マガジンのカバー画像

永元千尋のひとりてらり

25
エッセイというほど立派なモノじゃございません。ひとりでブツクサやってるだけの、そういうアレっすわ。
運営しているクリエイター

#エッセイ

結局のところ使う人間の問題よねという話

 すまない。またしても生成AI関連の記事なんだ。  このエッセイで触れるのは三度目だけど、正直もうその話題おなかいっぱいだよ~! と思っている人もいるだろう。何より僕自身がそうだ。  だから、もうよっぽどじゃない限り、生成AIに関する話題はこれを最後にしたい。次はなんかもっとガハハと笑える感じのオモロなやつにするよ。約束する。    とりあえず前提として、生成AIに言及した過去の記事を貼っておくね。  上の記事を読んだ人の中には「とどのつまり永元千尋って、総論としては生成A

この世の中にはおそらく「AIイラストヤクザ」が存在するだろうという話

 生成AIの是非について、昨今、世論が結論を出しつつあるように思う。  個人的な基本スタンスはおよそ半年前に上の記事で述べた通りなのだが、文章にしろ絵にしろ動画にしろ、生成AIの生成物を利用してよい局面は、自らがエンドユーザーである場合にほぼ限られると思ってよさそうだ。  たとえば、あまり詳しくない分野について概要だけでもAIに教えてもらう、遊んでいるゲームのマイキャラに自画像が欲しいので絵を用意してもらう、ダンスチームの中でざっくりしたイメージを共有したくてイメージビデオ

完結済みの2作品を有料マガジンに生まれ変わらせてみた

 いやまあ普通に考えて、元々は書店やら電書ストアやらで有償販売してた作品をタダで何年も公開し続けてたってのは頭おかしいんちゃうかと言われても仕方がない蛮行なんですけどね。しかも文庫本換算で6~8冊もの分量をだよ。  ここまで来ると大安売りとかのレベルじゃない。狂気の沙汰だよ。自分で言うのも何だけど曲がりなりにも商業作家の経験がある者としてあるまじき態度としか言い様がないよな。    まあ、やっちまったもんは仕方がない。正気に戻っただけ良いとします。そもそもざっくり四年間どこか

我が愛しのGooglePixelと絶望的サステナブル

 先日、愛用しているスマートフォン〔Google Pixel 3 XL〕が壊れた。    厳密には「壊れる寸前だった」と言うべきか。リチウムイオン電池の劣化によって内部バッテリーが膨張し、接着・密封されているべきデバイスの裏蓋が歪んで反り返り、フレームから剥離しかけていたのである。  我がスマホは耐衝撃用の硬質カバーに常時覆われていたので、デバイスの見た目や手触りから異変に気付くことは不可能だったのだが、この日の僕は冴えていた。カバー越しに操作する音量調節ボタンの応答性の低下

キルロードに「おつかれさま」と言いたくて

 この記事は、2023年10月に投稿したものの続きになる。  僕は前回の記事を「いやあ、今から楽しみですな!」という文言で結んだ。応援してきた競走馬キルロードの活躍を信じきっていたからね。せいぜい半年ほど前のことなので、その頃の高揚した気分はよく憶えている。    けれど現実は、僕が期待したようにはならなかった。    簡単にまとめると。  地方競馬(南関競馬)へ移籍したキルロードは、都合2度のレースを走り、そのどちらも馬券に絡むことなく、引退、登録抹消となった。    そ

生成AIから距離を取ろうと決めた話

 2024年3月30日をもって、LIBERTYWORKSと永元千尋は今後、自らの表現物に生成AIの出力品を直接的に使用しないことを決めました。    最初に言っておきますが、これはあくまで「僕個人の現時点での結論」です。  生成AIを積極的に活用している肯定派の人たちに「やめろ!」と言いたいわけではないし、逆に、生成AIを蛇蝎の如く嫌う否定派に「あなたがたは正しい!」などとエールを送るつもりもありません。ましてや、肯定派と否定派が現在進行形で繰り広げている不毛きわまりない言論

マグレの2023年を振り返る

 昔、偉い人が言いました。   「人間の特徴は、暦を持つことである」    夏至だの冬至だの誕生日だのクリスマスだの、そんなものを気にしながら生きている動物は他にいない。人だけが一年を365日に割って「その日」を定め、これによって日々の暮らしに彩りを添え変化をもたらし、時にそれを生きるためのよすがとすることもある────    まァね。実際、この年齢になってまいりますとね。気付いてしまうんですよ。若い頃みたく「大晦日だ元旦だと言ったところで何かあるわけでなし」だの「蕎麦だのお

