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おばあちゃんへの手紙9-1


雪舟さんのあとについて、
まずご本堂の前へと着いた。

雪舟さんはしばらく手を合わせて黙想した後、
小さく何やらつぶやいて、
おもむろに持っていた持鈴を目の前にかざし、
ゆっくりと一定の間隔を開けながら鳴らした。


持鈴は魔除け、獣除けの鈴として
通常頭陀袋などに下げて歩いているのだが、

読経の際には
その場の空気を清らかな波動で整える役割を持つ。


澄んだ美しい鈴の音が
チリーン、チリーンと響くたび、
心が洗われていくのがわかる。


それまで三々五々
連れ立って歩いていたおばあちゃま達が、

その鈴の音を聞いた途端、
言わずもがなで雪舟さんと
私たち家族の後ろに集まってきてずらりと整列した。

私語もピタリと止み、みんなが手を合わせだした。

なにやら心が引き締まる。


なおも鈴の音は一定の間隔を開けながら鳴り続ける。

美しく澄んだ鈴の音がこの場の空気を整えていく。
心の夾雑物がすべて洗い流されていくようだ。


雪舟さんはやがて持鈴を頭陀袋に戻し、
続いて太くて長い大きな黒玉の数珠を手に巻きつけ、
合掌した。

手をこすり合わせると、
念珠が「じゃりり」と重い音を立てる。


「開経偈」


低音でよく響く雪舟さんの経が始まった。

みんなもそれに合わせて唱え始める。

「無上甚深微妙法、百千萬刧難遭遇、我今見聞得受持、願解如来真実義」


思わず私は後ろを振り返ってしまった。


これだけの人数が集まると
響きわたるお経のすごいこと、
この迫力はさすがに胸に迫るものが、ある。

しかもずらりと整列した
白衣のおばあちゃま達の姿勢は真剣そのものだった。

そこには、これまで大変だっただろうに、
でも人として曲がりなりにも間違いなく、
生きてこられたからこそ、
今こうして手を合わせていられる、
という感謝の姿勢そのものが表れたものだった。

