないのだが。
「日向さん……だったかな、あなたが着ているその服は、私が誕生日だの何だのと機会がある度に買ったものです。でも、娘が袖を通したことは一度もないと思う。これでは服も不憫だと思って、手放すことにしたんですよ。娘と同じ年頃の子が着てくれればと」
「そう、なんですか」
みつきは、着ているジャケットをじっと見つめる。
「でも、こんな話を聞くためだけに、私を訪ねてきたのかな?」
「あ……その、えっと」
みつきは迷ったが、自分に注がれる綾と瑤子の目を見て心を決めた。
「……このジャケットの内ポケットに、これが入っていたんです。手紙の内容が内容だったので、なんとか娘さんに気付かれないよう、こっそりお返しするつもりで」
みつきは、老夫婦の前に封筒を差し出した。
老夫婦は封筒を開け、便箋に目を通し――。
「……あの子も、あの子なりに、精一杯生きていたんだな」
目から熱いものが吹きこぼれて、言葉の最後の方は嗚咽で霞んでいた。
「この手紙は、娘が世話になった若い医師に宛てられたものじゃないかな」
その後、老夫婦から聞いた話をまとめると、そういうことであるらしい。
少女の死因は白血病であったという。簡単に言うと血液の癌なのだが、特定臓器の癌と違って病巣の切除はできない。施療としては投薬治療か骨髄移植の二者択一になる。
だが、抗白血病剤は正常な細胞にもダメージを与えるため、脱毛、吐き気、だるさ等々、決して軽くない副作用を招いてしまう。そして骨髄移植は、ドナーが見つからなければ話にならない。
「娘の場合、血縁が亡くなっていたことも災いして、ドナーは見つかりませんでした。投薬による治療を続けていたのだけれど……それはもう、見ている方が辛くなるほどで」
それでも、少女は笑顔を絶やさなかったという。
支えてくれるひとがいたから。
「これでも、私らは親ですから。担当医の青年を見る娘の目が尋常でなかったことには気付いていました。こちらから特に触れたりはしませんでしたが」
老夫婦は、一枚の写真を見せてくれた。
病院の中庭だろうか、青年医師と少女が仲良く並んで写っている。
「……わがるようなぎがじまず」
涙ぐんで鼻をすすりながらみつきが言う。
「もしも寛解して出歩けるようになったら……ということで、何かしら約束でもしていたのかな。一緒に街へ行こうとか。今にして思えば、そうとしか思えない言葉も何度か口にしていました」
そうして、一度も袖を通したことのない洋服が並ぶクローゼットの中、青年医師と出かける日を夢見て、一着のジャケットを選び。思いの丈を綴った手紙をしたためて。
(自分が死んでしまうなんて露ほども考えず、必ず元気になって渡すんだと心に決めていたのかしら。そして、みつきがその服を蚤の市で見つけるまで、ずっとそのまま……)
綾は納得顔で頷いた。
手紙の残留思念を元に少女の存在を感じ取ろうとしても、これなら空振りに終わるはずである。その可能性を視野に入れていれば感じ方も結果も違っていただろうが、まさかこんな手紙を書く年頃の娘がすでにこの世の人ではないとは、綾も考えが及ばなかった。
「……みつき」
「ふぁい?」
みつきは涙で詰まった鼻をかみながら、綾の方に顔を向ける。
「もうお暇しましょう。手紙をお渡しできただけで充分だもの」
「あ……う、うん、そだね……」
「えっ、そんな」
と、みつきほどではないにしろ目をうっすらと潤ませた瑤子が、
「このまま、届かなかった手紙で終わらせちゃうんですか? できれば、その……」
この言葉に、みつきの顔色が変わる。
「あ、あの、ここまで来たのも何かの縁だし、ご迷惑でなければその手紙、私たちでそのお医者さんのところに届けさせて頂けませんか? いえ、私たちはどうせ今日休みだし暇だし時間は余ってるし、はい、是非!」
老夫婦が思わず気圧されるほど真剣な目で、一息にそう言い切った。
「……ほんとにお節介なんだから」
綾は苦笑したが、止めろとは言わなかった。
そして、少女のラブレターは、再びみつきたちの手に戻された。
5
少女の想い人だった青年医師は、二ヶ月前の葬儀にも出席していたらしい。
