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〔SE2〕おひさまは再び空を飛ぶ

【はじめに】
 本作は角川書店(当時)発行の小説誌〔ザ・スニーカー〕2004年8月号から10月号にかけて〔お日様は今夜も空を飛ぶ〕というタイトルで掲載された短編小説です。発表された順番ではもっとも古いものですが、エピソードとしては#03になり、書籍化された#01と#02から続く直接の続編になります。



 外界から隔絶された、暗闇の世界。
 光も、音も、右も左も、上も下も判別できない。あるのはただ自分の意識だけ。

(……何よ、これ)

 日向みつきは愕然とする。これと比べたら、土中深くへ生き埋めにされた方がいくらかましではないのか、と。
 この闇の中へ入ることを望んだのは彼女自身だし、出ようと思えばいつでも出られるけれども、それでも、ここに居るだけで言い様のない不安感に襲われる。

(急がなきゃ、早く助けてあげなきゃ……。洒落になんないよ、こんなの……)

 みつきは、暗闇に向けて意識を集中させた。ここに居るはずの誰かを求めて。

(? あ……いた?! おおおおいっ! 聞こえてる?! 聞こえたら返事して!!)

 すると。

(……だ、れ……の、こえ……?)

 応えがあった。
 今にも消えてしまいそうなほど微かなものだったが、確かに届いてくる。

(大丈夫? 無事だよね?! しっかりして!!)

 その微かな声の主の手がかりを、みつきは自分の方へと懸命に手繰り寄せる。

(誰、なの……誰……おんな、の、ひと……女神、様……天使様……?)

 これには、みつきも少々面食らった。

(あはは、なんか光栄だけど、違うよ。別に頭の上に輪っかとかないしね。あ、でもちょっとだけ空を飛べるかな。……じゃなくて、君はまだ生きてるんだよ)
(えっ……)
(ここはね、地獄とかじゃないの。えーと、何から説明したらいいのかな)

 だが、みつきに言葉を選ぶ暇はない。
 相手が、みつきにすがりついてくる。必死で。

(だ、れ……でも、いい……天使でも、悪魔でも……お、ねが……お願い、だから……もう、終わらせて……終わらせて……終わりたい……は、やく……早くっ)

(……殺して、下さい)



 東京都東部の住宅地。
 入り組んだ細い路地。そこに軒を連ねる木造家屋。幸いにも首都圏大震災の影響を免れた民家のほか、神社仏閣の類も数多い。古き良き昭和の面影が今も残る東京の下町だ。

 それが今、凄まじい大火に焼かれていた。

「ど……どうなってんだよ、こりゃあ」

 Tシャツ姿の青年がその様子を見て絶句する。彼がいるのは、自宅の木造賃貸アパート三階、六畳一間。その窓外の光景が、右も左も遠くも近くも見渡す限り火の海だ。
 現在の時刻は深夜二時。零時過ぎには布団に潜り込み眠りについたが、どうも妙な気配がして目が覚めて、何気なく窓を開けてみたらこの有様だった。たった二時間足らずでここまで炎が広がったことになる。未曾有の大地震や大空襲があったというなら話はわかるが、それなら呑気に眠っていられる訳がない。
 悪夢でも見ているのか、とも思うが。

「隣の家もメチャメチャ燃えてんじゃねえか……」

 すぐにでも逃げなければ命に関わる。その事にようやく思い至り、慌てて着替え、財布や腕時計などを適当にポケットへ突っ込み、彼は部屋を飛び出した。

「け、煙が……げほっ、げほげほっ!」

 周囲に人の気配が全くない。玄関戸が開きっぱなしの部屋まである。まさか自分だけが呑気に寝ていて逃げ遅れたのか。ゾッとしながら急いで階段を駆け下りる。
 急ぎ過ぎた。

「……うわあっ!」

 階段を踏み外して転げ落ちた。受け身も取れない。強かに頭を打ち付け、うっすらと血が滲む。意識が遠退く。

 それはそのまま、彼の生命の終わりを意味する――はずだった。

「大丈夫ですか?! しっかりして下さい、気を確かに!!」

 肩を揺すり、頬を優しく叩く感触に目が覚める。
 そこにいたのは、中学か高校の制服を着た小柄な少女。目尻の下がった愛嬌のある可愛らしい顔に、長めの前髪をピンでまとめたショートカット。アパートの住人ではないし、この近所で見かけたこともなかった。

「き、君は……」
「話は後です、あたしの背中に!」
「へっ? あ、いや……」
「早く!!」

 青年は戸惑いながらも、少女に急かされるまま、その小さな背に身体を預けていく。
 少女の背中はあまりに小さく、手も足も細かった。背丈にしても百五十センチに満たないのではないか。青年の大きな身体を背負って移動するには無理がある。
 ところが。

「しっかり掴まってて下さいね!」

 少女は青年を背負ってすっくと立ち上がり階段を駆け下り始めた。早い。ふらつきもしない。全く危なげない。あっという間に一階へ着いてアパートの外へ出て来られた。

「? あれ……」
「どうかしました?」
「いや、アパートの玄関扉が無かったような。防犯用の結構ゴツい奴」
「すみません、入るときにあたしが蹴って壊しました」
「蹴って壊した?」

 青年は、出てきたばかりの玄関を振り返る。
 そこには確かに、破壊された扉があった。金属性の竪桟や框が歪み、蝶番が弾け飛んでいる。大の男が全力で体当たりしてもこれほど見事に壊れるだろうか。

「……君、見かけの割に凄いんだな」
「何か言いました?」
「い、いや、何でもない」

 青年を背負ったまま、少女は走り始めた。もはや誰も居なくなった燃えさかる住宅地を、複雑に入り組んだ細い路地を、迷うことなく駆け抜ける。

「あの、君さ……」
「大地瑤子です」
「……瑤子さん、この辺の子?」
「あたしが住んでるのは世田谷です。女子高の寮住まいで」
「え、そうなの? 道に詳しいから、てっきり」
「ここに来る前、コンビニでこの辺の地図を見て頭に叩き込みましたから」
「……記憶力も凄いんだな、君は」
「でも、あんまり役に立ってないんです。この辺、道が細くて。焼けて崩れた家のせいで、どこもかしこも通れなくなってるから」
「……? じゃあ、どうやって、俺のアパートまで」

 瑤子の答えはなかった。
 代わりに、どおおん、と凄まじい爆発音が聞こえてくる。音の源はさほど遠くない。

「……何だ、今の」
「お兄さんが気絶していた間に、都市ガスや近くのガソリンスタンドに引火し始めたんです。火の回りが早すぎて、消防署も全然追いついてなくて」

 ――そこまで、話して。
 走り続けていた瑤子が、急に足を止めた。

「どうかした?」
「……いえ、今、綾さんから」
「はい?」
「ごめんなさい、少し静かに……ッ?!」

 瑤子が突然、驚きの表情で振り返る。
 青年もつられて、瑤子の振り向いた先を見る。

 炎に包まれた民家がある。すぐ近くだ。

 その、青年と瑤子のいる位置からいくらも離れていないその家が。

 いきなり、大爆発を起こした。

「う……うわああああっ!!」

 青年が絶叫する。目を閉じる暇もなく、身体が爆炎に包まれた――。
 と、思ったのだが、その炎が一瞬にして消え失せた。

「……あ、あれ?」

 炎だけではなく、爆発した民家そのものが消え失せている。
 否、よく見ると、爆発した民家は数十メートル後方にあった。自分たちが先の瞬間までいたはずの場所も炎に焼かれている。まるで瞬間移動でもしたかのようだった。

「びっくりしたなあ……。あの、怪我はないですか?」
「へ? あ、ああ、俺は大丈夫だけど」
「あの家、アウトドア用の大きなガスボンベが置いてあったそうです。……どうしてもっと早く教えてくれなかったのかな」

 ふいに、どこからか自動車のエンジン音が聞こえてきた。
 そして、二人の右手横、普段は歩道にしか使われないような細い路地から新車同様にレストアされた旧型のフォルクスワーゲン・ビートルが現れた――と同時に、急ハンドル、急制動。サスペンションが軋み、タイヤとブレーキが悲鳴を上げる。

「瑤子、無事だった?!」

 車が停止してすぐ、ドアが開いて運転手が飛び出してくる。長い黒髪をアップでまとめて、ベージュのジャケットと黒のスカートを格好良く着こなした二十代そこそこの女。スタイルにも顔立ちにも文句のつけようがない掛け値なしの美人。

