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東京に対峙する大阪でなければいけないーーなぜ東大阪市長は自公から維新へ移籍したのか(野田義和東大阪市長インタビュー)

東京都知事選の不戦敗をはじめ、パワハラで批判が集まる兵庫県知事、収蔵品廃棄発言で物議を醸した奈良県知事、迂回献金で窮地に陥る長崎県知事など全国的には日本維新の会の退潮傾向が指摘される向きもありますが、実は本丸となる大阪府での勢いには衰えるところが見られません。その勢いの頂点が衝撃的だった2023年9月の東大阪市長選挙における野田義和市長の自公陣営から維新陣営への易幟でした。そのことにより大阪府における首長の維新率は半数を超えることになりました。今まで語られてくることのなかった大阪における維新伸長の象徴となった一大決心に至るその舞台裏や時期、考え方を野田市長に直撃します。

-東大阪市は中小企業の街と言われます。大阪府では大阪市、堺市に次ぐ3番目の大きな都市です。まずは東大阪市の概要を教えてください。

野田義和東大阪市長(以下「野田」) 東大阪市は1967(昭和42)年2月1日に当時の布施市、河内市、枚岡市の3市が合併してできた町で、現在は人口48万6千人。面積が61平方キロ、生駒山という山間部がありますので可住面積としては50平方キロ。非常に人口密度の高い街であり、同時に中小企業、町工場が多いということで、数で言えば全国で5番目ですけれども、密度で言えば日本一町工場が多い街という顔があります。NHK連続テレビ小説「舞いあがれ!」で象徴されるような町工場です。それと、やはり花園ラグビー場。ラグビーの聖地と言われて、高校生の憧れであり、2019年にはラグビーワールドカップの試合会場にもなりました。花園ラグビー場、スポーツという顔も持っている街です。

政治の師・中山太郎

-野田市長の政治生活のスタートは元外務大臣の中山太郎参議院議員の秘書からですけれども、政治家野田義和として中山先生からどういうことを教えていただきましたか?

野田 中山先生の一貫した主張というのは「政治に科学を」という主張でした。

-医師でしたからね。

野田 はい。理科系の先生だったので、今から振り返れば、例えばエネルギー政策、脱石油時代に何を考えるかって、そういうことを一貫しておやりになってまして、今で言うまさにカーボンニュートラルの先駆けであったと思います。
 そういう意味では科学技術立国というものを目指されてますので、それはモノづくりのまち東大阪に相通じるものがあります。また、その延長上で教育立国ということも言われてました。あとはやはり政治に科学をということで、命も科学で考えると。中山先生は医者でしたので、臓器移植、脳死は死だと。脳死移植というものを認められる法律を議員立法でお作りになりました。そこで生命感というかそういう倫理感をしっかり持ってということですね。

師匠中山太郎(左)と野田義和

 また、私が市長になってからは、外務大臣の後に特に憲法問題に熱心におやりになってましたので、地方政治家でもやっぱり憲法をしっかり考えろと。憲法と地方自治、このことは理解しろ。また、外交については、自治体外交ということが非常に大事だということ。
 市長になって間もなくのときに、いろいろ忙しいこともあって、いくつかの国からナショナルデーのご案内をいただくんですけど行けなかった。そういうお話を先生にしたところ「君は馬鹿か。何を学んできたんだ。そういう案内が来たら、お前本人が行かなきゃならんだろう」ということで、えらく怒られたことがありました。それ以後、可能な限り日程調整して、ナショナルデーのご案内は行くようにしています。結果として大阪府内の首長でナショナルデーに首長本人が行ってるのは私だけになってしまいました。
 先日もインドのナショナルデーがありましたが私しか首長がいない。ある意味では視野も広がったし、東大阪についてはいろんな国との付き合いができたという。今、進行中でもありますが、いろんなことを学びましたね。

-なるほど。憲法問題というと地方自治こそが憲法を支えるところもあると思いますし、首長としては憲法問題じゃ避けて通れないというか、地に足をつけた議論をしっかりしていかなきゃならないってことですね。

野田 そうですね。やはり憲法に基づいて法律があって、その下に条例があってなので、中山先生からよく言われてたのは、「法定受託事務と自治事務、その認識が全くないだろう」とか、あるいは東大阪では生活保護行政で悩みが多かったんですけど、この部分でも憲法25条に基づいて、国費4分の3、あとの4分の1は後で交付税で戻すとかいいながら結果としてはかなりの負担になっています。
 そういうことを、ただ国に言われるままにやるんじゃなくて、憲法を基に国と地方の関係をはっきりと物を言えということもおっしゃっていましたので、そのことは可能な限り声を上げてるんですが、なかなか難しいですね(笑)。