が、老夫婦と個人的な交誼があった訳ではないから、どこに住んでいるかまではわからないと言う。
「娘が入院していた大学病院に行けば、わかると思うけれども……ああ、日曜だとしても、交代で出勤はしているかもしれない」
「それだっ! いえ、それです!」
三人は老夫婦の邸宅を後にし、綾のワーゲンに飛び乗って大学病院へと走り出した。
――ところが。
「大学病院を辞めた?」
大学病院のロビーで看護師から聞かされた言葉に、みつきは思わず声を上げた。
「はい、つい先週」
「何で? どーして?!」
食いすがるように訊くみつきに看護師は目を白黒させながら、
「先生のご実家は九州の福岡で、ご両親が経営していらっしゃる病院をお継ぎになるとか。失礼ですが、皆さんは先生とどういったご関係の?」
みつきはすかさず、白血病でこの病院に入院していた少女の名前を出したのだが、
「ああ、あの患者さんの」
看護師が納得顔で頷いた。
その表情や声音には、特に不自然なところはなかったのだが。
「……?」
綾は一人、眉を顰める。
「あ、あの、それじゃあ、そのお医者さん、もう都内にいらっしゃらないんですか?」
瑤子が重ねて訊くが、
「いえ、まだ……どうだったかしら。少しお待ち下さい」
看護師は手近のナースステーションに戻って、同僚の看護師と一言二言交わしてから、
「すみません、ちょうど今日が出発の日でした、二時の便で、羽田から」
「に……二時ぃ?! ちょっと、あと一時間もないの?! 綾、瑤子、急ぐよーっ!!」
みつきは慌てて車の方に戻ろうとするが、綾がその腕を捕まえる。
「みつき、ちょっと待って……」
「これが待っていられるかーっ!!」
「頭を冷やしなさいな。直接会って手渡す必要はないのよ。ここでお医者様のご実家の住所を訊いて、一筆添えて郵送すればいいの」
「わかってないなあ! こういう手紙は直に渡さなきゃ意味ないんだってば!」
「みつきの書いた手紙じゃないんだから、別に一緒でしょうに……」
「いいから行くの! 急げ! 急ぎまくれ!」
その勢いに押されるまま、三人は大学病院の駐車場へ戻って。
「本当に行くの?」
綾は再度、念を押す。
「何よ、綾だってあのお屋敷を出てからここに着くまでは結構乗り気だったくせに。だいいち、強いて止めるような理由があるの?」
「ええ、あるにはあるのだけれど……」
綾は言い辛そうに口を開くが、
「ええいうるさい、どうせあんたは今日一日ヒマなんでしょ? 時間あるんでしょ? 今日は一日オフだったんじゃないの? 定例会の時はいっつもそうじゃない!」
「ええ、そうですけれどね、でも」
「なら行け! 行かないっつーなら私一人で空飛んで行くからね!!」
「……仕方ないわね、もう」
綾はしぶしぶ車に乗り、エンジンを始動させた。
そして、三人は羽田空港の構内へ駆け込んだ。
時刻、一時五十分。
「十分もあれば何とか……。どこよ、二時発の福岡行きゲート!」
みつきは電光掲示板の発着案内に目を凝らすが、二時発の福岡行きの飛行機はない。
「ひなたセンパイ! 構内放送!」
瑤子に言われ、耳を澄ませる。羽田発福岡行き一時五十分発の飛行機に関するアナウンスで、搭乗手続きを済ませたはずの乗客が一人遅れており、ゲートまで急ぐように、という内容だった。
「うわ、ギリギリにも程がある……」
「と、とにかく急ぎましょう!」
三人は搭乗ゲートへと走る。
ところが、搭乗者ロビーの前で空港の警備員に呼び止められた。金属探知器や手荷物の透視装置のすぐ側だ。
「お客様、搭乗券を……」
「そんなもんあるわけないでしょ! 飛行機に乗りたいんじゃないの、乗客の一人に用があるだけ!」
「搭乗券がない方は、ここから先へお通しできませんので……」
「なぬー?!」
綾はさすがに呆れて、
「なぬーも何も、常識でしょうに……。ほら、下がって、他のお客さんにご迷惑だから」
溜息を吐きつつ、みつきを搭乗者ロビーの前から引きずっていく。
「あ、ちょ、こら、綾!」
「いいかげんになさい、本当にもう」
「ひなたセンパイ!」
瑤子が急に、何かを決意した顔で、
「あたしが行きます、手紙貸して下さい!」
「へっ? ……あ、そうか!」
みつきは素早く手紙を瑤子に渡して、