「あ、はい。何とか」

 瑤子が元気な声で言うと、その美女は安堵の息を吐いて苦笑する。

「良かった……。あなたに何かあったら、後でみつきに絞め殺されるところよ……」

 青年が目を白黒させていることに、瑤子はふと気付く。

「えっと、あたしの知り合いで昭月綾さん。逃げ遅れた人たちを一緒に助けてたんです」

 確かに、彼女が乗ってきた小さな車には、怪我をした老人や中年女性らが肩寄せ合って乗り込んでいた。

「……そこの方?」

 急に声をかけられて、青年が綾の方を向く。

「今はとにかく時間が惜しいの。安全な場所まで運ぶから、早く車に乗ってもらえるかしら。足の怪我も捻挫した程度のはずだから、少しくらいは歩けるはずよ」
「あ……はい、そうですね、どうも」

 瑤子の背から下りた青年が綾の車に乗り込む最中、自分が足を痛めていることに初めて気付いた。まったく自覚していなかった怪我を綾がなぜ言い当てたのか不思議だったが、それを訊ける雰囲気ではなかった。

「さ、瑤子も乗って。狭くて大変だと思うけど、何とか無理にでも」
「えっ、あたしもですか? 他に助けなきゃいけない人たちは……」
「火が回って危ないところはみつきを行かせてあるわ。火事場と江戸川の河川敷を何度往復して何人助けたか数えるのも億劫だけど、ここにいる人たちが“きっと”最後。私たちが助けられる生存者はもういない“はず”よ」
「はずって、綾さん……」
「場合が場合だから、私も断言したいところなのだけれど……できないのよ。少し前から、ESPの精度がガタ落ちしていて」

 綾が顔をしかめて言う。

「生存者を見つけ出して、広範囲で炎の動きや可燃物の所在を感じ取って、それを元に予知をして、テレパシーでみつきや瑤子に送って……さすがに力の使い過ぎ。頭が破裂しそうよ、吐き気も少し」
「だ、大丈夫なんですか?」
「まあ、何とかね。もう少しくらい保つでしょうし、保たせるわ。さ、早く。もたもたしていたら、私たちまで炎に巻かれ……」

 綾の顔が、急に凍り付く。

「綾さん?」
「……間に合わなかったわ」

 苦々しげに、呟いた瞬間だった。
 またも遠くで、爆発音が起きる。

「国道六号線沿いに放置されたタンクローリーが爆発した音よ。これをきっかけに、違法駐車の自動車が立て続けに吹き飛んで……」

 綾が言う間に、爆発音が連続していく。

「……この区画からの脱出路は全滅。いずれは極端な温度差が元で東京湾から嵐のような風が吹き込んで、炎がなびいて、煙が渦を巻く。こんな細い路地に逃げ場はないわ」
「そ、それって……あの……」
「もう少し時間があると思っていたのだけれど、感じ取れなかった何かがあったのね。Dead End。短い人生だったわ」

 疲れ果てて、綾が地面にへたり込む。

「そ、そんな、諦めないで下さい、あたしに出来ることなら何でもしますから」
「無駄よ。私たちではどうにもならない」
「じゃあ、ひなたセンパイに連絡……」
「間に合わない。みつきは今頃、助け出した怪我人を抱えて救急病院に向かっているわ。みつきがその人たちを途中で放り投げることは有り得な――――」

 また、綾が途中で言葉を切った。
 諦観し、言葉を吐くのも面倒になったかと思われたが、違う。

 綾は地面に手をつけ、しきりに周囲を見回し始める。

「あの……綾さん?」
「ねえ、瑤子。地面、揺れてない?」

 確かに、揺れていた。
 その揺れは、だんだんと大きくなっていく。震度にして一、二、三――。
 綾の車に乗っている人々もこれに気付いた。皆一様に怯え、嘆き、悲鳴を上げる。大火事の次は大地震が来るのかと。
 だが、綾と瑤子の反応は違った。

「こ、これって、綾さんっ!」

 満面の笑顔で瑤子が言う。

「本当に、私のESPは狂いっぱなし。こんなに早く帰ってきてくれて……」

 綾が微笑み、顔を上げた。
 見つめるのは、はるか遠くの空。この地域を縦断して流れる川の方向。
 そこに、見つけた。おそろしく巨大な水の柱が竜巻のように渦を巻きながら、空へ空へと舞い上がっていく様を。

 そして、その水の柱の、さらに上。

 炎や煙に遮られて地上からは見えないが、人がいる。年の頃は十八、九。毛先を波打たせた長めのボブカットに縁無しの伊達眼鏡、煤まみれのスウェットシャツと、プリーツスカートにジーンズの重ね着。彼女はヘリコプターや飛行機に乗っている訳ではなく、自分の身体一つで空に浮かんでいる。

 これが、大量の水を空へと引っ張り上げている張本人。強力なサイコキネシス能力者。
 日向みつき。

「そ、の……まま、そのまま……っ、もっと……もっと、たくさん……ここまで、上がってきて、お願い……そのままっ……」

 みつきが発振する強力な指向性の思念波が物理的な力と化して、川の水を空高くへと引っ張り上げていく。その水量は、数百トン、数千トン、数万トン――とめどなく増えていく。地上の炎に浴びせかけるつもりだろう。

「おねが……い、だからッ……このっ……言うこと、聞いてっ……」

 眉間に皺を寄せて歯を食いしばり、必死でサイコキネシスを送り続けるが、思うように水が動かない。それどころか、積み上げた砂が自らの重さで崩れるように、水の柱が少しずつ形を失って川の方へと戻り始める。

「うわわっ、ちょ、ちょっと……待って、お願い、待ってってば!!」

 みつきが慌てて、崩れゆく水の柱を維持しようとする。が、慌てれば慌てるほど集中力が散漫になり、力が逃げる。大量の水が滝となって川面へと流れ落ちていく。

「あ……あああっ、うわああっ」

 水の柱が、完全に崩れ去った。
 みつきが失意に項垂れる。地上に広がる火の海をただ見つめる。
 そして、不意に。

「……こんちくしょう」

 ドスの利いた声で、ぽつりと。
 眉が釣り上がり、頬の肉が痙攣し、引きつった口元から覗く噛み締めた歯がぎりぎりと音を立てて擦れ合う。その顔を喩えて言えば鬼か羅刹か般若の面か。

「おんどりゃあっ!! たかが水の分際でいつまでもダダこねんなあっ!! 黙って言うこと聞きやがれ!! こんにゃろおおおっ!!」

 転瞬、どおん、と大きな音がした。みつきを中心に放散した巨大な衝撃波だ。
 それを前触れに、とてつもなく巨大な力が川面に向かう。一度は崩壊した水の柱があっという間に立ち直っていく。しかも最前のものより一回りも二回りも大きい。それは天に昇る龍のように尾を引きながら物凄い速さで空へ駆け登り、みつきの足元で巨大な水の球になった。

「行け行け、急げ急げ、思いっきり飛び散れえっ!! 炎めがけて飛んでけえええっ!!」

 言うや否や、水の球が大爆発を起こした。
 四方に弾け飛んだ水は重力に引かれて落下し、大雨になって地上の大火に降り注ぐ。

「ま……まだまだ、疲れてる場合じゃ……。この調子でもういっちょ……ん?」

 ふと我に返って、地上を見る。
 揺らめく赤い炎は、ほとんど見当たらない。すでに地上波ほぼ鎮火してしまっていた。

「あ、あは、あはは……! やった……やった、やったあっ!! 火事、食い止めたよー!! あやーっ!! よーこおおっ!!」

 歓喜の叫びが、夜空に響き渡る。
 だがその頃、地上では。

「少しは加減を知りなさいよ……。本っ当にはた迷惑な……」

 ずぶ濡れの綾が一人ごちる。その隣にいた瑤子もずぶ濡れだ。しかも、多すぎる水が排水溝から溢れ返って道路を被い、今もなお二人の足元で波打っている。

「でも、ひなたセンパイは、曲がりなりにもみんなを助けるために……」
「ええ、それは私も認めるけれどもね。物には限度があるのよ、瑤子」

 綾は濡れた髪を解き、滴る水を振り払って空を仰ぐ。

「……いえ、みつきを責められないわね。少しでも早く食い止めたかった気持ちは、痛いほどよくわかるから……」

 そう呟く綾の顔に浮かぶ表情は――。
 憐憫、だった。



 大火事の夜が明けて、その日の正午過ぎ。
 目黒区代官山の一角にある、小さな喫茶店。
 お世辞にも流行っているとは言い難く、昼食時も空席が目立つような店なのだが、今日は不思議と客が多かった。珍しい日もあったものだと、店主は上機嫌で仕事を続けている。
 その店の一番奥の席に、仮眠を取って着替えを済ませた日向みつき、昭月綾、大地瑤子の三人と、背広姿の若い男――内閣情報調査室の事務官、久瀬隆平が座っていた。

