フロイト無意識の発見 を考察する後編

無意識の構造

自我 
エス(イド)
「定義 フロイトの理論では、イド(エス)はパーソナリティの原始的で、根本的な部分である。それは、一つのグループとして捉えられた生物学的諸動因とほぼ同じである。
実例 ジョンは強制収容所の囚人である。彼と彼の仲間はゆっくりと飢え死にさせられている。ある日彼は自分自身のパンの割り当てを食べた後で、弱い仲間の囚人の手からパンを盗んだ。これは、ジョンにとってはいつもと違った行動だった。しかしこの行動はイドに結びつければ、一部は説明できる。厳しい状況下にジョンは、彼のパーソナリティの原始的なレベル、すなわちイドに退行していた。イドは現実を考慮しないで、あるいは他人の権利を考慮しないで食べ物のイメージ、あるいは食べ物に対する欲望を意識的な心に示したのであった。」
超自我
「定義 精神分析の理論によると、超自我とは、道徳指向のパーソナリティの側面である。それは、自己が正邪を知覚することである。
実例 既婚男性のロンは、婚外の性関係をしたがっている。彼のイドは、心の奥底から彼に言う。「それをしに行け! 楽しみを持て! 人生は一回しかないんだ!」と。子供のときの厳格な道徳的訓練に由来する彼の超自我は心の奥底から言う。「やめろ! 結果を考えろ。お前はこのようにして、お前のかみさんを侮辱してはいけない。お前がしたことは悪いことだ」と。ロンはよく発達した超自我をたまたま持っていた。それで彼はこの命令に従う。
関連事項 超自我という概念は、フロイトとともに始まった。彼が立てた仮説によると、超自我が過度に発達している人は、神経症的反応をする傾向がある。イドの願望と超自我の禁止との間の絶えざる葛藤は、慢性的な不安と緊張を生む。他方、超自我が十分に発達していない人は、人格障害になる傾向がある。彼等は、無責任で、衝動的である。
フロイトによると、超自我は二つの面を持っている。それは、良心と理想自我( ego ideal )である。良心は、警告をしたり、ある願望は禁止されていると自己に告げる超自我の側面である。良心の活動は、罪悪感を生む。自我理想は、目標を指し示す超自我の側面である。この目標は、両親の抱負を子供が知覚したことから生まれることが多い。」
フロイトが考える人生の目的とは「幸福の達成」であり、快楽の獲得と苦痛の回避、つまり快感原則の追及である。人類は快感原則を実現させる為に進歩してきたのだ。ところがそれは同時に快楽の断念と苦痛の回避という現実原則に従わざるを得ない。それが自身の自由を奪うことになる文明化だ。よって人類の進歩と文明化の過程とは、快感原則から現実原則への確立の過程であると言うことが出来る。
具体的に快感原則、幸福の追求を妨げるものを3つ挙げることが出来る。まず「自然の圧倒的な力」。次に「身体の脆弱さ」。そして重要なのが最後の「家族、国家、社会において人間関係を律する制度の不完全さ」である。これに対して人々の批判が集中する。人類の不幸や悲惨の源泉が文明にあるというのだ。これが「文明への不満」である。 フロイトはこの主張を驚くべきものだとした。文明こそが、諸々の苦難原因からの脅威に対して我々を守ってくれるのだ。つまり、文明は我々の安全と安心を保証する為の諸制度の総体なのである。


文明論

文明は、様々な社会関係を規制しようとする最初の試みが行われた時に初めて誕生した。
文明が生まれる以前の世界は「自然状態」であった。「自然状態」とは政治哲学者トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)が著書『リヴァイアサン』の中で述べた言葉で、自然権として認められる自己保存の自由を求める状態、つまり欲望の赴くままの状態のことをいう。一見すべてが自由なかつての世界は欲望のはびこる世界、戦争、競争の世界を呼び、自分の力以外に何の保証もない状態に陥った。この身体的な危機を恐れた人々は自然権、つまり自由を蜂起し、自然状態における苦痛、悲惨、暴力を共同の力で規制する為に集合し始めた。それが安全を保障する国家の誕生であり、社会と文明の始まりである。

フロイトはこう述べている。
「文明の相当部分が欲動の断念の上に打ち立てられており、様々な強大な欲動を満足させないことがまさしく文明の前提になっている(中略)『文明の為の断念』こそが(中略)いかなる文明も免れ得ない文明に対する敵意の原因である」自由を代償に安全を手に入れた結果誕生したのが文明なのだ。
文明という鎧を着ることで、我々の性生活は制限されることになった。まさに性的欲望こそが人間の欲動の根源であり、それが有する多量な攻撃性を緩和する為である。文明は性的欲望と攻撃性の断念、つまり快感原則に基づく幸福の断念を約束した。その制約の代わりに安全を保障したのだ。これは前記に記したとおりだ。
 では性的欲望を断念させるものが文明であるならば、ここでいう文明とは何なのか。それは精神的な機能であり、超自我、つまり良心と罪悪感である。超自我は自我に働きかけ、エスのリビドー(フロイトの精神分析に於ける用語で、性的衝動を発動させる力)を抑制しようとする。道徳的な自己検閲という超自我の働きが良心であり、その良心の要求と自我の実際行動との葛藤の現れが罪悪感だ。これら良心と罪悪感が性的欲望を断念させる鍵なのである。キリスト教の言葉に「隣人を愛せ」というものがある。イエス・キリストが、人は皆神の子であり平等な存在であるからすべての人を愛せといった教えだ。これは「倫理」や「道徳」と呼ぶことが出来る。この隣人愛も文明下に於ける超自我の命令なのだ。相互を愛せと命令することで、文明の最大の障害である相互攻撃欲望を除去しようとする試みである。
超自我の命令は非常に厳格だ。超自我の命令に従うことは自我の幸福をないがしろにすることであるが為に、神経症の原因になってしまう。裏を返せば、文明化の結果、人類は皆神経症になってしまっていると考えることが出来る。そう、これこそが文明社会に対する不安や不満の原因だ。安全を保障する文明という重たい鎧を身につけた結果、身動きが取れなくなってしまった人類は葛藤に悩み苦しんでいるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?