「川の流れの果て」(1)

このお話は、最終話まで「小説家になろう」などにもアップロードしてございます。





1話目「現れた男」





ある男があった。この話はそのある男について書いているようで、またそうでないようでもある、呑兵衛の独り言のようなものだ。

その男は突然、この些細な一膳飯屋、「柳屋」に現れた。「柳屋」は、どこもかしこも人でごった返して芋を洗うような江戸の中、永代橋の袂にある店であり、今の主である吉兵衛の五代前から続いている飯屋で、深川も近く人通りの多い場所にあるので繁盛した。

店主の吉兵衛は卒のない、人当たりの良い人物で、それで却って損を出しても笑っていられる、心の広い男であった。そして、困っている者を放り出すことは絶対にせず、自分が食いっぱぐれてでも、仕入先の魚屋などには晦日の払いはきっちり済ませた。

吉兵衛の女房は亡くなっており、名をお染と言った。少し気は強いが吉兵衛には優しく、働き者であったお染は、それ故に体を壊してもなかなか言い出さずに、とうとう倒れた時には、もう手の施しようがないと医者は皆痛ましそうに首を横に振った。


お染の亡くなる時分にはお花は十四になっていて、前から時折店を手伝ってはいたが、母亡き後は立派に店の給仕として、毎日きりきり舞いの日々を過ごしていた。

お花は父親に似たのかとても優しい子で、虫を殺すのも嫌がるほどだったが、気が弱いので始終びくびくしており、膳を運ぶお花の背中を、吉兵衛はいつも心配そうに追うのだった。

「柳屋」は大きくはなかったが小さくもなく、土間に床几が三枚と、畳敷きの座敷が衝立で二つに分けられていた。そこへ酒を飲みに来る近所の男達、江戸見物のついでに騒ぐ田舎者、「おかずをちょうだいな」とやって来る女連中など、様々な客達が入り乱れて噂などしていく。

誰も彼もが忙しく、働いたり飯を食ったり、酒を飲んだりしている横で、隅田の流れは変わることなく、時折溢れそうになって江戸の者を怯えさせる時以外は、ただ横たわっているのであった。

その日は、江戸らしい真夏であった。町の中で淀んだまま行ったり来たりしているような風がむっとして纏わりつき、陽光で目も眩むようであったが、暮れ近くにはようやく風がいくらか冷たくなって、吉兵衛は店先の行灯と提灯に火を灯していた。

店には、軒下の床几に掛けて大川の葦のさざめきを聴き、物憂げに酒を飲んでいる四十を過ぎたような男と、それから、座敷にはそれぞれに持ち寄った話と吉兵衛の旨い料理を肴にする、職人の連れが三人居た。

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「よう与助よ。そう泣くんじゃねえや、もう昔のことなんだろう?」
そう言ったのは、職人らしき三人の中で、座敷の奥の方に居た男だった。この男はいくらか色の白い眉のきりりとした、苦み走ったいい男だった。頬の一番高いところや鎖骨や指の節に小気味よい骨の出っ張りが見え、それが気骨のあるはっきりした印象を見せていた。着ている物は、股引に腹掛け、印半纏の上から三尺の手拭で前を締めた職人恰好で、座敷にどっかと胡坐をかいている。座敷の三人は、皆同じ恰好をしていた。

泣くなと言われ、与助と呼ばれた男は、膳に乗せられた皿の中にぽたぽたと涙を垂らし、肩を叩かれている。しきりに頷いてはいるが、一向に泣き止む気配はない。この男は三人の内では少し歳のいった様子で、長い職人暮らしの中でそうなったものか顔は浅黒く、それでも皺の寄った顔の中にどこか女好きのするような凛々しい面影がある。仕事の年季が体にも刻まれているようにあちこちの肌がくたびれてくすんでいたが、節くれ立って仕事の疲れが刻まれた両手は、力強そうだった。それでも、それがあんまり悲しそうに泣いているものだから、与助はすっかり頼りなく見えてしまっていた。

