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おばあちゃんへの手紙5


ある夜、

また私は夢を見た。

そこは病院の廊下だった。

廊下に据えられたベンチ型のソファに
私の母が座っていた。

「どうしたの?」
と近づきながら尋ねると、母は答えた。

「お見舞いに来たの。
でもどの部屋だったかわからなくなって
いま少し考えていたところ。」

「誰のお見舞い?」

「何言っているの。
おばあちゃんよ。入院したばかりじゃない。」

「えっ」
私は驚きで言葉を失った。

「おばあちゃんは死んだんじゃあ…」

「何言っているの。
おばあちゃんはこの病院にいるわよ。」


おばあちゃんがこの病院のどこかにいる。

手紙など書かなくても、
今ここで会って話せるというのか。

母も自分も現在の姿。

ということは
30年以上もおばあちゃんは
この病院に入院し続けていることになる。

いや、
そんなことより何よりも、
おばあちゃんは今も生きている。
ということか。

高鳴る鼓動を感じた。

30年もおばあちゃんを病院に放っておいて
自分たちは一体何をしていたというのだ。

後悔より前に
怒りがこみ上げてきてしかたなかった。

いったい全体人間というものは
どこまで自分のことでいっぱいいっぱいなんだろう。

とにかく、
今ここにおばあちゃんがいるのなら、
あの日の至らなさを謝ることができる。

思いやりのなさを償うことができる。

私は意を決して病室を一つ一つ回り始めた。

病室の入り口に掲げてある
ネームプレートを確認し続ける間も
脈は早く打ち続け、
それに呼応するように足取りも早く、
病院内は走ってはいけないとわかってはいても
小走りにならざるをえなかった。

そしてとうとう
おばあちゃんの名前を見つけた。

本当にあった。
と思った。

名前の数から6人部屋だとわかる。

今この部屋の中に
おばあちゃんはいるのだと思うと。
緊張と恥ずかしさがこみ上げてくる。

なんと声をかければ良いのだろう。
いや、考えたって仕方ない。
飛び込むしかない。

そんな気持ちで「えいっ」と病室に入った。

すぐ左のベットの上に、
大きなラジカセが置いてあるのが目に飛び込んできた。

「なんでベットの上にラジカセ?」
と首を傾げていると

「あれ、悟、来てくれたの。」と声がした。

なんと
おばあちゃんがそのベットの脇に立って、私を見ていた。

思いもしない再会に面食らっていると、
おばあちゃんが笑顔で言った。

「私はもうずいぶん具合が良いから、
こうしてうろうろしているの。
せっかくベットが空いているから、
具合の良くないラジカセを
こうして寝かせてあげているの。」

どうやらラジカセは
壊れているか、調子が良くないらしい。

それにしても
病院のベットで機械を安静にするのは、
いかがなものだろう。

「おばあちゃん、大丈夫。
このラジカセは僕が直してあげるよ。
機械のことはずいぶん詳しくなったんだよ。」

「まぁ、悟は機械のお医者さまになったんだね。
すごいね。頑張ったんだね。」

おばあちゃんは
心の底から感心した様子で私を見つめていた。

私は急に目頭が熱くなった。

初めての視点だった。
そうか、私は機械のお医者さまなのか。

この世のものはすべからく
みんな壊れていく。
人も物もみんなだ。

そのものたちを理解し、寄り添っていく仕事は
みんなそのものたちのお医者さまなのだ。

少なくとも、
そのくらいの自覚をもって
仕事には臨むべきなのかもしれない。


「おばあちゃん…」

私が言葉を発しようとしたその時、
なにやら病院内が騒がしくなった。

外から救急車のサイレンの音がする。

「あら大変、救急の患者さんが運ばれてきたみたい。
悟、ちょっとごめんね。
おばあちゃん手伝いに行ってくる。」と言うや否や
おばあちゃんは病室を飛び出して言った。

私もすぐに後に続いたが
その足取りも身のこなしも実に軽やかなものだった。

「おばあちゃんこの病院で結構頼りにされてるのよ。」

ニッと笑うと腕まくりをしながら
到着したばかりの救急車に近づき、
おろされてくるタンカーを運ぶのを
他の看護師さんたちに混ざりながら手伝っていた。


私はそんなおばあちゃんを
少し遠くから眺めていた。
とても誇らしかった。

自分も患者でありながら、
でも自分にできることはないか、
役に立てることはないか。

そんな謙虚で優しくて真面目で誠実な姿勢が、
おばあちゃんの生き様そのものを表しているように思えた。

そして何より幸せそうに見えた。

この病院に放って置かれてかわいそう
などと思った自分がとても傲慢に感じられた。

その人の幸せは
周りがどう思うかではない。

その人が
今その瞬間に溶け込んで、
お互いの存在がかけがえのないものだ
と気づけること。

そしておばあちゃんは気づいている。
助けを求める存在のおかげで
助けることができるということ。

助けられる者が不幸なのではなく、
助ける者が偉いわけでもなく、
治される者があるから治す者がいる。

ただそれだけ。

今この瞬間にお互いが1つの愛を表現している。

ただそれだけ。

喜びを、悲しみを、安らぎを、切なさを、
みんながそれぞれの役柄を演じながら
1つの物語(ストーリー)として表現している。

どの役も
その物語には必要で
かけがえのないものでありながら、

また誰もが
いずれそのどの役をも演じ得る。

その物語が
どこまでも深い愛であるためには、
たとえどんな役でも、回ってきた役を
ただ淡々と演じきる必要があるのだ。

その役を演じるものの満足ではなく、
その物語の表現するものが
満足のいく愛であることが
本当の自分の幸せにつながる。

だからどの役を演じる者たちをも愛しく感じる。
大切な者たちだと気づくことができる。

手際よく、真剣に
でもどこか愛嬌を持って
看護師さんたちの手伝いをするおばあちゃんを
私は潤んだ瞳で見つめていた。

自分自身がとても励まされる思いだった。

胸の奥が熱くなりながら

「僕も頑張らなきゃ。
機械のお医者さんとして、
家族のお父さんとして、
そしておばあちゃんやおじいちゃんの孫として、
恥のないよう…」



私はゆっくりと目を開けた。

窓から差し込む穏やかな陽射し、
鳥のさえずり、
布団の中で感じる温かなぬくもり。

夢の余韻が全身に残っている。


さぁ1日が始まる。

朝が来た。

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