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Look Back on 2018

・オフ・シアター
リオ フクシマ2/Rio Fukushima 2 2018年/ブラジル/102分
・商業映画
30年後の同窓会/Last Flag Flying 2017年/アメリカ/125分
モリーズ・ゲーム/Molly’s Game 2017年/アメリカ/140分
甘き人生/Fai bei sogni 2016年/イタリア/130分
アランフエスの麗しき日々/Les beaux jours d'Aranjuez 2016年/フランス・ドイツ・ポルトガル/97分
黙ってピアノを弾いてくれ/Shut Up and Play the Piano 2018年/ドイツ・イギリス/85分
さよなら、僕のマンハッタン/The Only Living Boy in New York 2017年/アメリカ/88分
ラッキー/Lucky 2017年/アメリカ/88分
ネイビーシールズ ナチスの金塊を奪還せよ!/Renegades 2017年/フランス・ドイツ/105分
ロスト・シティZ 失われた黄金都市/The Lost City of Z 2016年/アメリカ/141分
止められるか、俺たちを/Dare to Stop Us 2018年/日本/119分
・旧作(リバイバル)
暗殺のオペラ/Strategia del ragno 1970年/イタリア/99分
修羅雪姫/Lady Snowblood 1973年/日本/97分
・ワースト 
素敵なダイナマイトスキャンダル/Dynamite Graffiti 2018年/日本/138分
アンダー・ザ・シルバーレイク/Under the Silver Lake 2018年/アメリカ/140分
・男優
ジョシュ・ブローリン(アベンジャーズ インフィニティ・ウォー/デッドプール2/オンリー・ザ・ブレイブ/ボーダーライン ソルジャーズ・デイ)
・女優
ルーニー・マーラ(ローズの秘密の頁(ページ)/A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー)
・脚本
テイラー・シェリダン(ウィンド・リバー/ボーダーライン ソルジャーズ・デイ)
・編集
クリス・キング/ポール・モナハン(エリック・クラプトン 12小節の人生)
・撮影
浦田秀穂(幻土)
知り合いの作品は批評的には触れられないが、シンガポール在の浦田秀穂が撮影した『幻土』(A Land Imagined/2018年/シンガポール・フランス・オランダ/95分)のルックには、どこにいくかわからない始まりのような不安定さの予感が(マイケル・マンの映画を彷彿とさせる)感じられた。批評ではなく印象として、今年この映画のイメージは強いものだった。

映画批評では、ニュージーランドの研究者らの、ジェームズ・ボンドが過度のアルコール依存症との批評が興味深かった。
1962年からはじまった007シリーズ全てを見た上で、ボンドの血中アルコール濃度がピーク時で血液100ミリリットル中360ミリグラムとし、「一部の人間を死に追いやるのに十分な量」と予測。

飲酒後に格闘や車の高速運転など危険な行為を行っていることなどもあり、アルコール使用障害を診断する11項目のうち6項目に該当するという。
かつてのボンド俳優、ピアース・ブロスナンは、マーク・ウェブ監督の佳作『さよなら、僕のマンハッタン』(The Only Living Boy in New York/2017年/アメリカ/88分)で、成瀬の『山の音』の山村聰を彷彿とさせ、ヒーローからの離脱に成功していた。

こうした研究は、ヒーロー(偶像崇拝)をつくりだす無意識をも批評しているという点で、本作と双璧をなす現代性があった。D・A・ペネベイカーが記録しクリス・ヘジダスが編集した実際のシンポジウムの映像や、ノーマン・メイラーが監督した映画を批判的に解体した演劇『タウンホール事件』(ウースターグループ)は、映画人には作り得ない劇的なるものに思えた。この演劇が見事なのは、『性の囚人』を著したノーマン・メイラーを批判しつつ、フェミニスト側も男性に対して、逆の幻想をもっていることを暴いた点にあった。メイラーの理屈(生物学的な意味での女性というカテゴリ)は確かに女性を束縛していた、しかし、その理屈自体も実体的にはもう滅びたのだとの距離感から舞台化された。

