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頑張るのやめよっか、と社畜が知った日(1.自由への逃走)

 最近自分のキャリアというか、働き方というか、仕事と人生についてとりとめもなく考えている。
 働き方改革法案も通ってしまいそうだし、2020卒の学生さんの就活も解禁されてタイムリーだから、結婚式の記事の息抜きに、考えていたことをぽつぽつ書き留めてみます。

 前回の記事以上に「誰向けだよ」って感じなんだけど、貴方のまわりに「なんであの子あんなに必死に生きているんだろ」って不思議に思うくらい頑張ってしまう子がいたら、もしかしたら私と同じような子なのかもしれない。
 「なんで私こんなに頑張ってるんだろ」と苦しくなってしまうような日が貴方にあるのなら、もしかしたら私と同じ理由なのかもしれない。
 苦しみの正体が分からない時って、その苦しみを言語化するだけで少し楽になるから、その一助になればいいなって思う。

 私は社畜女子です。
 いや、世の中にはもっと激務の人がいるのは重々承知だし、弊社のなかではゆるゆる働かせてもらっているんだけど、終電ダッシュは日常の東京アスファルトで生きている社畜女子です。
 元々は公務員で、こっちもこっちで今とは違った意味でブラックだったので数年前に転職して、今は外資と日系のまんなかのような会社で働いてる。

 学生時代からの友だちもわりと激務で働いている子が多い。
 海外飛び回ったり、過労でぶっ倒れたり、0時には必ず帰るようにしてたら「シンデレラ」なんてばかけたあだなを付けられたり、
 学生の頃から頑張り屋だった彼女たちは、社会人になってからも頑張り屋だ。もちろん心の底から仕事を楽しんでる子もいて、そういう子のキラキラを見るのは大好きなんだけど、やっぱりそろそろ頑張り疲れている子もいる。
 何に疲れているかは、激務ももちろんそうなんだけど、「こいつには何言ってもいい系女子」という言葉で中野まどかさんがきっちり書いてくれているので、よければ読んで欲しいな。
 居酒屋で、アフタヌーンティーで、お休みの日のランチで、私たちは「人間らしく生きられる程度の働き方をしたいね」「でも勉強は好きだから、可能なら頭を使う仕事がしたいんだよね」「頭使う仕事ってなぜか激務が多いんだよね」「絶望かよ」って笑いながら乾杯する。

 物心ついたころからずっと「頑張らなきゃ」って思って生きてきた。
 頑張って勉強をして、頑張って良い子でいて、頑張って受験をして、頑張って就活をして、その延長線上に今私は立っていて、やっぱり頑張らないといけない仕事場にいるのだけど、最近ふと「頑張らなくってもいいのかな」「好きなことをしていいのかな」と真っ青に広々と視野が拓けてしまって、肩の力ががくんと抜けてしまった。
 その経緯を記録しておければと思って、今パソコンをカタカタ打っている。書く事は即ち快感だ。楽しい。

 「頑張らなきゃ」とずっと雁字搦めになってきた理由はきっと4つある。
 1. 自由がほしかった
 2. 「やっぱり女の子は弱いね」とされる前例を作りたくなかった
 3. サバイバーズギルト
 4. 好きなことは我慢して、頑張るのが当たり前の世間に生きていた
 1つずつ書きとめられたらと思う。
 今日はその理由の1つめ、自由がほしかったから頑張ってきた話を書きたい。

 私がずっと頑張ってきた理由の1つは、自由がほしかったからだ。そして自由とは、即ち、お金だった。
 小さな頃からお金がほしかった。自分のことを自分で決められるだけのお金がほしかった。自分のことを自分で養えるくらいのお金がほしかった。自分の生き方を人に決められない自由を得るためには、どうしてもお金が必要だった。「ごめんなさい、生活費をください」とお父さんに言わなくて済む心の安らぎがほしかった。自由ってお金で買うものだと思いこんでいた。
 それは多分に両親の関係に影響されていて、私の母は田舎では珍しく職を持っていたから、父や祖父母にいつも嫌味を言われていた。稼いだお金を家計に入れていても、それは「外で働く」という母の罪を許す免罪符にすらならない不気味さだった。
 きっとそんな幼少期に無意識に囚われていたんだと思う。
 自由ってお金で買うものだと思いこんでいた。
 お金があって、自分自身と子どもを養えるくらいの収入があって、なんなら夫よりも収入があって、そうして初めて女の私は外に出られる、自分の意見を言う自由が許されるんだと思いこんでいた。
 私は自由でないと生きられない性分だから、つまり、お金を稼がないと私は生きていてはいけない、ということに等しい。 
 そんな理由で20数年間、生きなきゃ、自由でいたい、自分のことは自分で決めたい、お金を稼がなきゃ、稼がなきゃ、頑張らなきゃ、と雁字搦めに全力疾走してきた。

