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第1章

1-1:華麗かつ平穏な俺の日常

 言い忘れてたけど、俺の通学風景は同級生の女友達・滝乃コノとセットで成り立ってる。昨日は用があったらしくて学校を休んでたんだけど、俺が十八歳の誕生日を迎えたこの日はちゃんと通学路の途中でいつも通り俺を待っていた。

「おはよ、沖継くん。相変わらず時間ぴったり」
「それはお互い様」

 コノは徒歩通学なので、俺は愛用のMTBモドキ号を降り、押して歩く。
 で、昨日あった出来事を何となく一通り話してみたんだけど。

「ふーん、じゃあ、今年の沖継くん誕生パーティって、すごい大々的にやっちゃうんだ」

 コノが反応したのは誕生パーティの話だけ。お前にとってはそこが一番プライオリティ高いのか、他に注目すべきところはいくらでもあっただろ、と突っ込みたくなったが、そういやこいつ、中学の時から俺の誕生日パーティには必ず出席し続けてるもんな。
 ちなみに俺は、コノに対して一片たりとも恋愛感情を抱いてない。付き合いが古いだけあって話は合うし、結構細かいところにも気が利くから、一緒に居て居心地悪くないのは確かだけどね。あと、女の子と一緒に初詣とか、夏祭りの花火を観に行くとか、いわゆるリア充らしいことを一通り経験できてるのは正直言ってコノのお陰。そういう意味ではめちゃめちゃ感謝してる。大事な女友達。
 ただ、コノに向かってその気持ちを素直に伝えると素っ頓狂なことを必ず言い始めてしまうので、ある程度キツい対応をせざるを得ないんだよな。

「ね、ね、沖継くん。誕生日って言えば、プレゼントなんだけど」
「ん?」
「今年こそ、誕生日にアレやっていい? 裸でリボンつけて私を以下略」
「死ね」

 ちょうどこんな感じ。下手に好意を示そうもんなら、やっぱり沖継くんが最後に選ぶのは私以外に居ないよね、みたいな妄言が連発するのでまともに取り合っていられない。世間的な評価で言やァ充分可愛い部類に入るんだし、俺の近所をチョロチョロしてるヒマがあったら別の男を探せってずっと言ってるんだけどさ。困ったもんだ。

「あれ、何その溜息。ひょっとしてちょっと想像して期待しちゃった?」
「してない。一切合切これっぽっちも全くしてません」

 あ、そうだ。コノについてあと一点補足。
 実は俺の家とコノの家って、数十メートル程しか離れてないんだ。でも、俺は自転車通学でコノは徒歩通学。学校からだいたい二キロメートルを境にして自転車通学の許可が出るんだけど、俺の家は二キロちょうど、コノの家は一・九キロで申請却下された格好だ。
 コイツはホントに何というか、一事が万事、その調子でさ。

「そういやさ、コノ。お前、昨日なんで学校休んでたんだ?」
「私、先月が誕生日だったじゃない? その時、骨髄バンクに登録したんだけど」
「ああ、十八歳になったら試しにやってみるとか言ってたっけか」
「そしたらね、私の遺伝子型と適合する人がいきなり見つかったって。病院に呼び出されて、全身麻酔されて、一日がかりで腰のところからズビズビ骨髄液抜かれて」
「おお、素晴らしい。お前なんかでも世間様のお役に立てる時が来たのか」
「ううん、骨髄液抜いた後で再検査したら全然違うタイプだって。検査ミスか何かだったみたい。病院の人とかにゴメンねゴメンねってすっごい謝られちゃった」
「……ホントにお前ってヤツは」

 そんなことを話している間に、学校へ到着。
 下駄箱を開ける。ラブレターの類がはらはら落ちる。今日はちょっと少なめだ。

「うわあ」

 すぐ後ろで下駄箱を開けたコノが変な声を上げる。向こうでも手紙の雪崩が起きていた。
 ただ残念ながら、ありゃラブレターじゃないんだけどな。
 俺はコノの足下から手紙を二、三通拾い上げ、陽の光に透かして中身を確かめてみる。

「こっちはカミソリ入り、こっちは人毛の呪い人形、んで……血で書いた手紙か」

 毎度の通り惨憺たる有様。要は「沖継くんの側から離れろこの醜いメス豚め!」ってことだ。俺もいろいろ手を尽くしてきたんだけど、女は夜叉にも般若にもなるって言葉の通り、理性じゃどうしようもないらしい。

「せめてこれ、俺に直接向いてくれりゃいいんだけどなぁ……」
「沖継くんには関係ないよ。弱いところにしわ寄せがくるのは仕方ないってば」
「あのさコノ、ずっと言ってるけど、せめて毎朝一緒に登校するのは止めないか? 別に、それで俺らの仲が変わったりしやしないんだしさ」

 ところがコノは、むしろ輝くような満面の笑顔で。

「ううん、いいの。これも沖継くんへの愛の試練だから」

 だからお前、真顔でそういうこと言うから全校じゅうの女子に目ぇつけられるんだってば。とか呆れる間もなくコノのヤツときたら三年生の教室が集まるフロアに入ってからもぶんぶん手を振りながら「また昼休みに!」なんつって大声出して自分のクラスつまり三年七組のほうへ走り去って行きやがる。お前ときたら常時そんなだから四方八方から嫉妬や殺意が入り交じった視線が飛んで来るんだろうが。少しは自重しろ。

 頼む、誰でもいいから。
 可哀想な星の下に生まれた残念女を守ってやってくれ。

「どうした沖継、また滝乃の心配か?」

 三年五組に入って溜息混じりに自分の席へ腰を下ろすと、すぐ前に座っているダチ・瀬尾拓海が振り向いて苦笑してきた。考えていたことを表情から読み取られたらしい。拓海も昨日は家の都合でたまたま休みだったんだが、今日はちゃんと登校してたのか。
 コノほどじゃないけど、拓海との付き合いも結構長い。中学に入って以来だから、もう丸五年になるのか。俺のことは大抵何でも知ってる。

「何で滝乃と付き合わないんだ? お前がずっと側にいて守ってやれよ、それで大抵の問題は解決するだろ?」
「今だって充分すぎるほど側にいて守ってやってるだろ。友達として」
「もう一歩踏み込めよ、躊躇う理由もないだろ。俺は結構お似合いだと思うんだけど」
「んなこと言われても。これっぽっちも惚れてないんだからどうしようも」
「向こうはずーっとラブラブ光線出し続けてるんだから、少しはさ」
「こっちはずーっと断り続けてるんだっつーの、知ってて言うな」
「でもなあ沖継、その理由が例の“脳内彼女”ってのは、ちょっとどうかと思うぞ俺は」
「…………」
「お前も俺も、今日が誕生日だろ? 十八歳だぞ? もうさ、バカみたいなこと言ってても許されるガキじゃないんだ。いい加減に妄想とお別れして現実に生きろって」
「言われなくても……わかってるって」
「いいや、わかってないね。滝乃をほったらかしにしてるのがその証拠だ」
 悟ったようなことを言う拓海に、俺は何も言い返せなかった。



          ○



 自分で言うのもアレだけど、俺は本当に普通じゃない。世間的には「生まれ持った才能が桁違い」とか「キャラメイクでチートした」みたいに認識されてるんだけど、厳密に言うとこれは間違いだ。俺の才能は先天的なものじゃないから。

 俺、妙にリアルな夢を見るんだよ。ほとんど毎晩。

 最初にそれを自覚したのは、三歳か四歳の頃。初めて買ってもらった自転車に乗れなかった時だ。いきなり補助輪ナシのチャリを買ってくるうちの親も相当どうかと思うけど、まあ、普通に何度かコケて痛い思いをしたのな。
 そして、その日の夜に夢を見たんだ。
 夢の中でとっくに大人になってた俺は、自分の足で歩くも同然の気軽さで自転車をスイスイ乗りこなしてんの。で、翌朝目が覚めてもその記憶と感覚が残ってて。結果、三輪車がやっとの友達を尻目にエア・トリックを決めつつ町中を爆走する天才チャリンコ幼稚園児が誕生するって次第。

「何も変じゃないわ。起きてる間にたくわえた経験や知識が、寝てる間に整理されて、ある時突然、自転車に乗れるコツが掴めるの。みんな同じよ」

 母さんはそんな風に説明してくれて、それで納得してた時期もあったんだけどさ。

 たくわえたはずがない知識や経験が夢に出てくることも、しょっちゅうあって。

 たとえば小学校四年生の頃。雨傘を剣や刀に見立てて遊びながら下校した日の夜に、本物の刀を抜き身で引っ提げて街中を走り回る夢を見たんだ。時代設定は江戸か幕末。日本家屋が軒を連ねる夕闇に染まった細い路地を俺は必死に逃げてるんだけど、どこまで行っても四方八方殺気だらけで振り切れない。こりゃ真正面から殺り合うしかないぞと腹を決め、浅黄の羽織を着た四、五人の手練れども相手に切り結び始めたところで目が覚めた。いやもう、今思い出してもチビりそうなほどリアルな悪夢だったよ。
 んで後日、何の因果かたまたま少年剣道会に誘われて。悪夢のせいで剣とか刀とかにあんまりいい印象を持てなくなってたんだけど、試しに一日だけ稽古に参加してみたんだ。

 そこで俺、国士舘大卒で剣道五段の師範を打ち負かしちゃってさ。

 だってその人、夢の中の刺客に比べたら全然弱かったんだもん。三戦して全部一本勝ち。これに師範は自信喪失、その日限り竹刀を置いてしまって、指導者不在になった剣道会はそのまま解散。後で聞いたらこの剣道会、全国大会常連の強豪チームを何組も輩出してたらしくて、悪いことしたなと今もちょっと後悔してる。
 繰り返すけど、俺自身はもともと雨傘を振り回してただけだ。なのに一足一刀の間合いから呼吸を読んで、気と気の攻防、そこから圧倒的にリーチで勝る相手の後の先を取って打ち込むとか、そんな駆け引きまで身につけたんだぜ。いくら何でも謎すぎんだろ。

 中学校に上がったばっかの時もそう。
 小さな農村を蹂躙する盗賊の夢を見たんだ。いろんなものに飢えてすっかり理性を無くした賊に対し、俺は徒手空拳で立ち向かって見事に勝利をおさめ、めでたしめでたしで清々しく翌朝を迎えたんだけど。

 学校に登校してみて、心臓が口から飛び出すかと思うほど驚いた。
 現実の世界に、盗賊どもと同じ目をしたヤツがいやがる。

 それは当時の担任教師。普段は理性で抑え込んでるっぽいけど、時折、どう考えてもまともじゃない濁った目を見せるんだ。その視線の先を追っていくと――当時の俺のクラスにいた一番可愛くておとなしい女子に必ず突き当たるんだよ。
 不安にかられた俺は周囲の同級生にそれとなく相談してみたんだが、考え過ぎ、心配しすぎ、何言ってんの、ってな感じでどいつもこいつも反応が鈍い。中学生の頭ん中なんてまだ半分くらい無邪気なガキのままだし、大人はみんな自分たちの庇護者だって無条件に信じてるところがあるもんな。人間は時として獣以下の存在に堕することもあるんだって、そんなの想像もつかなかったんだろう。
 いっそ信頼できる他の教師に頼るべきか、でもまだ具体的には何もしてない担任を悪し様に言うと俺の方が怒られかねんし、とか悩んでいるうちに事態が動いた。
 担任がその女子に難癖つけて、放課後一人で生活指導室に呼び出つけやがったんだ。
 嫌な予感がしてこっそり後を尾けてみたら、まー案の定、その教師は粗末なモノを剥き出しにして女子を押し倒してる真っ最中ですよ。

 そりゃあもう、蹴った蹴った。
 教師の股間を。二度と使い物にならなくなるまで。

 ちなみに、ここで間一髪難を逃れた女子は何を隠そう、コノだったりする。それまではただの顔見知りに過ぎなかったあいつが俺に対して溢れんばかりの愛情を示し始めたのは、この事件がきっかけだ。

 他にも、理科の授業でカエルの解剖を学んだ夜にはちょんまげの蘭学者が人体解剖を教えてくれたし、パソコンを触れば旧式のタイプライターでブラインドタッチをマスターし、家庭科で初めて包丁を握った時には小刀一本でマグロを解体する方法を身につけてた。もしかして前世の記憶なのかと疑った時期もあったけど、それにしちゃ時代設定が節操なさすぎなんだよ。ファッションとか生活様式が現代とほとんど変わらなくて、携帯電話やノートパソコンを使ってる夢もあったからな。そんな前世聞いたこともない。

 さすがに気味が悪くなって、中三の頃、父さんに相談してみたこともあるんだけど。

「ふうむ。きっと沖継は、夢の中で物凄くリアルなイメージトレーニングをしてるんだろうな。そう考えると辻褄も合う」

 最初は「何のこっちゃ」だったんだけど。

「夢を見ている間は、大抵の場合、それが夢だと気付かないだろう。目の前に起きてる破天荒な事件を現実だと思い込んでる。いわば天然の仮想現実だ。そこでもし、現実と区別がつかないほどリアルなシミュレーションができれば、どうなる?」

 俺は思わず、目を見開いた。

 人間は一日八時間、一日の三分の一は睡眠に費やしてるんだ。もしもその間、脳内シミュレーションを続けたとしたら?
 当時の俺は十五歳、単純計算で五年分は人生経験を上積みできるから、実質的な年齢は二十歳かそれ以上ってことになる。同い年のヤツより知恵が回って、より効率のいい身体の動かし方を知ってて、ちょっとやそっとじゃビビったりしなくても、さほど不思議なことじゃない。
 もちろん、この考え方だけですべての疑問が氷解するわけじゃない。ただ、俺の心情的にはそれで充分だったんだ。自分の夢と才能を「得体が知れない、気味が悪い」と感じなくなっただけで、救われた気分になれたんだ。

「沖継はきっと、小さい頃にたまたま、夢を上手く利用する方法をマスターしたんだろうな。夢いっぱい、才能いっぱい、超ラッキーとでも思っておけばいいさ」

 あの時はホントに、父さんに相談して良かったって、心の底から思ったもんだ。



 ただ、この夢が良い影響ばかり与えてくれるかといえば、そうでもなくてさ。いや俺自身は別に悪い影響とは思ってないけど。
 つまりえーと、簡単に言うと。

 女性経験。

 だって俺は心身ともに健康な男子で、しかも夢の中で現実以上に波瀾万丈なイメトレをやってのける能力があるんだぜ。考えちゃダメだと思っても考えるっつーねん。こんな感じの理想のひとと恋人同士になれたらいいなあとか、あわよくば組んずほぐれつ以下略な関係になれたらいいなあ、とかさ。
 おかげさまで、ええ、思春期を迎えた頃から毎晩のように夢の中へ出てくるようになりましたとも。艶やかな黒髪ロングのストレートを風になびかせ、どんな美人も裸足で逃げ出す綺麗な顔に心からの信頼を宿した極上の微笑みを浮かべて、いつでも真っ直ぐに俺のことだけを見つめてくれるひとが。
 しかも綺麗なのは顔だけじゃない。脱いでも凄い。俺は未だに彼女以上にそそられれる絶妙な女体のカーブを見たことがない。どんなグラビアアイドルも勝負になりゃしない。

 おまけにその超絶美女、俺のためなら何だってしてくれるんだ。
 もう、ンもう、何だって。

 想像してみてくれ。自分史上最高に興奮したこれ以上ないって言うエロいシチュエーション。あるいは、いずれやってみたいけどこの辺はさすがにアブノーマル、恋人に拒絶されるよなっていうギリギリラインの妄想プレイ。
 夢の中の彼女は、そんなハードルを余裕で飛び越えるぜ。
 もうね、エロいなんてもんじゃない。もはや淫魔だ。
 でもでも、そのくせしてベッドの外ではどこまでも淑女なんだよ。十二単を着てしゃなりしゃなりと歩いてみたり、鹿鳴館でイブニングドレスを着て俺と一緒に不慣れなチークを踊ったり。穢れを知らない乙女の微笑み。それがもう可愛くってさ。で、俺と二人きりになった途端に豹変して、もう、ほんとに、その、も、もう――。

 ごめん、思い出しただけでちょっと鼻血出た。

 そんな訳で毎朝毎朝、俺は自分の下着とベッドを確かめて、夢精したかな、してないかな、なんてビクビクしなきゃいけない。コノなんかが全身から好き好きオーラを振りまいてきても、幼稚園児が「あたしおっきくなったらおきつぐおにーちゃんのおよめさんになる!」って言ってる風に感じちゃうんだよ。どうしても。

 しょうがないって。な。しょうがないだろ?