-確かに地方自治体で憲法問題をするというのは直接性があまり感じられない部分もあったりしますけれども、やはり憲法改正の発議から憲法議論、さらには国民投票ということになると自治体も無縁ではいられないということですね。

野田 そうですよね。今までは国民投票という法律もなくて、中山先生も頑張って作られましたが、投票事務は自治体がやるわけですから、憲法改正についていろんな議論はあります。しかし、自治体としても避けて通ることができない。我々もやはり自治体があるべき姿になれる憲法を求める。そういうことは必要だと考えます。そんな仲間もこれから増やしたいなと。

-いいですね。

野田 はい、ぜひともお知恵を。

バッチバチの議会対応

-そして、野田市長は1987年から東大阪市議会議員になられます。5期の間には議長も務められました。市議のときはどういうまちづくりを目指して来られましたか?

野田 私の生まれは京都市ですけど、1歳半ぐらいで東大阪、旧布施市に父親が転勤をしてきました。私が市議になったのはちょうど30歳のときですけれども、まだ東大阪というのは旧3市が何をするにしても、例えば自分はこの旧3市の中でいわゆる西地区に居住してましたけど、西で何かやったら、中、東って、中地区、東地区もやっぱりやらなきゃならんだろうと。そういう議論が市議会の中でも結構あって、議論というよりはまさに地域の代表者という、市議としてはある意味では当たり前といえば当たり前だけど、なかなか市全体を見るっていうことができなかった。そういう意味で自分は名実ともに東大阪市を確立したかった。そして、東大阪市というものの誇りとか東大阪のアイデンティティ、そういったものを確立したかったと。そういう意味では議会の中でも比較的そういった質問や政策提案・提言をしてきた。

議員と市長は視野の範囲が大きく違う

-そして、市長になられましたが、市議会で見ていた市政と市長になってからの市政というのは見方が変わりましたか?

野田 当然立場が違います。市長というのは執行権もありますし、予算一つにしても市長は議会の審議議決はあるものの提案権は組み立てることができます。議員の場合は、こういう行政サービスを拡充するとか、そういう提案でしかなかった。当たり前ですけど非常に大きな違いがある。これやっぱり情報量が全然違う。当たり前のことですけれどもね。
 その情報量が違うので、議員のときに提案をした発言が間違いではないですが、視野が90度ぐらいしかなかったな。同じことでも360度に近い視野が首長としては求められるし、同時にそれを見ることができる。そこは一番大きな違いを感じましたね。

-2007年に市長選挙に初挑戦をされます。当時は長尾淳三市長が共産党の市政で不信任案が可決されたものの、解散はせずに議会の満了に合わせて市長は辞職しました。そのときの選挙というのはどういう選挙だったんでしょうか?

野田 振り返ってみれば、長尾さんが2回目の市長に就任されて・・・。

-間に1人入っておられる。

野田 そうです。(自民党系の)松見正宣さんが間に入られて、その後また長尾さんが返り咲きました。とにかく共産党市政では駄目だという一つの大前提がありました。
 それと、当時長尾さんがあれもこれもとバラ色の公約を打ち出されたけど、結果としてこの財源どうするのって。あるいは見通しすらなかなか示すことができなかった。あとは政治的な一つの闘争で、議会の任期満了の選挙に合わせて不信任案を提出した。

-議会側がですね?

野田 はい。ただ、このときは現実に不信任案が可決できるという事前の読みができていない段階で提案をしてしまった。

-ということはある意味ハプニング議決ということですか?

野田 そうですね。結果としては、3分の2。

-特別多数議決ですね。

野田 「ああ、可決になったんだ。不信任案が可決されたんだ」ということで、当時の自民党を中心とした政治勢力というのは、候補者も立てず、もし市長選挙になったら誰が候補者になるんだ、立てるんだということを持たずに不信任案を出した。不信任案が通ったんで候補者を擁立しなきゃならんという堂々巡りがあって、「もう、私、出ます」と言ったら、自民党の中では一瞬で決定しちゃって。

-当時は議長だったんですか?

野田 当時議長でした。相手は長尾さんという非常に選挙に強い方でした。しかも、議会の任期満了に合わせた不信任案なんていうのは、議会が解散されるという前提がないわけです。かなりの批判もあった。

-無責任な不信任案を出したということですね。

野田 はい。自分たちの身分を保障されてるじゃないかという。通常選挙があるから保障はされてないんですけれども、そういう議論があったので、決して非共産勢力が結集しても勝てないんじゃないかと言われてました。野田の好き嫌いはあったとしても、結果としてはほぼ非共産勢力は8割9割ぐらいが結果としてまとまって、2000票余りの差で私が勝利したということで、大変な選挙でしたね。

-厳しい選挙を勝ち上がってこられて、まずはどういった市政をしていこうとされたんでしょうか?議会の方もかなり混乱をしていたと伺いますが。

野田 とにかく共産党市政から奪還したと。私は議員を20年やってましたから、まず議会と協調路線だということは明確に打ち出しをしてスタートしたんですけれども、いきなり自民党が分裂してしまって。

-その原因は何ですか?

