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おばあちゃんへの手紙8


二日目に入り、道も徐々に険しくなってきた。


徳島県には、
88ヶ寺中23の寺があるが、
その中でも12番札所に当たる
焼山寺(しょうさんじ)へとむかう道は
難所と知られている所だ。

歩き遍路では、
健脚5時間弱足8時間と言われ、
最初に出会う峠越えの難所。


たとえ車といえども
運転していてクタクタになる。

車一台がやっと通れる山道で
片側は山の腹、片側は谷底へ落ちていく崖
といった感じで、目印となる手すり一つないため、
谷側のタイヤが道を外さないかヒヤヒヤである。

かといって山側に寄せると
山のゴツゴツした斜面が車をこする。

さらにはここで時折
対向車が山を下ってくる
というのだから、たまらない。

その都度、どちらかの車が
2台すれ違える程の道幅のある所まで
バックしてかわすというわけだ。

一時も気を緩められる時はなく、
手にヒヤ汗はかき通しだし、
神経はすり減り、肩が異様に凝った。

きっと気付かぬうちに、
肩に力が入り通しなのだろう。



果たして、こんな調子で
まだ残り70以上もあるお寺を
廻っていけるのだろうかと、
つい挫けそうな心が頭をもたげるのだが、

初日に霊山寺の和尚様の
見送りの言葉が自分を励ます。


「大丈夫。四国へ行こうという発心は、
あなたに対してお大師様からの
『お招き』があったということなのですから、
あとは十分に気をつけて、同行二人、
お大師様がいつもついてくださると信じて
行ってらっしゃい。

そして、最後に無事結願を果たしたら、
四国八十八ケ所は八十八では終わりません。

必ずこの一番札所に帰ってきてください。

「おかえりなさい。」と迎えることが、
一番札所である我々の務めであり、
祈りなのですから。

どうか、
「ただいま。」と元気に戻ってきてください。

戻ってくるのが、この元の同じ霊山寺でも、
戻られたみなさんは、決して同じではありません。

皆、生まれ変わった皆さんです。
皆さんご自身がそれは良く分かることだと思います。

”虚しく往きて満ちて帰る”

