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私がデザイナーになったわけ(物理学者でなく)

なぜデザイナーになったのかと聞かれる度、いつも少しばかりうしろめたさのようなものを感じてしまう。

憧れを抱いたわけでも、目指していたわけでもないからだ。子ども時代の長い困惑の先に、偶然見つけた選択肢で、状況が違えば他の仕事についていただろう。

私が育ったのは昭和の高度成長期。良い時代としてノスタルジックに語られることも多いけど、物事の半分しか見えていないと思う。

これはもう半分の忘れられた世界で生きてきた、あきらめが悪い不器用な女の子の物語だ。

長いトンネルの入り口で

話は小学校入学の時に遡る。

初登校の朝に母が言った。「先生の言うことを集中して聞いていればわかるからね」

母は正しく、授業中わからないことはなかった。予習も復習もしなかったが、私は成績が良かった。

それでも順風満帆な学校生活とならなかったのは、入学早々クラスの男子に目をつけられて、いじめの対象になってしまったからだ。

5科目はすこぶる良く、体育がまるでダメ。凸凹具合が目立つ子だった。やせっぽちで力も弱く、いじめるにはうってつけ。体育の授業中に実技ができないのをみんなの前で馬鹿にして囃し立てられ、校内を歩けば必ずすぐうしろをついてきて悪口を言われ続けた。

いじめるのは数人の男子に限られていたので、普通に仲良しの友達もできた。見かねて庇ってくれる男の子もいた。だから後年問題になったいじめとは様子が違う。

それでもいじめはいじめだ。小学生の世界は狭いから逃げ場もない。

「いじめられても平気な顔をしていれば、飽きてどこかに行っちゃうから」
この点では母は間違っていた。彼らが飽きることはなかった。

希望

将来のことを最初に考えたのは、学校のこんな定番の課題だ。
“大人になったら何になりたいか書いてみよう”

小学一年の私が書いたのは、“童話作家になって世界を旅する”というものだった。

万博やアポロの月面着陸の影響か、当時の子ども向けの読み物には当たり前のように、明るい近未来の様子が描かれていた。宇宙にも人々が暮らし、海には鯨も泳ぐ海底牧場ができるのだ。大人になった私はその世界を旅して回り、本を書く。

いじめが絶えず、気が変になってしまうような状況でも希望はあった。

その頃ちょうど6学年上の姉が中学に入ったばかり。小一の私からは随分と大人に見えたし、楽しそうだった。
“中学生はもう大人だから、いじめなんてなくなるに違いない”。

だけど、小学校卒業まであと6年。7才の私にとって6年は永遠に近かった。

家族のこと

父は会社勤めの家具職人。母は洋裁の仕事をしていたが、結婚後は専業主婦になっていた。

6年上の姉、3つ上の兄、私、2つ下の妹で4人きょうだい。
父の育ての親とあわせて7人暮らしは当時としても大所帯で、父の扶養家族は6人。

夕飯時にはきょうだい4人がその日にあったことを一斉にしゃべるものだから、この情報量は強みだった。

年上のふたりの話からは3年後、6年後に起こることが事前にわかる。このことは私が早くから将来を考える一因になった。

同一労働同一賃金の夢

大所帯なので費用のかかる家族全員の旅行はなく、市内の祖母の家にしばらく滞在するのが長期休みの定番だった。

祖母の住む周辺では親戚が店や農家をやっていて、滞在中の繁忙期に手伝いをすることになる。比較的年の近いいとこたちと働き、時給をもらう。そんなのを小学校に上がる前からやっていた。

よい小遣い稼ぎになるのだが、その時給が年上の子どもたちの方が高い。

小さいうちは仕方がない。でも大きくなってかつての彼らと同い年になっても、いつまでたっても、小さい子と同じ。

貰えるお金が少ないことよりも、いつまでも子ども扱い(子どもだけど)なのは納得がいかない。仕事は年上と同じくらいできるのに。

4人きょうだいの3番目。上ふたりがどこかへ連れて行ってもらう間に小さい妹と留守番とか、逆に就学していない小さな妹だけどこかへとか、狭間でなにかと押しやられがちなポジションだったので、尚更こういうのは気になった。子どもだって、労働の対価くらいは平等に扱ってほしいのだ。