ヌーヴェル・ヴァーグの紅一点アニエス・ヴァルダによる、ナタリー・サロートやジャン=リュック・ゴダールを、幾つもの田舎を過りながら訪ねる『顔たち、ところどころ』(Visages Villages/2017年/フランス/89分)のラスト・シーンが忘れ難い。旧友のゴダールに会うためにスイスのロールを尋ねるヴァルダに、ゴダールは会うことはない。
コートダジュールの方へ。と私も実際に見覚えがある、入口のガラスに書き記したゴダールのメッセージを受けて、いつになく緊張していたヴァルダは泣き崩れる。そしてレマン湖畔に赴く。そこにはヴァルダが初期から見事に切り取ってみせる樹木も写っている。共同監督のJr.と見つめる湖。湖水のざわめき、太古から伝わる潮汐、ぼろぼろの空、蒼白の激しさが2人を受け入れるかのように、今年見た忘れ得ぬ辛いラスト・シーン。2頭の馬が水辺で戯れるシーンをラスト“EDEN”にて撮影した『コートダジュールの方へ』の監督は、今の彼女にしか撮れない大いなる湖面を移し/写し/結末を、辛辣という恩寵を、受け入れる。
同じように60年代、70年代からの距離感は、ジョーン・バエズが歌う抑制の効いた(メアリー・チェイピン・カーペンターの)名曲“The Things That We Are Made Of”もまた、ウースターグループの演劇や、ヴァルダの湖面や若松孝二の助監督・吉積めぐみを描いた映画と遠く木霊していた。

若松孝二監督とは私が二十歳くらいのときに、偶然ホテルのフロントですれ違って以来、デカい人、その印象しか残っていなかった。後にミュージシャンのジム・オルークと知り合いになったときだ、ジムさんから若松プロの映画の魅力を吹き込まれたのは。
シカゴから若松孝二の映画に音楽を入れたいが為に東京へ引っ越してきたこのミュージシャンが、なにゆえ? こんなにも貧しいZ級映画を愛しているのかと思ったのがきっかけで、改めて映画を見ると、40代で初めて見えたものが、その器の「デカさ」だった。
更に、撮影監督の辻智彦さんと知り合ったりしながら、連合赤軍事件を生々しく描いた労作『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』をロードショーで見てやっと若松孝二の現在に間に合った。
映画はメリエスたちによって19世紀に始まったときから、自主映画であり、個人のアイデアを実現するために技術は進み、欲しい映画(それが商業的であれ芸術的であれ)を具体化できることが映画づくりであることをそのまま伝えてくるのが、この白石和彌監督の若松プロ映画『止められるか、俺たちを』(2018年/日本/119分)だ。

解剖なんてまっぴらごめん
私の内側なんてわかるもんか

そのセリフの後に響く車のくぐもった音響…こうした場面ひとつとっても、細やかな編集がなされた本作は「演出の映画」だが、ときに吉積めぐみを演じる門脇麦と高間賢治役の新人男優(伊島空)とが、周到に図式化された演出意図を、飛び越えていく。
ふたりの初夜の場面、
ひとり寝の母のない子のように…
どうして僕と…
と歌う女と戸惑う男の子が、いずれ(かなり後の場面で)オートバイの上で写真を撮る、そのオートバイの上での門脇麦の演技がまぶしい。

お父さんに似ていたの
実感を伴った像といえばいいか。記憶の中に沈澱して埋もれた父が、立ち現れてくるかのように、どうして僕と…という戸惑いが、現実的に、高間くんと成って父がそこにいる、門脇麦の目に映る、そのままの父が高間くん。そうした像の出現が、この女優の凄さ。記憶の再現、シナリオの再演とも違った、新たに立ち現れてくる生々しい情景が結実したこの場面は、稀にしか起きない初々しさが写っている(伊島空の静かな佇まいもいい)。
この場面を見た現実の高間賢治さんは、おそらく、腹の底から泣いたと思えた、この映画の肝になる場面だった。

