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知らないはずなのに知っている感覚

先日の祈りの航海中 uncle Kimokeoの通訳をさせてもらったとき まったく緊張せず通訳できたことをどこかに書いた。空氣に安心感があったな、と感じていたけどあれは知らないはずなのに知っている感覚だったのだなと感じる今朝。

それを初めて感じたのは17才のとき。修学旅行がないかわりに2週間アメリカかカナダでホームステイをしながら高校に通う、というプログラム。アメリカ、ワシントン州デイトン。小さな町。当時『Twin Peaks』というドラマが流行っていて、撮影地も近くまさにあんな感じの町。ホストparentsは敬虔なクリスチャン。町の牧師さんの家にも連れて行ってもらった。ある晩パパがキリスト教の father, son and holy spiritのお話しを始めた。英語は学校で習っただけ。中2から得意科目、英語の勉強は大好きだったけど会話経験はなし。それでもパパの言ってることを理解している自分が不思議だった。ペアの同じ学校の子は「全然わからない」と言っていた。残念ながら17才のわたしは通訳はできなかった。
今思うとあれはパパが、というよりパパの kupunaさん(先祖)や隠れキリシタンだったわたしの kupunaさんが語っていたのだな。知らないはずなのに知っている感覚、または知っているはずなのに知らない感覚。

わたしは施術もしないけど akko seitaiという屋号をSNSに載せている。自分自身で自分の人生を氣もちよく(からだ、mind両方)生きることに寄り添うことが kuleana、使命なのかな、と感じている。

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