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老い行く人に心を寄せる、共に過ごした時間が関係をつくる

高齢者と言っても90歳以上の人の判断は毎日変わるという話です。
本人の判断も周囲の判断もです。

数か月前から食事量が減っていたAさん、オーバー90歳、一人暮らし。
元専門職の方です。
自分なりの健康管理があり、朝は卵ご飯、昼は外食(天ブラ、ラーメン、パスタなど)夜は食べない。
屋内でも歩行器で歩行しています。
最近はお風呂に入っていないらしい、でも不潔な感じはしません、服装はきちんとしている。

3週間前から、朝起きられなくなり、外食をしなくなりました。
心配した息子さんが土日訪問すると、元気に「かまわないでくれ」「大丈夫」を繰り返していました。実際お弁当を思って行っても食べている気配なし。食べたいと言っていた肉まんにも手を付けず。
先週転んでから、ベッドから一人で起きられなくなりました。
ここからは息子さん泊まり込み。
でも、大丈夫、病院には行きたくない。を繰り返す。
とうとう、3日目にはおむつにお世話になることに。
こうなって始めて、登場する娘に説得されて、入院の運びになりました。

どうしてもっと早くという周囲の気持ちと、本人の自宅にいたいという気持ちに家族の対応は揺れました。
具合が悪くなって本人の意思があいまいにならないと、言い換えればぼんやりしてこないと、今まで数々の困難を乗り越えてきたスーパーオールドを行動させることはできないのです。でも家族にとって、寝たきりになってからの3日間は何かを感じる(親の老い、変化など)時間だったに違いありません。

話は変わりますが、ある方が亡くなった後、家族が悔いなく過ごせるのは、正しい判断、思考というよりも、どれだけその人に手をかけられたかによると思います。
例えば、海外在住で、正しい判断で両親の老後を采配したとしても、正しい判断が免責にならずに、もう少しこうしてもらっていたらと後悔が残る。
亡くなる前に、ちょっと苦労してけんかしたり、涙したりしながら話し合い、行動を共にすると落ち着いて振り返りができるのです。
あ~こういうことしたなとか、こういう表情で話していたという思い出がなるからと思っています。
頭の中で考えたことよりも、質感をもって接していた時間が人との関係をつくるのですね。

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