世界にむかって鉛筆をけづれ

と叱られる荒井晴彦

現実を美化できるから生きていけるんじゃないの

と荒井に断言する足立正生を演じる山本浩司も頼もしい。
(監督自ら演じる)三島由紀夫の市ヶ谷の事件がテレビ番組として映る。

問題意識のない人に見せて揺さぶりをかける
と持論を語る大島渚を演じるのは安藤尋監督の『blue』にも出ていた高岡蒼佑、

客に刃を、

と返す刀の若松孝二(井浦新)、
時代と共に疾走した彼等を、その時代を直接知らない活きのいい俳優が演じることで、現在のそれぞれの孤立した個が抱える孤独が、後ろめたさじゃなく描かれてゆく。『素敵なダイナマイトスキャンダル』にはない、これがこの映画の集団性だろう。
死者(若松や吉澤や…)が一種の固定された点となって、今も生き続けている無数の人々の孤独がそこに吸収されるような感傷がまるでない。逆にこの明るさこそ、一度だけ見かけた若松孝二の印象に近いとも感じた。

恋のニトログリセリン
われわれは「あしたのジョー」である
よど号の赤軍爆破では革命はならない

と、オバケこと秋山道男(タモト清嵐)と吉澤めぐみとが路地を歩く場面が二度出てくるが、そうした孤立を、ありうべき諦念として描かず、横並びの群像として描いた屋上の場面のワンカットは、『きみの鳥はうたえる』の石橋静河のカラオケのワンカットみたく、長く垂れ流されることはない。そこに実在するもの同士、対等に、その場を満たすその屋上のダンスは、ひとりではなく、なにかと共にある。土方巽と同時代を生きた若松プロと共に。
バイクの激しい音にかきけされることなく、しかしバイクは過ぎて行く、それが時代だといわんばかりに。

1970年代の性の解放が80年代のAIDS危機につながってゆく中、同性愛をめぐる政治状況は扱いかねた大作『ボヘミアン・ラプソディ』(Bohemian Rhapsody/2018年/アメリカ/135分)は、しかしバンドマンたちの友愛に囲まれた作品だ。ラストは誰もが泣いてしまうほどの感動作だった(といって映画として優れているわけではない) 。
この映画は、フレディ/神の手のアップからはじまり、マレーネ・デートリッヒのポスターが貼ってある部屋につづいていたように記憶する。既にスターと化した非日常と日常とが混在している導入部。
善き思い、善き言葉、善き行動、とゾロアスター教徒の父に言われ、CBSと400万ドルのサインを交わし、愛を反故にしかけるフレディの誘(迷走)。
ルーシー・ボイトン演じる元妻は、

怖がる必要はない あなたは愛されている

という。

そしてその愛とは、業界のサインや業績とは無縁の、バンド仲間の不満顔や苛立ちや反対意見だと描かれていてそこは好感がもてた。

夢の中でのあなた(フレディ)は父のように話しにくかった

とボイトンが言うとき、父性(ゾロアスター教の父も間接的に揶揄される)とは違った愛をフレディに求めていたことがわかる。
父の祈りとは、ゾロアスター教の聖なる形式かも知れないが、フレディが掴んだ愛はそのための余白ではなかった。
ボヘミアン、というタイトル曲の裏側に、移民の子フレディ・マーキュリーが居て、様々な変遷ののち、Queenからソロ活動への流れは伝記映画の定石でわかってはいたが、バンドという小宇宙の結束力は核分裂を繰り返し、各パートの分離が明確でタイトであるだけに(それは演奏場面の音の編集にも言える)、フレディ独りだけに観点を絞らない。タイトルを、曲の長さを、変えようとする社長に対して媚びずに、「ボヘミアン・ラプソディ」の6分を譲らない彼等が、ある意味罪のない人間(家族)として聖化されていた。
音楽伝記映画『バード』(Bird/1988年/アメリカ/161分)は、フラッシュバックのなかにフラッシュバックがあるかのような構造で、チャーリー・パーカーという謎を更に謎めいた像として定着した傑作だった。そこでは逆行する時間のなかで、人物と俳優とがどう自分自身を露にしていくかが見えたが、個人のスタイルが希薄な『ボヘミアン・ラプソディ』は、そこは曖昧化されていた。グループサウンズならぬ、グループシネマ(監督としてクレジットされているブライアン・シンガーは途中で降板させられている)の限界だろうか。あるいは、他人のお金を使い危険を冒したプロデューサー(グレアム・キング)の勝利だろうか。

