「ハコブネ」と無性の服
小学生のとき、「突然クラスの男子と女子の服装が入れ替わったら」という想像を一人頭のなかで繰り返していた。
そしてその度に自分は、「もし入れ替わっても男子に「気持ち悪い」「嫌だ」と思われない服装でいよう」と思っていた。つまり、男子が来ていても違和感のないような服装、ズボンにシンプルなシャツのような、無性の服だ。今言うならユニセックスってことか。
どうしてそんなこと思ったんだろ。
小学生の頃なんか、なんの違和感もなく自分をまぎれもない「女子」だと思っていた。
それでも自分が男子に見られている、評価されているという意識はどこかにあったかもしれない。男子みたいな服装をすることで、男子に「認められる」「一人前」と思われたかったのかも。
今考えればその必要はまったくなかったのだけれど。べつに「女の子っぽい」服装が嫌いなワケじゃないし、できれば毎日ちがったスタイルで出かけたい。さっきの妄想は、生物としての女性である自分の身体条件を認めない、否定している・否定したい気持ちを象徴しているのではないかしら。生まれたままの自分の条件を受け入れることをすっとばして。(ただ、「必要があるかないか」で判断したことが直ちに実際の生活に反映され得ないのが人間生活のもどかしい点ですね、)
ところで、レオノール・フィニという画家がいる。(本人は自分を「画家」だとか、そういうレッテル貼られたり分類されることを悉く嫌った人物ではあるのだけど。)
尾形貴和子『レオノール・フィニ——境界を侵犯する新しい種』(2006年、東信堂)によると、
「フィニの言う「無差別といってよいほど、ほとんど差別のない性の世界」とは男性、女性の特徴を消し去ってしまうことではなく、よりエロス的力を人間の生に与えるものなのである」
とのことだ。
そうなんだよ。その世界にあこがれてるんだよ。
性によって生まれる差異を殺して認められることより、そのままであることが受け入れられる方向に進みたい。生まれ持った差異そのものが自分なんじゃないか。その差異=自分を殺すことで得た承認や称賛をよろこびたくないのだ。
このテーマで思い出すのが、村田沙耶香の小説『ハコブネ』。
ていうかむしろこの本読んだから、小学生の頃の妄想エピソードを思い出したのかもしれない(どっちが先かわすれた)
(以下、脳内記憶からひっぱり出したあらすじ。)
主な登場人物3人(里帆、椿、知佳子)はそれぞれの性の世界を生きている。里帆は、自分は女性だと思っていたけれど本当は男なんじゃないか、と思い始め、「二次性徴をやりなおす」実験と称して、胸を潰すタンクトップを着てみたりする。そんな里帆を椿は「女はみんな辛い(だからあなたも耐えるべき)」「そんな実験はただの甘えで、子どもの遊び」みたいなことを言う。知佳子は性別による苦しさやもどかしさを生きている二人を外の世界からあたたかいような他人事のような雰囲気で見守っているようす。
…里帆の気持ちめっちゃわかるんだよなあ。とくにバイト先のめいちゃんに性的欲望を感じるシーンなんかは、自分は男性が好きだと思ってたのにあれ??なんか小さくてフワフワしてて可愛くて、触りたくなっちゃう、みたいな女の子っているしなー。その場合、気持ち的には自分が男役、ってことなんだよね。身体的条件を鑑みないで、気持ちの面でまったく性別なしにセックスするとか恋愛感情を抱く、とか出来るんだろか。自分はまだ、「いま男性的な支配欲が出てるな」「女性的な受け身の態度だな」とかいうステレオタイプな男女観に自分の気持ちを照らし合わせてる気がする。(まだ、っていうけど、そこから逸脱することは可能なのか?)男か女かの二択を場面に合わせて選んで、演じているような。人類全員、肉体的に両性具有になったとして、気持ち面での「女か男か」の表れは無くなるんだろか、いや今の流れでいくとやっぱり女、男を場面によって使い分けるんだろうな。
性的役割を演じる、ということを純粋に楽しめるときもある。(それを知佳子は「おままごと」と表現していた)
ただ大体において、それは疲れる。
普段は無難な格好をしてるけど、ときどき趣味でコスプレしてまーす、くらいのノリで女とか男とかっていうものを気が向いたときにだけ好きに演じさせてくれないか?世界よ。
「無垢でいるためには性的身体に自覚的でなければならない」
知人が、前読んだ本に書いてあった、と言って最近教えてくれた言葉。
なるほど、なんか、めちゃくちゃ正しいというか真理を突いた、という匂いがプンプンするぜ…。
この言葉を解釈しそれっぽく説明する言葉をさがしながら、しばらくはだらだらと生き永らえていたい・・・
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