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努力と根性、反応的か主体的か…

トレーニングにおいての日本的根性論とは、トレーニングの質よりも量の拡大で対応しようとすることである。

例えば、野球のバッティングがよくないとなれば、1日何時間もバットを振ってスランプを脱しようとする。とにかく練習量をこなそうとする。

マラソンなど、長時間の走行に耐えられるようになるために量が有効な場合も多いのだろうと思う。

しかし、先日のマラソンでは、30キロしかトレーニングで走っていないという選手が優秀な成績で走りぬいていた。

なぜ、日本のスポーツ界が量をこれほど好むのかというと、日本人の性質というところにいくのかもしれないが、量で問題を解決した成功体験が多すぎるのではないかと思うのです。

特に思うのは、日本の高度経済成長期における、低賃金、長時間労働…。

スポーツの話に戻して、確かに技術革新のペースが遅く、参加者が少ない世界では、結局のところトレーニング量で勝負が決まるようなところがあります。

ところが様々なデータが取れるようになってくると、戦略で優位に立てることが増え、いかに正しいところ(成果が見込めるところ)に努力を投下するかという戦いが増えてきた。
(陸上の世界大会で入賞した選手が過度な筋トレに意味を見いだせずに、監督に言われたトレーニングをしていなかった、しない方が調子が良かったという話も聞く。)

多少正しくなかろうが努力量さえ投下すれば勝てるというレベルではなくなってきてしまった。

(そういえば昔、スポーツをするときに水を飲むな、バテるぞ!と言われていたあの迷信のような言葉は何なのだろう。そして、トレーニングのひとつとしてやっていたうさぎ跳び…。)

努力量の拡大は、結局1日24時間しかないことを考える限界があるのだ。
食事もしないといけないし、睡眠をとり休憩もしないといけない。

努力には限界がないと言われますが、スポーツの世界ではだんだんと努力量が拡大して行って、いずれトレーングのしすぎで自分の努力で自分の体を壊してしまう。(疲労骨折、私も学生のころ経験したことがある。)努力量の確保で勝負をしてきた選手はだいたいこの辺りで脱落する。

そして、勝利至上主義、勝利へのこだわりも努力を助長させている。変な話ではあるが、犠牲を払わずに勝ってしまうことを嫌がる傾向にある。満足を、疲労感や、トレーニングの量によって測っている。クタクタ、疲労困憊にならないと罪悪感さえ抱いてしまう。

努力量の拡大ではない戦い方をするには、情報(データ)を集め、勝負を決めているのは何か、どこに努力を投下すべきかを考える必要がある。

むしろ考える作業の方が大事である。しかし、考えないで、言われたことを決められたことを淡々とこなすことの方がむしろ楽なのである。

つまり、スポーツの現場では根性を出して頑張っているのではなく、考えることができなくて、根性論に逃げ込んでいるのである。
指導者が根性論に逃げ込んで、選手がその根性論で成果をだして、そしてその選手が指導者になり、根性論に磨きをかける。

そうじゃない。

言われたことに反応するのではなく、
主体的に考えて行動することが求められているのである。
スポーツの世界って、
それが、小さく実験できる絶好の場でもある。

スポーツの世界で、主体的に動くことができるようになると、
人生だって、主体的に生きることができるようになる。

私はそう思っている。


人生で最も大切なこと、それは 笑顔で心穏やかに生きること。これだけで、私たちは、人として価値がある。これだけで、私たちは、まわりの人に貢献でき、まわりの人を幸せにできる。