(三十四)一茶は現代俳句の先駆者であった

江戸時代の三大俳人は芭蕉、蕪村、一茶である。このような事をいうと、違和感を覚える読者もいるかも知れない。芭蕉、蕪村が優れた俳人であることは誰しも認める所であるが、一方一茶は、当方が若い時、彼等より一段低い評価が普通であった。

慧眼な明治の俳人子規ですら、一茶に対する評価は高くない。彼の著書「俳諧大要」において、芭蕉や蕪村の句を多く例に出しているが、一茶の句を優れた句として紹介しているのは次のわずか一句である。

  蟻の道雲の峰より続きけり

この句を、壮大雄渾なる句として評価している。しかし、一方で彼は、「古人の俳句を読まんとするならば総じて元禄、明和、安永、天明の俳書を可とす」としており、一茶が活躍した文化・文政はその中に入れられていない。

但し、彼は「天保以後の句は概ね卑俗陳腐にして見るに堪えず」と述べているが、天保というのは、文化・文政の次の年号である。つまり、一茶の句に対して、単なる「卑俗陳腐」と解釈してはおらず、一定の評価をしていると思われる。

さて、彼は人口に膾炙した句をいくつも作っている。それらを挙げてみる。

あの月をとってくれろと泣く子かな(文化10,51歳)
我と来て遊べや親のない雀(文化11,52歳)
雪解けて村一杯の子供かな(文化11,52歳)
痩せ蛙負けるな一茶是に有り(文化12,53歳)
雀の子そこのけそこのけ御馬が通る(文政2,57歳)
目出度さも中くらい也おらが春(文政2,57歳)
やれ打つな蠅が手をすり足をする(文政3,58歳)

この句で特に、述べておきたいのは「痩せ蛙負けるな一茶是に有り」の解釈である。一般的には、次の様に解釈されている。ここでは、「小林一茶、大谷弘至、角川ソフィア文庫、2017」から抜粋する。

痩せ蛙よ、負けるな。お前の味方、一茶がここにいるぞ
🌸季語は蛙で春
竹ノ塚(現・足立区)の炎天寺で詠んだ句。『希杖本一茶句集』に〈むさしの国竹ノ塚といふに、蛙たたかひありけるに見にまかる、四月二十日なりけり〉と前書きがある。
「蛙たたかひ」とは蛙合戦(蛙軍)のことであり、繁殖期の蛙が大勢で争うように交尾をする様子を合戦に見立てそれを鑑賞する者である。

私は、この句もやはり、自分に対する応援歌の意味を有していると考えている。この歳の6月、娘のさとが亡くなっている。相当のショックを受けた筈である。

ここでは、蛙は一茶自身でもある。その蛙に対して、「負けるな一茶」、と自分自身を励ましていると解釈したい。そして、翌年10月次男が生まれている。

どの句も生き生きとしている。「雀の子」の句は五八七という字数なのに少しも気にならない。彼等と比較して言葉や表現が俗なのが、評価が低い原因である。しかし、それで良いのだろうか。

歴史家は江戸時代を近世、明治以降を近代としているが、この様な認識が誤りであることは既に多くの人々が気づいている。当方の考えでは、近代とそれ以前を分かつ特徴は、前者は身分社会であり、後者は経済力のある商人が身分社会を破壊していき、最後には市民社会を形成することにある。

これを日本に適用すると、江戸時代の初期は家康の制定した政治的枠組みが機能していたが、戦争が抑止され経済が発展すると、武士を頂点とする身分社会が瓦解して豪商が台頭する。

江戸時代の豪商を「豪商からの伝言」から挙げてみる。

中井源左衛門(1716~1805)
近江日野の出身。19才のときに関東で漆器・売薬の行商を初め、30才で下野国堀越町に出店。その後は、相次いで全国に支店を出し、合薬、太物(ふともの=綿、麻織物)、呉服などを扱い商品を広げる一方、酒造業、質店も営んだ。遺産分与では総資産らが7万両にも上ったという。中井家の繁栄は近代に入るまで続いた

 二代目・小林吟右衛門(1800~1873)
養父である初代・小林吟右衛門とともに15歳で行商を始め、1826年に家督を相続。やがて江戸・京都・大坂の三都へ進出し、両替商なども商って巨富を得た。彦根藩主・伊井直弼と親交があり、幕末にはら攘夷派から狙われたという逸話も残っている。