おかしいよと言ってみても、大人は聞いてくれないし、一緒に働く小さい子たちは疑問すら持っていない。あまり強く言うと、じゃあ辞めていいよ、と言われるのがオチなのであきらめてしまった。

子どもだから、理不尽でも我慢するしかない。親に食べさせてもらっているんだからしょうがない。小学生を雇ってくれるところなんて、親戚以外にない。

そんなことくらいわかってる。
大人になれば外で働けるし、それまでの辛抱だ。

大人になればいろんなことが解決するのだ。

女子でも高校まで行ける

こんな話を母がよくしてくれた。

明治生まれの祖母は子どもの頃、勉強がよくできた。最低限の義務教育から、上の学校に行くように、先生がわざわざ来て親を説得してくれたのだが、「百姓の娘に学問なんて必要ない」と言って許されなかったそうだ。

「義務教育は中学までだけど、公立なら高校までは行かせてあげるから。」小学校に入ったばかりの私に、母はこう約束してくれた。祖母の話の後では、お金持ちでもないのになんて恵まれてるんだと思った。

同時に兄は大学までとも聞かされた。男の子1人、女の子3人。全員が進学なんて不可能だろうし、女子が大学に行くのは珍しい頃だから、誰かが行けるとすればそれは兄なんだろうと素直に頷く。

この話は折に触れ、セットで聞かされたので、余計な期待を抱かせないようにしていたのかもしれないと思う。でも大人になって働くようになれば平等に扱われると信じていたから、私としても特に不満もなかった。

何になりたいというよりは、とにかく早く大人になりたかった。

大人になればいじめも、嫌な体育の時間も、理不尽な賃金格差も無くなる。月には行けないかもしれないけど、外国には行けるかもしれない。ジュールヴェルヌ原作の80日間世界一周の映画がとても好きだった。自分の目で世の中に何があるのか見てみたかった。

中学年から高学年へ

3~4年生になると学校生活は少しマシになっていた。あいかわらず体育はてんでダメだったけれど、休み時間に同級生に勉強を教えることも多かった。スポーツでも勉強でも、何かに長けている子はそれなりに認められる風潮があった気もする。規程で可能な限り、学級委員にも毎回選ばれた。

担任の先生の引率で、みんなで奥多摩に遊びに行ったなど、楽しい思い出もちゃんとある。クラス替えでいじめっ子集団が離れたこともあって、いじめが下火になっていたのも大きい。

勉強よりも本を読むのが好きで、自分で買ったり家族の本を借りたりして読み漁った。SFやファンタジー、冒険物が好きだった。兄の影響で推理小説もたくさん読んだ。

このまま卒業まで平和に過ごせるのかと思っていたら、5年生になった時、やっかいな相手が現れた。今度の敵は小学生ではなかった。

まさかの先生に目をつけられる

赴任したばかりの若い男性教師。あろうことか、低学年のいじめっ子がしたことと同じことをし始めた。違うのは彼が先生という権力者だということ。そしてよりによって体育が専攻だった。

体育の時間には必ず前に呼び出され、できないとわかっている実技をみんなの前でさせられるようになった。それを馬鹿にし、ねちねちと揶揄される。

他の成績が良いのに体育だけが苦手だなんて、彼にとっては相当美味しい存在だったはずだ。

授業以外でも、機会があれば絡んできた。

悪趣味で出来の悪い冗談(今でも覚えているが、最低なので書かない)を得意満面で言った時にニコリともしない私が、いかに反応が「遅い」か、足の遅さを引き合いにしつこく弱点をえぐる。他の先生に言葉遣いが誉められた時でさえ、なぜ自分には愛想が悪いのか(決まってるだろうに)、皮肉たっぷりに嫌味を言い続けた。

この頃にはいじめには耐性ができていたので、どんないやがらせにも無表情で耐えた。でもだからといって平気だったわけではない。結局のところ、私はまだ小学生だったのだから。

