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オリーブ色の付箋 #シロクマ文芸部

 私の日課は、オリーブ色の付箋を読むことから始まる。冷蔵庫に貼られたその付箋を読むたびに、少しだけ緑の風に包まれる、朝の始まり。

 恋人の哲朗と結婚の景色を描きながら一緒に暮らし始めて3年が経ち、どちらもその暮らしに慣れきっていたある日、哲朗が唐突にこう切り出した。「別れたいんだ」 と。

 たった一言だった。そのあと黙り込んで、しばらくしてから説明があったけれど、私の耳はわんわんとうるさくて人ごとのようにしかその話は聞こえてこなかった。ありきたりの別れ話、よくドラマで目にするような。それでも実際に自分に降りかかってくると、それは悲痛でしかなかった。よくドラマだったら30分も掛からずに主人公は新しい道に踏み出していくのに、現実は長くて、長くて、長い真っ暗なトンネルの中を手探りで歩くように果てしない。一度通ったらもう折り返すことは絶対にしたくないと思うほどに。

 一緒に暮らした部屋から出ていくのは私になった。私がそうしたかった。思い出の残る部屋に一人残されるなんて想像しただけでダメになってしまうもの。次に住むところをルームシェアに決めたのは、即入居できることと家賃の安さ。家主さんの説明によると、同居人は男性で、仕事の関係で、午後から家をでて帰宅は深夜、週末もほとんど留守だという。好都合なことにほとんど生活が重なりそうもない。

 ばったりあったら挨拶しようと思っていたのに、全く、そう全く同居人に会わない日が続いた。ベランダのプランター菜園が生き生きとしているところを見ると、部屋には戻って世話をしているようだ。淳という名前だけは知っていたけれど、私が起きて出かけるときには眠っているし、私が帰ってくるときには留守だし、挨拶もできないままその生活に馴染んでいった。

 そんなある朝のことだった。冷蔵庫にオリーブ色の付箋が一枚貼られていた。

 おはよう!ベタンダのトマト、味見してみて!   

淳より

 遠慮なく採れたてをいただいて、メッセージの下に返事を書き添えた。

 ご馳走様です。美味しかった!

映美より

 こうして、ほんの一言のメッセージが毎朝冷蔵庫に貼ってあって、ときにはお裾分けだったり、ときには水やりを頼まれたり、同じ部屋に住んでいるのに顔も知らない友達ができたような気がした。

 ある日のことだった。帰ってみると電気がさっぱりつかない。あれやこれや検索してみたが、電気はつかないし、寒いしで、淳へ「電気がつかなくて本も読めないよ」というメッセージだけ残してさっさとベッドに入った。翌朝、電気はつくようになっていて「とっても簡単だから覚えて」という図解付きのメッセージが貼ってあった。そして「今読んでいる本はなあに?」とも。

 今読んでいる本はちょっと変わった本屋で買った本だ。そこは午後から開く本屋で、深夜までやっているらしい。よくブックカフェというのはあるけれど、そこはブックカフェバーで、お酒を飲みながら本を読める。バーなので薄暗いけれど、ブックライトを使うことができて、静かに音楽が流れ、客はそれぞれに本を楽しんでいる。そこではおすすめ本に栞のようにおすすめメッセージが挟まっている。店主はバーテンダーも兼ねていて、いかにもモテそうな男性だ。ときどき会社帰りにふらっとよることがあった。

 この本はここに内見に来て、越してくると決めた日に買ったもので、そういえば、どんなおすすめメッセージが挟まっていたんだっけと探してもう一度読んでみて、はっとする。

 会ったことのない中学生時代の文通相手と
 20年の時を経て巡り合う物語。
 あなたと巡り会ったこの本は
 きっと細波のように
 忘れかけていた気持ちをつれてくるはず。
             J

 その見覚えのある文字で書かれたメモを今夜は冷蔵庫に貼っておこうと決めて、本の続きを読み始めた。




小牧部長、今週も出席します♪
いつもありがとうございます。

いやはや、私の嘘つき物語?的なあっちいったりこっちいったりの物語はさらっとかけますが、たまには真面目に描いてみようと思うと、本当に難しくって、何度も匙を投げかけました。これこそ、チャレンジですよね。

欧米では赤の他人の男女がルームメイト、というのは結構普通にあります。お互い干渉せず、かつ、助け合う、感じみたいです。日本だとあまりないかなと思いつつ、あっても良いかなと。

これからみなさんの作品も読みにいかせていただきます♪

いただいたサポートは毎年娘の誕生日前後に行っている、こどもたちのための非営利機関へのドネーションの一部とさせていただく予定です。私の気持ちとあなたのやさしさをミックスしていっしょにドネーションいたします。