実はそれぞれが後生大事に価値と思い込んでいるもの、それは一場のお笑いなのだと、廃墟の青空のような冗談を描いたのは、それより遥かに低予算の小品『ア・ゴースト・ストーリー』(A Ghost Story/2017年/アメリカ/92分)。
このゴースト映画が変なのは、ゴーストが出てきてあれこれ生きている側に考えさせるというよりも、ゴーストが思い出すかのように、生きている人々の世界を覗きこむ苦しみが、時間経過(一軒家の劣化)を通じて視覚化されているからだ。
この一軒家では、過去と現在とが入れ替わり、混合し、ときに騒ぎ、そして静まる。
舞踏する家ともいうべき時空の混淆は、棲む人々の思いを露にし、この剥がされた家は時の鼓動のオバケだ。とりわけ、壁と壁(この枠もまたスタンダード・サイズだ)の隙間に射し込まれた紙片は、ゴーストを慰安し、自分自身をも発見させるが、時間の混淆自体はうまく行っていないのが、この映画の欠点だ。
ラスト、ゴーストである責務から解放されたCは、この紙片によって自分自身で在り続けられる。その紙片はMによってCが書いた歌詞の一節の引用と、最後に一言おそらくは…

明日 夜明けに発つの

と書かれているだろうか。

CとMに共通のなにかがあった、と思わせてくれる別れ(出で立ち)の瞬間。ふたりがもっている悲しさとか苦しさとか辛さとかが似ていて、そこは死人と生きている側とに隔たりはなく、見えないことが見えることであり、その対等さが壁と壁の隙間によってよくわかる。これは、若いカップルの始まりと別れ、そして気づかぬ再会の物語であり、ゴーストとは敢えて言えば一回、一回の小さな死によって生まれる現象。その終わりから立ち上がっていく別な生の可能性、何度も何度も死んで、何度も立ち上がるイメージ、すなわち復活の時でもあるだろう。とりわけルーニー・マーラに注がれるイメージ、パイを地べたに座り独りで食べて、唐突に立ち上がりトイレに駆け込む長廻しと、彼女がヘッドフォンで音楽を聴く場面の編集と長さは、マーラの美しさ=高さを際立たせて、映画を上昇させている。

また、チリー・ゴンザレスやエリック・クラプトンのドキュメンタリー映画も、度々家の外観が映し出される。ドローンによる、よく見かける映像ではあるが、今と、かつてとを結びつける蝶番としての「幽霊屋敷」を映し出す。

どちらの音楽ドキュメンタリーも、音を鳴らさない瞬間が何処かで訪れ、それが捉えられいる。
ゴンザレスの音楽は知らなかったが、この『黙ってピアノを弾いてくれ』(Shut Up and Play the Piano/2018年/ドイツ・イギリス/85分)を見て、若きゴンザレスが一見パンク的生活を送りながら、突如、古典的な西欧音楽に開眼する前の、ピアノの鍵盤の沈黙に居合わせるのは魅力的だ。
音楽家にとって、音を鳴らさないということは、自分のなかに存在する一般性の否定なのだから。
一方『エリック・クラプトン 12小節の人生』(Eric Clapton: Life in 12 Bars/2017年/イギリス/135分)は、正直過ぎる生き様を貫き、ギターを手にできない事件に度々見舞われる。『ボヘミアン・ラプソディ』のフレディには見られない、罪深い男がここにいる。

