激ヤバの深遠ー大江健三郎『個人的な体験』を読んでー

 こんなにイラついたのに最後まで読んだ小説は初めてだ。
 大江健三郎の『個人的な体験』は、僕が初めて最後まで読み切った、氏の長編小説である。以前『万延元年のフットボール』を読もうとしたことがあったが、その時は最後まで読めなかった。他に読んだのは、「死者の奢り」と、あと障害者に性的奉仕をする看護婦(あえて「婦」と書く)の話……とか、要は、僕はほとんど大江健三郎の小説を読んだことがなかった。
 だからこの感想は大江文学に精通した者のそれではないということを、明記しておく。
 まずもって僕は最初から最後までこの小説の主人公、鳥(バード)に入れ込むことができなかった。小説を読むとき、主人公に「共感」したり「感情移入」したりする/できる必要は、僕は全くないと思っている。しかし、「入れ込む」ことができた方がいいとは思う。「入れ込む」ってなんだと言われると難しいが、ファンであり、アンチであり、それこそ、「個人的な体験」として、読むというか……分からん。
 まあとにかくこの小説に関して、僕は全然ダメだった。「なんだコイツ?」、「馬鹿なん?」、「終わってる」と何度呟いたか分からない。それもしっかりネガティブなトーンで。
主人公の鳥(バード)、(というあだ名である)、は妻の出産を控えている。そして街でぶらぶらして病院からの電話を待っている。この時点で、「え、病院の中とか、近くで待たないの」と思ってしまい出だしからつまずく。それでまあなんだかんだあって、生まれた子どもは「脳ヘルニア」と診断される。脳の一部が、脱腸みたいに外にでており、双頭に見えるらしい。そしてまともに成長はできないとも言われる。さあ、どうする、鳥(バード)、妻との愛の結晶は、なんと、大変な障害をもっている。まずは、どうあっても、妻を支えないとね。このことでいちばんショックを受けるのはそう、妻だ。とにかくそばにいてあげよう、とは全く考えず、医者の宣告に衝撃を受けた彼はウイスキーを持って女友達の家に行き飲んだくれ、嘔吐し、翌日職場でも嘔吐しクビになる。なにやってんの?馬鹿なの?マジ終わってる。
 その後は赤ん坊が早く病院で死んでくれないかなとグズグズ悩みながら、女友達の家に入り浸りセックス三昧、背徳と絶望の日々を送る……というのがだいたいの筋書きだ。
 パッと見、最低の小説に見えるがその通り最低の小説である。そして、最低の主人公にも見えるがやはり最低の男である。僕はこいつに全く入れ込めなかった。
 しかし最低、最低と言うだけでは全く生産的ではない。かといって、この小説の文学的価値なんぞは無理に論じるつもりもないので、この小説がなんでこんなに最低なのかを、こんな最低な小説がなぜ生まれたのかを考えていこうと思う。
 この小説の異常な点について言いたいことはたくさんあるが切りがないので、一点だけ挙げる。それは「妻」の徹底的な不在である。
 先程も書いたが、この小説の主人公、鳥(バード)は、生まれてきた赤ん坊が障害児だと分かると一人ショックを受けて街を放浪し、女友達の家に入り浸る馬鹿である。その間妻はどうしているかというと、一人病院にいるのである。呆れてものも言えないが、それ以上に、この小説自体の異常な点は、全編で鳥(バード)と妻が会話をするシーンはたった1度しかないということである。こんなのってありえるか?障害児が生まれてくるという筋書きの長編小説で、夫婦の会話が1回???あり得るのか?それがあり得た。
 ただ妻が登場するのが1度というわけではない。ラストシーンにも出てくる。しかしラストシーンでは妻は一言も言葉を発しない。義父と義母のセリフはあるのに、妻だけが赤ん坊を抱いたままぼけっと突っ立っている。明らかに不自然である。
 これはいったいなんなのか、僕はずっとそれが気になっていて、主人公がどこで何をしていても、「え、妻は?」、「妻妻」、「ちゃん妻はどしたん?」と脳内ツッコミを連発してしまい、この小説に横たわる深遠なテーマがもしあったとしたらそれに全く気づけなかった。いや、ごめん、それは嘘かも。ちゃんと小説的だなあというところはたくさんあった。日常にふと影を落とす死にかけの赤ん坊のイメージ、アフリカという仮想楽園、あーなんか、小説じゃないか。死と異世界、みたいなね。生きながらにして死にかけてるみたいな、そうか、この小説は一つの地獄巡りみたいな感じなんだ。なんかライ麦っぽいところもあるかもね、ふーん、ほーん、はーん……いやいや妻!妻どしたん!妻ちゃん一人にしないでぇー!やはりだめだ。
 もうこれもついでに書いてしまうが、ラストシーンもあまりにひどい。ほんとにノーベル賞作家が書いたのか?最後は結局、鳥(バード)は赤ん坊を受け入れる。ラストは、手術をなんとか終えた赤ん坊を抱いた妻と、義父と義母との会話シーンである。さっきもちょっと出したやつ。それがもう最高に安っぽい。まずこの絵面!最後にとってつけたかのような団欒!さらに義父は「なんだか大人になったな……もう鳥(バード)なんて子どもじみたあだ名は似合わないね……」というようなことを言っている。あと言い忘れてたが小説の冒頭で鳥(バード)は若者と喧嘩するんだが、その若者たちがたまたま病院にぞろぞろやって来る、が、鳥(バード)に絡まずにスルーする。それを不思議に思う鳥(バード)に義父が「きっと、ずいぶんたくましくなって同じやつだと気づかなかったんだ」的なことを言う。寒い!なんだこれ?絶対それより前の、赤ん坊をタクシーに乗せて、ここで事故ったら死ぬな……っていうシーンで終わってた方がよかったよ。
 というように、少なくとも僕が読む限りではこの小説はかなりおかしい。そして著者がそのおかしさを自覚して書いているようにも思えない。それが不気味なのだ。伝統的な私小説的露悪でないし、あまりに馬鹿な主人公を馬鹿に書いて笑ってもらおうとしているようにも思えない。じゃあなんなのか?
