見出し画像

【essay】午前5時には喚けないから

ずっと、それはもう生涯に寄り添うかの如く、或いは呪いのたぐい宛らに。病、が連れてくるのであろう、自罰欲・劣等感・希死念慮。其等、蝕まれていたくはない感情から、成る可く早く逃げられるよう、忘れて仕舞えるよう、試み、心掛け。目に映せるでもない脳の暗所は、避けてきた。ずっと、それはもう、二十年以上。習慣じみてもいた。

今夜僕は不意に気が付く。
憂いや鬱屈辺りの俯いた感情に流されたり、漂っていたり、自身の携える精神に抗い無き時間を惜しまぬ人々の選択は、我がごとの生む闇と真摯に向き合う、と云う、僕が強く意識して避けて生きてきた方法を取った、メディテイションとも捉えられるのではないか、と。
この選択を何としてでも徐行し、誤魔化して粉末状に。一割未満までささと落とした手中に残る負の自然消滅を目指し、軈ては葬るが叶ったと思い込み、だが思い込みは思い込みに過ぎず、蓄積した微小な闇だか病みだかがいつだか転倒・崩壊した折に、心身は潰され伸され。されどまた、大きく開口した黒を煙にまき、ふたたび・みたびと懲りずの反復を躊躇わない僕こそが、弱いのではないか、と。

〝試しに一度、メランコリに漂う彼等に倣ってみよう〟。
気付きの次第に。若しくはこれこそが癖たる誤魔化し、逃避の体現。だというに、一向に思考の雨天は晴れやせず。
自ずから下した判断の先に得る何かを探る事に、不慣れであるからなのか、僕が不器用であるからなのか、頑固な芯の主張があまりに強いのか。どれもが屹度誤っており、どれもが屹度、正答なのだろう。

何かの悪口を言いたい、理不尽に喚き散らかしたい。そうすることで己の正当性や優越性を確認したい。けれども僕は、そういった形での踏み付けは、個々の価値観や努力だとか“在り方”の軽視は、己の正義に反く。遠い過去から今この時に至るまで憎悪している対象の獣と同一視はされたくない。

――負責を霧散させるには、言語化も効果的なのだと、何某かで知った。現在、こうして文章に起した結果に、確かに気は紛れている。
ああ。僕は、僕の気付いた弱さを、未だ受け入れたくない様子だ。どの期に及んだとて、自身の主柱を建て直すのを、幾らでも幾らでも、拒み。そうしてまた、繰り返す。
これまた、ヒトの生き方であり、僕の意地張りなのだろう。
垂らされた首吊り輪、結び根を握り這いあがるか、招かれる侭に自縄自縛で息を地獄とやらに遣るか、たった此等程度の手を動かす範囲の差異、なのだろう。
ならばもう少し、自由に呼吸をしていたい。たとえ吸える物が浅くとも、吐けるものが、ことばが、枯れかかりそうになろうとも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?