「まあそう言ってやるない留五郎。素直に泣かせておくがいいさ」
通りに面して開け放しになっている、座敷の端の軒柱にもたれていた三人目の男が口を出す。この男も割合にいい男ではあったが、灘らかだが揺るがない眉と、血の気も何も無い淡い色の肌、色も厚さも薄い唇など、どれをとっても職人には珍しい風采の男であった。体は留五郎より更に細く、それがささやかに微笑んでいる様子は、まるで托鉢の僧のようであった。
「だってよう三郎!こう皿の上にぽたぽたやられちゃあ堪らねえや!ほれ、もう一息飲んでよ、忘れっちまえ!」
留五郎はちろりを傾けて、与助が震えて覚束ない手で差し出した湯飲みに酒を注ぎながら、自分でも、湯飲みに半分ほど残った酒をぐいと飲み干した。与助も同じように、ぐいぐいと湯飲みを空にする。

「おう!おれぁ忘れる!うん!」
湯飲みを空にしてそう大声で叫んだ与助はすっかり酔っぱらっており、留五郎と三郎の二人はそれを見てげらげらと笑った。

どうやら与助を泣き止ませようとしていた留五郎が三人の中心になっていて、三郎は一足後ろで思慮深く微笑んでいる男で、奔放に泣き笑いする与助の様子も毎度の事らしい。慌てて慰めるよりはなだめすかした方がいいと、留五郎と三郎は分かっているようであった。

三人は手に手に酒を注いだ湯飲みを持っていたが、一様に指先と爪の間がうっすらと紫色だった。それは、三人とも紺屋の職人で、藍の色が染付の時に染み込むからであった。だが、神田紺屋町ではなく深川元町の職人であった。深川も水場が近いことで、何軒か紺屋がある。そこからすぐの永代橋の袂の「柳屋」は、この三人にとってたむろするのに格好だったのであった。


その時、通りから店を覗き込む者があり、店先にぶら下がった提灯では面差しまでは見えなかったが、「ごめんなせぇ…」とちょっと気後れしているのか、田舎訛りの、若い男の声がした。吉兵衛は「あいよ」と返事をしたが、その男はなかなか通りの真ん中から動かず、「どうしたい、酒かい?食いもんかい?」と吉兵衛に急かされてからやっと、「飯を、頂きたいんで…」と遠慮がちに暮れの夕闇の中から現れた。


その男はどうやら奉公人らしい前掛けをしており、背を折り曲げるほど屈めて何か申し訳なさそうな顔で笑っていたが、眼差しと眉の形は柔らかいながらも、堀りはくっきりと深く、唇も厚すぎず薄すぎず輪郭がはっきりとしていて、その両端がくいっと持ち上がっている。それから細めの顎が顔の全体を引き締めていて、芝居に出しても惜しいほどの男前だった。思わず吉兵衛が「こらぁ…」とため息のように独り言を言ったほどである。

飯は何がいいか、酒は要るのか要らないのかと吉兵衛が聞くと、男は「ごぜえましたら、茶飯をくだせえ。それから、酒は、安いのがいいんでなぁ、それを三合ほど…」と言うので、茶飯と、にごり酒を誂えてやることにして、お花が座敷を勧めると、男は何べんもお辞儀をしながら衝立のこちら側の座敷に座り込んだ。
お花が田舎男の分の酒を火で温めているうち、軒先に居た四十過ぎの男は勘定を吉兵衛のまな板の横に置いて帰り、店の中は職人連中三人と、田舎男一人になった。

吉兵衛がすぐに出来た茶飯をお花に渡し、酒の入ったちろりも膳に乗せてお花が座敷へ運ぶと、「ありがとうごぜえますだ」と田舎男はにこにこと愛想良く笑った。お花は「いえ、また御用のある時に…」と言い置いて席を離れていったが、胸の前で手を合わせ、しきりに周りの目を気にして、どうやら恥ずかしがっているようだった。