先生と呼ばれる人物が11、12才の子どもを執拗にいじめるなんて。
こんな日々が2年続き、大人になれば…という希望はどこかに消えてしまった。

暗雲

憂鬱の種は他にもあった。

私が小学校高学年になると、6学年上の姉は高校卒業が近づく。

母世代は専業主婦や家業に従事していたし、年長のいとこたちは皆、男子だったので、女子が企業に就職するとどうなるのか、情報源は姉が唯一だったと言っていい。

雇用機会均等法ができる前のことだ。女性社員の仕事といったら、お茶汲み、コピー取り、その他雑務。(もちろん例外はあっただろうが。)

いくら成績が良くても、先生のいじめまで耐えた先には、お茶汲みの未来が待っているのか。

頭がいいなんて辛いだけだ。

抜け道探し

そんなわけで中学への入学は期待半分、あきらめ半分だった。

高校までの方針として、なんとなくこんなふうに決めていた。
中学まではちゃんと勉強する。取り柄はそれだけだし、義務教育なのだから。
高校に入ったら好きな科目だけ勉強する。だって大学には行かないし、卒業したらお茶汲みなんだから。

成績が良くてもどうにもならないし、返って辛い目に遭うばかりだ。

勉強ができる子ではなく、なにか他のことで変わった人にならなくちゃ。
でもどんなふうに?

偽りの平和

中学は比較的良いところだった。
嫌な先生はいたが、みんなに対して嫌なやつだった。そういうのは気にならない。

いじめっ子も一緒に進学したが、いじめられることはなくなった。不良っぽい子たちとも他の子と同じように休み時間に雑談したり、彼らに勉強を教えたりしてまあまあ仲が良かったので、それでかもと思っている。いじめっ子は強いものには弱い。意図したわけではないけど、自分が散々嫌な目にあってきたので、レッテルで態度を変えるのは嫌だった。

授業はそれぞれ専門の先生に教えてもらえるのも良かった。面白いし、授業に絡めた雑談も楽しい。イギリス帰りの先生に習う英語はとてもワクワクしたし、化学の時間も数学の時間も好きだった。授業中、先生との掛け合いがあったり、小学校と違うスタイルもちょっと大人っぽくて新鮮だった。

ところがこの大人扱いというやつで、小学校とはまた違う問題が現れた。
男女別の授業、家庭科と技術だ。

何度も言うけど、時は男女雇用機会均等法以前。小学校では一緒に料理やボタンつけをしていたのに、中学に入った途端、私たちは分けられてしまった。

家庭科が苦手だったわけではないし、裁縫などはむしろ得意だったけど、これは納得がいかなかった。 “家庭での女性の役割”がもろに反映された内容で、赤ちゃんの世話だけでなく、高齢者のケアや献立までも含まれる。大事なことかもしれないけど、それを女子だけが習う。

同じ時間に、男子はラジオを組み立てたり、家具を作ったり。兄から話を聞いていただけに、同じことができないのが悔しかった。

(当時の)役割で考えても、家具やラジオを作ったりなんて、普通の家庭の父親が日常的にすることだろうか(私の父は家具職人だから別!)。男子だけ、ほとんど趣味のようなことを楽しそうにやっていて、ずるくないか。

私も料理よりラジオつくりたいんだけど、と言ったら変な顔をされた。

今でもこの話をすると、「今からでもキットを買ってつくればいいじゃない」と言う人がいるが、そういうことじゃない。

しかも、ご丁寧なことに女子の家庭科は試験があり、これはさらに不公平感に追い打ちをかけた。

不公平な試験システム

中間試験と期末試験。私のいた学校では毎回、学年50位までが廊下に掲示された。

予習復習はあいかわらずあまりしなかったけれど(なんたって自分の部屋どころか机もない)、試験前1週間は兄を見習ってスケジュールを立て、試験勉強に勤しんだ。

結果はだいたい学年2位で、時々1位になった。

これが不公平感漂うもので、中間か期末かどちらか忘れたけれど、女子だけ1科目多い。

つまり「家庭科」だけ1学期に一回、他と同日に筆記試験があり、男子の「技術」には試験がない。私が1位になるのは決まって家庭科の試験がない時だった。

家庭科の筆記試験は生やさしいものではなく、細かい栄養素とかカロリーの数値など、覚えることがたくさんあって大変だったから(しかも気が進まないから余計)勉強時間を取られ、どう考えても男子に有利。