          ○



「はいはい。そうやって現実に背を向けて、脳内彼女と一生仲良くしてろ」

 昼休み、教室の片隅で一緒にメシを食ってた拓海にバッサリ切り捨てられた。
 その隣にはコノもいる。一人でウロウロしてると逆恨みした女子に刺されかねないので側に居させてやってるんだが、こやつめ厚かましくも拓海に同意して頷きやがった。

「沖継くんから夢の話を聞くたびに思うんだけど、それって病気じゃないの? 一度お医者さんに相談してみたら? 心の病は大人になると治しづらいよ? あ、でも今日から十八歳だもんね。医学的にはとっくに大人かな。じゃあ手遅れなのかも……」

 コノが憐れみに満ちた目を俺に向けてくる。お前に同情されるようじゃ俺もおしまいだ、と言い返したかったが、トンカツ弁当を頬張るのが先なので無視しておく。

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「いやいや、待てよ滝乃。沖継を病気だってことにしたら、アニメやマンガのキャラを俺の嫁とか公言して抱き枕とか買ってる連中はみんな病気に……いや、病気なのか?」
「拓海くん言い過ぎ。ああいう人たちの嫁宣言は半分くらい内輪向けの冗談だし、現実に裏切られて二次元でやっと安らぎを得た部分もあるんだから。ある意味では幸せなんだよ。でも、沖継くんはそういうのと違うでしょ、不幸だよ」

 さすがに我慢できなくなって、俺は弁当を貪り食う手を止めた。

「ちょっと待てよコノ。俺は自分が不幸だなんて思ってないぞ」
「本当に? ほんっとーに、自分は幸せだって胸を張って言える?」

 コノが上目遣いに俺を睨みつつ、ぴんと伸ばした人差し指を俺の眼前にジリジリと近づけてくる。俺、思わず上体をちょっと反らして後退り。

「だいたい、沖継くんがゾッコンだっていう女の人の名前、何て言うの?」
「いや、夢は夢だし、細かいディテール突っ込まれても」
「二次元に逃避してるヲタクな人も、自分が好きなキャラクターの名前くらいは知ってるよ? 同じキャラが好きな人と意気投合して盛り上がったりできるよ?」

 俺が言葉に詰まっていると、拓海が鼻で笑い出した。

「一方、沖継の脳内彼女は長い付き合いの俺らでさえ許容範囲外。しかも好意を寄せてくれる大勢の女の子の純愛を踏みにじって妄想に逃げてる。男として最低極まりない」
「うんうん。こればっかりは全面的に拓海くんに同意」
「ほんとにさ、沖継。今日から十八歳なんだし、もう大人なんだぞ。いい加減に脳内彼女と決別して現実に目を向けようぜ。たとえばほら、ここに滝乃とか居るだろ?」

 拓海がそう言った途端、コノが目を輝かせて俺に同意を求めてくる。
 うわあ、死ぬほどウザい。

「だからさ、何で沖継はそういう嫌そうな顔するんだよ。滝乃と何年も一緒に居りゃあさ、普通は情の一つも移るってもんだろ?」
「あいにく俺は普通じゃないんだよ。規格外のスーパー高校生らしいから」
「相ッ変わらず自惚れてやがる……。何なら今から外出ろよ、お前が自分で言うほど特別じゃないって証明してやる」

 不敵に笑った拓海が、俺の目の前で拳を固めて頭を軽く小突いてくる。

「やめとくよ。今のお前にゃ勝てる気がしない」

 苦笑しつつ、俺は拓海の拳をやんわり払い除ける。
 それは俺のように、紳士のハンカチが必要なヤワな代物じゃない。人類最強を目指して徹底的に鍛え抜かれた文字通りの凶器。無数のタコが出来ては潰れ、潰れては出来を繰り返した結果、象の皮膚のようにぶ厚く柔軟になった格闘家の拳だった。

 実は拓海の親御さん、若い頃は総合格闘家としてプロのリングで活躍してたんだとか。ずいぶん昔に現役引退してるんで戦歴とかは知らないけど、後進の指導とかでしょっちゅう家を空けるらしいから、その筋では割と名前が通ってるんだろう。拓海はガキの頃から後継者として英才教育を受けていて、今はデビュー目指して修練の日々を送ってる。昨日学校を休んでた理由も多分これ。親父さんのスケジュールが突発的に空いて休日になると、その日はマンツーマンの特別メニューになってしまうんだとか。
 それでもまァ、中学の頃までは、拓海より俺の方が断然強かったんだけどさ。基本的には才能頼みで毎日コツコツ努力なんてしてきてないんで。本気で道を究めようと努力を続けるプロ予備軍に追い抜かれるのは自明の理。
 実は俺、拓海のそういうところを――努力家で、ひたむきで、一つのことに黙々と取り組み続ける精神力みたいなものを、密かに尊敬している。本人には絶対言わないけどな。たとえ口が裂けても。うん、絶対に言わない。大事なことなんで二回言いました。

「あ、そうそう。拓海くん、今日の放課後、予定は?」
「いつも通りかな。家に帰ってトレーニング。クールダウン合わせて四時間みっちり」
「そうじゃなくて。その後。拓海くんも今日が誕生日でしょ?」
「うちはパーティなんかやらないよ。滝乃も知ってるだろ。親が仕事で海外行ったまま戻ってこないとか、ガキの頃からしょっちゅうだから」
「だからこそだよ、一緒に沖継くんの家に行こうよ。大勢で派手に十八歳の誕生日祝いするんだって。拓海くんならきっと、源のおじさんおばさんも歓迎してくれるよ」
「止めとく。滝乃の邪魔したくないから」
「あらあらー。相変わらず心憎いばかりの気遣いを有り難う。拓海くんにもいつか素敵な彼女が出来るといいね! ……こんないい人なのに何でモテないのかな」
「チート野郎の隣に居るからだよ、沖継が全部美味しいとこ持っていくから」

 何でもかんでも俺のせいにするな、と言い返そうと思ったが、昼休み終了十五分前の予鈴が鳴り始めてしまった。早く弁当食い終わらないと。あと三人前残ってるのに。

「それにしてもよく食うよな、沖継……。一日三千カロリーと強化プロテイン必須の俺よりも食ってんじゃないか? その細い身体のどこに入ってんだか……」
「沖継くんは頭も身体も、普通の人の数倍でフル回転してるから。エネルギーが要るんだよ、きっと。……お茶、足りる? 私の飲みかけでよければ」

 コノが差し出してきたペットボトルを受け取りつつ、俺は目と手で感謝の意思を伝える。口の中は米と野菜と鶏肉で埋まってるので声が出せないから。あ、間接キッスとかそういう胸キュンなシチュエーションはコノとの間じゃ成立しないのであしからず。

「さて、沖継はほっといて、午後の用意でも始めるかな」
「三年生はみんな進路指導だと思うよ。もうじき三者面談も始まるし、結論出さなきゃいけないもんね」
「俺の結論なんかとっくに出てるんだけどな。プロのリング以外ありえない」
「あはは、拓海くんは昔からそれ一本だもんね。あ、デビュー戦とか決まったら真っ先に教えてね、プラチナチケット取って絶対応援に行くから!」
「気が早いよ、滝乃。デビューはまだ先の話。もっともっと鍛えないと」
「えー、今でも充分プロとして通用しそうなのに。お父さん厳しいんだね」
「いや、厳しいって言うか……言い方は悪いけど、プロの試合ってのはある意味、見世物だからさ。それだけで食っていこうと思ったら、興行収入を左右するくらいの知名度か話題性がなきゃ話にならないんだよ。地味にデビューした新人が結果をコツコツ積み重ねるよりも、無名の超新星が鮮烈デビュー連戦連勝、あっという間に世界タイトル射程圏内、ってほうがさ、もう断然目立つだろ?」
「よくわかんないけど……すごいね、色々考えてるんだ」
「で、滝乃の方は?」
「えっ? 私の方こそ訊かれるまでもないというか、別に何の才能もないし、平々凡々とね。基本的には進学するつもりだけど、志望校をどこにするかは……」

 コノが俺の方に視線を送ってくる。俺はその意味をわかっていて無視。

「沖継はどうするつもりなんだ? 先月はまだ結論出してなかったよな」

 まあ待て拓海、やっと全ての弁当を食い終わったところだ。
 コノからもらったペットボトルのお茶を一気飲みし、ぷふぅ、と一息ついて。

「俺の進路なんて、訊かれるまでもないね」

 力強く断言。

「正義の味方だ」

 それを聞いた拓海が頭を抱えるのが全く解せない。コノなんか「ああ、やっぱり」なんて感じで笑ってるんだけど。俺は真面目だぞ、真剣だぞ。

「……あのな、沖継。俺はそういうことを訊いたんじゃなくて」
「何だよ、昔はお前も俺と一緒に目指してただろ。だいたいお前が総合格闘技に進んだのも、変身ベルトやパワードアーマーなしで強くなるにはこれしかないって」
「そんな昔の話はどうだっていいんだよ。もう高三だぞ、十八歳なんだぞ。東映特撮やマーベルのヒーローを本気で目指してる場合じゃないだろうが」
「いいや違う。違うぞ拓海。これはいくら歳を取ろうが絶対に変わらんッ」

 俺は胸を張って、絶対に譲らないぞと態度で示す。

「知恵をつける、技を磨く、カネを稼ぐ、権力を手に入れる。大抵の人間はどれかを目標にして一生を過ごすけどな、俺に言わせりゃそんなもん単なる手段だ。大事なのはそれをどう使うか。そして、最終的に指針となるのはただ一つ、正義以外に有り得ないんだよ。坂本龍馬も吉田茂もナポレオンも言ってることは本質的にみーんな同じ。男ってのはガキみたいな正義感を失った時点で生きてる意味すら見失うんだッ」
「悟ってるんだか、血迷ってるんだか……」
「悟ってるんだ。お前もいずれわかる」
「よし、百歩譲ってその主張は認めようじゃないか。でもな、正義の味方ってのは心情の問題だ。ぶっちゃけニートでも犯罪者でも正義の味方を貫くことはできる」
「おおっ。さすが拓海、心の友よ。核心を突く鋭い意見だ」

 ここまで聞いていたコノが、突然挙手。

「じゃあ、沖継くんは警察官になったらいいってことかな?」

 自分の知る限りで俺の理想を現実的なプランに引き落としたんだろうが、所詮はコノだ。考え方が甘い。俺はぴんと立てた人差し指を左右に振りつつ否定する。

「警察は正義の味方じゃない。体制の味方だ。ハリー・キャラハンがそう教えてくれた」
「……誰? それ」
「知らないのか? それは人生を損してるぞコノ、今度DVDを貸してやろう」

 頭を抱えて溜息をついていた拓海が、机をコツコツ叩いて俺の話を遮る。

「天才とナントカは紙一重、か……。なあ沖継、俺たちが訊いてるのは具体的な話だよ。高校卒業した後、ちゃんと考えてるか?」
「自分の学力で行ける一番いい大学に行く。とりあえず通過点として」

 それを聞いたコノが軽い目眩を覚えつつ天を仰ぐ。俺とコノの偏差値にはかなりの差があるから、気軽に一緒のキャンパスを目指そうって訳にはいかないもんな。ま、頑張れ。

「通過点? ってことは、ひょっとして、その先も決めてるのか?」

 拓海が顔色を変え、身を乗り出してきた。

「ああ、かなり具体的な最終目標がある。三日前に死ぬほど悩んで決めた」
「……聞かせてくれ」

 俺は制服の襟元を正し、もったいぶって咳払いを一つしてから、大真面目な親友の視線を真正面から受け止める。
 フフン、耳をかっぽじってよく聞くがいい!

「幸せな家庭を築こうと思う」
「…………」
「大学では適当に遊びながらバイトとサークル活動に精を出し、モラトリアムのうちに人間関係の機微と大人社会のいろはをしっかり学んで卒業。サラリーマンとして社会を経験し、フツーに結婚してフツーに子供をもうけて、できれば一姫二太郎で、三十台の半ばを迎える前には自営業で独立し、小金を蓄えて貧しいながらも悠々自適の老後へ」

 大まじめに語る俺の顔を見て、拓海の顔が鬼のように引きつり始めた。

「なあ、殴っていいか。沖継」

 意味わからん。何言ってんだこいつ。

「いいか、よく考えろ、真意を見通せ、そして想像するんだ。普通の生活、普通の家庭、普通の幸せ、これを作り出し守り抜くことがどれだけ社会に夢と希望と安定をもたらすか! これぞ王道、これぞ正義! そう、俺は声を大にして言いたい! 普通のご家庭のお父さんこそが最も正義の味方に近しい存ざフギャッ」

 熱弁を締めくくる寸前で拓海に殴られた。全力で。グーで。

「お、おおお、おまっ……!! 咄嗟にスウェーして威力削いだからいいようなものを! 俺じゃなかったら鼻の骨折れてたぞ絶対に!!」
「その溢れんばかりの才能を全部ドブに捨てる気か! もうちょっと真面目に考えろバカ! とりあえず安易に普通の家庭って選択肢だけは論外だ!!」
「しょせんお前も本質を見失いがちな愚民の一人かっ!! 俺は絶対間違ってない! これが正義だ、真実だ! なぜそれが理解できない!!」
「こうなったらお前が目を覚ますまで腐った頭を殴って殴って殴りまくってやる!」
「やれるもんならやってみろ脳筋野郎! ルール無用のデスマッチなら悪知恵が働く俺の方が絶対勝つってところを証明してやる!」
「語るに落ちたな正義の味方崩れ! 性根からガッツリ叩き直してやる!!」

 椅子を蹴って立ち上がった拓海が正拳を真っ直ぐ繰り出してくる。俺はわずかに身体を沈めて紙一重で躱しつつ、死点まで伸びきったヤツの腕を掴んで軸に利用して回し蹴り。普通なら躱しようがない究極のカウンターだ。

 ところが拓海は、鍛え抜いた左手一本で俺の足を受け止めやがった。

 ぎょっとした俺に対処の暇を与えないよう足を引っ張る。当然、俺はバランスを崩す。投げ技へ移行する絶好の隙が生まれた。拓海はすかさず俺を組み伏せてマウントポジションへ――。

 なんてな。そう簡単に持ち込ませてたまるか。

 俺は拓海が足を引っ張る力を逆に利用する。バランスを崩された方向へ自分で思いっきり跳んだ格好だ。傍目には拓海に放り投げられたように見えたかもしれないが、放り投げられたネコよろしく宙をくるくる回りながら最終的に一定の距離を置いて見事に着地。この時点で形勢逆転。まさに俺の狙い通り。愕然としている拓海の側面へすかさず連打、連打、連打――と思ったらこの野郎、何とかかんとか受け流しながらきっちり反撃して来やがる。ええい小癪な。

「お前の手はミエミエなんだよ沖継! 才能頼りで組み立てがなっちゃいない!」

 えっらそうに、俺に向かって上から目線で言い放ってきやがった。

「冷や汗かきながら言っても説得力ないんだよタコスケが!」

 言い返した俺は完全に本気モード。拓海も真剣だ。一切手抜きナシの攻防が続く。
 いや、俺も拓海も周囲に迷惑をかけるつもりはないし、教室の設備を壊すつもりで動いてないから、そういう意味では手加減しているのかもしれないけど、手の内がある程度わかってる同士だからこそ成立するギリギリの攻防には変わりがない。傍から見ればアクション映画の格闘シーンそのもの、あるいはアグレッシブなペアダンスのように映るのかもな。五限の授業が始まる間際だってのに男子も女子も次々に群がってきて、どっちが勝つかの賭けが始まるほどの大盛り上がりで――。

 って何だよお前らふざけんじゃねえ! やってる本人は死ぬか生きるかの打撃を紙一重でかいくぐりながら必死でやってんだぞ?! 見せ物じゃねえんだよどっか行け!!

「ホントに二人とも仲いいよねー。どっちもガンバレー、ふぁいとー」

 コノも呑気に応援してる場合か! 邪魔なんだよ、逃げろよ! お前を巻き込まないように気を使うの結構大変なんだよ!


1-2:寝耳に水ってレベルじゃねえ

 きーんこーんかーんこーん、と何一つ独自性のないチャイムが鳴って放課後を告げる。
 昼休みにド派手な喧嘩をやらかした拓海は、後ろの席にいる俺を一顧だにせず席を立ってとっとと帰っていった。どうせまた親父さんのツテでどっかの道場にでも出かけていって男だらけのむさ苦しい中で鍛錬という名のセルフSMに入れ込んでマゾい汗を流すんだろうが自分の身体をそんなに痛めつけて何が楽しいんだよこの変態。ふんっ。

「……きっと、口惜しかったんだよ。拓海くん」

 一緒に下校していると、コノが突然ぽつりと呟いた。

「沖継くんの態度に腹が立ってるのか、自分のふがいなさに腹が立ってるのか、自分でもよくわかってないんじゃないかな。自分はあんなに努力して一生懸命鍛えてるのに、毎日フラフラしてる沖継くんになかなか勝てなくて……」
「いや、あのままなら拓海が勝ってたろ。五時限目が始まって水入りになんなかったら、俺はスタミナ切れで持ちこたえられなかっただろうし」

 これは本当。俺はそういう分析に関してまでウソをつくつもりはない。

「でも、拓海くんのパンチやキック、沖継くんに一つもまともに当たってなかったよ」
「そうでもないぞ? 服脱いだらあちこちアザになってるだろうし」
「普通はその程度じゃ済まないと思うよ?」
「だから、俺を普通の尺度で考えない方がいいんだってば」

 そんなことを話しながら、俺たちは帰路を辿る。
 途中で滝乃家に寄って、コノが私服に着替えてきた。

「また随分オシャレしてきたな。うっかり可愛いなぁとか思っちゃったよ」
「いいでしょ、ちょっとカントリー風で。惚れ直した?」
「そもそも惚れてません」

 毎度ワンパタの会話を繰り返しつつ源家へ。玄関戸を開ける。

「お帰り沖継。そろそろだと思ったぞ」

 目の前に居たのは、黒いタキシードに身を包んでビシッと決めた父さんだった。

「グッドタイミング、沖継。待ってたのよ」

 奥から出てきた母さんも髪を結い上げ、黒を基調にした上品な正絹の着物を着ていた。

「えっと……ひょっとして私、もう一回着替えてきた方がいいのかな」

 コノが自分の格好を見て不安そうに呟く。ドレスコードを気にしたのかもしれないが、そもそも主賓が俺って時点で正装になるはずないだろうに。

「二人とも、何でそんなカッコしてんだよ。どっか行くのか?」
「そうだ。お前にとびきりのプレゼントがあるんだ」

 父さんが革靴を履いて外に出る。と、門のすぐ外に運転手つきの車が滑り込んできた。わざわざタクシーを呼んでたみたい。あ、いや、違うな、これハイヤーなのか?

「さ、沖継。乗って、乗って」

 白足袋に草履を履いた母さんに背中を押され、俺は半ば無理矢理外へ。学ラン姿のままハイヤーに乗せられてしまう。親戚連中も来るとか言ってたし、中華料理屋の貸し切りでもセッティングしてんのかな。たかが誕生日で奮発しすぎだよ。

「あ、あの、おじさん、おばさん。私は……」

 玄関先にぽつんと残ったコノが心細げに呟くと。

「今日は身内だけだから、ごめんねコノちゃん。また明日に」

 母さんがとんでもないことを言い出した。

「おいおいおい、コノはもう身内みたいなもんだろ。つーか、曲がりなりにも俺の誕生日を祝いに来てくれたんだぞ、ここで追い返すような真似ができるかよ」
「あら、沖継ったらもう、相変わらず女の子には優しいんだから」
「そういう問題じゃない。コノがダメだって言うなら俺は家に残るぞ。親戚と宴会やりたいならそっちで勝手にやってりゃいいだろ」

 言いつつハイヤーを降りようとしたら、先に乗っていた父さんに腕を掴まれた。

「わかった、なら、コノちゃんも一緒でいい。一席くらいどうとでもなるだろう」

 最初からそうしてくれよ。コノが来ることくらい想定の範囲内だろうに。

 そうして車はひた走る。途中で高速道路に乗ったんで都心へ向かってるのかな。目的地はどこなんだと聞いても「着いてからのお楽しみ」という答えしか返ってこない。

 小一時間後。

「さあ、着いたぞ」

 一足先に車を降りた父さんが向かう先には、やたらリッチで優雅な雰囲気の漂う高層ビル。えーと、名前は何だ。ああ、あった。植え込みの中のオーナメントに書いてある。

 ――帝都ホテル?

 おいちょっと待てそれってつまりアレか戦前からずっと営業してて戦後は一時GHQが接収したこともある世界でも指折りのVIP御用達な超高級ホテル?! まさかここのレストランで俺の誕生会をやる気なのかよいくら何でもカネかけすぎだ!!

