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事割れ 〜猫田道子「うわさのベーコン」を読んで〜

 「うわさのベーコン」という小説をご存知だろうか。
 「うわさのベーコン」は猫田道子の書いた小説である。タイトルを見れば分かる通り、小説には「ベーコン」はおろか「ベーコンのうわさ」すら一切出てこない。
 この小説は変だ。この小説について話そうとすると意識にもやがかかったようになりうまくいかない。この文章も何度も書き直している。どうしても無駄話をしてしまって「うわさのベーコン」にたどり着けない。だからすぐ本題に入ろうと思って、「うわさのベーコン」という言葉をとりあえず書いてから、この文章を書き始めた。にもかかわらずまた無駄なことを書いている。「うわさのベーコン」は語られるのを拒んでいるのかもしれない。
 だが書く。本題にたどり着けないのを恐れて、作品成立の流れやあらすじなどについてはその一切を省く。気になる方はWikipediaを見てください。
 僕は猫田道子の「うわさのベーコン」を読むにあたって、太田出版より出版された単行本『うわさのベーコン』をメルカリで購入した。5800円。定価よりはだいぶ高いが、現在古書市場でプレミアがついていることを考えると、許容範囲だろう。届いたものにも目立った傷や汚れもなく、状態は良好だった。
 そして読んだ。本全体を通して一回。それから表題作「うわさのベーコン」をもう一回。そしてこれから感想を書く。
 この本に収められているのは、「うわさのベーコン」、「西山さん」、「正一新聞」、「卯月の朝」の四つの小説だ。僕は主に「うわさのベーコン」について話したい。
 「うわさのベーコン」は、一見著者の自伝に見える。これまでの人生を振り返って書いている。ように見える。これは小説ではないのではないかと思う。初読時はそういう印象になる方が多いだろう。しかし最後まで読むとこれは小説だったのだと気づく仕組みになっている。
 まずこの小説を読んで気づくのは、この小説は普通の文章ではないということだ。何かが決定的におかしい。そしてその何かはきちんと言葉で説明できるものもある。まず誤字脱字が多い。単行本の最初には、あえて訂正しなかったという旨が書いてあるのでミスではない。たとえば、「腕」を「胞」、「悔しい」を「惜しい」など書いてある。基本的に文脈で本来何を書こうとしていたかが分かるので、読むのに支障はないが、出会うたびに世界に急に舌を出されたような感じを受ける。他にも敬語の使い方がおかしい。やたらと尊敬語を使っている。自分の母親の言動に「〜していらっしゃった」、「〜された」といった尊敬語を使っている。というか普通小説の語りで尊敬語は使わないだろう。正しく使っていてもおかしいのではないか。この馬鹿丁寧さに、逆に馬鹿にされているのではないかという気もしてくる。それから世界のつながり方がおかしい。うまく説明するのは難しいが、因果や脈絡がこんぐらがっている。それが顕著に現れた一文を引用する。

 私はのん気に食事をしていると、短大のクラスメイトが地元で婚約者をつくってベッドでセックスをしている。

(『うわさのベーコン』太田出版 p.28より)