はぐはぐと茶飯を貪りながら、田舎男はちろりの中の酒を半分ほど飲み切ると、生き返ったようにほんわりと微笑んで、ふと目が合ったお花に、またぴょこっとお辞儀をした。お花は、江戸で一等のいい男とも言えるような男の前で顔を真っ赤にしてしまい、曖昧に微笑んでから、居た堪れなさそうに斜めに俯く。


それらの様子を、男が背を向けた衝立の向こうから留五郎が覗き込んでいて、にやにや笑いながら「よう、若えの。いい食いっぷりだな」と声を掛けた。驚いて田舎男が振り向くと、気の荒そうな職人らしい留五郎と顔を合わせたので、咄嗟に男は「へえ、すみません」と済まなそうに笑った。
「何、済まねえこたぁねえ、偉えモンだ。それに、もう酒も半分は飲んだだろう。どうだい、俺達の座敷へ来ねえかい」
「へ、へえ…」
留五郎は衝立の影から出てくると田舎男を手招きして、「いいよなあ?おめえら!」と、三郎と与助に声を掛けた。与助は泣くのをやめていて、三郎もちょっと仕方なさそうに頷いた。二人も、この美貌の田舎男の素性が知りたくて仕方ないらしかった。

「えーとぉ…職人さんだかぁ?」
男は、大人しくて物分かりが良さそうだと思ったのか、与助にそう聞きながら、自分の分のちろりを座敷に置くと、前掛けを片手で払って正座をした。与助は「そうだ、俺達ぁ紺屋の職人だ」と、いくらか重々しくそう答えて、どうやらとびきりのいい男に負けないようにと頑張っているようだった。
「まあまあ足を崩しなよお前さん。俺は留五郎。こいつぁ与助で、そっちが三郎だ。お前さんはなんて名だい?」
「へえ、ありがとうごぜえますだ。おらは、又吉と言いますだぁ」
そう言ってにこりと笑い、男はまた前掛けを気にしながら足を崩して胡坐になった。
「どこから来たんでい」
「へえ、下総の方から来たんでぇ」
「いくつになるんでい?」
「十六ですだ」
「そうか。江戸へは、奉公かい」
「へえ。二親に死に別れましてなぁ、働き口がねえとなりませんから、江戸へ出ればそれにありつけると思いましてなぁ…そんだらこって…」
「で、仕事はどうだい」
そう留五郎が聞くと、又吉といった男は急に黙り込んで俯いてしまったが、三人の顔をちらりと不安げに見てから、ぽそぽそとまた喋り出した。
「それが…今日番頭さんに叱られて、飯抜きだ、門限まで帰って来るなって、おっぽり出されましてな…ちょうど昨日頂いたお給金の残りがあったんで、ここは飯屋だと思って、入って来たんでごぜえます…」
又吉はしょんぼりと肩を落としてそうつぶやくように話した。その様子が芝居で申し開きをする二枚目そのもののように見えたので三人は少しの間見惚れていたが、三郎が始めに気を取り直す。

「それぁ大変だ。俺達ぁまだ銭を使い切っちゃいねえ。もう一皿食わせてやるから、元気を出しな」
留五郎と与助も、三郎の言うことにこくこくと頷いた。
又吉は一生懸命に「そんなことをしてもらっちゃあ、申し訳がねえですから」と謝っていたが、吉兵衛は烏賊のワタ焼きと柏と里芋の煮たのを作り、三人が頼みなおした五合の酒と一緒にお花がそれを運んだ。


「こらぁ、うめえだ!」
「烏賊の腸と烏賊の身を焼きながら和えるんだ。うまいもんだろう」
吉兵衛は手を休めて煙草盆の前に座り込み、田舎から出てきて初めてワタ焼きを食べたのであろう又吉を、微笑ましそうに見ていた。お花はお茶を入れておとっつぁんに渡すと、自分も湯飲みで茶をを飲みながら、座敷の方をちらちらと盗み見ては顔を赤くしている。