「……君らには感謝してるよ。一応、な」

 久瀬は、テーブルの上に広げた大火事の写真や、消防庁、警察庁の判がある書類の類を見ながら話を切り出した。この話の内容が隣席に伝わる心配は一切ない。今この店にいる客は全員、久瀬の依頼で公安調査庁から派遣された政府筋の関係者ばかりだからだ。

「多分、日向のいつもの奴……誰かの叫び声が聞こえるって奴か、あれで駆けつけてくれたんだよな? 今のところ運良く死者の報告は出ていないし、もしも運良く大雨が降り出さなければ、最終的な被害は今の二倍や三倍じゃすまなかったろう。葛飾区役所の担当者もこんなの奇跡だって泣いて喜んでたよ。ただな」

 久瀬の指が、三枚の写真を手元に引き寄せていく。
 一枚は、川から空に向かって伸びた巨大な水の柱。二枚目は、火事に降り注ぐ豪雨の様子。そして三枚目は本日早朝に撮影されたもので、大火事と軽度の洪水で二重の害を被った下町の様子だった。

「もうちょっとこう、地味にできなかったのか、地味に……」
「三人一緒くたにしないで。私や瑤子は関係ないわ。悪いのはみつき一人」

 綾がしれっと言い放つと、みつきが顔色を変える。

「ちょ、ちょっと待ってよ。何で私だけ? 逃げ遅れた人を助け出したら川から水を汲み上げて雨を降らせろって言ったのは綾でしょ?」
「あれは延焼を食い止めろという意味で言ったの。私はそこまできちんと説明したはずよ? 燃えさかる炎に大量の水を投入すれば水蒸気爆発が起きて、むしろ被害が増える可能性もあったのだから。第一、あれだけの大量の水を上空に引っ張り上げるなんて、みつきの負担も軽くはなかったでしょうに。途中で何か変だと思わなかったの?」

 暫時、沈黙。

「それは、まあ。言われてみると、やりすぎたかなー、とか思うけどさ」
「だったら、認めて欲しいわね」

 綾が、静かに睨みつける。
 そしてみつきは、しおらしく項垂れて。

「ごめんなさい、一から十まで何もかも、愚かな私が悪うございました……」
「はい、よくできました」

 綾は、実に爽やかな笑顔を見せた。

「事情はよーくわかったよ。面白い報告書が書けそうだ……」

 久瀬はこめかみの辺りを指で押さえ、静かに溜息を吐(つ)いた。

「あの、すみません。質問なんですけど……」

 今まで苦笑いを浮かべつつ聞き役に回っていた瑤子が、初めて口を開く。

「あの大火事の原因、ニュースでは調査中としか言ってないみたいですけど……他に何かわかってることはないんですか?」
「いや、実は俺も、そのことで君らを呼び出したんだ。説教という名の事実確認は二の次でね」

 久瀬は、傍らに置いてあった自分の鞄を開け、中を探りながら話を続ける。

「今件の後始末も含めて関係省庁と連絡を取り合ったんだが、どうもここ最近、あの一帯で悪質な放火が続いていたらしいんだ。ここ一ヶ月で七十六件。手口はおそろしく巧妙で、現場に犯人の痕跡は皆無。放火された場所にも法則性が見出せないそうだ」
「じゃあ、今度の大火事も? 何だかすごい放火魔さんなんですね……」
「ああ、いくら何でもすごすぎるな」

 久瀬は、鞄の中からポータブルDVDプレイヤーを取り出して、テーブルの上に置く。

「組織的な犯罪だとしたら、警察や消防への挑戦、または思想犯や確信犯とも思える。実際、情報調査室の中でも、今日からこの火事をテロと仮定して動き始めたんだが……」

 久瀬は、プレイヤーのスイッチを入れた。

「とりあえず見てくれ。消防庁のヘリが偶然捉えた出火時の映像だ」

 映像の再生が始まる。
 東京西部の夜景。静まり返った町に突然、無数の火の手が上がる。

「ここに映っているだけで、直径一キロメートルほどの範囲内、千数百箇所がほぼ同時に燃え始めてる。……で、次が、ほぼ同時刻に民間の防犯カメラが捉えたものだ」

 どこかのオフィスビル内部らしい。観葉植物や絨毯、積み上げられた書類や段ボール。人の気配も火の気もまるでないのにいきなり燃え始め、あっという間に炎に包まれた。

「どう考えても普通の火事じゃない。これ、君ら三人はどう見る?」
「そりゃ、まあ……パイロキネシスだとは思うけど。多分ね、多分」

 みつきが躊躇いながら答える。

「パイロ……? 何だそれ?」
「念力発火。超能力で火をつけること。ひょっとして知らないの?」
「知らんよ。それはつまり、大地みたいな特殊な奴か?」
「違うってば……。偶発的に顕在化する超能力者には、大きく分けて二通りしかないの。まずは潜在感知能力……パッシブ・キャリバーを主に使うESP能力者。そのうちのごく一部が物理干渉能力……アクティブ・キャリバーに目覚めて、サイコキネシス能力者に転化する可能性があるけど、これでほぼ全て。瑤子みたいなEXは、私たちが育った研究所でもほんの数例しか確認してなかったんだから」
「それは知ってる。特務分室にある関連資料には一つ残らず目を通したからな。でも、パイロキネシスのことなんてどこにも説明はなかったぞ」
「うーん……なら、人間の思念波やエネルギーの流れを感じ取るパッシブ・キャリバーがいろんなことに応用できるのは知ってるでしょ。予知、遠視、テレパシーって感じでさ。パイロキネシスもそれと同じ。アクティブ・キャリバーを応用したサイコキネシスの一種なの」
「じゃあ、日向も出来るのか?」
「もちろん出来るけど……。これくらいなら、別にいいか」
「何だよ、含みのある言い方だな」
「別に、含みなんてないよ」

 みつきは、テーブルに置いてあった氷水のグラスを手元に引き寄せる。

「サイコキネシスって、本質的には〝動け〟と〝動くな〟のどちらかを物質に強制する能力なのね。で、たとえばこのグラスの中の水の一部を動かしながら動かさないように……矛盾して聞こえるだろうけど、互いに強く押しつけながら激しく擦り合わせる、って感じかな? そうすると――」

 言うや否や、あっという間にグラスの氷が溶け、水が沸騰、蒸発していく。

「――こうなるの。物理現象としては摩擦熱とか断熱圧縮に似てるんじゃないかな。同じようなことを空気中でやれば、いくらでも好きなところに火がつけられるってわけ」
「……日向、まさかとは思うが」
「私が犯人なワケないでしょうがぶっとばすぞこんにゃろう」
「いや、本気で疑った訳じゃないが……しかし、つくづく物騒な奴なんだな、君は」
「悪かったわねデンジャラスで」
「とにかく、この放火事件の犯人は超能力者で決まり、と考えていいわけだな。それもかなり強力な……極過型のサイコキネシス能力者だと」
「いいえ、あり得ないわ」

 間髪を容れず否定したのは綾だ。

「パイロキネシスのような高度な応用は、訓練も強化措置もなしにはできっこない。その両方が可能だった先進諸国共同の研究所はもう存在しないし、ましてやあれだけ広範囲を一度に燃やすなんてね。負荷に耐えられなくて精神崩壊するのがオチよ」
「じゃあ、この火事は一体何なんだ?」

 綾は口元に手を当て、少しの間考え込む。
 が、すぐに苦笑し、両手を広げて。

「全然わからないわ。お手上げ」
「…………」
「そんな顔をしないで。明日か明後日になれば、遠視でもサイコメトリーでも何でもして結論を出すわ。まだ大火事の時の頭痛が取れていないのよ、私」
「もう少し早くならないか? できれば今日中に」
「あら。珍しく無理を言うのね。回復するまで待てないの?」
「待てない。今度の火事で焼け出された住民は、周辺の公共施設や、河川敷に設置される予定の仮設住宅に住むことになる。相当な人口密度だ。もしも今度の大火事を引き起こした放火犯がそこを狙ってきたら」
「ああ、そうね……この前以上の大惨事ね」
「ESPが使えなくても、君ら三人の知識と経験、それと情報調査室の情報網があれば何とかなると思うんだ。頼む、手を貸してくれ」
「……困ったわね、どうしましょうか」
「何か問題でもあるのか?」
「午後からは趣味の習い事。夜は彼氏が家へ遊びに来るはずなの」
「…………」
「あの、すみません、私も」

