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夫の呪いをといた話(個性至上主義の価値観の相対化)

 わたしは愛夫家です(トップ画像は「夫」で検索したらヒットしたやつ。なんだろうこれ。)
 「恋女房」も「愛妻家」も「妻のことを大好きな夫」という意味の言葉はあるのに、「夫のことを大好きな妻」という言葉はなくて、日本語って相変わらず超不便なので、もう自分で作って名乗ることにしました。
 私は愛夫家です。お好きなように読んでください。
 「恋女房」も「愛妻家」も対義語が無い理由はうっすら分かるし、その理由を想像するとこの国の闇が深くて背筋が寒くなるのだけど、それは今回は置いておきます。

 私は愛夫家です。理由はいくつかありますが、そのうちのひとつは、夫が私の呪いをといてくれる魔法使いだから。
 私は自分の足があるので王子様の白馬なぞいりませんが、呪いをといてくれる魔法使いは必要でした。
 呪いって言葉、いつ頃から人口に膾炙し始めたんでしょうね。記憶に新しいのは逃げ恥のゆりちゃんです。この記事では同じ意味で「呪い」という言葉を使います。「その人自身を縛り付け、時に苦しめる価値観」という程度の意味です。

 さて、平成末の世に溢れる呪いの数々。
 「女の子に勉強は必要ない」「自分の意思をもつXX(一般的に弱い立場の人。平成の今では主に子ども、女性、労働者あたり)は生意気」「浮気を許せて/男の人を掌で転がせて/一人前の大人の女性」「男性に好意を持たれるのはそれがどんな男性であっても喜ばしいこと」
 このあたりが私がべりべりっと剥がすのが大変な呪いでした。最近では「家事も仕事も両立して輝いてこそ一人前の女性」あたりも入るかな。
 呪いって瘡蓋みたいなものなので、剥がすとき痛いし、血出るし、しんどい。
 そういうのにひとつひとつ付き合って、絆創膏を貼って、治るまで傍にいてくれるとこ、夫のそういうところが好きで惚れてます。

 呪いをとくのって、結局価値観の相対化なんだと思う。
 「その価値観本当に正しい?」「本当にその価値観だけが普遍的?」そういった疑義こそが、呪いをとく魔法の呪文なんじゃないかな。
 勉強。学ぶことによっても価値観の相対化は可能で、呪いをとくことも可能です。その1点それだけでも人を自由にするから、私は学問は本当に尊いものだと思う。
 ただ私は弱い葦だったので、呪いを見つけ出すところ、「あ、こんなとこにかさぶた」と発見するところまでは学問で出来たのだけど、呪いをとくところ、かさぶたを剥がして新しい皮膚を再生するためには、好きな人の言葉で新しい価値観を聴く作業が必要でした。

 そんな感じで今日まで生きてきたんだけど、ちょっと聞いてほしい。
 今日初めて、妻の私が夫の呪いをときました。魔法使いになったのです。ひゃっほう今夜は祭りだぜ!ホグワーツから手紙が来ないかな!

 夫が縛られていた呪い、価値観は「『面白さ』は人間をはかる普遍的な価値観で、自分はつまらない人間だから、自分の人生に何の意味があるんだろう」という呪いでした。
 ここでいう「面白さ」はFunnyとInterestingの両方が含まれるらしい。面白みと同義。個性とも類語らしい。らしい、というのは、私は「『面白さ(面白み、個性)』=普遍的な価値」という価値観を全く共有していないので、夫からの伝聞でしかこの呪いについて語れない。

 夫はとても穏やかな人です。
 のびのびと日向で健やかに育った向日葵のような人で、確かに食虫植物とか、キノコとか、蔦とか、そういうのに比べたら面白みがないと感じる人もいるのかもしれない。向日葵の美しさに私は夢中になってるんだけど。
 もっと具体的にいうと、小中高大までストレートにすくすくと進学して、家族も穏やかな人々で、本が好きで、でも何かひとつに偏った関心を示すことはない(=オタクではない)、精神がめっちゃ健やかな人。コンプレックスがないのがコンプレックスっていうすごい穏やかな哲学者だ。
 対して妻の私は、こんな文章書いていることからも分かるとおり、どっちかっていうと食虫植物側の人間なので、昔から夫の「妻さんには個性があっていいなぁ。面白くていいな。僕は普通だから」という言葉をずっと不思議にきいていました。最初言われたときは嫌味かと勘ぐった。