留五郎が脇にあった煙草盆の炭に咥えた煙管の先を近づけ、三郎も膳に乗った刺身で一杯やりながら煙草を吸っていた。与助は飲むことに専念したいらしく、酔っぱらうままに酒を煽ってはしゃっくりを始めている。

「それにしてもお前さんよぉ。俺ぁ驚いたぜ」
「あにがですだ?」
烏賊をぺろりとたいらげて柏と芋の煮つけに箸をつけている又吉は、またその味に驚いたのか嬉しそうな顔をして目を見開いている。
「何がって。おめえさんは大したいい男だ。役者になれるほどさ。奉公人にしておくなんてなぁ惜しいぜ」
煙管をすぱすぱと細かに吸いながら、留五郎はもったいぶってそう言った。すると又吉は、煮つけを詰め込んだ口を閉じながらも一生懸命首を横に振り、急いで口の中の物を飲み下してこう答えた。
「いんや、おらなんてそんなことねえですだ。番頭さんはおらのことを田舎モンだ田舎モンだって言いますだで、おらなんて…」
留五郎は馬鹿馬鹿しそうに笑いながら首を振って、三郎と与助は驚いて又吉を見つめていた。

「そんならお前さん、女に言い寄られたこともねえのかい?そんな面ならいくらでも引く手あまただろうによ」
与助がそう聞くと、又吉は急に顔を赤くして、「おらなんか、全然…」と言い切ることも出来ずに背中を丸めて小っちゃくなってしまった。
職人仲間三人はそこでどっと笑い、腹を抱えた。十六、七の男が女の話で決まり悪そうに恥ずかしがるのがおかしくて堪らなかったのだろう。又吉は笑われて恥ずかしそうにしていても、怒ることはなく、ただ真っ赤になって曖昧に笑って黙っていた。

「いやいや、悪かったよ笑っちまって。でもよぉお前さん、男たるものいつまでそうじゃいけねえよ。好きな女の一人も居ねえのかい?」
留五郎がそう言うと、又吉は小っちゃくなったまま目だけを留五郎に向けて、「いねえですだ…」とまた済まなそうに答えた。
「こいつぁ変わった奴だ。まあでも商売人はかたくなくちゃならねえ。そのうちにはお前も江戸で所帯を持つんだからな。それとも、のれんを分けてもらったら国へ帰るのかい?」
与助にそう聞かれると又吉は急にかしこまって背を正した。

「へえ、国へ帰って商売して、おっとうとおっかあが死んでなくなった店を、
おらがまた立て直してえんでごぜえます。だから頑張って商売を覚えて、身を立ててえんでごぜえます」

そう言って又吉は前を向いて、一度強く頷く。三人は感嘆して、吉兵衛も感心したように緩く何度か頷き、お花は嬉しそうに笑った。
「すげえじゃねえかおめえよ!その意気だ!おとっつぁんとおっかさんが見てるぜ!」
三人はそう言って又吉の肩を叩いて酒を注いでやり、又吉は嬉しそうにそれを飲んでいた。

「門限を守れねえとまた叱られますで、おらはもうここいらで失礼しますだ。どうもほんとうに馳走になって、済まねえですだ」
又吉はそう言い残して、ぴょこぴょこお辞儀をしいしい、帰って行った。

飯屋に姿を現した又吉の話を始める前に、「柳屋」に入り浸る三人の男について話しておく必要がある。この三人は深川に数軒ある紺屋の中で、弥一郎という名の親方が営む紺屋の、住み込みの職人であった。弥一郎は義理に厚く良く気のつく親方で、話の長いのが玉にキズだと陰で職人たちに愚痴をこぼされながらも、職人は皆良く働くので、弥一郎の店はだんだんと大きくなっていった。