 瑤子が控えめに挙手しつつ、躊躇いがちに。

「せめて、明日以降の放課後とかじゃ駄目ですか? 授業も仮病でずる休みしてるし、今も病院に行くって嘘ついて寮を抜け出してるんです」

 そして、久瀬の視線がみつきに向く。

「そ、そりゃ私は、どちらかと言えばヒマな浪人生だけど、もうじき予備校の模試があって、できれば勉強したいかなー、とか」

 久瀬は呆れて、深い溜息を吐く。

「君ら、本気で言ってるのか、それ……」
「誰だって予定くらいあるってば。いきなり久瀬さんの仕事に付き合えって言われても、私らは政府からお給料貰って働いてるワケじゃないんだし」
「…………」
「そんな目で見ないでよ……。それに、知識がどうのこうの言われても、知ってることは全部話したし、ねえ?」

 みつきが言うと、綾と瑤子が揃って頷いた。
 久瀬は再び、深い溜息を吐く。

「わかったよ。後は俺の仕事だ、一人で何とかするさ」

 久瀬は荷物を片付け、席を立った。



 そして、みつきら三人もめいめいに帰路へとついた――はずだったのだが。

 JR中央線の下り電車に乗って八王子の自宅へ戻ろうとしていたみつきは、何故か途中で上りの電車に乗り換えた。自家用車の綾は首都高速道路からお台場を抜けて東へと走り始める。バスに乗った瑤子も、女子校のある世田谷とは真逆の方向に向かっていた。

 三人の目的地は、先の大火事で被災した街のほぼ中央に位置する総合病院である。

 周囲には全焼した建物も多いのに、この病院は平常通りの診療を続けている。病院としての機能そのものに支障が出るほど炎が回らなかったようだ。

 しかし、それも当然だ。
 出火当時、みつきたち三人はこの病院に居たのだから。

「……みつき、こっちよ」

 最初に病院へ到着し、外来受付のロビーの片隅で待っていた綾が、玄関を潜ってきたみつきに気付いて呼び寄せる。もう夕暮れ時に近いというのに、火傷やら煙の害やらで医師を頼ってきた外来の患者はすさまじい数に上っており、みつきは人の波を掻き分けるようにしてようやく綾の側へ辿り着いた。

「意外と遅かったのね、まさか尾行でもされていた?」
「そう思ってたんだけど、勘違いだったみたい。思い切って中野で電車を乗り換えたら、見られてるような気配は途切れたから」

 みつきはサイコキネシス能力者だが、限定的な弱いESPも兼ね備えている。それは一般に言う勘の鋭さと大差はないのだが、例の叫び声に関わる感覚と、自分に向けられた他人の視線を感知することの二つに関してはほぼ誤謬がない。夜間限定とは言え、首都東京の上空を何度となく飛び回って、未だ一度も衆人の目についたことがない所以である。

「誰だか知らないけど、電車の中でジーッと見られてたの。まさか痴漢とかかな……」
「いいえ、とびきり可愛い女の子が同じ車両に乗ってきたから、たまたま気付いた男の人の目を惹いただけ。素直に喜んでいいのよ?」
「……嫌味か、こら」
「あら、そんなつもりはないのだけれど」
「私がそんなに可愛かったら、とっくの昔に彼氏の一人や二人は楽勝で捕まえてるよ……。で、そっちは? 尾け回されたりしなかった?」
「ええ、全くなし。保証してもいいわ」

 実のところ、綾のESPは今朝方の仮眠である程度は回復していて、頭痛もほぼ解消されていた。誰かの尾行を許すことは絶対に有り得なかった。

「ただ、疲れているせいか眠くて仕方ないのよね……。少し、構わない?」
「寝る気なの? こんな人の多い所で?」
「ESPに飛び込んでくる思念波のノイズに比べたら、この程度の騒音は微風みたいなものよ。意識からシャットアウトすれば済むわ」
「なるへそ。いいよ、安心してお休み」
「悪いわね、甘えて……」

 綾は手近な長椅子に座ると、背もたれに身体をあずけて目を閉じた。
 ほどなく、規則的な寝息が聞こえ始める。

「よっぽど疲れてるんだ……。ごめんね、いっつも付き合わせちゃって」

 みつきは申し訳ないと思いつつ、子供の頃からつきあいのあるこの親友が側に居てくれることが心底嬉しかった。
 そして数分後には、瑤子も病院に到着。みつきは同じように尾行の有無を訊ねたが、

「大丈夫だと思います。念のため、途中で二、三回くらい人気のない路地を全力で走ってきました」

 つまり、時間を止めて瞬間移動を繰り返した、ということになる。これを追跡できる者などこの世にはまず存在しないと見ていい。

「そっか、じゃあ安全だね。まあ、久瀬さんが私らの後を尾けたりはしないと思うけど、あの人いまいち信用できないからなあ……」
「あの、ひなたセンパイ。そのことなんですけど、本当に情報調査室の人にいろいろ黙ってて良かったんですか?」
「どういう意味?」
「だって、このままじゃ今度こそ大勢の人が死んじゃうかもしれないんですよ。私たちだってもう手詰まりなのに……」
「久瀬さんに任せるべきだ、ってこと?」
「いえ、でも相談くらいは」
「綾が言ってたじゃない、久瀬さん……って言うか、普通の人にバレたら結論は一つしかなくなるって。こんなの相談する以前の問題……」

 そこまで言いかけて。
 みつきはふと、瑤子が叱られた子供のように俯いて黙り込んでいることに気付く。そして、自分の声が怒気をはらんでいたことにも。

「あ、ごめん、言い過ぎた。別に瑤子を責めてる訳じゃないよ」
「いえ……」
「そりゃ、私だってわかってるんだけど……。このままじゃ、あの子がまたあんな大火事を起こしちゃうって。そんなの、わかってるんだけどさ」

 みつきは唇を噛み、黙り込む。
 ――と。
 眠っていたはずの綾が、いきなり目を覚まして飛び起きた。

「うわびっくりした。どしたの綾、急に」
「迂闊だったわ、病院に入った時点で、一度周囲を確認しておくべきだった……」
「はい?」

 だが、すぐにみつきも気付いた。
 背後から視線を感じる。近付いてくる。
 ゆっくりと振り返ると――。

「……今の話、じっくり聞かせてもらおうか」

 久瀬隆平がそこに居た。


 久瀬がこの病院に来て三人と出くわしたのは偶然だが、ある意味、必然とも言えた。
 喫茶店での話を終えた後、久瀬は霞ヶ関の内閣官房に戻り、今後について海外にいる上司の山形祐三参事官と電話で相談した。そして、

「まずは試しに、火災現場周辺の病院を調べてみてはどうかな?」

 との助言を受けた。
 みつきたちから得た情報を総合すると、放火犯は超能力者である可能性が高く、かつ、無理なパイロキネシスの濫用で脳神経組織に異常を来していると考えられる。ならば今は火災現場近くの病院に担ぎ込まれているのではないか――と推理したのだ。
 事件の前後に事件現場の付近にいたことが確実で、原因不明の昏睡状態に陥っている患者などそう多くはないはずだ。最近の病院はカルテの電子化も進んでいるし、政府の対策室が厚生労働省と連絡を取り合って火事の人的被害を調査していたという幸運も手伝って、条件に合致する患者のリストアップはあっという間に完了する。

 ただ、唯一、情報調査室による調査が及ばない病院があった。

「……それがこの病院だ。今は詰めかけた外来患者の対応だけで精一杯、とてもじゃないがカルテの調査と提出には応じられないと言われてな。仕方なく足を運んでみたら、たまたま聞き覚えのある声が耳に入ってきた……って訳だ」
「納得したわ。内閣情報調査室の名前は伊達ではなかったのね、お見事」

 わざとらしく感心しながら綾が言う。

「ふざけてる場合か」

 久瀬は怒りを堪えつつ。

「日向のさっきの口振りなら、君らは犯人を知ってるんだろう。なぜ隠そうとした」

 久瀬が責めるのはもっともだから、三人は答えられずに黙り込むしかない。

「みつき、どうするの?」

 綾が、みつきと目を合わせる。

「しょうがないよ、もう……」

 みつきの呟きに、綾は溜息を一つ吐いて。

「まずはご本人に会いに行きましょうか。それが一番早いでしょうし。……面会謝絶だから、医者は久瀬さんが説得して頂戴ね」



 黄昏時の紅い光に染まった個室病床。
 所狭しと並べられた多数の医療機器、その中央に据えられたベッド。
 そこに眠る、十歳そこそこの男の子――。
 彼は、よほど長い間眠り続けているのだろう。表情筋が痩せ衰え、直視するのも辛いほどの冷たい顔になっていた。

「佐和達美、十歳……小学四年生。一ヶ月ほど前、学校の階段で足を踏み外して頭部を強打、頸骨を損傷。脳に異常はないし、首の手術も成功したらしいのだけれど、見ての通り今に至るも目は覚めないままなの」