 夫と結婚して2年がたって、ようやくこの前、そんなことねーじゃん、って気づいた。
 夫との生活には、何もしなくても与えられる自由が、天賦のものとしての自由が、当たり前の顔をして横たわっている。
 私が頑張っていても、頑張らなくても、収入が高くても、低くても、家事が得意でも、苦手でも関係なく、もともと人間に備わっている自由がそこにある。
 頑張らなくても、収入が低くても、家事が苦手でも関係ない。
 そんなことには関係なく、
 人の顔色を伺う必要がなく、言いたいことを呑み込む必要がなく、本を読んでいても怒られない、私が欲しかった自由がそこにある。

 考えてみたら当たり前だ。
 お金のある、なしに関わらず、人間はもともと自分のことは自分で決めていいのだ。だって人間だもの。
 結婚してからこれまで、夫は私よりずっとホワイトな職場に勤めているんだけど、別に「夫だから」「男だから」「私より仕事が楽だから」という理由で、彼に何かを求めるという発想は私には思い浮かばなかった。
 私より収入が低いから彼は私のために犠牲になるべきだ、例えば仕事を辞めて家事に専念するべきだとか、家のために仕事を調整して当然だとか、そういう発想は思いつくことすらなかった。
 「夫」を「妻」に、「男」を「女」に置換すると、世の中にはそれを理由に自由を奪う言説が蔓延しているのだけど(「妻」「女」が「母」になるとそれはもっと酷くなる)、それはひとまず置いといて。
 世の中の言説は置いといて、私自身の頭は、結婚や性別を理由に誰かの自由を奪っていいという発想にはならなかった。
 私が残業している間、彼はラテン語を勉強したり、インド映画にはまったり、なんか勝手に楽しく生きてくれてる。
 余談だけど、一度私の帰宅が毎日日付を超えていたころ、K-POPにはまっていた夫はひたすら家でアイドルのダンスをコピーしていた。仕事が落ち着いた頃ようやく見せてもらったダンスはキレッキレで、「私が残業している間に練習すれば人ってこんなにダンスうまくなるんだ」と労働時間の虚しさに笑ってしまった。
 閑話休題。
 夫に対して私は義務も犠牲も求めようとは思わない。
 彼の仕事の内容や労働時間、収入に関係なく、彼の人生は彼のもので、彼はもともと意思を持った個人で、本質的に自由なのだから。
 パートナーとして話し合うことはあっても、「彼は私のために犠牲になって当然」なんて傲慢にはたどり着かない。
 ということは逆も然りなのだ。and vice versa。
 別に泣くほど頑張らなくても、毎日吐いてまで激務をこなさなくても、そんな免罪符を勝ち取とらなくても、もともと私は人間である限りは自由なのだから、好きに生きていいのだ。
 幸い夫はこういう感覚をきちっと分かってくれる人なのだから、尚更だ。

 さあ困った。
 死ぬほど頑張らなくても、余るほどのお金を稼がなくても、地位や名誉がなくても、人間に生まれた以上私はもともと自由だったらしい。
 好きなことを言っていいし、好きな時に笑っていいし、好きな本を読んでいいし、生きていくことにごめんなさいって思わなくていいらしい。
 さあ困った。高給激務の仕事をしなくても自由に生きてていいみたいだ。
 さあ困った。激務を乗り越えるだけのモチベーションがもうないぞ。

 そうは言ってもお金は有って困ることはないから、まだ仕事は辞めていない。
 今は「いつでも辞めていいや」というくらいの気楽な気持ちでパソコンに向き合って、ミーティングに出席している。やっぱり終電にはなったりするけれど、それでもずいぶんと呼吸がしやすくなった。
 明日か一ヶ月後か一年後か分からないけれど、今の仕事を辞めたら、次の道を決める前に数ヶ月休んで海外にでも行きたい。
 ずっと黒髪か茶髪だった髪を好きな赤毛に染めて、海外でほけっとしたい。

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