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いつか生き長らえてよかったと思える日を

人間はとても些細なことで死んでしまう。
ただその些細なことが本人にとって些細だったかと問われれば答えようがない。
良くも悪くも小さなことはいずれ途方もなく大きなことになる可能性を秘めている。
些細な不安や恐怖を思い起こしては、1つ落ちた雫が水面を揺らして大きく広がるようにそれはどこまでも際限なく膨らむ。
そんな日々に自らの手で終止符を打つ事が頭をよぎる、そんな想像と戦い疲れ果てるその繰り返しが私の日常。

痛みってなんだったっけ、とぼんやり元あった感覚を失くしていたことに気づく。
道行く他人とすれ違い様、肩がぶつかっただけで吐き捨てられた暴言も、この世に私という人間を産み落とした張本人たちからの否定も、そこそこの大きさの部屋に無造作に30人集められたミニ社会での陰湿な行為も、ミニ社会に片足を残しつつ実際に目の当たりにする社会での理不尽も、いつしか痛みを伴わなくなり代わりに体と心を重たくした。

食への感動もしばらく見かけていないような気がする。
お気に入りの紙パックに入った1L100数円のコーヒー(微糖)は変わらず美味しいが、味覚を刺激する感動を失ったことで、味がする=美味しいと定義付けし直しただけで美味しいことの本来の感覚を忘れた。
人間に備わっているものが日々気がつけばいなくなっている、これから先もまたいなくなってしまうのだろうか。
どこへ行ったのか、いつになったら帰ってくるのか、もう二度と帰ってこないつもりなのか、せめて置き手紙くらい残してから出ていってほしい。

世の中がこんな状況でも、自分がどんな状況でも将来を考えて実現に向けて種を蒔かねばならない。
学費のためにバイトをする、進学先へ見学に行く、入試対策、通院、その他塵も積もれば山となるを具現化したように細かいタスクが積まれ、何が何だかもうわからないがとてつもなく疲弊している。そしてその全てが自分のための事である。
最近はどんなに疲れていても眠れなくなってしまってまた薬のお世話になっている。

いつからか抱えた持病を出来ない言い訳にしたくないな、と感じつつ持病によってしんどい思いをしているのも事実で折り合いをつけるのが難しい。

これまでの人生をライブや舞台などの現場を生きる糧にしていた私は、この状況で家で出来る趣味はあれど何をどれだけやっても自分に与えられるご褒美がないことにも底知れない虚しさを感じる。
自担の舞台が開催されるが家族からの反対で行けない、当然チケットも申し込まなかった。
公演期間中のSNSは行った人の感想で盛り上がるのだろう、いいなぁ会いたかったなぁ。

配信ライブも観ているが、実際に会場に足を運んで観るライブの代替品になるかと言われれば全くの別物だ。
カメラが切り替わるから観たいところをずっと観れる訳ではないし、歓声と拍手は聴こえない届かない、フロアの前方で自分と周りの境目がわからなくなるほど密着することもなければ、ダイバーを前に送りながら時々落ちてくる踵や肘なんかに痛い思いをすることもない。そして何よりあんなにもかっこいい人たちの演奏を画面越しでしか観られないのがつらい。
毎月のように足を運んだライブハウスがとても恋しい。
しかし、それがあるだけで生きていられた事を思うとエンターテイメントは偉大だ。

自分の精神を圧迫しているものをいくつか書き出してみると意外と頑張っているのでは、という気にもなってくる。でも、すぐ調子に乗って頑張らなくてもいいや、なんて慢心してしまうから勘違いしちゃいけない。

この半年間何度も生きていけないと思った、自分以外の人からしたら本当に些細なことの連続だろう。未だに思うように動けないことも多くて日々焦りを感じている。

それでもいつか全部が良くなる、いつかこんな日々も終わる、いつかまた会いたい人に会いに行けて、行きたい場所にも自由に行けるようになる。
変わらずバイトは大変かもしれないし、自分の気持ちも落ち込んだままかもしれないし、今より上手くいかないことが増えるかもしれないけれど、終わることで始まるいつかの日々を想い描いてちゃんと今を作っていこうと思う。