どうぞ、
遍路で四国霊場の全ての仏の徳を
あなたの力にされてください。

さぁ、いってらっしゃい。」


私は何度も心の中で繰り返した。

「虚しく往きて満ちて帰る。。。」
とにかく頭の中を空っぽにして心を静めよう。


余計なことを考えず、
一つ一つ今目の前にあるやるべきことに
集中していこう。

ただ淡々と先を思わず。

一秒一秒出来ることは限られている。

それを丁寧にこなしていくだけ。


そう思うと、
肩の力がすっと抜けて少し楽になる気がした。


実際、余計な事は考えられない状態になっている。

自ずと集中力が高まる。

次々に訪れる難所を
丁寧にただ淡々とやり過ごしていく。



いつしか、自分が運転している感覚が薄れ、
ゆるやかに流れていく、
映像とそれに反応して動いていく自分の身体、

つまり”運転する”という現象を
どこか別のところから眺めている、
自分自身を見ている、

そんな不思議な感覚に包まれていた。


1時間以上曲がりくねった細い峠道を運転しただろうか。

無事、焼山寺の駐車場へと到着した。


駐車場は広く開けていて、
大きなお寺なのだなということが推測される。


驚いたことに、
小さめとはいえ観光バスも停まっていた。

あの山道を登ってきたのかと思うと
その運転手さんに頭が下がる。


そこから境内まで山を登るように歩くこと、
10分は要しただろうか。


金剛杖をつきながら、
一歩一歩踏みしめて歩いた。


長い緊張の運転の後には
歩くことがとても心地よく感じられた。


普段は都心を少し歩くだけでも
億劫に感じられるのに不思議なものだ。


いつものように元気を持て余している勇一は、
先にダーっと駆けて行っては、

「おーい、こっち!」と言いながら金剛杖を振る。

我々が追いつくと、
また先に駆けていくといった具合である。


佳乃は夏の陽射しを遮り、
涼しい天然のクーラーとなってくれているこだちを
気持ちよさそうに眺めながら歩く。

妻の愛は微笑みながら
勇作と手をつなぎ幼子の歩調に合わせている。


途中、
山の斜面から清水が湧き出ているところがあり、
手を浸すとひんやりとして、
とても気持ちよかった。


ようやく大師像がある山門に着いた。

ここから境内へ入る。

参道には
樹齢三百年を悠に超えそうな巨杉が立ち並んでいる。

大人が手を広げて
3人分はあろうかと思われる太さの杉が
天高く立ち並ぶさまは圧巻である。


神聖な場所という空気がジンジンと伝わってくる。


そこを歩く人々のなんとちっぽけなことか。


大宝年間に役行者小角が拓いた
修験道の修行地ということだから、
さぞ霊験あらたかなことだろう。


そんなことに思いを馳せながら、
首が痛くなるほど巨杉を見上げつつ、
しばし下涼み(しもすずみ)を楽しんでいると、
遠くご本堂の方角に白衣を着た人だかりが見えた。

よく見ると、
皆ご年配の女性が多く、
20人近くはいるだろうか。


さては、
駐車場で見かけた観光バスで来た集団であろうと、
思い合わせた。


様々なお遍路の手段の一つとして、
巡拝バスツアーというものがある。


これは何も知識がなくても、
僧侶や先達たちが同行してくれて、
お参りの仕方や札所の縁起、
お経の唱え方まで教えてくれる。


納経帳に記してもらう御朱印も、
まとめて添乗員が手配をしてくれるので
お参りに集中できる。

何より交通や宿泊、食事の手配
一切を旅行会社が代行してくれるからありがたい。

また同じ巡拝仲間として、
親しい友ができることも大きな魅力の一つだろう。


そぞろ歩きを楽しみながら、
ゆっくりとその集団に近づいていくと、
一番後方にいた年の頃60代後半といったところの女性が振り返り、
「まあ」と驚いた風に声をあげた。


それにつられて周りのおばさま、
おばあちゃま達も「どうしたの」といった風に
振り向いた。


白装束の集団に
一斉に注目を浴びた我々家族は
思わず身を縮めながら、
「こんにちは」と恐る恐る声を発した。


「ご家族でお遍路を?」

「はい、夏休みを利用して」と私が答えている間に、
勇作を抱っこして立っていた愛が
みるみるうちにおばあちゃま達に囲まれていった。

「まあ、こんな小さな子まで」

「なんて可愛いんでしょう。偉いわねぇ」と、
みんな眉尻を下げて勇作に話しかけてくる。


勇作もなかなかの大物で、
ニコニコ笑いながら、聞かれてもいないのに、
指二本をしっかり立てて
Vサインよろしく「2歳!」と答えていた。

その屈託のない幼い笑顔に、
もはや悲鳴にも近いような声をあげ、
お遍路のおばあちゃま達は皆そろって破顔した。


その光景を目の当たりにして、
私はいよいよ合点がいった。

霊山寺でも思ったことではあるのだが。

決して我々大人だけが
子供達に与え、育てている
わけではないということを。


特に幼子が世界に与えているものは計り知れない。


ここにいるおばあちゃま達も
意を決してお遍路に来ているということは、
それなりに世の平和や安寧を願ってやまず、
この道中に起こる奇蹟も
少なからず期待しているはずだ。