 三井高房(1684~1748)
三井総領家の三代。後に剃髪して宗清を名乗った。高利・高平が築いた三井家の繁栄を。高房は制度の整備、新規事業への進出などで発展させた。また、父・高平の見聞をまとめた「町人考見録」は、当時の商業事情を後世に伝える貴重な資料となっている。

 松居遊見(1770~1855)
豪商で知られる遊見だが、表向きは農民の身分で商いは農業の余業としていた。衣食住は極めて質素、陰徳を積むことのみを喜びとしたという。

銭屋五兵衛(1773~1852)
五兵衛の死から7年後に日本は開国。後に勝海舟は「銭五の密貿易は幕府も知っていたが、大目にみていた。加賀の処置は早計だった」と述懐している。また、挫折した河北潟の干拓工事は、昭和60年、銭五の死より実に133年を経て、ようやく完成をみた。

参考資料:
江戸時代の豪商達 の一覧 - 豪商からの伝言 (enluc.com)

これら豪商に共通していることは、両替を行っていることにある。豪商は早くも16世紀の初頭に現れている。そして、豪商たちが大きな力をもち始めたのが、元禄(1688年~1704年)以降である。従って、江戸時代を近代の始めとしてよいであろう。

京・大阪・江戸の三都での経済的発展を経て、江戸中期の元禄に上方中心にして庶民文化が起り、 江戸後期の化政に江戸中心にして庶民文化が起こった。一茶(1763~1828年)は正に、文化・文政年間(1804年~ 1830年)に活躍した人物である。江戸三大俳人の最初の二人の生没を記しておこう。

松尾芭蕉(1644年~1694年,伊賀)
与謝蕪村(1716年~1784年,摂津)
蕪村は享保から天明年間の、庶民文化が花開く以前に活躍した人である。一茶の句風が彼らと異なる理由は、
・活躍した時期の時代背景が異なる。つまり、芭蕉、蕪村が活躍したのは庶民文化が花開く前であり、一茶は花開いた時に活躍している。一茶が活躍した時代は既に、商人が力を付け台頭し、武士に地位が低下していた。
・一茶は貧困で一生苦した。
・継母・異母弟との確執、39で父を失い、54で長男が死に、57で長女も亡くなる、61で妻に先立たれる、三男が亡くなるなど、親族に恵まれない生涯であった。

 上で紹介した人口に膾炙した句以外にも、優れた句を多く作っている。私が選んだ秀句を次に紹介する。
これがまあついの栖か雪五尺(文化9,50歳)
投げ出した足の先也雲の峰(文化10,51歳)
焚くほどは風がくれたる落ち葉哉(文化12,53歳)
春風や侍二人犬の共(文政3,58歳)  
春立つや愚の上に又愚にかえる(文政6,61歳)
    また、新たな歳が来た。私は賢者になるより、寧ろ愚者でいたい。
  愚者と してこの一年を始めよう。
いくばくの人の脂よ稲の花(文政3,58歳)
今年からまる儲けぞよ娑婆の空(文政4,59歳)
  脳卒中で去年倒れたが、運よく歳を越せた。落とし掛けた命なので、
  今年からの人生はまる儲けだ。
のらくらや勿体なくも日の長き(文政5,60歳)
 安心して過ごせるのは、徳川の世が大平であるおかげである。
 この長き春 の日をのらくら過ごせるのは誠にありがたき幸せである。
子どもらが雪喰いながら湯治かな(文政5,60歳)
雪ちらりちらり見事な月夜哉(文政6,61歳)
春立つや愚の上に又愚にかえる(文政6,61歳)
    句の作成年は、「一茶の文学、矢羽勝幸編、桜楓社、1995」によった。

 どれも、芭蕉や蕪村が作りそうにない句ばかりだ。これらを低俗だというだけで評価を下げることは誤りである。俗な或いは卑近な表現を避けずに、本音を伝える素晴らしい表現力と思う。上で紹介した、人口に膾炙した句こそ、一茶の代表作と考える。

一茶のこのような表現方式は現代俳句に通じるもので、一茶は現代俳句の先駆者と位置付けることが出来よう。

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