「瑤子、任せた!」
「はいっ!」
「ちょ、ちょっと瑤子、待ちなさい!」
綾が止める間もなかった。瑤子は精神を集中し、搭乗者ロビーの出入り口に向かって全速力で走り始めた。これに連動して瑤子のエクストラ・キャリバーが発動。時間が止まる。
結果、警備員にも空港職員にも気付かれず、金属探知器も無反応のまま通り過ぎて、瑤子は搭乗員ロビーの中へ入り込んだ。まさに瞬間移動。
「頼んだよ、瑤子っ!」
みつきがエールを送るコンマ数秒の間にも、瑤子は全力で走り続けていた。これを感知できるものなど有りはしない。瑤子はあっという間に、福岡行きの飛行機の搭乗ゲートへ到着して――。
みつきのところに、戻ってきた。
「ぜ、ぜえ、ぜえ、はあ、はあ」
「あ……あれ? 瑤子?」
みつきの体感時間で言えば、瑤子に手紙を預けてから三秒も経っていない。いきなり姿を消した瑤子がいきなり現れ、額に汗を滲ませ息を弾ませているのである。
「え、えーと、おつかれさま。手紙、渡せた?」
「ま、間に合わなかったんです」
瑤子は喋るのも苦しそうに、
「ゲート、もう、閉じられてて、私が着いた時には、え……えと、あの、蛇腹みたいな、搭乗用の通路が切り離されたところで……」
みつき、絶句。
「はい、これで手詰まり。大学病院に戻って、お医者様の転居先を訊いてきましょう」
綾はむしろ安心したように言う。
が、みつきの目に宿る情熱の炎は消えていない。
「……展望台」
「はい?」
「空港だったら屋上に展望台があんでしょ!」
屋上展望台。
「瑤子、どれ、どのひこーき?!」
「え、えっと……あ、あれです!」
瑤子は、今まさに滑走路へと向かっていくジェット機を指差した。
「よっしゃあ!」
みつきは深呼吸、仁王立ちでそのジェット機を凝視する。
「みつき、あなたまさか」
綾が恐る恐る訊くと、
「ちょっとくらい飛行機の到着時間が遅れたって誰も困んないわよ! それともあの飛行機に一刻を争うような人が乗ってんの?! ほら、早く! 今すぐESP使え!」
「乗ってないけど……」
みつきの剣幕に圧されて、思わず真実を口走る。
「なら問題なし!」
みつきはジェット機に向き直る。
機は滑走路を走り始めており、少しずつ加速していたのだが――。
「行かせるかあっ!」
みつきの周囲の空気が、震えた。
指向性の思念波が解き放たれ念動力が発動、滑走路を走るジェット機がみるみる減速し始めた。
「おんどりゃあああああっ……この……」
みつきが力めば力むほど機の速度は落ちていき、しまいには滑走路の真ん中で停止してしまう。管制塔やジェット機のコックピットは大騒ぎだ。空は快晴、風も穏やか。機体にも異常はなく、ジェットエンジンは全力で回っており、高空において飛行機雲を作る要因となる高温の燃焼ガスが機体の後方へと凄まじい勢いで噴き出しているのだ。が、それでも一ミリたりとも前に進んでいかない。動かない。
「旅客機のジェットごときに……負けるもんですかあああっ……!!」
みつきの身体が微かな燐光を放ち、とうとう地脈が呼応し始めた。震度一か、二か。展望台にいる他の客らが騒ぎ出す中、ついにジェット機が転進。元いた発着場まで無理矢理引き戻してしまう。勝手に動く機体に機長も匙を投げたらしく、ジェット機のエンジンはすでに停止していた。
「……なんてことを」
綾は一人で頭を抱えるが、
「いよっしゃあ! いえーい!」
「すごいです! さすがセンパイ!」
みつきと瑤子は人目もはばからず、ハイタッチを繰り返し、喜びの声を上げていた。
空港は、おおわらわである。
みつきは飛行機を傷つけないよう細心の注意を払っていたし、事実、機体に一切の異常はないのだが、これは時間をかけて徹底的に調査しなければわからないことだ。誤動作を起こした機を再び飛ばせる訳にはいかず、航空会社はやむなく別の便を用意。搭乗ロビーに戻された乗客は数時間ほど足止めを喰らうことになった。
これを喜んでいるのは、みつきと瑤子だけだろう。
「じゃあ瑤子、お願いっ!」
「はいっ!」
呆れ果てて近くのベンチに座り込んだ綾に構いもせず、瑤子は先と同じ方法で警備員や空港職員の目をくぐりぬけ、搭乗者ロビーへと向かった。
