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老前と老後

 先に「若者浴again」で、自分を対象とした老人論を述べてみました。老後のスタートをできる限り遅くさせる効果的な手段として「若者浴」をモチーフにしてみました。今回は、私論の一般化をねらいにして書こうと思います。さて、どうなることやら?

 まずは、金銭へのの考え方です。長年、働いているとか雇用されているというような感覚もないまま、勤務していました。金銭は、結果ではなく過程だと捉えていて、手取りの金額は、与えられて当然の金額とは、大きく乖離しているので、明細書なども見ないで、長年過ごしてきました。

 そんな浮世離れしていた者が、持論を語るのですから、一般常識から外れる場合も多々あるかと思います。休日の部活動に関する手当が、朝の6:30〜17:30で、¥2,500(時給にすると悲惨!交通費など無視)という通常の薄給+雀の涙と、貧しい境遇を哀れと感じていただき、お読みいただきたいと思います。

 エリクソンという有名な精神分析学者による乳児期から老年期に至る心理社会的発達段階によると、壮年期が40歳〜64歳、老年期が65歳以降とされています。壮年期は、24年もの長きに渡ります。

 「40からジジイ呼ばわりかよ」と言われそうですが、時と場合に応じて「中年期」と呼ぶこともあるそうなので、感情的になる必要は、ありません。でも、最もパワフルだった40代と同じ発達段階にあるという事実を単純に面白がっている63歳です。

 しかし、エリクソンの考えによると、壮年期は、世代交代の発達課題があるとのこと。子どもを一人前にしたり、生きる技を次世代に伝える役割が、40〜65歳だとすれば、納得できるのではないでしょうか。我が子の充実した人生のため、人生のノウハウを伝えたくなる気持ちは痛いほどわかります。

 しかし、壮年期は64歳までとされているのにも、違和感があるでしょう。高名な発達心理学者らしからぬ分け方ですが、40歳と同じ発達課題をクリアすべきと考えると、使命感が重くのしかかったり、とまだ若いんだだと嬉しい感じがしたりと複雑な心境です。

 この理論が構築されたのは、日本で「人生50年」説が、まだ説得力をもっていた時代です。師匠が、フロイトだそうですから、かなり昔の考え方です。それを現代社会にぴったりとマッチングさせること自体が困難なのは、当然のことと言えます。

 あれこれ異論も出そうですが、老年期65スタートと帳尻が合っています。ただ、老年期のゴールは示されていません。当然のことながら、次の段階は存在せず、人のよって終わりが異なるからです。

 そろそろ、エリクソンの心理社会的発達段階を踏まえて、自論(暴論)を述べていきたいと思います。人生それぞれの段階に、発達課題があります。その中で、老年期をピックアップしていきます。また、還暦以降の人生を大きく「老前」と「老後」に分けてみたいと思います。あくまでもエビデンスに乏しい考え方ですので、ご了承ください。

 昔々、花束を抱えた60歳定年退職書が、拍手を浴びせられた後、勤め先を去っていきます。後は、仕事から解放されて、好きなことを好きなだけする権利を獲得して、悠々自適に暮らしていく。羨ましい光景ですね。

 しかし、ここから「老前」が始まります。彼は、多少は疲弊しつつも、まだ働きたいのです。しかし、長年の勤務でゲットしたステータスは、もう持ちあわせていません。再雇用制度のなかった時代、渋々と老後の真似ごとを始めます。長くは続きません。これからどうればいいのかと、途方に暮れます。

 彼は、まだ仕事をする知力・体力に満ち満ちています。しかし、かつてのプライドを捨ててまで、小金稼ぎはしたくありません。また、定年退職後の求人は無いに等しい状況です。無理してやりたいことではないと、諦めます。エリクソンの言う「絶望」感に陥ります。彼は、老後を生きていきます。

 嫌な話ですね。例えば趣味を楽しむためであっても、準備が必要なのです。それも現役時代にセミプロ級になっておかないと、本当に楽しめないことを、ご存知でしょうか。暇になって楽しめる趣味は、金ばかり費やすものなのです。「楽あれば苦あり」は、楽しむためには、苦しみ抜くしかない」と解釈するのは、あながちデタラメでもないのです。

 今は、定年が65歳に延長され、かつての部下に使われるようになりました。いずれは定年制は、終身雇用制とともに消え去る宿命にあるようです。そのため、老前は高年齢化していきます。極端なことを言わせてもらうならば、老後の概念も消失するかもしれません。「老年期65歳〜」が、説得力を増していくでしょう。

 社会制度的上の行政用語として、75歳以上を「後期高齢者」と呼んでいます。世の中では、「老後」に近い意味で使われていると思います。また、「人生100年時代」なんて、まことしやかに語られていますが、健康年齢や平均寿命を考え合わせると、老後は数年程度と考えるのが妥当かと思います。

 せめて、悠々自適な老後生活を、10年は過ごしたいと思うのが、正直なところです。エリクソンに言わせると、壮年期の発達課題は、「経済生産」で、老年期は「自己統合」をクリアすることだそうです。

 簡単な言葉で言えば、64までは稼げるだけ稼げということ。老年期は、今までの人生に達成感と満足感を得ること。ぶっちゃけて言うと、たんまり貯金して、自分で自分を褒めることです。満足するまで稼がないと、いつまでも「老前」であり続けると、無謀な解釈をすることができます。

 しかし、人生は金だけでなんとかなるものではないのは、ご承知の通り。人生に満足して、幸福感を得る方法は、人によって様々です。金はなくても、生活を楽しむ方法は、山のようにあるでしょう。

 しかし、楽しみは待っていてもやってきません。「老前」は、いろいろなことにチャレンジした結果から、自分が真に楽しめることを決断することによって終了します。この決断は「老後」になってからでは無理です。決断力も若さのひとつだからです。決断もなしで、年齢だけ「老後」になってしまったら、無味乾燥な生活が、待っています。

 退職後、ハローワークから手当をもらうには、ごく短いパートしかできませんでした。そこで、好奇心満々に真昼間に行ったことのない場所を、あちらこちらと巡ってみて、その光景に改めて驚きました。

 まずは、火曜日の大手スーパー。火曜日は安売りするので、シニア・マークの車でいっぱいでした。そこで、3回もよそ見運転車の被害に遭うところでした。中には、意外に男性が多く、その目線に商品を吟味しようという意志は、ほとんど感じられませんでした。

 午前中の市立図書館も、お年寄りオンリーで、時がやけにスローに流れていました。私も、その一員と見られていることに気づいた時、そそくさと立ち去りました。

 真昼間の場所は、「老後」の人々で埋め尽くされています。気がついたら「老後」になってしまった人々です。逃げるように立ち去りました。行き先は、ハローワークです。ここには、「老前」を模索している大勢の人々を見ました。

 長くなりました。最後に、60代の読者に問います。多くのYESを期待します。

・あなたは、「老前」から抜け出す手段をお持ちですか?
・それは、どれぐらい楽しめますか?
・「老前」発達課題を乗り越える、強い意志はありますか?
・人生のフィナーレを迎えることを、どう感じられますか?
・最終結論として、楽しい人生でしたか?




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