「やっぱり私、着替えてくるべきだったのかな……」

 気後れしたコノが摩天楼を呆然と見上げながら呟いてたけど、それを言うならTシャツに学ラン姿の俺はどうなる。学生にとってはこれが正装だとかショボいタテマエは口にするだけ虚しいぞ。こんな格好で帝都ホテルにやってくるのはゴチバトルに参加する芸能人くらいだ。しかも番組改編期のスペシャル版限定。

「大丈夫だ。沖継の着替えは会場に用意してある」

 父さんに背中を押されてホテルの玄関をくぐり、エレベーターで最上階に近い場所まで上る。コノと母さんは先に会場へ行くとかで途中で分かれて、俺は父さんと一緒に高そうな赤い絨毯を踏みしめながらフロアの奥へ進んでいく。
 突き当たったのは、控え室、という札がかけてある部屋。父さんはそこに用意してあった衣装を手にし、着せ替え人形よろしく半ば強引に俺の身体へ着せていく。

「羽織袴……? しかも紋付きって……」

 菖蒲の葉の形を模した源家の家紋。たしかこれ全国でもすっげーレアなんだよな。つまりこの羽織袴、レンタルじゃなくてわざわざ今日のために仕立てたってこと?

「いいから、いいから。さ、行くぞ沖継」

 父さんに引っ張られるようにして、再び廊下へ。
 しばらく歩くと、複雑な彫刻が施された超豪華な観音開きの扉に突き当たる。脇にはホテルの従業員が控えていて、俺と父さんが近付くのに合わせて扉を大きく開いていき――。


ぱぱぱぱーん ぱぱぱぱーん
ぱぱぱぱん ぱぱぱぱん ぱぱぱぱん ぱぱぱぱん ぱぱぱぱ
ちゃーらぁー ららぁーたったった ぱーんぱかぱん ぱんぱぱん


「……メンデルスゾーン? 結婚行進曲?」

 入場にシンクロして流れ始めたその曲に、いささか面食らった。
 ていうか、何だよこの大ホール。サッカーの試合が余裕でプレイできそうなほどクソ広い上、夕闇に包まれつつある東京の夜景が一望できるパノラマ&スカイビュー。こんなの貸し切ったら諭吉さんが百人単位で消え失せる請け合いだ。そして参加者の人数。一体何人いるんだよ、ほとんど満員じゃん。うちの親戚こんなに居たっけか? それより何よりこの席の構成は何だ、特に一番奥にある雛壇。金屏風とかでっかいタワー型のケーキとか完全に結婚披露宴のソレなんだけど。

「見ての通り、結婚式だからな」

 父さんが言う。なぜかやたら嬉しそうに。

「結婚式って、誰の?」
「お前」
「…………」

 言葉を無くした俺の真正面、父さんと一緒にフロアへ入ってきた扉とちょうど反対側。似たような様式の観音開きの扉があったんだけど、そこが今まさに大きく開いて。

 花嫁が入ってきた。

 だって綿帽子に白無垢って格好だし、花嫁以外に表現しようがないよ。ナチュラルメイクに紅をさし、微笑みつつもわずかに目を伏せ、付き添い役のうちの母さんに手を引かれながら、しずしずとこちらへ歩み寄ってくる。

「まさかとは思うけど……父さん、さっき言ってたとびきりのプレゼントって……」

 ご明察、と言わんばかりに、父さんがドヤ顔で微笑む。
 頭痛がした。目眩もする。体調悪い。俺、もう帰っていいかな。

「おおおおおお沖継くん何なのコレどういうことなの?!」

 急遽用意されたらしい友人席にひとりぼっちで座っていたコノが、髪を振り乱しながら俺の方へ駆け寄ってこようとして――親戚総出で押さえ込まれた。折り重なった人の群れから般若のような顔だけが飛び出てる様子を見て、ニホンミツバチの集団に取りつかれて熱殺される哀れなスズメバチみたいだなって、ちょっと思った。

「はなせはなせぇはなしてよおおおおぉぉぉおぉ!! 私というものがありながらいったいどこの誰とそんな関係に!! 絶対許せない呪ってやるううぅぅぅううぅうーっ!!」
「俺だってこんなの知らねーよ勝手に呪うなっ!! っていうか俺とコノの関係はもともとそんなディープじゃないだろうがっ!」

 コノのおかげでちょっと我を取り戻す。一瞬見失ってたいつもの俺がカムバック。

「父さん、こりゃどーいうことだっ! 冗談にしたってさすがにやりすぎだろ!!」

 詰め寄ったんだけど、父さんは俺の方をまったく見ていない。

 花嫁がもう、俺のすぐ側まで歩み寄ってきていたんだ。

 手の込んだメイクの影響を差し引いてもすごい美形。そこで今まさに死にかけてるコノだって充分可愛いし俺が知ってる女子の中でも余裕で上位に入るんだけど、この花嫁の前では全く勝負にならない。芸能界でも通用しそうなホンモノの美少女だ。こりゃあ男なら問答無用で見惚れる。それは否定しない。しないんだけども。

「……あのさ、母さん。ひょっとして、この女の子って」

 花嫁の脇に控えた母さんに訊く。

「名前は結女。源結女。あなたの妻よ」
「違う、名前を訊きたかったんじゃない。この花嫁の歳って……」
「十六歳、沖継の二つ下。ほら、女の子は男より二年早く結婚できるから」
「いやいやいやいや見え透いたウソついてんじゃねえよこれで高校生な訳があるか!」

 せいぜい十三、四くらいの中学生だろ! 年相応のコノでさえ俺にとっちゃ守備範囲外だってのに身長百四十センチ台のつるぺた中学生と結婚しろとか何の冗談だ!

 と、取り乱しかけた俺の紋付き袴の袖を、誰かが引っ張った。

「案ずることはない、沖継」

 花嫁だった。綺麗な顔によくお似合いな笛の音を思わせる澄んだ声だけども、案ずることはない、って何だよ。武士言葉か。ギャップ萌えでも狙ってんの?

「確かにお前の言う通り、今の私はおおむね十四歳だと考えて差し支えない。そういう勘の働き具合はさすがだな。しかし何も問題ない。戸籍上では間違いなく十六歳だ」
「えーと。その、結女ちゃん、だっけ?」
「ちゃん、は要らない。呼び捨てでいい。私はお前の妻なんだぞ」
「いや、その件はさておいて。戸籍が……何だって?」
「戸籍を改竄した。私は法的に十六歳だ。何も問題ないぞ。さあ結婚しよう」
「ありすぎるだろ問題。むしろ問題しかないわ」
「どこが? 家事全般は完璧にこなすし、身体も充分、閨を共にできる」
「ね……や?」

 聞き慣れない言葉を反芻すると、結女ちゃんは顔を逸らして頬を赤らめる。

「寝床。転じて、夫婦の情を交わすこと。愛の行為。女に言わせるな、恥ずかしい」

 かっちり三秒、時間が跳んだ。

「おいおいおいおい! ダメだろそんな実際に出来るかどうかはともかく教育委員会と青少年保護条例が許しちゃくれませんよ?!」
「不純異性交遊などという意味不明な概念を愛する夫婦の床の間に持ちこむな。そもそも婚姻は国が定めた民法に依るもの。地方自治体が定めた条例よりも優越する」
「法律をかいくぐればOKとか考えちゃダメ! 道徳的に完全アウトだから!」
「古来より日本には元服という風習があったろう。世界的にもほとんどの文化圏で十四、五歳は大人とみなされていた。これは心身の発育を考えても理にかなっているし、事実、医学的にも十三歳以上の異性に欲情するのは健全だと判断される。むしろティーンエイジを未成年として子供と同列に扱っている昨今の世情こそ異常なんだ。すなわち、道徳的な側面から考慮しても、私とお前が同意の下で睦み合うのは極めて自然なことで何の問題もない」

 あ、あれれ、どうした訳だか反論できる余地がない。

「いや待て屁理屈こねるなごまかすな! もっと常識的に考えてだな!」
「世間一般のスケールを完全に無視したお前が常識なんてつまらないものに囚われるというのか。馬鹿馬鹿しい。男ならもっとどーんと大きく破天荒に生きろ」

 よもや中学生に人生を説かれる日が来ようとは。
 万策尽きた俺、困り果てて明後日の方向を向き、ただ苦笑。いやもうこんなの笑ってごまかす以外にどうしろと。

 ――と。

 側にいた花嫁が背伸びして手を伸ばし、俺の顔をぺたぺたと触ってきた。

「おい、こら結女ちゃん。やめろって、止せよ、おい」
「……本当に、沖継だ」
「はい?」
「困った時の表情。声。目線。唇。何もかも、沖継だ」
「そのラインナップに俺以外の何かが入ってたら怖すぎるだろ……」

 結女ちゃんは、俺の目をじっと見て。
 嬉しそうに、本当に嬉しそうに。満面の笑顔を見せて。
 で、その嬉しさが、ある一点を超えたところで。

 吸い込まれそうなほど綺麗な黒い瞳から、突然、大粒の涙が溢れ始めた。

「へ……? あ、ちょ……」
「……逢いたかった。沖継っ……」

 ふわり、と。
 結女ちゃんが、俺の胸へ飛び込んで。
 抱きついて、きた。
 俺にしがみついたまま、押し殺しても隠しきれない、静かな嗚咽が漏れ続ける。

「あ……その、え……?」

 演技? いや違う。紋付き袴の前身頃を握り締め、白くなった彼女の手。その震え。ぽつ、ぽつと流れ落ちていく涙の雫に込められた感情は、とてつもなく深くて強い。望まずして何人もの女の子を泣かせてきた俺だけど、こんなに心揺さぶられる涙は一度も見たことがなかった。つい抱きしめて慰めたくなる。いや、何とか堪えたけどさ。

 この結女って子、何なんだ?
 俺とは初対面、のはず、だよな?

「わ、っ、私の沖継くんから離れなさいっ、こらー!!」

 殺されかけのスズメバチ、もといコノが必死で吠える。俺はお前の所有物になった憶えは微塵もないぞ。ちょっと黙ってろ面倒だから。

「ちょ、ちょっと父さん、事情……説明、俺、もう、何がなんだか……」

 助けを求めると、父さんはニコッと優しく微笑んで。

「その嘘も、もう止そう」
「? 何が?」
「実はな、沖継。私は、お前の本当の父親じゃないんだ」
「…………」

 え、ちょ、マジで?

「はっはっは、薄々気付いてたんじゃないのか? ぶっちゃけ私の顔は全くイケてないし脚も短いし母さん以外の女にはモテたこともない。最終学歴も地方の二流公立大を中退だ。どれだけ突然変異を引き起こしてもいきなりお前みたいな息子が生まれるはずなかろう」

 こらこらこらこらこらこらこらこらこら! サラッととんでもねえことをカミングアウトすんな! ていうか冗談でしょ? 冗談だよね?!

「うふふ。ついでに言うとね、母さんとも血は繋がってないのよ」

 ギャー!! やめてよ母さんまでそんなこと言い出さないでええええええ!!

「でも、私がお腹を痛めてあなたを産んだのは確かなの。言わば産みの親……あら? ちょっと待って、産みの親って血が繋がってるって意味よね? あらららら?」
「母さん、細かいことは気にするな。もう面倒だから、赤の他人だと言ってしまえばいいぞ」
「そうね、そっちの方が簡単だし、便利かも」

 簡単と便利を安直に追い求めた現代社会がどれだけ大切なものを失ってきたと思ってるんだ! 現に俺のアイデンティティは音を立てて崩壊してる真っ最中だよ!!

「すぐに信じられないのもムリはない。しかし事実は事実だ。ほら、証拠もあるぞ」

 いきなり父さんが懐から書類を取り出して広げる。
 なんだこりゃ。戸籍謄本のコピーか。世帯主は源沖継になってて、その妻の欄には結女――え? ちょっと、あの、はい?

「あ、間違えた。見せたかったのはこっち。父さんと母さんの本当の戸籍」

 今度は世帯主・河守義則、妻・富美子って書いてあるんだけどそんなのどうでもいいよいや本当はよくないけどそれよりさっきの俺の戸籍もっかい見せろやごるぁ!!

「とにかく、私たちがあなたの親を演じてきた日々も、今日でおしまい」
「お前と過ごした十八年、本当に楽しかったぞ、沖継。末永く幸せにな」

 父さんと母さん――いや、もはや義理の親とか育ての親とか言うべきなのか――は、肩を寄せ合って満足げに微笑む。こっちにはもう、その祝福を受け止める余裕なんぞ一平方ミリもありゃしない。あうあうあうあう、という呻き声しか出てこねえ。

 そんな俺の頬を、いつの間にやら泣き止んでいた結女ちゃんが両手で包み込む。

「沖継。……幸せになろうな」

 結女ちゃんが、俺の首へ両腕を回して。
 ギュッ。と、抱きついてきて。

 ――チュッ、て。

 えっと、これ、一応、俺の、ファースト、キス。なん、だけど。
 あ、は、あははは。俺、家族をなくしちゃったけど、新しい家族ができちゃったんだね。プラマイゼロだ。わぁい。あは、あはは、ははは、はははははははははははははははっ。

「良かった、本当に良かった、良かった……」
「今この場で死んでも悔いはない……」

 抱き合ったままの俺と結女ちゃんの側で、父さんと母さんも抱き合ってだばだばと歓喜の涙を流す。会場に列席してる親戚連中まで一人残らず泣いてやがる。祝福ムード一色に染まりきった会場の空気は、やがて、誰からともなく始まった優しい拍手によって華やかに彩られ、万歳三唱の叫びをきっかけにして怒濤のような歓喜のうねりへ変わっていった。
 万歳、万歳、万歳、万歳、万歳、万歳、万歳、万歳。ご結婚おめでとう。沖継、結女、末永くお幸せに。万歳、万歳、万歳、万歳、万歳、万歳、万歳、万歳。

 そんな、幾重にも重なる祝福の声が。
 結女ちゃんに抱きつかれたままの俺の元へ。
 次々に、のしかかってくる。

 押し潰される。



「――――――ってお前らいいかげんにしろおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!! 意味わかんねえんだよおっふッざけんなああああああああああああああああぁ――――――――ッ!!」



 堪えきれずに感情を爆発させてしまった。親戚一同の万歳コールを押し返すのに充分な桁外れの声量に、会場がいっぺんで静まり返る。呆然とした全員の目が俺一人に注がれる。
 俺の胸にしがみついていた結女ちゃんも驚いて目を丸くしていたが、ここまで来たら彼女のことは後回しだ。胸に収まりきらない怒りの炎を言葉に変え、俺は両親を始めとした親戚一同を焼き尽くすべく大きく口を開けたまさにその瞬間に。

大   爆   発


1-3:結婚は爆発だ

 これは俺の感情がどうのこうのっていう比喩じゃないぞ。本当に爆発したんだ。結婚式場の天井が。ちゅどーんずごーんぼかーん、って。

「な……何だ何だ、どうなってんだ……っ」

 ゴゴゴゴゴ、という爆発の残響に骨の髄まで揺さぶられてめっちゃ気持ち悪いけど、とりあえず俺は無傷。爆発と同時に腕の中にいた小さな花嫁を抱きかかえて全力で床を蹴り、手近のテーブルの下へ転がり込んで身を伏せたから。何で咄嗟に反応できたのか自分でもよくわからん。ほとんど無意識の行動だったんで。
 照明は全滅したようだけど、窓側から街の灯が届くので完全な真っ暗闇じゃない。俺にとっちゃ充分明るい部類だ。とにかく顔だけ持ち上げて、周囲をざっと確認する。

「……うわ……」

 大惨事。
 砕けたコンクリや石膏ボードが物凄い勢いで頭上から落ちてきたんだから、当たり前っちゃ当たり前なんだけど、あっちこっち怪我人だらけ。頭から流血して倒れてる人も大勢いる。気の弱い人はこれ見ただけで取り乱すな――と思った矢先から、会場にいた女性を中心に絶叫、悲鳴、号泣が上がり始めた。出入口や非常口も何故か開かなくなってるみたいで、本能的にこの場を逃げようとした連中が行き場を失って恐慌状態に陥りつつある。

 こりゃ、ヤバい。

 阿鼻叫喚の地獄絵図になりつつある周囲もそうだけど、何より俺自身の精神状態が。
 状況の激変に、気持ちが全然ついていけてない。
 テレビの画面越しに大惨事のニュースでも見てる気分。

 当事者意識、ゼロ。

 本能的に、現実逃避したがってる、の、かな。

 だって、しょうがないだろ、こんないきなり、何の前触れもなしに、なんてさ、有り得ない。これはきっと夢だ。この場で眠って、目覚めたら、俺は父さん母さんとちゃんと血が繋がってて、幼な妻とかいなくて、コノから誕生日プレゼントもらって、呑気にテレビでも見ながらケーキ食ってる普通の誕生日になるんだよ、きっとそうだよ。

 ――と。

「う……む、んっ……」

 俺の胸の中にいた華奢な身体が、小さく身じろぎ。
 十四歳の少女の体温や身体の重みが、五感を現実へと引き戻す。
 ええい、しっかりしろ俺。そもそも事故や災害なんて前触れナシにいきなり襲って来るもんだろうが。日常の感覚は一旦脇にどけて忘れとけ。今こそ俺の本当の人間力が、根性と底力が試されてるんだと思え。気合いを入れろ、腹を据えろ。

「結女、大丈夫か? 怪我してないか?」

 正気を取り戻すきっかけをくれた彼女に、まずは声をかける。
 結女はバッと顔を上げて、満面の笑顔を見せて。

「呼び捨てにしてくれた」

 いやお前、そんなことで喜んでる場合じゃないってば。現実と向き合え現実と。

「お……おおい、沖継、沖継! どこだ?!」
「沖継、お願い、無事なら返事して!」

 父さんと母さんの声が間近で聞こえてきた。気が動転してるのか金切り声に近かったけど、ひとまず無事らしい。俺が大声で「ここだよ、こっち! テーブルの下!」と応えると、二人とも血相を変えてすっ飛んでくる。
 血が繋がってなくても、やっぱあの二人は俺の親だ。俺のことでこんなに必死になってくれるなんて。本当にありがとう。でも戸籍を勝手にいじくったことだけは絶対許さん。

「……って、父さん、母さん。何だよその顔」

 俺の声を聞いて駆けつけてくるまでは「良かった無事だったか!」っていう喜びが全身から溢れ出してたんだけど、テーブルの側まで来てかがみ込んだ途端、驚いたような呆然としたような変な顔に変わってしまった。もちょっと正確には、俺が腕の中に抱きかかえたままの結女を見て顔色が変わったらしいんだけど――あ。

「い、いやこれは、さっき咄嗟に、何ていうか無意識に」

 慌てて結女から距離を取った俺の肩に、父さんはぽんと手を置く。

「何も言うな、わかってる」

 何がだよ。

「やっぱり、夫婦なのね」

 母さんなんて涙ぐんでるし。あんたらが脳内でどんなストーリーを捏造してるのか知らんけど勝手に感動するな。一から十を超えて百と千まで何もかも誤解だよ。

「……や、やっと、た、辿り着いた……」

 耳元でいきなり声がして、びっくりしてそっちの方を振り向く。ゾンビだ。鬼だ。夜叉だ。いや違う、ボロボロになりつつも混乱に乗じて蜂球から逃げおおせたスズメバチ、もとい、コノだった。

「さあ沖継くんちゃんと説明してよこれ一体どういうことこの女の子は一体なに!」

 何だよもうこの面倒臭いときに、しがみつくなウザいから。つーか何で俺の周囲はどいつもこいつも大惨事そっちのけで平常運転なんだよ少しは普通に慌てふためけ。

「それにしても、何で天井がフッ飛んだんだ? ボイラーの爆発とか……」
「いいや、違う。状況はもっと危険だ」

 結女が渋面を作って俺の袖口を掴んでくる。うん、確かに危険。君に引き寄せられた俺の二の腕が胸元に当たってます。っていうかコノは中学生相手に殺意の籠もった目を向けるなっつーの。

「よく耳を澄ませてみろ。このままでは一人残らず全滅だ」

 実に縁起でもないことを言うんで、一瞬、心臓が凍り付いた。
 でも、耳を澄ませろったって、聞こえてくるのはパニックに陥りかけた親戚連中の阿鼻叫喚だけだぞ。ギャーとかウワーとか助けてぇーとか殺されるぅーとか。

「……殺される?」

 何か変だな、と感じた俺は、一人でテーブルの下から這い出した。結女はすぐ手を放してくれたんだが、コノは国定忠治よろしく足下にからみつく。ああもうウザい。
 悲鳴に混じって、何か変な音が聞こえる。プキュ、プキュプキュ、プキュキュ。空気が勢いよく抜けるような、風切り音のような、でも金属音っぽいような。
 その音の出所を、注意深く探してみると。

 そいつと、目が合った。

 直線距離でざっと二、三十メートル。鉄骨が剥き出しになった天井の片隅へ張り付くようにして結婚式場にいる俺たちを見下ろしている。服は上から下まで黒一色、足元はゴツいブーツ、頭はヘルメット、顔は目出し帽にゴーグルで肌の露出はほぼゼロ。
 要するに、警察や軍隊の特殊部隊が着るような戦闘服――BDUだ。
 いやま、確かに俺は戦争映画とか嫌いじゃないし、特に近代戦闘に使用される兵器や武器については一時期かなり勉強したけどさ。それはミリタリー方面の知識は正義の味方にとって必修だと判断したからであって、こんな時にこんな場所でサプレッサーつきアサルトカービンを持った兵士の幻を見るほど重篤のミリオタになった憶えは全くないぞ。

 てことは、あの黒ずくめは実在してる本物の兵士なのか?

