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芸大レインボーサークル プライド月間特別コラム企画 Vol.1

皆さんこんにちは✨ 芸大レインボーサークルGRC です!

初めましての方もいると思うのでまずは自己紹介を。
私たちは大阪芸術大学を拠点として活動している大学非公認のLGBTQ+のサークルです。
LGBTQ+の当事者や支援者(アライ)を中心に、誰かの居場所となれるサークル」を目標に、日々活動を続けています。

さて、6月になりまして世間ではプライド月間が話題になっています。私たちも何か出来ないかと考え、部の活動日である今月毎水曜日に、部員それぞれのコラム記事を作ることを考えました!

テーマは自由!それぞれの部員がそれぞれの思いを書いてくれるので毎週楽しみにしてくださいね!

今週は部員歴の1番長い匿名Pさんに書いてもらいました!今のLGBTQ+を取り巻く環境について痛烈に語っています。



「LGBTQって、面倒臭い」

タイトルで「うわ思想強っ」と思った方も居るだろう。私がこの文章を書いているのはLGBTサークルの活動の一部で、本来ならば肯定的な文を書くべきなのかもしれない。勿論LGBTQに対しての批判、否定はタイトル以外に一切存在していない上に、私個人の主観的な文章であるから、安心して読み進めて欲しい。

さて、本題に入ろう。最近のLGBTQは、当事者としても非常に面倒臭い事に巻き込まれている。
「多様性とは、皆がちょっとずつ嫌な思いをすること」という言葉を聞いたことがあるだろうか。私はこれに大いに賛同している。結局人間は様々な思想が存在するし、分かり合えない生き物である事に変わりは無い。
分かり合えないということ、それは決してネガティブに捉えるものじゃない。分かり合えないからこそ尊重する事が大切なのだと分かる。皆が全て同じ思想なら、それこそ多様性とは真逆なのだから、当然だ。

話を戻そう。近頃のLGBTQの何が面倒なのか、それは政治的利用である。各国がマイノリティを政治利用するという動きは、弱者を守ろうとする社会では当然の様に起こりうる。例えば、"その方が印象が良いから"だとか、"マイノリティを盾に批判を防ぎ、弱者を虐げるという行為を糾弾する大義名分を手に入れるため"だとか。今まで子供や障がい者等で行われてきた弱者を盾にする戦法は、LGBTQもといポリティカル・コレクトネス、通称ポリコレの時代へと変わった。善人の皮を被り続けたまま、思想と言葉で人を殴れる古代からある手法だ。

何かにつけて差別だ、マジョリティの弾圧だ、と声のでかい人々は叫ぶ。正直言ってやめて欲しい。例え弾圧の歴史があっても、それは歴史であり現在では無い。フィクションでそういう描写があっても、フィクションであって現実じゃない。何があったって良いじゃないか、普通でも良いじゃないか。同じように、普通でなくても良いじゃないか。私たちは、そういう世界を望んできた。その筈だった。
だが現実は深い隔絶を産んでしまった。表面上だけ繕った薄っぺらい配慮に塗れたせいで、様々な芸術も失われていく。勿論、その分新しい芸術も増えては来たものの、それ以上に表面だけの繕いを感じてしまうようになった。今、作品を作る会社達はそうやって"世間からの怒られ"を気にして上っ面の多様性社会を描く他選択肢がない。多様性って何だ。そんなものは存在していない。多様性に見せ掛けた非多様性でしかない。

多様性社会の中にある閉塞感、それはきっと形を変えて昔もあった。歴史の中に何度も登場する言論統制、その時代のタブー。結局繰り返しているだけだ。恐らく私たちのDNAは、そういう生き方しか知らない。だから、そうなってしまったものは、仕方がない。

ただ、嘆くことしかできない。周りと何処か違って、それに悩んできた人生だった。自身の性別が曖昧だったし、男の子も女の子も好きだった、そして他人に対して性欲を持てなかった。今の時代なら"普通"なのかもしれない。それが受け入れられる世の中とは、こんなものだった。ただそれだけの事でしかない。
受け入れられて良かったね、の話で済めばことは簡単だった。その様に思っていたかった。
ただ、実際起こったことは旧価値観の否定だ。本来、多様性を目指すなら旧価値観も認めるべきだ。しかし、そのような事は決して起こらない。マイノリティの意見は次第に世論に飲み込まれて潰されていく。
私は、この現象にかつてのLGBTQを思い出す。かつて飲み込まれて潰されていった側が、逆に飲み込んで潰していく。
そう、もはやLGBTQはマイノリティではない。この集団は、マジョリティと化した。
どんなに個々がマイノリティだとしても、一括りにしてしまえばその数はとても多く。やがて世論はLGBTQを肯定し、批判する者を淘汰する。
この時代の流れには逆らえない。恐らくLGBTQを何も気にしない日々が来るのだとしても、または来ないのだとしても、多様性を求めるものはいつだって板挟みになる。
私には、この事実が非常に面倒くさくて仕方がない。変にマイノリティの苦しみを知っているが為に、次期マイノリティの事を憂いてしまう。そんな自分に愚かしいとさえ思う。

私は旧価値観の事を否定しきれない。男はこうで、女はこうだ、というのは、生物学的な身体のギャップを埋める為のものでもあるだろうと理解している。
ただ、そうだとしても、そこに属さない人々を弾圧せずに「そうなんだ」くらいの温度感で居てくれる社会が欲しかった。それだけで十分なのに、政治的利用によってもっと過激な事が求められる様になった。
選択肢は増えてもいい。でも無難な選択肢に全部統一するのは違う。
LGBT法案を作るくらいなら、パートナーシップ制度を充実させて法的にパートナーの遺産を譲り受ける権利位は貰える、だとか、そちらの方を優先して欲しい。同性婚がなくても、実質家族だと認められる制度があればそれだけでいいのだ。
無駄に政治利用してLGBTQを食い荒らすのを、やめて欲しい。例え都合のいい弱者だとしても、そんなハリボテはいつか崩れ去る。
ただただ、未来を憂いている。
実に面倒臭い話だった。



来週もお楽しみに!
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!


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