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「理解されない」を楽しむ。

めっちゃ今頃気がつきましたが、私、めっちゃ「隠キャ」ですねん。「オタク」とか、いろんな言葉が出てきましたが、オタクとも違う、それはオタクに失礼で、オタク気質?くらいな感じでしょうか。
それから、自分はただの「人見知り」だと思ってましたが、これ、ただの人見知りじゃない!「舞台」の上なども、どうも苦手で、高校も三年間、学校祭では「舞台委員」というみんなが盛り上がっている舞台に照明を当てる、というスーパー地味で結構大変な仕事をしていました。他のクラスでは最後まで残り、ジャンケンで決まる委員。私は毎年、一番に「やりたい!」と手をあげてました。
今のPTAの研修委員とかもそうかも。こちらも3年間委員長をしていますが、クラス委員の地点で成り手がないようです。。。私は一番に「やりますっ!」なんだけれども。
看護学校時代の国試対策委員もそんな感じだったなぁ。ああ、思い返せばそんな感じなのばかり。

舞台に上がるわけでもなく、それに熱狂するわけでもなく。みんなと一歩ズレたところで無茶苦茶密かに楽しんでいる、という。。。私の本質はこの辺にあるのかなーと。

証明を当ててもらう側ではなく、照明を最高の角度とタイミングで当てる側。そこのこだわりも強い。隠キャなのに、譲れないものはたくさん持ってる。みたいな。あ、だから隠キャなのか。

でも、「隠キャの集まり」みたいなものになると、また急に参加できず、という感じで。そこは「オタク」たちは好きなもので集まれるけど、もはや私は「集まる」とか「みんなで」みたいなのが、あんまり得意ではなくて。

それが「理解されない」のがこれまでは怖かった。んー、怖かった、のか?怖いというか「理解されないもの」というのはどうもダメな気がしていた。なので、言葉を見つけてみたり、「在り方」なんてものを探ってみたり。ちょっと「大衆」に寄せてみたり。「隠キャ」なのに「目立たないといけない!」も同時にやらないといけないような気がしていて、必死だったように思う。

理解されないことが好きな自覚はあるのに、理解されないこと、に苦しんできて、だけども最近は時代が勝手についてきてくれている感もある。その辺りが、確信へと変わってきているのはちょっとした強みかもしれない。

「誰もが理解できないことを、やっている」という感覚を楽しみたい。そう割り切るとまたエンジンがかかってきた。楽しくなりそうだ。

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