love once upon a time⑭

1回目、4年半のマレーシア生活を一度切り上げ わたしは円稼ぎに日本に戻った。そこから4年間日本にいて派遣で働き、日本語教師の資格を取ったり歯の矯正をしたりした。この期間に大切なともだちにも出会った。
そしてまたマレーシアに戻るべく就職活動を始めた。JACリクルーメントというエージェントに登録し、履歴書、職務経歴書を提出したところ5社より面接のオファーをいただいた。渡航費は実費。色んなところにあるオフィスにタクシーを使って自分で出かけていく。KL近辺の土地勘はあったのでその辺りは難なくこなした。
社員数数名の会社(この会社は後に社長が自殺してしまったと在馬中に聞きました)や日本でも知られている会社の現地工場、中小企業の現地工場などなど。
名が知られている会社の現地工場、本社が関西なので面接官も関西弁。当時のわたしには馴染みがなかった。わたしの職務経歴はホテルと外資系金融(派遣)だったので面接官は「工場では働きずらいのではないか」と仰っていてこの会社からお仕事のオファーはいただかなかった。
もう1社も工場。通訳翻訳日本語教師(日英馬)を探していたので語学好きのわたしにはぴったり、でも工場経験はなかった。こちらは「工程などゆっくり勉強してもらえればいい」と仰っていただきお仕事のオファーをいただいた。他も1社か2社オファーいただき、わたしはこの工場で働くことを決め渡馬した。ここで働いてみて、工場すごく好き!ということに気付いた。
当時の現地社長には本当によくしていただき、わたしはもう20代後半だったけどわたしがマレーシアに到着した日にうちの両親に電話をしてくれて「無事着きましたよ。きちんと面倒見ますので安心してください。」といったことを伝えてくれた。
この時期日本で最後に働いたこちらも名の知れた会社もちょうどマレーシア法人を立ち上げるところで、そこで働きませんか、というオファーをいただいたんだけど関わるのが日本人だけになりそうだな、と思いそちらは選ばなかった。
結果働いた工場では何百人ものマレーシア人マネージメント(課長さんとか役職がついてるひと)や作業者、検査の人、工場付きの事務の人たちなどなど、駐在していた日本人スタッフにも本当に色々教えていただきこの工場の工程や機械の動き、品質保証、経理などなどに関して英語マレー語をみっちり学び語学にまみれて充実した働く日々を過ごした。
プライベートでは二股をかけられたり色々あったけど、とても貴重な体験をした日々だった。

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