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書評『チェリビダッケ音楽の現象学』プラス小室敬幸講座(於:猫町読書会)

セルジュ・チェリビダッケ著 石原良哉訳 
株式会社アルファベータブックス(2009)


セルジュ・チェリビダッケ。言わずと知れた20世紀を代表する大指揮者。お名前だけは聞いたことがあるような〜という状態で手に取った本書。
さて現象学とは。<彼の現象学はフッサールの哲学に根差すものである>。
と言われても、実はフッサールすらよく知らない。そこで何も知らない私が知らないなりに……なんかこんな書き出し多くて無学を晒してばかりだが(笑)、今回も前回のバーンスタイン同様に、日本最大級の読書サークル「猫町倶楽部」さんの【指揮者本からクラシック音楽を学ぶ読書会】に参加し皆さんと読み解いて得た知識、さらに音楽ライター小室敬幸氏のレクチャーで得た貴重な情報を少々混ぜつつの書評になっています。

「音楽の現象学」とは
本書の構成は、第一部がチェリビダッケ が1985年にミュンヘンで行った生涯で唯一の講演会の抄録、第二部は「チェリビダッケの追っかけ」(小室氏談)である訳者・石原良哉氏によるチェリビダッケの活動歴と思い出話、さらに年表と公演記録というもので、帯の「最強のチェリ本!」という文句に違わない充実した内容だ。
チェリビダッケの言う「音楽の現象学」というのはなかなか理解するのは難しいが、小室氏の解説によればフッサールのいう「認知する我を認知する自分」というメタ的視線を音楽に応用し、自分が創り出した音楽は聴いている自分にとっての音楽であるべきものである、つまり良い音楽を創り出す主体は自分にあると言っている、ということだ。で理解合っているかな、自分(笑)。

じゃああるべき音楽とは
ということでチェリビダッケは、じゃあ音楽っていうのは、と論を展開するのだ。曰く響き! <響きは動きです><響きは波動です>。響きを構造するのが振動数で、<決まった時間内における同じ数の振動、これが音楽的な音の実体です>。
はい、堅苦しくなるからここからメチャクチャ勝手に噛み砕く。
でも単音が振動しててもそれは「響き」ではない。音が共鳴したり、次の音と一つになったり(例えばオクターヴ)対立したり(例えば5度)して、初めて「響き」が出るわけさ。響きを作り出し、さらに繋いでいくとそれが音楽になる。
チェリビダッケ自身が納得する音楽を作る。それが彼の音楽作法であり、例えば…この部分の曲の強さはp(ピアノ)なのにおーいチェロちょっと音デカイわ、逆にヴィオラもっと来いよ、いやいやオーボエ早いって! とか全体の音を聴いていい悪いを判断し響きを作り出すわけさ。しかも「響き」ってホールやコンディションでも違うでしょ。目指す響きを作るってのはとても大変なのねー。
チェリビダッケの音楽はよく遅いと指摘されるが、その理由も響きに関連する。例えばある一音の次の音が対立的だったりすると聴いている方は「おっ?」と思うじゃない。そのちょっとした驚き。唐突さ。人の知覚には時間がかかるから、そういう箇所は時間をかけて一音一音ゆっくり丁寧に演奏しなくてはならない、とチェリビダッケは考える。結果として速度が遅くなるというわけだ。
チェリビダッケは1977年に初来日して読売交響楽団と演奏会を行い、1980年にはロンドン交響楽団(LSO)と日本ツアーを行った。しかし<音楽をする上で必要なさまざまのことを要求しても聞き入れられないので、あのオケとは終わった!>とLSOとの関係は終わり、総監督を務めていたミュンヘンフィルについても<まだそのレベルに達していない>と音楽に妥協を許さない姿勢だった。リハーサルも長かったようで、オーケストラメンバーも大変だったかも。

チェリビダッケとブルックナー
ブルックナーといえばチェリビダッケというほどに結びつけられるているブルックナーだが、実際に特別な存在であったことは間違いない。
<最晩年のチェリビダッケにとって、ブルックナーこそ自分自身に最も近い作曲家であり芸術家であった>。
第1楽章のモティーフが最終楽章に現れるという形式はブルックナー独自のものではないが<「始まりの中に終わりがある。…ブルックナーだけがそう書いた」>とチェリビダッケは非常に高く評価していた。

聴衆の私らはー
石原氏は、かつて演奏会後に<素晴らしかったです(Prima!)>とチェリビダッケに声を掛けたエピソードを紹介している。すると後日チェリビダッケはこう言ったそうだ。<「君はこの前コンサートのあとでPrimaと言ったね。でも音楽に使う言葉ではないよ」「では、何といえば良いのでしょうか?」「何も! 『そうであった…』と言うだけだよ」>チェリダビッケが主体として演奏した音楽について良いか悪いかという評価はどうでもいい(良いに決まっているから…笑)。あるべき音楽が演奏されたかどうか、それこそが音楽あり、それを君が理解したかどうかを知りたいのだ、というわけだ。
でも、単なる聴衆の私らはそれがあるべきものだったかどうかなんて、どうやって分かるのですか? と途方に暮れてしまうだろう。するとチェリビダッケは<それを認識できるのは、自由で無条件な精神だけです>と笑顔を見せるのだ。はあ、と怪訝な顔の私らにさらに彼はこう言う。<神から授かった自分の天性に忠実にある限り、人が真の音楽に行き着くとき現象学は常にその人とともにあります>って天性かーい! と私らは肩を落とすわけですね。
<体験するしかありません。言葉で伝えようがない>おーい、おーい。
しかもチェリビダッケはレコードやCD録音を嫌がったというのは有名な話。<(録音で)本当の響きは再生できない>から。とはいえ、あまり多くはないが、私らは今彼の録音媒体を市場で手にすることができる。
彼が主体として奏でた完璧な音楽は、最早私らが直接聴くことはできないわけだが、考えてみればそれはその場にいたとしても同じだったのではないかな。聴こえる音楽は指揮台とA列18番の席と2階席では違うし、そうなるとチェリビダッケの音楽に対して「その通りでした」と、1993年にサントリーホールで聴いてても、2021年に自宅のSpotifyで聴いていても答えられるわけだ。彼の音楽を聴いている主体は私らだから。というわけで、ポストチェリビダッケ時代に生きる私らも、心ゆくまでチェリビダッケを堪能しようでないか。





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