そこで、こんな小さな子が手を合わせに、
このような山奥のお寺に来ている事実と出会えば、
それはそれは心の琴線に触れることであろう。

まさに今、奇蹟と出会っていると。

自分が歩んでいるこの道は、
間違いなく幸せと安穏を確信するための道であると。


勇作は特に何をしたわけではない。

ただその稚い眼をした存在そのものが愛なのである。


”愛”は何かを施したりする行為を指すのではなく、
そうした存在そのものを指すものだったのだと、
改めて実感した。


すると、
おばあちゃま達の集団をかき分けるように
1人の恰幅の良い男性が進み出てきた。

年季の入った白衣の首には輪袈裟をかけ、
手には太くて大きな黒い粒でできた
数珠を持っている。

いかにも修験者、山伏といった迫力の持ち主で、
肩にかけた頭陀袋には
「金剛峯寺」と刺繍が施されている。


弘法大師空海が高野山に聞いた真言密教の総本山だ。

四国八十八ヶ所を無事終えた後には、
お礼参りとして大師が入定している高野山に
報告のお参りに行くのが通例とされている。


すごい眼力でこちらに近づいてくるので、
思わずひるんでしまう。

「ど素人の分際で子供連れが、
遊びにでも来てるのか。」と

怒られるのかと思いきや、
眼力が一転ニコリと笑った。


刹那、一陣の風がさぁと吹き渡り、心が軽くなる。

爽やかな気持ちで満たされ、
今なら何もかも受け入れられる。

そんな気がした。

「どちらから?」と、低く響く良い声が尋ねてきた。

「あっ、東京から来ました。」

「東京、それはまた遠いところから
よくおいでなされた。
しかもご家族みんなで大変でしたでしょ。」



なんと暖かい言葉だろう。

なんのことはない初対面の会話なのだが、
この上なく私の苦しみを理解し、
受け入れてくれる響きが内包されている。

自分でも気づかなかった気負いや肩の荷を
すっとおろさせてくれる感じだ。


おばあちゃんの夢から始まった
数多一連の出来事の中で、

なんとかして感謝の気持ちを伝え返す術はないか
と模索した結果ここにいるわけだが、
実際伝わっているのかという不安は
常に心のどこかにあった。


その不安が大きくなるとまた、
「もっと効率的な事をしろ。
意味のないことをするな。」という
自分が欲しいと頭で考えたものだけが欲しいという、
心のエネルギーの流れに飲み込まれてしまう。


すでに与えられている
喜びや幸せの宝に背をむけることになる。



けれどたった今、
目の前の僧侶の何気ない一言が、
さわやかな風をともなって
おばあちゃんの気持ちを乗せてきた。

「伝わってるよ。大変だっただろ。」って。

その時、根拠はないのだが、
ふと確信のようなひらめきを感じた。

おばあちゃんは伝えようとしている。

伝えてきている。

それも時々なんていうレベルじゃない。

自分に気づこうとする気持ちさえあれば、
それこそ四六時中、
あらゆる出来事に乗せてだ。


それはさわやかな風のようなものだから、
ふと気持ち良さを残し、
すぐに消えていく。

日々を忙しく過ごしていれば、
気づくことなんて出来ないほどに。



「私は金剛峰寺より派遣された僧侶、
雪舟と申します。
この団体の案内を務めているのですが、
ご主人たちはこれから納経ですか。」

「ええ、今着いたばかりですので。」

「それはよかった。
ここはどうですか、お催合い(もや)で。」

「お催合い?」

聞き慣れない言葉に私が訊ねると、

「ご一緒に、ということです。
これもきっとお大師様のご縁、誼(よしみ)を結んで
ご一緒しましょう。」との応えが。

何もわからず始めた今回のお遍路旅、
プロから正しい作法や手ほどきを受けられるなど、
願ってもないチャンスだった。

「よろしいのですか。お邪魔になりませんか。」


するとすぐ近くにいた
元気の良いおばあさんが
杖をカンと一つついて言った。

「邪魔も何も、
うちらみんな初めてのお遍路。
逆にうちらが邪魔しちゃったらごめんなさいね。
でも、この雪舟さんはさすが大先達、
大舟に乗ってついていけば、
いつの間にか心が綺麗に浄められちゃう感じよ。」



私は愛を振り返ってみた。

愛はニコリと微笑み返した。

「それじゃ、遠慮なくお願いいたします。」

私が答えると、
雪舟さんはゆっくりと、大きくうなづいた。

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