宮城里奈:Facebookでの2011年投稿から転載

蛇は女に言った。

「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。


新共同訳「創世記」第三章四節から七節。



三月十三日、カフェ・サンテリアで神谷乗克と話していると、神谷と同い歳の宮城里奈という人に話題が移った。

神谷にすすめられるままにその場で宮城へフェイスブックの申請を送り、間もなく受理され、いずれ会って話すことになる。


そして、いままで宮城と計八回会った。それぞれ、四月三日は日曜日、五月八日は日曜日、五月十三日は金曜日、五月二十一日は土曜日、六月十五日は水曜日、六月二十三日は木曜日、七月八日は金曜日、七月十一日は火曜日である。人格は意識現象や、言語体や、生物の身体や、歴史などと同様に部分が全体と同じように複雑なフラクタル状ではないか。宮城里奈もまた、実に複雑で魅力に富んだ人格であって、つき合うほどにその人物像が変わり行く。

まず、三月十三日にフェイスブックの写真、mixiの登録コミュニティ、神谷からの評判などから宮城についての像が形作られた。そして、四月三日に実際会ってみて、人物像を修正し、五月八日に話してみて人物像が一変した。三月十三日と五月八日の人物像はもはや全くの別人であった。


四月三日、午後三時に那覇は新都心のティダカフェ。新崎仁雄も同席。しかし、新崎はほとんど口を開かずあとの我々二人の話しを横で、聞いているだけであった。宮城と私はまず、文学にみられる人肉食、特に親が子の肉を食わされるという表象について語り、私はギリシア神話のアトレイデース王家伝説やオウィディウスの「変身物語」に出てくる挿話、中国の伝記小説「封神演義」に出てくる話、シェイクスピアの「タイタス・アンドロニカス」を例に挙げた。新崎は次の予定があるということで席を立つ。

ついで、三月二十日に私が泊った月光荘というゲストハウスや、また、宜野湾で同性の恋人と一緒に暮らし、普段はほとんど友達づきあいというものがないという女性との三月二十七日に行った会話などを紹介して、沖縄のみえざるみえざる人々や共同体、つまり現在進行中の移住者問題を俎上にのせた。宮城はそれまでそんなことを考えてもみなかったそうで、当惑の表情をみせた。

そして、我々はカフェをあとにしアン・リー監督の映画「ウッドストックがやって来た」を観る。


五月八日は午後六時ごろ、チョーサーの「カンタベリー物語」を読みながら待っていると、宮城がやって来た。

持っている岩波文庫をみせると宮城は「短編集なんですか」と訊いた。その印象深い質問に私は呆れつつ、そこで英文学史を講じても仕方あるまいし、実際一種の短編集には違いないので諾と応ずるにとどめた。カフェストリートからさらにサンテリアに移り、会話を続ける。

持って来たパソコンでスカイプにつなぎ、神谷乗克を呼び出して、映像電話を行った。神谷は詰問口調、宮城はしばし困惑しつつ、横でみていた私は当初の宮城への人物像―単純なネット右翼という印象―を決定的に変えてしまった。


五月十三日は午後三時のサンテリア。宮城里奈に加え、新崎仁雄と呉我麻波も同席。いつもながら、直流の呉我麻波が二人に向かってその人生のあらましを述べ、いまは亡き父親がマルクス主義者であったことや、ドストエフスキーへの傾倒を語ると二人とも「マルクス主義者」という言葉やドストエフスキーという人名を知らなかったことがひどく印象深い。会話のすすむ内に宮城の中学時代からの友人が呉我麻波の親戚かも知れぬとわかり、その人に電話すると丁度ひまだったので来ることになる。新崎は前回のように次の予定があるとのことで退席。しばらくして、宮城の友人、呉我春紀が登場。

なんと、呉我麻波の従弟と判明。麻波と春紀が話している横で、沖縄における労働エートスの問題を語り合った。


五月二十一日、大城さんという人と共に宮城が当時成員だったバンドカルミア帝国も出演するライヴへ足を運ぶ。大城さんとは十三日の夜、偶然再会したのだ。

しかし、宮城は翌月、そのバンドを辞めてしまった。


六月十五日、私が遅れてしまい七時半ごろカフェストリートに到着。

そして、月光荘に移動。月光荘のゆきみさんはじめ、宿泊者の方数人と交流。宮城は月光荘に「観光客向けの昔の沖縄のイメージ」を見て取ったという。私はそれに対し、宮城は都市に生まれ育った者として、むしろ沖縄の田舎の者よりも、博多や神戸や東京や札幌に生まれ育った者と経験が近く、話も合い、それでそんな感想も抱くのではないかと指摘した。