 さっき聞こえたプキュプキュって変な音は、つまり銃声? この混乱に乗じて無抵抗の一般人を撃ちまくってた? もしかしてひょっとして、天井が爆破したことそれ自体もコイツの仕業とか? 無差別殺人どんと来いの極悪テロリストの類ってこと? 

 なんてことを、黒ずくめと目が合ってからコンマ三秒の間に考えた直後。
 そいつは銃のトリガーに指をかけたまま、硝煙の立ち上る銃口を俺の方へ向けて――っておいおいおいおいおいおいおいおいおいちょっと待てふざけんなバカ野郎!!

 プキュプキュプキュプキュッ、プキュプキュッ。

 たった一発でも当たり所が悪けりゃ即死、悪くなくても一生モノの怪我や障害を負わされかねない威力を秘めた5・56ミリの鉛弾が殺到するその直前、俺は咄嗟に足下にいたコノの顔を蹴ってテーブルの陰に押し込み、その反動で両親に飛びつき強引に伏せさせた。寸前まで俺たちがいた場所で銃弾が弾け、瓦礫や絨毯にいくつもの穴が空いたけど、紙一重で何とか回避。身体中に嫌な汗がどっと噴き出す。

「びえええ! 沖継くんに蹴られたああああ!!」

 コノが勢いよく泣いてるけど泣けるだけマシだと思え。俺は慌てて飛び起き、黒ずくめの方に向き直る。幸いなことに今たまたまマガジンが空になったようで、予備のものをポーチから取り出して付け替えている最中だった。身を隠すなら今のうち。

 でも、どこに隠れる?
 だだっ広い結婚式場、障害物らしいものは木製のテーブルと椅子くらい。ライフル弾の貫通を止めるほどの強度があるとはとても思えん。

 ヤバい。こりゃヤバい。マジでヤバい。
 どうする、どうするよ俺、どうすりゃいい?

「かっ、母さん、しっかりしろ!」

 俺に突き飛ばされて倒れた姿勢の父さんが、血相を変えて母さんの身体を揺さぶってる。
 母さんの着物の肩口が裂けて、血が滲んでいた。
 掠めたんだ。避けきれなかったんだ。

 クソッタレ、あの黒ずくめ。俺の親に何てことしやがる。

「沖継!」

 怒りで目の前が一瞬赤く染まった瞬間、結女がテーブルの下から飛び出した。俺に向かって何かを放り投げてきて、反射的に手で受け止める。

 瓦礫。
 ちょうど拳大のコンクリート片。

 何でこんなものを投げ渡してきたんだ、とか、そういう類の疑問は微塵も浮かんでこなかった。もう完ッ全に頭に血が上ってたから。
 俺は瓦礫を持ったまま、着物の袖の中で右腕を即座に縮め、前身頃からバッと出して片肌を脱ぐ。そうして肩から腕を自由にすると、足を踏ん張り、身体中のバネを使って、今の俺が持てる全ての力を右手に握った瓦礫ただ一つに集約させていく。
 食らいやがれ、プロのスカウトが本気で欲しがる大リーグ級の剛速球!!

 ――ぐしゃっ。

 一切の手抜きも手加減もナシ、時速百マイルに迫る速度の瓦礫が黒ずくめの顔面に直撃。ゴーグルごと鼻っ柱を粉砕して意識を断ち切ったらしい。大きな身体がぐらりと揺れ、弾倉の交換を終えたばかりの銃を抱えたまま、頭から真っ直ぐ床に落ちていった。
 この落差だと、下手すりゃ首を折って死んだかな。でも正当防衛だろ。罪悪感なんか絶対感じてやらない。丸腰の高校生に殺られた汚名を背負って地獄に落ちろやクソ野郎。

「ほえ……」

 ずっと泣いてたコノは、何が何だかわかってない顔だけれど。

「おみごと」

 結女は笑顔で、拍手しながら褒めてくれた。俺、思わずサムズアップ。
 って、そんなことより母さんだ。怪我の具合は?

「…………」
「…………」

 父さんと母さんが、またさっきみたいな顔して俺を見つめている。驚いたような呆然としたような、何とも言えない変な顔。
 あ。息子が他人様に思いっきり石投げてぶつけた現場を見たんだから愕然とするのも当然かも。いくら頭に来てもあんなことしちゃダメよね。短慮な息子でごめんなさい。

「……よくやった、沖継」

 勘違いだった。父さんが褒めてくれた。
 いやでも褒めるのはちょっとどうかと。

 ふと、さっきまでパニックに陥りかけてた親戚連中が妙に静かなことに気付く。辺りを見渡すと、親戚一同も変な顔して俺の方をじっと見つめていた。

「お……お、おおお、おおおお……」
「沖継様だ! 沖継様だぞ! 沖継様が石ころ一つで……!!」
「ばんざーい!! 沖継様ばんざーい! 日本ばんざーい! ばんざーい!!」

 心一つにした大歓声が上がる。えと、十八歳の高校生に様付けはないと思うよ。ていうかみんな褒めすぎ。それに日本万歳は全っ然関係ないよね?

「まだ終わってないぞ、沖継。気を抜くな」

 万歳三唱の中でおろおろしていた俺の背中を、小さな花嫁が真剣な顔でポンと叩く。

「終わってないって……何が」

 パニックは収まったし、テロリストまがいのアホもやっつけたんだ。ホテルの人もこの騒動に気付いてるだろ。出入口を開けてくれるまで待ってりゃいいじゃん。

 でも、そう言う前に、結女は俺の側を離れてすたすたと歩み去っていく。
 行く先には、俺がやっつけた黒ずくめ。
 なんとそいつ、まだ息があったらしい。苦しそうに唸りながらも起き上が――る前に、結女が思いきり股間を踏んづけてトドメを刺した。いやん痛そう。見てたこっちの股間がゾクッと来た。なんまんだぶなんまんだぶ。
 んで結女は、泡吹いてひっくり返った黒ずくめの側で屈み込み、持ってたカービンを奪って肩に提げ、予備のマガジン、手榴弾、拳銃などの武器を片っ端から白無垢の帯へ差し込んでいく。しかもその手付きがやたらプロっぽいんだよ。弾倉を外してチャンバー内のチェック、セフティやボルトの動作確認をチャチャチャと済ませてんの。
 普通の女の子じゃなさそうだってことはとっくに察しがついてたけど、なおのこと結女の素性が謎になってきた。まさかサイバーダインとかアンブレラとか物騒な名前の企業と因縁があったりするんじゃあるまいな?

「おっ、沖継くん。あれ、危ないよ、止めさせて。女の子があんなの持っちゃダメ」

 同じ光景をたまたま見ていたコノが怯えながら訴えてきたんだが、もう結女は全ての武器類を装備し終えていた。セーラー服と機関銃ならぬ白無垢に自動小銃。花嫁とミリタリーの斬新なコラボレーション。結女が美形だからか存外似合って見えるんだけど、こんなちっこい身体にゴテゴテつけて重くないのかね。

「よし、これでいい。準備は出来たぞ」

 戻って来た結女が、俺に微笑みかけてくる。
 準備って、何の?

「祝いの席に水を差されたのは残念だが、これが私たち夫婦の宿命なのだろう。今はただ、淡々と、粛々と、為すべきことを為すのみだ」
「……何言ってんだ、お前」

 俺の答えに、結女が絶句。目を丸くする。

「まさかとは思うが、気付いていないのか? それとも平和ボケか?」
「いや、だから。何の話だよ」
「お前がさっき倒した黒ずくめ、何だと思っている」
「え? 悪いヤツ?」
「勘違いも甚だしい。あれはな、敵だ」
「……悪いヤツと何が違うんだよ」
「明確に違う。敵とはつまり個人ではなく勢力。そして、敵の振るう暴力は目的ではなく手段だ。ここまで言えば察しがつくな? つかなかったらこの場で離婚モノだぞ」

 離婚も何も、俺は君と結婚したつもりはさらさらなくてですね。

「指示や判断は全面的に任せる。私は夫唱婦随、どこまでもお前についていくぞ」
「あの、だからさ、何度も言ってるけど、俺にはさっぱり意味わかんないんだって」

 結女、またしても絶句。ほんと不思議なところで驚くヤツだな。

「ああもう、すっかり平和ボケを……。いいか沖継、つまりだな」

 結女の説明は、それ以上続かなかった。
 その理由は、俺にもわかった。
 街の不良どもと殴り合う中で、あるいは命懸けで戦う夢の中で、自然と身についていった第六感。理屈抜きの勘ばたらき。それが背後からの殺気を訴えてくる。
 でも、俺が振り向くより早く、結女は腰溜めに構えた銃のトリガーを引いていた。

「あだだ! あだっ、熱っ!!」

 排出されたアツアツの薬莢が片肌脱いだままの俺の胸元にぶち当たるが、少々の痛みや火傷に構っている暇はなかった。殺気の数が一つや二つじゃないんだ。慌てて手近の瓦礫の山へ身を伏せ安全を確保し、それからやっと状況確認。

「……黒ずくめの仲間?!」

 出入口のひとつがいつの間にか開いていて、そこに二、三人――いや、四、五人? さっきやっつけた黒ずくめと同じ格好をした連中が張り付いて銃を構えている。
 でも、連中は何もできない。結女の牽制射撃が上手いんだ。黒ずくめどもに全く攻撃の機会を与えず、さりとて無駄な弾を撃たず、あわよくば一瞬で全滅させるぞというプレッシャーを与え続けている。これは凄い。今すぐ軍隊に入っても通用するぞコイツ。

「みんなも隠れて! 早く伏せて!」

 周囲にいた親戚連中のほとんどがぼけーっと突っ立ってたので絶叫したんだけど、反応できたのはうちの父さんと母さんだけ。コノに至ってはライフルをブッ放してる結女の姿に気圧されたらしく、腰を抜かして座り込んで涙目になってやがる。
 ああもう、つくづく世話が焼ける!

「待て沖継! 人助けは後だ! 援護するからまずは目の前の敵を斃せ!」

 瓦礫の陰から飛び出そうとした瞬間、結女が叫ぶ。

「援護? 斃せって……」

 ――遅ればせながら。
 結女が何を言いたかったのか、俺はようやくピンと来た。

 天井の爆破一つ取っても、たった一人で準備・実行できるもんじゃない。障害となるホテルの職員、警備員、セキュリティシステム等々を無効化して仕掛けを施すためには絶対に仲間が必要だ。でも、黒ずくめども全員が愉快犯や快楽殺人者の類だとはちょっと考えられない。この虐殺まがいのショータイムは連中にとって単なる手段でしかなく、成し遂げたい目的みたいなものが何かしら存在しているはずなんだよ。
 となると大変困ったことに、連中はその目的を達成するまで銃を手にして頑張り続けることになる。分が悪いとなったら増援なんかも呼ぶかもしんない。俺たちがここに留まり続ける限り、何度も何度も命を狙われ続ける可能性が極めて高いワケだ。
 冗談じゃねーよみんなでとっとと逃げようぜ! と一瞬思うも、この人数の親戚全員を安全かつ迅速にビルの外へ逃がす方法なんてあるわきゃない。黒ずくめを全員殺っつけるか、あるいは警察の対テロ部隊――たとえばSATとかが駆けつけてくれるまで耐え凌ぐか。とにかく戦って抵抗しない限り俺たちに明日はないんだよ。

 おそらく結女は、それをはるか前に見通していた。
 俺と抱き合ってテーブルの下に居た時に。
 このままでは全滅だと呟いたあの時に。
 ひょっとしたらもっと早く、天井が爆破された瞬間に。

 そして、武装した黒ずくめに対抗しうるのは、常人離れした身体能力を持った俺と、銃器類を扱い慣れてるらしい結女の二人だけ――。

「……ってお前いくら何でも話を端折り過ぎだろこれ平和ボケとか関係ねーし! それ以前にテロリスト相手に二人だけで立ち向かうとか無謀すぎんぞ自殺行為だよ!!」
「ゴチャゴチャうるさいぞ! だったら他に手段があるのか!」

 ございません。

 クソッタレ、こうなりゃヤケだ。懐に飛び込めば相手の凶器が銃だろうとナイフだろうと鉄パイプだろうと大差ねえ、片っ端からブン殴りゃなんとかなる。畜生め、そういう覚悟をとっとと決めてしまう程度に肝の据わってる自分が嫌すぎる。

 ただ、その前に、今の自分の服装をどうするか。

 羽織袴で殴り合いなんて出来ねェよ。袴は我慢するとしても着物の袂が邪魔すぎる。いっそ脱ぎ捨てちまうか、でもこれどこをどうやりゃ脱げるんだ?

 そうして迷うこと、数秒。
 本当に、ほんの数秒間。

 その間に、状況が激変した。

「瓦礫を使え! 投げろ! 沖継様を見習え!」
「数ではこっちが勝ってるんだぞ! 怯むな! 全員突撃!! 一斉にかかれーっ!」
「おんどりゃああぁぁあぁあ! ナメんなボケええええぇぇえぇ!!」

 親戚一同が申し合わせ、黒ずくめどもに向かって雪崩のごとく襲いかかったんだ。
 すっかり飛び出すタイミングを逸してしまった俺、ぽかーん。

「おっ……おい、沖継! お前、皆に一体何を指示したんだ?!」

 危うく親戚連中を撃つところだった結女が、慌てて射撃を止めて超激怒。

「いやいやいや何で俺のせいなんだよ?! 俺は別に何も言ってねェぞ?!」

 一体全体どうなってんのかさっぱり理解不能。さっきはみんな、たった一人の黒ずくめに怯えて怖がって逃げ回ってたのに。

 でも、ひょっとしたらこれ、最善策じゃないんだろうか。

 黒ずくめどもは結女の牽制射撃で満足に身動き取れなかったんで、あっという間に満員電車で殴り合うような超接近戦になってしまった。いくら近代兵器で武装しててもこれじゃ全ッ然意味が無い。あっという間に個々に分断、前も後ろも右も左も取り囲まれて殴られ蹴られのボッコボコ。ちょっと可哀想なくらい。
 もちろん黒ずくめの方もやられっぱなしじゃない。別働隊らしき応援が駆けつけて、あちこちの扉を蹴破り突入してくる――けど、黒ずくめから武器を奪った遠縁のおじさんが即座に発砲、迎撃。このおじさんも結女に負けず劣らず実に上手い。そういやあの人、若い頃は自衛隊で陸曹やってたんだっけ? すげえや本職じゃん!
 さらに、直接戦えないおばさんとかも大活躍。テーブルとかひっくり返してバリケード作ったり、怪我人を助けて介抱したり。スカートや着物の裾を躊躇無く引き裂いて包帯を作って血止めやら何やら。いつの間にやら即席の野戦病院が出来上がってる。

 まさに鉄壁のチームワーク。
 どう見てもうちの親戚の方が優勢。負ける気がしない。

 でも結女は、そんな様子を見て金切り声を上げる。

「やめろ、みんなやめてくれ! わざわざ危険な目に遭うことはないんだ! ……ダメだ、こんな乱戦じゃ、女の声でいくら叫んでも……!! 沖継、頼む!」
「へ? た、頼むって、何を」
「決まってるだろうみんなを止めるんだ! 早く!」
「ど、どうやって?」
「ああもうさっきから何だ男だったら即断即決即行動してみせろ! そもそも沖継がもっと早く動いてくれていればこんなことにならなかったんだ! 夫婦なら以心伝心、目と目で何でも通じ合え!!」

 さすがにこれにはカチンと来た。

「ああもうさっきから何だよお前こそ会ったばっかの俺にアレコレ期待しすぎだろ! だいたい夫婦関係に夢見過ぎなんだよ夫唱婦随とか以心伝心とかそういうしょーもない幻想は俺たちが生まれる前の昭和でとっくに滅ん……あ痛ッ?!」

 いきなり後ろ頭を引っぱたかれた。父さんだった。

「結婚式の当日に新婦と喧嘩とは何事だ。そんな男に育てた憶えはない」
「ご、ごめん、父さん……」

 はっしまった、父親に本気で怒られるとつい謝ってしまう息子の悲しい性が! 俺は何も悪くないよ! 悪くないよな?!