 綾は説明しながら、面会の許可を取った担当医と看護師に「少し外して下さい」と目で伝える。医師らはしぶしぶ従うが、病室を出てから「何で厚労省医政局の役人が……」と、あらかじめ久瀬が用意していた本物の書類を見て首を傾げていた。
 病室の中には、久瀬とみつき、綾、瑤子、そして当の患者だけが残る。

「本当に、こんな子供が放火犯なのか」

 久瀬は信じ切れないが、綾は確かに頷いた。

「しかし、一ヶ月前からこの状態なら、超能力なんか使いたくても使えないだろう。傍目には、よく言う脳死とか植物状態と見分けはつかないぞ」
「……意識は確かなんです」

 瑤子は、目を伏せたままで。

「ただ、脳と身体が上手く情報交換できてないみたいで……。前に来た時も、綾さんのテレパシーを使えば、一応、お話しできたんです」
「今も、できるのか」
「いえ、今は、その……」
「なるほど。可哀想だが、自業自得か」

 久瀬の呟きに、みつきの顔色が変わる。

「ちょっと、自業自得ってどういう意味よ」
「言ったままの意味だよ。この状態で所構わずパイロキネシスを使って大火事を引き起こした挙げ句、今は精神崩壊というか、そういう状態なんだろう」
「違うっつの何言ってんの馬鹿じゃないの? そこの脳波計見てみなさいよ普通に波形を刻んでるでしょうが。今はただ大火事を起こした後の疲れがひどくて眠ってるだけ」
「何を怒ってるんだ君は。だいいち、あんな大火事を超能力で引き起こして平気なヤツはいないと言ったのは君らじゃないか。まさかそれも嘘だったのか?」
「あーもう、この勘違い男! 誰がそんなバレバレの嘘なんか吐くかっ!」
「みつき、気持ちはわかるけど落ち着いて。久瀬さんは本当に何も知らないのだから」

 綾が、久瀬とみつきの間に割って入る。

「久瀬さんは、Partial hypertrophyを知っているかしら。日本語では編成肥大と訳したはずだけれど」
「いや、初耳だが。専門用語か?」
「そうなるのかしら。私たちが育った研究所では基礎の部類に入るわ」

 人間が持つ能力は様々な要因によって成長・強化されるが、これが最も顕著なのは、応用性や発展性をあえて捨てて一つの目的に特化していく場合である。日常的なところでは文系や理系といった学問分野の選択がそうだし、脳神経組織の障害が元で天才的な暗算能力や記憶力を持つに至ったと考えられるサヴァン症候群なども、その一例と言える。

 そしてこれは、超能力が成長・拡大していくプロセスにおいてもあてはまる。生身の人間が持つ能力には変わりがないからだ。

 特に、自身の資質に無自覚のまま成長すると、偶発的に超能力が発現・自覚した時にはもはや是正も応用も不可能な強い癖がついていることが多い。民間にあって存在が黙認されてきた予知、透視、サイコメトリー、テレパシーなどのESP能力がそれぞれ別種の超能力だと思われてきたのは、こうした事情によるものである。
 しかも、超能力は自覚することが難しい。意図的に使いこなせるケースなどごくわずかで、大半は恐怖、怒り、絶望などの心理的な影響での瞬間的な暴発を経験するに留まる。この場合、極端な強い癖のついた能力が長年にわたる抑圧から開放される格好になるため、往々にして本来の潜在能力を大きく上回る超常現象を引き起こしてしまうのである。

 これを、超能力の偏性肥大、Partial hypertrophyと呼ぶ。

 実は偏性肥大はひどくありふれた現象で、誰もが一生のうち一度や二度は必ず経験している。特に多いのが、恐怖や不安をきっかけに何らかの残留思念を感知すること――いわゆる心霊体験だが、これも立派なESPの偏性肥大である。
 そう、本来はその程度で終わることなのだ。潜在能力が低ければ。

「潜在能力が高い人……特にアクティブ・キャリバーに長けた人の偏性肥大は悲劇になりやすいの。有名なところではポルターガイスト現象や人体発火ね。後者はパイロキネシスが能力者の体内で発現して、自身を燃やし尽くして灰になるまで止まらないこともある。今回もそれと似たようなものよ。規模は桁違いだけれど」
「じゃあ、この男の子は……」
「放火した自覚なんか一ミリもないの!」

 みつきが堪えかねて口を挟む。

「真っ暗で何の音もない部屋に長時間放り込まれるのって立派な拷問なんだからね?! 大人だって気が狂うくらいなのにこんなちっちゃい子がずっと死にたい死にたいって思ってても仕方ないでしょうが! そうやって歪んだ意思力がたまたま……ホントにたまたま、全部パイロキネシスに向かって……。それを何よ、自業自得だなんてよくも言えたわね!!」

 詰め寄ってくるみつきに、久瀬はたじろぐ。
 が、今の彼にとって、感情論は二の次だ。

「悪いが日向、後にしてくれ。……昭月、つまり今、この子は無事なんだな?」
「ええ、そうよ」
「なら何故、話ができないんだ。君のテレパシーで事情を話して、少なくとも……その、偏性肥大か。そのきっかけになる心の乱れを鎮めるように言い聞かせれば」

 すると、みつきの怒りを懸命になだめていた瑤子が、

「できないんです、危険すぎて……」

 実はみつきは一週間以上前から、東京都西部で頻発していた放火事件を知っていた。大火事の前からそれなりに規模の大きな火事が起きていて、これが例の叫び声に結びついていたからだ。悪質な放火事件に違いないと確信したみつきは当然ながら憤慨。何としても犯人を見つけ出してとっちめるのだと綾と瑤子に助力を求め、ほどなく綾のESPがこの少年、佐和達美の存在を感じ取る。
 そして、大火事の起きる直前。
 三人は窓からこの病室に侵入し、みつきは綾のテレパシーに介在してもらって、達美少年の精神世界へと入り込んだのだが――。

「ひなたセンパイは、この子に〝殺してくれ〟って頼まれたって……。それは無理だって言ったんですけど、でもそれって、この子にしたら、この先何年あるかわからない寿命いっぱいまで、何もない暗闇の中に閉じこめられるのと同じです。きっと、絶望して……慰める暇もなくて、それで……いきなりあの大火事に繋がっちゃったんです」
「下手に刺激したら、また大火事を引き起こしかねない訳か」
「そういうことに……なります」
「だが、放っておいても同じだよな。念力発火が引き起こす火災は続く」
「……そうです」
「ちょ、ちょっと、久瀬さん、まさか」

 顔色を変えたみつきが詰め寄るも、久瀬は応じない。
 一人背を向けて、病室を出ていこうとする。

「こら! 無視すんな! どこに行く気?!」

 久瀬はみつきの顔を見ようともせず、病室の扉に手をかける。
 だが、その瞬間、彼の頭の中に何かが入り込んでくる感触があった。

「な、っ」

 脳に直接触られたような気持ち悪さに、思わず振り返る。
 ――綾と、目が合った。

「情報調査室に連絡する気よ。この子の処置について判断を仰ぐつもりね」
「……昭月、君はっ」

 戸惑う久瀬に、みつきが傲然と歩み寄る。
 そして彼の背広の袖を強く掴んで、

「まさかとは思うけど、その処置って、この子を薬漬けにして脳をダメにするとか、下手したら殺すとか、そーいうわかりやすくてくっだんないヤツじゃないでしょうね?」
「…………」
「黙るな、こら!」
「……それ以外に、安全を確保する方法があるのか」
「だから久瀬さんには言いたくなかったのよこの頭でっかちバカ役人! あんた事故を未然に防ぐために人を殺す気なの?! しかもこんな無抵抗のちっちゃな子を!!」
「その判断をするのは、俺じゃない」
「報告したらそういう判断が下るのは目に見えてるんでしょうが! 久瀬さんがこの子を殺すのと何が違うのよ!!」

 これが、久瀬の感情を逆撫でした。

「また前と同じ大火災が起きた時のことを考えろ! 今度こそ何の罪もない大勢の人間が炎に焼かれて死ぬことになるんだぞ! そうなったら日向は責任が取れるのか!! 今この時も数十万の周辺住民は命の危機に晒されてるんだそのくらいわかれよ!!」
「だからこの子にはそんな自覚すらないんだってばなんでそんなこともわかんないの! いま一番辛い目に遭ってるのは他でもないこの子なんだよ?! 生きてるだけでみんなに迷惑かけてる化物みたいに言うな!!」
「実際、化物も同然だろうが! こんな超能力者っ!!」

