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芸大レインボーサークル プライド月間特別コラム企画 Vol.3

皆さんこんにちは✨芸大レインボーサークルGRCです!

本日6月21日は大阪芸術大学の創設者、塚本英世学長の命日であり、塚本記念日として大学は休校になっています。
ですがGRCのプライド月間企画は継続です!今回も部員の作成したコラム記事を掲載します!

今週は今年度から入部した匿名Aさんの記事です!改めて自分を見直して今の気持ちを語ってもらいました。



私はLGBTQ+の具体的な分類や概念に詳しいわけじゃないけれど、Xジェンダーだということは高校生の頃その概念を知ってからずっと認識している。

そんな私が、今回はLGBTQ+について足りない知識ながらも色々と考えてみた。

まず、女性でも男性でもないXジェンダーってなんだろうか?
私の見た目はどこからどう見ても女性だ(私はそれに不満足だけれど)どうしても人間というのは産まれるときに男の体か、女の体か決定されている。しかし、物理的な身体の特徴とは裏腹に心の性が一致しない人や定まっていない人間は少数派とはいえ、今やLGBTQ+として世界中に数えきれないほど沢山存在する。

私は小さい頃から「女のコ」として扱われることがどうしても嫌だった。物心ついた頃からグループとして女のコ、男のコに分けられ育てられてきた。しかし、自分が女のコのグループにいることに違和感があった。言葉にできないものだが、無理矢理言葉にするならば、あるグループに所属するということは所属感というものが存在する。特に、自分とそのグループに所属するものの特徴や性質が近ければ近いほど所属感は深まる。私は他の女のコ達と自分が同質だと感じることがなかった。むしろ、全く異質なものとして感じていたし、それは今でも女性としていきる女性を見ると自分とは違った異質なものとして感じる。

これが私がXジェンダーであることの最小単位の説明だ。これ以上の「なぜその時異質だと感じたのか?」ということは説明できない。これは、物が言葉になる以前の感覚の問題だからだ。
それはただ私は私として存在しているということであり、なぜか多数の人とは違う捉え方であり、Xジェンダーであるということである。

思春期までは私は自分が男になりたいのだと思っていた。実際今でもどちらかといえば憧れるのは男性の体だ。思春期以降は、男性でも女性でもない、中性的な存在こそ、本当に自分があるべき形だと考えるようになった。今でも物理的な身体と心の性との葛藤は毎日続いている。
これまでの私のXジェンダーとしての経緯はそんな感じだ。

 話が変わるが不思議なのは、人間以外の動物を見ても、一定数オス同士、メス同士の性行為を行ったりするものもいる。また、オスメスの概念がない動物も存在する。

私達はいままで社会的には、男性、女性という区別を機能として扱い、また文化としての男性性、女性性を常識的な価値観として持ってきた。しかし、その裏では2つの性では説明できない者の存在があった。

昨今、SDGsの概念が提唱され、LGBTQ+にも日の目を見る時が来た。今まで公に認識されていなかったものが認識され始めている。これはLGBTQ+の者にとってより生きやすくなる時代がやってきたのかもしれない。そう胸を熱くさせる者もいる。

しかし、戸惑いの声もある。どうしても社会においてはマジョリティの声が大きい。マイノリティの者はマジョリティに受け入れられて初めて社会的に認められる。存在しているだけなのに、多数派にわざわざ認めて貰わなければ少なくとも社会的に自分を自分と胸を張って存在できないことは少し理不尽さを感じるが、それは受け入れがたいが事実だろう。

今までの社会的な価値観や機能に安心、安全を感じてきた者たち、男女の二分化を信じる者たちが、一度固まった価値観を覆し新たに創造するということは、大きな混乱を呼び、戸惑いが起こる。しかし、それが起こるのは今までの捉え方が実際の現実とは異なっていた、ズレがあったということだ。しっかりと現実を直視し、検討すれば、事実が見えてくる。私達が現実に存在していることを忘れてはならない。



来週もお楽しみに!
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!


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