 この「社会では『面白さ』『個性』が人の価値である」という価値観、呪い。とりあえず個性至上主義(又は面白さ至上主義)と呼ぶけれど、これきっと都会特有のものだと思う。
 夫は20代後半の今夜になるまでこの価値観が「社会の普遍的なもの」と思いこんでいたんだけど、私はこの価値観、そもそも持ったことすらなかった。個性至上主義って、面白さ至上主義って、経験上小学生の男子までだった。
 民間企業に就職して、企業の社内政治では「面白さ」が一定の価値を持つのだな、と学んだけれど、あくまで「小学校」「民間企業」、あとはテレビのお笑いの世界くらいに限定された価値判断で、それが普遍的なものなのかもしれないという発想すら思い浮かべたことがなかった。

 それが不思議で、夫の呪いに向き合うにあたり、まず夫婦の生育歴を比べてみました。
 夫は郊外に生まれて、都内の中高大に通って、親も会社員で、核家族で、人生のほとんどを東京で過ごしている「都会の人」だ。
 対して私は、農業県に生まれて地元の公立に進学して、周りの大人は農家か自営業か公務員ばかりで、嫁姑同居が当たり前で、大学で初めて都会に出た「田舎の人」だ。
 比べて、仮説をたててみた。
 きっと面白さ至上主義は、個性至上主義は、都会の呪いだ。
 都会の、第三次産業で生きている人々、人と人のコミュニケーションがおお金を産む世界で生きている人々のコミュニティでの価値観だ。
 夫はそういうコミュニティでずっと育ってきた。
 だからこの至上主義が普遍的なものだと思って苦しんでたんだけど、そもそもこの個性至上主義、田舎にはあまりないと思う。
 だって農業して生活の糧を得るために「面白さ」「個性」ってあんまり役に立たない。それより、真面目で、体力があって、村や親戚の長老に逆らわない寡黙さがある方が、よっぽど生活の足しになる「美徳」だ。
 私の身近だった職業って、例えば農家以外だと公務員なんだけど、公務員も基本的には同じだと思う。もちろん部署にもよるだろうけれど、基本的に法令に定められたとおりに物事を執行するのが仕事だ。そこに自分の個性はあまり求められない。上意下達を粛々とこなしていく性質が尊ばれる。
 だから私が育ってきたコミュニティでは面白さ至上主義なんてなかった。
 逆に「逆らわないのが美徳」「『常識』を、『皆が言っていること』を疑わないのが美徳」「体力があって生活の糧を育成する男性を、女性は全方向から応援するに徹するのが美徳」あたりが呪いだった。
 むしろ「面白い」は軽薄だ、「個性」は変わり者っていう価値観すらあったよ。
 それもどうかと思うが、いずれにしろ、私にとって「面白い」「個性」は只の事実にすぎなくて、その人が面白かろうがつまらなかろうが、その人に対する私の好意は全く変わらない。

 ということを夫と話して、わりと双方納得した。
 大学時代、「こいつ彼氏にしてつまらなくね?」とからかってくる夫の友だちの言動が私は心から奇々怪々魑魅魍魎で仕方がなかったのだけど、ああそういうコミュニティの価値観に則った言動だったんだな、って初めて分かった。
 恋愛市場で自分自身の「面白さ」にこだわる男性陣の言動の構造がやっと分かった。
 分かったうえで、まあやっぱり他人の価値観だし私にとってはどうでもいいや、と煎餅をかじった。

 夫も納得してくれて、
「確かに面白さ至上主義は社会における普遍的な価値観じゃないかもしれない。自分が仮に面白みの無い人間だったとしても、そんなに気にする必要はないのかもしれない」
 と肩の力を抜いてくれた。よかった。

 田舎育ちの雑草の妻と、都会育ちの白百合の夫は、こうしてこれからもお互いの価値観を相対化しあって、呪いをひとつずつとけていけたらいいな、と思った日曜の夜でした。
 魔法使いになれた妻はホグワーツからの手紙を楽しみにしてそろそろ寝ようと思います。緑インクの手紙を楽しみにしてるね、マクゴナガル校長。

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