 思わず口走ったが、後の祭りだ。
 久瀬の言葉は、この病室にいる自分以外の全員に対する暴言に等しい。

「あ……いや、超能力者を化物と言ったんじゃない。今は制御不能というなら、その」

 久瀬は慌てて取り繕うが、

「化物ですよ、実際。人間なんてみんな」

 瑤子が、眉一つ動かさずに言う。

「超能力者でも、政治家でも、科学者でも。パイロット、軍人さん、エンジニア、格闘家、お家で料理を作るお母さんだってそう。みんなみんな、化物になれる力を持ってます。きっかけさえあれば、いつだって、誰だって化物になる」
「…………」
「あたしも、この子を放っておけないと思います。でも、この子を殺すことしか考えてない今のお兄さんは、この子以上に化物じゃないんですか。……何か、間違ってますか」

 久瀬は、何も言い返せなかった。
 一瞬の、沈黙があって。

「……それでも、やるしかない」

 久瀬は、声を絞り出す。

「俺は内調の人間として、より多くの人の幸せと安全を守らなきゃいけない。そういう立場にある。場合によっては、俺自身の良心を殺してでも……自分を化物にしてでも、やるべきことをやる。君らから、人でなしと罵られたとしても。それが俺の仕事なんだ」
「……わかってるよ、そんなことは」

 みつきが、言う。
 声音は不思議と柔らかく、優しかった。

「ねえ、綾」
「なあに? みつき」
「もう一回、この子と話してみちゃ駄目かな」

 久瀬が眉を顰めたが、それは綾も同じだ。

「正気なの? 前だって会話すら成り立たなかったのに、とてもリクレイムまでは……」
「……リクレイム?」

 また、久瀬が聞き慣れない言葉だった。
 意味を尋ねたかったが、みつきと綾の会話はまだ続いていた。

「昨日からずっと考えてたんだけどさ。最悪でもパイロキネシスさえ無効化できればいいんだから、あらかじめ構えておけば対処できないかな。この子が指向性の思念波を発した時点で片っ端から打ち消すとか」

 これを聞いた瑤子が目を見開く。

「そんなこと、できるんですか……?」
「できると思うよ。……たぶん」

 みつきは頭を掻きつつ。

「ただ、私のESPなんてサイコキネシスのおまけみたいなもんだし、思念波の流れなんて読めないから……。綾ならできると思うけど、テレパシーを中継しながらってのは……」

 これを聞いた綾は、小さく鼻を鳴らして。

「見くびらないでくれる? その程度の同時作業はお安いご用。でも問題なのは、思念波を打ち消す役をしなきゃならないみつきの方じゃないの? できるの?」
「なんとかする。してみせる。絶対」

 みつきは、綾の目をまっすぐ見据える。

「全くもう……。先に結論ありきなのね」

 苦笑しつつ、綾は服の袖をまくりながら、眠り続ける男の子の隣へ立つ。

「みつき、この子と額を重ねてくれる? テレパシーを中継するのに幾分か楽だから」
「ん」

 みつきは眼鏡を外して胸元にひっかけると、言われた通り男の子の額と自分の額を接触させ、テレパシーに集中するため目を閉じた。
 綾は、そのみつきと男の子の頭の付近に、そっと両手をかざす。

「瑤子は病室の外にいてくれるかしら。かなりにぎやかになると思うから、一通り終わるまで誰も中に入れないで」
「はい、綾さん。何とかします」

 そして瑤子は、病室を出ていく。
 久瀬が一人、何をするでもなく立ち尽くす。

「お、おい。何をする気なんだ」

 訊くと、みつきは目を閉じたままで。

「後で説明するよ。久瀬さんだって少しでも早く何とかしたいと思ってるんでしょ?」
「そりゃ、まあ、そうだが」
「なら、隅っこでじっとしてて」

 取り付く島もなかった。


 大火事を引き起こして以後、ずっと眠り続けた少年――佐和達美の意識が覚醒する。

(……ま、た、だ……真っ暗……)

 最初は、これを金縛りの状態だと思っていた。目が覚めれば元に戻ると信じていた。少しくらい怖くても、ほんの少しの我慢だ、と。

 ところが、何度眠って、何度目覚めても、暗闇の世界は終わらない。
 一切の肉体の感覚から切り離された時間が続くだけだ。

 やがて、学校の休み時間に友達とふざけていた最中に階段から足を滑らせたことを思い出し、自分はもう死んだのではないか、ここは地獄か何かではないか、と考え始めた。
 だが、さらに時間が経つと、生死の判断などはどうでもよくなってきた。何も見えず、何も聞こえず、ただ意識だけが続く。その絶望の中で待ち望むのは一つだけ。気の狂いそうなこの暗闇から逃れられることを。自分の意識を止めてくれる何かが訪れることを。

 そこに現れたのが、綾のテレパシーを介して接触してきたみつきだったのだが。

(あの、ひと……天使様……いなく、なっちゃ……終わらせて、くれなかった……)

 みつきが知らせた、残酷な現実。
 自分はまだ生きている。病院のベッドの上で生かされている。
 誰も、自分を殺すことは、できない。

(も、う……嫌、いや……やだ、やだやだやだやだ……死に、た……死……死に……死にたい、死にたい、死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死……)

 恐ろしいほど純粋な負の想念。それはパイロキネシスの偏性肥大として発現するまで、無意識の奥底で冷たく重く積み重なり、澱んでいくことになる。

 ――そこに。

(えーと、テステス、もしもし、はろー。達美君、私の声、届いてる? おーい)

 みつきが、話しかけてきた。
 脳に直接響いてくる奇妙な声だったが、男の子は、通常の会話から遠ざかって久しい。意識を言語に近い形に置き換えて中継する綾の巧さも手伝って、待ち望んでいた外界からの刺激を抵抗なく受け入れる。

(……っ……?! こ、この声、あの時の……)

 誰かが側に居てくれる。それがどれほどの喜びになるか。
 その、誰かの手がかりに。他者の温もりに。
 孤独な意識が、歓喜の絶叫を上げる。

(う、あ……あああっ、あああああああ――――――――――っ!!)

 達美少年は全霊をかけて、みつきの感触にすがりつく。


 絶叫に伴って発せられた意思力は、綾とみつきの脳髄を稲妻のように駆け抜けた。

「……っく……!!」
「ひ、う……っ!!」

 二人が悲鳴を上げる。身体が痙攣する。

「お、おい……どうした?」

 不安げに久瀬が問いかけるが、みつきも綾も、彼に構っている余裕などない。


(うああっ、ああああっ!! ああ、うあ……うあああああっ、うあああああっ……!!)

 その意思力は、普通の人間なら脳神経が焼き切れるほど強力なものだった。
 が、幸い、みつきも綾もそれほど「やわ」ではない。

(ちょ、お……落ち着いて。気持ちはわかるけど、ね、落ち着いて、お願いだから)

 抱きしめるように、撫でるように、宥めるように。根気強く、どこまでも優しく。
 そのみつきの心に接して、取り乱していた自分にようやく気付いたらしい、達美少年は少しずつ落ち着きを取り戻していく。

(あー、びっくりした。君、もともと意思力が強いんだね)
(ま、た……また、来てくれるって……思わなかっ……よ、か……良かった)

 嬉しくて泣きじゃくる、そういう感情が伝わってくる。気持ちはよくわかるから、みつきも彼の頭を撫でつつ慰めるつもりで、精一杯優しく語りかける。

(あのね、前は言い損ねたんだけど、私は、君のことを助けに来たの。だから、落ち着いて、今から言うことをちゃんと聞いて)

 みつきが真に伝えたかったのは、その言葉のうち後ろ半分の部分になる。
 けれど、いくらテレパシーを介してみつきの意思が誤謬なく伝わったところで、それを受け取り理解するのは生身の人間だ。自分が聞きたかった言葉が強調されてしまう。

(た……助けて、くれるの……? 今度、こそ……今度こそ、僕を殺してくれる?)

 だが、みつきは。

(あ、いや……そうじゃなくて)

 否定の言葉が、ひどく冷たく聞こえる。

(前も言ったけど、それは、無理なの。私が人殺しになっちゃうし……。お願い、死ぬことなんか考えないで、ね)

 みつきの立場では、正論だ。
 しかし、達美少年にとっては、そうではない。
 悲嘆。そして――絶望。


 その絶望が、偏性肥大の引き金になる。
 町を灰にしたパイロキネシスの暴発。


「……みつきっ!!」

 綾が目を見開いて、急に叫んだ。
 達美少年が発した指向性の思念波を、綾がESPで捉えてみつきに送る。

「わかってる……っ!!」

 みつきはサイコキネシスの元となる指向性の思念波を解き放ち、パイロキネシスに繋がる男の子の思念波を病室の中でことごとく相殺していく。
 例えるならば、四方八方へランダムに放り投げられたボールを捕捉し、真逆のベクトルを持つボールを投げて無力化するようなものだ。世界屈指のESP能力者である綾と、理論上人類最強とされるサイコキネシス能力者のみつきでなければ到底不可能な神業だった。

 が、本来なら町ひとつを灰にし得るほどの力を持った指向性の思念波を相殺して、何事もなく済む訳がない。

 ――ぱあんっ!!