WIZARDRYで遊んでいたらWIZARDRYを作ることになった話

 あなたが少年少女だったころ、夢中になっていたものは何だろう。    ある人は、野球やサッカーなどのスポーツを挙げるかもしれない。  またある人は、アニメや漫画や小説を挙げるだろうか。    そして大人になって、少年少女だったころ夢中になっていたものを「仕事」とし、「プロ」などと呼ばれるようになった者を、世間では一般に、    〔 夢をかなえた人 〕    などと言うわけなのだが。    実際そうなってみると、何と言うか……不思議な感じだった。  少なくとも「夢をかなえた人」

真:競馬と俺とキルロード

 5回にわたって続けてきたこのシリーズもついにオーラス。    長々と繰り広げてきたせいで完全に主題が迷子になってしまったが、元を正せば「僕はキルロードという競走馬のファンであり全力で推している」と「でもホントのところ競馬は苦手」という一見矛盾した話を説明しようとしただけだ。こんなに尺が必要だったのかと我ながら思うけどね。  ただ、ここまでの文章を今になって読み直してみても、話が脱線して余計なことまで書いた感はまったくのゼロ。僕にとってキルロードおよび競馬に対する想いというの

女神と俺とゴールドシップ

 十代の頃、北海道で得難い経験をした僕は、その後、馬という生きものの魅力に取り憑かれ、乗馬を趣味とし、馬に関係する仕事の道を歩み始める……などということはまったくなかった。    四国の実家近辺は、地域まるごと「馬」ってものに縁がなかったのよね。前に話した幼少期の思い出も実際には馬じゃなくて牛だったし、お祭りで練り歩く山車も牛鬼だし、趣味人の富農がやる娯楽といえば乗馬よりも闘牛だったし、通学路の途上で普通に牛を見かけるくらいには牛とともに生きて牛を推している地域だったんですよ

乗馬と俺とオグリ1着

 1990年12月23日。有馬記念。  言わずと知れた名馬中の名馬・オグリキャップのラストランだ。  「オグリ1着! オグリ1着!」  という名実況と共に、同馬が伝説となったその時。    僕は、生涯初めてのレース予想を見事に的中させていた。  もっとも、当時の僕は16歳の高校生。当然ながら馬券とは無関係である。父親に「お前はどの馬が来ると思う?」と意見を求められたから「オグリキャップ」と答えただけ。父子ともども法に触れるような真似は一切していないのでご安心いただきたい。

生家と俺と謎の馬小屋

 僕は四国の片田舎の生まれで、両親は国道沿いで飲食業(うどん屋)を営んでいたが、同居の祖父母は米農家だった。  この辺りの解像度を上げていくと、たとえば「父親が入り婿だった」とか「母親は家業の米農家だけは死んでも継ぎたくなかった」とか「父親と祖父がまともに話している姿を見た記憶がない」とかで際限なく話が広がってしまうので目いっぱい端折るが、とりあえず生家は築半世紀を軽く超える古い木造の平屋建てで、窓はアルミサッシなどに置き換わっていたものの、梁も屋根も壁も大正から昭和初期の農

競馬と俺とキルロード

 これは(少なくとも僕にとって)超ビッグニュース!  高松宮記念2023(G1)9着を最後に中央の競走馬を引退したキルロードが、大井競馬場・的場厩舎の所属で現役復帰するらしいのだ!  中央引退後、同馬は神奈川で乗馬になるという噂だったが、しかしそれが競技としての乗馬(障害物を飛んだりするやつ)なのか、それとも観光や趣味の乗馬なのかは不明なままだった。もし後者なら自分もキルロードの背中に乗れるんだろうか、そんなことが可能なら是が非でも乗りに行くぞなどと思ってはいたんだけどね。

ヤマアラシのほにゃらら

 心理学用語で「置き換え」というものがある。  欲求不満や葛藤に対処しようとする適応機制で、簡単に言うと八つ当たりなのだが、ギックリ腰や慢性の腰痛なんかも無意識下の怒りや感情の抑圧が原因で起きている心身症であるケースが多いそうなので、これも広義の置き換えということになるのだろう。  まあ、僕は医者ではないし、大学で心理学を専門的に学んだわけでもなんでもないので、上記は話半分かそれ以下で受け止めていただきたい。ぶっちゃけ適当にぐぐって目についたワードをコピペしながら既知の知識