(六十一)高浜虚子の句を味わう

高浜虚子は1874(明治7)年2月22日生まれである。正岡子規の弟子で、子規の「俳句は写実たるべし」の考え方を継承した俳人である。
子規の路線を継承して、多くの弟子を育て、優れた句を多く残した。師匠と弟子、そして時代に恵まれて偉大な俳人になった。
 一方、芭蕉、蕪村、子規、虚子と、伝統路線は評価されたが、捨女、千代女、一茶の作風の正当な評価がされなかった事は残念なことである。

先ず、虚子の代表作を紹介しよう。句の後の数字は句作の歳と年齢を表わしている。例えば、(M33,26)は、明治33年にその句を作り、その年に虚子が26歳であったことを表わしている。

☆遠山に 日の当たりたる 枯野かな(M33,26)
この句は松山で詠まれたもので、夕暮れ前の山の風景を詠んだものである。遠山に冬の日が当たり明るくなっているが、目の前には枯野が広がっている美しくも寂しい風景に感動した事を述べている。
 
☆琵琶湖より 霧立ちのぼる 月夜かな(M37,30)
 霧立ち上るのが美しく見えるのは夕暮れであり、月夜ではない。百人一首に「村雨の露もまだ干ぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ」とある通りである。敢えて、月夜に霧が立ち上るのを歌うのは琵琶湖から見る霧が比較的美しいからと推察する。
  霧が掛かっているので、湖面には月が見えないが、霧の中に満月が見える幻想的な美しさを詠んだものであろう。
 
☆桐一葉 日当りながら 落ちにけり(M40,33)
「桐一葉落ちて天下の秋を知らせる(梧桐一葉落,天下盡知秋)」という中国の典故からヒントを得て作った句である。一葉落ちただけで秋の気配を感じる喩えである。桐の葉は薄く30cm程もある大きな葉である。スローモーションを見るように「日当たりながら」ゆっくりと地面に落ちていく事が秋の陽射しを感じさせる。
この句は虚子の代表作として有名であり、多くの人がこの句を論じている。重複を避ける意味で、ここでは、福田清人・前田登美両氏の『高浜虚子』からその評論を引用する。
「桐一葉」は、大きな霧の葉が一枚一枚散ふわりとるさまを意味する。「桐一葉落ちて天下の秋を知る」という唐詩の一節をふまえ、一葉、一葉落つなどともいう。「日当たりながら」はその桐の葉の一枚に日があたりながらの意である。この場合、日にあたった桐一葉以外に、おそらく作者の目に映じた者は、軒先、えんがわ、窓、庭など、他にもいろいろあっただろう。
桐の葉にしたところで、すでに落ちているもの、風に吹かれ遠くの方へ落ちたもの、あるいは作者のすぐそばに落ちているものなどがあっただろう。
ところが作者は、そうした現実の場景の中から日にあたりつつ落ちてゆく一葉だけを選び、他はいっさい棄ててしまった。俳句はあくまで選択の芸術であるが、そうした俳句の特色をいかんなく発揮した句である。「落ちにけり」は落ちたの意であるが、「にけり」という表現は純粋な空白を意味する。
作者は眼前の日を受けながら落ちる桐一葉だけを選択し、他のいっさいを破棄することにより句の空白的効果をあげたが、さらに最後の「にけり」で積極的に空白の効果をねらい、けっきょくはこの句全体の意味を深からしめた。
 
この解説で、この句の意味する所が明らかにされていると思う。

次に、目についた句を紹介する。
・白牡丹 といふといへども 紅ほのか(T14,51)
白牡丹と言う名前ではあるが、花びらの色はほのかに紅色がかっている。それだけの句であり何も深い意味はない。「紅ほのか」と言う事により、白牡丹の美しさが更に際立たせている効果がある。
 
・雪空にいつしか月の見えて暈(T08,45)
雪が降り続き、見上げても雪雲により月が見えない。暫くの間、雪が降るのを見ていなかったたが、いつの間にか、月に暈が掛かっている事に気が付いた。月の暈は幻想的な風景であり、月が見えていなかったのに、月が現れたら、暈が掛かっていたことを「月の見えて暈」と上手く表現している。
 
・美しく 残れる雪を 踏むまじく
このような経験は誰にでもあろう。「踏むまじく」あるので、野原などに降り積もった雪に足跡が無い事を「美しく残れる雪」と表現したのであろう。この様な風景を足跡によって汚したくないという心理を描いたのであろう。
本人が「踏まない」ようにと思っても、他の人が踏むかもしれない。その様な事がない事をも願っている。
  
・蛍火の 今宵の闇の 美しき
飛び交う蛍の光と、漆黒の闇の対比が鮮やかであることを歌ったものであるが、真っ暗であるがゆえに草木などの景色が見えないので却って美しく見えるという発想は平凡である。参考として、蛍と闇を歌った歌を二句挙げておく。
  川ばかり 闇は流れて 蛍かな 千代女
  遅月に 紛れて飛べる 蛍かな 麦南

・熱帯の海は日を呑み終わりたる(S11、62)
作者が紅海で詠んだ句である。熱帯の真っ赤な太陽がゆっくりとより赤みを帯びながら地平線の下に沈んでいく。
この様な句は壮大な風景ではあるが、芭蕉の「荒波や佐渡に横たう天の川」と同じ構図の句である。唱歌にも、「海は広いな大きいな月が上るし日が沈む」など、この種の句は陳腐なのである。
  ただ「吞み終わりたる」という処に、今沈んだばかりという事を言い、この点が作者の工夫のあるところで、動きがある句である。


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