 ところで人間にはマジでヤバい時期がある。これは誰にでも、何度でも、ある。
 僕の話はあまりしたくないが、半年前僕もそんな感じになり現在休職中である。そして、この小説を書いたときの著者大江健三郎もそんな感じだったのではないか。
 この小説は、著者大江健三郎の体験に基づいたものであるらしい。これを書いていた当時、彼にも子どもができた。本作と同様に脳に障害をもった子どもである。彼はこの小説の主人公に、彼と同じ境遇を与えた。かといって自伝的ではない、と新潮文庫版のあとがきに示されている。彼と鳥(バード)との共通点は、脳に障害をもった子どもが生まれてきたことだけだ。この時の大江はけっこうヤバかったらしく、絶望のあまりベッドに突っ伏して動けなくなったこともあった(と新潮文庫版あとがきに……)らしい。
 そんな中産まれたのがこの小説だ。
 そうするとこの小説の異常さの謎も解けてくる気がする。
 ここからは僕の想像によるものがかなり入ってくる。
 人間マジでヤバい時は基本周りが見えない。この小説を大江は徹底的に内を向いて書いたのではないか。自分の中に妻はいないのである。だからこの小説に妻はいない。乱暴だが。
 この小説のキーパーソンの一人、先程から出ているが例の女友達の名前は火見子である。変な名前だ。そしてこの火見子はものすごく不自然な人間である。というか人間に見えない。話し方も、振る舞いも、人間に見えない。サイボーグか、良く言って、「精霊」みたいな。彼女は突然訪れた鳥(バード)をいつでも受け入れ、導く。鳥(バード)は彼女の影響で赤ん坊を殺すことにする(結局最後の最後に考え直すが)。こいつは完全に大江の中から出てきた人物であるという気がする。というより大江の葛藤と罪悪感の擬人化というか……
 他にもいろんなやつが出てくるんだが、ことごとく人間味がない。みんなアフリカかどっかからやってきた邪悪な精霊みたいに見える。みんな大江の中からやってきた幽霊みたいなものなんじゃないか。
 つまり、この小説は大江の個人的な内面の地獄を書いたものなのだ。障害児をもつことになった男の、自伝的物語ではない。全ては比喩である。全ては大江の個人的葛藤の比喩なのだ。だから自伝的な小説として読んだときに「え、妻は?」となるのは当然なのだ。登場人物はみんな大江の幽霊なんだから、妻は出てこない。それは実は、入り口が違ったのだ。
 まあもちろん、障害児が産まれたのなら、自分一人でくよくよするんでなく、妻と力を合わせて乗り切るのが筋だとは思うが、当時の彼にはできなかった。なんでかというとそれはよく分からない。若かったのか。あえてそうしなかったのか。子どもに対する責任が自分にあるとする何かがあったのか。分からない。ちゃんと調べれば分かるかもしれないが調べてない。ごめんなさい。
 ともあれ、だからこそタイトルは「個人的な体験」なのだ。赤ん坊と、妻がいるのに、なんで「個人的」?とずっと、思っていたが、そういうことだったのだ。たぶん。
 だからこの小説はめちゃくちゃなのだ。個人的な地獄に筋が通る訳はない。どんどん深みにはまっていく。安っぽいハッピーっぽいエンドでもとりあえず置いとかなければ、正気を保てない。
 そういう意味ではこの小説は、その不完全さ故に、大江健三郎の文学の中でも非常に重要かつ、最も生々しい小説なのだろう。
 そして、この小説を「個人的な体験」として読めるかは、あなたが今マジでヤバいかどうかにかかっているのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?