まず留五郎だが、留五郎は生粋の江戸っ子で、喧嘩に強い、情に厚い、または情にもろい男であった。

留五郎が小さい時分、留五郎の父親である藤助は魚屋をしており、母はおよねといい、藤助が働きに出ている間は小さな留五郎の面倒を見て、生まれたばかりの留五郎の弟、留吉をおぶって、家の仕事をしていた。

しかしある年の暮れの寒さの厳しい中、母およねはこじらせた風邪が元で病の床に就き、薬を買う金などなかった留五郎の家では粥を炊いて布団を二枚重ねてやるくらいしか出来ることはなかった。藤助は自分の分の布団をおよねに掛けてやり、留五郎は藤助が仕事に行く間、母の看病と留吉の世話をした。

藤助と留五郎の必死の看病の甲斐もなくおよねが亡くなってからは、藤助は悲嘆に暮れて毎日酒ばかり飲んで、子供のために仕事には出たが、家に帰ってからも飲みっぱなしで泣いたり喚いたりし、その内に荒っぽい飲んだくれになってしまった。
酔って暴れ始める藤助を留五郎が止めると藤助は留五郎に暴力を振るい、留吉を守って留五郎は毎日のように怪我をした。

そうして家がめちゃくちゃになってしまうと、留五郎は外で弱い者いじめをする奴を見つけると辺り構わず殴りつけるようになり、いじめっ子と喧嘩をしては叩きのめされたが、その度に強くなっていった。

留五郎が十二のある冬の夕、家に帰ると留吉が咳をしており、大事にならぬようにすぐに留五郎は寝かしつけたが、母の時と同じくひどい熱で、留吉は苦しがって朦朧と「おっかちゃん、おっかちゃん」と今は亡き母を目の前に見ているかのように泣いた。

藤助は飲んだくれて寝てしまっており、かといって子供の自分に何をすることも出来ず、揺すり起こせば暴れると思って留五郎はそうっと財布の中身を見たが、案の定ぼろ財布の中は空だった。

「ごめんな、留吉、ごめんよ」
そう泣いている留五郎に返事をすることもなく留吉はその晩が明けない内に息を引き取り、留五郎は物言わぬ留吉の枕元で一頻り泣くと、そのまま家を出て仕事を探し、巡り巡って十六の時に深川に来たのだった。

留五郎が紺屋に来てから、紺屋の親分は優しい人で、いつも黙っている留五郎をある晩酒の供に誘い、「おめえよ、なんだってそんなに黙ってんだい。なんかあるだろう、話すことくらいよ」と声を掛けた。しばらく留五郎は口を開かなかったが、「まあ何もねえってんならそれもいいがよ、おめえさんは一人でじーっと黙ーっててよう、放っといたら病気になりそうだ」ともう一口親方が言った時、留五郎は思わず、「病気になったのは、弟でい」と親方を睨んだ。
みんな喋ってしまうまでに留五郎は何度も泣いたが、「あの時俺が子供じゃなくて、お金さえありゃあ、ウチがあんな貧乏でなけりゃあ、留吉だって、おっかさんだって助かったんでい、親方、だから俺ぁ銭を稼ぐんでい!」と、そう言って留五郎は目の前の親方を睨んだ。

すると親方は留五郎を見据えて、「留五郎よ、そりゃあ銭は大事だ。だが、銭にしがみつくな。銭にしがみつこうとすりゃ、人を知らず知らずに振り落とす。そうすりゃ人はおめえに目もくれないで、後ろ指を指すようになる。これはほんとうにそうなる。留五郎、人を助けてやれ。そうすりゃおめえの困った時、その全員がおめえを持ち上げてくれる。これもきっとそうなる。今晩はもう寝な」と、そう言って留五郎を寝かせた。

留五郎は半信半疑ながらも、その内に仕事の上で困った者などの手助けをしてやったりすると、後で忘れずにその者が「あん時ゃ世話になったからよ」と自分を助けてくれるのが分かった。それから留五郎はいつも周りの者に気を配り、目を届かせるようになって、親方への忠義から仕事に精を出した。そんな折、いつもぼーっと本ばかり読んでいる三郎が目に留まったのである。