六月二十三日、カフェストリートで大城さんと共に待っていると八時ごろ宮城が到着。公設市場周辺のゲストハウスを外からみて回り、サンテリアに入る。

そこで改めて移住者問題の、概要、進展、問題点、具体的な表れを検証した。バスの時間があるとのことで、大城は九時ごろ帰る。

宮城は告白した。実は沖縄が好きではないと決定的に気づいてしまったというのだ。そこから、世界的な視点からの沖縄の位置付けについて、語り合った。



七月八日、カフェストリートに六時ごろ、紹介してくれるというので、玉城さんという学友の方と一緒に来る。

玉城さんはバンドで女形をやり、大学では日本の近世史を研究。特に遊郭に関心があるという。長居は出来ぬという玉城さんは三十分もして、帰ってしまい、残る我々はサンテリアに移り、去年撮ったオランダとブリュッセルとパリの写真をみせながら、ヨーロッパについて話す。

アムステルダムの写真をみせながら、私は恐る恐る大麻について話題とする。話してみれば、宮城はなんの偏見も持っておらず安心して、アムステルダムのコーヒーショップや、偶然訪ねることになったカンナビスカップに説明できた。


七月十一日、カフェストリートに七時ごろ、宮城に贈るための本を持って到着。池上さんという学友の方も一緒だった。持って来た本は二〇〇八年判の「地球の歩き方」ヨーロッパ編とフランス編、「フランス文学史」 高橋巌の「シュタイナー教育入門」の四冊であった。

池上さんもまた神秘主義に関心があり、トート・タロットを使っているという。そして、われわれは身体論を語り合い、呼吸法や瞑想、意識変容の方法、すなわち魔術について論じ合う。



六月二十三日に宮城と語らった議題が数日間気になってしまい、ついにこんなメールを送った。


「フランス人の友人などに沖縄について説明する際、フランスにおけるコルシカやブルターニュと比べて語ります。コルシカはフランス語やイタリア語と同じロマンス語系の、ブルターニュはゲール語やスコットランド語やガリシア語ウェールズ語に連なるケルト語系の、それぞれフランス語とは違う言語が根づいている独立性の高い地域で、フランス人はそれによってたちまち沖縄の歴史的位置を理解します。

いや、そればかりかスペインにおける、カタルーニャやバスクやガリシア、オランダにおけるフリースラント、そして連合王国にあってはウェールズ、スコットランドは言うまでもなく、マン島やコーンウォールなどそのようなある国の中に文化的、言語的、政治的つまり民族的に独立性の高い地域があり、それがつねに緊張感を生んでいるという状況はヨーロッパではごく当然なのです。その事実は近代に成立した〈国民国家〉なる共同体の形式の危うさを示してくれます。

ヨーロッパこそは〈国民国家〉という概念発祥の地ですから、当然そこに明快に少数民族に関する諸問題が現れていますが、いまだにクルド人問題の存在自体を認めないトルコや、無数の言語や民族のさきわうインドや中国など枚挙にいとまがないほど、アジアでこそ現在的な問題でしょう。

これまで、沖縄を語る際の言説について、こうした世界的文脈に位置付け、他地域と比較しながら相対化するあり方がないことがはなはだ不満だったのです。

繰り返しますが、沖縄の文化的位置、諸問題は世界的にみれば珍しくもなんともないのです。それをみすえずに沖縄を語るなど実に笑止千万、聞くに堪えませんよ。

ところで、一九四四年にデンマークから独立したアイスランドの人口はなんと三十二万三千人ほどですよ。その小さな島が生み出した巨大な歌手ビョークのあの歯に衣着せぬ自由な言動と表現、チベットなどへの共感はそうした歴史的背景に由来するのです。

貴方は自由なのです。選ぶのですよ。つまり、創るのですよ。」

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