「何を言ったところで、皆、引き下がりはしませんよ。結女様」

 母さんが一歩前に出て結女の前に立つ。女子中学生相手に様付けって。

「ここにいるのは私と夫を含め、源家の親類縁者を名乗る者。自分の命よりもお二人の御身を第一に考える、筋金入りの忠臣ばかりなのですから」

 ――なぬ?

「そんな私たちが、さっきの一幕を目の当たりにしました。お二人が互いに助け合って、圧倒的な劣勢を一瞬でひっくり返してみせた。これで奮い立たないはずがありません。この状況は、皆がこの二十年余、ずっと見失っていた希望を取り戻した証拠です」

 ちょっと何これすごい大事そうな話してる! 突っ込み入れていろいろ問い質したいんだけど結女と母さんの間にあるツーカー的な空気がバリアみたいになってて俺が入り込めそうな隙間がない! うああモヤモヤするぅ!

「ここは私たちに任せて、ひとまずお逃げ下さい。連中の目的はこの結婚式の妨害……お二人の仲を引き裂くことに違いないのですから」
「そんなことはわかっている。だからこそ私は、いや、私たち夫婦は……」

 ここでいきなり、結女の側に棒立ちしていたコノが我を取り戻して「あの、私も二人の結婚邪魔したいんですけど、ひょっとして黒い目出し帽とか被らなきゃダメ……?」とかしょーもないこと言い出したので、俺は慌てて駆け寄ってぺちんと頭をひっぱたく。黙って聞いてろバカタレめ少しは空気読め。

「それに、沖継は見ての通り、状況を正しく把握していません。私どもが誕生日のサプライズを仕掛けようなどと考えなければ、事前にいくらでも説明を……いえ、反省は後ですね。とにかく、安全な場所へ落ち着いたのち、結女様から直々に子細をご説明下さい」
「い、いや……しかしな、それは……でも……」
「源夫妻が絆を取り戻すまで、私どもは総力を尽くしてお二人をお守りする。そういうお約束でしたよね?」

 ダメを押すような、母さんの口調。
 でも、結女は渋る。納得していない。顔を見ればわかる。

「結女様は、お優しいにも程があります」

 結女の耳元に、母さんが顔を寄せていく。
 小声でゴニョゴニョ何かを囁く。
 何を言ったんだろう。急に結女の顔が真っ赤になったけど。

「そ……そこまで、言うなら、仕方がないな、うん。ここは……任せた」

 あれ、あっさり折れた。何で?

「しかし、絶対に無茶はしないでくれ。皆は私にとって可愛い我が子も同然だ。誰一人として傷ついて欲しくはない」

 女子中学生が顔に似合わず凄いこと言いましたよ。我が子って。すぐ目の前にいるうちの母さんでさえ結女の三倍近い時間を生きてるはずなのに。
 でも、応える母さんは「結女様の御心、承りました」と平然と受ける。

「沖継。あれが見えるか」

 突然父さんから話しかけられる。振り向くと、父さんは新郎新婦の雛壇を指差していた。金屏風やウェディングケーキは天井爆破の煽りをくらってズタズタだけど、床面はほとんど無傷で、半畳くらいの大きさの蓋っぽいものが露出している。

「新郎新婦のお色直し専用小型リフトだ。床下の空間へ通じていて非常階段に出られる。このビルの見取り図には載ってないからノーマークのはずだ。地下駐車場まで一直線に降りられるぞ。そこでFの四十八番を探せ」

 言葉のシメと同時に車のスマートキーらしいものを放り投げてきた。まさか有事を想定して事前に退路を用意してたってこと? うは、何それスゲェや父さん超カッコイイ!

「言いたいこと、訊きたいこと、いろいろあるだろうがな。我慢しろ。今は何より、男の務めを果たす時だ。わかっているな?」

 俺、思わず目を瞬かせる。

 改めて言うまでもないだろうけど、うちの親はかなり変わってる。たまに不安を感じるくらい超放任主義で、勉強しろとかゲームするなとか外で遊べとか、そういうありがちな説教をされた記憶がほとんどない。ま、する必要もなかったんだろうけど。
 ただ例外は、父さんが仕事帰りに酒を飲んで、酔っ払って戻ってきた時。たとえ俺が寝ていようと無理矢理起こされて、男に生まれたからには果たさなきゃいけない務めが三つある、これだけは生涯忘れるな、それさえ守れば他は適当でかわまんって、何度も何度も繰り返し言い含められたんだ。

「……男なら、女を守れ、迷わせるな、泣かせるな」
「わかってるならいい。行け」

 背中をどやされ、よろよろと数歩前に出る。何なんだよ、もう。

「行こう、沖継」

 隣の結女が俺に先んじて歩き出す。どう考えてもコイツは守る必要なさそうだけど、とりあえず問題なのは、まあ、アレだけだ。うん。アレ。

「コノ、行くぞ」
「ほえ……?」

 ほえ、じゃねーよ。無駄に可愛い声出すな。

「安全なところに逃げるんだ、少しは話聞いてろっつの。それともここに居るか?」

 言った瞬間、黒ずくめと親戚連中がやりあってる場所から流れ弾が飛んできて、コノの足下でチュンと音を立てて弾ける。

「や……やだやだやだやだこわいよぉ! 沖継くんと一緒に行く!」
「だったら、ほら」

 コノの手を取り、引っ張るように歩き出――そうとしたら、先に行ったはずの結女が何故か立ち止まって振り返り、こっちをじーっと見つめている。

「何だよ、どうかしたのか」
「いや、別に」
「別に、って顔してないだろ。何を怒ってんだ?」

 訊きはしたけど、その理由は察しがついた。
 結女の目が、俺とコノが繋いだ手に注がれている。

「……愛人の一人や二人、男の甲斐性だからな」

 ぷいっ、と、拗ねたような顔を隠すようにして結女は歩き出す。
 別に俺はコノと手ぇ繋ぎたくてこうした訳じゃないし不可抗力みたいなもんなんだが、結女の背中からは「何を言い訳しようと聞く耳持たないぞ」みたいな刺々しいオーラがバリバリ出てやがんの。そもそも言い訳しなきゃいけない道理もないんだけど、現実問題として一人の少女がヘソ曲げちゃってるのはいかんともし難い現実なのであります。

 父さん、男の務めって、果たすの難しすぎじゃね? ムリゲーじゃね?

 俺は溜息混じりに頭を掻いて、雛壇の方へ歩き出す。
 その時、突然。

「頑張ってね、お義父さん」

 その言葉の主は、父さんだった。
 結女やコノと一緒に雛壇へ歩き出してた最中だったし、父さんの方には背を向けていたけど、間違いなく俺に向かって言った。そう感じた。
 振り向くと、父さんは芝居がかった仕草で、傍らの母さんを抱き寄せて。

「僕も頑張るよ。そっちも頑張って」
「え、っと……何言ってんの、父さん……?」

 父さんはかぶりを振って、苦笑して。

「いや、すまん。独り言だ」

 手をひらひらさせて、早く行け、というジェスチャー。

「沖継、もたもたするな」

 リフトの方から結女の声がして、俺は慌てて後を追う。


1-4:逃げろ! 逃げろ!! 逃げろ!!!!

 結女が先頭、続いて俺、コノという順番で、非常階段をひたすら駆け降りていく。
 非常階段と言っても、鉄骨剥き出しでビルの外へ露出しているような安普請のものじゃない。煙が滞留しないよう考慮された螺旋階段風の吹き抜け構造で、消防法で設置が義務付けられてる緑色の非常口ランプが場違いに感じるほどシック&エレガント。さすがは帝都ホテルと言うべきか、こんなところまで格が違う。

「素晴らしいな、退路としては理想的だ」

 結女が呟く。確かにこれなら外から狙撃されたりする心配はないし、無関係の他人を巻き込む可能性も低いよな。本当に父さんグッジョブ。

「お、おき、つ、ぐ、く、っ、ん、こ、こっ、これ、ど、どこまで、つ、づく、の……」

 ぜえぜえはあはあ言いながらコノが問いかけてくる。体力ないなあ。白無垢姿でフル装備の女子中学生がまだピンピンしてんのに。少しは見習え。

「とにかく一番下までだよ、頑張れ」
「お、おねが、とま、って、ちょ、ちょっとで、いいから」
「しょうがないな……。おーい、結女」
「諦めろ。置いていけ。そもそもその愛人は存在自体が足手まといだ」

 うわ。何もそこまで言わんでも。

「ななな何ですってこの中学生いったい何様のつもりよあんた!」

 何だよコノまだ元気あんじゃん、だったら黙って脚動かせよ――と言うまでもなく、瞳の中に対抗意識をメラメラ燃やしながら俺を追い抜いて二番手へ。女って怖い。

 しかし、このまま何事もなく、地下駐車場まで逃げられるんだろうか。

 さっきの母さんの話によると、黒ずくめどもの標的は俺と結女らしい。ソンナバカナと言ってみても仕方ないのでとりあえず鵜呑みにするけど、だとしたら遅かれ早かれ、こっちにも追撃部隊が差し向けられるはずなんだ。結婚式場に俺たちの姿が見当たらないとわかった時点で、ホテルの内部を虱潰しに調べ回るに決まってるんだから。
 ここが非常階段である以上は各階どこからでもアクセスできるし、エレベーターを使えば先回りも可能。ひょっとしたらもうとっくに居場所が割れてるかも。そうなったら向こうの独壇場だ。無線でやりとりしながら適切に人員を配置、階段を駆け下りる足音でタイミングを計って俺たちの背後から襲いかかってくるかもしれない。つーか、もし俺が黒ずくめの指揮官なら迷わずそうするよ。

 ああ、ほら、案の定。
 今しがた通り過ぎたばかりの階に、殺気が湧いてきた。

「退け、沖継!」

 結女も殺気を感じ取ったらしく、突然立ち止まって振り返りながらライフルを構える。
 でもその前に、俺はコノの手を強引に引っ張って結女の射角を確保しつつ、黒ずくめから狙われにくい場所へ身体を滑り込ませていた。退く必要は皆無。
 だってさ、階段は極めて単純な階層構造の繰り返しなんだから。頭の中で三次元模型を組み立てて自分の現在位置を投影しておけば、黒ずくめが顔を出してくる位置、武装した結女が迎撃のために立つべき場所、俺とコノが居るべき場所は自然と割り出せるだろ?

「ひいい! ひえええ! みぎゃああああああ!!」

 結女の発砲音にビビったコノが絶叫。銃声を減衰させるサプレッサーを使っているとは言っても、間近で聞くカービンの発砲音は耳に突き刺さるような凄い迫力だった。コノが俺にしがみつこうと胸に飛び込んでくるのも仕方がない。
 でも、俺はそんなのには構ってやらない。紙一重でいなしつつ、結女の邪魔にならないことを最優先して再び階段を駆け下り始める。

「あ……ああっ?! ま、待って沖継く……おおお置いてかないでええぇぇ!!」
「置いてく気ならとっくに置いてってるよ! 手ぇ貸せ!」

 コノがどっかでコケて怪我でもしたら、俺たちは移動すらままならなくなる。それを防ぐためにも俺の側に居させた方がいい。そういう判断で手を伸ばしたんだが、コノは即座にしっかと俺の手を掴んできた。何もわかってないくせに絶対放さないという気持ちだけは伝わる。つくづく健気なヤツだ。お前のそういうとこ嫌いじゃないぞ。
 とか思っていると、今度は俺たちの眼下にあった扉が勢いよく開け放たれた。ええい小癪な、こいつら最初から俺たちを上下で挟み撃ちする気だったのかよ!

「さあっせるかァあああぁ――――――――――――――っ!!」

 開いた扉から半身だけ姿を現わした新手の黒ずくめに向かって、俺は反射的に階段を蹴って跳びかかる。彼我の高低差はざっと五メートル。無理・無茶・無策の三拍子揃った危険な吶喊だけど、この時はそんなの気にしてる猶予もなかった。だって黒ずくめの野郎、手に持った手榴弾の安全ピンを引き抜こうとしてやがったんだぜ。モタモタしてたら俺ら全員まとめて吹っ飛ばされちまう。

 ただ、コノの手をガッチリ握ったままだったのは、良かったのか悪かったのか。

「ひえェえぇえぇぇええぇ――――――――――――――っ?!」

 強引に引っ張られつつも、俺の後を追いかけることしか考えてないコノは迷わず階段から跳躍した。うん、上出来。ほんとにお前は健気なヤツだな。
 そんなわけで、期せずして時間差ダブルキックになった俺とコノの足が黒ずくめへ見事に炸裂。落下の加速度が加わった二人分の体重をまともに受けて踏ん張れるはずもなく、その黒ずくめは大野剣友会による命懸けのスタントを彷彿とさせる勢いで見事にフッ飛び、開け放たれた非常扉にブチ当たり跳ね返って、出てきたばかりの通路側へ押し戻された。その拍子に背後へ控えていた別の黒ずくめを数人巻き込んで将棋倒しになったみたいだけど、正直よく見ていない。俺はキックから着地してすぐに非常口を閉めたんで。

 だって、さっきフッ飛んだヤツ、安全ピンを抜いた手榴弾を握ったままなんだぜ?

 間髪入れず、どっかん、と扉の向こうで炸裂音。それに混じってギャーとかウゲェーとか黒ずくめの断末魔が聞こえたような気がするけど、気のせいだ気のせい。

「おおおおお沖継くんわわわわ私みみみみっ見られたああぁぁあぁあ!!」

 ダブルキックの後、ヨタヨタしながらも奇跡的に無傷で着地できたコノが涙声で訴えかけてくる。そりゃまあスカート穿いて跳び蹴りすりゃパンツくらい見えるよ――って、黒ずくめに冥土の土産をくれてやったと思うとちょっとムカつくな。

「沖継、大丈夫か?!」

 挟み撃ちに気付いたらしい結女が慌てて駆け下りてきた。白いほっぺたに赤い返り血が一滴だけついてるのが何ともお洒落ですね。上もかなり大変だったらしい。

「大丈夫だ、こっちは心配しなくていい!」

 力強く言って、結女も頷き返す。再び三人でひと塊になって走り出す。
 で、いくらも走らないうちにまた扉が開く。黒ずくめが湧いてくる。
 俺はコノを引っ張りながら華麗に躱し、結女が無数の銃弾を叩き付けていく。万一黒ずくめが近付いてきた時は、すかさず蹴ったり殴ったり。延々とその繰り返し。

「うわぁぁぁあぁぁん!! ひぎゃぁあぁぁあぁん!! びえぇぇぇえぇぇえ!!」

 結女が至近距離で発砲する度に泣きながら絶叫するコノの声にも慣れてきた。ていうか、お前この調子でずっと叫び続ける気なのかよ。
 んで、一方の結女は。

「ははっ、だんだんコンビネーションが出来てきたな! 悪くない!」

 生死の境を綱渡りしてるようなヤバい状況なのに百万ドルの笑顔だよ。黒ずくめをやっつけるのが楽しいんじゃなくて、俺と一緒に何かするのが楽しくてしょうがない感じ。

ご覧下さい、新郎新婦、初めての共同作業です!

 そんなナレーションが脳裏をかすめた自分に心底呆れたんだが、俺ってまだ冗談を飛ばせる余裕があるんだな、と好意的に受け止めておこう。

「着いたぞ、一番下! 駐車場!」

 叫んだ俺は、半ばコノを抱きかかえるようにして一気に階段を飛び降り地下駐車場へ躍り出る。続いて結女も飛び出してきて――階段から炸裂音。そういや結女も黒ずくめと同じ武器持ってんだよな、白無垢の帯にぶらさがってた手榴弾が一個減っていた。

「F区画、四十八番……あった、あれだ!」

 結女が指差す先に、足回りを中心に控え目なカスタムが施されたマツダの新型ロードスターがある。ボディカラーは純白。光の反射具合で真珠のような虹色の光沢を放ってる。
 なかなかカッコイイなと感心しつつ、いつの間に父さんこんな車買ってたんだという疑問も生じる。だってうちのマイカーはキングオブ大衆車のヴィッツなんだぜ。まさかこれも俺へのプレゼントのつもりだったんだろうか――あ、うん、間違いない。車の後ろにいっぱい空き缶がくっついてるもん。外せ外せ、恥ずかしい。

「何をしている! 早く乗れ!」

 叫んだ結女は、俺たちの後を追って駐車場まで進入してきた黒ずくめにライフルの銃弾を浴びせかけていた。いやもうほんといい加減諦めろよ黒ずくめども。
 俺は懐に入れていたスマートキーを取り出し、車のドアロックを解除。扉を開いて乗り込もうとしたんだけど、そこで一つヤバいことに気がついた。

「おい結女! まずいよこの車二人乗りだ!!」
「なぜそんなことを私に訊く! 愛人の扱いくらい自分で決めてくれ!」

 何だかすごく不条理なことを言われたような気もするが、反論している時間も惜しい。

「じゃあコノ、悪いけどお前、トランクな」
「え……?」

 俺の側でキョトンとしてるコノに柔道の小外刈りの要領で足を飛ばす。ひっくり返る寸前に腕だけで受け止め抱え上げ、いわゆるお姫様抱っこの状態で車の後部に回り、足で蹴り上げるようにしてトランクを開けた。

「なななになになに?! おおおおお沖継く」

 ぽん、どさっ、バタン。
 よし、これでOK。何の問題もない。

「いいぞ結女、乗ってくれ!」

 俺は助手席側の扉を開けつつ叫ぶ。

「バカ! お前は何を考えてるんだ!!」

 なぜかまた結女に怒られた。
 やっぱ女の子の扱いとしちゃトランクは酷すぎた?

「私は武器で手がふさがってるんだぞ! お前の目には手足がもう一セットある化物にでも見えてるのか!」

 言われてみればそりゃそうだ。俺は大急ぎで運転席へ回り込む。

「ってちょっと待て! 俺は車の免許なんか持ってないぞ?!」
「それがどうした!! だから何だ!! いいから早くしろ!!」

 その絶叫の途中、残弾全て撃ち尽くした結女のアサルトカービンがホールドオープン。即座に放り投げ、帯に差していた拳銃に持ち替え牽制射撃。連射、連射、また連射。
 これ以上モタモタしていたら、結女は手持ちの武器を全て使い切ってしまいかねない。

「やるっきゃないのかよ、ったく……!!」

 愚痴りつつもとにかく運転席に座る。なあに、昨今の自動車は大抵オートマだ、操作感は遊園地のゴーカートと大差ないだろ。
 父さんがマイカーに乗る時にやってるいつもの光景を思い出しつつエンジンスタート。車の屋根を収納してオープンカーにするボタンを見つけたので、結女が乗り込みやすいよう開けておく。その間に大急ぎで各部確認。手にはハンドル、こっちがウィンカーでこっちがワイパーだっけ。サイドブレーキも解除。足下にはアクセル、ブレーキ――。

 なぜか左足側にクラッチがありますよ?

