はじめまして

みなさんはじめまして。Leoといいます。現在某県で高校教諭として日々細々と生活しているただの凡人です。あまり友達もいない分、何かを書いたり読んだりすることが好きなので、このnoteには私が普段考えていることや興味のある分野に関することを書いていこうと思います。

第一弾 戦争について
義務教育を受けている人・受け終わった人は必ずどこかしらで「平和教育」というものを受けてきたんじゃないかなぁと思います。私自身も某県の大空襲や広島・長崎への原爆投下、沖縄戦、硫黄島の戦いなどなど、多くの太平洋戦争に関する史実を学んできました。私は小学校低学年の頃から戦争というものに興味があり、「なぜみんながころしあっているのだろう」「なぜせんそうがおこるんだろう」などと小さい時なりに色々考えていました。戦争というものを身近に感じたのは、やはり祖父母の体験談が大きかったです。まだ健在な祖父母ですが、やはり口調は重々しく、どうも語りたくはないといった様子だったことを今でも覚えています。

今年は戦後78年、戦争体験者の数は減少の一途を辿っています。私を含め、多くの人々が「戦争はいけないもの。2度と繰り返してはいけない!」という認識は十分にあるものの、私はそこにどこか現実味を感じません。むしろ、そういった固定的認識が戦争のクリシェ(常套句の意)になっているように感じます。その原因の一つに私は日本の平和教育があるのではないかと個人的に思います。

「先の大空襲により、多くの人々の命が奪われました」
「アメリカが投下した原子爆弾によって、一瞬にして多くの命が奪われました」
「沖縄では、アメリカ軍によって追い詰められた多くの人々が自害しました」etc..

私は、どうしてもこういった史実に対して「被害者意識」が刷り込まれている日本の平和教育の有り様に疑問を感じてしまいます。もちろん、多くの被害者が出たことに変わりはないですし、今も後遺症に苦しんでいる方々が多くいらっしゃることは承知しています。ただ、「いかに日本が苦しめられたか」ばかりにスポットライトを当てると概念は固定化されます。ましてや、それを小学生の時から長年刷り込まれると尚更です。ここで、私が言いたいことは「戦争の多面視」です。地歴公民科の教員ということもあり、教科書分析をすることが多々ありますが、やはり戦争初期の日中戦争や東南アジア侵攻(後者は後日お話する予定です)については内容が薄めです。お察しの通り、原爆や空襲についてはコラムが組まれるほどです。つまり、文部科学省の教科書検定は「加害者意識は少なめ、被害者意識は多め」が定着しているのではないかなぁと思います。だからといって、私は左派右派という偏りという点ではなく、多面的な見方こそが中立な歴史認識を生むのではないかと考えています。この点については大学時代の卒業論文にて数万字にわたってまとめましたのでいつかご紹介します。

というわけで、ここまで「第一弾 戦争について」を書いてみました。戦争というのは本当に見方が様々であり、その見方次第で解釈も変わっていきます。一例を出すと、日本軍の侵攻によって占領時代を経験したインドネシアでは、
「オランダという旧占領国を支配を打倒してくれたニッポン」
「ロームシャ(労務者)やヘイホ(兵補)として多くのインドネシア国民を強制的に徴用した悪名高きニッポン」
「インドネシア独立のため、スカルノを中心とした主要人物たちに様々なノウハウを伝授してくれたニッポン」などなど(私の卒業論文より)
見方が多様です。どの見方が正しい、間違っていると結論づけるわけではありません。大事なのは、多様な歴史観に触れ、どの歴史観に共感し、いかに自分の歴史観を育んでいくかだと考えています。

ここまで、拙い文章を読んでいただいてありがとうございました。

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