 打ち消し合って指向性を失った思念波が空間に干渉し、とてつもなく大きな破裂音を生む。一般に心霊現象の一つと言われているラップ音の原理なのだが――。

「うわああっ?!」

 久瀬が驚いて飛び上がった。鼓膜が裂けるかと思うほど大きな音なのである。しかも、そのラップ音は一度で終わらない。ぱあん、ぱん、ぱんぱんぱぱん、ぱん。何度も何度も繰り返される音の暴力。

「おおおお、おい、日向! ひなたあっ! 何なんだよこれっ!」

 両手で耳を塞いで久瀬は絶叫するが、

「うっさい! 今、取り込み中!!」

 みつきはみつきで、こう言うしかない。

「取り込み中も何も、こんなでかい音、病院中に響き渡るぞ、おい……!!」


 久瀬の心配は、すぐに現実のものとなる。

「な、なんだ、この音……」
「どこから聞こえてるんだ、これはっ」
「個室病床の方です!!」

 入院患者が騒ぎ始め、ナースステーションから看護師が飛び出し、診察中の医師が血相を変える。ほどなくしてそれら全員が音の源である達美少年の病室へ殺到。
 だが、病室の入り口には、瑤子がいた。

「中で何をやってるんだ!」

 駆けつけた医師の一人が怒鳴るように言う。
 けれど瑤子は、両手を広げ、誰も通さない構えで。

「……言えません。でも、あの男の子のためなんです。もうちょっとだけ、このまま続けさせて下さい。お願いします」

 瑤子としては精一杯の説明だが、これで説得できるはずがない。
 医師と看護師は瑤子を押し退け、病室中に入ろうとする。

「あ、っ……もう、ええいっ……!!」

 瑤子は仕方なく、医師や看護師を振り解き投げ飛ばした。
 怪我をしないように手加減はしても、暴力を振るったことに変わりはない。

「警備員を呼べ! 警察も……患者の家族にも連絡して!!」

 それが、当然の成り行きだ。


 一方、みつきによってことごとくパイロキネシスを打ち消された男の子は――。

(……う、っ……うう……)

 疲弊し、意思力が弱まっていく。
 泣き疲れた、と表現するのが、おそらく最も近いのだろう。
 パイロキネシスの偏性肥大が、治まっていく。

(……良かった、何とかなったみたい)

 みつきは心底安堵して。

(えーと、もう一回言うね。私はね、君を本当の意味で助けに来たんだよ。目、覚ましたいでしょ? ずっと寝てるのは嫌でしょ?)

 言われるまでもないことだった。

(ひょっとして、目が覚めない、と思い込んでる?)
(お、思い込みとかじゃなくて……)
(あのさ、自分の手を握ったり開いたり、グーチョキパーにしたりするとき、どうやってたか覚えてる?)

 訳のわからない質問だった。

(普通は、自分が動けと思えば勝手に動くと思ってるよね。違うの。本当はね、自分の身体を動かすのってすっごく重労働なんだよ。知ってるかな、お母さんのお腹の中にいる時から、赤ちゃんはね、本能的に一生懸命手足を動かして訓練してるの。生まれた後も、たとえ眠ってる時だって、身体は無意識に動き続けてる。二十四時間三百六十五日、そうやって訓練し続けてるから、身体は思い通りに動いてくれるのね。わかる?)
(……わかる、ような……)
(君の場合、怪我しちゃったせいで身体と心がしばらく切り離されてたから、それはもう、物凄い勢いで鈍っちゃってるの。なのに君は、ちょっと動けと念じただけで、身体はすぐ反応してくれると思ってる)
(そ、そんな……僕、ずっと目を覚ましたくて……。ずっとそう思って……)
(それよりも、死にたい、死にたいって思ってた方が多くなかった?)
(…………)
(しょうがないよ、こんなの誰だって絶望するよ。君はなんにも悪くない。でも、もう違うでしょ? とにかく頑張って目を覚まそう。出来るよ、きっと)

 実は、みつきのその話に確証はない。これらは、男の子の手術自体は成功している、という事実からの推測に過ぎない。
 だが、そんな不確かな話であっても。

(……頑張って、みる)

 望みがあるなら賭けたいと、達美少年は思う。

(でも、何をどう頑張ればいいの?)
(へっ? ど、どうやったらいいかな。この先はあんまり考えてなかった)
(…………)
(あ……い、いや待った、うん、今思いついた! イナズマのよーにひらめいた!)


「お、おい、日向、何か、病室の外がえらい騒ぎになってるぞ……」

 青ざめた顔で久瀬が言う。病室の外で瑤子と病院関係者が揉めている様子が伝わってくるからだ。おまけに遠くからパトカーのサイレン音まで聞こえてきている。

「まずいって、おい、このままじゃ……」

 すると、みつきは目を開いて――。
 いきなり、男の子の首を絞め始めた。

「……んなっ?! お、おいこら日向! 何やってんだっ!! やめろ、おいっ!」


(あ……れ、なん、だか……へん……)

 達美少年が、自身の変化に戸惑う。
 感覚がないから危機感は全くないが、脳が酸欠になり、意識が霞みつつあった。

(そろそろ、頭、ぼーっとしてきた?)
(し……して、る……けど……)
(だろうねー、今、君の首を絞めてるから)
(……っ?!)


「日向っ! おい、やめろ!!」

 達美少年から引き離そうと、久瀬はみつきの肩や腕に手をかける。
 が、それより一瞬早く、みつきは男の子の首から手を離した。

「……っ、ととと……」
「絞め殺すつもりでやる訳ないでしょ」

 みつきは短く言い、すぐにまた目を閉じる。

「いーから黙って見てて、もうちょいだから」


(き……っ、きもち、わる……)

 達美少年の意識が混濁し、不快感が募る。

(ごめんごめん。もう手は離したから。ところでさ、気が付かない?)
(……? 何に)
(君の心臓。目一杯動いてるよ。息も苦しくなってゼーゼーいってる。本能的に身体が反応してるんだよ。これ、普通よりはずっと感じ取りやすいんじゃない?)
(えっ……)

 だが、何もわからない。
 息を継ぐ胸の動きも、激しい心臓の鼓動も、こめかみが脈打つ感触も、何一つ。

(簡単じゃないのはわかってる。でも頑張って。心を澄ませて、集中して)
(集中しろって……言われても……)
(君の身体が、一生懸命、君に訴えかけてるんだよ。苦しいよ、おかしいよ、変だよって。大声を上げてるの。君に必死で伝えようとしてるの。だから、頑張って、感じてあげて)

 それを最後に、みつきは沈黙する。
 男の子はぽつんと、暗闇に取り残される。

 けれど今度は、絶望しない。

 元に戻れると、言ってくれた人がいるから。

(僕、の……からだ……身体……)

 自分の内部へ意識を向けていく。必死で自分の身体の感覚を探し続ける。

(お願い……教えて、お願いだから……)

 ただ一心に、願い続ける。
 そして。

(……あれ、これ……?)

 見つけた。少しでも気を抜いた途端に見失いそうな、微かな感触。
 それが心臓の鼓動だとわかるまで、さほど時間は必要なかった。

(わ……かる。わかる……僕の胸……)

 自分のために動いてくれる、自分の心臓。
 その存在を、感じられる。

(生きて、るんだ。僕……)

 ただそれだけのことが、たまらなく嬉しかった。


 瑤子はその頃、何人もの警備員を相手に、汗みずくになって奮闘を続けていた。
 警備員が飛びかかる、瑤子が振り解く、警備員が掴みかかる、瑤子が投げ飛ばす、警備員がのしかかる、瑤子がはじき返す。延々とその繰り返しだ。
 幸い、瑤子の見た目はあくまで小柄なか弱い少女にしか見えない。警備員らは腰につけた警棒を掴んで振り回すような真似だけはしなかったのだが。