 まさかこれマニュアルなのか?! うわマジだ左手側にシフトレバーがありやがる! しっ、しかも六速だとう?! 冗談じゃねぇやこんなもんぶっつけ本番で乗れる訳あるか!!

「よしいいぞ、出してくれ!」

 黒ずくめどもに向かって手榴弾を投擲した直後、結女がバッと身を翻して助手席に飛び乗ってきた。その身体にはもう武器の類を帯びていない。全て使い切ったのかと気付いた矢先、遠くで手榴弾の炸裂音がした。
 連中を足止めできるのはここまで。
 今すぐ発進しなきゃ生死に関わるタイミング。
 落ち着け、自身を持て、大丈夫だ、俺ならできる。車の基本構造や基礎的な運転の仕方くらい知ってるよ。小さい頃はじどうしゃずかんが愛読書だったし、マリオカートやグランツーリスモも一時期相当やりこんだ。乗りこなせないはずがない!
 ええと、まずはアクセルを踏み込みつつ、シフトを一速に入れてクラッチを繋いで――うわなんか後輪が空転して白煙上げてるんですけど?! と思ったらいきなり前に走り出しやがった! うわあああああ壁にぶつかるううううう!! ハンドル、ハンドルを切るんだ俺! ていうか狭い地下駐車場でスピード出し過ぎだ! エンジンが何かヤバい金属音出してるぞ?! ああもうコレどうすりゃいいのよおおおおおおおお!!

「さすが沖継、鮮やかだな! ドラッグレース並みのロケットスタートとは!!」

 うっさいよ結女は黙ってろ今の俺に話しかけるな気が散る! えとえとえとえと、こういうときはクラッチ切って二速にシフトアップすればエンジンの負荷が減っ――ひいいいいいいなんかいきなりすっげぇ加速したああああ!! 待って待ってやめて目の前に駐車場出口のゲートバーが!! ブレーキ、ブレーキ!! いやあああぶつかるうううう!!

「構うな、そのまま行ってしまえ!」

 結女が指示するまでもなく車は猛然と突っ走る。車高の低い車なのでゲートバーは車体に接触せずフロントガラスに直撃。でもゲートバーは発泡スチロールのような脆弱な素材らしく、こちらは傷一つつかずに砕け散ってしまう。

 あー、やれやれ、助かった。

 と思ったら。

 何で公道ってこんなに自動車多いんだよおおお! ああもう退いて退いてえええ! ぶつけちゃうよおおお! 俺は無免許で事故とかしたくないよおおお!! 明日の朝刊に〔若さ故の暴走か、高校生と女子中学生が都内で暴走事故死〕なんて見出しで載ったりしたくありませんからああああああ!! ひいいいいいいいっ!!

「……追ってきたぞ。しつこい連中だ」

 結女が苦々しげに後ろを振り返るのと、数発の銃声が響いて右隣にいたライトバンの窓ガラスが砕け散るのはほとんど同時だった。ルームミラーで後ろを見ると、二、三台の車が猛然と俺たちを追走してくる。乗ってるのは当然ながら黒ずくめ。

「沖継、信号は無視しろ、絶対に止まるな! 路肩でも歩道でも中央分離帯でも構わないからとにかく走れ! なるべくジグザグに! もっとスピードを上げろ!」

 無茶苦茶ぬかすな言うは易し行うは難しだよ! ホントもう勘弁してくれ何で若葉マーク以下の俺がカーチェイスまでやんなきゃなんないんだ! こちとらキアヌリーヴスでもウィルスミスでもねえんだぞ!!

「……ん? 何だ、これは」

 涙目になって車を走らせる俺の横で、結女が何やら助手席の座席裏を探り始めた。
 助手席は最初からスライド調整できる一番前へセットされていたんだけど、その後部に生まれたスペースに三つか四つくらいアタッシェケースが突っ込まれていたんだ。父さんが仕込んでいた荷物だろうか。結女はそれを片っ端から開けて確かめる。

「……素晴らしい」

 結女が喜悦の声で呟く。俺もちらっと隣を覗き込む。

「な……んじゃ、こりゃ……」

 銃、銃、銃、銃。いちばんでかいケースの中には狙撃銃。中くらいのはパーツ単位でバラされた自動小銃。小さいのは拳銃と弾薬っぽい。
 中でも極めつけは、ちょっと太めの排水管みたいなモノ。こりゃひょっとしてもしかしていやまさかと狼狽する俺の目の前で結女はその筒状の本体を引っ張って伸ばし、発射口の蓋を取り、折り畳まれた照準器を立てて、肩に担いでボタンに指をかける。

「おおおおおおおいおいおいおい結女ちょっと待て!」

 俺の訴えは夜の東京の空に虚しく響くだけ。M72A7ロケットランチャーから噴煙を発して放たれたロケット弾は追ってくる車に向かって猛然と突撃、見事に命中。ルームミラーとバックミラーが爆炎で真っ赤に塗り潰されて、鼓膜が裂けるかと思うほど強烈な爆発音が衝撃波と共に背中から襲ってきた。おーまいがっ。

「これでひとまず片付いたか……ここはどこだ? ああ、羽田の近くまで来ていたのか。沖継、そこのスロープから上の陸橋に行ってくれ。高速を走ろう。そう、湾岸線だ。料金所は無視していいぞ、ETC専用入口へ突っ込め。ゲートバーなど叩き折ればいい」

 はい、わかりました。結女様の仰る通りに致します。
 断じて俺の責任じゃないもんね。

 湾岸線はさほど混んでいなかった。平日だし、とうにラッシュの時間も過ぎてるもんな。俺は何食わぬ顔で車の流れに合流する。
 シフト操作やクラッチワークの必要性がなくなって、気持ちにいくらか余裕ができた。

 ふと、助手席の結女の方を見る。
 なぜか結女も俺の顔を見ていて、目が合った。

「……何だか、本当に新婚旅行みたいだな。このままどこか遠く、どこまでも走って行きたくなる……ならないか? 私だけか? いかんな、少し浮かれてるらしい……」

 結女は照れ笑いを浮かべつつ目を逸らし、東京湾の彼方に浮かぶ船舶の灯を見つめる。
 オープンカーで潮風を頬に受けつつ夜の湾岸道路をクルージングって、そこだけ見れば確かにデートっぽいけどさ。
 ドライバーの俺は高校生で紋付き羽織袴、助手席の結女は中学生で白無垢花嫁姿だぞ。だいたいここまでどんだけ道交法違反してると思ってんだ。しかも銃器の詰まったアタッシェケース満載。もし警察に見つかったら申し開きの余地もない。これで浮かれていられる結女の精神構造が謎すぎるわ。

「おきつぐくぅん……きもちわるいよぅ、吐きそうだよぅ……だしてぇ……」

 トランクの中から幽霊の怨嗟にも似たコノのか細い声が聞こえてくる。ごめん忘れてた。どっか手近のパーキングで止まってやるからもうちょっと我慢してくれ。

「それよりもさ、結女。そろそろ教えてくれ」
「? 何だ、改まって」

 本当はもっと早くに訊きたかったけど、そんな余裕が全くなかったから。
 やっとこさ。ああもう、本当にやっとこさ。

「あの黒ずくめどもって、一体全体どこの誰なんだ。父さんと母さん、俺の親戚も……いや、そもそも俺自身は……。わかんないことばっかりなんだよ」

 トランクの中のコノも、吐き気から来る唸り声をこらえて耳を澄ませている。そういう気配があった。

「そうだな、私にとっては常識以前のことだからな。いざ説明するとなると、どこから話せばいいか迷ってしまうんだが」
「時間はあるだろ、思いつくまま喋ってくれればいい」
「うむ。では……まず第一に、沖継と私は夫婦なんだ」
「いや、それはもういいから」
「何を言う、大事なことだぞ、すべての大前提だ」
「前提っつーなら、うちの両親とか親戚連中の正体とかの方が先だろ」
「親ではない。むしろ子供だ。皆、私たち夫婦の大切な宝物だ」
「いやいやいや俺はあんな年上の子供をグロス単位で持った憶えはない」
「お前にはなくても私にはある。そもそも日本人は全員、私たちの子供のようなものだ」

 いちいち表現が大袈裟なのは結女の趣味なのか?
 頭痛くなってきた、話変えよう。

「じゃあ、あの黒ずくめは? なんであの結婚式場を……俺や結女を狙ってきたんだ」
「うむ。それはな、つまり」

 結女は、俺の顔を真っ直ぐに見て。

「奴らは、私たち夫婦が嫌いなんだ」

 真顔で言い切った。
 続く言葉は、ナッシング。

「……あの、それだけですか」
「ああ。的確かつ簡潔で我ながら完璧な要約だと自負しているぞ」
「自負すんな。そんなんで納得できるか。むしろできたらビックリだ」
「む……。では噛み砕いて表現しなおそう。奴らは日本人が大嫌いなんだ」
「噛み砕かれてない。何一つ噛み砕かれてません。まさか俺たちが日本人ってだけで殺されかけたとでも?」
「やむを得ん、少し詳しく説明しよう。つまり、私と沖継の仲を邪魔したいんだ」
「いやだから何一つとして詳しくなってないし相変わらず意味不明だしそもそもそんなしょっぱい理由でうちの親戚一同まとめて銃撃しようなんて誰も考えませんから!」
「しょっぱいとは何だ! こんなに大事なことは他にないぞ?!」

 ええいまったく偏見なのは百も承知だがどうして女の子は感覚的かつ個人的な話に走りがちな生き物なんだ。俺が求めてんのは論理的かつ客観的でポイント押さえた概要なんだよ。おまけにトランクの中のコノまで「つまり二人が結婚しなければいいんだよ! それでまるっと解決するんだよ! でしょ?!」とかまったくどーでもいい個人的な願望や妄言の類を宣い出しやがった。

「頼むからもうちょっと具体的な話をしてくれよ! あの黒ずくめどもはどこのテロリストでどんな思想信条があって組織はどうなってて誰が代表なのか! 俺や結女や父さんや母さんや親戚一同は何でそいつらと対立してていかなる理由で襲われたのか! そういう本質的なところ! 事件の核心! そこだけでいいから! 他はいらないから!!」
「そこだけと言いつつ質問が多すぎるぞ。それに、沖継は大きな勘違いをしている。あの黒ずくめはテロリストじゃない。米軍だ」
「何だよそれ超重要な情報じゃないか! そういうのはもっと早く言ってく…………」

 俺の心の中で。
 何かが引っかかって。
 そいつが絶対零度に迫る猛烈な冷気を放ち、俺の背筋を凍り付かせる。

「…………あ、あの、結女様。今、何と仰いましたか?」
「ああも訓練が行き届いて完璧に統率された屈強な兵士を大量かつ迅速に送り出せる組織が他にあるのか? おおかた在日米軍の非正規戦専門部隊だろう。泣く子も黙る最強クラスの兵士どもを一方的に蹴ったり殴ったり絞め落としたりできるのは世界広しと言えど沖継くらいだろうな、さすが我が夫」

 俺は失禁した。心の中で。

「うあああああああああああああああッやっちまったあああああああああああああああッ俺は取り返しのつかないことをしてしまったあああああああああああああああッ」
「突然叫ぶな。うるさい。何をうろたえている」
「ふざッけんなッよりにもよって米軍だぞッ世界中を敵に回しても互角以上に戦えるどころかうっかり勝っちゃうレベルなんだぞッ?! この地球に現在ただ今君臨してる真っ最中のラスボスに喧嘩売ってうろたえないヤツがこの世のどこにいるんだよッ!!」
「ええい、お前はそれでも日本男児か。少しは五十六の肝っ玉を見習え」
「旧軍元帥の山本五十六なら確かに米軍とガチで戦争してたけどあの人は本来開戦どころか日独伊の三国同盟すら反対してたんだぞ! 俺もその意思を汲みつつアイラブ平和ノーモア戦争の立場を生涯貫いていきたいよ世界情勢と日本の世論が許す限りはな! ていうか俺アメリカに狙われるようなこと何もしてないよコーラもハンバーガーもハリウッド映画も大好きどころか心底愛してるのにぃー!!」
「今度は泣き言か、情けない。世界中が全て敵になっても俺なら勝てる勝ってみせる、くらいの啖呵を切ったらどうなんだ」

 ダメだこいつ、俺のことをブリタニア帝国九十九代皇帝か何かと勘違いしてやがる。中二病をこじらせ過ぎててまるで現実が見えてねえ。
 少しでもまともなヤツの擁護が欲しかった俺は、ついトランクに向かって「コノも何か言ってやってくれよ!」と叫んでしまっていた。だってコノはまさに庶民代表、どこをとっても普通の女子高生。そいつが俺の側に立って「米軍はムチャだよ!」とか言ってくれれば多少なりと溜飲が下がるかなと期待したんだけど。

「沖継くん、がんばれっ」

 二人が何言ってるか全然わかんないしちんぷんかんぷんだけど私は沖継くんを信じてるよ、みたいな一種の思考停止をありありと声音に滲ませつつ無責任な応援をいただきました。そういやコイツは近代史も政治経済も仮想戦記も全然興味のないごく普通の女子高生だった。相変わらず残念すぎて泣けてくらぁコンチクショウ!

「ああもうわかったよ! 連中が本当に米軍だとしてじゃあ何でだ! 何で俺たちはアメリカに狙われにゃならんのだ! 親戚一同でJFKの意思でも継いでたのか?! UFOの秘密を暴露とか軍産複合体を解体しようとかアルカイダを支援してたとか反フリーメイソンとかつまりそんなアレなのか?!」

 ロードスターのハンドルをばしばし叩きながら思いつくまま適当に喋りまくった俺は、アメリカの逆鱗に触れそうなネタって結構あるんだなと気がついた。ある日いきなり特殊部隊に襲われてもそれほど不思議じゃないのかもしれん。ガッデム!

「違う。私たちは何もしていない。さっきも言ったが、奴らは日本人が嫌いなんだ」
「だからその極端な要約はもういいよ!」
「それに、私たちの敵はアメリカという国家でもその国民でもない。第一、アメリカは日本の同盟国だろう。現在の日本は彼等を味方と見なすことで成り立っている。歴史的に色々と思うところはあるが、過去を引きずって現在を否定するなど愚者の所業だ」

 あら? なんだか意外なお言葉が。

「でも、あの黒ずくめって米軍なんだろ? 少なくともアメリカ政府と無関係ってことは……」
「無関係だ。賭けてもいい。……殺したいほど憎い相手がいたら、誰だって武器を持つだろう。石より包丁、包丁より刀、刀より銃。威力が高くて使いやすい武器であるほどいい。だから米軍なんだ。それ以上でもそれ以下でもない」

 結女が俺の目を見て、きっぱりと言う。
 話はわかりづらいけど、俺に知っていることを伝えようとしてくれている。そしておそらく、嘘は一切ついてない。その気持ちは伝わってくる。

 んがしかし。
 ますますもってわけがわからない。

 米軍だけどアメリカは関係ない? まさかカリスマに煽動された叛乱部隊? いやいや、そんな連中が非武装の民間人相手にテロまがいの真似をやるか?
 どうにも筋が通らない話を脳内で多角的に検証しつつ、結女にどう質問すれば欠けたピースが埋まるような回答を得られるのかをひたすら考えていると。

大   爆   発


1-5:ACROSS THE DEADLINE

 さっきから爆発だらけでまたかと思われていたら本当に恐縮なんだが、今度の爆発はこれまでのモノとスケールが違った。何が起きたのかさっぱりわからなかった。

 以下、ほとんど俺の心象風景になってしまうんだが――。

 俺たちの車はデカい河に架けられた立派な橋を渡り始めたところだったんだけど、そこで何とも形容しがたい怖気と恐怖感に襲われたんだ。切り立った崖の縁に立って下を覗き込んだような、たった一歩を踏み誤っただけで死ぬって状況で味わうあの感覚だ。
 これはヤバいとにかく逃げなきゃ、と本能が全力で叫び、俺は即座に五速から四速へシフトダウン。アクセルを床まで目一杯踏み込んだ。ロードスターはタイムラグほとんどなしで俺の操作を即スピードに変換、弓弦から解き放たれた矢のごとく猛然と加速する。助手席の結女が加速時のGを受けて助手席へ押しつけられ、トランクの中のコノが「ぐぇ」と踏み潰されたカエルみたいな声を出す。いやはやスゲェよマツダ。俺はこれ以外の車に乗ったことないけど、性能が半端じゃないことは手応えとしてわかる。技術立国日本万歳。

 ――とか感心した瞬間、何もわからなくなったんだ。

 ひょっとしたら暫く意識が飛んでたのかもしれない。気付いた時、俺は車に乗ってなくて、アスファルトの上へ寝転がっていた。

「……う」

 身体中が痛かった。羽織袴があちこち擦れたり裂けたりしていて、右肘と右膝は打撲と擦り傷で鋭い痛みを訴える。でも、それだけだ。大したことはない。
 そして俺の腕の中には、結婚式場で起きた最初の爆発同様、結女の小さな身体が無傷で抱きしめられていた。何でこう無意識にやっちゃうのかね。

「すまない、沖継。今日だけで二度も助けられた」

 俺の方こそ何度も何度もお前に助けられてるから気にしなくていい。ていうか意識が飛んでる間にしたことだから礼を言われても正直困る。

「車はどうなった……?」

 結女が俺の胸の中で顔を上げ、周囲をきょろきょろと見回す。
 空に浮かんでいる月や道路脇の外灯のおかげで明かりは充分なのに、何も見えない。鼻にツンと来る変な臭いの煙と大量の砂埃が霧のように立ちこめているせいだ。それでも、頬を撫でるようなおだやかな海風のお陰で、少しずつ視界がクリアになっていく。

 あった。
 ロードスター。

 俺たちの前方、ざっと六、七十メートル。片側三車線の道路上にタイヤのスリップ痕が長く尾を引いた先に、シャシーを天に向けてひっくり返っている。格好良かったフロントノーズがぐしゃっと潰れてる。後部のトランクも半分潰れてる。

 その、潰れてしまったトランクの蓋が、うっすら開いていて。
 白くて華奢な腕が、だらんと垂れ下がっていた。

 血の気が、引いた。

 運転してたのは俺なのに。俺が側にいたのに。
 俺は、コノを、殺してしまった。

「お、おきつぐくぅん……たぁすぅけぇてぇ……ひぃーん……」

 トランクからこぼれた白い手が持ち上がってピコピコと元気に動き出す。ビビらせんなこのスカタン! ここまで聞こえるほど大声出せるってことは大した怪我してないんだろお前! ああ畜生めお前が生きててくれるなら無免許で事故って前科持ちになって人生棒に振ってもいいようんうんホントに良かった! 良かったよおおお!!

