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おばあちゃんへの手紙13-1

お遍路をはじめて三年目の夏を迎えた。

その年の夏休みも
なんとか五日間の時間を家族で作り、
四国へと向かった。

今年は愛媛(伊予)だ。



松山の道後温泉は学生時代、
友人たちと青春18切符を使って
行ったことがあるので懐かしい。

あの頃はお金はないが、
時間はたっぷりとあって、
各駅停車の鈍行旅が
のんびりしていてぴったりだった。

今回は高知(土佐)の時に比べて、
お寺の数は少し多いが、

松山や今治など、
わりと市街地に集まっているので、
回りやすい。


思い返せば、
最初の徳島県は
遍路転がしと言われるほどの
急坂・難所が多く難儀したのを覚えている。


土佐の高知は、
お寺の数も少なく綺麗な海辺沿いを
気持ち良く旅していけたのだが、
なにせ一寺一寺の間隔が長い。

車で回っていても
一日に徳島の時の半分も回れない。

歩き遍路の方達を思うと、
本当に頭が下がる思いだ。

たった一寺行き着くのに
丸一日以上かかることもざらにあるらしい。



ちなみに

徳島県を”発心の道場”、

高知県を”修行の道場”、

愛媛県を”菩薩の道場”、

香川県を”涅槃の道場”

というらしい。



八十八番札所の大窪寺まで
1400キロにも及ぶ道のり、
徒歩で回れば40~50日はかかる。


ようやく我々も
その長い道のりの半分を超え、
3県目に突入していくこととなった。


愛媛県のスタートは
四十番札所、観自在寺からだ。


ここは、
海の向こうに
すぐ九州がひかえている
という四国の端の端である。

一番札所霊山寺より一番遠い場所にあり、
四国霊場の裏関所と呼ばれているぐらいなのだ。


今まで太平洋側を
海沿いに南下していったのに対して、

ここからどんどん四国の瀬戸内海側を
一番札所へと戻っていくという感じになる。


いよいよ折り返したという実感に心が高揚する。



初日は順調に五ヶ寺を回り、
愛媛の中では
最も山中に分け入る形になる
四十五番札所、岩屋寺の麓にある
国民宿舎”古岩屋荘”に宿をとった。


時には
車中泊などもしながら回っているのだが、
車中泊はどうも疲れが取れない。


寝心地の悪さと、
車中という不安から
眠りが浅いまま朝を迎えるといった感じが多い。

ゆっくりお風呂に浸かって
柔らかなお布団にくるまって眠るということが、
どんなにありがたく
幸せな事かということに気づかされる。


子供達も宿の時は大喜びである。

特に今回の宿には
”古岩屋”というだけあって、
岩風呂の温泉大浴場があり、
お風呂好きの我が細君もご満悦である。



到着は夕刻となったので、
岩屋寺の参拝は明朝、朝一番にするとして、
まず宿に入った。


宿の玄関を出て正面には、
断崖絶壁の岩肌がそそり立つ山が、
視界を覆い隠すように鎮座している。

切り立った崖が
どっかりと腰を下ろす様は、
まさに神仏がその地に鎮まっている
様子そのものに思えた。


この切り立つ岩山の中に岩屋寺がある。

その名の由来は見ての通りということだろう。
岩峰の麓にある古刹。


その重々しい風景とは裏腹に、
自分の気持ちが
心なしか浮き足立つのを感じた。


何か出会いの予兆を
感じ取っているのかもしれない。


胸中に期待と不安とが
混沌として温かくうずくまっている。
 

「とにかく今夜は
ゆっくりと休んで疲れを取ろう。」


凛とした佇まいの中に
威風を備えた岩肌を見上げながら、
意を決したように宿の入口をくぐる。



中では、
子供達が賑やかな笑声をあげ、
はしゃいでいた。


愛は、宿のチェックインの手続きを
ちょうど終えたところで、
私に向かってきて言った。


「夕食は6:00からですって。
まだ時間があるから先に温泉に行ってみない?」

「行こう行こう!」
子供達も駆け寄ってきて喜んだ。


「よし、じゃあまずお部屋に行って
荷物を置いたら、
男チームと女チームに別れて
岩風呂温泉を戴くとしよう。」


「わーい!」
佳乃と勇一が歓声をあげると、

少し遅れて勇作も飛び跳ねながら
お姉ちゃんに抱きつき「僕もー!」
と嬉しそうな声をあげた。



岩風呂温泉は想像以上に立派なものだった。


浴室の扉を開けると、

目の前がまるでさきほどの宿の
玄関先に広がっていた岩山のように、
壁一面に大きな岩が積み上がっており、
その岩の一部から温泉の湯が流れ出していて、
小さなタキを思わせる風情である。

浴室内はその大きな岩々に囲まれているので、
薄暗く壁に埋め込まれた間接照明によって、
ボンヤリと湯けむりを照らし出している。

ゴツゴツとした岩は、
路傍で静かに座禅する仏僧のごとき
厳かな存在感を持っており、
ポコポコと落ち続ける湯の音が
静かな浴室内に単調なリズムを刻んでいた。


「これはすごい」
と私は嘆息をもらしながら、辺りを眺めた。


まだ夕食前で時間が早かったせいか
人はいなかった。

勇一が「誰もいない。貸切だぁ。」
と叫んだ声が、浴室内を反響していった。


その山びこのような響きが楽しかったのか、
勇作も「わぁ〜」と意味もなく声を張り上げ、
その反響する響きを楽しんでいた。

「失礼します。」誰に言うでもなく、
思わず遠慮がちに頭を下げながら
浴室に足を踏み入れる。


全身によく掛け湯をしながら陶然と辺りを窺う。


実に癒される空間だった。


湯船にそっと足を踏み入れ、
ゆっくりと身を沈めていく。


「ウゥッ」
思わず言葉にならない呻きのような声をあげる。

子供達も熱いお湯に身を強張らせながら、
口元を固く結んで身じろぎも出来ずにいる。


しばらくするとお湯の熱さにも身体が慣れ、
ようやくのびのびと湯の中に手足を伸ばした。

なめらかな湯が全身を包む。

至福のひとときである。


腕をすべり落ちる透明な液体が、
その皮膚に
艶やかな潤いを残していくのがわかる。


万事が困難なばかりの日常であっても、
かかるひとときに活力を得て、

また端然と
歩み出そうという気力を取り戻すことができる。

私はうっとりとしながら
長旅の疲れを洗い流した。



勇一と勇作は、
まこと愉快そうに湯船の中を泳ぎ回っている。


子供達のあの無尽蔵なエネルギーは
どこから湧き出てくるのだろうか。


きっと大人のような、
いらぬ算段をせずに純粋な心で、
あらゆるものを受け止め、
そして、躊躇なく
受け流していけるからなのかもしれない。

と一緒に旅をしながら痛感する。

つまるところ万事に愉快なのだ。


存在そのものが愉快という生き物のようだ。


楽しくて気持ちが良いもの。


それに反する状態に陥れば、
すぐに泣いて暴れて涙で洗い流してしまう。



湯の中で戯れる子供達を眺めながら、
私も愉快の笑みが思わずこぼれる。


愉快は周りを気持ち良くその色に染めていく。


私はただ陶然としてこの至福の時を楽しんだ。


かかる困難な日常の中にあっても、
愉快であることはできる。


子供達を見ていて、そう学ばされる。



愛する細君がいて
屈託のない子供達の笑顔がある。

すべからく難儀な日々の生活の中で、
こんなひとときに
かけがえのない愉快を発見する。

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