同時実施なのに、順位は家庭科を除いた点数の合計で決定される。今なら「下駄を履かせている」と言われるであろう状態に、誰も異議を唱えない。

たぶん悔し紛れにしか聞こえなかったんだろうけど、貼り出された順位の前で、女子だけ試験科目が多いのは不公平だよねと言ってみても、誰も賛同してくれなかった。

気づくとひとりだけ、学年1位の男子だけが少し後ろめたそうな顔をしていた。彼にしてみたら、進んで下駄を履かせてもらったわけでもないのに不本意だったんだろう。それでも性別で自動的にハンデをつけられてしまう側よりマシじゃないだろうか。

だったら頑張って、男子よりも勉強して、1位を取れば良かったじゃないか、と言うかもしれない。

でも、なんで女子だけ余計に頑張らなきゃいけない? 
勉強したって将来お茶汲みなのに。

お茶汲み問題に家庭科問題が重なり、試験前の1週間だけですら、モチベーションを保つのは容易ではなかった。

女子の進路事情

今のようにネットで広く調べられたわけでもないから偏っているかもしれないが、当時私が仕入れた進路事情を整理するとこうだ。

女子の大学進学については、そもそも少ない。

進学したとしても有利なのは短大までで、4年制の大学に行こうものなら就職口がない。

一般企業ならお茶汲みやコピー取り、電話の応対などサポート的な仕事。何年か勤めて結婚退職するのが一般的で、そうしないと変な目で見られるみたいだ。

女性の自立した職業としては保母(保育士)さんとか学校の先生。でも高卒ではなれないし、もとより自分に向いてないのは子どもでもわかった。

進学しないなら就職するのは当たり前で、なにもしないでいられるのはよほどのお金持ちのお嬢さん、という感じ(私の周りにはそんな人いなかった)。もちろんフリーターとかニートなんて言葉もない。

これが男子だと、貧乏な家庭に育ったものの奨学金で大学を卒業し…なんて苦労の末の成功話もあるけれど(高度成長期だったからそれも現実味があったと思うし、実際今でも聞く話)、女子はそれすら望めない。

大卒でもお茶汲みやサポートしかさせてもらえず、数年で退職(そうと限らなかったかもしれないが、そういう情報は当時皆無だったのでわからない)。しかもそれは良い方で、もし就職先が見つからなかったら目も当てられない。進学自体が一か八かのギャンブルのようなものだ。

大学を卒業して、万一就職できなくても助けてくれる財力なんて、大所帯の7人家族にあるわけがない。

そう考えると、大学に行く選択肢なんて、初めから私にはなかった。

衝撃の求人票

中卒で就職する子向けに、中学の職員室の前には求人票が貼られていた。

ある日、何の気なしに見ていると、もちろん全部ではなかったし、中卒向けの求人ということもあったかもしれないが、結構な割合でそれはあった。

「女子、定年40才」

すでにいろいろ聞いていたから、男女で条件が違っているのには驚かなかった。けれど、この数字には恐ろしいインパクトがあった。

就職して、お茶汲みやコピー取りをして、周囲の目に耐えながら働き続けたとしても、下手すると40才で定年。特にスキルもないまま、正式に会社を追い出されてしまう。

困ったことになった。
今風に言うと、人生詰んだと思った。

なんでもいいから、なにか技術を身につけなければ。
あと3、4年しかない。

高校進学

高校は直前になって、志望先を変えた。近所の進学校から自由な校風の学校への変更。

大学に行かないのに進学校に行くのも嫌だなあと思い直したからだけど、親には電車通学がしたいからと話した。反対はされなかった。先生も何も言わなかった。

モチベーションも上がらないし、あまり必要性も感じなかったので特に受験勉強はしなかった。公立に落ちたら就職と言われていたので、念のため一回だけ模擬試験を受けてみた。最初の志望校も変更後の志望校も合格圏内に入っていたので良しとした。