「……沖継。まずいぞ、これは」

 俺の胸元で結女が呟く。いや全然まずくないよコノ生きてたし。

「愛人はどうでもいい。後ろを見てみろ」

 言われた通り背後を振り向くと、またしても血の気が引いた。

 そこには、橋と道路があるはずなのに、ない。
 おそろしく巨大な穴が空いていやがる。

 俺たちが今いる高速道路の真下には国道が走ってたみたいだけど、そっちもかなり損傷が激しい。どこからか聞こえてくる「ぼちゃん、ぼちゃん」という重たい水音は、崩れ落ちた橋の一部が川面に落ちていく音なのか。たまたま通りかかって巻き込まれた一般の車じゃありませんように。

「まさか、また……仕掛けられてたのか……爆弾……」
「断言はできないが、おそらくな」

 あの時俺が咄嗟に加速していなければ、車ごと爆発に巻き込まれて三人とも即死してたってことか。まさに紙一重。ほんとに今夜の俺は自分で自分を褒めてやりたい。

 でも、脳天気に無事を喜ぶ気持ちは微塵も湧いてこない。

 俺の勘が、今も何かを訴えている。
 ここはまだ安全じゃない。敵対する何者かが俺たちを傷つけようとして、遠くから悪意をもって睨み付けている。理屈抜きでそんな気がして仕方がない――。

「使うか?」

 険しい顔をしてきょろきょろと周囲を見回し始めた俺に、結女が胸の中へ抱いていた細長いアタッシェを差し出す。呆れた。君はどんだけ銃を愛してるんですか。

「あ、でもそれ、中身、狙撃銃だっけ。スコープあるよな、借りていいか?」
「何を他人行儀なことを。私はお前の妻だぞ。髪の毛一房、血の一滴まで、何もかもお前の好きにしていいんだ」

 照れながら目を逸らし気味に言う。恥ずかしいならそんな極論言わなきゃいいのに。そして俺も照れてる結女を見てドキッとするんじゃない。我ながら単純だな。
 わざとらしい咳払いをしながら身体を離して立ち上がった俺は、気味の悪い殺気と悪意の出所を探るため、狙撃銃をひっさげて直感の赴くままに橋の上をウロウロし始めた。高速道路を生身の人間が歩いちゃダメってことくらい知ってはいるけど、東京方面から南下してくる車は道路に空いた大穴のせいで強制的に通行止めだし、反対車線も爆発の影響で玉突き事故が発生して大渋滞が起きつつある。これなら別に問題ないだろ。とにかく今は、嫌な予感の正体を突き止めるのが最優先。

「それにしても、ここぞという時の沖継の勘ばたらきは流石の一言だな。私もこの十年強、ずいぶん勘を磨いたつもりだったんだが、さっきも今も何ひとつ感じられなかった。いざという時は男の出番ということか。頼もしい」
「…………」
「む。もしや、私の気配が側にあると邪魔か?」
「え? あ……いや、別に……」
「皆まで言うな。では、私はあの愛人でも助けてこよう。……不本意だが」

 俺の内心を察してくれた結女が、こちらは気にするな、と態度で示しながら転覆したロードスターの方へ歩き出す。何かと気の利くコだな。
 お陰で、独りになった俺の感覚は、なおさら鋭く研ぎ澄まされて。

「こっち……か?」

 確信に近いものを感じて、道路の東側の縁へ駆け寄っていく。
 車輛の転落防止のために立てられている鉄製の柵越しに、遠くの東京湾を臨む。

 大雑把に二キロメートルくらい先になるのかな、工場や埋め立て地といった典型的なウォーターフロントの一角、コンテナ埠頭。そこに何となく気になるものを発見。距離がありすぎて裸眼では判別できないんで、形だけ狙撃銃を構えてスコープを覗き込む。
 このスコープ、何だかやたら高機能で、変な数字や目盛りがたくさん表示されてる。その意味はほとんど不明だけど「x20」ってのが倍率なのはだいたい察しが付いた。裸眼だとゴマ粒程度にしか見えなかった異物が、小豆大くらいには拡大される。

「……嘘、だろ」

 自分の目を疑った。
 でも、間違いない。
 とんでもないモノが、そこに鎮座していやがった。

画像1


 戦車。
 正しくは米軍の主力戦車、M1エイブラムス。
 全高三メートル、全幅四メートル、全長十メートル、車重六十トン強、装甲は劣化ウラン使用の複合型――なんてスペックをダラダラ並べるより、世界最強の移動要塞と表現したほうが手っ取り早くてわかりやすいか。この地上に存在するもの全てを打ち砕き踏み潰す、そのためだけに生み出された鋼鉄のバケモノだ。
 しかも、一輛じゃない。三輛。一個小隊。
 広い敷地にお行儀良く等間隔を空けて並び、こっちにピタリと三門の砲口を向けてやがる。

 いやもう、今夜は有り得ないことが起きっぱなしだけど、さすがになあ、これはない。ないわー。アメリカに本社がある企業の看板広告を見間違えてるだけだよな? 全米驚愕のホニャララがついに日本上陸、君は戦車砲クラスの衝撃に耐えられるか?! みたいな感じで。うん、ありがち。

 と、自分の目を疑うのも一瞬。

 エイブラムズが三輛仲良く、一斉にブッ放しやがった。

 距離があるから発射音はまだ届かない。けど、スコープ越しにはっきり見えた。砲口からオレンジ色の火炎と大量の煙がいきなり吐き出されたんだ。

「待て結女、駄目だ! そっちに行くなあっ!!」

 砲身の角度や向きを見る限りどちらもロードスターの方を狙っているような気がして、俺は慌ててスコープから顔を跳ね上げて叫ぶ。

 でも、もう、叫んだからってどうにかなるタイミングじゃない。

 音速をはるかに超えて飛来した砲弾が、着弾。
 ロードスターがあった地点で大爆発。
 爆音と爆風が俺の肌を切り裂かんばかりに荒れ狂い、視界は爆炎の強烈な光と舞い上がった粉塵に塗りつぶされ、橋全体が地震のごとき強烈な揺れに晒される。吹き飛ばされないようにアスファルトへ這いつくばるのが精一杯。渋滞中の対向車線にも破片が飛んで玉突き事故を誘発、ガラスが砕け鋼板がひしゃげる凄まじい音が幾重にも重なり続ける。

 間違いない、さっきもこれと同じことが起きたんだ。

「ゆ……結女、結女えっ!! おい返事しろ、結女えっ!!」

 世界の終わりみたいな轟音が世界を揺さぶり続ける中、俺は必死で叫ぶ。

「私は大丈夫だ!」

 結女の元気な声が煙越しにはっきり聞こえた。俺が思ってたよりもはるかに近い場所、ほとんど目と鼻の先って感じの距離にいるらしい。砲撃の爆風でこっち側へフッ飛ばされてきたってことになるんだけど、結女が大丈夫っつってんなら大丈夫だろ、多分。

「っていうか、コノは……おっ、おい結女、車はどうなった?! コノは無事なのか?! 俺からは何も見えないんだ!! お前の方からは何か見えないか?!」

 叫んだんだが、返事があるまで妙に遅かった。

「? 結女、おい! どうした!」
「全く、お前はそんなにあの愛人が大事なのか……。いくら何でも必死すぎ……」
「いやお前そんなこと言ってる場合じゃないだろ?! 戦車に狙われてんだぞ!」
「戦車? ……はっ、そうかしまった、横須賀の米軍基地はすぐ側か、迂闊だった」

 あっさり納得しやがった! お前の中じゃ戦車は想定内なのかよ?!

「安心しろ、私からはスポーツカーがなんとか見える。直撃は免れたんだな。爆風で押し戻されてきただけだ」

 結女の話を聞いて、俺は確認のため耳を澄ませる。「びええええおきづぐくんたすけてえええええ!!」と泣きまくっているコノの声が微かながらちゃんと届いてきていた。

「は……はは、やれやれ、つくづく悪運の強いヤツ……」

 俺は思わず安堵の息を吐く。
 けれど、その安堵を打ち消す重い声で、結女が言う。

「だが、次はない」

 さっきと同様、舞い上がった粉塵を海風が少しずつ押し流していく。
 立ち上がった結女の白無垢姿が、うっすら透けて見えてきた。

「砲撃というのは、総じて初弾がもっとも当たり辛い。砲身の熱膨張による影響、風向き、高低差による誤差などを反映させて照準修正しつつ、徐々に命中率百パーセントへ近付けていくんだ。最近は弾道計算の大半をコンピューターがやってくれるから、第三射となれば外れる方がおかしい。ピンポイントで確実に当ててくるぞ」

 結女の言葉には、まるで抑揚がない。
 知っている事実を、淡々と述べただけなんだ。
 そこには、憶測や楽観の類が入り込む余地は一切ない。

「ただ、奴らが愛人を狙って砲撃を加えているとは考えられない。あのスポーツカーにまだ私と沖継が乗っていると思い込んでいるのだろう。これは千載一遇の好機。愛人を見捨てて今すぐ逃げ出せば万事解決」
「いやお前無茶言うなそんなの論外だよ却下だ却下!」
「心配するな冗談だ。そもそも対岸まで何百メートルあると思う? 逃げる途中で橋の崩壊に巻き込まれたら、どのみち私たちはおしまいだ」
「橋……崩壊?」
「さっき、地震のような嫌な揺れ方をしていたじゃないか。だいたい橋なんてものはデリケートな建造物だからな、一度バランスが崩れ始めると呆れるほど脆いもの……」

 ガクン。話の途中で世界が揺れる。
 近くにあった鉄骨――いや、橋桁を支えている超ぶっといワイヤーが、立て続けに数本切れた。同時に橋ががたがた揺れ、少しずつ傾いでいく。
 幸い、その動きはすぐ静止してくれたんだけど。

「……次の砲撃に耐えられるとは、とても思えんな」
「どっ、どうすんだよ、おい……」
「決まっている」

 結女は綿帽子を取り、羽織を脱ぎ捨て、結っていた髪を解いて。

「抵抗あるのみだ。命運の尽きるその時まで」

 腰にまで届きそうなほど長い、艶やかな黒髪。それが風をはらんで宙に舞い、月明かりと街の灯を受けて場違いなほど眩く輝く。

 あれ?
 俺、この光景、どっかで、見たこと、ある、ような?

「私はあの愛人を助け出してくる。沖継は何とかして戦車の砲撃を阻止してくれ」
「へ……? どうやって……」
「訊くな。私にはできそうにないから、お前に頼んでいるんだ」
「待て待て待てその理屈はどう考えてもおかしいし答えになってない」
「心配するな」

 結女は俺の方を真っ直ぐに見て、自信たっぷりに言い切る。

「お前なら、きっと勝てる」
「根拠ゼロじゃねぇかよ!! 過大評価にも程があるわ!!」
「それに、もし駄目だったとしても、私はお前を恨んだりしない」

 結女が、微笑む。

「夫婦で一緒に死ねるなら、本望だ」

 ――女の子の笑顔って、いろいろ種類があるもんだけどさ。
 素直に楽しさを表現した時。親愛の情が自然と出た時。何となく周囲に同調して顔だけを取り繕った時。恋愛の駆け引きの中で相手の心を探る時。
 でも、結女のこの時の笑顔は、過去に見たどんな女の子の笑顔とも全然違っていて。

 言葉じゃ表現し辛いけど、強いて言うなら――そう。
 このコは、俺の外には絶対にこんな顔は見せないし、見せられない。
 なぜそんな風に感じたのかまったくわからないけれど、でも、それは確信だった。

「では任せたぞ。天地の加護あらんことを」

 結女が走り出す。一方的に話を打ち切って。
 小さな身体が粉塵の舞う中へ飛び込み、視界から消えてしまった。
 あの物凄い笑顔に気圧されていた俺は、ぽつんと一人、取り残される。

「お……おおおい?! ちょっと待て結女おい!!」

 あの中学生は何を考えてんだ?! 俺の手からかめはめ波やスペシウム光線が出るとでも思ってんのか! 武器らしいモノなんてさっき渡された狙撃銃だけだぞ?! こんなもん二キロメートル彼方まで届くほどの性能があんのか?! つーか至近距離でブッ放しても劣化ウランの複合装甲にとっちゃ豆鉄砲以下だろ痛くも痒くもねえよ!

「無理だ無理無理ムリすぎるどうにもなんねえよおおおおおおおおおお!!」

 でも。
 泣き言をわめいてる間にも、時間は刻々と過ぎていくんだ。
 おだやかな海風が、舞い上がった粉塵を少しずつ押しのけていく。

 三輛のエイブラムスが次の砲撃を加える、その時が近付く。

 このまま何もしなければ、本当にオシマイだ。
 俺も、コノも、結女も、何もかも。

「クソったれ……!! 何でこんな目に……!!」

 自分の手足だけじゃどうにもならないのは考えるまでもないので、無駄でも何でもとにかく狙撃銃を撃ってみるしかない。俺は泣きそうになりながら再び道路脇の柵に取り付く。膝をついてとにかく大慌てで狙撃銃を弄り回して各部を確かめる。

「……あ。これ、メイドインジャパンだ。モデル名は……HOWA-1500.S6?」

 いやそんな名前とかこの際どうでもいいし!
 幸いだったのは、この銃が狙撃銃だったってこと。弾丸を正確に発射することだけを目的に作った銃なので、余計な装置が一切ついてない。呆れるほど仕組みが単純なんだ。銃の右側面にあるレバーをガシャガシャ動かすだけで何となく使い方が理解できた。

「あれ、ここにボタン……わ、底が開いた。へえ、これで五発も弾が入るのか。薬莢のケツに刻印が……TRIAL PRODUCT / HVeiAP……いや、違うか? よく見えない……」

 いやそんなのいちいち確認して感心してる場合じゃないし!
 ただ、弾が五発あるってわかったのは幸運だった。結女がさっき砲撃の初弾が云々の話をしていた通り、いきなり二キロメートル先の標的を狙っても当たるはずがない。

 試射してみよう。

 視界を遮る粉塵が比較的薄い方向を探す。斜め上方向に約三十二度、距離にしてざっと百五十メートル付近に適当な標的を発見。橋を吊るワイヤーを支えている主塔、その上部で光る識別灯。こいつを狙ってみる。
 ちなみに、距離や角度は暗算で割り出した。手近にある柵はワンブロックの幅がだいたい俺の身長と同じっぽいので、それが主塔までいくつ並んでるかざっと数えれば、直角三角形の底辺の長さがおよそ決まる。あとは学校の数学で習った通り、ピタゴラスの定理と三角関数で解を求めればいい。初歩的な計算だから算出なんてあっという間だ。

「……? このスコープ、水準器や角度計まで内蔵されてんのか」

 さっきまで意味不明だったスコープ内の表示。暗算した結果と近似値なので機能が把握できた。凄ェな、これは便利。このスコープも日本製なんだろうけど、こういう小型化と多機能化はホントにうちの国のお家芸だな。
 少なくとも計測においては暗算より機械の方がアテになるので、スコープに表示されてる情報を元に改めて銃を構え直す。反動は肩で受け止め、左腕は銃の固定、右腕と右手はトリガーを静かに引き落とすことだけに徹する――素人のうろおぼえなのに、ちゃんと正しい構えが取れてる感じがする。これは俺が凄いんじゃなく、銃がよく出来てるんだ。人間が扱う道具として徹底的に改良されてきた証拠。
 でも、ちゃんと構えてるはずなのに、スコープに映る景色が微妙にブレ続けてる。それだけ銃口も動いてるってことだ。見た目のブレはミリ単位でも、銃弾が遠くへ跳べば飛ぶほど狂いは拡大し、数十センチやメートル単位の誤差になってしまう。これじゃ撃つまでもなく絶対当たりゃしない。

 何が悪いんだろう。
 ひょっとして、俺が呼吸してるからか。
 じゃあ、息を止めて――今度は心臓の鼓動が邪魔になる。こりゃ止めようがない。

 しばし考えて、ひらめいた。なるべくゆっくり呼吸して、心臓の鼓動を落ち着けて、とくん、とくん、とリズムを刻むその谷間にトリガーを引き落とせばどうか。擬似的に俺の心臓が一度止まってるのと同じことにならないだろうか。
 そうしてトリガーを引く。発砲。着弾。外した。識別灯は砕けない。狙ったところの若干右下に当たったようだ。俺がミスってないと仮定しても、これが銃やスコープのズレなのか、それとも風やら地球の自転によるコリオリ力の影響なのか正直わからない。

 俺自身はさっきと同じようにして、前提条件を変えてもう一発撃ってみよう。角度、距離、その他もろもろを変えるのに手頃な的は――あれにしよう。発射。今度は命中。

「ひえええっ!!」
「なっ、何をする沖継! 正気か?!」

 女性陣二人に怒られた。いや、ちょうどいいところにひっくりかえったロードスターのタイヤがあったもんで。ごめん勘弁して。

 でもこれで、銃の性能がだいたいわかった。
 弾速が秒速八百メートルを超えてないとこの結果は絶対出ない。てことは計算上、発射直後の運動エネルギー量は四千ジュール前後になるんだけど――うっはすっげえ、空気抵抗や重力の影響をさっ引いても四、五キロメートルくらい余裕で飛んでくぞ。
 ただ、それがエイブラムスに通じるかどうかは別問題だ。
 操縦してるヤツを狙撃できればいいんだろうけど、最低でも一輛に二人、操縦手と砲手は乗ってるはず。てことは最低でも六人やっつけなきゃいけない。残弾三発じゃ全然足りないし、そもそも標的が都合良く戦車から出てきてくれるはずは――。

 ん?

 ちょい待った。銃に関する思考、一旦ストップ。
 俺、何だかすンげェ大事なことを見落としてる気がする。

「ロードスター……。結女と、コノ……」

 そういえばあの辺りって、さっきまで粉塵で隠れてたような。
 ぅおぉいおいおいおぉい! 何でトランクこじ開けてコノを助けてる結女の姿が見えてんだ!! 銃のチェックと性能テストに集中しすぎて時間感覚が飛んでたのか?!

「や、っ……やば、っ……!!」

 俺は慌てて、コンテナ埠頭の方に向き直る。

 けれど、もう遅かった。

 スコープを覗き込んで三輛のエイブラムスを捉え直したまさにその瞬間、その砲口が三度目になる爆炎を吹き出した。



 砲弾が着弾するまで、二秒弱。
 それで俺たちは、みんな、オシマイ。



 死ぬんだな、俺。



 生まれて初めて、俺は本気でそう思った。



 人間ってさ、死ぬ間際に走馬燈みたく自分の人生を思い出すって言うじゃん。あれ本当なんだな。今まさに体験してるよ。心のリミッターが吹き飛んで、ゼロに等しい時間の間に十八年ジャストの人生が早回しでプレイバック。すげェな人間の脳味噌って、やろうと思えばここまで早く回んのか。インテルの最新マルチコアCPUも裸足で逃げ出すぞ。


 なあ、俺の脳味噌。
 こんなにスゲェんなら――さ。





 死ぬ気で計算しろ。





 エイブラムスの位置、この橋までの距離、高低差、最初の砲弾の着弾点、二度目の砲撃の前にしっかり見ていた砲身の角度。それで向こうの主砲がどんな性能を持ってるか割り出せる。戦車の砲弾も物理法則を無視することはないので、必ず放物線を描いて飛んで来る。そこに今持っている狙撃銃の銃弾が描く放物線をいかに重ねるか。
 ああそうさ、こうなったら飛んで来る砲弾を撃ち落とすしか――。

 いや待て、そんなの、やるだけムダだ。

 加速する思考の中、俺の屁理屈で臆病な部分も一緒に加速される。どうやったってアバウトな部分は残るし、厳密に計算しきれるはずがない。そもそも戦車砲の口径は百二十ミリ、その威力は軽く見積もっても五百万ジュールを下らないんだ。一方の狙撃銃はたかだか口径七ミリ、威力も四千ジュール程度。プロボクサーが渾身の力を込めて打ち下ろした必殺の右拳にハナクソを一粒だけ飛ばすようなもんだぞ?

