バルト テクストを考察する


テクストとは?

バルトが書いた『テクストの快楽』という本があります。そもそもテクストとは何でしょう?端的に文章のことだと考えましょう。私達はいつもテクストを理解するとき、テクストの中に隠された意味を汲み取ろうとします。学校の読書感想文などで苦労するのはこの部分ですよね。この行為は「解釈」です。私達は日々、すべてのコミュニケーション上で「解釈」を当然のように行っています。しかし、解釈という作業はとてもユニーク。何故なら、テクストを解釈するためには別のテクストにしなければならないからです。評釈や評論がそうですね、ある作品を解釈するというのは、他の言葉で言い換えているに過ぎないのです。この解釈という作業は論理的です。人は解釈を通じて、「理解した」という状態を手に入れるのです。しかし「理解した」ときには、全く違う形になっているにも拘わらず、私たちは「理解した」と言えるのでしょうか?

バルトの問題

テクストをテクストのまま読む―これが重要ですが極めて難しいのです。人はテクストを理解しようとするとき、変形させてしまいます。そこで新しい読み方を提起したのがバルトです。バルトはテクストから、作者や作品ができた経緯、時代背景、個人心情、影響などをすべて取り除き、「テクストそのもの」を理解しようとするのです。「テクスト原理主義者」とでも呼びましょうか。これを彼は「作者の死」と呼ぶのです。作者はテクストに歯止めをかけるのです。しかし、作者が死ぬということは、言い換えをして生きている批評家も死ぬことを意味しているのです。バルトは「テクストの快楽」でテクストを文脈や論理という言い換えの呪縛から解放させたのです。
さらにバルトは「読むためのテクスト」と「書くためのテクスト」を分けます。前者は、読者にある特定の読み方を強要し、作者が読者に対して優位に立つようにし、読者を意図的に方向付けするようなものです。反対に後者は、読者による積極的な参加を求め、読者は単なる消費者ではなく、生産者であると考えるのです。無限の解釈に身をゆだねるのです。「この理想のテクストにおいてネットワークは数多く、また相互に関連し合うのだが、そのいずれかが他を制圧することはない」と語っています。絶対性ではなく複数性に重きを置くのがポストモダンの伝統的な思考です。
とはいえ。「書くためのテクスト」が本当に開放的で民主的なのでしょうか?このパターンであっても煎じ詰めれば、作者の意図はあり読者を特定の解釈へ導くのではないでしょうか?

固定観念からの解放

文章力と書き手は関係がありません。かりに主義・主張、理論であってもそうです。しかし私達は主張している者の外見、人種、性別、肩書、年齢などあらゆる要素を考慮して、その主張を評価してしまいがちです。まさに先入観は罪なのです。固定観念から解放してあげると今度は自由な「多様な読み」が可能になります。作者名や時代背景を知らずに読んでどのように感じるかが重要です。ここでは脱構築が威力を発揮します。前述のように「作者の死」は「真の読者」の誕生となるのです。そして「良き作品」は「非決定性」という特徴を持っています。この要素こそが無数の解釈、再解釈へと開かれた状態にさせておくのです。「意味」に関してそのような開放性と非決定性があると想定すること自体、私たちはポストモダンの枠組みの中にすっぽり収まっているのです。

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