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自分らしく生きる生きづらさ

先日、りゅうちぇるというタレントが亡くなった。私はファンでもなく、特別好きでもなかったので、彼がメディアに登場したばかりの頃は「キテレツなキャラが出てきたな」という程度だった。そのうち相方のペコちゃんとの結婚や、二人に子どもが生まれたニュースが入ってきてからは、なんだか彼の言動がどことなく変わった印象がした。きっと父親になるためにしっかりとした新しいキャラづくりをしているんだろう、それもタレントとしての戦略の一つだろうと思っていた。しかし、昨年、彼は世間が求める良き父親のイメージと本来の自分とのギャップに抱えきれないほどの重圧と違和感を持ち、カミングアウトすることになる。
私はそのとき「やっぱり 彼はそうだったのか」という感想を持っただけで、SNSなどで誹謗中傷する「父親として失格」とか「自分勝手」「トランスジェンダーだから許されるのか」といった意見に関して、全く共感できなかった。
そのうち、りゅうちぇるは、容姿も変わり始める。どんどん女性化していく姿をニュースなどで見ながら、「彼はこういうスタイルで自分を表現したかったのか」と、必死に自分らしさを探しているりゅうちぇるから目が離せなくなった。
そして、先日の衝撃的なニュースである。
ショックだった。しばらく言葉が出なかった。気持ちが塞いだ。

自分らしく生きようとしていた彼を、受け入れようとしない世の中、自分らしく生きることを身勝手だとする意見が露わになり、なんとも言えない怒りが湧いた。

「自分らしく生きれない社会」って、なんなん?

同調圧力に従いながら、誰もが同じ方向を向いて、誰もが同じ目標のもと生きていく社会が世間の理想なのだろうか?と思った。

他人の考えや感性や信念を否定する社会など無意味。

新しい家族のスタイルを作ろうと試行錯誤してがんばっている家族の夢を打ち砕くSNSやメディアの言葉の暴力に嫌気がさした。
「みんな違っていい」そんなダイバーシティの考えはただの空想だったわけで、それを認めない人たちがいる。ダイバーシティの概念からすると、そういう人たちも認めないといけないのか?いや私にはムリだ。人の生き方を真っ向から否定し、壊していく社会など必要ではない。

差別はなくならない。理解できないものを排除する動きも常に存在する。
それでも必死に自分らしく生きようとする人に手を差し伸べたり、応援する気持ちをなくしたくはない。
誰もが自分らしく生きていける社会をみんなで築いていくには、どうしたらいいのか?これはすべての人が考えるべき問題だ。

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