待つこと、暫し。
「あ、戻ってきた、戻ってきた」
搭乗者ロビーの出入り口側、通常のロビーとの境にある柵の前で待っていたみつきは、こちらに歩いてくる瑤子に気付いて手を振った。
「……? あれ……」
向き合ってみて気付く。
瑤子の表情が、暗い。
「どうしたの、瑤子。手紙、渡せた?」
「いえ、それが、その……私、どうしたらいいのか、わからなくて」
首を傾げるみつきの前に、一人の青年が歩み寄ってくる。
瑤子が、青年医師本人をここまで連れてきたのだ。
「俺に用があるって? 誰だよ、君は」
空港に足止めされることになって不機嫌なのだろう。初対面のみつきに対して苛立ちを隠そうともしない。
少女の思い人にしてはガラの悪い奴だなと、みつきは内心で思いはしたが、
「えっと、初めまして。あの、実は私」
丁寧に頭を下げ、話を切り出そうとする。
そして気付く。青年医師の傍らへ、寄り添うように立つ女性。
「あの、すみません、そちらの方は」
「家内だけど」
みつきの思考が、停止した。
「最近、式を挙げたんだそうです」
瑤子が補足したものの、果たしてみつきの耳に届いていただろうか。
それを見ていた綾が溜息を一つ、ベンチから腰を上げて歩み寄る。
「みつき、呆けてないで」
それでみつきは我を取り戻したが、
「すみません、人違いでした……。ごめんなさい」
そう言うのが精一杯だった。
「チッ。何だよ、ったく」
腹立たしげに言い捨てて、彼は妻と共に去っていく。
みつきはただ、立ち尽くす。
空回りした想いのやり場を見つけられずに。
6
日も暮れて。
三人は、杉並区の綾のマンションに居た。
つけっぱなしのテレビは、羽田で異常動作したジェット機についてのニュースを流し続けていた。操縦系統のコンピュータが原因と目されているようで、国内全ての同型ジェット機までもが早急に調査される予定らしい。実に迷惑極まりない話である。
また、つい先頃までは綾の自宅電話がうるさいほどに鳴り続けていた。空港の一件にみつきたちが関与していると知った久瀬隆平が接触を求めてきていたのだろう。同様のコールがみつきと瑤子の携帯にも残っているが、今は三人とも応じる気になれず、電話のコードは引き抜かれ、携帯の電源も落としてあった。
それはともかくとして。
「だから、やめておきなさいと言ったのよ」
コーヒーを淹れつつ、綾が言う。
綾が気付いたのは、大学病院で看護師から話を聞いた時だった。
「実家を継ぐため故郷に帰るとして、どうしてこのタイミングなのか、ずっと引っかかっていたの。単なる偶然か、難しい患者の治療が一段落するまで待っていたか……それとも、もっと個人的な理由か。ほら、結婚を機に故郷へ戻るって、よくある話だもの」
「……何で教えてくんなかったのよ」
みつきはソファに身を沈めたまま、綾と目を合わさずに。
「綾の直感、外れる方が珍しいのに。教えてくれたら、あんな……」
これに、綾は溜息をつく。
「ESPで調べた訳でなし、確証はなかったもの。みつきだって、時間がない、急がなきゃって言うばかりで。あの勢いの中、私の話に耳を傾けてくれる余裕があった?」
「…………」
「あと、もうひとつ。これは蛇足だけれど」
亡くなった少女は、生前、青年医師の配偶者――当時は彼女か婚約者だろうが、その存在を知らなかったのではないか。そして、青年医師もわざと伝えなかったのではないか。
医者の方便、とでも言えばいいのだろうか。白血病は簡単に寛解するものではないし、患者を辛い治療に向かわせるためなら甘い言葉の一つや二つは言うものだ。
もしかすると、青年医師は早い段階で患者が助からないと踏んだ上で、わざと恋人役を演じていたのかもしれない。自分の仕事を少しでも楽にするために。
「空港で見た態度で彼の全てを疑う気はないけれど、女の子が自分に寄せてくる恋慕の情を鬱陶しがっていたんじゃないかしら。お世辞にも心の温かい人だと思えなかったもの。厄介な患者を受け持って困っていただけだった、とか」
「……綾さん」
みつきの隣に座っている瑤子が睨み、綾の過ぎた口を戒める。
綾は、ばつが悪そうに肩をすくめて。