つかみどころのない領域で創造する勇敢な人たちには、こんなにも目をみはる瞬間が訪れる。
ある時は政界に打って出る愚か者に成り切って、共同体から絶えずはみ出して行くゴンザレスや、親友の妻を愛し続けるクラプトンのその愚かな姿は、創造に対する私自身の関わり方について自らへ問いかけるようにもさせてくれる。結局、クラプトンを救ったのは何人もの女性たちで、本人が言うほど音楽だけが救いではないだろうと思わせるつくりが正直だ。
ゴンザレスはD・ボウイやプリンスが好きらしいが(スティングは嫌い)それでも、実験的な試みと、他方クラシックだけでなくポップやジャズに近いところで作られる音楽との、狭間の何処かに留まるのを好んでいるように見えるし、クラプトンはブラック・ミュージックを崇拝してやまない。
ゴンザレスの映画の後半、弦楽四重奏は、結局、少なくとも部分的には物理学と数学の用語で説明可能な、普遍的ハーモニー感に由来するものだと感じられた。それは、彼が作曲した弦楽四重奏曲“Advantage Points”に非常に驚くべき独自な在り方で、絶対的なハーモニー感をもたせていて、私が以前撮影したある曲を思い出させた。

さかのぼること9年前…2010年1月14日、7台のデジタル・キャメラと5人のプロフェッショナルなキャメラマン(浦田秀穂ら)やスタッフにより、私たちは「そして音はガリーグをめぐる」のライブ撮影を行った。この曲もまた、この日の演奏は4人の弦楽(ギター)にピアノで、ゴンザレスのその曲と同じ編成だった。
当時、私たちはおよそ1ヶ月間の譜読みと並行して、フランスでリリースされたそのCDを聴きながら、キャメラ・ポジションやカット割を準備し、綿密なキャメラ・リハーサルを経て撮影に挑んだ。

ゴンザレスの“Advantage Points”と同編成で演奏された「そして音はガリーグをめぐる」の、幾つものトラックに分かれたサウンドの編集は困難をきわめた。
困難さゆえに、着実な作業も難しく、負債や資金の空白やらの問題が行く手の地平線から手招きし、編集作業を中断しなければならないことも多々あった。
この期間、私のやっていることは、人目をひくことはなかったろう。自主製作、少なくとも編集期間を自費で継続することは、他人目には何のことかわからずクレイジーにしか思えない言葉や音や映像を、きりもなくいじっている時期の方が、実は長い、しばらくすると、自分が何をやっているのか他の人にはわからなくなる。それどころかおそらく、何をする人間なのかもわかってもらえなくなる。
ガリークの映像編集は、240箇所に及ぶ修正とサウンド・ミックスのために、やればやるほど終わらないこの作業は、タペストリーのような作品のなかへと私は織りこまれていった…おかげで映像をじっくり吟味することができ、そのために リュック・フェラーリの音楽の全体像を自然にイメージすることもできた。
又、音楽には、ハーモニーと調音の中に性愛(エローティカ)を掻き立てる導火線的な現象が起こりえるのだと、繰り返し編集することで気がついた。

以前読んだピエール・シェフェールのインタビューで、シェフェールは新しい音楽を作り損ねたと自ら主張するかのようにして、己を未熟者だと考えていた。
フェラーリはシェフェールの嘆きを越えて、音響の純粋な抽象性と、音楽上の意義それ自体との、狭間の何処かへと進んで行くことができたのだ。9年間かけて繋いだ映像を聴きつつ、私はそのように考え続けた。

一方、『黙ってピアノを弾いてくれ』のゴンザレスは…音楽家としてだけではなく、ゴンザレスというウザい人間の具体性と音の抽象性を、静かに洗練されたこの映画は捉えることができている。

フェラーリとゴンザレスは年齢も活躍した時代も似ても似つかないが、世界を制度として保証し、組織づけようとしている秩序への疑いと挑発とを共有する。そして「今」を祝福するその感性…現在という瞬間を受け容れられる感性についての巨匠、という点において他人の空似ではない。
映画作家では、とりわけ若松孝二がそうであったのと同じように。
2018年12月21日

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