野田 どうなんでしょうか。個人的な感情としか・・・。

-自民党によくある話ですね(笑)。

野田 分裂した自民党、それと当時の民主党系の数名の議員、無所属の新社会党、結果として共産党の議員まで一緒になって、本来の自民党と公明党さんが少数与党になってしまう。本来は共産党以外全員が基本的には与党という話だったのに。

-非共産対共産という形でやったにもかかわらず・・・。

野田 いきなり大変でしたね。だからもう・・・まさに、その日を、一議会をどうクリアするかっていうことが必死で、なかなか長期的なビジョンを持って議会に示すというようなことができなかったですね。

-非共産対共産だったものが、いつの間にかコアな自公対非自公みたいな形に、選挙が終わった途端に構図が変わってしまったということですか?

野田 議長選挙に際しては、直前まではいろいろあっても本家自民党から議長を出すという話が、もういきなりそこで共産も含めて正副議長を、私から見て野党側がイニシアチブを取る形で、共産党を含む会派が完全に多数派を形成された。野党的立場だよね。だから2年間、副市長人事も認めてもらえなかった。議案上程すら拒否されてしまったっていうことがあって、ようやく2年経って、とりあえず人事の妥協もしながら、副市長、教育長、その辺りを順次置きながら、やっていきましょう。これでも大変でしたね、議会は延長、延長なんで。100日以上の定例会がありましたよ。

議会とはバッチバチでした。

-100日ですか、すごいですね(笑)。

野田 市議会で通常国会並みでしたね。議会も実質はやってないんですよ。ずっと休会、休会、休会っていうか、委員会もやらないという。

-調整も何もせずにただ引き延ばしただけですか?

野田 だから1期目のときは、私は1年間本会議で1回も答弁できない。私に答弁を求めない。議員側は私がしゃべると終わってしまうから、「そういう政策はやりません」と言ったら終わるんで、1回も答弁させなかったんです。

-かなりかなりバチバチですね。

野田 バッチバチですね。平成19年(2007)年が1期目で、平成23(2011)年が2期目で、2期目も前半の平成25(2013)年の当初予算はもう3月の20日過ぎぐらいでいきなり審議未了だって宣告されました。ポンと「議会が審議未了で閉会します」っていう宣言されて、おそらく野党側は3月末までに1週間ぐらいあるから、暫定予算か骨格予算を出してくるだろうと思ったでしょうが、提案したそっくりそのまま専決しました。

-当初予算の全額専決ですか!

野田 はい。一般会計、特別会計、企業会計、25年度の予算は全額専決しました。

-骨格にもせずに政策的予算も込みで、ですか?

野田 提案した予算をそっくりそのまま専決した。

-議会、かなり荒れるんじゃないですか?

野田 まあ、おそらくびっくり仰天したんでしょうね。多分これはしないだろうと思って。こっちとしても、政策的予算も含めて全額専決したら翌日の新聞は一面に書かれると思ってたら、地方版の一行にもならない。

-それはなぜですか?

野田 記者さんはそもそも議会がおかしいねっていうことで、当時の記者クラブの記者さんは「もうこれ全部専決したらいいと思います。議会開かなくていいですよ」と。

-当時、阿久根市が専決を繰り返していたので、総務省も気になってたんじゃないですかね。

野田 別に総務省から事情聴取というか確認行為も何もなくて。

-何もなかったんですか!

野田 ただ次の第2回定例会では専決報告の承認を求めますよね。賛成多数になりました。あれは何だったんだろう(笑)。それ以降ぐらいから、だんだんだんだん元々野党側に行っていた議員さんが、もう「なんぼ何でもちょっとこんなんやりすぎや」ということでその集団から抜けて中間派になり、本当の意味での是々非々でということで、野党側が過半数を取れなくなった。だんだんそんな状態でしたね。

-議会と円滑にいくようになったのはいつぐらいなんですか?

野田 平成26(2014)年ぐらいですね。平成25年第1回定例会はそんな状態でしたので。ただ、そのときには議会の政務活動費の不正が全国的に取り上げられて、本市も取り上げられて、議会に対していろんな意味で結構厳しい目を向けられたということで、市民団体とかいろんな団体の皆さんもちょっとこんな状態はおかしいと、何のために共産党市政から奪還したのかということで、かなり声が上がってきた26年あたりからは、いわゆる是々非々の議論に変わってきたなと。

-そこから安定しながら政策を打っていくような環境が一定できてきたと?