「き……きりがない……こんな」

 その上、遠くから誰かが走り寄ってくる足音が聞こえてきた。
 警察官だ。二人。いや、四人か。

「う、うわわわ……っ、ひ、ひなたセンパイ、さすがにそろそろ限界かも」

 呟いた、その瞬間だった。

「うまくいったよー!! おつかれさんっ!! 撤収、撤収ーっ!!」

 病室の中から、みつきの声が響く。
 瑤子は、満面の笑顔になって。

「ごめんなさい! ご迷惑をおかけしました! 投げ飛ばしたこと許して下さいね!!」

 直立不動の姿勢を取ってそう叫び、瑤子は周囲をとりまく病院の関係者や警備員に何度も何度も頭を下げ、そして――。

 彼らの目の前から、忽然と消え失せた。
 本当に、一瞬で、ぱっと消えてしまった。

「な……何だったんだ?」
「まぼろし……? 夢、じゃ、ないよな」

 病院関係者は戸惑ったが、とにかく邪魔をしていた瑤子が居なくなったのだからと、駆けつけた警官ともども病室の中へ入った。

 が、眠り続ける患者以外、誰もいない。

 狭い病室には窓が設けられており、鍵もかかっていなかったが、病室は地上三階の高さにある。地上に飛び降りて逃げたような形跡も残っていない。
 皆、首を傾げるより他になかった。


 ここからは、少しだけ未来の話になるが――。

 数時間後、連絡を受けて駆けつけた達美少年の両親は、病室で奇跡を目撃する。達美少年が目を覚ましていたのである。
 その時の両親の喜ぶ様、そして担当医の困惑等々は、わざわざ述べるまでもない。
 もっとも、達美少年はこの時、目を開けて眼球を動かしただけで、ベッドから下りて歩けるようになるまではさらに時間を要したが、以後長い間続けられた辛いリハビリに対しても、彼は泣き言一つ言わなかった。

「暗闇に閉じこめられてたことを考えたら、リハビリなんか楽しくて楽しくてしょうがないよ。それに、天使様が助けてくれたんだから。最後に言ってくれたんだ。生きてる限り、幸せになる力は誰にだってあるから、絶望しないで、頑張って幸せになってね、って。これで頑張らなかったらバチがあたるよね。……強盗? 暴行犯? 違うよ、絶対に天使様だってば、そうに決まってる。絶対に」

 そして、これはもう、言うまでもないことだが。
 東京都東部で続発していた不審な放火事件は、以後、二度と起こらなかった。


 時間を元に戻す。警察官が駆けつけて病院が大騒ぎになっていた頃だ。

 みつきの両脇に抱えられる格好で空へと逃げた綾と久瀬の計三人と、時間を止めつつ裏口から逃げ延びた瑤子は、病院から百メートルほど離れた人気のない焼け跡の街角、綾が自家用車を停めていた場所で無事に合流していた。
 すでに日は落ち、珍しく星が瞬いている夜空の元、久瀬はあの病室で何が起きたのか、綾から詳しい説明を受けていた。

「……要するに、パイロキネシスへ向いていたあの男の子の意思力を、自分の身体へ……正常な状態へ向かわせるよう矯正(リクレイム)した、ってことなのか」
「簡単に言うとそうなるわね。本来は今度と逆で、潜在能力を自覚する方向へ意思力を向かわせる訓練をそう言うのだけれど」

 自分の車にもたれかかるようにした綾の視線は、すぐ近くのみつきの方へ向いていた。みつきは、今も息の荒い瑤子の額に浮いた汗をハンカチで拭いてやっている。

「能力の成長と衰退は、注がれた意思力の量に左右されるものだから……ほら、何事も嫌々するより、楽しんだ方が上達が早いでしょう。逆に、衰えさせるには、その能力に意思力を向かわせなければいい。あの子の場合、正常なら自分の身体に向かうはずの意思力が全てパイロキネシスへ向いていたのだから。自分の身体を意識させるきっかけさえ与えられれば、自然と正常化に向かうはずなの」
「……それが、あの子の首を絞めることだったのか」
「あれには私も驚いたわ、思いつきもしなかったし」

 綾は苦笑しつつ。

「ここだけの話だけれど、実は私、あの子が暗闇に耐えきれず精神崩壊するか、念力発火の使いすぎで脳が焼き切れるか、そのどちらかしかないと思っていたの。結局、体当たりで何とかしてしまったみつきが一番正しかったのね」
「結果論だ、それは……。もし一歩間違えば」
「あの子が窒息死しただけよ? 久瀬さんの望み通りに」
「……おい、昭月」

 睨み付けてきた久瀬に、綾は優しく微笑み返す。

「ごめんなさい、冗談が過ぎたわね。大丈夫、本気で言ったわけじゃないわ。あの子を助けようとして血相を変えてみつきに飛びついたのは、他でもないあなただもの」
「…………」
「とにかく、結果良ければ全てよし。これでみんなが望んだ通り。みつき様々」
「……疲れる話だ……」

 溜息をつく久瀬に、綾は肩をすくめて微笑んで。

「ただ、どうにも解せないのよ」
「? 何が」
「この件の経緯は一通り説明できる。何が原因で、どういう理屈で事件が起きたのか。でも、いくら何でも条件が揃いすぎてるの。肉体と精神の断絶、それ伴う意思力の歪み、そして偏性肥大の発症……レアケースにも程がある。確率的にはゼロに等しいわ」
「確率がゼロでない以上は起こりうる、と考えるべきじゃないのか。防災や危機管理の分野では〝あり得ないはあり得ない〟なんて格言もあるぞ」
「……そうね。それはそうなのだけれど」

 久瀬は、綾が何を心配しているのか理解できなかった。
 そこに、綾の憂い顔に気付いたみつきが歩み寄ってくる。

「綾、大丈夫? 気分悪いの? ESPの使い過ぎで弱ってるとか」
「いえ、そうじゃないわ。気にしないで」
「あ……っ、そうだ、日向」

 久瀬ははっとなって、みつきの方に向き直る。

「君にも一つ、確認しておきたいことがあるんだが」
「やだ。長くなるなら今度にして」
「すぐ済むよ……。その、偏性肥大ってヤツだが、誰にでも起きるんだよな」
「研究所ではそう習ったよ。それが?」
「すでに超能力が発現している者にも、起こりうるのか?」
「可能性は低いと思うけど、理屈としてはそうなんじゃない? 人間誰だっていじけたりヒネクレたりするしさ、何がきっかけで精神的に不安定になるかわかんないもん」
「なら、君も例外じゃないんだよな」
「……はい?」
「日向も、偏性肥大になりうるんだよな?」

 今度の件で、久瀬が一番不安を抱いたのはこの点だった。
 みつきと同等以上の強力なサイコキネシスを使う超能力者はこの世に存在しない。もしもみつきが偏性肥大を引き起こしたなら――辺り構わずサイコキネシスを暴発させたなら、誰もみつきを救えない。誰もみつきを止めることができない。

「正直に聞かせてくれ。どうなんだ」

 久瀬は至極真剣だった。そういう危険性に備えなければならないのが彼の立場だから。

 が、みつきは鼻で笑って。

「正直もへったくれもないってば。私はみっちり訓練を受けてきたし、自分がどんだけ危ない奴かも自覚してるよ。パニクって絶望してミンナシンジャエーみたいなやけっぱちで誰かを傷つけるとか、そんなこと絶対しないよ。したこともないし。それとも私はそんなに信用ないの?」
「いや、信用うんぬんの話をしてるんじゃない。俺が確認したいのは、可能性としてはゼロじゃないんだろ、ってことだよ」

 すると、みつきの側にいた瑤子が、

「大丈夫です、ひなたセンパイは」

 と、久瀬以上に真剣な顔で言ってくる。

「いや、だから、日向を信じるとか信じないじゃなくて、俺が言いたいのはな」

 久瀬は当惑しながら、また同じ言葉を繰り返そうとした。
 が、今度は綾が、

「ならないわ、絶対に。みつきは大丈夫」

 微笑んで、言う。
 それは、普段の綾がよく見せるような、面白がってはぐらかす風の微笑みではない。決して揺るがない何かに裏打ちされた、悠然とした微笑みだった。

「……その根拠は」

 久瀬が訊くと、綾は急に“いつもの微笑み”を見せて。

「さあ。本人に訊いてみたら?」

 久瀬は、みつきの方を向く。

「根拠、って……ちょっと、綾」
「いいから、思った通りに言えばいいの」

 みつきは、暫くの間「あー……」とか「うー……」とか言い淀んでいた。
 が、急にキッと顔を引き締めて。

「天地がひっくり返って太陽が西から昇って東に沈んで海が干上がって空が割れて、お月様がどっか飛んでって太陽が燃え尽きて神様が匙を投げても、それでも私は何が何でも絶対意地でも大丈夫なのっ!」

 まるで根拠になっていなかった。

「だから……そうじゃなくてだな……」

 久瀬は根気よく繰り返そうとしたが、

「あーもう、大丈夫ったら大丈夫なの!! 以上、終わり!!」

 叱りつけるようなみつきの声に気圧されて、わかりましたと頷くしかなかった。

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