 時空が歪むような一文である。なかなかこれを狙っては書けない。
 以上のように「うわさのベーコン」は変な小説である。簡単に説明できる文体上の特性ももちろんあるが、それだけではなく、この作者の書く小説には、世界との決定的なズレを感じさせる何かがある。というより僕が率直に思ったのは、小学生が書く文章に似ているということだ。僕は学生時代塾講師のアルバイトをしていたこともあり、小学生の書く文章を読む機会があった。子どもはとんでもない文章を書いてくる。主語がどうとか述語がどうとか、いつ誰がどこで何をどうしたとかそんなことに頓着などせず、漢字、ひらがな、カタカナ、絵、つば、よだれ、鼻血などをフル活用して全身全霊で紙を汚す。しかし、それもさまざまな「指導」を受けることで「改善」されていく。まず手を洗う。ハンカチ、ティッシュはポケットに。鉛筆はちゃんと削る。消しゴムは匂いつきのでなくちゃんと消えるやつでちゃんと消えるまで消す。「ぐうちゃん」でなく「ぼく」。「さおり」でなく「お母さん」。これはいつの話?幼稚園の時?じゃあ昨日の日記に書いてあるのはおかしいね。うんうん。とかやっているうちに、読みやすく、分かりやすい文章を書けるようになる。そして、たくさんのものが失われる。
 「うわさのベーコン」は明らかに大人が書いた小説である。それは読めば分かる。しかし僕は子どもが書く文章の手つかずの迫力を思い浮かべずにはいられない。子どもが書く文章がどんなに間違いだらけでもそこに何か異様な力がみなぎっているのは、子どもが世界と全身で関わっているからではないかと思う。世界を「見る」でも「聞く」でもなく「浸る」というか、全身の感覚全てで世界と関わっているような気がする。過去も未来も現在も、自分も他者も、好きも嫌いも快も不快も何もかも切り刻んでブチこまれ煮込まれた濃厚スープみたいになっていて、その中にぷかぷか浮かんでいる。そういう関わり方だ。そして猫田道子の世界との関わり方もそれに近いのではないか。
 しかしそういう混沌の中で、ある程度の年齢を重ねた大人が正気を保つのは難しい。混沌は恐怖だ。境界が欲しい。ふと思った、僕は今まで、猫田道子の小説は世界の混沌を書いていると思っていた。しかし、実は全く逆だったのではないか。むしろ、自分を飲み込む混沌に、言葉を使って必死に抵抗した結果生まれたのがあの小説なのではないか。例えばあの異常な敬語の乱用も、自己と他者との間に定規で線を引くように境界を作るための努力なのではないだろうか。そうしなければ、自分が分からなくなるから。
 言い忘れていたが、「うわさのベーコン」の中で語り手である「私」は、「結婚」に異常に執着する。「光司さん」との結婚。結婚して、「奥さん」になるということが、混沌の海で自分の存在を規定する手っ取り早い方法だと思っていたのかもしれない。また、何月何日までに何かをしなければならないということについてのこだわりも強い。目に見えない、「未来」を目に見える形でマーキングすることも、彼女が生き延びるために必要なことだったのではないか。
 思いつくままに書いてきたがここでまとめてみよう。「うわさのベーコン」の独特の文体は、その特性上、著者が意図しているかいないかに関わらず、「破壊的」なものとして捉えられてきたと思う。つまり、この小説の日本語は「壊れている」と。しかし、今僕が感じているのはむしろ逆で、猫田道子の世界は壊れてしまっていて、その壊れた世界を言葉で必死に修復しようとした結果があの小説なのではないかということだ。世界が歪んでいるので、言葉も歪んでしまう。それでも必死に抵抗した結果、唯一無二の言語世界が生まれたのだ。
 そう考えると、この小説を見る目、この小説を通して見える景色は大きく変わる。あの人を食ったような敬語の乱用、誤字脱字、不安定な語り、脈絡のない展開、全ては著者と壊れた世界との壮絶な格闘の末生まれた廃墟だったのではないか。
 最後に、この小説の中で最も印象に残った「誤字」を挙げて結びたい。先ほども述べた通り、猫田道子の小説には様々な誤字脱字があって、思わず笑ってしまうものもあれば、ぞくっとするようなものもある。僕が最も印象に残ったものを以下に引用する。

 「一辺、そのフルートの先生に会ってみたいな。」と回り道しながら言うと、おミッちゃんには事割れてしまう。仕方がないから学校の音楽の先生へなる為の勉強を始める。
 (『うわさのベーコン』太田出版 p.14より)

 「一辺」も「いっぺん(一度)」の誤字だが、ここで話題にしたいのは、「事割れ」である。文脈から判断すると、「断られ」の誤字だと思われる。しかし冷静に考えるとこの誤字はかなり不可解である。「うわさのベーコン」はおそらく手書きの原稿をベースにしている。その根拠は誤字のパターンだ。先ほど挙げた、「腕」を「胞」、「悔しい」を「惜しい」とする誤字は、ワープロで入力していては決して起こるはずのない誤字である。「うで」と打って、「胞」という漢字が出ることはない。だから手書きのはずである。しかし、「断られ」が「事割れ」になってしまうのは、ワープロでなら起こりうるが、手書きなら決して起こるはずのないことである。これはいったいどういうことなのか。猫田道子は、「コトワラレル」ということを書くのに、自ら「事割れ」という不気味な漢字を選んだことになる。
 「事」が「割れる」。偶然かもしれないがこの誤字は猫田道子の小説世界を見事に表していると思う。彼女の世界は「事」が「割れた」世界なのだ。割れてしまった世界で、彼女は言葉を使ってもがいている。それを僕たち読者は見て、笑ったり、怖くなったり、腹が立ったりするかもしれない。それができるのは「他者」としてこの小説に向き合っているからだ。しかし本当に他者ですか?そうでないのは読んでいるうちに分かってくると思います。猫田道子は距離を詰めてきています。そのようにおっしゃっておられます。世界が割ているということは、あなたにもすでに交じっているということですから。私のやりたいことはうまくいかなかったので、世界は割たままです。そういうわけで、作者とか読者とかのくべつはありません。そういう風にうまくやって行けるとおもわないでくださいネ。まだまだこれからです。もう遅いです。やって行けると思いますか?少しでも遠くまで行けるところまで行ってみてください。そうしたらベーコンが見えてくるかもしれません。出来ますか?さっきベーコンも何も出て来ないとありましたが、最初から書いてりました。気づきませんでしたか。バカ者が!

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