野田 ようやくできたかなというか。

-そうすると丸々2期ぐらいかかってるっていうことですか?

野田 そうですね。今は5期目に入りましたけど、4期16年の中で最初の2期6年ぐらいはとにかく行政を遅らせることのないようにということで精いっぱいで、なかなか前に進めるというのはしんどかったですね。

市町村が責任を持つ教育再生

-平成26年から教育再生首長会議が始まります。松浦正人防府市長が会長で国の教育再生実行会議と平仄を合わせながら教育改革に取り組みます。この教育改革についてはどういうお考えで臨んでおられましたか?

野田 東大阪で独自の東大阪らしい教育が義務教育の中でできないだろうかといろいろ模索して、なかなか一朝一夕にできなかったんですけれども、東大阪の中で市独自教科「夢TRY科」というのを作ることができたんですよね。教育委員会もそこは理解をしてくれました。東大阪でモノづくりなどを授業としてやっていこうと。同じやるんだったら教科書も作っていこうということで、実際、「夢TRY科」っていう教科書も作りました。「夢TRY科」というのは私がネーミングしたわけじゃない。教育指導主事が東大阪らしい教育をぜひとも授業として正式に何かできないかといろいろ考えてくれて、東大阪らしさにいろいろ加味しながら、地域愛だとか故郷愛だとかみたいなものを極力入れられるようにということでやっていこうと。すると教育指導主事の方から「そこまでやるんだったらぜひとも教科書作りたい」という話がありましたが、これは当然予算つけないといけない。私も「わかった」というと逆に指導主事も前向きに考えてくれたので、これも大変嬉しかった。それが一番かな。義務教育ですし、学習指導要領に基づくんでなかなか市独自の工夫はできなかったんですけど、一番そのシンボリックな一つの工夫ができたかなと。

教育再生首長会議

 あとは小中一貫。イメージとしては1年生から9年生までという取り組みを。なかなか財源や用地の問題で施設一体型を作る状況にはなかったんですが、1中1小、少なくとも一番多いところでも1中3小、三つの小学校で一つの中学校、そこをできるだけ交流をするということで、小学校6年生は何日かは中学校へ出向いて授業を受けるという、これを学校によって濃淡はありますけど、そういう小中一貫ということもソフト部門では取り組んでくれた。その辺りは東大阪の取組。今はGIGAスクールでも、AIドリルQubina(キュビナ)っていうのを一番最初に取り入れたんじゃないかなと思う。タブレットの活用もよくやってくれてるかなと。

-平成29(2017)年には松浦会長が引退されたということで教育再生首長会議の会長に就任されて取り組んでおられます。今後、教育再生首長会議はどういったところを目指されるのでしょうか?

野田 もちろん100名を超える首長が集まっていますので、今後、首長全体の意見もあると思いますが、私とすれば市町村がやっている教育をいわば公教育としたら、もっと民間も入ってくる。さらにそこにそれぞれ地域の産業界も入ってくる。学校に公教育、民間、産業界が入って、学校を構成していくみたいな、今の経済産業省で「未来の教室」ということで、五十棲(浩二・商務情報政策局教育産業室)さんというちょっと異色の官僚が取り組んでますけど、多分学校現場にはかなりの黒船来襲みたいなところがあるのかなと思うので、そこはできたら、教育再生首長会議の中で、先日はその方呼んで勉強会したんです。ぜひともそういう動きというものをやっていければいいのかなと思います。
 それと、今、教員でなければ授業ができない。東大阪に限って言えば、四つの大学、近畿大学、大阪商業大学、樟蔭女子大学、東大阪大学があるんですが、大学の先生だとか大学院の学生が授業をする。いわば、現場の教員がそこにいれば授業として成り立ってる。しかし、現場の教員がそこにいなければ授業として実際にカウントされないんですよね。もうそこは市町村の教育委員会に任せてほしいっていう、何かそういう制度設計、改革ができれば、もっと学校の教育っていうのは面白いものになるんじゃないかなと、私はそう考えてるんで、そういうところでも国を動かしていきたいと考えています。

-フリースクールの問題があったり、子どもたちがきちんと教育に向き合える環境を作っていくことが大事ということですね。

野田 だから場合によっては天気や気候が良ければ、大学生や大学院生あたりが来て授業やって、教員は教員で自分たちが実際に向き合わなきゃならないような子どもたちもいると思うのでそこに時間を費やすという、どちらも授業としてちゃんと成立しますよというそういう仕組みを、そこはもう市町村教育委員会に任せてほしい、ちゃんとやるからっていう、そういう制度設計でやりたいなと。

今だから明かす全国を震撼させた自公から維新への舞台裏

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