嫌いを嫌いと言いたい話

最初に、この文章は思い付いた事を、感情のままに殴り書きしている。そのため稚拙で分かりづらい文章であったなら酷く申し訳ない。不快と思われる方もいらっしゃるだろう。そういう時は見ないでいただきたい。

最近ツイッターでは誹謗中傷の話が表に出ていて、もう一度インターネットというものについて見返そうとする運動が起こっていたりする。そもそも人命がかからなければ動くことさえ出来ない現状に失望しざるおえない、という話は置いておく。

この文章で話題にしたいのは、誹謗中傷の中身のことだ。空前の誹謗中傷ブームは、今や嫌悪感を示すことすら許してくれないらしい。誹謗中傷ついて『訴える』という事が武器になった今だからこそ考えてほしい。

果たして『嫌い』と表明する事は誹謗中傷に当たるのだろうか。

とあるツイートを見た。引用出来るほどに詳しく読み込んだ訳ではないけれど、概要は覚えている。著名人(恐らく)が愚痴アカウントに覚悟しておけと挑発するツイートだった。

私は酷くこれに引っ掛かった。愚痴アカウントとは、その名の通りに愚痴を吐くためのアカウントだ。自分の中に溜まった鬱憤を、現実では言えないからネット上で上げているものだと思っている。であれば、勿論ツイート内容はマイナスのものだろうと推察される。たとえ愚痴と言っても物には種類がある。日常や仕事の愚痴もあれば、目にした光景が苛立ちに繋がっている場合だってある。ここにはメディアだって例外じゃないだろう。では、愚痴アカウントで『嫌だった』と言うのは悪なのだろうか。

私にはこの『悪口』を書いた人間が、どのような言葉使いをしていたか分からないし、判断のしようもない。例えば『死ね』『消えろ』などと言っていれば誹謗中傷にあたる。本人にリプライやDMを送っていても自業自得だ。けれど、エゴサーチを行ってしか出てこず、ただ言いたい事をツイッター上で呟いていただけなら、誹謗中傷になるのだろうか。私はなって欲しくはないと思う。

私だって嫌いなものは嫌いだ。好きでものを語れなんて言う言葉はあるが、思いっ切り嫌いを主張したい時だってある。世の中どうしても好きになれないものだって幾らでもあって、好きだけを語っていてもきりがない。見るだけで反吐が出ると叫びたい瞬間もある。

嫌いを表で語るな、という人間に向けて、好きと同じ様に、嫌いという感情もまた熱量で有ることを知ってほしい。嫌いなだけで一つばかり文章が書けるほどには、創作としての熱量にはなる。社会風刺の文章や批判的な文章も、突き詰めればヘイトから書かれている様なものだ。どちらも自分が不快に思ったから批判するという精神が少なからず存在する。

不快なものを不快である、と声を上げる事は重要に思う。差別や偏見も勿論言わなければ分からない。誰かが嫌だと声を出したからこそ社会問題にまで発展する。また、メディアなどの不適切な発言は放っておくと大惨事にもなりかねない。そういった面でも一つ思った事を言うぐらいは許してはくれないだろうか。

ここからは全くもって私情で、陳腐な願いではあるが聞いてみていただきたい。

それから誹謗中傷を受け取る側として、『自分が不快だと思ったものを全て中傷と受け取らない』で欲しい。

確かに耳の痛い指摘や、致命的なミスをほじくり返されるのは誰もいい気分ではない。ただそれはファンや友人としての指摘や、はっと気付かさせてくれる注意かもしれない事を覚えておいて欲しい。けれど、ただの言いがかりも勿論あるし、稚拙で暴力的な言葉も溢れかえっている。そういうものは真に受けてはいけない。そしてそれこそが誹謗中傷だと思う。

もう一つ。貴方の事が好きになれない人間がいるかもしれないと頭にいれておいて欲しい。どうしても好きになれないのは努力だったりで覆るものじゃない。エゴサーチで引っ掛かっても、不快な思いになってしまうかも知れないが、こっそり言う分についてはどうか看過して欲しい。酷な要求ばかりで申し訳ない。

そして、『嫌い』を表明する側として、『時と場を考えて、きちんと理論を立てて、根拠や理由を示して言葉にする』という事を心がけて欲しい。

結局嫌いである事には変わりはないのかも知れない。それでも安易に『死ね』などという言葉で片付けないで欲しい。本当に嫌いだと言いたいとき、『自分は一体何故嫌いなのか』『どこが嫌いなのか』を考えて、それを添えて発言して欲しい。それはこじつけにしかならない時もあるが、反対意見は時に人を変える事だってある。根拠がしっかりしていれば、相手も非だと思われている部分に納得して、正そうとするかもしれない。

正直な所、私は法律に詳しいかと言われればそうではなく、裁判でどういう扱いになるかは全く保証できない。あくまで対人関係でワンクッション置きたい事を話しただけである。

しかし、思った事を言えない。プラスな表現しか出来ないというのは、この言い方はあまり好きではないが表現の自由の敗北と言ってもいいのではないか。もし、実際にそういう世の中ならば、きっと文学は繁栄せず少し寂しい世界だと思う。

ここからは一応余談ではあるが、対人ではなく対作品に関しての話もしよう。

この場合、作品に対しては批評を行う事になる。結論を言ってしまえば『この作品がクソ』『あの作品が嫌い』という一言に尽きるだろうが、それでは好きな人間も傷つけてしまう。ここに、先程のように理由や理屈、根拠をくっつける事で、そういう意見もあるのだろうという見方に変わる。ただ、作品に批評を行うと一定数信者が湧いてきて、この作品を酷評すること自体に文句をいうかも知れないが、スルー安定だ。気が向いたら反論しても面白いかもしれない。

作品を批評する上で一番大切なのは、『その作品が好きなファンを下げない事』

嫌いなのは人それぞれだが、好きな人まで文句を言ってはいけない。民度がどうこうの話ならば別だが(勿論当事者のみ)、作品自体が苦手な場合は好きな人を巻き込まないようにして欲しい。

最後に、もし表に文章や言葉を残すのならば、言葉使いについて一度確認してみて欲しい。案外汚い言葉を使っているのかもしれない。言い方を変えれば穏便にすむ場合も少なからずある。汚くはなくても優しい言い方に変えてみてはいかがだろうか。

タイトル通り、私は嫌いだという事が公に言いたい。嫌いを嫌いのままでいたい。ただの欲望の塊ではあるが。また、この文章に共感や賛称はしなくていい。批判していただいても構わない。

では、最後まで読んでいただきありがとうございます。


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