三郎は、始めは孤児であった。父は生まれる前に死に、その埋め合わせに身重の体で働いていた苦労から三郎の母親は倒れて、三郎を産み落とすと、日の暮れない内に亡くなった。彼は少しの間両親を葬った寺へ預けられたが、しばらくして三郎の母の姉がその寺へ訪ねてきた。

三郎は間もなく伯母夫婦に引き取られて、子供がなかった伯母のふみと伯父良助は、三郎を大層可愛がって育てた。三郎が苦労することのないようにと良助は読み書きを教えて、ふみは昔庄屋で下働きなどした縁で教わった礼儀などをたまに三郎に話した。十五になって独り立ちしたいと言った三郎に伯母夫婦は餞別を渡してくれて、二人の元を離れて三郎は仕事を探し、訪ね歩いて弥一郎の元へ来た。

手にする給金の半分を伯母夫婦への仕送りとして、もう半分で三郎も好きな本を貸本屋から借りたり、酒を飲んだりしていたが、住み込みの身では里帰りも叶わず、その内に三郎が弥一郎の店へ来た翌年、伯母夫婦も相次いで流行り病で亡くなってしまった。

育ての親も亡くした三郎はただ心の中で、「これでもう思い残すものはない。残りの時は人のために生きよう」と思ったのだった。

三郎が塞ぎ込みがちながらも黙々と熱心に本を読む姿を見て、職人の中で年嵩の与助が、「そんなんじゃカビが生えらあ」と吉原へ誘い、あまり気乗りしていなかった三郎だが断りはせず、たまに与助の付き合いで女郎屋へ上がり込むようになった。

あまり花魁に口を開かなかった三郎だが、ちょっと頼りなさそうに見えてもいい男だとその店では評判で、ある晩わりあいに無口な女に当たり、二人とも喋らないというのも通夜のようだし、少し身の上話などしてみたらそれらしくなるだろうかと三郎が話してみたところ、花魁は黙って聞いていたが、三郎が喋り終わるとこちらを向いて、「お前さん、寂しくないんでありんすか」と一言だけ言われた。

それから、その言葉が気掛かりとなって、三郎は一人ででも花魁の居る小店へ顔を出しては長話をして、一言二言花魁が独り言のようなことを言い、二人で眠るという晩を過ごした。その内に、いつからか花魁は店へ出なくなり、最後にその店へ訪ねた時には「花魁は病で亡くなった」と店の若い者に聞かされて、三郎は最後の花代と、それから香典として、その日の有り金をその場で渡し、ふらふらと弥一郎の店へ帰ってきた。

それからの三郎はなんとなく浮世離れしたようで、ますます本ばかり読むようになった。


三郎を吉原へ誘った与助であるが、与助は元々は江戸に屋敷を持つさるお殿様の妾の子であった。与助がまだ物心つかない内よりずっと前にその家は乱れていて、そのうちにその主の乱行目に余るとお上に目されたのか無役となり、ふてくされた主はますます市中で乱暴狼藉を働くようになった。

ある晩酔っ払いから売られた喧嘩でその男を斬り殺してしまい、隠しはしたが奉行所に申し出る者があって、お家はお取り潰しとなってしまった。与助の母であった妾のお露は江戸市中の飯屋で働くことにしたが、与助が八つの時にお露はいい仲となっていた男と、文字通り露のように消えてしまったのである。

与助は飯屋で肩身の狭い思いをしながら育てられて時には飯屋の主にぶたれたりして、そんな場所に長く居たくないと、わずか十の時に家出をして、数々の店の前で門前払いをされ、弥一郎の店まで来ると、そこで迎え入れられたのである。


本ばかり読む三郎を留五郎が見つけて、三郎の心配をしていた与助のことも一緒に「柳屋」へ誘うようになった。これが「柳屋」に入り浸る三人の職人達の事の起こりである。


2話に続く


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