ウソ。ダメ。ゼッタイ。~たとえ友人を殺すことになろうと嘘をついてはならない~

 なぜ嘘をついてはいけないのか。私たちは幼い頃から「嘘をついてはいけないよ」と教えられてきました。ただし、実際問題これまでの人生で一度も嘘をついたことがない人はいないでしょう。さらに、相手のことを思ってつく良い嘘というものもあるのではないでしょうか。今回はそんな「嘘」について、ある一人の哲学者の少々常識とは異なった考え方を紹介したいと思います。
 嘘について語る上で絶対に欠かせない哲学者が一人います。それはドイツの哲学者イマヌエル・カント。彼は、嘘について明確にこう述べています。「いつ如何なるときにも嘘をついてはならない」。どんな例外も認めず絶対に嘘をついてはいけないと言うのです。相手のことを思ってつく嘘であるホワイトライも彼にとってはいけないものです。例えば、映画『ライフ・イズ・ビューティフル』のように強制収容所にて息子ジョズエに生きる希望を与えるためにこれはゲームだよと父親グイドが励ますことも、『ダークナイト』のようにゴッサムシティのためブルースを守ろうとバットマンの正体は自分であるとハービーが宣言したことも、カントにとってはあってはいけないことなのです。なぜか、それは良かれと思って嘘をつくことと、実際に相手がその恩恵を受けることとの間には因果関係が成り立たないからだと言います。よく例に出されるのが、フランスの哲学者バンジャマン・コンスタンが批判材料として挙げた殺人鬼の問題。殺人鬼に追いかけられている友人を自分が家に匿っているとする。そこに殺人鬼が訪ねてきてこの家にいないかと聞かれる。そこで自分は殺人者に対して正直に匿っていると言うべきだ、とするものです。一般的には友人を救うために、友人は家にはいないと嘘をつくべきだと考えるところでしょう。コンスタンもそう考え、カントを批判しました。しかしカントはこんな状況においても嘘をついてはいけないと言います。それは、家にいないと嘘をつけば友人は救われ、家にいると正直に言えば友人は殺されるという一般的に考えられる因果関係が成り立たないからだと言うわけです。例えば、家にいないと嘘をついたとしても殺人鬼と出くわす可能性もあれば、いると正直に言うことで抜け出し逃げられる可能性もあるからです。つまり両者の関係に必然性はなく偶然であるというわけです。また、嘘を主観に任せてついてよいとすると際限がなくなってしまうとの危惧もあります。相手のためという免罪符によってなんでもありとなってしまうことを防ぐという効用もあります。したがって、嘘をつかないこと、すなわち正直であることは偶然や状況によって左右されてはいけない人間の絶対的な義務であるというわけであります。「いつ如何なるときにも嘘をついてはならない」という理性からの命令に従おうとする良心をカントは「善意志」とし、これこそが道徳を体現するための中心概念だとしました。
 カントは結果ではなく、動機を何よりも重要視しました。ある行為が善いか悪いかは良心に則っているか否かで判断されるべきであって、結果のみで判断されてはいけない。結果として人を救うこととなるならば嘘をついても構わないという結果主義を批判するものです。これをカントは「定言命法」として定立しています。道徳は目的のための手段として働いてはならず、常にそれ自体を目的として扱わなければならないということです。例えばお年寄りに地下鉄で席を譲る場合でも、他人によく思われたいからであったり、親にそう教えられたからといったような理由ではいけません。また「幸福になりたいならば嘘をついてはならない」といったように仮言命法として条件付けしてもいけません。つまりカントの言う嘘をついてはいけない理由とは、それ自体に価値があるから。そこにさらに理由づけをしてしまうと仮言命法となってしまうため、こう言わざるを得ないでしょう。
 カントの主張は極端で議論の余地が多分にあることでしょう。ただし、目的ではなく動機を重視するという視点は、現代の資本主義社会における結果至上主義に一石を投じるものとなるかもしれません。

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