 けれど。
 そんな疑問は早々にねじ伏せる。



 ヤバい時に何もせず諦める正義の味方がどこに居ンだよ。



 俺たち三人はもちろん、たまたまこの橋に通りかかって巻き込まれたその他大勢の命もかかってんだ。中にはチャイルドシートで居眠りしてる小さな子供だっているはずだ。ムダでもハナクソでも構やしねェ。歯ァ食いしばれ、気合いを入れろ、勇気と根性をありったけ振り絞れ。やるんだ。自分が今できることを。
 そういや拓海も言ってたよ。正義の味方は生き様だ。その通りだよさすが我が親友。マジで死にそうな今だからこそ、最期の瞬間まで俺の生き様を貫いてやる!



 息を詰め、心臓の鼓動すら意思でねじ伏せて。
 俺は、トリガーを引き落とす。
 小さな小さな狙撃銃が、大きな大きな砲弾に向けて、か細く淡い火花を噴いた。

 そして。



 俺の視界、一面に。
 巨大な火球が膨れあがる。



「んがっふがっふんがっ……!!」

 俺は砲弾の巻き起こした爆風に煽られスッ転び、銃を構えたままの姿勢で背中からアスファルトに倒れてしまう。ちょっと後頭部もぶつけた。マジ痛かった。崩壊間近の橋が揺れる。周囲がギシギシと音を立てて軋む。
 でも、それだけだ。
 飛んできた三発の砲弾のうち一発が“なぜか”空中で炸裂、他の砲弾二発もその煽りをくらって誘爆したらしい。橋までは飛んでこなかった。俺の計算上だと、放った銃弾と戦車の砲弾が交差するポイントは二百メートルほど橋から離れていたはずだけど、ちょうどその付近で――。

 うおおおおおおおおおおおおおお!! ぶっちゃけマグレだけど成功すりゃこっちのもんだ!! イエスイエスイエエエエエエス!

「え……あ、あれ? 何で……?」
「でかした! さすが私の夫!」

 さっぱり理解できていないコノがトランクからひょっこり突き出した首を捻り、結女が万歳しながら飛び上がって喜んでいる。その様子が視界の隅っこでちらっと見えた。

 でも、褒められるにはまだ早い。

 砲弾が狙った場所に着弾しなかったのは、あの戦車小隊も見てるんだ。まさか狙撃されたとは思ってないだろうから、同じ照準のまますぐに続けて撃ってくるぞ。
 俺は狙撃銃を腕に抱えたまま脚と腹筋のバネだけで飛び起き、柵に駆け寄って銃を構え、エイブラムスの様子を確かめる。
 案の定、さっきと同じ敵意がビンビン伝わってくる。

 でも、俺はもう、絶望しない。ビビりもしない。

 苦し紛れだったさっきの砲弾狙撃、あれはなぜ大成功したのか。死に際を覗いたおかげで手に入れた超高速思考回路をフル回転させて可能な限りその事象を検証する。
 この世の中にはマグレはあっても奇跡はない。すべては必然だ。

 ああ、そうとも、今なら断言出来る。
 勝ち目は、ある。

 戦車が使う砲弾っていくつか種類があるんだけど、あのエイブラムスはこれまで同じ砲弾を使い続けていると見ていい。確か多目的榴弾――HEAT-MPとか言うんだっけ? 命中した場所に穴を穿つのはもちろん、それと同時に砲弾の内部に仕込んだ爆薬を炸裂させて広範囲を破壊するって代物だ。攻撃目標はただの自動車と生身の人間だし、多少狙いが逸れても爆発に巻き込めばオッケーなんだから妥当な選択だと思うよ。普通なら。

 悪ィな、こちとら普通じゃないんだよ。

 HEAT-MPそれ自体は、自分が破壊すべき標的を識別する機能なんて持ってない。ドーンと発射されてしまえば、あとは最初にガツンとブチ当たった場所で爆発するだけ。

 だから、砲弾の鼻っ柱に強烈な衝撃を与えてやれば。
 たとえば発射直前、砲身を通り抜ける最中の砲弾を。
 あるいは発射直後、砲口を飛び出たばかりの砲弾を。
 寸分も違わず、確実に、狙い撃つことができたなら。

 頭の中で弾道計算。風の流れは勘でフォロー。それから目一杯集中して精神を研ぎ澄ます。この世界には俺と二キロメートル先の砲口しか存在していないと錯覚するほどに。

 さっきよりもはるかに精緻に、もっと大胆に、確信を持って。
 エイブラムスが主砲を発射する気配を放つ、その直前。
 俺は先読みして、トリガーを引く。
 さらに続けてもう一発。扱い慣れてきた狙撃銃のレバーをコンマ以下の神速で操作して排莢、そして最後の弾丸を装填。これも即座に狙いをつけ、気配を先読みして発射。

 さあ、俺に出来ることは、これでもう、全てやりつくした。

 結果が出るまで二秒弱。十八年の生涯で一番長い二秒間。
 うまくいけ、外れるな、頼む、どうか、神様――。


どかん
ぼん
ずどーん


 立て続けに三つの爆発が起きる。なにせ二キロメートル彼方だから見た目は癇癪玉ほどの迫力もないけれど、フッ飛んだ本人たちにとってはそうじゃない。
 まず、俺が狙撃した二輛のエイブラムス。発射したはずの砲弾が砲身を通り抜ける途中でなぜか炸裂したもんだから、中身を食ったあとのバナナの皮みたいに主砲がびろーんと裂けて広がってやがる。下手すりゃ爆炎が砲塔内部に逆流したかも。もはや大破同然。
 んで、残る三輛目。俺から見て中央の奥手にいたヤツ。たぶん小隊長機か。残念ながら直接狙撃できなかったけど、僚機の爆発を左右から、しかも発砲直後に間近で受けて無事なワケがない。恐らくは発射直後の砲弾が至近距離で爆発したんだろう、スコープ越しでもはっきりわかるくらい主砲の砲身が歪んでしまっている。

 どいつもこいつも戦闘不能。
 狙い通りの完全勝利!!

 銃を構えてスコープを覗き込んだまま、俺は小さくガッツポーズ。ほんとに今日の俺は自分で自分を褒めまくりたい!!


チュドン!
ズガン!
ドガーン!


「……あれ?」

 さっきよりちょっとスケールの大きな爆発が三連続。若干の時間差を経て、遠く離れたこちら側にまで軽い衝撃が伝わってくる。
 エイブラムスの本体が爆発したらしい。吹き飛んだ砲塔が十数メートルの高さにまで跳ね上げられていく様がはっきり見えた。
 何で? 俺のせい? 逆流した爆炎が予備の砲弾に誘爆した? でも、ほとんど無傷の小隊長機まで爆発したのは何で? まさか自爆? 証拠隠滅?

「? 何だ、あれ……」

 戦車でさえ豆粒くらいの大きさに見える距離だから、はっきりとはしないんだけど。
 燃えさかる炎の中で、何かが、確かに、蠢いている。

 人間? いや、虫なのか?
 腕が八本ある――昆虫人間?
 そういう風にしか表現できない怪物がいる。そう見える。

 怪物が睨む。
 俺たちがいる橋の方を。
 いや、俺のことを。
 その気配は間違いなく、今まで戦車から感じていた敵意と同じ。

 ひょっとして、今夜の元凶はコイツか?

 直感的にそう思った俺は、弾切れしてるのも忘れて狙撃銃を構え直し、トリガーを引き絞ろうとする。
 でも、撃鉄がカチンと乾いた音を立てる前に、未使用の砲弾かそれとも燃料か、燃えさかる戦車がさらに大きな爆発を引き起こす。

 八本腕の化物が、その爆炎に呑み込まれてしまった。
 敵意も、殺気も、危険な予感も、いっぺんに消え失せた。

「? な……んだ、った……んだ……?」

 スコープから顔を上げる。

「終わった……の、かな……」

 フッ、と、緊張の糸が切れた。
 意識が一瞬、ブラックアウトしそうになる。膝がカクッと折れて、身体が倒れていく。ヤバい、頭からアスファルトに落ちる。そうわかっていて対応できない。身体が言うことを聞いてくれない。

 何でだよ――って、考えるまでもない。
 疲労。

 普通だったらどう急いでも数時間、下手すりゃ丸一日はかかる計算を、文字通りの死に物狂いで一瞬にやっつけたんだ。その上この手足は、一ミクロンの誤差も許されない精密射撃を成し遂げた。精も根も尽き果てて当たり前。いくら規格外っつっても、俺はれっきとした人間なんだ。そりゃ限界越えたら倒れもする。

 でも、俺の身体がアスファルトに打ち付けられる前に。
 誰かに、柔らかく受け止められた。

 と思ったけど、違うな。俺はもうひっくり返ってるはず。倒れてる途中で意識が途絶えて、五感が遮断されて、何が何だかわかんなくなってるんだ。きっと。

 だって、今、目の前に、あのひとがいるんだもん。

 現実には存在しない女性。頭の中で思い描いた理想像。それが俺の身体を抱き締めて、支えてくれて、優しく横たえてくれている。つまり今、俺の意識は夢の中にあるってこと。すっげえ頑張ったから褒めに来てくれたんだな。嬉しいなぁ。

「愛してるぞ。沖継」

 ――夢の中のひとって、こんな声してたっけ。

 あ、いや、こんな声だ。うん。そうそう。ちょっと幼い感じはするけど。
 でも、変だな。この声って何だか、結女にそっくり――。

「……って、結女じゃん」
「? ああ、私だが。……どうした?」

 目を瞬かせる。
 確かに結女だ。
 いや、夢だ。
 あれ、どっち?

「本当に、格好良かったぞ、沖継。素敵だった。……惚れ直した」

 呟く結女の瞳が優しく潤む。声音にも濡れたような艶。俺だけに惜しみなく愛の言葉を語ってくれる夢のひとと、今ここにいる結女の印象が、ブレることなく一つに重なっていく。
 ただ、年相応に背が低く、顔つきが幼く、おっぱいがちっちゃいだけ。

「ちょ、ちょっと、何で……」

 寝そべった姿勢から上体を起こそうとしたんだが、もう手を持ち上げるのも億劫。俺は傍らに立っている結女をただ見上げるしかなかったんだけど。

 結女がいきなり、白無垢の帯を解き始めた。

 着物の前身頃がはだけ、AからBへ進化する途上と思われる将来楽しみな胸元が露わになる。女の子って着物を着るときはブラもパンツも着けないってよく言うけど、少なくとも結女は両方ちゃんと――っていやいやいやいやいや待て待て待て待て!

「ゆゆゆ結女おおおおおまえっ、ななななな何してんだよっ!」

 慌てて起き上がろうとするも、結女は俺の身体にのしかかってきてマウントポジションを取る。下着に肌襦袢一枚だけとか下手すると全裸よりはるかにエロい格好で。これはもしや、騎乗位、と表現すべきなのではあるまいか?

「ずっと我慢してきた。ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと。……もう我慢ならん」

 むふー、と音が立つほど鼻息荒く、俺の肩を掴んで地面へ押しつける。その目がもう正気じゃない。喩えるならえーとえーと、めいっぱい上品に表現しても欲情して見境なくなった一匹の雌獣にしか見えません。
 なんか違くね?!
 夢のひとはエロエロで可愛いけどこんながっついてなかったよ?!

「まままま待ってじゅじゅ十四歳がそんなことしちゃ駄目だってばぁ!!」
「うるさい黙れ夫婦が愛を確かめ合って何が悪いさあ脱げいや脱がせる!」
「ははは袴取っちゃだめえええ! こ、ここっ、高速道路だし! 橋の真ん中だし! ほ、ほほほ、ほら、あっちにもそっちにも渋滞で止まってる車が! 他人の目が!!」
「あれだけの騒ぎがあったんだぞとうの昔に車など放棄して逃げ出したに決まっているそこら近所に人っ子一人いるものか」
「ここここらー!! 帯をむしり取るな河に捨てるなーっ!! え、えとえとえと、ぼ、ぼくね、今すっごい疲れてるの! ムリ! できません! また今度に!!」
「世迷い言を。男は疲れた時ほど勝手に勃ってしまうものだろう。俗に言う疲れマラ」
「中学生女子が何でそんな言葉知ってんだどこで憶えたんだこらあああ!!」
「ええいなんでもいいから早くしろ子宮が疼いて疼いてもう一時も耐えられんとっとと初夜を遂げさせろ!! 私はそのために結婚式場を後にしたんだ!!」
「え、ま……まさか、母さんがあの時耳打ちしたのって……お、おまっ、おい、待って、待って、ああまたパンツ一丁……うあああそんなフェザータッチでそんなとこ触っちゃだめえええ! 待って待って待って待ってええええええええ!!」

 こんな時にコノは何してんだよ邪魔しに来いよ! と思って周囲を見てみたら、ロードスターのトランクから上半身だけ出した状態で「きゅう……」みたいな顔して気絶してやんの。多分、結女に当て身でも食らわせられたんだろう。

「ああもうホント残念なヤツだなこんな時こそ根性出せよおおおおお!!」
「ええいうるさい、もはや言葉は要らない! 会話したければ肌と肌、粘膜と粘膜! それ以外のコミュニケーションは現時点をもって全て禁止だ!」

 ああ駄目! 結女それは駄目! その腰を包む小さな布取っちゃ駄目!! お願い神様、この色欲暴走特急を止めてくれええええええええええええ!!

 と、心の中で祈りまくったら、本当に天に届いたらしい。

 いきなり、俺たちに強烈な光が降り注ぐ。

「な……」

 真っ昼間の太陽のような聖なる神の光を受け、邪悪な淫魔もとい結女の動きが硬直する。その光の源が神様でも何でもなくて高出力のサーチライトだと理解する頃には、俺たちの頭上に日の丸をつけた大型ヘリやジェット戦闘機が何機も何機も寄ってたかってきて、航空ショーの編隊飛行でも見てるような状態になっていた。

「……まずいっ……」

 急に結女が焦りだした。マウントポジションを解いたかと思えば、あっちへウロウロ、こっちへウロウロ。
 まさかとは思うけどこれも敵? 俺もう指一本も動かねえよ?!

「だ、大丈夫だ、沖継、あれは自衛隊だ、敵ではない、味方だから……」

 味方の割には結女の挙動が不審すぎる。米軍相手の方がよほど堂々としてたぞお前。
 鉛が詰まったように重たい身体をよっこらせっと起こすと、結女は起き上がった俺の背後へ隠れるようにすがりついてぺたんと座り込んでしまった。そこにヘリが一機近付いてくる。ローターが作る下降気流が叩き付けてきて、結女は吹き飛びそうな肌襦袢を必死で重ね合わせて素肌を隠そうとしていた。よく見ると顔も真っ赤。
 あーそういうことなのね、と納得はしたんだけど、俺にはさっきまで堂々と白い肌を見せつけまくってたくせに何をいまさら。しょうがないので、結女に脱がされかけていた着物を肩にかけてやる。おかげでこっちはほとんどパンツ一丁。寒い。

 んなことやってる間に、上空のヘリから橋に向けて、数本のロープが垂らされた。完全武装した屈強な自衛官が次々に懸垂降下。あっという間に十数人の自衛官に囲まれた。
 見た目は米軍の特殊部隊と似たり寄ったり、素肌の露出がゼロに近い濃紺の戦闘服なんだけど、警戒感は微塵も湧いてこない。理屈抜きの親しみと安心感を感じてしまう。だって、戦闘服の中身が自分と同じ日本人だって一目で判別がつくんだもん。何がどう違うのかを具体的に言うと失礼になりかねないので詳細はお察し下さい。

「お二人とも、ご無事でしょうか。遅参をご容赦下さい」

 隊長っぽい感じの人が一歩前に出て、俺たち二人にむけて頭を下げる。こっちは高校生なのにそこまで謙らなくても。自衛隊の人ってみんなこんなに礼儀正しいもんなのかな。

「どうぞ、沖継様。お受け取りを」

 隊長さんが、俺に何か厚紙の束みたいなものを差し出してくる。

「え、っと……何ですか?」
「宴たけなわの頃、あの結婚式場に届けられる予定だったものです。諸事情あって私がお預りして参りました。全て非公式のものですが、ご覧いただければおかわりになるかと」

 ご覧しても意味わかりそうにないけど、とにかく受け取る。
 蜜蝋で封印されてるものがいくつかあるんだけど、手紙? 祝電かな? 使用されてる紙も高級品で手触りが全然違う。何でこんな無駄に豪華なんだろ。貴族じゃあるまいし。

「……? あれ……」

 その中の一通、差出人の名前に見覚えがあった。
 大物政治家? 何代か前に総理大臣やってた人?
 いやいや、同姓同名なだけだろ。他の名前は全然見覚えないし。

 ――待った。

 一通だけ、記名のないものがある。
 匿名なのかと思ったけど、違う。名前なんて記す必要がないんだ。だってだって、めちゃめちゃ高級そうな和紙に金の箔押しがされてんだけど、その形はどこをどう見ても菊の花――うううわわわててて手がふふふ震えてきたあああ!

「ゆ……結女、おい、こ、これ!!」

 顔を青くしながら、耳まで真っ赤な結女の方を向く。
 と、結女は、うんざりだと言わんばかりの溜息をひとつ。

「やれやれ、気遣いは無用だと伝えておいたのに」
「ななな何だお前その態度と言葉遣いはこの不心得者めもっと敬意を払え敬意を!」
「落ち着け、私が伝えたのは側仕えの者に対してだ。だいいち、彼等にとっては私たちの方こそ……いや、もう時代は変わったんだ。同じ日本人、みんな親戚、みんな家族、みんな大切な身内だ。それでいいと私は思う」
「また極論が始まった! もっとわかりやすく言ってくれよ!」
「……やれやれ。そろそろ思い出してくれないものか」

 結女は面倒臭そうな顔をして、くしゃっと前髪を握り締める。


「もともとこの日本(くに)は、私たち二人で作ったんだぞ?」

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