入学してみると、どうやら同じように校風に惹かれて来た子たちがいた。女子はこの傾向が強かったのかもしれない。

中学入学の時から決めていた通り、面白いと思える科目だけ勉強することにした。倫理社会とか物理、数学は左手でノートを取ったりして時間を潰す。世界史や地学、生物は面白いからちゃんと聞くし、試験前には家で勉強もする。

選択科目は音楽、美術、書道、家庭科の中から美術を選んだが、この時でさえ、デザインという言葉はまだ頭になかった。ちなみに家庭科を選択する男子も一定数いて、そりゃそうだよねと思った。

就職か進学か、進路もいよいよ現実味を帯びてきた。女子の進路として多いのは一般企業への就職で、該当者は面接の対策や就職活動がある。公務員試験を受けて地方公務員を目指す子、警察官を希望する子もいるらしい。

「デザイナー」との出会い

高1の後半か、2年に上がった頃だろうか。学校に進路関係のパンフレットが置いてあるのを見つけて手に取った。

デザインの専門学校の案内だった。
この時、グラフィックデザイナーという職種を初めて知った。

そこに書かれていた情報しかわからないけど、これならいけるかもしれない。直感的にそう思った。授業料もそれほど高くないようだ。なにより2年間だった。

そのままパンフレットを持ち帰り、ダメ元で親に聞いてみた。

この学校に行きたいんだけど、授業料を出してもらえないか。難しいなら放課後アルバイトをして、お金を貯めようと思う。卒業までアルバイトをすれば、少なくとも1年分の学費は貯まるはず。

すると「このくらいなら出せるから、アルバイトなんて必要ない。みんなと同じように部活でもしてなさい」と、拍子抜けなくらい、あっさり言ってもらうことができた。

今までずっと、高卒で働くのだと信じていたので、これはうれしかった。

好きなことを仕事にするのではなく、したくないことをしないためという後ろ向きの理由だったけれど、私はひどく満足だった。

18の秋

体験入学なども済ませて迎えた高3の2学期。入学願書の受付が始まった。同級生たちも続々進路が決まっている。

私も早く願書を出したい。ところが何度親に言ってみても、なぜか毎回うやむやになってしまった。期限がだんだん近づいてきて、さすがに焦ってくる。この頃家を建て替えたこともあり、なにか都合があるのかもしれない。よくわからないまま、日々が過ぎて行った。

ニュースを持ってきたのは、当時大学生の兄だった。

“学費は出せないから就職してほしい。どうしても行きたいなら働いてお金を貯めてから、会社を辞めていけばいい。こっちもアルバイトするから。”

予期しない突然の展開で、呆然として聞くことしかできなかった。

最大限気を遣って話しているのはわかった。でもそれが何を意味するのか、おそらく彼には1ミリもわかっていなかった。

就職組はこの時期、すでに内定をもらっている子がほとんど。良さそうな求人は終わっている。今からどうしろと言うのか。

そもそもなんでこんなひどいことを、私は言われているんだろう。

親しい人にこの時のことを話すと、今は許しているんだよね?と聞かれることがある。許すも何も、正直なところ、親や兄に対して不思議と怒りはなかったと思うし、今もない。

兄に関して言えば、年上で賢いと言ったってたかだか20を過ぎたばかりだ。当時の社会通念を考えると、自分がずっと優遇されてきたなんてわかっていたとも思えない。大学生の彼がこれを伝えることの残酷さなんて想像もつかなかったろう。なにせ、女性への差別的待遇は“合法”だったのだから。

私にしたって、家族内でのポジションはわかっていたつもりだし、社会での女子の扱いもわかってる。

あったのは、現実を突きつけられた悲しみ。私の将来なんて、この程度のものなんだ。執拗ないじめにあっても一度も泣いたことはなかった私だが、この時は数日の間、涙が止まらなかった。

暗闇の先に見えていた一点の光は、ふっと消えてしまった。

“女の幸福”