それが真剣な読経となって、
音波となって私の背中に降り注がれてくる。


背中がザワザワと、
その読経の声音に波立つ感じがした。


なおもお経は続く。

「仏説摩訶般若波羅蜜多心経、観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空度一切苦厄」


あえて抑揚を殺すかのように淡々とお経が進む。

みんなで経を繋ぎ合い、
決して途切らす時間を作らせないかのごとく。

それは滔々と音波となって
ここにいるみんなの心の波長を整えていく。



「舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」



般若心経の最も有名なくだりだ。



色は空に異ならず、
空は色に異ならず、
色は即ち空であり、
空は即ち色である。


つまり、我々の存在はドーナツの穴のようなもの。

ドーナツの穴は確かにあるが、
しかし同時にその穴という実態自体はない。

ドーナツという周りの存在によって、
はじめて生まれ、存在しうるようなもの。

そのようなもの同士が
互いに互いの存在を形成しあっている。


一時的に成り立ち続ける現象のようなものである。

もしこの世に自分しかいなければ、
自分ということもわからないことだろう。

互いが互いを知るために存在し合っている。


「受想行識、亦復如是、舎利子、是諸法空相」



みんなの経を読む声色がどんどん熱を帯びてくる。

高まる気持ちと裏腹に、
リズムは淡々と抑え込まれる。

行き場を失ったエネルギーが
お経の一言一句に宿り、膨張していくようだ。

みんなの熱い唱和のバランスを
雪舟さんの重低音ボイスが
しっかりと支えているのが、なんとも心地よい。


「不生不滅、不垢不浄、不増不減、是故空中」


徐々に一定の単調なリズムの中で
トランス状態に包まれていく。

自分の声と周りの声の区別が難しくなり、
読経の中に自分が溶けていくような感じになる。

自分が経を唱えているのか、
経が自分の口を使ってこの世に顕現されているのか、
判然としない。そんな感覚に襲われた。


「無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無限界、乃至無意識界」


それまで空を中心に唱い挙げられてきた般若心経は、
ここから高らかに無を連呼し始める。

これでもかというぐらいに。

生は死によって成り立ち、
死は生によって存在するように。

天があるのは地があるからで、
地があるのは、地ではないものたちがあるからに他ならず、

我々が今”有る”という意識は
きっと本質のどこかで無が支えている故のものなのだろう。

これはとても難しい。

なぜなら、無は知ることができないものだからだ。
無の状態では、我々の知性も無であるのが道理。

無は知ることができない。
有を知ることで無を推測するより他に方法はない。

しかし、推測に支えられたものは、
やはり推測でしかない。

真にこの有の存在を悟るには、
この出来るはずのない”無”の実測による他はない。


そしてそれを、お釈迦様は成し遂げたのだという。

これは、驚愕である。

人間業とは思えない。

我々にとって悟りを開くということなど
絶望に近いも同然だ。

しかし、人々はこうして
お釈迦様の残した仏教を
乞い、慕い、尊び、実践する。

それはきっと、お釈迦様もまた
我々と同じ”人間”だったということが、
大きな希望となり、
憧れとなっているからなのだと思う。


我々は今まさに敬礼し奉るような
釈尊への畏敬の念をこの読経に乗せて、
音の波に変えて、粛々と、
この世の岸辺に打ちつけている。


「無無明亦無無明尽、乃至無老死亦無老死尽、無苦集滅道、無智亦無得以無所得故、菩提薩埵依般若波羅蜜多」


雪舟さんの唱える安定した節回しが
我々の読経を力強くリードする。

何の迷いもなく腹から声を出すことができる。

微妙に違うみんなの声色が
絶妙なハーモニーとなって
一つの音波を醸し出している。


我々を覆い包む樹齢300年を超える杉の巨木たちも
静かにこの淡々と続く音の波を
受け入れているようだ。

気のせいか、杉の緑が
お経の波に振動しているかのようにも感じられる。

人と自然が音を介して共鳴するかのごとく。


「故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顚倒夢想、究竟涅槃三世諸仏、依般若波羅蜜多」


お経という合唱が
まさに佳境を迎えようとしている。

それはもはや我々の声ではなく、
独走しているひとつの生き物のように
周りを飲み込んで広がっていく。

自分自身もとうに飲み込まれて、
音の波の一部と化しているため、
ただその波に身を預けて心を漂わせている。

ただ伝わっていく、
みんなの中を伝わり通り抜けていく。


音の波が余計な雑念を洗い流しているからこそ、
スムーズにみんなの中を駆け抜けていける。

一つになっていけるのだろう。


「故得阿耨多羅三藐三菩提、故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚、故説般若波羅蜜多呪」


いよいよ読経の最後の疾走が始まる。

みんなの高まる気が伝わってくるようだ。
私も心なしか「じゃり」と足元を踏みしめる。


「即説呪日」


ここでほんの刹那、本当に一瞬、経が止まる。

あれだけのエネルギーが瞬時に空白となり無に帰る。

この静寂が次の爆発のエネルギーとなり、
クライマックスを約束する。


「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経」

(渡らん。渡らん。悟りの岸へ全く渡らん。無上の悟りに入り、安らぎを成就させたまえ)


虚空に高々と放り投げられたように、
勢いよく始まった般若心経最後の一節は
上空で行き止まるとゆっくり方向を変え、
自分達の手元にすっと落ちてくる。


最後のフレーズ「般若心経」をゆっくり、
丁寧に唱えながら
我々はその木霊のような余韻を
手の中に包み込み胸に刻む。

合わせる手のひら、
足の裏がジンジンと脈を打っている。


先ほどまでとうって変わって静謐が辺りを包む。

遠くで穏やかな山鳩の鳴き声が聞こえてくる。
一緒にお経を唱えていたのだろうか。



「チリーン、チリーン」再び雪舟さんの持鈴が鳴る。

そしてそれは静かにゆっくりと始まった。


「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、」

雪舟さんの低い声にみんなが続く、

「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、、」

通常お大師様の宝号は三遍唱えて終わりなのだが、
そんな気配は露ほどもなく、

「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、、、」



徐々に徐々に音量を上げながら
白い集団は高らかに唱え続ける。


心が無になっていく。

繰り返される宝号が
もはやなんと言っているのかわからない程に、
ただただ、繰り返し続けられる音の波が
心の中を津波のように押し流して、
空っぽになっていく。


そしてみんなの読経が
十分に厚みを持ち、熱を帯びた頃、

それまでそれをしっかりと支え包んできた
雪舟さんの重低音ボイスがスッと消えていき、

雪舟さん自身が振り向く。

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