「ごめんなさい、これはあくまで私の邪推。冷血女の戯言と思って聞き流して」
みつきは俯いたまま、何も言わない。
たまりかねて、瑤子が口を開く。
「でも、おじいさんとおばあさん、喜んでましたよね」
空港での一件の後、三人は老夫婦の邸宅へ結果の報告に立ち寄ったのだが、ほんの少しだけ嘘を吐いた。手紙はちゃんと手渡したし、その上で青年は「本当にありがとう」と喜んでくれたのだと。
老夫婦はみつきら一人一人の手を取り、頭を下げ、娘も喜んでいると思いますと涙ながらに感謝してくれた。
「それだけで、無駄じゃなかったですよ」
「…………」
「そうですよ、今日の蚤の市だって。きっと、死んだ子が想いを遂げたくて、センパイならきっと力を貸してくれるって、そう思ったから……」
「ごめん」
「……えっ?」
「もういいよ、瑤子。もういいから」
「…………」
瑤子は唇を噛み、俯く。
「……ごめんなさい」
涙声だった。
「へっ……? あ、ちょっと、何で瑤子が謝るの。謝らないでよ。私の方こそ、こんなことに付き合わせてごめんね。ううん、付き合ってくれて本当に有り難う……」
慌ててみつきは笑顔を繕い、瑤子を抱き寄せ、頭を撫でて慰める。
瑤子は何も悪くない。悪いのは、お節介の度が過ぎた自分だ。
「毎度毎度、これじゃ困るけれど」
綾はそう前置きしてから、みつきに言う。
「後悔も反省もしなくていいわ、私もあなたを責める気はないから。もっとも、飛行機を止めたことだけは別ですけれどもね」
「わかってるってば……」
みつきは、落ち着いた瑤子から離れ、ソファから立ち上がる。
ジャケットの懐に手を入れ、行き場をなくしたラブレターを取り出す。
「綾、ベランダ貸して」
「どうするの?」
みつきは黙ったまま、ベランダに出る。
手紙を宙に浮かせつつ、そのすぐ側に強い思念波を送り込む。いわゆるパイロキネシスだ。小さな火種はすぐに全体へ広がっていき、封筒と手紙を灰にする。
そして、おだやかな風が吹き抜けて、灰を空へとさらっていった。
「天国の子に返してあげたの?」
いつの間にか、みつきの傍らには綾がいた。
「そうね。それが一番いいわ」
「ねえ、綾」
「なあに?」
「あの女の子さ、十年ちょっとで死んじゃって、好きになった人もあんなので、気付きもしないで……やっぱ、不幸せだったと思う?」
「さあ。どうかしらね」
○
翌日、重い気分が晴れないまま、みつきは普段通り予備校の講習を受けていた。
こんな時、友人と楽しい話の一つもできれば少しは気も紛れるところだが、みつきはずっと、独りぼっちの気分を味わっていた。
先週末まで割と仲の良かった予備校の友人らの態度が、どこか違っていたからだ。
その理由はすぐに察しがついた。先週末の飲み会を契機に、仲間内で交際を始めた者がいるのだ。それだけのことがこの週末にあったのだろう。そのカップルらを除いたとしても、パーティを期に男同士、女同士の仲間意識がぐっと深まったらしい。
参加しなかったみつきだけが、輪の外にいる。
「また今度、遊びに行こうぜ」
「模試が終わったらねー」
「しゃあねえ、それまで頑張るかぁ」
「ねえねえ、次はどこに行くの? 今から決めとこうよ」
などと友人らは話してはいたが、みつきはもう、こういう話には最初から関わらないことにした。自分は邪魔になるだけだと思ったから。
だが何故か、不思議と前ほどには、羨ましい、混ざりたい、とは感じなかった。
その日の講習が終わる。
帰路についたみつきは、一人きり。
「……うわ、雨降ってきた」
小雨を避けようと走り出し、近くの店の軒先に駆け込んだ。バッグからハンカチを取り出し、頭や袖口についた水滴を払い落とす。
ふと、自分の着ている服を見る。
蚤の市で買ったジャケットだった。
「大事にしてあげようと思ってたのに……。もう水に濡らしちゃったよ、とほほ……」
けれど、その瞬間、みつきの中で何かが腑に落ちた。
「ま、こんなもんか」
微笑んで。
「しょーがないや、濡れて帰ろっか」
襟を正して覚悟を決め、みつきは雨の中へと走り出していった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?