親や兄には怒りはなかったけれど、途方もない怒りを感じる出来事はあった。

ショックで涙が止まらない頃、親戚の男性が家を訪ねてきた。必要もないのにわざわざやってきて、泣いている私のところへ来て、諭し始めた。

女は学校なんて行かず、2~3年会社に勤めたら結婚して退職するものだ。結婚して家で子どもを育てる。それが女の幸せというものだ。学校なんて必要ない。

今なら炎上しそうな “女の幸福論”。親の手前、反論することなどできないのをわかっていて言っていると思った。それでなくても私は打ちのめされてボロボロだったのに。

けれどもこの時強く思った。それは私の幸せじゃない。
(そもそも男のあんたになにがわかる)

彼に言わせると、私は大層な親不孝者でわがままで、身の程知らずらしい。
上等じゃないか。

短めの不登校を経て

正直、この頃についてはあまり時間の感覚がない。どのくらい経ったろう、必要な単位は取れていたせいか先生からの連絡もなかったが、しばらく行けなかった高校へ通い始めた。表面的な日常でも、気持ちは落ち着く。

新聞奨学生について真剣に考え始めた頃、最終的に夜間であれば行ってもいいということになった。同じ学校の昼間部に入る友達をうらやましく感じたけれど、それでも行けないよりはマシだ。当初の半分ほどの学費だけれど、短期間でなんとか工面してくれたことにとても感謝している。

夜の学校へ

専門学校に入ると、私の状況はまだ恵まれたほうだとわかった。首都圏で、自宅から通えるのは大きい。それに結局学費は出してもらえたのだ。同級生には地方から出てきて、会社の寮で暮らしながら自費で通っている子も結構いた。

それでも女子は高校からストレートで入学した子がほとんど。男子は既に会社を経営しているとか、4年制大学との掛け持ちとか(すごい贅沢!)、もちろん苦労人もいて年齢もバラバラ。やはり男女の状況の違いは否めなかった。女性が途中で進路を仕切り直すのは、今よりとても大変だったのだと思う。

いくつもの未来

大人になっても嫌なことがなくなることはなかったけれど、振り返ってみると、たぶんうまくやってきたほうだ。独立して仕事があるし、住む家もある。幸せなのかはわからないけれど、今の生活は結構気に入っている。安定しない、不必要なスリリングさを差し引いても、少なくとも面白い人生なんじゃないかと思う。

デザイナーは我ながら向いていたと思うし、可能な限りで良い選択だったと思う。

それでもたまに、違う世界線だったらどうなっていただろうとも考えずにいられない。

例えばもし父が職人でなかったら。

実際、社会に出て出会った大卒の女性たちの親の多くが金融系、あるいは学校の先生だったような印象がある。きっと早くから女子にも教育が必要だという意識を持っていた人たちなんだと思う。

例えば父が銀行員だったら。私は悩むこともなく勉強して、大学に行って違う職業についていたかもしれない。

そう考えてはたと気づく。

大卒の彼女たちはきょうだいが多くない。ふたり、あるいは一人っ子だ。進学も含めた子育て費用を考えてのことかもしれないが、そうなると、3番目の私は生まれてこない。

私の存在しない世界だ。

けれども、もし女子にも制約がなく、経済的に困難でも、進学や職業の道が拓ける世界だったらどうだろう。

将来の制約にとらわれず、好きなことを探せたら。自分の能力のことだけ考えればよかったとしたら。安心して良い学校に進み、好きな道で活躍していたかもしれない。

あるいはこんな未来もあったかもしれない。

今の世界線では物理は赤点ギリギリだったけど、学習意欲を削がれなければ理数系に進み、もしかしたら物理学者にでもなっていたかもしれない。中学までは数学も理科の科目も人に教えるくらいだったんだし、好きな映画もドラマも本もSFだったのだから。

もちろん、そんな世界でも大人になればただの人という可能性は大いにある。逆に悪くなっていた可能性だってある。現実はそんなに甘くない。そんなこと言われなくたって知っている。

だけど物理学者になれたはずがないなんて、誰が言えるだろう? 私が今いる、この世界線では、その可能性は小さなうちに摘まれてしまったのだから。

だったら今からでも目指せばいいって? いや、そういうことじゃない。



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