(六十八)杜甫と李白と歌づくり

芭蕉が俳句作りに、杜甫の詩を研究したことは有名である。杜甫の詩を参考にして作ったと考えられる芭蕉の句については、(二十)を参考して頂きたい。
日本人にとって、杜甫の詩が参考し易く、李白の詩が参考し難いのであろうか。歌人・俳人で李白の詩を述べる者は寡聞にして聞かない。芭蕉もその例外ではない。
しかし、李白の詩は歌人だけでなく、俳人にとっても研究に値すると考える。李白の有名な詩句を挙げてみよう。
  我歌月徘徊、我舞影零亂(月下独酌)
  擧頭望明月、低頭思故郷(静夜思)
 これに対して、杜甫の有名な詩句を挙げてみよう。(二十)から採録する。
  星垂平野闊、月湧大江流(旅夜書懐)
  感時花濺涙、恨別鳥驚心(春望) 
 杜甫は精緻な対句を作ることに苦心しているが、李白は口から出た言葉をそのまま詩にしたように自然で、所謂斧鑿の跡を留めずの句を作っている。
杜甫の対句は巧みで、誰も真似る事ができないように思わせるが、逆に李白の対句は自然で私にも作れそうに思わせるという違いがある。しかし、実際は李白の巧みさを真似ることも困難である。

それでは、李白の自然で巧みな句を見て行こう。
・日暮酔酒歸、白馬驕且馳(古首五十九首其八)
   日が暮れ酒に酔って帰り、白馬が驕り走る。
   日が暮れて辺りが暗くなっている。景色が黒であるのと白馬を対比させ、酒に酔った自分が帰るのと、堂々とした馬が走り去るのとを対比させている。この句は、文法上は対称ではないが、意味上は対句になっている。このため、自然な句と感じるのである。
・呉歌楚舞歡未畢、青山欲銜半邊日(烏棲曲)
   呉歌に楚舞、楽しみが終わらないのに、青山が太陽の半分を咥え込もうとしている。今、日が落ちて次第に辺りが暗くなり始めている、それはまるで楽しみがもうすぐ終わることを象徴しているのである。「銜」は口で物を含む意味であるが、この字を使うことで、太陽が山の端に落ちてゆくことを表現している。
・長風破浪會有時、直挂雲帆濟蒼海(行路難)
   吹き続ける風が波を打ち砕き、雲の如くの帆を揚げて海を行かん。
    馬里千によると、これは典故である。彼は次の様に述べる:
南朝宋宗愨が若い時、叔父の炳が彼に志を立てるのはどの様にするのかと訊ねたら、宗愨は「願わくば、長風に乗じて萬里の浪を打ち破らん」と答えた。後の人はこの句を用いて大いなる抱負を持っていることを示す。
 李白は何処に行く野心を抱いていたのであろう。それは、日本ではないか。
・苔深不能掃、落葉秋風早(長干行)
   苔はもう大きく育ち、掃うことができない、秋風が早くも吹いて葉が落ちてきている。ここでは、根付いた苔と枝から落ちる葉が対比されている。(落葉とは落ち葉ではなく、葉を落とすという意味である。)
・白雲映水搖空城、白露垂珠滴秋月(金陵城西樓月下吟)
   白雲が水に映り、人もなき城郭を水面に揺らす。
白露は凍って白珠となり、秋の月に滴り落ちる。この句は対句であるが、白という字を重ねて用いることを避けてはいない。白雲の白は白いという意味であるが、白露の白は明るく光っているという意味である。
水滴が葉の上に落ちることにより、白珠となり微妙に揺れながらも、月を反射して点々と光っていることを述べている。「搖空城」と「滴秋月」の対句が妙である。なぜなら、風の為に水に映った空城が揺れており秋の月もまた、白珠の上で揺れているからである。
・歸心結遠夢、落日懸春愁(憶襄陽舊遊贈馬少府巨)
   故郷に帰りたいとの気持ちが遠い故郷の夢を見ることになり、春なのに日が落ちて暗くなると憂いが湧いてくる。
この対句は極めて用意周到である。帰心と落日が対である。「帰心」と「遠夢を結ぶ」が上手く繋っている。同様に「落日」と「春愁を掛ける」が上手く結びついている。しかも不自然さがない。
  ここでは、六つの句をあげた。勿論、佳句はこれに止まらない。李白の題材は酒や女性、送別などが多いが、必ずしもそれが欠点とは思わない。ここでひとまず、筆を置く事にしよう。
 

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